子供のご多分に漏れず、京太郎は夏休みが好きだ。スポーツに打ち込むようになって、その傾向はさらに顕著になった。
なおかつ、今年はまた一味違う。
小蒔と憧、霞たちが長野に来る。
去年はぎりぎりまで放置していた夏休みの宿題も、あっという間に終わらせた。後は、彼女たちとの思い出を絵日記につけるだけ。迎える準備も万端だ。男友達にうっかり話してしまったら、随分とからかわれてしまったけれど、京太郎は気にしなかった。
皆に――二人に会えるのだから。
その、大切な再会の終わりが、自分のせいで苦々しいものになるなんて、彼は想像もしなかった。
◇
腕に走る痛みが、京太郎を目覚めさせた。
背中を預ける地面は硬く、ごつごつとしていて寝心地が悪い。
「……あれ」
どこで眠ってしまったんだっけ――寝惚けた頭が上手く働かず、寝転んだまま京太郎はしばらく呆然としていた。――家ではない。どうしてこんなところで眠っていたのか。もしかしたら、夢なのだろうか。
しかし、右腕がずきずきと訴えかけてくる痛覚は本物だ。これが、現実であると認識する。
土と木々の匂い。
虫と鳥の鳴き声。
世界は、暗い。
山。森の中。
断片的な情景と記憶がかちりと嵌まり合い、京太郎は一気に覚醒する。
――気を失う直前、京太郎は彼女たちを追いかけた。
そう、いつのまにかいなくなっていた憧と小蒔。ようやく見つけたその先で、彼女たちとともに崖崩れに巻き込まれたのだ。
「憧! 小蒔ちゃん!」
叫び、京太郎は立ち上がる。
途端、バランスをとれずに彼はその場に転んだ。
「うぐっ」
右腕とは別、自覚のなかった左足が痛む。折れては――いないだろう。大量出血も見られない。だが、ひびくらいは入っていそうだ。よくよくみれば、体中あちこちが擦過傷でまみれている。
自分の体ばかりを気にしていられない。
転んだまま京太郎は、もう一度叫んだ。
「憧ッ! 小蒔ちゃんッ!」
「んん……」
「京……くん……?」
か細い二つの呻き声が、京太郎の耳に届く。
ほとんど這うようにして、京太郎は声のあった方向に向かった。
剥き出しの土の上、小蒔と憧は、互いをかばい合うように折り重なっていた。服があちこち破れてしまっている。
「大丈夫、二人ともっ?」
二人の肩を揺する。彼女たちはなおも呻いていたが、やがて目を開ける。
「京太郎……あれ、あたしたちどうしたの……」
「確か……憧ちゃんと山を登っていて……」
そこで二人ともはっきりと意識を取り戻したらしい。さっと、憧の顔から血の気が引く。
「あたしたち、もしかして」
「あの崖から、落ちたんでしょうか……」
不安そうに小蒔は空を見上げるが、背の高い木々が太陽を遮っている。今が何時なのかも分からない。
だが、彼女の言葉は状況を正確に言い当てていた。
三人は、人里離れた山の中に放り出されてしまった。それがどれだけ過酷なことか、子供の彼らでもすぐに理解できた。
三人の間に、しばらく沈黙が降りる。
「ごめん」
静寂を打ち破った京太郎は、声を震わせながら謝罪する。
「俺が、こんなところに連れてきたから」
「止めて!」
憧の制止は、ほとんど悲鳴染みていた。
「あたしがっ、あたしが小蒔を無理に誘ってっ。あんな道に行かなきゃっ」
「違う、そもそも俺がッ」
「あたしがっ」
京太郎にとって、憧の自責は到底認められるものではなかった。そもそもの責任はどう考えても自分にある。危険も伝えなかった。雨の後のぬかるみも考慮していなかった。
「だから……!」
「違う……!」
原因のなすりつけ合いにならないだけマシだったが、何の解決にもならない言い争いだということには変わりない。水分と体力を徒に失うだけだ。だが、感情的になった京太郎は自分を止められない。憧にもその気配はなかった。
そのまま閉じる気配のなかった二人の口は、
「そこまでです」
小蒔の掌で塞がれた。
「こ、小蒔ちゃん?」
「二人の気持ちは分かります。ですが、憧ちゃんを止めず、鈍くさくて崩落に巻き込まれた私にも責任があります」
「でも、小蒔……」
「ですから」
なおも言い募ろうとする憧の肩を抑え、小蒔は笑った。この状況で、彼女は優しく微笑んで見せた。
「三人で、三等分ということで」
「……小蒔ちゃん」
いつか、東京でも彼女は同じ言葉を口にした。その言葉と微笑が、京太郎の心の重石を幾分か軽くしてくれた。焦燥感はそのままに、彼は冷静さを取り戻す。
「二人とも、怪我してない?」
「擦り傷はありますけど……はい、大丈夫です」
「あたしも、大丈夫。京太郎は?」
「右腕がちょっと痛いけど、それだけ」
京太郎は、左足の怪我を黙っておくことにした。今は、そうすべきと判断した。
「京くん、私たちを庇ってくれたんですね」
京太郎の右腕をさすりながら、小蒔は辛そうに言う。
「間に合ってれば、一番良かったんだけど……いや、もう言っても仕方ないな」
森は暗く、今何時かも分からない。気を失ってからどのくらいの時間が流れたのかも。誰も、時計を持っていなかった。
京太郎はすくりと立ち上がる。左足の痛みは無視した。痛みには慣れている。なんでもない振りをするんだ、と彼は自分に言い聞かせた。手近に落ちてあった木の枝を杖代わりにすれば、歩くこともできそうだ。
「……移動しよう」
考えた末、京太郎はそう提案した。座ったまま反論したのは、憧だった。
「テレビで見たことあるんだけど、遭難したときはその場を動かないほうが良いって。そうしたほうが良いんじゃないの?」
「ここに来るとき、俺この山に来たこと誰にも言ってないんだ。親にも教えてない場所だったし、道中すれ違った人もいなかった。運が悪かったら、見つかるまで時間がかかる」
それで、と京太郎は一度言葉を切った。
「この、裏山側は野犬が出るって話を聞いたことがあるんだ。せめて、身を隠せる場所に移動したほうが良いと思う」
捜索されるまでに野犬の群れに遭遇したら、ひとたまりもない。大人でさえ徒手空拳で挑む相手ではない。子供三人など鴨が葱を背負っているようなものだろう。
「……でも、正直憧の言うとおりだとも思う。素人判断は止めたほうが良いかもしれない」
「小蒔は、どう思う?」
憧に訊ねられる前から、小蒔は考え込んでいたようだ。かつてない張り詰めた彼女の表情に、京太郎も緊張する。
果たして小蒔は、
「少なくとも、ここは離れたほうが良さそうです」
と、答えた。どうして、と憧が訊ねるよりも早く、小蒔は立ち上がった。
「嫌な予感がします」
根拠は何一つなかったが、有無を言わさぬ迫力が彼女にはあった。自然と憧も立ち上がる。
「行こう」
京太郎を先頭に、三人は歩き出した。地面はやや傾いている。降るように、彼らは進んだ。左足はやはり痛いが、我慢できないほどではない。
慌てず、急がず、歩を進め――
数分経った後のことだった。
後方から、轟音が聞こえた。
「う、わッ?」
「な、なにっ?」
振り返ったその先、よくよく目を凝らせば大きな岩がいくつも転がっているのが見えた。さらには砂の海が広がっている。先ほどまで、自分たちがいた場所に。
本格的な崖崩れだ。ごくり、と京太郎が唾を飲み込む。
「……俺たち、まだ運が良かったのかもな」
「ううん。小蒔が言わなかったら、あれに巻き込まれていた」
「小蒔ちゃん、どうして分かったの?」
「い、いえ。本当に、嫌な予感がしただけです」
答える小蒔の顔も青ざめている。嘘は言っていないようだ。
京太郎は、自分が神社の息子であることは重々承知していたが、父親も含めて須賀家に霊感や神通力の類といった才覚はないと考えていた。
しかしながら、神道の世界でも霧島神境の血筋は別格、という話は耳にしたことがある。小蒔が第六感を働かせた、と言うのなら信じてしまえる。
何よりも。
さっきの小蒔は、不思議な空気を漂わせていた。まるで、彼女が彼女でないような――そんな、奇妙な感覚。
「小蒔ちゃん」
「はい?」
「……ううん、なんでもない。――憧、もう少し崖側から離れよう。また崩れるかも知れない」
「うん、分かった」
安易な進路変更は、簡単に道に迷わせる。しかし、非常事態にそこまで京太郎の頭は回らなかった。今目の前にある危機から脱するのが最優先となる。
――何時間、歩いただろうか。
いよいよ左足の痛みが酷くなってきた。
右腕も、相当辛い。
夏で良かった、と京太郎は安心する。額から流れ落ちる汗を、誤魔化せる。
どのくらい歩いただろうか――京太郎は、左耳にせせらぎの音を捉えた。
「川だ!」
「やったっ」
憧が走る。彼女は冷たい水をすくい、ごくりと飲んだ。
「生き返るーっ。綺麗な水だよ、これっ」
「ああ、ほんとだ……。助かった」
「美味しいです」
「もしかしたら川伝いに降って行けば、戻れるかな」
「きっとそうだよ!」
憧が歓声を上げた。彼女の表情に、希望の灯が点る。小蒔もほっと、安堵した。
「帰れるんですね、私たち」
「うん、俺が憧も小蒔ちゃんも……絶対に、家に帰すから」
京太郎は、声の震えを隠して言い切った。彼女たちに不安を与えてはならない。守らねばならない。守りたいのだ。
二人は、京太郎の大切な友達だ。大好きな、女の子たちなのだ。
その気持ちの正体を判別するには彼は幼すぎたが、そんなものは関係ないと言わんばかりに、彼女たちの前を歩く。
――きっと、助かる道がこの先に待っているはず。
その考え全てが甘く、愚かであることを、京太郎はすぐに思い知らされた。
川沿いを突き進んだ先、急に森を抜けた一行は、西日に襲われる。もうこんな時間になっていたのか――驚きながら、闇に慣れていた彼らの目が眩んだ。
それでも京太郎は、うっすらと目を開ける。
この先にあるはずの、救いの光景を求めて。
だが、
「……そんな」
憧が、膝から崩れ落ちる。
川は、消えていた。
否、川は滝へと変貌していた。とてもではないが、飛び込んで助かる高さではない。
あまりにも短慮であった。ぎゅっと、京太郎は木の枝を掴む手に力を込める。血が滲むのも、いとわなかった。二度、三度深呼吸して、叫び出したい感情を全て抑え込んで、京太郎は二人に言った。
「ここは危ない。戻ろう」
「……もう、歩けないよ」
「大丈夫だ。ほら」
弱音を上げる憧の手を引っ張り上げる。体中のあちこちが痛かった。全部、我慢した。
「きょう……たろ……」
「安心しろ。憧は俺が絶対守るから。小蒔ちゃんも」
「……はい」
ひたり、と小蒔の体が京太郎にくっつく。彼女の鼓動が伝わってきた。それが、京太郎の心を奮わせる。
夕陽は今にも沈みそうだ。もう、夜まで時間はない。それまでに安全な場所を確保しなくてはならない。
彼女たちを伴って、もう一度歩き出そうとし、京太郎は息を呑んだ。
近くの茂みが、がさりと動いた。
まさか、という願いと。
やはり、という納得が、京太郎の胸に同時に去来する。
うなり声を上げながら、森の中から一匹の犬が現れる。首輪など、当然あるわけがなかった。二匹目、三匹目と続く。
ひっと、憧が短い悲鳴を上げた。当然だ。野犬たちの目は、いずれも鋭く輝いている。口を開けば獰猛さを象徴する犬歯が覗き見え、荒々しい唾液が飛び散った。
弱肉強食という四字熟語を、夏休み前の国語の授業で習ったことを、京太郎は思い出していた。自分が今、どちらの立場に立たされているかなんて、今更言及する必要もない。
「小蒔ちゃん、憧」
決意を秘めて、京太郎は背後の二人に囁いた。
「二人で、逃げろ」
「な、なんで、京太郎はっ?」
「足、怪我してるから。もう走れない。俺がなんとかあいつらを引きつけてみせるから、その内に」
「何で今そんなこと言うのっ。無理だよ囮になるなんてっ」
「やってみなくちゃ分からない!」
憧と問答してはいられなかった。ぶん、と木の枝を勇ましく振るう。
京太郎自身、この選択が自棄であることは分かっていた。それでもやらなければ、という強い意思に彼は突き動かされる。
しかし、そんな彼の肩を、
「京くん、憧ちゃん」
そっと、掴む手があった。
「小蒔?」
「小蒔、ちゃん……?」
「ここは、私に任せて下さい」
一体何を言い出すのか――京太郎は、ぽかんと口を開けてしまう。自分にも無理なことを、小蒔にできるわけがない。この状況に限っては、そう断言できた。
そんな疑問をすぐに汲み取ったのだろう。
小蒔は、小首を傾げて微笑んだ。
「心配しないで下さい。私には――女神様たちがついていますから」
その言葉の意味を問うよりも先に、小蒔に手を握られる。
「でも、少しだけ不安だから……こうしていて下さい」
獲物たちの反撃を警戒していた野犬たちが、にじり寄ってくる。完全に追い詰めたと、彼らは判断したのだ。
「お母様、ごめんなさい。約束を破る小蒔を、どうか許して下さい」
京太郎の耳に、小蒔の小さな小さな懺悔が、届いた。
――同時。
ばちり、と京太郎の手に稲妻が走った。
――圧倒、であった。
小蒔の小さな体から、輝きが溢れ出す。生暖かい風が、京太郎の頬を撫でた。訳も分からず、体が震える。
一歩、小蒔が前に進む。
一歩、野犬たちが後ろに下がる。
もう一歩、小蒔が前に進む。
もう一歩、野犬たちが後ろに下がる。
さらに一歩、小蒔が前に進んだ。
今度は下がらず、野犬たちは低いうなり声を上げる。それは、野生としての意地だったのだろうか。
襲いかからんとする勇猛な野犬がいた。
その直前、彼は前足をもつれさせ、その場に倒れた。
吠えようとした怯える野犬がいた。
叫びは叫びにならず、喉はひゅうひゅうと音を立て、その場に倒れた。
逃げようとした賢しい野犬がいた。
踵を返そうとしたところまでは良かったが、四肢から力は失われ、その場に倒れた。
――なんだこれは。
京太郎は、呆然とその光景を見届ける。野犬たちが、ばたばたと倒れていく。――こんなことが、あり得るのか? 京太郎の疑問に答える者はいない。
なによりも。
まるで、小蒔の存在感が違う。繋がれた手から伝わってくる体温が、違う。あの、小蒔の柔らかい空気が霧散している。
ばたり、と。
隣で憧が、糸が切れた人形のように、倒れ伏せた。まるで、他の野犬と同じように。
「あ、憧っ?」
京太郎は駆け寄ろうとする。が、できなかった。自らの右手を掴む、小蒔の左手に阻まれる。その手が、京太郎の動きを許さない。
「こ、小蒔ちゃんっ? 憧が、憧がっ!」
恐慌状態の京太郎へと――小蒔が振り返る。
その仕草。
その表情の作り方。
その立ち居振る舞いの全て。
どれも、京太郎の知らないもの。神代小蒔という少女が、これまで一度も見せなかったもの。
もしも京太郎に充分な語彙力があったのなら、それを「妖艶」と形容しただろう。
「――誰だ、お前」
彼女の口角が、釣り上がる。
「小蒔ちゃんじゃ、ないな……!」
京太郎の指弾に。
神代小蒔を器に降りた神は、高笑いを上げた。絶対に小蒔が上げない、聞くに堪えない笑い声だった。
憧は、ぴくりとも動かない。彼女に意識が戻る気配は、ない。
京太郎の背中に冷たいものが走る。
その彼の手を、小蒔は引いた。
突然の行為に、京太郎はつんのめり、小蒔の胸に抱き込まれ、
「ん――!」
そのまま、唇を重ねられた。
目を見開き、暴れ、もがく京太郎の体を小蒔は抑え込む。腕力では決して負けないはずなのに、全力で抵抗しているというのに、京太郎は全く振り払えなかった。
たっぷり一分はそうした後、小蒔はようやく京太郎を解放する。だが、彼の体は抱きかかえたままだった。これは自分のものだと主張せんとするばかりに。
呆然とする京太郎の首筋に、小蒔の息がかかった。
「――――」
囁き声が、耳に届く。
その意味を問う前に、京太郎の視界は暗転した。
次回:十四/須賀京太郎/夏の終わり、夏の始まり
※今回は子供たちの行き当たりばったりな下山を描いており、登山時・道に迷ったときの注意点等をあえて無視している箇所が多々あります。また、川沿いを歩くのは大きなリスクを伴います。本内容は登山を否定するものではありません(最近あまり登れていませんが、個人的には山、好きです)。