――ほら、万花。これが愛するってことなんだぜ。
青い空と白い雲。生まれてこのかた見ることのなかった空想上の景色が視界一杯に映り込むと、少女は小さく可愛らしい手を空へと掲げた。青々とした天空を掴み取ろうとしているのか、必死になって手のひらを開いたり閉じたりしている。翼を失い、地上に落とされた天使の成れの果てが、元居た場所へと帰りたいと渇望しているようにも見えなくない。
少女はいつしか腕を地上へと落として、人工芝の敷き詰められた地面へと身を転がす。仰向けになって空だけを見つめる。キラキラした瞳が一心に見つめる青空世界には何が見えているのか、少女以外には分からない。
空を見上げる少女はふとした拍子に隣を振り向く。投げ出された右腕の小さな指が一度、二度空を切る。手のひらに何かを求めていた。あちらこちらに手を伸ばしては、芝生に指を這わせて探し出そうとする。触れず見えず、だけど大切なものを掴もうと悪戦苦闘して、それが暖簾に腕押しだと気がついてやめる。しかし、数分もすれば再び腕を動かして大切な何かを探し求める。
少女だから無駄だと分からないのではない。無駄だと分かっていても諦めきれないから無駄に無駄を重ねていくのだ。諦めれば、最後の望みも絶たれてしまう。だが、いずれは諦めることを悟る時が来る。その時は今以上の絶望が少女を打ちのめしかねないのだが、少女にはそれを知覚することができなかった。知覚できないことで生じる、望みと失望の止まらない精神の摩耗にいつかは心が悲鳴を上げるに違いない。
少女は自分自身の首元を左手でなぞる。指が走った後の子供特有の柔らかな肌が見えるだけで、傷らしい傷はない。それでも少女は指先を肌の上で行き来させる。そこにある何かを懐かしむかのように。もしくは、そこにある感触の記憶を手繰り寄せるように。
右手は芝生を這い回り、左手は首元を撫でまわす。少女はいつしか泣きだしそうに顔を歪めていた。泣いて訴えたい気持ちを必死に抑え留めようとして、泣き出しそうな表情で形を維持していた。
「アタシは『愛』しているんだから」
少女は最後まで涙を流さずに一日を過ごした。
数年後。
オルコット家は没落への道を歩む。当主であるだけでなくイギリス国内で一・二を争う大企業オルコット社の敏腕女社長と、その秘書を務めるオルコット家に婿入りした男は列車事故によって人生を挫折することになった。
残ったのは強欲の光を宿した親類たちと、当主の忘れ形見の少女だけだった。
そして、少女には何も残らなかった。