殴られたほうよりも、殴ったほうが痛い。
そんな言葉は、卑劣な言い回しだと石戸霞は思って生きてきた。どう考えても、殴られたほうが痛い。殴った側に芽生える罪悪感を、正当化させる方便だ。そもそも暴力に訴えかけた時点で、どんな大義名分も実を失う。
彼女はそれを、頭の上では分かっていた。ドラマの中のヒロインたちは、簡単に男性に手を上げるが、霞にはその気持ちが今一分からず感情移入できなかった。
――だというのに、彼女は自分の感情に任せるまま、動いていた。
大切な小蒔が涙する姿を見て。
大切な友人が苦しみに喘ぐ姿を見て。
どうしても、黙っていられなかった。
これが、取るに足らない相手ならば霞はここまで怒りもしなかっただろう。二度と小蒔たちに近づけないよう処置し、綺麗さっぱり忘れてしまう。それが最善策だ。
なのに、今回ばかりはそうはいかなかった。
相手が、あの須賀京太郎だったから。
八年前、訳も分からず引き離され、自分たちの前から姿を消した男の子。六女仙と、小蒔と、憧と、一緒に夏を過ごした少年だった。
訊きたいことは山ほどあった。あの事故のとき、六女仙は皆蚊帳の外だった。鹿児島に追い返され、小蒔が再び目覚めるまで不安で胸が塗り潰された。
あのとき、何があったのか。八年間、何をしていたのか。
どうして、小蒔を傷付けたのか。彼女を痛罵する必要が、どこにあったのか。傍目にも、京太郎は小蒔のことが好きだったはずだ。憧のこともそのはずだ。二人を傷付け、平気な顔で他の女の子たちと共に歩く姿は、霞の心をかき乱した。
「京太郎くん」
「……石戸さん」
声をかけたとき、露骨に嫌そうな顔をされた。ずきり、と胸が痛んだ。小蒔のような種類でなくとも、霞は彼に好意を抱いていた。
清澄の部長に断って、彼を連れ出し、最初の一言二言は、まだ穏やかだった。――久しぶり、元気だった? ――ああ、本当に穏やかだった。
「どうして、小蒔ちゃんを泣かせたの?」
気持ちばかりが逸り、段階を踏まないまま霞は訊ねた。他にも訊ねるべきことは沢山あった。だが、彼女にとって全てに優先するのは小蒔だ。
京太郎は、せせら笑って答えた。
「鬱陶しいんですよ」
気持ち悪いものが、胸の中にせり上がる。
「ああいう甘えてばっかりの女は反吐が出るほど嫌いなんです。今も、こうして文句を言いに来たのは石戸さんだ。自分一人で来れないんですか。こっちだってインハイ真っ只中なんです、昔みたいな子守はもうこりごりなんだ」
「……何を、言ってるの?」
信じられなかった。彼がこんな言葉を吐き出すなんて、霞の中では有り得ない。
次に彼が小蒔に言及したとき、霞は耳を塞ぎたくなった。頭が理解を拒否しようとする。だが、彼は立て続けに言った。聞くに堪えない罵倒。顔を赤くするような歪んだ欲望。嫌悪感で肌が粟立つ。
そして、挑発するように京太郎の指が霞の口元に伸びる。
反射的に、霞は彼の頬を打っていた。
打った瞬間、後悔した。自分が信じられなかった。これまでの自己評価が、一瞬でひっくり返った。
二度目には、もう躊躇いはなかった。そうするのが当たり前のことように、腕が鞭となっていた。
彼と別れたとき、石戸霞という人間は崩れ去っていた。
宿泊施設に戻り、霞は部屋のテーブルに突っ伏す。かつてない霞の雰囲気に、六女仙たちも声をかけあぐねていた。それを良いことに、霞は部屋を一人陣取る。
――痛い。
彼の頬を叩いた両手が、痛い。
そんなはずはないのに。あれほど馬鹿馬鹿しいと思っていた考え――実に身勝手な言い分が、心を支配する。
――どうしてだろう。下郎を小蒔の傍から排除した。それだけだ。自分がこんな想いをする必要はないはずだ。あんな男はもう忘れれば良い。そうだ。小蒔にも、そう言い聞かせよう。
嫌悪していたはずの、自分を正当化する詭弁。それが引き起こす痛みに、霞は浸っていた。浸り続けたい気分だった。
なのに、心のどこかで引っかかる。
それは、許さないと。――許されないと。
ふと、思い出すのは、かつてこの街で彼と交わした会話。
『良かったら、これからもずっと小蒔ちゃんと友達でいてくれる?』
『良かったら、も何もない。小蒔ちゃんと憧と俺は、ずっと友達だよ』
――どうして?
どうして、自分は彼を見なかった? 霞は愕然として、テーブルから顔を上げる。
小蒔が泣いた。その事実だけで、霞は突っ走った。他の全てをなげうって、他の何もかもを気にかけず。
小蒔を免罪符にして、思考を放棄した。
その結果――須賀京太郎という人間を、見ようとしなかった。
考えればすぐに分かるはずだ。八年前、あの長野での遭難事故――そのときあった全てを、京太郎だけが知っている。そこに彼が、自分たちを拒絶する理由があるのは明白だ。
「確かに、酷い人、ね……」
彼に言われた言葉を反芻する。彼にその意図はなくとも、ぐさりと霞の胸に突き刺さった。
けれども。
八年前のことを知っているのは、彼だけではない。
遅くはない。そのはずだ。
「初美ちゃん」
「は、はいですよー」
こっそり自分を窺っていた親友に、声をかける。
「携帯電話――とってくれない?」
『彼と会ったのか』
「はい」
電話口から聞こえる厳かな声色は、霞を緊張させる。普段は人の好い親戚筋ではあるが、このときばかりは空気が違う。
どのような事情があるにせよ、霞は霧島神境の禁忌に足を突っ込んだのだ。その禁忌を定めた張本人――小蒔の父親を相手に。
「彼は……須賀京太郎は、人が変わっているようでした」
『そうか』
「ですが……」
『彼に近づくな』
霞の言葉を遮って、彼は言った。有無を言わさぬ迫力だった。一瞬鼻白んだ霞は、しかし立ち向かう。
「何故ですか」
『知ってどうする。もう一度言おう、霞。とにかく君と小蒔は彼に近づくな。彼は、君たちにとって危険過ぎる』
「……私も、ですか?」
『そうだ。他の六女仙はそれに尽力するように』
まるで意味が分からなかった。背後に控える初美たちも、眉根を顰める。話がさっぱり見えてこない。
『では切るぞ』
「お待ち下さい!」
霞の悲鳴は、相手の指の動きを止めた。電話口の向こうで、息を飲む気配があった。霞が小蒔の父に、異論を唱えたことなどほとんどなかった。
「詳しい理由も知らず、小蒔ちゃんを守ることはできません。私自身もです。何故、教えてくれないのですか。私たちが納得できないことくらい、分かるでしょう……!」
知らず、声に熱が点る。相手の顔が見えないのがもどかしい。
しばらくの沈黙の後。
答えは、返ってきた。
『……彼が、そう望んだからだよ』
「彼? 京太郎くんが?」
『小蒔に嫌われたくない。新子の娘に苦しんで欲しくない。……そう泣いたそうだ』
矛盾している。ならば、何故京太郎は小蒔たちを傷付けた? そんな霞の疑問に、小蒔の父はすぐに答えてくれた。
『嫌われるよりも、君たちを守れないほうが辛い。そんなところだろう』
溜息が、霞の耳に届く。
『すまなかった。こうなってしまった以上、確かに何も説明しないのは不誠実だった。……小蒔に話すかどうかは、彼と共に決めよう。私も、須賀と新子に連絡をとる』
「縁を切ったのではなかったのですか」
『子供に気付かれないように立ち回ることなど、難しくとも何ともない』
悪びれもせず言ってのける小蒔の父に、霞は深呼吸して応答した。
「…………教えて下さい。私たちと京太郎くんの間に、何があるのか。京太郎くんの力とは、なんですか」
『――――』
語られた話を受けて。
霞は、携帯電話を持つ手に力を込めた。――否、自然に込められていた。そんな、都合の悪い話があってもいいのか? ばかばかしくて、ふざけている。だが、小蒔の父は冗談や嘘を言うタイプではない。これが、真実なのだろう。
全てを理解した、そのとき。
くらり、と霞は目眩に見舞われた。
「霞ちゃん!」
初美に体を支えられる。
霞は、京太郎の意図を察する。
彼がなぜあんな言葉を吐いたのか。どうして自分たちを拒絶したのか。
――殴られたほうよりも、殴ったほうが痛い。
どちらが痛いかなんて、もう霞には分からないけれども。
彼女の両手は、後悔の痛みで塗れていた。
◇
インハイ六日目、Bブロック二回戦。
連荘がほとんど起きず、非常に早い進行となったこの戦いは、一位永水、二位清澄、三位姫松、四位宮守という順位で大将戦まで回ってきた。守りに長ける霞はその持てる力を尽くしたが、結果的には一位抜けとなったのは清澄だった。僅差の二位で、永水は準決勝に駒を進めた。
明後日には、もう一度闘う相手。互いの健闘をたたえ合うにはまだ早い。
だが、霞は清澄の大将、嶺上使い――宮永咲に話しかけざるをえなかった。控え室に戻ろうとする彼女の肩に、手を置く。
「宮永さん」
「はい?」
彼女は、再会したあの日、京太郎と共にいた女の子。仲も随分良さそうに見えた。
「お願いがあるの」
「……京ちゃんのことですか?」
すぐに見抜かれてしまった。彼女は警戒心を露わにして、霞に向き直る。
「そう、なのだけれど。……お願い、彼と話をさせてくれないかしら」
「自分で会いに行けば、良いんじゃないでしょうか」
「たぶん、もう簡単には会ってくれないから……」
霞の声が萎んでいく。
咲の目が、怒りに震えていた。
「嫌です」
霞の与り知らぬところではあるが――宮永咲が、婉曲的な物言いではなく、ここまではっきりと拒絶することは珍しかった。
「京ちゃんは、貴女たちに会うと辛そうにしてます」
「それは――」
「そんな貴女たちと京ちゃんを、どうして私が取り持たなければならないんですか」
一切の反論を許さない、強い口調だった。
霞が小蒔を守るように。
彼女もまた、京太郎を守っているのだ。それをどうして、霞が責められよう。
――しかし、それでも霞は諦められない。
「このまま別れたら、京太郎くんだって不幸になる」
「どうして貴女にそんなことが分かるんですか」
「彼は、嘘を吐いている。そうでしょう?」
「京ちゃんが望んでいるなら、私はその嘘を守ります。京ちゃんに、これ以上傷付いて欲しくない」
懇願を振り払う咲へ、なおも霞は語る。
「その嘘も、京太郎くんを傷付けているはずよ」
「…………」
咲は、黙り込む。彼女も、京太郎の現状を良しとは思っていないだろう。霞の言葉に、納得するところがあるはずだ。しかし、言い負かしたらそれで良い、という事態ではない。彼女に道を作って貰わなくてはならないのだから。
やがて、咲は口を開いた。
「何を言われても、私が貴女たちを京ちゃんに会わせることはありません」
すっと、咲は背中を向ける。
「……京ちゃんが、自分の意思を変えない限りは、絶対に会えません」
言葉を尽くした霞は、去って行く彼女を見送ることしかできなかった。
この後、宮永咲が悩みもがきながら、されどそれをおくびにも出さず京太郎の背中を押したのを、霞が知るのはずっと後になってからだった。
◇
二回戦が終わった数時間後。
小蒔がいなくなったことに最初に気付いたのは、巴だった。
次回:十一/神代小蒔/山岳迷宮・前