眷属の夢 -familiar vision   作:アォン

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「シルバーバックこんなに大きくなくない?」
ノリで書き終えて気付いたけどもう直せない 許してチョーネンテン
アセンションのジャガノよりちょっと小さめサイズって事で……




シルバーバックミニゲーム

(……バカな人ですね)

 

道路の端で一連の流れを見守っていたリリは心底そう思う。あの状況でみずから盾になる事を選ぶのは人として立派なものだが――――愚かだ。

冒険者なのだろう。

彼が自分の素性について概ねの見当をつけていたら、あの聖人じみた判断をしたかどうか怪しいものだ、とさえ思うリリだった。あそこで使い捨てのサポーターを盾にして逃げる事をしなかったのは、彼が常識知らずのバカか、それとも底抜けにお人好しなバカかのどちらかなのだ。

自分の頭上を飛び越えて屋台に落ちる姿を確認するより前に、リリは全力でシルバーバックの前を横切ってその視界から消えるよう努めた。その試みは功を奏し、今、間抜けな新米冒険者は、逃れられぬ死の運命に驀進している。

 

(……もしくは、とんでもない不運か……まあ、過程はどうあれ、よくある出来事ですね)

 

おそらくは怪物祭のメインイベント会場から逃げ出してきたのであろう、レベル2相当の怪物に目をつけられた不運。その瞬間に、名も知らぬ少年の運命は決まっていたのだろうと思う。それは地上にあっては類稀な不運ではあるが、冒険者の主な活動場所においてはありふれた光景だった。

まさか、こんな相手が、こんなに沢山、こんな所に…………すべては生への執念を欠いた者達の断末魔だ。

 

(それは私も同じようなものですか、全く……)

 

リリは憮然として目を細め、背嚢や衣服のポケット、腰袋からこぼれ、道路に散らばってしまったものを見回す。釣り糸、ピック、鉄球、ヤスリ、鋏……金品は守れたが、細かい道具が多いのは舌打ちを誘う事実だった。余計な出費など彼女の望むところではない。

どうにか、おっかない奴の目を逃れて回収してしまいたいところだ。依然としてシルバーバックが死にかけている囮だけを見ているのは、リリにとっての幸運だった。血反吐で石畳を汚す少年に対し、心の中で罵倒と冷笑を捧げる。お前がこんな所に来たせいで、余計な気苦労だ。しかしそうやって釘付けにしてくれているのは有難い事ですよ、と。

 

(……)

 

同時に、自分の前に立つ背中の事も思い出す。嫌な感情が生まれるのをリリは抑えた。不要なものだった。彼女が生まれて、育てられて、ここまで生きてくるのに、最も不快で無意味な感情だった。

 

(あなたもこんな災難に遭わなければ、いずれは……)

 

そこまで考えた瞬間に思考を打ち切るリリ。くだらない感傷だった。どんな冒険者も同じだ。それはいちいち、確認する必要など無いのだ。無知や気まぐれの善意に縋る純真さはもう、彼女の中に残っていなかった。

少年の声も、姿も、無いものとして、リリは音もなくシルバーバックの死角に転がる落し物に近寄った。

最初の遺失物に手を伸ばす。磁石だった。

さっさと回収して、今日は帰ろう。

そう思いながら、彼女の指が、磁石に触れた。

 

「――――!?!」

 

その時、空気が変質したのをリリの鋭敏な生存本能が感じ取る。ざわわっ、と後ろ髪が撫で上げられるような不快感が走ったのだ。

中腰の状態で、リリは振り返った。

信じられない光景はそこに存在した。

左腕を、シルバーバックの右手首の枷と鎖で繋いだまま、右手に短刀を逆手持ちに構える、少年の姿。

彼は両足の裏をしっかりと地に押し付けて、まるで、鎖の先にある巨体を従えようという傲慢さすら体現したかのように悠然と直立していた。

それは間違いなく、彼が睨みつける存在を倒す事だけを考えている姿だと、リリは一目で理解した。

その、シルバーバックの股越しからでもハッキリと見える、真っ赤に燃える双眸を見るにつけ……。

 

(……あの状態から、立ち上がるなんて……!?……あれは)

 

少年の足元に転がる、空のガラス管を見る。魔法薬……もちろん、リリのものではないという事は見ればわかる。あんな重体からも一本で立ち直れるとは、相当の品と見えるが、しかし……。

 

(それだけじゃ、ない?……)

 

一瞬の対面で見た、如何にも朴訥そうな作りの顔の面影すら消えているのに違和感を覚えた。驚愕の表情の中に残っていた、生命の危機に対する恐怖も、もう彼の顔には存在しない。

下がった口角と吊り上がった眦を持つ凶相はただ、征服と蹂躙を求める闘争本能だけを顕にしている。

一つの推論がリリの頭に浮かんだ。

 

(……キマっちゃうタイプの魔法薬、ですか)

 

一時の力と引き換えに、判断力と痛覚を鈍らせる昂揚成分を含む代物は、確かに存在する。激しい破壊衝動を引き出して前衛の能力を大幅に高める効果は、確かに状況によっては危機を脱するのにこれ以上無く頼りになるかもしれない。

だが、それは、効果が切れたその後の安全が担保されていればこその話だ。

彼の場合は?

……確かに、本来、あの怪物を相手にするべき者達がここに来るまで生き延びられれば、それで良いのだろうが……。

リリが思い返すのは半死半生どころか、痙攣しながら血を吐く、九割は死んでいた少年の姿だ。かりそめの闘争本能は或いは、僅かな生命力を薪にした、消え行く灯火の最後の輝きにも思えた。

 

(ま、好きにしてください)

 

顔を背ける。

リリにとっては、全てが他人事だった。

……彼女の認識が変わるには、まだ少し、時間が必要だった。

ほんの少しの時間が。

 

 

--

 

 

 

シルバーバックは覚えのある感情に戸惑いを隠せない。そう眼前で佇む小さな人間から発せられ、猛烈に吹き荒ぶ嵐のように自分の巨体を呑み込みつつあるものに対し…………それを、恐怖と理解するにはあまりにも、怪物には謙虚さが足りない。

理解するわけにはいかないのだ。自分こそが狩人であり、鎖で繋がれたのは、小便を漏らして逃げ惑うしか出来ない供物なのに決まっているのだから。

しかし、それを愚者の傲慢と断ずるかのように、右手首は全く動かない。大陸を引きずろうかという無謀さすらも呼び起こす剛力が、あの小さな身体の、左腕一本によって発揮されているなどと、容易く受け入れられなかった。

犬歯を剥き出しにして、額に血管を浮かせる怒責の表情を浮かべるシルバーバック。右手を鉄塊のように固く握り締めて、下肢の筋肉を膨らませる。

 

「ンンッ、ッッガアアアアァァアアアァッ!!!!」

 

「……~~~~!!

 

半歩、人間の身体が滑る。掛け声を伴う全力の綱引きの成果はそれだけだ。いよいよ黒い顔面を赤熱させようかという屈辱が、シルバーバックの表情を満たし、そして次の瞬間、それは驚愕へと変貌する。

人間は左腕の鎖を握り直し、一気に上体をひねった。

 

「っ、ふッンっ!!」

 

「ッガ!ウヴグッ……!!?」

 

大猿が半歩、引き戻された。十数倍もの差はあろう質量を、腕一本の力で制する、信じがたい光景。目を剥く大猿は、その衝撃を更なる憤怒で上書きする。

たかが、人間が、と。

大岩の連なったような猛りが浮かぶ腕でもう一本、鎖を掴むという判断こそ、自分がその、『たかが』人間ごとき相手と互角程度の膂力しか持たないのだという証左だということすら、もはやシルバーバックには気付けない。

彼が思うのは、ついさっきまでは踏み潰されて自分を喜ばす以外に出来る事の無かった筈の獲物の身体を再び空に舞わせ、地に臥させた無防備な五体を引き千切ってやろうという残虐な欲望だけだ。

味わわされた千の屈辱など、そいつの命を使えば如何様にも贖わせられるのだから。

 

「ン゙オ゙オ゙オオオオオオオオオオオオオッ!!!!」

 

根っこがわを右手で握り、添えた左手は固く鎖を掴む。腰を思い切り、ひねる。一切の容赦もない、全身を使った全力の引きとともに、肺腑に残る全ての空気をシルバーバックは吐き出す。

勝つ。そして、殺す、必ず、再び地に寝転がらせたあの貧弱な五体を踏み潰し、細切れに引き千切ってやる。

底知れぬ憤怒が、迷宮で生まれ落ちて以来発揮する、最大の力を生む。石畳に罅を入れるほどの踏み込みを以って。

後ろ向きになった上半身を屈めて数秒。ず、ず、ず、と、断続的な感触が鎖から両手に伝わる……それが、大猿に最後の一引きを決断させたのだ。

 

「ーーーーーーーーフッッンン゙ン゙ッッ!!」

 

シルバーバックの想いは結実する。愚か者は遂に抵抗を諦めたのか、手首に感じる反発が一気に消えた。砕けそうになるほど張り詰めていた鎖の反動が、人間の身体を跳ね上げたのだ。歓喜とともに姿勢を戻しつつ、シルバーバックは、期待に胸を躍らせていた。力負けした悔しさに顔を歪ませ、為す術無くその身を宙に投げ出す獲物の姿を夢想して……。

 

「――――ッッグッ!?」

 

その瞬間、左目の光が永遠に奪われる事など、露ほども思わずに。

残された右側の視界は、顔面に取り付いた――――その目には突如、瞬間移動して来たようにしか見えなかったが――――人間の、血まみれになり、あちこち破れた防護服と、自分の物に比べればそれこそ小枝のような細い腕、そして……深く眉間に谷を作る、何もかもを射殺すのを望む鏃の如き、鋭い眼差しが、映っていた。

次いで、前髪を掴む小さな左手が白むのを、確かに見た。左肩を踏むそいつの足裏が、より強く押し付けられたのも。

 

「ッ、あああぁっ!!」

 

「ギッ…………!!!!」

 

掛け声を上げる人間の顔が、噴き出す血で赤く染まった。引き抜いた短刀は赤い飛沫で尾を作る……大猿の左目を刺し貫いた凶刃が、陽を浴び、禍々しい残光を纏っていた。

立ち所に、灼熱はシルバーバックの左目のあった箇所を支配した。

 

「ア゙ッア゙ア゙ア゙ッ……!!」

 

「せッ、ああああああーーーーーッ!!」

 

少年はもう一度、振り下ろす。

柄まで眼孔に埋まる程の渾身の一刺しは、左手に掴む毛をむしり取りそうな程に握り引き寄せる事との相乗効果が成さしめた、会心の一撃だった。

再び、新たな切れ目を深々と刻まれた眼球からは、大量の血液と硝子体が飛び出す。

真っ赤な噴水が石畳に降り注いだ。

 

「ッッッッ!!!!」

 

「ぐッ!!」

 

かつてない痛みに絶叫を発しそうになるのを抑えるシルバーバックの根性は大したものだった。それどころか、即座に、その痛みをもたらした者を捕らえようと左手を顔面に向かわせる判断力を過ちと断ずるのは、全てを見通す超越者の傲慢だ。

そう、声を上げてその巨大な手の中に収まった者は、その大猿が屠ってきたどんな人間とも違うのだ。瞬時に、その時とるべき最適な行動を見抜き、躊躇いなく実行し勝利への道筋を切り拓く力を持つ……知性という武器を極限まで研ぎ澄ましたうえで、その攻撃本能を振るうことに一切の妥協をしない、完成された戦士、なのだ。

枷から繋がる鎖は、左手の握力を発揮させるのを僅かな暇、妨げる。それすらも、この手の中にある人間の狙いだったのか否か、シルバーバックはそんな疑問すら抱かなかった。しょせんは、獣に過ぎないのだ。迷宮から生み出され、目につく弱者を蹂躙することしか能のない……。

そして、少年にとっては、その一秒にも満たない手間取りこそ、この戒めを解き放つ為に必要な、充分すぎる空隙だった。

胴ごと掴まれるのを免れた右手を振り上げ、短刀は体毛が途切れ、大猿の薄い皮膚がむき出しになっている親指の付け根を穿つ――――根本まで、深く。

 

「ッギャアッ!!」

 

「おおおおおおおッ!!!」

 

悲鳴に構わず引き抜く。もう一度、振り下ろした。

シルバーバックの血潮は少年の顔を更に赤く塗りたくる。生臭く香る化粧はむしろ、ベルの闘争心を更に煽る。足りない。まだ足りない、と。

もはや、狩る者と狩られる者の関係は逆転しつつあるとすら、その光景を見守る者達は錯覚する。

 

「あああああああッ!!!」

 

「ギッアアアアアアーーーーーーッ!!!」

 

振り下ろす、引き抜く、振り下ろす、引き抜く、振り下ろす、引き抜く。

幾度も繰り返される激痛は遂に、シルバーバックの手のひらからベルの身体を解き放った。彼の両足は再び石畳を踏みしめる。

しかし左手から噴き出す血にいつまでも怪物の意識は向かなかった。まだ、その全身を満たす闘争本能は衰えてなどいない――――どころか、更にその貌は険しく、怒りに満ちる。

人間が、ただの、人間が……自分に、手傷を負わせた。

許しがたい事実だった。

 

「ッオ゙オ゙オ゙オ゙ーーーーーーーーーッッ!!!!」

 

持ち上がった足裏は、人間ひとり分など容易く包み込む影となって、ベルの身体を覆い隠した。もう、嬲り殺すための余興などシルバーバックの望みではない。こいつを殺す、絶対に殺す。小さな生き物を道路を飾る血肉の染みにする感触だけを夢想してその左足を振り下ろす大猿。

だがそれこそ、片目を失った事による遠近感の欠如が生んだ致命的な判断ミスなのだ。赤く汚れた白い髪は、石畳を踏みしめようとする槌から容易く逃れた。

傍らでそれを驚嘆しながら見守っていたリリの身体を跳ねさせる衝撃は、ベルの望んだ好機に他ならない。紙一重で掠めた踵に向かって、両手に握った短刀を突き立てる。やはりそこは毛の無い、剥き出しの肌だ。並の業物など弾くだろう銀の毛皮も、存在しない。

 

「グギイッ!!」

 

深々と突き刺さり、柄だけになった短刀を握る両手に更なる力を込める。

ベルは背を伸ばし、渾身の勢いで、地に向かって肩口と腰の筋肉を弾けさせた。

 

「ンンンッッ!!」

 

「ッッギ、グギャアア!!!!」

 

巨大な切創となった刃の痕から、また血が噴き出す。遥かな英雄の名に由来する、直立哺乳類共通の弱点にも届くであろう無惨な傷を生み出された痛みは悲鳴となって街の一角を覆った。

片足の機能を事実上半減させられたシルバーバックは、それでもまだ、怒りに任せて肉体を稼働させる。それこそが獣の強みであり弱みでもあると、一流の冒険者ならば常識として理解する。だが今の彼が相手にするのは、そんな枠組みなど関係ない、別次元の存在なのだと、誰が知りうるだろう?

右足を大きく踏み出し腰をひねって、背後に未だ佇むベル目掛けて右手を振る。瞬時の判断から繰り出されたその平手から逃れるには、少年の力量はあと一歩のところで足りなかった。左脚の後ろへと振り抜かれた掌底は、確かに、シルバーバックの目論見通り、怨敵を直撃した。そう、確かに、その肉厚の手のひらは、ベルの身体を正確に捉えていたのだ。回避の意思など全く持たない少年の身体を。

 

「ッッギャッ……!?」

 

「……ッ!!」

 

両手に握る刃が、大猿の肩の振りをそのまま刺突する為のエネルギーに変換し、黒い肌で覆われた右掌に突き刺さっている。全身の筋肉を使うのを怠った、攻撃とすら呼べない反射的な行動は完全に、見抜かれていたのだ。そう、先の戦いで受けた不意打ちを、ベルは忘れてなどいなかった。下肢を使わぬ苦し紛れの抵抗を受け止め、逆撃の一手に利用する判断の正しさは、巨大な手のひらに深々と突き刺さる刀身が証明していた。

目を剥くシルバーバックの間抜け面など委細構わず、少年の双眸はかっと開かれる。全身を使わなかった一撃とはいえ、巨体の膂力を直撃した小さな身体が悲鳴を上げる。しかし、今の彼は、そんな事に気を遣う繊細さなど持たない。

彼が今手に掛ける獣と、全く等しく。

 

「せっああああッ!!」

 

両手の肘と肩は再び硬くこわばり、その本領を発揮する。ベルの体内で炸裂した筋肉の反射が、シルバーバックの右掌に、縦の一文字の切創を生み出した――――深々と刻まれ、その握力を奪うには、充分すぎるほどの。

 

「ギェエエエエエッ!!」

 

またしても。

矮小な、自分に屠られるだけの運命を持つはずの存在に彼は、幾度目の逆襲を受けたのか?それを数えるほどの冷静さなどシルバーバックは持たない。そんなものを備えていれば、彼はとっくにこの場を離れる算段を巡らせている。

片目、左手、左足、右手。何れも手痛く食らわされた反撃は浅くない。それでも、怒りに目を曇らせた怪物は、自分を突き動かす衝動をぶつけることだけを求めて、少年に牙を剥く。知性も理性も持たぬ恐ろしさは今こそ、ベルにとってかつてない強敵を討ち滅ぼす為の弱点となって顕となっていた。

どこまでも澄み渡ったベルの赤い瞳は、次に狙うべき箇所を既に見定めている――――その、振り上げられ、思い切り引かれた、右腕の肩口を。

 

「ン゙ヌ゙ゥッ!!」

 

強靭な喉をひりつかせる声は大猿の硬く閉じた口の隙間から漏れる。

瞬間、ベルは地を蹴った。それは、先において怒りに支配され思考を放棄した怪物が没頭した綱引きの終わりに見せた動きと同じだった。大猿の凄まじい膂力を使った、瞬間的な吶喊。跳躍による左目への一撃の正体だ。

 

「ッギヒッ!」

 

かかった!と、シルバーバックは胸中舌なめずりをする。手傷の存在はあれど、右肩の力を加減したのは、引き寄せた標的をその反動で殴り返そうという企みによる判断だ。羽根もなく足を地から離れさせた者に、握り締めた己の拳を避けうる手段など持たない筈であると。

僅かなスウェーに留まった上体の揺れ戻しとともに、渾身の正拳突きを放つ。釣り上げた雑魚の内臓を今度こそ、完膚なきまでに叩き潰す為に。或いは、頭蓋を砕き、脳髄をまき散らさせる為に。

……この時まで怒涛の連撃を叩き込まれた大猿の、相手の力を大きく見誤った一手は、これが最後となったのである。

刃を通さない剛毛に覆われた拳骨と、右手に握る牙を振りかざす人影が交差する――――瞬間。

火花が生まれた。

 

「なっ……!」

 

一連の剣舞に目を奪われていたリリはその絶技に言葉を失う。その少年は、姿勢もロクに整えられようはずもない空中で、凄まじい相対速度を誇る致死の一発を短刀一本で受け流し、自らの跳躍軌道を逸らす事に成功したのだ。

幾層にも重なった、毛皮という天然の鎧をなぞる刃は表面を擦り切らせ、微小な破片が高熱を帯びて飛び散る。その光が、空を切る拳に困惑するシルバーバックの目を一瞬だけ、釘付けにした。右手の鎖の先にあるものを失念させて。

刃で拳を受けた衝撃はベルの身体を更にもう一段跳ね上げ、伸ばされた白銀の大腕を掠めて飛ばす。そして彼は真紅の瞳でその場所を認めると同時に左手を伸ばした……その部分を掴むために。

開かれた肩口の後ろに取り付いた少年は、左手だけで背中にぶら下がり、その場所を睨みつける。碌な体毛も無い、薄い皮膚しか妨げるものを持たない、腋の下。

シルバーバックが理解した時には、全てが遅すぎた。

左手を使って少年は全身を揺らし、その反動を右手に乗せて、突き刺す。二足歩行哺乳類の急所へと。

 

「ッッ、っハアアああッ!!!」

 

「ッッッッ!!!!」

 

いよいよその激痛はシルバーバックの声を奪った。神経の集中する明確な急所を貫かれた事で、歯は砕きそうに噛み締められ、眼球を飛び出させそうな程に瞼はぎりぎりと広がる。

そして当然、その一撃だけでは終わらないという事をシルバーバックは知っていた。しかし全身を走る痛覚が、彼の抵抗を封じる。まるで、絡み付く鎖のように。

突き刺さしたままの短刀に左手まで預け、両足でシルバーバックの胴体を挟んだベルは、肺を膨らませてから両腕に渾身の力を込め――――

 

「フッッ!!!!」

 

一気に、裂いた。

 

「ン゙ギィィア゙ア゙ア゙ァァァア゙ァァァァァア゙ア゙゙アアアアアーーーーーーーーッッ!!!!」

 

大量の漿液節と血管、そして神経節を一息にぶった切られた衝撃を受けてすら失神を免れた大猿の精神力は驚嘆されるべきと言えた。しかし、大口を上げたその姿を見て哀れみこそすれ、賞賛の言葉を送る者など居はしないだろう。

切り裂かれた動脈から真っ赤な血が、凄まじい勢いで噴き出していた。右腋を全開にしたままのシルバーバックは、苦痛の雄叫びを堪えることなどしなかった。

末端部分を抉る刃の味がいずれも浅かったなどとは彼も思わない。しかし、桁が違った。右目を貫かれた時をもはるかに超越する、耐え難い痛みだった。それは大猿の戦意を著しく削ぐだけに留まらず、尋常ならざる出血量からして、生命機能に重篤な障害をもたらすほどの深手でもあるのは明白だ。

開いた傷を脇腹に至らせるよりも先に短刀がすっぽ抜け、怪物の身体から振り落とされて石畳に立つ形となったベル。左手で致命傷を抑える敵へ向ける眼差しの鋭さは、全く緩まない。手心も、油断も、優越も、その瞳には存在しない。

左腕の鎖がとっくに服を破り、皮を切り裂き肉まで食い込んでいるのがリリの目に見えた。鎖を伝ってぽたぽたと赤いしずくが落ちる痛ましさも、少年の纏う殺気にかき消され、その凄絶な威容を強調するだけに思えた。

真っ赤な短刀を握り腰を深く落として、真正面でもがき苦しむ怪物――――否、獲物――――に対して、その命脈を完全に断つ為の機を伺う背を前にしたリリは、とっくに彼に対する認識を修正していた。それも、大幅に。

 

(キマってるだけで、こんな動きが出来る筈が無い!)

 

一方的にいたぶられるだけだった少年に対し、無謀と紙一重、神がかりとしか言いようのない巧みな戦術をとらせるのは、薬物による破壊衝動の増幅効果だけでは到底不可能だ。もしそうであれば、こうまで的確にシルバーバックの弱点を狙った戦い方など決して出来ない。ただ正面から、相手の攻撃を避ける事などせずに蛮勇を示し、そして即行で死んでいただろう。

さもなくば、と考えれば、その可能性は一つとの結論へとしか行き着かない……神の刻印によって目覚めた異能の技と。

見るからにお粗末な装備からしても、明らかにレベル1と思われる冒険者だ。狩る者と狩られる者の関係を完全に逆転させた今の状況を作り出せるほどの、十把一絡げの冒険者に与えられたものとは格の違う、底知れぬ奇跡の顕現としかリリには思えない。

いつの間にかその、どこまでも凄惨でありながらも荒々しく、雄々しき奮戦ぶりに自分が魅入られているのだと彼女は自覚すら出来なかった。道路のそこかしこに未だ放置されている小道具達の事も忘れて、両者からほど離れた位置で逃げ腰を保ちつつ、固唾を呑んで見守るリリ。それは、安全を確保している位置に集まる者達とも共通する心情だ。

或いは遠目にあってこそ、少年の残虐さは力強さに映り、己が身を省みる意思の欠如は勇猛さを極めた戦士の心意気と見紛うものなのだろうか?

それとも彼らは――――リリも含めて――――この戦いを、自分達とは隔絶した場所で行われている見世物とすら思う向きも、果たして芥ほども無かったと言えただろうか。

ともかく、やっと右肩を下げて、呼吸を整え始めたシルバーバックの表情は、既にその闘争心を恐怖の色で塗り潰されていた。そう、左目と右半身の攻撃力を失った彼は、立ちはだかる相手との明確な戦力差を遂に理解したのだ。

 

「……ッ、イ゙ッ、ギギィッ!」

 

腰を落として自分を見つめる小さな身体を覆う、黒い、大きな、禍々しい何かをシルバーバックは幻視した。血よりも赤く滾る獄炎を双眸に宿し、この世の全てに対する怒りを発しているようにすら思える凶相こそ、大猿の心に牙を突き立てようとする恐怖の正体だ。

巨体は後ずさり、踵を返そうとまで試みて、その身体をひねる。

 

「ッフンッ!!」

 

「アギャアッ!」

 

それは、ベルの一息とともに成した動作で阻まれた。鎖で繋がる右手首をグンッ、と引かれただけで、大猿は無様に尻もちをついた。もはや、人間一人の膂力に対し踏ん張る事も覚束ないのだ。

ざ、と足を踏み出す音に首を振り向かせる。

 

「……」

 

「ヒッイ、イ゙イ゙ィッ!」

 

獲物の血で全身を彩って、一切の慈悲も持たぬ眼差しを差し向けてくる処刑人を相手に、へたり込んだ腰を持ち上げる事もせず左手で石畳を擦って逃げようとするシルバーバック。全身から流れる血が、ずり下がる身体によって道路に奇妙な模様を作る。

目を疑う光景と言わねばならなかった。しかし、誰もが受け入れざるをえない事実は、そこに存在していた。レベル2相当のモンスターを、屠殺から逃れようと足掻く家畜の姿に変えてしまう少年の姿は……。

決着は、今まで何とか目を見張って視線を外せなかった者達でも、顔を背けるのを避けられない無慈悲さに満ちたものとなるに違いなかった。

――――そう、やはり彼らはこの戦いを、自分達の身の危険を及ぼす事象と捉えていなかったのだ。

その時まで。

 

「――――!?」

 

……祭りの熱に浮かされた者達の失念は、唐突に打ち砕かれる事となるのだ。それを成す存在の鼓動を、リリは感じた。……音がする。何処からか……。はっ、と、少年と怪物から目を離す。左右。前後。空。

違う、地鳴りだ。

それは、確かに自分の足の下から響いている。仄かな揺れは、未だに健在である道路脇の屋台の骨を確かに揺らしている……。

何かが、石畳の下に、居るのだ。

彼女の視線が足元に降ろされていたのはほんの僅かな時間だけだった。

 

「っっ……うわああああーーーーーーーっ!!」

 

何処ぞの誰かの悲鳴を皮切りに、破砕音が続々と生まれ、心の何処かで第三者を気取っていた者達は一斉に絶叫してていた。身に迫る危機を知った人々はいよいよ本気でこの一帯からの逃走を図る。

ずっと遠くですら蜘蛛の子を散らすような有り様のかれらの中心で、リリは絶望に顔色を無くした。大通りを覆う石畳を突き破って次々に『生える』何か。

その中でも一際巨大な一本は、彼女と少年の間に屹立していた。

人間の胴体よりも二回りは太く、天に延びる柱に似たシルエットは土煙の中でも明らかだが、それはどう考えたってこの街に備え付けられた何らかの防災設備であるなどと思い到れるはずがない。

それらは風もなく撓り、頭を垂れる。砂の帳を破ってリリの眼前に現れた、僅かに膨らんで尖った先端部分。……蛇の鎌首か、とまず連想する。しかし次の瞬間、リリは自分の予想が外れた事を知った。

五条の切れ目が、蛇の頭に走り、開いた。

 

「ひいいっ!?」

 

咄嗟に後ろに飛び退いて、その顎をやり過ごすリリ。それは、蛇ではない。開かれた口は極彩色の口唇を五ツ又にめくれ上がらせ、中心部には人間の歯茎を歪に象り巨大化させた捕食器官が備え付けられている。

花、だ。その花冠の奥には、人間一人ぶんは余裕で通行できる広さの大穴が、見える。

鋭い牙を目一杯に開かせる悪趣味な巨大植物は、粘着く液体を口腔から滴らせ、ホビットの少女にまたしても襲い掛かる。

 

「こ、この!!」

 

我が身に襲い掛かる突如の災厄に対し、リリは狼狽する事などとっくに止めていた。とはいえ、威勢の良い声色に対してやる事は、とにかくこの場から離れる為に全力を尽くす事だけなのだが。

見るからに、リリはこの正体不明の盲蛇達が、身を突き破らせた石畳の痕から移動できない事くらいは理解できる。だったらコイツの牙が届かない場所まで退散すればいいだけだ。その牙が再び振るわれるのを待たず、踵を返し走り出そうとする。

だが、彼女の不幸もそこそこに、大猿と戦う羽目になった駆け出し冒険者にも迫るかもしれないくらいには、深刻だった。

 

「……ウソ、ですよね?」

 

進行方向には、行く手を阻むように立ち昇る黄緑色の竿だらけ。花を咲かせる茎よりはずいぶん細く見えるが……その分析も最後までさせないスピードで、リリにほど近い触腕の一本が横薙ぎに振られた。

 

「っほおっ!?」

 

素っ頓狂な声が、思い切り腰を屈めた拍子に漏れた。フードをめくる一撃に直撃すればただでは済まないだろう。おまけにこの数だ……倒れたら最後、五体を締め上げる鞭は立ち所に群がり、ホビットの身体一つなど容易く引きちぎる事だろう。

 

(あああ!さっさと逃げれば良かった!)

 

歯噛みし、悪態を押し殺して、リリはいざ、伝家の宝刀を抜くしかないと判断する。コートの裏に縫い付けた鞘から取り出す一振りのナイフ。目を引く紅色の刀身を持つそれは、何も知らなければ単なる宝飾品との区別もつかないかもしれない。

だが真の使い途を知れば、その価値は同じ重さの金でも代え難いものと知るはずだ。

 

「は!」

 

振ったナイフから火炎が放たれる。彼女が携えるのは、尋常の鍛造術の枠を逸する異能により生み出された、魔法の武器……いわゆる魔剣だ。持つ者の意思ひとつによりノータイムで放たれる範囲攻撃は、故あって単独行動する機会の多いリリにとっては最後まで残したい奥の手である。

だがそれは今こそ惜しむべきではないと彼女は判断した。炎は行く手を阻む一本の蔓を舐め、その動きを鈍らせる。

流石に一撃で焼き尽くすのは叶わないだろうと予めふんでいた彼女にとっては、それで充分だった。建造物の小さな隙間に潜り込めれば、あとはそのまま、コイツらの手の届かない所までおさらばだ。

落とし物の回収などもはや眼中にない。幾ばくかの金品の詰まった背嚢も命には代えられずに投げ捨てる。蔓の余熱を身を包むコートで耐え、真横を突っ切るリリ。

目指す横道まであと三歩、二歩……。

それは彼女にとってかつてなく長い距離の危地だった。

……彼女の力量で太刀打ち出来る難易度を容易く上回るほどに。

 

「がうっ!?!」

 

最後の一歩を踏みだそうとする右足は、持ち主の敏捷ではどう足掻いても逃れられない蔓の一振りに絡め取られる。倒れ、顎を地面に打つリリ。次いで、左足首に更なる拘束が果たされた。

 

「あああっ!」

 

一気に、全身が持ち上げられるのを理解する。掴んでくれたのが両足だったのは、巨大花の慈悲であろうか?だが逆さ吊りにされたリリは最悪の想像図を思い浮かべる。そのまま、あの真っ黒い口腔の上まで持って行かれてから放り出され、自分の脳天を噛み砕く花冠の顎の動きを……。

 

「いやあああああっ!!」

 

畏れ慄いて必死に身体をくねらせて脱出しようとするが、がっちりと巻き付いた両足首の蔓は緩まるどころか、その力をどんどん強める。表皮に生える鋭い棘は、リリの足首を更に抉り、圧力とは別の痛みをリリに気づかせた。足から脛、太ももを伝って、首まで垂れてくる血を見れば、更に彼女の苦痛は煽られる。

 

「痛つううっ……、糞、このっ……、あ!?」

 

顔を歪めるリリに更なる責め苦の手は止まらなかった。蔓はまた一本、二本、三本と増え、右腕、左腕、胴体に巻き付く。少女の顔は蒼白に染まった、我が身に襲い掛かる災厄の重さに。

荊鞭はホビットの細い肢体を、一斉に締め上げる。

 

「ぐうあああっ」

 

突き刺さる棘は、巻き付く蔓自体に引っ張られて薄く延びるリリの皮膚を深々と切り裂く。黄緑色の呪縛は贄の血を吸うかのように、赤黒くその貌を変えつつあった。

リリはこの状況の先に待つものを知っていた。たった一つの結末……バラバラになった五体を道路に投げ出す自分の光景。

受け入れがたい未来だ。

右手に力を込める。

 

「はっ、離せっ、このおおおーーーっ!!」

 

魔剣の力を放った。ちょうど、右腕に襲い掛かってきていた蔓の根元部分に当たり、縛めが弱まるのを感じとった。力の限りで右腕を振り回す。かえしになった棘によって皮膚が切り裂かれる痛みで涙を浮かべたくなるが、それを許容しなければ死あるのみだ。

いざ残りの蔓も焼き払って脱出するべくリリは魔剣を無茶苦茶に振り回す。脱出する事だけが念頭にある今の彼女に、狙いを定めて魔剣の力を節約するなどという考えなど無い。

 

「わああああっ!!」

 

しかし盲滅法放たれる炎は、周りを取り囲む密度ゆえによく当たり、左腕と胴に巻き付く蔓を離れさせる。彼女の持つ刃の業物ぶりの賜物だったが、それは幸運とは言えない事だと彼女はすぐに理解した。

いよいよリリの足を掴んでいる蔓も根本に灼熱を浴びると、激しくその身をくねらせたのだ。

 

「~~~~~~~!?」

 

加減の壊れた振り子と化したリリは脳天を激しくかき混ぜられた。そして。

 

「っーーーーーーーーーーっ!?」

 

苦しみのたうつ蛇のような様を見せ、細い足とそこから繋がるホビットの全身を散々に揺さぶった蔓は、その勢いのままリリを放り投げた。

声を出す間もなく、風圧で頬を歪ませるほどの速度で空を飛ぶ。その先に、更なる苦難が待ち受けているという悲惨な未来など、リリは考えもしなかった。

ただ、ぐるぐると回転する視界に引きずられ、思考を混乱させるだけだった。

 

 

--

 

 

突如の状況の変動はベルの佇まいに芥ほどもの動揺を与えなかった。しかしシルバーバックにとっては地より這い出でるこの得体の知れない者達こそ天の助けに等しかった。

全身に負った傷。殊に片腕はもはや使い物にならず、流血もまだ収まらぬ状況。ここから逃れられても彼の行く場所など何処にもありはしなかったが、それを憂慮する能など迷宮の怪物には存在しなかった。ただ、脅威からの逃避を求め、期せぬ助太刀に縋る事を躊躇なく選んだのだ。

そう、ベルの後ろで花弁を開き、おぞましき牙を剥く巨大花の姿を見て。

その巨大な幹がひねられたのを確認した瞬間大猿は、痺れて動かない右腕を左手で掴み、思い切り引いた。

 

「グァルァアーーーーーーーッ!」

 

「ッ!」

 

大地を薙ぎ払う巨大花の一撃。自らの前後を挟んで存在する二本足の獲物を屠るための攻撃を、両者が食らう事はなかった、少女は鼻先をかすらせ、そして少年は――――。

 

「ぐっ!」

 

上体を屈め、薙ぎ払いで髪の毛を数本持って行かれたベルは、直後の左腕を引く力にたたらを踏んだ。一瞬の重心の変化を狙った大猿は自らの目論見が嵌った事を理解する。姿勢を崩した人間に迫る幾つもの蔓を見る事で。

だが全身を血化粧で飾る戦士は、巨大花の触腕が行う思考の伴わない直線的な攻撃の数々を、みすみす喰らう趣味など持たない。

 

「――――ふッ!」

 

四肢を、胴を狙う蔓は尽く空を切っていた。ベルの一蹴りは、黄緑色の帳から瞬時に脱出し、大猿の眼前にまでその身を跳ねさせたのだ。シルバーバックは顔色を失う。迎撃か、回避か。恐怖に鈍った頭では、即座の判断も果たせない。

不具になった右腕の下をベルは一瞬でくぐり抜けて、巨体の後ろ側に回り込んだ。獲物を逃して惑っていた触腕は、如何なる感覚を以ってか少年の気配を察知し、同調したそれぞれが一本の巨大な蛇の身体を模した激流となって、ベルに迫った。

 

「ガアアッ!?」

 

お粗末な策を破られた事に気付いたシルバーバックが振り向こうとして、右足に追突する大蛇にその身を引きずり倒される。大猿の開いた傷跡もろとも右半身を抉るようにその身を躍らせる蔓。無数の棘が、開いた腋を切り裂いた。

 

「ギャアアアアッ!!」

 

死にかけている怪物の悲鳴などベルは無視した。迫る蔓の切っ先はなおも少年を追い、大猿の腰を回る軌道を描く――――ベルの思惑に違わず。そう、蔓がシルバーバックを囲んでちょうど一周目に辿り着く瞬間、ベルは再び跳躍する。巨大な縄を飛び越える為。

――――大蛇の作る輪が、大猿を締め上げた。

 

「グギエェエエェエッ!!」

 

そしてようやくシルバーバックは気付いた――――奸計に嵌ったのが自分という事に。両足は蔓の勢いで崩れ落ち、左腕は胴体共々、巨大な荊鞭で封じられ、片目を失った頭部と、痺れてもなお激痛を失わない右腕だけが今の彼が自由にできるものだった。

しかし、処刑の準備は終わらない。残虐な戦士は確実を期するべく、呪縛に絶望する大猿の周囲を更に回る。繋いだ鎖が巨体の右肩を可動領域の限界まで引っ張る。否、それ以上に!

 

「ア゙ア゙ッギャギャアアア゙ッ!!!」

 

余計な獲物のせいで追撃を妨げられている蔓は、それでも一度退くなどという思考など持たない。少年を追おうと猛る先端部は力任せに輪の中の大猿を更に締め上げる。それがまるで磔刑の鎖を絞める刑吏の如き役割を果たし、右腕をねじるベルの更なる助けとなっていた。

大猿の背中側……左後方にまで辿り着いたベルは、抵抗を続ける肩関節に引導を渡すべく、腰を入れてからがっしりと両手で掴んだ鎖を全力で引きに掛かる。歯を食いしばる怒責の表情が、少年の顔に更に険しく刻まれる。

 

「ん゙っっ……ぬああぁああーーーーーーーーっ!!」

 

内臓を潰そうとする軸力と、右肩にかかる凄まじい引力。

苦悶の叫びを上げる以外に、シルバーバックの出来る事は何も無かった。

 

「ン゙ッッギャア゙ア゙ア゙ア゙ァーーーーーーーーッ……ア゙ッッッ!!!!」

 

鎖を通じて、その障壁を破った感触はベルの手に容易に伝わった。がくん、と揺れる手元。右肩を破壊された衝撃に一際大きな声を上げたシルバーバック。完全に動かなくなった片腕は、彼の命運を刈り取る者の足を駆け出させるのに充分な視覚情報だった。

だがそこに闖入者が現れる。空から落ちてきたリリの身体は、ベルの数歩先の石畳に叩きつけられた。落下の衝撃で手放された魔剣が、ベルの足元に転がる。

 

「はっ、ひいゃっ!!」

 

慌てて起き上がり、鼻血を出した面をきょろきょろと振り回す滑稽さをベルはまるで気にかけなかった。

 

「……ッ!!」

 

「ひえっ!?」

 

鎖を辿って走る少年はリリを横に突き飛ばし、未だ蔓に縛り上げられたまま激痛に泡を吹くシルバーバックの後頭部目指して、跳躍する。幾層にも重なった蔓を駆け上がり、あっという間に、大猿の後ろ髪を掴んだ。そのまま蔓を蹴って、もう一段、跳ぶ。

黄緑色の拘束具を踏みしだいて、虫の息の獲物の顔面に回り込んだベル。それを目にしたシルバーバックは、もはや霞みつつあった意識を一気に覚醒させた。……ひたすらの、恐怖で。

自分の前髪を掴む左手。逆手に持った、赤黒い短刀を振り上げる右腕……そして、果て無き憤怒と、底知れぬ殺意に満ちた、その凶相……。

顔の左半分を覆う返り血は、齢十四を迎える少年の顔を正しく死の化身と見紛う威で飾っていた。

片目に映るその光景を理解した瞬間、シルバーバックの思考は後悔と絶望に染まり、思った。

なぜ、自分は、こんな奴を相手に、戦おうと思ったのか?

答えは、与えられなかった。

ベルの口から、咆哮が絞り出される。

 

「あああああアアアアアアアアアアッ!!」

 

「ンギャアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」

 

刺す。刺す。刺す。刺す。刺しまくる。

少年の下膊ほどもの刃渡りを持つ短刀が、巨大な顔面に幾つもの穴を穿つ。シルバーバックには、その大口で目の前の獲物を噛み千切ろうという判断さえ出来ない。恐怖の虜になっている彼は、駄々をこねる幼児のように激しく首を振るだけだ。

頬、鼻、唇、涙袋、額。突き刺す側も只管に右腕を全力で振り下ろすのを繰り返すだけで、目標など見定めない残虐な拷問刑がそこに演じられる。

跳ぶ血飛沫。戦士の怒声。獲物の悲鳴。

辛うじてメッタ刺しの嵐から逃れている右目も、噴き出す血に覆われて視界を失っていた。赤い闇がシルバーバックを覆い、痛覚は更に鋭敏になる。この脅威から逃れろという脳の警鐘はしかし、何の意味も持たない。

いつ、その苦痛が終わるのか?疑問の答えは、大猿の命が尽きる時を定めた者だけが知ってた。少なくとも、刃を食らわせる少年にしてみれば、その時が来るまで手を緩める気などありはしなかった。

だが、彼らの意の外に在る存在が、この場に突如割り込んで来ようと、その身をよじらせた。前触れもなく。

……いや、それを予感していたのは確かに、居た。

 

「!……」

 

ベルに突き飛ばされたリリはそのまま、痛む足を絡ませないよう必死で大通りの端まで辿り着き、へたり込んだまま、道路の真ん中で繰り広げられる恐ろしい演舞を眺めていた。

だから、彼らの横でゆっくりと首を持ち上げる花冠の姿と、その動きの意味するところを理解できたのだ。

だがそれを口に出して少年に助言出来るような精神状態は、既にリリから失われていた。コートを貫いて刻まれた全身の傷と、今なお続く修羅場の光景は、彼女の身も心も完全に萎縮させてしまっていた。

それは或いは、レベル2相当の怪物を、家畜を前にした屠殺者のように血を流させる少年へ抱いた恐怖も、関連していたかもしれない。

ともかく、歪な色彩を持つ花弁が顎を開いて迫るのを、ベルもその瞬間、確かに横目で捉えていた。

 

「んっ!!」

 

左手の鎖を掴んだまま蔦を蹴り、ベルは瞬時に、大猿の後頭部に回り込んだ。ゴウ、と風を切って眼前を通る牙。……大猿の手枷から伸びた鎖の中にある、大きな輪を潜って。

このうざったい植物どもの頭目をとっくにベルは見抜いていた。相手にしなかったのは単に、今の獲物を殺すことを優先していたからに過ぎない。そっちから仕掛けてくる以上、順番が同時になっただけだと割り切る彼の判断を傲慢と見なす者などこの場に居はしない。なお戦意を燃やすその真紅の瞳を見れば、なおさらだ。

纏めて片付ける布石は、あとひとつ。

 

「はっ!」

 

左腕を一息で振り、空中で輪を作り出す。それはシルバーバックの頑強な筋肉で覆われた太い首を囲んで落ちた。

眼前で何が起きているのかも理解出来ない大猿でも、自分の首を取り囲む冷たく硬い感触は本能的に理解できた。自分の背後から発せられる強烈な殺気もその時、やっと知ったのだ。

――――これから、自分は、死ぬのだ。

後頭部に立つ、小さな、そして彼が知るどんな存在よりも――――かつて自分を捕え鎖で繋いだテイマーよりも遥かに――――恐ろしい処刑人の手によって。

 

「ッッギャアアゥッ!!、!ギャヒッ!!」

 

最後の力を振り絞って、必死で首を振るシルバーバック。もしも先まで行われていた凄惨な拷問が無ければ、こうも容易くこの刑罰の準備をさせはしなかっただろう。目が血で塞がれていなければ、顔面に取り付かれなければ、縛り上げられなければ、蔓を使って陥れようとしなければ……。

全ての手を誤ったことを今、怪物は知った。いつから?……最初から、だったのかもしれない。彼が真に呪うべきあの銀色の女神の顔は既に、忘却の彼方だった。

だが彼に約束された筈の残酷な結末を覆そうとする動きが現れた。

 

「ギッ!?」

 

蔓の力が緩むのをシルバーバックは理解した。能無しの触腕どもは、やっと捕えるべき獲物の違いに気付いたのだろうか?どうあれその僥倖は何としても生還の標としたい大猿が、必死で左肩に力を込める。この首に巻き付く鎖を外さなくては、と。

広がる肺。胴体が緩まる。一気に左腕を持ち上げ、抜いた。

 

「ハアア゙ッ!」

 

自由になった喜びが歓声となって現れた。

あとは、首を――――

そう思った瞬間、大猿は、自分の身体が持ち上がる感覚を理解した。

もう完全に動かない右腕が、ひとりでに、その方向を指さした。

 

「ゲッ」

 

息が、止まる。

 

「エ゙ッ」

 

いつしか血は眦から流れ落ちていて、右目の視界は晴れていた。

自分の右腕が引っ張られる先にあるものを、見る。

巨大な茎が立っている。少し首を持ち上げる角度の場所には、手枷から伸びた鎖が巻かれて、それはまた此方に戻っていて――――。

 

「ヴッ、ヴォボッ」

 

気道が潰れ視界が真っ赤に染まり、最後の吐息が絞り出された。ばたばたと、手足は空を切った。

何故、こうなったのか、シルバーバックには、何一つ、結果の分析は出来なかった。

目玉は裏返り、閉まる喉頭が口腔から舌を放り出す。頑強な首の筋肉に鎖は刃のようにめり込み、それでもなお彼の首に掛かった輪は更に小さくなるのを望んだ。

びんっ、と鎖は一層張力を増し、大猿の巨体を高く吊り上げる。その力は、巨大花ののたうつ胴体をも断ち切ろうと猛る。大通りに立ち並ぶ蔓は、本体の苦痛を共有しているかのように、無力に戦慄いていた。

大猿の後方で、必死の形相で地を足で踏みしめて左腕を引き寄せている、白髪の少年の意思によって。

息を止め、歯を食いしばっていたベルは、大口を開いて、怒声を上げる。

 

「っ――――ッッァアアアアアアアアアアっっっっ!!!!」

 

両手の筋肉をはち切れさせんとする膂力の、最後の一引き。

みしみし、とベルの左腕に、その音が伝わる。

――――そして。

 

「ッッッセアアアァッッ!!!!」

 

「オ゙……ッ」

 

ぼきり、と、音がした。シルバーバックはそれを最後に、あらゆる音声を発さなくなった。

脳幹を潰された巨体は、全ての力を失い、宙吊りになる。

抵抗の余韻が、ぶらぶらと、大きな影を揺らしていた。

一つの戦いの終わりを示す光景。しかし、それを見届けた処刑人には、休む間もなく次の試練が襲い掛かる。

ベルとの間に繋いだ鎖で絞首台を作り出した巨大花が、本懐を遂げてもなお未だに自分の胴を締め付ける鎖に対し、激しい抗議を行った。その、全身を以って。

 

「オオオオオオーーーーーーン!!」

 

「……!」

 

生前のシルバーバックとも遜色ない……どころか、或いは上回るほどの力で左腕を引かれるベル。踏み出してもいないのに少しずつ茎へと引き寄せられる彼の両足こそ、その推測の根拠だった。

……だが、それだけではない。大猿の骸を吊り下げながらも、食いしばる少年の抵抗を無にする原因は。

そう、鎖の繋がる先。ベルの左腕の形こそが、全ての理由だった。大猿と繰り広げた幾つもの凄まじい綱引きの応酬、そしてその命脈を断ち切る為の絞首刑を執行した代償は、誰の目にも明らかな光景として、そこにあった。

無惨に拉げ、折れ曲がった下膊の姿が、そこにあった。

 

「ッ……!!」

 

歪な形の左腕の、筋肉まで達するほどに食い込む鎖から止め処なく、血は流れ落ちている。鎧は既に無く、叩きこまれた衝撃や鎖の斬撃でボロボロのクロースアーマーは、彼が吐き、或いは流し、流させた血で赤黒く染まっていた。

のみならず潰れた内臓は魔法薬でも快癒出来てなどいない。常人であれば既に昏倒を免れない激痛に、口端から血を流すほどに歯を噛み締めて彼は耐えていた。

倒す。

倒さねば。

敵は全て、この手で……完全に。

ベルの全てを支配する衝動が、痛みに屈することも、それを理由に戦いから退く事も決して許さない。

それは、更に彼を急き立てる。立ち向かえ。

全てを、滅ぼせと。

短刀の柄が、持ち主の握力で悲鳴を上げた。

少年は、屹立する巨大花に向かって走りだす。

戦いは終わっていない。全ての敵を殺す、その時まで……。

急き立てる意思が、脚力を爆発させる。

 

「あああアアアッ!!」

 

茎の引力に勝る加速度で走るベルの身体は、延びる鎖を僅かに弛ませ、彼のくぐり抜けた跡に大猿の身体を墜落させた。真っ赤な弾丸のように、立ちはだかる茎に突撃する少年。接触の瞬間、右手に振りかぶった短刀を、渾身の力で突き立てる。

根本まで、刃が埋まった。

同時に、巨大花が叫び、暴れる。

 

「オオオ゙ーーーーーーー!」

 

「ぐううっ!」

 

刺さったままの短刀に片手でしがみつき、少年の身体はたやすく前後左右に激しく揺さぶられる。離すな。手を離すな。彼のボロボロの肉体は、激しくのたうつ茎に振り回されて、更なるダメージを内部に負う。

視界が滅茶苦茶に揺れる中、迫り上がる熱い液体を必死で飲み込むベル。噛み合わされる歯はいよいよ割れそうなほどに音を上げる。

耐えろ。耐えろ。

機は、必ず、来る。

彼は、そう思っていた。

それは、大きな過ちだった。

彼の誤算。それは、携えるその得物の存在だった。

ギルドからの支給品は、今日この日における激闘を耐え切れるような作りではなかったのだ。

――――彼の想定していた、彼の意思何一つ違える事なく、手足となって敵を屠り、決して、切れ味は落ちず、折れることのない刃。

そんなものは、この世界のどこにも――――存在しないのだ。

甲高い破砕音が、ベルの右手から生まれた。

 

「ッ!?」

 

ベルは目を剥いて、それを見つめていた。根本から折れ砕け、柄を握り締めたまま宙に投げ出される瞬間は、時が止まったかのように彼の目に映っていた。

それは本当に、刹那の暇にも満たない時間だった。

次の瞬間、彼の身体に、屈んで横薙ぎに花冠を振りぬく巨大花の胴体が直撃していた。

 

「っっぶっ」

 

ぐしゃっ、という音を、ベルは自分の体内から聞いた。衝撃で遥か彼方へ飛んで行く筈だった少年は、左腕の鎖によって、その動きを空中で止める。彼の身体に残っていた運動エネルギーの全てが、拉げた左腕に襲い掛かった。

細い肘と肩の関節は、簡単に壊れた。絡み付く鎖は今再び、彼の苦痛を啜る呪いの楔に変貌していた。

張り詰めた戒めによって巨大花と繋がれたベルの身体は、腹這いの体勢で道路に叩きつけられる。

 

「っがっ……!」

 

視界が混濁する。全身を槌で叩き潰されたような痛みに、声も出せない。次いで脳天にコルク抜きを突っ込まれてかき混ぜられるような、耐え難い気持ち悪さが生まれる。

口を開いて酸素を取り込もうとした瞬間、喉頭が蠕動した。

 

「うぼっ、オえ゙エ゙っ、ヴゲえぇぇッ……」

 

びちゃびちゃ、と音を立てて溢れる赤黒い吐瀉物が、罅だらけの石畳を汚した。洗面器を満たす量の血の上に突っ伏す少年の手足が意図せぬ痙攣を起こしていた。

 

「ぼぁハッ、ア゙ッッ」

 

気道から鮮血が溢れた。両肺は、砕けた無数の肋で貫かれていた。

酸素の急激な欠乏で、ベルの視界は暗くなる。

しかし、それでも、彼の中に、その衝動は猛る。

一切の勢いを失わずに、燃え盛るのだ。

 

(立て)

 

震える腕に鞭を打つ。

 

(立って、戦え)

 

失禁する下半身を再び、意思のもとに従える。

 

(まだ、敵は居る)

 

瞳は赤く、赤く……血よりも、炎よりも、禍々しく、輝く。

 

(すべて、滅ぼせ!!)

 

右手が、持ち上がる。手のひらを、割れた道路に押し付けた。

どす黒い幻影が、少年の身体を包んで動かそうとざわめいている。

今一度、彼を戦場へと征かせる為に。

立たなくては。

戦わなくては。

勝たなくては。

……殺さなくては。

痛みも苦しみも、闇に覆われていく。

横向きになった彼の顔に映るのは、大地に立とうと震える自分の右腕だけ……。

……その先に、何かが光った。

 

(…………?)

 

何故?

何故、だ?

 

「……グ、ヴふッ……」

 

また、血を吐く。消化器も循環器も潰れ、死を目前とする彼の中に、出し抜けに現れた疑問。

同時に、痛みは蘇る。戦意を大幅に削ぎ、ベルを覆う何かも、白黒する眼球から追い出された。

 

(――――な、ぜ)

 

なぜ、戦う?

なぜ?

 

(倒す、為――――?)

 

倒す為に。

勝つ為に。

殺す為に。

……何故、そうしなければ、ならないのか。

右手が力をなくして投げ出された。手の甲に触れる、地面の感触。

――――中指を打つ、硬い、何か――――。

その言葉は、闇の中に、ぽつりと蘇ったのだ。

 

『約束、してくれ……』

 

「……!」

 

右手に力を込める。渾身の力だ。ひっくり返してもう一度、地面を掴む。

また、光った。

陽を受けた青白い輝きが、ベルの瞳に映り込む。

どれほどの血で汚れても、失われずに湛え続ける小さな煌きが、少年の中に、何かを与えた。

先程まで彼を突き動かし、レベル2相当の大猿を狩り殺す力を与えたもうたものとは、別の……。

 

『これを……その手でボクに返しに』

 

か細く震える声。他に何も縋るものを持たない者が、ありったけの勇気を振り絞り、紡ぐ言葉。それは今の今まで、完全に、彼の脳裏から失われていた言葉だった。

なぜ、忘れていたのだろう。

どうして、忘れられるのだろう。

 

 

 

 

『自分の足で……帰ってくる、って……』

 

 

 

 

どうして自分は、その誓いを、忘れていたのだろう。

 

 

 

 

『……守ります。必ず、ここに、自分の足で、帰って来ます』

 

 

 

 

 

闇が、少年の瞳から、消え去った。

 

(ち、が、う……!)

 

握り締められた右手が、地面に突き立てられた。

 

「ッガ、っ……ヴほっ、……ぐっ、ぐグ……っ!!」

 

閉じた歯で血反吐を抑え、両膝を持ち上げる。三本足の獣を象る少年は、風に揺れる木切れ細工のような震えを抑えられなかった。

 

「――――フウ、――――フウ、――――フウーーッ!」

 

幼子がつつけば崩れ落ちそうな死に損ないは、穴だらけの肺を必死に伸縮させて、顔を持ち上げる。

 

(……倒す……もう、倒、したんだ……)

 

地に五体を投げ出し、微動だにしない大猿の姿は、少年の使命が完全に果たされた事を意味していた。どうして彼はその事を理解出来なかったのだろうか。

 

(…………そうだ……だ、った、ら……)

 

汚れた白銀の骸の奥にそびえ立つ、黄緑色の柱を見る。

 

(かえ、らな、きゃ……)

 

もう、あの神殿を脅かす者は、居ないのだ。

あの小さな部屋の、そこを守る者を襲う恐怖は、消え去った。

ベル・クラネルが、それを成し遂げたのだ。

なら、もう、ここに居る意味など、無い。

全く、無い。

刃を喰らったあの巨大花など、今のベルには、何の関係もない。

だから、もう、ベルのするべきことは、一つだけだ。

赤い瞳に、光が灯った。

真紅の奥にある、小さな光。誰も、その色を知れない、か細い光は、確かに燃えていた。

 

「ぶ、ぷっ」

 

口から血が溢れる。しかし、倒れない。頭を覆う靄が晴れていくのと同時に、全身の痛みは更に増し、内側に無数の針が生えた拘束具で余すところなく覆われているような錯覚をベルに与えていた。

……それは、彼をまた地に臥させる力には、ならないのだ。

決して。

 

(あ、の、……あそこ、へ……か、え、る、ん、だ……!)

 

膝が、持ち上がる。地に立つ右足が、腰を持ち上げるために、必死で踏ん張る。

意思が、力を与えたのだろうか。あの黒い衝動が無ければ、虫の息のまま、ただ死を待つ以外に出来る事など何もなかった少年に。

帰るべき処を目指すという、固い意思が。

 

(どうして……)

 

その光景を見るリリの顔は、痛ましさに歪み、目には深い哀れみだけを浮かべていた。

よくやった。それ以外の形容など見当たらない。

もう、無理だ。それ以外に掛ける言葉など見当たらない。

なのに……。

 

(どうして……?)

 

そのまま倒れて目を閉じれば、全ての苦しみも尽きるというのに。少年がなぜ、立ち上がろうとするのか、リリには理解出来ない。

だがその疑問は、単なる感情移入の結果だと、リリ自身は心の底で知っていた。

リリは、あの少年のように、ああまでして今生に執着させるものなど、何もないのだ。だから、思う。諦めてしまえばいいのに、と。

しかし、両親から愛も信頼も与えられずに一人放り出され、ただ主の気まぐれか、ファミリアの残酷な律に則った酬いを手に入れるべくひたすら他人を騙し奪い陥れる日々を送る……贔屓目に評価してもクソみたいな人生を積み上げて来た彼女の目に、その少年の軌跡はありありと蘇らせる事が出来た。

到底勝てるはずのない存在相手に全く退かず、いっそ清々しい程に残虐でありながらも鮮やかな戦舞を演じた挙句にその命を刈り取り、休む間もなく現れた新たな強敵を前にして血みどろの死に体となりながらも、決して諦めようとしないその姿。

どうしようもなく眩しかった。

羨ましいとさえ思った。

そこまで執着出来るものを持っている事に。

 

(でも、もう……)

 

大通りの真ん中に転がる魔剣を拾うのも躊躇し、縮こまるホビットの少女は、その光景を見守ることを遂に諦めた。

巨大花の、ぎりぎりと音を上げながらゆっくりとねじ曲がる茎を認めれば、それは仕方のない事だった。

少年の死を見届ける勇気は無かったのだ。

掃き溜めの底のような人生を見切る勇気も、自分の盾になった少年を助ける勇気もない少女は、ただ恐怖の虜になったまま、瞼を閉じた。

蔓に締められた痛みの残る全身を、掻き抱いて。

巨大花が、茎に溜まった捻じれを解き放つ瞬間、放たれる風切り音を聞きながら、リリは思った。

 

 

 

(……名前くらいは……あとで、調べておいて、あげますよ……)

 

 

 

そんな風にしか考える事の出来ない自分を、どうしようもなく嫌悪しながら。

 

 

 

 

--

 

 

 

重い音がした。

ベルは、目の前に立つ影の正体を知らなかった。ぼやけた視界には、そもそも人の顔も、体型も、色すらも曖昧に映っていた。

 

「ッッ……くっっ、…………ソッ……ッッがああッッ!!」

 

振り下ろされた巨大な茎を受け止め両足で石畳を砕いたベートは、悪態を吐くと同時に思いっ切り、屈んでいた膝と、曲がった両肘を跳ね上げた。

 

「だあッッ!!!!」

 

レベル5の全力による反発を食らった巨大花は一気に反対側に倒れる。巻き込まれた家屋が粉砕されていたが、ベートは無視した。

振り返る。

 

「…………?……」

 

焦点の合わない真紅の瞳。何が起きたのかも理解出来ていないのだろう。だが彼の身体は、今にも崩れ落ちそうなのに逆らうどころか、右手を膝に乗せ、必死で立ち上がろうとしているのがわかった。その為の力が全く入らずに、ぶるぶると盛大に震えているのを見れば……。

口元から下――――遥か足元、靴までをもベットリと赤黒く濡らす様を見るでもなく、少年が強烈な死のにおいを放っているのを、ベートの鼻は遥か彼方から捉えていた。こうして目の前に来れば、下半身を濡らす血以外の液体の正体もよくわかった……それは、余計な情報ではあったが。

ともかく、舌打ちをする。

 

(……これで死んだら、それまで……って訳かよ。ハッ)

 

いつだったか、自分の言った台詞を心の中で反芻した。だが、もう動かないシルバーバックの骸と、そこから伸びる鎖の行き着く先を見れば、あの時とは全く、言葉の意味が違うのは明らかだ。

全てを使い果たして、少年は快挙を成し遂げたのだろう。そして更なる試練に挑み、この有り様というわけだ。ベートは一瞬で全てを察していた。闘技場に何某か、とんでもない怪物が現れたと聞き急いでいた彼は、街の一角に立ち昇る影を見つけるや、立ち所に方向転換してここに馳せ参じたのだった。

道路の端で、訝しがりながら瞼を開けて、こちらの姿を認めて以来目を丸くしているホビットの少女を目敏く見つける。

縮こまりながら、驚愕と、罪悪感をはっきりと浮かべる彼女の目の色に、ベートは少しの苛立ちを覚えた。それは、ずいぶんと身勝手な感情だったが、勘違いに基づくものでもなかったのが、リリにとってはたちの悪い事だった。

 

「おい、チビ」

 

「…………っ!?」

 

びくりと震える様に、更に苛立ちは募った。言葉に棘を含ませる事にベートは躊躇しなかった。

少年の折れ曲がった左腕から伸びる鎖を手に取り、引き千切りながら再び口を開く。

 

「聞こえねえのかグズ!とっととこいつを本部に連れて行けってんだよ!!」

 

ここに来る最中に現れた二本の巨大花を相手にしているガレスとリヴェリアが聞けば、また要らん短気で他人からの印象を悪くしているベートに眉を顰めるだろう。

しかし、こういう言葉遣いを治す気など芥ほども抱かないのが、ベート自身が歩んできた道で作られた人格なのだ。

言葉一つで売り買い出来る確執など、彼にとってクズ同然だった。

僅かな困惑すら愚鈍と断じて罵る獣人に対し、しかしリリは歯噛みして反論を耐え、ベルの元に駆け寄った。

……言い返す口など持たない。この口の悪い――――リリは、彼がロキ・ファミリアの誇るレベル5の冒険者とまでは知らないものの、先の光景からその実力の程は理解していた――――獣人が来なければ、この場から脱出出来るかどうかも危うかったところだ。

今まさに命の火を絶やそうとしている少年を見捨てたことへの、ほんの僅かな罪悪感を消せないまま……。

無言で、膝をついたままの少年を無理やり背負う。何の力も持たない身体は容易く、リリの小さな背に乗った。微かで、ゆっくりとした鼓動が伝わる。濃厚な血のにおいが鼻をついた。

依然消えない、棘に穿たれた傷の痛みも、ボロ屑のような有り様の少年を思えば、幾らかは忘れることが出来た。

地面から伸びた蔓は、ブン投げられて昏倒した本体の影響を受けてか、萎びて寝ていた。いざ、足を踏み出すリリ。

瞬間、彼女の耳に、息が吹きかけられた。

いや、違う。

少年が、何か、囁いたのだ。

 

「…………っ」

 

「……え?」

 

リリにはその、あまりにもか細い、声帯を震わせる事すら出来ない言葉を理解する事は出来なかった。

 

「早く行け、ボケ!!嫌ならテメエの恩人見捨ててとっとと消えろカス!!」

 

「っ!!」

 

足を止めたホビットの少女を急かす怒声。リリはまた、ベートに対する印象を悪くした。彼の鼻はしっかりと、リリのコートに着いたベルの血のにおいを嗅ぎ分けていた。そこから導き出された推測の確度を疑わない傲岸さが、ベートの人格の全てを物語っている。

ともあれそのまま、何らリリを引き留める要素がこの場に無ければ、もはやベートの機嫌もこれ以上悪くはならなかっただろう。

 

(――――あ、)

 

だが、そうはいかなかった。前を向いたリリは、舗装も盛大に破壊されている道路の真ん中に転がるそれを見て、使命を後回しにせざるを得なかった。

……魔剣。

彼女の最も手放しがたい財産だった。

少なくとも、今背中にあるものよりも、ずっと。偽らざる未練は迷いなく彼女を素早く、そこに導く。

 

(――――良かっ、た……)

 

少年を落とさないよう屈んで、紅い刀身を手に収めた。安堵が生まれた。

他人の命のことなど、刹那忘れてしまうほどに……。

 

 

 

 

「ッッッんな時でもゴミ拾いたあ、熱心だなあっっ!!??サポーターの鑑がよおッ!!!」

 

 

 

 

遂に、ベートが苛立ちを爆発させて叫ぶ。声量だけでも、その気になればリリのような木っ端サポーターの鼓膜を破るのは容易かっただろう。尤も、飛び上がって走りだすリリは、そんなベートの優しさなど感じ取れようはずもない。

ただ、レベル5の冒険者に対する憎悪じみた卑下だけが、彼女の心を満たしていた。

 

(ええ、そうですよ、私は自分がかわいいんですよ、一番!!)

 

リリは全力で走った。後ろで自分を睨みつけているだろう者から、一刻も早く遠ざかるために。

背に感じる僅かな呼吸が少しずつ弱っていっている事も、彼女から、足に刻まれた傷の事を忘れさせる助けになっているのだろうか?それは、彼女自身にもわからない。

 

(……あなた『達』みたいに、疑いなく他人を助けられる事もしない、クズなんですよ、ええ、ええ!!)

 

ぎりぎりと歯を噛んで、ホビットの少女は走る。

コート越しにも感じる、大量の血液で背が濡れる気持ちの悪い感触も、その足を全く鈍らせなかった。

 

(…………ああ、ああ、嫌いでしょうね、あなた『達』は、私のような、クズなんて!!)

 

街の中央目指して、風を切って走る少女。血みどろの死体を背負っているようにしか見えない、一陣の風とも紛う影に、騒動から避難していた人々はぎょっとするだけだ。

リリは、自分にもたれ掛かる者の体温がほんの少しずつ失われているような気がするのは、自分に吹き付ける風のせいだと思いたかった。なぜだか、無性に。

 

(………………私だって、私だって――――あなた『達』なんか…………!!)

 

視界が滲む理由を、リリはわかりたくなかった。

クズ。

ゴミ。

カス。

雑魚。

ノロマ。

能無し。

役立たず。

穀潰し。

使えねえ。

足手まとい。

盗人。

ペテン野郎。

悪意塗れの言葉の数々は、どういうわけだか脈絡もなく、こんな時に蘇り、彼女の鼓膜に何度も反響していた。

うるさい、うるさい。黙れ、黙れ。

耳を塞ぎたくても、両手は少年の膝を掴み、決して果たせない。血と尿で汚れきったズボンが、ぎゅうと握られ、誰の目にも見えない箇所に深いシワを作っていた。

何も思い出したくなかった。何も聞きたくなかった。

只管、彼女は走った。

何もかも、忘れてしまいたい。その一心で。

 

 

 

(あなた『達』なんか――――大っ嫌い、ですよっ……!!)

 

 

 

その一言を、呑み込んだまま。

そうしてひた走る彼女は、気付かなかった。

背中の少年が、蚊の鳴くような声で口にしたその言葉に、終ぞ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………帰………………じ、ぶん、…………の…………」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

血塗れの右手にあるリングの感触だけが、最後の言葉を発したベルが感じ取れる、唯一の存在だった。

目を閉じた彼は、消え行く意識の中で、その、光景を、思い出した。

幼い少女。

ツインテールの黒髪を振る、白い服を着た、大きな瞳の少女。

その声は、彼の耳にいつまでも、残り続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

『……さぁ、ベル君。頑張っていこうぜ――――』

 

 

 

 

 

 

 

金色の光が、部屋に舞う埃をちらちらと、煌めかせていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

『ボク達の【ファミリア】は――――』

 

 

 

 

 

 

 

 

小さな、暖かい部屋。あの、祖父と一緒に暮らしていた、小さな家と、どこか似た――――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ここから、始まるんだ――――』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

--

 

 

「フン」

 

ベートが、起き上がった巨大花を見上げた。

五つの花弁は魅せつけるように、目一杯に開かれていた。その中央の、歪な顎も。

口腔から涎がぼたぼたと垂れ落ち、ベートの立つ場所のすぐ手前、彼の爪先と触れそうな所を黒く濡らした。

険しい双眸が、ぎらついた。

 

「クセエ息吐きかけんじゃねえよ、雑草がよ」

 

下がった口角から吐き捨てられたその言葉を合図にしたかのように、花冠が獣人の青年に向かって迫った。

ベートは眉一つ動かなかった。

戦いが終わるまで。

それはきっと、他の二挿しの花を相手にした二人も同じ事だったろうと、ベートは全てが片付いた後で思った。

 

 

 

--

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼は、あの道を歩いていた。

 

草原に囲まれた、小さな道だった。

 

彼は、あの家の前に辿り着いた。

 

草原に囲まれた、小さな家だった。

 

やっと、戻ってこれた。

 

そう、自分の足で、ここまで、帰ってこれたのだ……。

 

長い道だった。とても、危険に満ちた……。

 

しかし、それはもう、終わったのだ。

 

彼はたとえようもなく、満ち足りた気分だった。

 

扉を開けようと、彼は足を踏みだそうとした。

 

そこで、気付く。道の脇に立つ影に。

 

はっとして、首を向ける。人。……男、だ。はっきりと、その姿を認識できないのに、なぜだか、男だとわかる。

 

それは突如、この場に現れたように錯覚する。だが、危険は感じなかった。

 

むしろ、……親しみを感じた。

 

ともに苦難を乗り越えた戦友に対して抱くような、労いと、賞賛にも似た、この先の家の中にあるものとは、また別種の安らぎを、男から感じた。

 

男の肩を抱き、もう片方の手で、男の手を握った。

 

自然と、笑みが零れた。

 

やったのだ。自分は……そう、この手を借りて、とてつもない困難を乗り越えたのだ……。と、彼はやっと、思い出したのだ。

 

だが、男は……どうしたことか、その表情を曇らせていた。

 

遣る瀬無さ。どうにもならない運命への諦念……。

 

男が首を振り、口を開く。

 

『――――まだ、結ばれている……』

 

彼は、驚き、反駁する。

 

『――――何を――――』

 

男は、天を仰ぎ見、目を閉じる。そして、上着を少し、開けさせた。

 

彼は、雷に打たれたように目を剥き、そして……全てを、悟った。

 

無念を滲ませる口調で、男の言葉が、紡がれる。

 

『――――誓約を――――』

 

誓約……。

 

神との、誓約……。

 

彼は、男に手渡された短剣を握る。

 

男は、万感の思いを目に込めて、懇願した。

 

『――――頼む。最後の――――』

 

彼は、目を閉じる。

 

こうしなければならないと、彼は知っていた。

 

他に道はないという事を、彼は知っていた。

 

すべては、彼が望んだ事だったのだから……。

 

彼は、短剣で、男の腹を突いた。

 

『――――』

 

男は、夥しい血を流し、石畳の上に斃れた。

 

黒い、黒い何かが、男の身体から溢れ出た。

 

それは、一気に、彼の身体を呑み込んだ。

 

『――――!!!!』

 

その瞬間、彼の頭の中に、無数の映像と、言葉が流れ込む。

 

闇に覆い隠された、真実が――――!

 

 

 

 

 

 

 

 

『どうすれば――――!?いつ――――!?』

 

 

 

 

 

 

闇。

 

 

 

 

 

 

『栄光が――――!』

 

 

 

 

 

 

闇。

 

 

 

 

 

『――――!我が敵を――――!!』

 

 

 

 

 

 

闇。

 

 

 

 

 

『この村は――――!!』

 

 

 

 

 

 

闇。

 

 

 

 

 

 

『――――気をつけよ、――――。そなたが――――』

 

 

 

 

 

 

闇。

 

 

 

 

 

 

 

『――――!やめて――――!!』

 

 

 

 

 

 

闇。

 

 

 

 

 

 

『やめて――――!やめてーっ!!』

 

 

 

 

 

 

闇。

 

 

 

 

 

 

『今夜からのち――――』

 

 

 

 

 

 

闇。

 

 

 

 

 

 

 

 

『決して――――!』

 

 

 

 

 

 

 

 

――――底のない、無限の――――闇。

 

 

 

 

 

 

 

『うあああああああああああああああああああああーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!』

 

 

 

 

 

 

 

 

彼は、全てを失った事を知った。

 

炎に包まれる小さな家が、項垂れる彼の前方に、長い影を落としていた。

 

松明を投げ捨て、力なく、彼は歩き出した。

 

(何処へ……?)

 

帰るべき場所もなく、

 

行く宛など、何処にもなく、

 

ただ、足を動かしていた。

 

彼の求めてやまなかったもの。

 

何よりも得難かったもの。

 

それは、もう、この世の何処にも、存在しなかった。

 

それでも、彼は、歩みを止めることは出来なかった。

 

それは――――ひょっとしたら、という、儚い、幻想の成さしめる事だったのかもしれない。

 

 

 

 

 

望んでしまった、究極の力。

 

 

 

 

犯してしまった、許されざる過ち。

 

 

 

 

 

 

その贖いの方法が、どこかに残されているのかもしれないという、淡い希望は、彼を何処へともなく、導いていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

遠い何処かから、雷鳴の音が響いていた。

 

 

 

 

 

 

 

まるで、彼を断罪する為に振り下ろされる、神の槌のように――――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

--

 

 

 

 

 

 

 

目覚めたベルの視界は、涙で歪みきって、何も見えなかった。

 

底抜けの絶望と、喪失感だけが、彼の知る全てだった。

 

何者も傍に居ない。

 

待つべき者は、誰も居ない。

 

帰るべき場所は、何処にも無い。

 

決して内容を思い出させてはくれないその夢は、少年に対し、ただ理由のない悲しみだけを残して、永遠に消え去っていた。

 

目を開いた事で眦から溢れだしていく涙。

 

やがて、視界が開けた。

 

顔に落ちる、熱く濡れる感触も、理解した。

 

「――――………………」

 

右手は、暖かく、柔らかい……とても安心する感触のものに、固く、固く包まれていた。

 

「――――――――………………」

 

焦点の合わない目にも、自分を見下ろしている顔の正体は、すぐにわかった。

 

ベルにとって、何よりも――――何を引き換えにしても、守るべき存在。

 

彼に、失われたものを与えてくれた存在。

 

彼に、生きる意味を与えてくれた存在。

 

彼に、帰るべき場所を与えてくれた存在。

 

あの、暖かくて、小さな、……新しい、家の、主。

 

仕えるべき、彼の主は、くしゃくしゃになった表情で、大きな二つの瞳から、止め処なく涙を溢れ落とすまま、ベルを見下ろしていた。

 

「――――――――――――………………」

 

ベルもまた、再び、鼻の奥から熱いものを溢れさせた。

 

どうして。

 

どうして、あんな事をしてしまったんだろう?

 

どうして、こんなにも……何よりも大切な存在を、悲しませる事をしてしまったんだろう?

 

夢の残滓が、彼に再び、深い寂寞を呼び起こした。それは、決して抑える事の出来ない悲しみの発露となり、双眸から流れ出す。

 

「――――ごめんなさい…………」

 

開いた口からは、それ以外の言葉を発することなど、出来なかった。

 

「ごめんなさい……………………」

 

朧げな視界で、もう、主の顔はとっくに見えなくなっていた。

 

それでもベルは、ただ、そう言う以外に、出来る事は何もなかった。

 

言う最中も、全身の水分が眼孔から流れ出てしまいそうな勢いで、涙が溢れてこめかみを伝った。

 

暫しして、右手から離れた暖かいものが、自分の首に縋り付いたのを、触覚だけでベルは知った。

 

「ゔ、ゔぅゔゔ、ゔゔあ゙ぁあ゙あ゙あ゙あ゙あ゙ぁあ゙あ゙ーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」

 

慟哭は誰にも抑える事など出来なかった。

 

恥も外聞も、神としての挟持も何もかも、全て、彼女の悲しみの叫びを阻む力を持たなかった。

 

「っあ゙っ、あ゙あ゙っあ゙っ、……っ、……ゔゔゔゔっ、ゔあ゙あ゙ーーーーーーーーーーーーーッ!!」

 

深く、激しく、噎び泣く主の姿は、ベルに対し、決して涙を止めることの出来ない悲しみを与え続けた。

 

ごめんなさい。

 

ごめんなさい……。

 

「あ゙あ゙ぅぅゔぅっ、ゔっ、ゔっグッ、エ゙っ、ゔゔっ、……ゔあ゙ぁーーーーーーーーーーーーーッ!」

 

…………ごめんなさい…………。

 

ベルは、只管そう繰り返し、哀願し続けていた。

 

主と同じだけの量の涙を、仰向けになったまま、流し続けながら……。

 

力なくベッドの上に置かれた右手の中にある、己の罪の証を握り続けて……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――どうか……………

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――どうか、許してください…………

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

バベルの中にある、重体患者用の病室で寝そべり、ただ、彼は乞い、願い続けていた。

 

自分の胸の上で泣き伏せる主に対して。

 

贖い難い罪を犯した自分への許しを、ただ、願い続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その罪が一体何だったのかも忘れ、眠りの世界へ落ちてしまう、その時まで、ずっと……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




・鎖の長さ
世の中には気にしないほうがいい事だってあるはずなんだ。

・ミニゲーム
アセンションですばらしく大不評だったらしいですが、筆者は大好きでした。



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