眷属の夢 -familiar vision   作:アォン

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ちょい修正しました(2016/10/27)




下水道で遊ぶな

大きな瞳の湛える青色は、少しの間だけベルの意識を吸い込んでいた。ほんの少しの間だけ、だ。

 

「んぐッ……」

 

一瞬麻痺しただけの嘔吐中枢は、そう簡単に活動を止めてはくれなかった。

既に一度開いていた栓は、たやすく再度の逆流を許した。

 

「おッ、お゙え゙え゙っ」

 

「!お、お゙い……」

 

いい加減、胃の中身も尽き果てそうな頃合いであったが、一度どん底まで落ちきったベルの精神状態は、肉の器に対して容易な復帰を促すようにはしない。名前どころか、その顔すらも判然としない他人の前で醜態を晒しまくる自分への嫌悪感と羞恥心は、少年の心と体を更に辱めていった。

涙と吐瀉物で顔面を滅茶苦茶に汚すベルは、心の堰を押し流して溢れる様々な苦悩をも吐き出しはじめる。

 

「うぐっ、げええっ、ウッ、ぅ、ううぅっ、ずっ、ずいまっ、せッ、んん……っぐ、ヴえっ……すい、すいまっ、ぜっん……ふぐうっ」

 

「……」

 

それは初対面、開口一番にしてゲロを吐き散らす無礼への謝罪だけではなかった。

彼が真実、何よりも大切な存在に対して、何をおいても伝えたく焦がれる言葉でもあったのだ。そして、己が決して、その言葉を伝える資格を持たぬと自覚していたから、今こんな風に、見知らぬ誰かに対してしか開かせない本音として口から紡ぎ出されていた。

歪な双眸は、這いつくばる少年の心の中など見えなかった。しかし、そんな情報など無くても、眼前の何某が深く傷つき、苦しんでいる事くらいわかるのだ。

大きな、暖かいものが、ベルの背に乗せられ、優しく擦られる。

大きな、とても大きな手のひらだった。

 

「……良゙い。好ぎなだげ、吐ぎ出しでしまぇや……。その方が、楽だ……」

 

ひどい濁声に似合わない、深い気遣いをベルは感じた。そしてそれは、彼が永遠に失ったあの、大きな背中を持つたった一人の家族の姿を思い出させた。

 

「っは、……うっ、うぐぐっ、ぅえぐっ、ぅげえぇっ、っはあっ、ううっ、うっ、ぶっ、……」

 

たった一人の家族への深い罪悪感と、たった一人の家族への深い郷愁は、ベルの心で雁字搦めになった一番弱い部分を、どんどん解きほぐしていく。

それは、見知らぬ誰かに対する唐突な懺悔と告白の形となり、深い闇の中で吐瀉物とともにベルの口から流れ落ちていった……。

 

「うっうっ、うぇええっ、すいっ、ませんっ……っ、ずっ、ずっ、ゔぐゔぅ……」

 

溢れ出る涙はベルの顔をしとどに濡らし、図らずしも、口の周りの汚れを洗い流していく。

 

「……っ、ごっ、ごめ゙っ、んッ、ん゙っなっ、ざ、い……ぐ、っぐっ、おえっ……」

 

「…………」

 

目を閉じて、ベルは必死で許しを請う。

こんなにも無様な自分である事を。

こんなにも弱い自分である事を。

愚かで、ちっぽけで、どうしようもない不義理な不忠者である事を。

ここには居ない、あの小さな家の、たった一人の住民に対して。

 

「ごべん゙、な゙ざッ、い゙……ゔゔぅ……げほっ、ゔぅぅっ、ッ、が、がみ゙ざま゙、ごっ、ごっめん゙な゙、ざい゙ぃ……うっあああっ、ああああっ……」

 

すがりつく細腕と、掛布越しに押し付けられる頭、そこから広がる熱く濡れた感触を思い出す。同時に蘇る激しい慟哭。

あんなにも悲しませた罪の重さとは、灼けつく喉からどれほどの言葉を搾り出そうとも決して贖えはしないと知っていた。決して、彼女の目も耳も届かない、この闇の底に在っては……。

 

「……」

 

「ッ、ひっく、うぐっ、っっ、はうっ、うぅっ、うぇっ、ぐっ、っ……んっんぐっ……」

 

そして、自分がどれほど不毛な事をしているのか理解しながらも、ベルは、撫でられる背中の感触によって、自分の荒廃した胸の内に暖かいものが注がれていくように錯覚していた。それは同時に、心を縛る枷を溶かして両目まで押し流し、そこから剥がれ落ちるのを促していくようにさえ思わせていた。

いつしか逆流するものは枯れ果て、下水道には子供がしゃくり上げる声だけが断続的に響くようになっていった。

その合間に、遥か離れた小さな主の許しを請い続ける言葉を垂れながら、ベルはずっと泣き続けていた。

いま激しく波打つ自分の心の、ずっと奥底に積もった全てが、この涙と一緒に押し流されてしまえばいいのにと期待しながら。

 

(弱くて、ごめんなさい……)

 

(馬鹿で、ごめんなさい……)

 

(……約束を破って、ごめんなさい……)

 

青い瞳を持つ罪人はただ、少年の細い背をさすり続けた。

何も言わずに。

 

 

 

--

 

 

 

胃の中身も、涙も流し尽くした。心身のストレスを大幅に解消するそれらの行為は、おそろしく体力と精神力を浪費する行為でもあった。

心地良い気怠さを感じながら、ベルは目を覚ました。あれこれと液体でびしょ濡れだったはずの顔はどうしてか乾いていて、後を引くこびり付いた感触も無かった。

顔に触れていた右手を見やる。中指の真鍮が、差し込む月影で青白く輝いた。

 

「……?」

 

そう、見えるのだ。自分の手のひらが。暗く湿った、破棄された下水道の跡地に注ぐ光によって。鼻の奥に僅かに残るよどんだにおいも、ここには届かなかった。

尻の下に敷かれた厚手の外套も、僅かな安らぎの暇を少年に与えた要因の一つだったに違いない。

 

「目、覚めだ、か?」

 

ベルは、壁面に背を預けて足を投げ出したまま、その声の持ち主に首を向けた。

崩れた天蓋に撞きそうな錯覚を抱かせる上背を丸めた、異形の巨躯がそこに立っていた。彼こそ自分をここに運んだ下手人であるとベルは理解出来たが、その礼を述べるのも忘れたまま、口を半開きにした間抜け面を晒していた。

巨大な顔面の左半分を大きく占める青い左目は、ひどく曲がった鼻筋で区切られ、反対にある標準的なサイズの右目のおかげで、実面積以上にその大きさを主張しているように思えた。

歪な鼻筋の下にある、めくれた不完全な口唇裂から覗く不揃いな歯並び。一語喋るにあたって、それは随分と常人の紡ぐものとの違和感を聞く者に覚えさせるだろう事は、既にベルの耳も知っている。

そして、彼の全身を改めて、ベルは検分する。――――月の色を浴びてより、恐ろしい程に白く映える肌。大いに明瞭に、透けて見える青い血管の色と、崩れた頭部に一筋残る白金色の毛髪とともに、何らかの疾患を連想させる病的さを孕む外観と言えるだろう。

……腰巻きだけ身に付けた彼の、極めて発達した筋肉の鎧さえ無ければ、だが。

殊に、辛うじて常識的な範疇で鍛えられた結果だろう右腕と比して、その三倍の太さを持つだろう巨大な左腕。それは、人間の頭蓋骨など容易く握り潰す迷宮の怪物達の腕と並べても、如何程の遜色を見出だせるだろうか?

異様な左腕と同じ太さの両脚が、名も知らぬかたわ者が決して、大地に倒れる事の無いように支えている所まで、ベルはしっかりと見通した。

 

「…………は」

 

「……」

 

赤い瞳と青い瞳は、言葉も無く向き合う。

もしも。もしも、この出会いが、血に飢えた怪物の跋扈する迷宮であったなら、男こそその住民であると看過する事にベルは躊躇しなかっただろう。それから戦いを挑むにせよ、あまりにも歪な図体から一目散に逃げ出すにせよ。

実際にはそうではなかった。いきなり地上から転げ落ちてきた少年の最も弱い姿を見て、騒ぎ立てる事も、邪険にする事も、根掘り葉掘り問いただす事も決して彼はしなかった。

つい先程まで自分の背を撫でていた大きな手の持ち主の異形に対し、ベルは驚嘆こそ抱こうとも、少なくとも恐怖やそれに類する悪感情を芽生えさせることは無かった。

 

「っ、り、がとう、ございます……その、すいません……」

 

今更弁解のしようもない醜態を見せつけた事への謝罪だけではなく、生臭い闇の底に比べて随分と落ち着ける場所に連れて来てくれた感謝も口にしようと、ベルは鈍った頭から指令を出した。じろじろと無遠慮な視線を向けていた無礼な態度の気まずさもあり、言葉に詰まる。

対し男は、身動ぎもせず、瞬きをひとつした。常人とはまるで異なる造形の顔立ちから、ベルはその心情を察することは出来なかった。ただ、その目の深い青色に吸い込まれそうに、視線を縫い止められるだけだった。

 

「ん、や……落ち着゙いだんだら、良がった、な」

 

「あ……」

 

少し開けられた口の、疎らな歯の間から言葉を漏らした男は、ゆっくりと身を翻した。湾曲した脊柱が作る瘤の谷間にある、孔雀の羽のエンブレムが、ベルの目を奪った。否、それは、自分に向けられていた穏やかな青い双眸が、今を以って決して己の人生と交わらぬ場所へ行こうとしているという不安の呼び起こした反応だった。

反射的に、手を伸ばす。そんな行為に意味など無いと気付くのに、刹那もの時間もベルには必要なかった。

 

「あ、あのっ」

 

呼びかけにより男が足取りを止めたのは、ベルにとって幸運な事だった。

だが、去ろうとする機を引き寄せる術までは彼の頭に無かった。

止めて、どうする。

あんな、最低な姿を晒し、必要も無い介抱まで貰って、何を求める。

誰かに縋りつく前に、なぜ自分の足で立ち上がろうとしない。

流し尽くした筈の暗い思いが、ベルの口を塞ごうと滲み出てくる。右手から、胸の奥から……。

 

「っ、……ぅ……」

 

途切れた声はどうしても、続かなかった。開いた口は、乾いた吐息だけを行き来させる。少年の悲痛な顔は、考え無しな自分への遣る瀬無さと、微かに見えた標が去ろうとしている事への絶望感が浮かんでいた。

……或いはその大きな背に重なる、失われた過去への惜別の念が一人きりに放って置かれる恐怖を呼び起こしたか、さもなくば酒場で見目麗しい店員に乗せられて行ったのとは違う、弱り果てた心の底からの我執の吐露をぶつけた相手からの同情を望んだのかもしれない。

何も問わない、知らない誰かであるからこそ、一切の挟持も虚勢も投げ捨てて縋り付いてしまいたいという、十四歳の少年が抱くには決して不自然でない衝動は覆い隠せずに溢れ出しそうだった。

それらの全てが、単なる甘ったれた性根に因るものだと自覚しているから、ベルは声を上げられないのだ。

 

(なんで、なんで、こんなに、弱いんだ……)

 

伸ばした手に見える、自分の弱さの証を握り締める。

 

(強くなきゃ、何も、取り戻せない……このまま、消えていくだけなんだよ。わかってるのかよ……!?)

 

俯く少年は、失望と、怒りに震える事しか出来なかった。

それは、どれほどの時間だっただろうか。

青白い帳の作る影が、ほんの少しだけ傾いていた。

ずっと遠くの梟の鳴き声が、崩れた下水道にまで届いてから、沈黙は破られた。

 

「怖ぐ、無え゙、のか」

 

「え?」

 

顔を上げたベルの視線は、肩越しにこちらを見る異形の瞳と交わる。

怖い。

何が、怖いのか。ぽかん、と口を開けたまま、男の質問の意味を、ベルは掴みあぐねた。

男はもう一度、口を開いた。

 

「おでの、事、怖ぐ、無え゙の、か」

 

男はそう言って、全身を振り向かせた。ひどく不均衡な陰影は、再びベルの目に晒されていた。

そこでようやく、男の真意を、ベルは悟った。

彼が今日ここに至るまで、周囲の存在から受け取ってきたものの片鱗すらも。

 

「……」

 

ベルは、欺瞞の無い本音であっても、それが薄ら寒い綺麗事にしか聞こえないほどに心が荒んでしまう悲しさを、多少なりとも知っているつもりだった。

ただ、それでも少年の心には、男の異形への恐怖など無かった。それは、真実だ。

思い出すのは、幼き彼が読み聞かされた、様々な英雄譚。合間に彼は、祖父に尋ねることもあった。

 

『……と、こうして、ポラックスは、カスターのもとへ召された。深い絆で結ばれた兄弟は、永遠に分かち難く……』

 

『……ねえ』

 

『ん?』

 

『ふたりは、こんなからだに生まれて、つらくなったり、いやになったり、しなかったのかな?……』

 

『…………』

 

一つの身体に融合して生まれ落ちた双子の兄弟の物語に思いを馳せ、ベルは忌憚なき疑問を口にした。

祖父は、少しの間だけ考えこんでから、口を開いた。

 

『きっと……彼らにとって、その身体は、神に与えられた特別なものなんだと、そう感じていたからなのかもしれん、な』

 

『……』

 

人とは違う身体を持ち生まれた事への疑問とは、神の意思という理由によって贖われるものなのだと、幼いベルはこの時、朧気に理解した。

それはつまり、髪の色が違うとか、目の色が違うとか、鼻の形が違うとか、そういうものと似たようなものなのだろうか、とも……。

髪の毛が炎のように燃え盛っていたり、黒目の無い真っ白い瞳を持つ人間なども存在するのか?などという夢想に怖がったりもしたのは、幼いベルの勝手だ。

 

「僕は……」

 

ともかく、そんな幼少期におけるなんて事はない思い出の一つも、ベルが目の前の男に、少なくとも害意を持つようにはさせなかったのだ。未知なる何かを排しようとするのを愚かさと言うならベルは立派な愚か者だったが、少なくとも、その青い目を持つ異形の本性とは、小さい人間へ見境なく敵意を向けたり、侮ったり、蔑んだりするようなものではないとわかっていたのだから。

だからこそベルは、安易な返答をする選択を拒絶した。それは計算された思考ではなく、もっと本質的な部分から導き出した結論だった。

目の前の男の失望を買う事への忌避感は、少年の口から、別の本音を紡ぎ出させた。

 

「……今は、もっと、怖いものが、あるんです。だから」

 

「……」

 

途切れた言葉は、赤い瞳が継いだ。ベルは、男の視線から決して目を逸らさなかった。

少年の思いは伝わったのだろうか。男はゆっくりと、壁際に足を踏み出した。

そして敷かれた外套のそばに、巨躯を沈めた。

 

「……聞く事゙しが、出来゙ねえ。けど、それ゙でお前ぇの助げになるんな゙ら……」

 

腰を下ろし、じいっ、と男はベルを見つめて言った。

それは、ただの同情に過ぎないのだろう。名も知らない、小さく弱い子供への。

それでもベルは、男の慈悲に感謝せずにはいられなかった。

ただ、誰かに聞いて欲しかったから。

 

 

誰かに、知って欲しかったから。

 

 

心のなかに渦巻き、己を苛ませるすべての事を。

 

 

ずっと昔に使われなくなった下水道の一角で、一人の少年と、一人の異形が向き合った。

ベルの告白は、そう手短に終わらせられるようなものでは、なかった。

 

 

自分を縛り付ける全ての枷の存在を伝える作業は、決して、他の何者にも知られず、阻まれる事も無かった。

 

 

 

 

--

 

 

 

 

酒場で、初めての酒に呑まれた勢いで……優しく美しい女店員に対して、体裁を捨てきれずに、要所要所を濁して話した時とは、違った。

名前も知らない、初めて出会った異形の男に対して、芥ほどもの見栄も虚飾も、韜晦もなく、ベルは喋った。

 

「……孤児だった僕を、祖父が拾って、育ててくれたんです」

 

自分という存在の始まりから。

 

「祖父は、とても強くて、大きくて、優しくて……」

 

心に焼きつく影の事も。

 

「……出会いがあるって、言っていたんです。ここに。それを信じてやって来た、って、思いたかった……」

 

主にすら明かせない、心を覆っていた欺瞞すら。

 

「どこにも受け入れてもらえなくて……けど、神様と出会えたんです。……家族になろう、って、言ってくれたんです……」

 

新たな家族は、優しかった。新たな家は、暖かかった。ベルが失ったものと似ていて……確かに違う、別のもの。それでもベルは、そこに安らぎを見出した。

 

「神様の為なら、神様の名前がこの街に、世界中に知れ渡るようになる為なら、どんな事だって……そう思って、冒険者に……」

 

戦い、勝ち、征し、畏れられる。

少年が冒険者という道を選んだのは、祖父の言葉だけに導かれた結果というわけでもなかった。

最も単純な理は、不思議と彼の心を惹き付けていたのだ。

戦士としての自分を望む事に、何の疑問も抱かなかった。

それも、あの夢が再び現れる時までの事だった。

 

「でも、……怖い、わからない、夢……祖父が居なくなってから見ていた、怖い夢が、また……」

 

全てが炎に包まれていく中で、血塗れになって進軍する自分。その先にどうしようもない過ちが待ち受けていると知っているのに、それを押しとどめる事が叶わない。

――――深い絶望と悲しみに塗り潰されると同時に目を覚ます、あの悪夢。

 

「神様が、言ったんです。僕の中に、目覚めていない、大きな力があるって……。……思ったんです。きっと、あの夢と、何か関係があって……」

 

それは、根拠の無い推論だった。生来眠っていた秘めたる力の片鱗が、生命の危機において顕れ……など、まるで出来の悪い、ご都合主義に塗れたお伽話だ。

だがベルが理解するあの感覚は、神に類する清らかな何かに与えられた祝福などとは違う、激しく、狂おしく、荒々しい、別のものに由来しているようにしか思えなかった。夢の中の自分を支配するものとの関連を疑うのは、必然的な帰結だった。

 

「ミノタウロスに追い詰められた時も、シルバーバックと対面した時も……まるで、夢と現実がひとつになったようで、周りの何も見えなくなって……」

 

目の前の敵意を滅ぼす事だけを望むあの衝動を、ベルは決して忘れてなどいなかった。それは、自分が別の存在に置き換わる現象と形容するのも語弊を感じた。

五感全てが研ぎ澄まされ、脳細胞は余すところなく戦いと勝利の道筋を求め、それ以外の他の何もかもなど涅槃の彼方に放り投げてしまったかのような異常な感覚は、今も容易く思い返すことが出来るのだ。それは、間違いなくベル・クラネルという人間の持つ一面である事の証左なのだった。

あれこそ、自分の持つ本性、秘められた真の人間性なのではないだろうか?

ただ力を、勝利を、征服だけを求め、それ以外の何も持たない、人の形を持った怪物にも等しい……。

果たして、その時の自分の中に、何よりも省みるべき存在が影も残さず消え失せているという真実は、この上なくベルを打ちのめすのだ。

 

「それでっ……神様の事も……あんなに、心配させて……悲しませて……」

 

強く在る事を求め、にも関わらず、大切なものを悲しませ、それを失う事を激しく恐れる弱さを克服できない自分がいる。

矛盾は耐え難く苦痛をもたらす鎖となって少年の心を締め上げていた。

 

「本当はっ……怖くて怖くて、仕方ないんです……また、一人になるのが。こんな弱い姿を、知られたら……見放されるかもって……」

 

強くなくてはならない。弱く在ってはいけない。……一人になりたくないから。

あの夢と同一のものに由来するのだろう未知の力に委ねれば、きっと自分は、どんな敵をも恐れないだろう。……本当に忘れたくないものを忘れ、失いたくないものを失う結末を許容するならば。

だからベルは、自分の中の力を恐れる。

 

「強くなくちゃ、いけないのに……弱かったら、駄目なのに……!」

 

弱い自分への怒りで語気を強めそうになるのを、ベルは必死で抑える。握り拳から、血が滴っていた。悲しみを吐き出し切った胸の中は、煮え滾る別の黒いものが満たしつつあったのだ。

それもまた、彼を出口のない苦悩の途へと誘う衝動の一つなのだった。

 

「なのに、なのに……強く、強く在りたくて、でも、それが怖い……どうすればいいのか、わからない……!!」

 

激しい怒りは足を急き立て、その眼を曇らせる。

深い悲しみは眼を見開かせ、その足を絡めとる。

相反する二つの感情を生み出すものの正体を知っているベルは、どうしようもなく、自分を貶めるしかなかった。

 

 

 

決して消えない恐怖の虜囚となっている弱い自分など、居なくなってしまえばいいのに、と。

 

 

 

 

「……お゙前ぇ、は」

 

男は、うつむき震える少年の言うこと全てを理解してなど居なかった。しかし、何を言いたいのか、どれほどの苦悩の中に在るのかまでを察することは可能だった。

同時に、名も知らない少年の人格について――――それは概ね、他者を思い遣る優しさと、喪失を恐れる繊細さと、弱さを許せない傲慢さ、で形成されたもの――――をも、朧気に、理解した。

そこまで知った彼の口からは、自然と、その言葉がまろび出たのだ。

 

「一人、で、やっでるの、が?」

 

「え?」

 

「一人で、誰ども組まずに、迷宮に、行っでるの、か?」

 

傍に誰も居ない彼は、全てを自分ひとりで背負わなければならない労苦を味わっているのではないか、と、異形の男は思いを馳せた。

それは正解だった。

ベルは、目を丸くして、男と向き合い、……少しして、頷いた。無言で。

 

「…………」

 

男は、項垂れる少年を前に、天を仰いだ。

石造りの下水道跡の割れ目から見える星粒達。

……世界のどこでも、その輝きは等しく、いつも男を見守っていた。

 

「……おでも、……ずっとむがし、ここで、神゙様゙のため゙に、戦っでだんだ……」

 

――――唐突な独白に、ベルは目を剥くだけだった。

しかし、目の前の異形の男が、冒険者として身を立てていた証拠を、既にベルは見ていた。背中に刻まれた青い瞳として。夜空を眺めるその煌きはまた、ベルの顔に向けられた。

 

「ひどりになっだおでを、拾っで、育てでくでだんだ……」

 

それは、どこかで聞いた話だった。

 

「皆゙に゙、バカにされだ。でも、や゙める事゙な゙んて、出来な゙がっだ。かみ゙さま゙に返゙せる゙のは、ほがに、何も無がったがら……」

 

つい最近……とても近しい所で、聞いたような話だった。

 

けれども。

そこから先は、ベルの知る『誰かの話』と、違っていた。

 

 

--

 

 

 

『Mi stamatas. Dose to telos』

 

リューの夢の中でその歌の一節は絶えることなく繰り返されている。無数の声は空を覆う闇の切れ目から重なり合って響いてくる。全ての光を飲み込んで逃さない闇の隙間は、鮮血を流す傷痕のように赤く、凶々しく脈動していた。

ひたすらに血腥く、悍ましく、救いのない古き歌に合わせて歩は急かされて止まらない。その先にあるものに追いつくべく、真っ直ぐ見据えるものを逃さないよう、両脚を激しく動かし、地を蹴る。空の色を映す瞳だけが、漆黒の陰影に包まれたエルフの宿す光だった。

遂に肉薄された獲物が、振り返る。恐怖に染まり引き攣った表情。許しを請い、過ちを悔い、己が愚かさを心の底から悟った、滂沱に濡れた惨めな泣き面。

 

『やめっ、やめてくれええっ!頼む、頼む、頼む!俺はっ、し、仕方なく……』

 

地面に転げて這い蹲る男は片手を翳して釈明するが、眼前に在る者への恐怖によって既に呂律が回っていなかった。尤も、リューにはそれを聞き届けようという気などなかったが。

今の彼女の耳に入るのは、その声だけだ。

 

『Telos』

 

左手に持つそれを掲げ、右手に握る刃を振った。

 

『ぎゃあああっ!!』

 

男の右手の指が四本、宙に舞って周囲の闇へと消える。ドス黒い血を噴き出す指の付け根を見て男は泡を吹いて絶叫した。街の片隅の、誰の目も届かぬ路地のどん詰まりは、幾多もの死体が積み上がって人々の目を通さない監獄としてそこに顕現していた。

血塗れの短剣を突きつけるリューは、口を開いた。

 

『答えろ』

 

『あああああっ、ああああああぅああっ、ここ、殺っ、殺さっないでっ、い痛い痛い、いぃ~~~~……』

 

男は自分の精神を支配する狂乱の渦に抗う事も無く、右手を抑えて蛆虫のようにその場でのたうつ。

 

『Skotose ton skotose ton empros. Skotose ton skotose ton empros』

 

リューにしかその声は聞こえない。我が身を焦がしすべてを焼き尽くそうとする怒りを必死に制するべく歯噛みするが、それがどれほど無意味な努力であるか彼女は知っていた。

憎い。許せない。必ず償わせる。

猛る業火を象る彼女の凶相が、かつては神の街の多くの住民を魅了した美貌と同一のものと、無関係な誰かがこの場に居たとしてどうして信じるだろうか。

 

『答えろ!!!!』

 

『あ、あ、ああ、ああああ、あ、そ、そうだ。俺だ。金を、渡されて、それで……でも、俺は、場所を教えた、それだけだ、それだけじゃないか!!??こっ、これで、満足だろう!!??俺はっ』

 

男の口から繰り言が紡がれるや、左手の掲げるそれは真実を知らしめる。誰もその奇跡を欺く事など出来ない。

リューは双眸を凍りつかせたまま、右腕を振った。一陣の風は男の右手首を包んで消え去る。

 

『ぐっっがあ゙ばあ゙あああああああ゙あああああ゙あっ!!!!』

 

『生命よりも真実が惜しいのなら、望み通りになるか……!!』

 

切断された手首から流れ出す生命の迸りは更に量を増していた。男の顔は青く白く変わっていく。血の海が地面に広がる。海。赤く粘着く、底の見えない、地上の骸の流れ着く最後の場所は、いつの間にかリューの立つ小さな場所を囲んで無限に広がっていた。

 

『ぐぼっ、ぶっ、ぐ、ぶ、ぅ…………ぇげっ…………』

 

そこに呑まれた男の身体は、やがて数え切れないしかばねの中の一つと成り果てて力なく漂う。光を失くし血を流すだけの無数の眼孔は全てこちらへと向けられていた。

 

『Empros aose mas lytrose, eisai o timoros』

 

リューは躊躇などしなかった。血の海に身を浸し、前へと進む。からみつく死者の腕を振りほどき、必死で泳ぐ。

止める事など出来なかった。どれほどの困難がこの先続こうとも、リューは己の身を支配する激情を忘れる事など、たとえその先に死だけがあるのだとしても、決して出来なかった。

 

 

 

手に、足に、胴に、首にしがみ付く血塗れの腕。すべては、その持ち主達こそが望んでいる事――――自分でなければ、その者達の誰かが成していた事――――だと思えば。

 

自分に居場所を与えてくれた者達の記憶は、リュー・リオンの魂を縛り、歩むべき道を他に選ばせない枷として、そこにあった。

 

 

 

『Ooo thanatos. Ligei os edo』

 

 

 

彼女の背負うものが口を閉じることはなかった。

彼女が全てを終わらせるその時まで。

 

 

 

--

 

 

 

 

「…………」

 

男の語りを全て聞き終えたベルは、何も言えず、ただ青い光に心奪われて呆けていた。

 

「頼みが、あ゙るんだ」

 

男の語る経歴はベルの心を軽くはしなかった。唐突な独白をした事への疑問はあってもだ。

己の身に降りかかるよりもずっと深い不幸と苦難を慰めにし、立ち上がる為の糧に出来る強さなどベルは持っていなかったのだ。

呆ける少年に構わず、男は続ける。

 

「おでのこどを、誰にも゙、話さね゙え゙で、ぐれ」

 

それが、男の真意すべてなのかどうかまで、ベルには計り知れなかったが、……それでも、男の独白が、単なる同情だけに基づくものではなかったのだと知って、確かに安堵したのだ。

 

(――――)

 

そう、誰からも恐れられ、世界のどこからも居場所を無くした男の懇願を聞いて、ベルの心は軽くなった。それに気付いた瞬間、再び、黒く粘着くものが――――

 

「代わりに゙、お゙前ぇ、ど、一緒に゙、組んでや゙る、がら」

 

耳から入り込み胸の中に落ちてきた言葉が、澱む何かを打ち消した。

 

「――――え……」

 

顔を上げる。穏やかで、深い青色が自分の中に溶けていくように、ベルは思った。澄んだ、清らかな何かの感覚はとても、懐かしく感じた。

 

「なんで……」

 

彼は今日だけで何度、そう呟いただろう。

惑い悩む者はそうして、無意味な問いを繰り返して、抜け出せない迷妄の渦の底へと落ちていくものだ。

苦しみの理由を知る時……真に目覚めに至る、その時まで、ずっと。

 

「……放っどけねえ゙、ぐで、な゙」

 

青い瞳が、遠くを見た。

 

「見つかりたく、ないんじゃ」

 

「んだ、隠れながら、夜中しか、手伝えね゙えげど……」

 

弱い心は、素直に、それを理解するのを拒む。

けれども、……男の過去を知ってしまったベルは、自分のつまらない挟持が解けていくのを感じ取っていた。差し出される手を拒む、薄っぺらな自尊心が。

 

 

 

「ひどりは、つれ゙え、だろ……」

 

 

 

ベルは、異形の男が、自分の苦しみを知ってくれているのだという理解が、勘違いだと思いたくなかった。

安易な同情を向けられ、良心を満たすための道具として扱われてるのだとも思いたくなかった。

ただ、それを認める事を、自分に許したかった。

 

 

 

出口の見えない迷い路の中に示された灯火の存在を。

 

 

 

一筋、頬を伝う涙は、少年が今日流すそれの、最後の一滴だった。

歯を噛み締め、嗚咽を封じて、ベルは、少しの間だけ、俯くのだった。

 

 

 

--

 

 

誅罰者は罪人の血と臓腑に塗れ、光の届かない場所でその身を横たえていた。定められた筈の命運の尽きる時に見放されたのだという確信は、残された激しい怒りと深い悲しみを贖わせる道だけを選ばせ――――そしてリューは全てを終えたのである。

それは、残された時間の使い途も無くなったのに他ならないと彼女自身は思っていた。

生と死に見放された美貌の剣士は、一切の光の消えた瞳に遥か高い空を映していた。如何なる思考も飲み込んで燃え盛る情動も消えてしまえば、その姿は朽ち果てた抜け殻も同然だった。

 

『……あなたは』

 

建造物に挟まれた狭い青空を遮って、その顔が現れた。見下ろすその表情がどんなものなのか、影になっていて見えなかった。見えていても、リューは何も思わなかっただろう。

吹けば飛ぶ灰のように儚く、虚ろな表情で転がるエルフの女を見て、銀色の髪を細やかに波打たせるシルはまた口を開く。

 

『…………お腹、空いてません?……』

 

服が汚れるのも厭わず、傍に座り込んで手持ちのバスケットを開く様は、リューの理解の及ばぬ領域にある光景だ。誰に対して言っているのか、自分が何者か知っているのか?

しかし湧き上がる疑問も、すぐに泡のように消えていった。全てがどうでも良かった。全てを失った死すべき者は、全てから見放された場所へと自ら堕ちた。

何もしようと思わなかったのだ。

喋る事も動く事も、生きる事すらも、今のリューにとって義務たりえなかった。

 

『ほら、お口、開けないと食べられませんよ』

 

新鮮な具を使ったサンドイッチは、焼いた小麦の香りが未だ濃く漂う。眼前に差し出されたそれに、リューはどんな反応も起こさなかった。

――――それは確かに、彼女の意思だった、はずなのだ。

 

『…………ぅ…………――――…………』

 

永遠に、ここで命尽きるまでとどまり続けようと選んだはずの意思に反し、リューの細い肢体の中心から、呻き声に似た間抜けな音が漏れ出た。

今までどれほど、物言わぬ肉塊を積み上げただろう。それが果たせれば今生に何の未練があるだろうと信じて歩き続けた道の果てが今、ここなのだというのに。

空色の双眸から、さらさらと涙が流れ落ちていく。

 

決して贖えない罪を犯した自分は、如何なる報いも受け入れようと決めてこの場所へと辿り着いたのにもかかわらず、この期に及んで――――恥知らずにも、まだ生きたがっているのだ。

 

浅ましき己の性情に戦慄し、ただ後悔と慚愧に泣き濡れるエルフは、やがて噛み合わされた歯の間から嗚咽を響かせた。

 

『……ッ、ぐ、ぅ、ウウッ、……っっは、あぁ、うくっ、…………っ~~、うっゥゥゥ…………、ッ、……!!』

 

『……』

 

首だけ動かし顔を俯かせる。滂沱が溶かす血は薄汚れた前髪を肌に貼りつかせていた。

シルは何も言わず、その顔を覆い隠すように、胸の中に抱いた。

 

 

 

遥かに過ぎ去った時、誰の耳目も届かない場所で、その出会いはあったのだ。

 

 

 

 

 

--

 

 

青く降り注ぐ月影の波は、乾いた下水道跡に命を与える水流のようにベルは思った。闇は、いつの間に退けられていたのだろうか。

安らかな双眸の色は、向き合う者の目に映る光景すべてまで溶けていったかのような錯覚をすら呼び起こしていた。

 

「名前……言っで、無がっだ、な」

 

立ち上がった男は、突っ張った口を開いた。

互い、他者には決して踏み込んでは欲しくないと願う略歴を語り聞かせ合った。その出逢いから、一夜も経たぬうちに命を預け合う約定まで交わしたのに、二人は名乗ってすらいなかった。

 

「アルゴス、だ」

 

草木も眠る刻にあって、地上の声の届かぬ場所でベルはその名を心に刻んだ。

何処からか流れ込む夜風の残滓がベルの頬を撫でた。

 

「ベル。ベル・クラネル……です」

 

小さな少年と、巨躯の異形は、この時、ともに力を合わせ迷宮に挑む者とする事を選んだのだ。

互いに、打算は確かにあった。

けれども、かれらにその決断をさせたのは、もっと、人間として、生きとし生けるものとしての、根源的な衝動だった。

それは、多くの災難の中を歩いてきたかれらを今日この日まで生かしていた、確かに存在するものだった。

 

 

 

希望という、遠い昔、何処かの誰かがこの世界に残した、弱き者が生きる為の、たった一つの力だった。

 

 

 

--

 

 

 

 

ロキは近頃、忙しなく街中を歩きまわって、顔見知りにもそうでない者にもあれこれと聞き込みを続けていた。しかし、今日の予定は違う。

 

「あーもうあの娘達は。あんなデンジャラスな目に遭っといて、もう少し大人しくせんと思わんのかなあ、なあベート?」

 

「知るか」

 

ロキ・ファミリアの本拠地で、取り残されていた一人の『子供』に絡む主。

怪物祭で負った傷も、神の力を与えられた者にとっては、半日もあれば快癒するのも容易かった。まして彼女らの所属するロキ・ファミリアの有り余る財力を用いれば……。

すっかり壮健な身体に戻った姦しい『子供』達は、財布の中身とか、気分の問題とか、財布の中身とか、その他色々な事情により、団長・副団長もろとも迷宮探索へとしけ込んでいたのだ。

 

「……何の用だよ」

 

ベートの仏頂面は、仲良くしたい特定の人物からハブにされて拗ねているという理由もあったが、他の要因のほうが多分だった。そしてそれは、主の身体を突き動かすものと共通していた。

……人差し指を天頂へ向けるロキの返答など、ベートは予測済みだった。

 

「探偵ごっこ、しよ」

 

そう。本音を明かせば、ソファに寝っ転がる自分の顔を見下ろす主の意図を、ベートは全て知っているのだ。

怪物祭の日、街に現れたあの、見知らぬ巨大花への懸念である。

断る理由は何一つ無かった。誰かに引っ張られるのを嫌がる彼の性格にそぐわない提案であるという点以外、何一つ。

豪奢であまり統一性の無い内装が、にっこりと笑う主の後ろに見えた。つかみ所のなく、いつだって唐突な思いつきを欠かさない彼女の心を模したような設えは、眷属に対し無言で忠節を促しているようでもあった。

 

「くそっ」

 

ベートは、悪態をついて身を起こした。それに、ロキが抱きついた。

 

「んっふ。ええわあ、阿吽の呼吸ってヤツ。今、心が通じ合っとるわあ~」

 

「うぜぇ!離せ!あーっ、クソ!」

 

言わずとも要件をわかってくれる『子供』の心を知っているのは、その主も同じことだ。じゃれつく彼女の顔は、ベートの手のひらを押し付けられながらも、喜色を満面にしていた。

そこに、近付く影がひとつあった。どいつもこいつも出払ってがらんどうの黄昏の塔に残っていた冒険者は、一人ではなかった。

 

「ガレス?」

 

「儂もついていくぞ」

 

すっかり茂って髪と繋がった茶色い髭を撫でながら、筋骨逞しいドワーフの男は言う。

落ち着きのない娘達と一緒に出払ったフィンとリヴェリアに後を任されていたガレスの意思表示の意味を、ベートは理解した。目を合わせるまでもなく、ガレス自身も、主と後輩の同意を及び知る。

それを敢えて、きちんと口に出して確認するのは、何より堅実さと慎重さを是とする彼の性情ゆえである。

 

「あの巨大花の事じゃろ」

 

「そゆこと。ヨッシャ、イケメン二人に囲まれて心強いムードで、いざ行くとしよか」

 

ロキは、薄目を開いてガレスに答えると、さっさとベートから離れて、外出の準備に取り掛かるのだった。

ベートは如何ともし難いような顔で、主の背を見送る。それから、ガレスの顔を見る。

 

「なんじゃ、儂じゃ不満か?」

 

「ちげーよ、……」

 

怪物祭の日、あの巨大花と対峙し、それを片付けた三人のうち二人が、ここにいる。ベートには、今から行う事についての懸念などがあるわけではない。

ぶんむくれる獣人の青年を見てガレスは、少し笑った。

 

「わかっとる。何かわからん、気持ちの悪い感じが消えないんじゃろ。……それを今からとっちめに行く、それだけの事じゃ」

 

「……わかってるよ」

 

心の中を見透かされる嫌悪感も覚えなくなるだけの縁は、両者の間で確かに存在した。

溜息をついて立ち上がり、装いを改める後輩の姿を見ながら、ガレスは笑みを浮かべていた。

暫くしてから、黄昏の塔から人の気配は消えた。

 

 

 

--

 

 

 

 

三人は東のメインストリートを歩いていた。街は一見、平穏無事な営みを続け、賑やかな声で満ちているように思えるが、その裏に隠されている、張り詰めた冷たい猜疑の空気は、決して消えない。

例年にないアクシデントで死者を出した催しの影響がオラリオから拭い去られるには、もう少し時間がかかるだろう。

 

「調べるんじゃねーのかよっ」

 

「なんやあ、折角いい男二人に囲まれてん、ちょっと楽しんでもええやろ。なーガレス」

 

寄り道しまくりの買い食いしまくりの主に不平を垂れるベート。ロキの空気を読まない無邪気さとは、可愛い『子供』の慰問をも講じての振る舞いだと、ガレスにはわかっていた。差し出されたものを、遠慮なく手に取る。

 

「心にゆとりが無いベートには、ジャガ丸くん分けてあげんもーん」

 

「のお。勿体無い」

 

「要るかっ!」

 

騒ぐ三人は、向けられる視線も気にしない。オラリオ最強を冠する群団の二人の戦士と、その主の名をわからない人間は少なかった。

磨き上げられた足甲を長い脚にまとう、長身の獣人。精悍でありながらも僅かに幼さを残す顔つきは、贔屓目を抜いても道行く女達の意識を向けさせる凛然さを持っている。

かたや、腰の両側に片手斧を帯びた巨漢。すらりと伸びるプロポーションを持つ他二人と比べれば、横幅の大きさはより誇張されて見えたが、それが無用な脂肪の作る虚像などではないのは、整然と歩を進める太い足腰からして明らかである。

両者を従える細目の、軽口の絶えない美貌の女性こそ、あまねく英雄集うこの街の、更に一握りの高みに在る戦士を率いる神なのだ。

かれら自身の名の威容など欠片も纏わずに和気藹々と歓談の時間を過ごす輪に割り込む意気も、誰も持たない。

 

「さて、残る場所はこの先くらいではないかの」

 

主より賜った贈り物を腹に収めたガレスは、出し抜けに話題を放った。狭く、中天に日が輝く時間でも、仄暗い影に覆われた路地に通りかかったところだった。

 

「ん……」

 

ロキはベートを弄るのを止めて、曲りくねる道に足を踏み入れる。建造物に挟まれて、青空が高く見えた。三人は幅のない道を、期せず整列して歩を進めていく。

 

「ガネーシャの所の連中は遊んでやがるのかよ?」

 

「とりあえず、サルを逃した犯人は、突き止めたみたいやけど」

 

『子供』の皮肉に、招集で成された会話を思い出すロキ。意地悪な女神の企みを告げ口した後の顛末までは、己の関知するところではないと思った。

そんな事よりも、ずっと引っかかる案件の手がかりを探るのが、今日の目的なのだ。

 

「ま、いくらあの色きちがいでも、地上で出来る事なんか檻の鍵開けるくらいやって……おっと、今のオフレコな」

 

上体だけ振り向かせチョキチョキと指を開け閉めする主の姿を見て、その事実上のライバルという立ち位置にあるだろう女神の奔放さに、内心呆れる戦士二人。

ふと、ガレスは唐突に湧いた疑問を口にした。

 

「と言えば、その逃げた何某を斃したという子供は無事で済んだのか?ベート」

 

闘技場を襲った前代未聞の事態にすっかり覆い隠されてしまってはいるが、賑やかな街をかき回した騒動の一端に関わった者として気になるのは、奇妙な縁で以て今一度、ベートの前に姿を現したという少年の事である。

もっぱらファミリア内でも話題になるのが、剣姫の刃を歯牙にも掛けなかったという強敵の由来についてであるのは致し方のない事だったが、それ以上にベート自身があまり口を開きたがらない為に、顛末全てを知る者は少ない。

 

「……さあな。運が良けりゃ、生きてるんじゃねぇのか」

 

血糊の入ったバケツを被ったような化粧と、必死で立ち上がろうと震える手足、そして、消え入りそうな命のにおいを思い出して、ベートの心の奥で、何かがうずいた。ミノタウロス相手に一矢報いたというアイズの言を信じざるを得なかった光景は、未だ彼の心から消えなかった。

遥か強大な力を持つ相手に決して屈せぬ意思を顕にする姿へ、素直に賞賛の意を抱いたと述べるのは、なかなか難しい。それが、彼の口を固くさせる理由なのだった。

 

「ああ、その子なら、ちょっと前に復帰出来たみたいやな。まあ、以前と同じようにやれるかは、知らんけどな」

 

神の坐す地にあって傷めつけられた身体を治すことは出来ようが、欠けた心を直す奇跡までは、ロキも知らなかった。広いオラリオ探し回ればあるかもしれないが、果たしてあのちっこいツインテールの女神が辿り着ける場所かどうか……。

 

「ふん。怖えのが嫌なら、とっととやめちまえばいいんだよ」

 

意地っ張りな性情が、自然とベートの口を尖らせた。平常運転な憎まれ口には、ロキも肩をすくめるだけだった。

尤も、反論しようと思わないのは、ガレスも同様だった。冒険者として古参も古参であるドワーフの戦士は、この地を去る者を見送った回数を覚えていない。

命を拾われただけの幸運を祝福出来ても、その後の進退について、個人の選択に口を出す気も、起こらなかった。

 

「また、何か縁があれば良いがな」

 

会話が終わった頃に路地は突き当たる。そこにある石造りの小屋は、囲むガラクタとともに、街の誰からも見放されたような孤独を漂わせていた。

ロキが鍵のない鉄の把手を引くと、厚い木板に隠されていた螺旋階段の入り口が見えた。

 

「さあさあ……開けて仰天玉手箱か、またまたスカか、どっちやろな?」

 

口角を吊り上げるロキ。地下へ続く道を降りていく一行。

 

「なんじゃ、タマテバコとは?」

 

「知らんの?タケミカヅチの故郷に、そんな怖い話があってな。恐ろしい怪物に連れ去られた男が、冥府の女王に囚われて幾星霜……」

 

ふたりの会話を聞き流すベートは、薄暗い階段の奥から染み出す水音に対し、毛だらけの耳を立てるだけだ。六つの靴底と石床のつくる不規則な音響は、闇の底へと到達しても絶えなかった。

 

「備えあれば嬉しいねえ、っつって……」

 

ロキの軽口も、果ての見えない洞の中に消えた。山彦は無機質な足音と、遠くから届く無数の水飛沫の声でかき消される。

神の手の中にある魔石灯の光が、暗い下水道を歩く三つの影を揺らしている。……ずっと、硬い足音と、淀んだ空気を伝わる低い水音だけが、そこに響いていたのだ。

街の地下に張り巡らされた人造の迷路では、不自然と言わねばならない事だった。

 

「そうなん?」

 

「……汽水湖から遡ってここに住み着いてる筈の連中が、居ない。まるで……」

 

水路は広い石床の道の真ん中を刳るように造られており、眷属は水路側を歩いて主を守っていた。水に潜む、あまり友好的でない魚介類の襲撃に備えるために。

しかし、その徴候はとんと見られなかった。灯りによって水の中に見えるのは、浄水用の魔石だけだった。

既にガレスとベートの顔は、不測の事態を待ち引き締まっている冒険者のそれであった。

 

「逃げ出したか」

 

「……」

 

二人の鋭い眼差しは、闇の奥へと向けられた。ざあざあと流れる水の音は、地下道に潜む邪悪な何者かの呼び声にも思えた。

張り詰める空気に当てられ、ロキは静かに確信めいた予感を抱いた。

当たりは近いと。

 

 

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・ディオスクロイ
アセンションに登場。いわゆるシャム双生児(モリオネが元ネタか?)。GOWではすげえ仲悪いけどダンまちではきっと違うのさ、多分、おそらく……そういう設定という事でよろしくお願いします。
実際に出ちゃったらどうするって?あ~聞こえんな!

・アルゴスの外見
都合上エレファントマンもどきに留まっているけど、ホントは全身目玉だらけ。テラトマ?
原典では「巨人」だが、別にタイタン族とかそーゆー血筋ではない辺り、元になった人物が存在したのかもしれない。

・螺旋階段
いつものアレ。


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