眷属の夢 -familiar vision   作:アォン

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アニメ化すると聞いた筆者は、「書籍化にあたって変更されたプロローグが復活するのでは?」と期待しました。
儚い夢でした。






尿

衝撃は石畳を伝って、強化ガラスを揺らした。同時に、街の一角に人々の悲鳴が上がった。

ベルは、叩きつけられた巨大な平手からヘスティアを押し倒すようにして庇い、道路を転がった。腕の動きに合わせのたうつ、枷から延びる鎖は毒蛇の牙のように危うくベルの身体を掠める。

淡い想いを寄せる少年の腕の中に抱え込まれる感覚に浸るような状況ではないと、流石にヘスティアもわかっていた。四つん這いになって顔を上げる。

陽を背に立つ大きな、何か。それは少なくとも、人間には見えない。

 

「な!」「!な!な!?な!」

 

その大きなシルエットは、正体を二人に理解させるより先に、また腕を振り上げた。

 

「駄目だ、神様!」

 

「うあっ!」

 

瞬時に立ち上がった眷属に突き飛ばされた主は、また転がった。今度は一人だった。

視界が空と街並みと石畳と、次々に切り替わる。耳が地面に擦れる音に混じって、何か、重い物がぶつかる音がした。それはヘスティアにとって、とてつもなく不穏な予感を与える音だった。

無理やりその場で手をつき、起き上がる。見たくないものがそこにあった。

 

「あぁああぁぐっ!」

 

怪物の右手に胴体を握られたまま掲げられる眷属の顔は苦悶に歪んでいた。ベルの身に着ける衣服に、レベル2相当の怪物の握力に抗する力など無かった。

 

「ベル君っ!?」

 

「オオオーーーーーーッ!」

 

怪物はヘスティアの悲痛な声をかき消す雄叫びを上げてから、渇望する寵愛を押しのけて手の内に割り込んできた不要物を苛立ち紛れに握り締め、それから地面に投げつけた。渾身の、力任せに。

 

「ぁがっ」

 

「あっ、あぁ……!」

 

硬い石畳にベルの小さな身体が跳ね返って少し浮き、それからごろりと地に臥す。動かない。

ヘスティアは目を見開いて、伸ばした手をわなわなと震わせる。一気に、頭の中は真っ黒く染まった。それを成したものの正体、それは、絶望と言った。

ジジジッ、と、鎖を引きずる音がして、影が小さな女神の身体を覆った。恐怖に満ちた顔が、陽を隠す者を見上げる。

 

『私を探して……私を、捕まえてみせて』

 

その声だけが、シルバーバックの行動原理を支配していた。銀色の女神の姿形など頭の中から消えていた。ただ、女神を探し求め、ここに来た。そして、見つけたのだ。ただ、それだけだった。

再び右手を振り上げる。もう、妨げるものはなかった。

 

「ぐえっ」

 

自分と同等以上の質量を持っている腕に高速で掴み上げられたヘスティアは、その一撃で肺の中の空気全てをひり出させられた。意識が一瞬飛ぶ。避けるどころか、自分の身に何が起きたのか、理解する事すらも危うい、それほどにか弱い存在だった。地上における、神というのは……。

肩から下すべてをすっぽりと手に収められたヘスティアは、ぎゅう、と締めあげられる苦痛ですぐに我に返った。

 

「うっ、ああ、ぅあぁあああっ!!」

 

「オオオオオオーーーーーーーーー!!」

 

遂に求めるものを手にした喜びを全身で表すシルバーバック。天に掲げる右手の中の神の悲鳴など聞こえはしない。何故、それを求めていたのか、手に入れて、何をしたかったのか。そんな疑問は、今の彼の頭の中には存在しない。ただ嬉しくて、その巨体で小躍りまでしている。既にその存在が現れた瞬間からパニック状態となっている周囲の人々の目には、餌山の中に立って威嚇する猛獣そのものの姿にしか見えないが。

 

「ぐぃぎ、ぃぎぎぎぃぃ……」

 

息を止めて全身に力を入れても、全く解けそうにない。それどころかどんどん自分を握る力が強くなるのを身を以て理解するヘスティア。自分の持ち主は獲物を気遣う繊細さなど鼻糞ほども備えてはいないという、見た目通りの存在だとも痛感していた。このまま自分の全身の骨が砕けるのは、既に時間の問題だろう。しかし、そんな事などヘスティアは全く恐れていなかった。今の彼女の頭を塗りつぶす定まりきった未来への恐怖と絶望は、まるで別種の懸念に端を発していた。

 

(このままだと、このままだと……っボクはっ……!!)

 

神は死なない。絶対に、死なない。地上のいかなる存在であっても、神を殺すことは出来ない。傷つけることは出来ない。それを為そうとした時、地上で何の力も振るえないか弱い存在は、天上の住民へと変貌するのだ。何者も触れ得ざる絶対者へと。

その瞬間、地上の全てと隔絶した存在になる。

神は、在るべき場所へと帰るのだ。

その、当の神が何を思うのかに関わらずに……神は、地上から去る。それが、定められた律だった。

そして天界に帰った神は、地上の如何なる災厄とも無縁な、平穏無事な生活に戻るのだ。そう、地上の如何なる生命、事象とは、一切の繋がりを断たれたまま……。

 

(イヤだ、イヤだ、イヤだ、イヤだ、イヤだ!!)

 

狭まる空間により、腕が胴体に押し付けられる。その中にあっても、ヘスティアは指に嵌るリングの存在を決して忘れなかった。縋るように、その感触へと意識を集中させる。それが、この危機を脱するにあたって何の意味もない事と知りながら……。

けれども、彼女にとってそれは、確かな……何よりも意味を持つ行為だった。

地上から去れば、もう二度と、それに触れる事は出来ないのだから。

 

(い、や、だ…………)

 

もう二度と、ベル・クラネルに会う事は、出来ないのだから……。

 

「ッエ゙ホッ」

 

最後の一息が、気道から絞り出された。もう、息を吸うことも出来ない。みしみしと、全身の骨が軋む。

痛い。

苦しい。

……そんなもの、彼女にとって、意味など持たなかった。肉体を襲う苦痛によって、訪れる絶望を贖えるというのなら、幾らでも耐えられると彼女は確信していた。

真っ赤な顔に二筋、閉じられた両方の眦から涙が流れ落ちる。

 

(こ、ん、な……こ、れ、で、……さ、い、ご、な、ん、て……)

 

悲しみだけが残った。

視界も意識も、何もかも闇に溶けていく中、彼女は、その名を呼んだ。

何よりも愛しい、たった一人の眷属の名を。

 

「ベ、ル……く、ん……」

 

 

--

 

 

 

そこが何処なのか、彼にはわからなかった。周囲の風景は泥流の中にあるように濁り、入り混じり、目まぐるしく変化する。

硬い地面を踏みしめて立つ彼は、今自分が何をしていたのか、何をしようとしていたのかすらさえも定かではなかった。

戸惑い、狼狽するだけの彼の耳に、その声が届いた。

 

『――――!――――!』

 

『!?』

 

振り向く。切羽詰まった声。遠い所から聞こえたようにも思えるし、すぐ傍から発せられたようにも思える。どうしてか聞き逃したその声の元へ向かおうとしたくても、どこに行けばいいのかわからない。

焦燥が彼の中を満たす。

行かなければ……。

 

『―――て、―すけて!』

 

『!!』

 

再びの声。今度は、はっきりとわかった。その声のした方向へ、矢も盾もたまらずに、走る。一直線に。

 

『――――助けて!――――助けてーっ!』

 

「おおおおおおっ!」

 

前のめりになり、腕を大きく振って、大股で地面を蹴り走る。行かなくては……早く、早く、早く。逸る気持ちが雄叫びを上げさせる。いや、それだけではない、その声を上げさせた感情は……。

 

『――――、助けてっ!――――ーっ!』

 

『待て、待てええええええっ!』

 

思いの丈を全霊で吐き出し、その声の元へ更に走る!絶対に、絶対に取り戻さなければ。何としても。

そう、彼は知っていた。自分に助けを求めている声の正体を。

それを捕らえている者の正体を――――。

影が、現れる。

大きな影。

とてつもなく強く、

すべてもひれ伏させる威を放つ、

この世の如何なる者に対しても恐怖を抱かせる、その影。

それは彼が、絶対に倒さなくてはならない存在だった。

何を犠牲にしてでも……。

 

『その子を、離せえーーーーーっ!!!!』

 

彼を突き動かす怒りは、彼の抱く矛盾を覆い隠していった。

全てを失ってなお、守るべきもの、取り戻したいものに囚われているという矛盾を。

 

『おあああああああああーーーーーーーーーーーっ!!!!』

 

影に向かって、地を蹴り飛びかかる。

あまりにも強大な存在に挑む無謀さへの躊躇など微塵も無かった。

ただ、怒りだけがあった。

どんなものでも決して贖えない、底知れぬ怒りだけが、彼を支えていた。

それはきっと、世界の全てを滅ぼしたとしても、決して消えないものだった。

もう、彼の目には、影の手の中にある光など、映ってはいなかった――――

 

 

--

 

 

「ンギャアアッ!!」

 

「っは、あっ!」

 

大きな悲鳴を聞いたと思った瞬間一気に手の力が緩められたヘスティアは、わけも分からず生理的な反応に従い、肺に空気を送り込んだ。次いで、宙を落下する感覚に囚われる。

 

「あいたっ!」

 

どてん、とお尻を石畳に打ってそのまま身を転げさせる。何が起きたのかと振り向くと、そこには、彼女にとって何よりも大切な……そして、この地上におけるどんなものよりも断ち難い未練として存在する人間が、居た。

ベルが地を掠める低さで振り被って突き上げた右の拳は、シルバーバックの生殖器官のある部分を的確に、打ち抜いていた。体内に収納されているとはいえ、外皮にほど近い内臓を、思い切り。

 

「ベっ、エ゙ッ、げっほっ、エ゙ホッ!」

 

その名前を呼ぼうとしてえづくヘスティア。あと一瞬、解放されるのが遅れていれば、彼女は文字通り天に召されていただろう。それほどに締め付けられた身体のダメージは、まだ抜けきっていない。

けれども、主の様子など眷属はまるで省みなかった。首を上げるベルが見ているのは、目の前の敵だけだ。

腹の中を揺らす耐え難い苦しみと激痛で昂揚から目覚めたシルバーバック。そして、気付く。それを齎した者の存在に。

小さな人間。握り潰すも、踏み潰すも容易い、取るに足らない獲物に過ぎない筈の……。

白猿の思考は一瞬で屈辱と憤怒に染まった。

 

「ッッガアアアアアーーーーーーーーーッッ!!」

 

一切の手加減もない拳骨が、股ぐらに陣取るベルの頭蓋を砕き割るべく振り下ろされる。しかし真っ赤な瞳は迫る拳の速度を的確に見切っていた。

シルバーバックの視界から少年の姿が消えた。石畳に罅が走る。

 

「!?」

 

獲物を見失った怪物が瞳を左右に振る。それが、致命的な隙だった。頭皮が後ろ向きに思い切り引っ張られる痛みで、彼は全てを悟り、急いで振り向く。

そこには遠巻きに怯えた様子でこちらを見つめる、貧弱な獲物たちばかり……しかし、その中から驚嘆の声が上げられていた。前屈気味の姿勢を保つシルバーバックの背に一息でよじ登る少年の姿を眺めているのだ、人間達は。

痛みが緩んで、代わりに背を踏む感覚が生まれた。これ以上好きにさせる事は、檻から解き放たれ野生の矜持を取り戻しつつあったシルバーバックにとって、許容せざるに過ぎる屈辱だった。

 

「グォララアァッ!!」

 

背筋を思い切り反らし、両手を頭の上に伸ばす。今まさに自分の頭頂部に到達した小癪な人間を振り払い、あわよくば再びこの手の中に収め、そのまま五体を引き裂く為。

しかし、それは果たせない。シルバーバックはそのまま空振った両手を頭上で打ち合わせた。手拍子が街の一角に響き渡る。

 

「ああ!」

 

紙一重で、自分の肉体を砕く一撃をすり抜けたベルは、シルバーバックの額を蹴り、空中に躍り出た。その姿を認めてヘスティアはただ、驚愕するだけだ。あの、初めて会ったあの日……行く宛無く心細そうに道路の端を歩いていた少年は今、歯を食いしばり、真っ赤に瞳を燃やして、どう見たってレベル1の冒険者が相手に出来るはずのなさそうな怪物を見下ろしている。

……その片手に、自分が蹴り捨てた相手の、長い銀色の後ろ髪を掴んだまま。

ベルの狙いは、戦士としての心得など芥ほども持たないヘスティアにだって、容易にそして瞬時に、理解出来た。

 

「せえええああああっ!!」

 

「ガォヴッッ!!」

 

地面に落ちゆく重量物によって無理やり脳天越しに引っ張られた後ろ髪は、そのまま頭皮で繋がる額を道路に叩きつけた。

掲げられた両手と伸ばされた背筋では一切の受け身も取れずに、大猿の頭蓋は己が重量による衝突エネルギーを思い切りぶつけられる。

鈍い音を上げる衝撃は怪物の見当識を一瞬、完全に奪い去った。そうでなくても脳を揺らすダメージは暫く残り、駆け出し冒険者が自分の主を抱えて逃げるだけの時間を稼ぐのには、一連の攻撃の成功は充分過ぎる成果を上げたと言えた。

そう、ヘスティアは、そう思ったのだ。

 

「……っ!べ、ベル君っ、このまま逃げっ……」「うおおおおっ!!」「!?」

 

女神の提案は、少年の掛け声に食われあっという間に途切れた。

ベルはシルバーバックの髪の毛を両腕で掴み、未だ地を舐める顔を力任せに持ち上げる。白目を剥いて鼻血を垂らした大猿の、半開きの口までもが見物人の目に映った。

目の前で何が起こっているのか、自分の眷属は何をやっているのか、ヘスティアの脳は一瞬、理解を拒否した。少年の腕から胸に至る筋肉の興りが、衣服の上からでもはっきりと見えていた。

横顔を向けているベルの双眸。それは今刃の如き鋭さを象り、頭から流れ落ちる一筋の血が左目を跨いで、瞳を更に赤く染めていた。彼は自分の腕の中にある敵の事だけを見ていて、他の何かを考慮する隙間など一分足りとも残っていないように、ヘスティアには思えてならなかった。

それは、正しかった。

 

「はああああアアアーーーーッ!!」

 

石畳に、怪物の顔面が再び叩きつけられる。何かが潰れる濁った音とともに、僅かに赤い液体が飛び散った。

 

「ッ、ッバッ!!グォガッ!!ガギャアアッ!!」

 

意識を呼び戻す衝撃で顔を上げ、シルバーバックは何が起きているのかもわからず本能的に四肢を動かす。自分が今、うつ伏せに倒れている事すらも理解するのにままならない有り様の怪物に対し、ベルはその顔の正面に陣取った。

視界に映った存在の正体に気付くより先に、その人影が足を振りかぶるのだけをシルバーバックは理解した。

 

「ヴギェ……ッ!!」

 

「…………っ!」

 

ばらばらに広がった後ろ髪の一房を掴んだまま、ベルは鉄板入りの爪先をシルバーバックの鼻っ面に渾身の力で蹴り込んだ。軟骨を砕く音はヘスティアの耳にも届き、その露骨に凄惨な光景と合わせて、彼女の身を強張らせる。

戦慄が女神の身体を覆い尽くしていた。あの、優しく、穏やかで、少しアプローチをするだけで顔を赤らめて慌てる純情な少年の姿は、どこにも無い。

目と鼻の前で、一片の躊躇も見せずにこれほどにも残虐で容赦の無い戦いを演じる戦士が、自分の知る眷属と本当に同一の存在なのかどうかという、現実逃避じみた疑念さえ、彼女の中に芽生えていた。

そしてそれは、ほんの少し前に抱いていた、ある懸念……恐怖を再び思い出させる呼び水として、充分過ぎた。

あの、どこまでも不穏な、刻印として現れた文言への、拭いがたい恐怖……。

身体を小さく震えださせる主の姿など一瞥もせず、ベルは怪物の顔の中心に少し埋まっていた爪先を引き抜いた。血液が断続的に吹き出す。再び急所を打ち抜かれた痛みと、酸素の交換機能の低下で、シルバーバックの思考は更に錆びつく。この苦痛をもたらす存在の認識と排除よりも、とにかく身を起こして体勢を立て直すという消極的な判断を選ぶほどに。

 

「ン゙ア゙ァッ、ン゙バッオ゙!」

 

顔をそむけて地に四肢を押し付け、身体を持ち上げようとした瞬間、首が上がるのを妨げる力に気付く。違う、それは、前髪を掴んで引き寄せているのだ。ぎりぎりと頭皮を伝わる、そのまま剥ぎ取りそうなほどの凄まじい力。やっとシルバーバックの双眸が、眼前の存在に照準を合わせた。自分の顔の横に立つ、その人間。

下がった口角。噛み合わされた白い歯。深く谷を作る眉間。そして、何より。つり上がった真っ赤な目が、燃えていた。

全てを焼き尽くそうな程な業火は鋭く、そして、どこまでも、それを向ける相手に対し、冷たい。……永遠に溶けない氷を地獄の炎で包んでいるような、瞳の色……。

シルバーバックの中に、ある感情が生まれた。

人間の口が、大きく開かれ、その奥から声が絞り出される。

 

「おおおオオオオオッ!!」

 

「ッ、ア゙ア゙ッ……!」

 

恐怖という感情を理解した瞬間、シルバーバックは、反射的にそれを振り払う為に、渾身の力で右腕を振るった。反射的な行動は相手の回避運動やそれを考慮した軌道など全く持たなかった。けれども、だからこそ、それはベルにとって極めて有効な、意識外からの完全な不意打ち足り得たのかもしれない。

 

「ッグぅっ!」「ゲア゙ッ!」

 

右手のひらに思い切り叩いた獲物の感触が伝わると同時に、真横から与えられた下顎への凄まじい蹴撃で生まれた振動によって脳を頭蓋の中に叩きつけられ、シルバーバックは意識を失った。

しかし盲打ちの一発を貰ったベルも無傷とはいかなかった。大猿の手のひらの、小指側の厚い側面で殴られた少年は、道路の反対側の本屋の軒先にまで転がりながら吹っ飛び、そこで両膝をついて止まった。

 

「ッ……、ッ……!」「ベ、ベル君!」

 

頭を下げたまま、ダメージで震える足を堪えている眷属の姿に、ヘスティアははっとして、立つこともまだおぼつかない足に鞭打ち、ふらふらと駆け寄った。

 

「ベル、君っ……もういいっ、もう、充分だ!逃げよう、逃げるんだっ!」

 

その肩に手を乗せて、懇願じみた制止を呼び掛ける。地に這いつくばろうとするのを必死で押し止めている様のベルの身体は近くで見れば、あちこち衣服は擦り切れ、そこから血が滲んでいた。武器も防具も何も無く、レベル2相当の怪物相手に二発の直撃を貰ってこの程度で済んでいるのは、類稀な幸運と言うべきだ。片や、その怪物は今、尻を突き上げた間抜けな格好で身を横たえ、白目を剥いていた。

自分の眷属がとんでもない快挙を成し遂げたのだという事くらい、ヘスティアにだって理解できた。レベル1の冒険者など容易く捻り潰す強さを持つだろう存在を、丸腰で相手にしてここまでやったのだ。周囲から俄に湧き上がりつつある歓声は、彼女の確信を証明しているようだった。

 

「あ、あんた達、大丈夫か??手が必要か?」

 

観衆の一人が恐る恐るとした様子で主従に声を掛ける。純粋な気遣いと、慈悲の欠片も無い戦いを見せた者への畏怖の混じった声だ。しかしどうあれ、手を貸してくれるのはヘスティアにとって有難い事だ。彼女自身、まだ大猿に絞め上げられたダメージが抜けきっているわけではなかった。

 

「今、ギルドに行って、助けを呼んだところだ……さっさと逃げたほうがいい。素手じゃあ、あれが限界だろう、その子だって」

 

「あ、ありがとう。ベル君、ほら……っ!?」

 

ヘスティアとは反対側の肩を貸そうと、男が屈んだ。しかし、彼の思惑は果たされなかった。ぐん、と首を上げるベル。そう、あの凶相を全く変えずに、倒すべき敵だけを目にいれたまま。その仕草を見た瞬間、主は眷属の次の行動を理解した。ぞわっ、と首筋に走る悪寒が、彼女に自分の果たすべき使命を呼び覚まさせた。

 

「ちょっと、おい!君、無茶だ!!」

 

男の手に構わず、石畳についた手に込めた力の反動でベルは大きく足を踏み出した。そのまま地を蹴る彼がシルバーバックに追撃を入れられなかったのも、その腰にかじりついたヘスティアの判断あってこそだ。

 

「駄目だっ、駄目だっ!!ベル君っ!お願いだ、目を覚ましてくれ!!もう帰ろう、……ベル君!!」

 

声は全く、届かない。

悲しいほどに無力な神の姿があった。

周りの事など見えも聞こえもしない少年は、全力で足腰を踏ん張る主の身体を引きずって、一歩、一歩と足を踏み出す。その先に待つ、倒すべき敵のもとへと。その光景はまさしく、先の闘技場において繰り広げられたものの再現だった。

少年の発するただならぬ威容と、顔を真赤にして、細い腕に血管を浮き出させ止めようとする少女の姿に、一種鬼気迫る異質な空間が形成されているような違和感を、傍から見る男は覚えた。未だ意識を取り戻していない怪物が暴れていた先ほどとは違う、更に切羽詰まった様子の雰囲気に。

 

(イヤだ、行っちゃ駄目だベル君、こんな戦い方じゃ……違う、このままじゃ、君は……)

 

言い知れぬ不安がどんどん膨らむ。それは、少年の身を案じての事だけではなかった。思い起こされるのは、あの刻印。

激しい怒り。黎明の幻影。比類なき力。逃れられぬ運命――――。

そして膨らむ、消えない恐怖。彼が知らない何処かへ、ただ一人行ってしまう事への恐怖。……取り残されてしまう事への恐怖。

しかし……それ以上にヘスティアは、彼が行くその先に待ち受けるものに、直感的な確信に基づく恐怖を抱いていた。

 

(……きっと、とてつもなく恐ろしい事を……何か、取り返しのつかない、決して、贖うことの出来ない過ちを犯してしまう、そんな気がする……!!)

 

その予想には何の根拠もなかった。強いて言うのならば、今の彼の尋常でない様子だけが、その予想を単なる誇大妄想と決めつけられない状況証拠たり得ていた。人が変わったかのような、という比喩どころではない変貌ぶりは、平素のベルの姿を見知る者に対し、己が目を疑わさせるのに充分すぎた。

切なる主の思いなど無意味だった。ベルは一歩、また一歩と足を踏み出していく。その度にヘスティアの身体は上下に揺れ、深い絶望感と無力感に打ちのめされた。

どうしよう、どうすればいい?

どうすれば、止められる?

どうすれば、目を覚まさせる事が出来る?

目を……。

 

「…………!!」

 

ヘスティアは、導き出した結論を実行するのに、一切躊躇しなかった。

坂道を転げ落ちる馬車を必死で引くような不毛さを持つ行為を止める。引き留める力が一瞬緩まった事で、ベルの足が変速する。全ては、目の前で地に臥す獲物を屠るために。

しかし、彼女の出せる精一杯の力は、その小さな身体を無理やり、ベルの身体の前に滑りこませる事に成功した。

胸にしがみついた自分に対し目もくれない眷属の様子は、ヘスティアに例えようもない悲しみを与えた。けれども、感傷に浸っている暇など、無かった。

ヘスティアは、意を決した。右手を振り上げ――――

 

「――――ッッ!!」

 

乾いた音は、いやに鮮やかに、周囲に響いた。

同時に、少年の歩みは、止まった。

左手で胸ぐらを掴んで振りぬいた右手をそのままに、ヘスティアはベルの瞳を真っ直ぐに見つめていた。

衝撃で傾いたまま呆け、丸くなった、赤い瞳を。

それはゆっくりと、身体の正面に立つ者に、焦点を合わせた。

彼にとって、何者にも代え難い存在に。

 

「…………え……?……神様……?」

 

突如、それが出現したようにしか、ベルには思えなかった。彼に見えていたのは真実、唐突に現れ、主を傷つけようとした敵……憎い、何よりも、自分の中の憎しみを煽り立てる存在だけであって……。

 

(……え?)

 

ベルはふっ、と顔を上げる。数歩先にまで迫った、その身を地に横たえるシルバーバックの姿。

自分が倒した。……倒した?

違う。

 

(……まだ、生きている……)

 

黒い何かがベルの視界を、思考を覆い始めていく。

瞬間。

 

「ベル君っっっっっっ!!!!」

 

いよいよベルの襟を両手で掴んだヘスティアは、自分の残った力全てを声に変えて放出した。これで力尽きてしまい目的を果たせなくなるかもしれないだとか、もはや立って歩く事も叶わなくなるかもしれないだとか、そんな懸念など無かった。これでも眷属の心を呼び戻せないのだとすれば、もうヘスティアは何も必要としなかったのだから。

全てをなげうった声はやっと少年に対し、今また自分がつい先刻と同じ失態を演じていたのだという事実を自覚させた。それは底抜けの絶望感を与える冷たい首枷でもあった。

身体を硬直させたベルの目の中に、彼の自分自身への失望と激しい狼狽、声のない慟哭があるのをヘスティアは確かに見た。

今しか無い。

眷属が今一度悲嘆に沈むのを、座して見守り慰める事などヘスティアはしなかった。

使い果たした筈の力が再び、彼女の肺を膨らませた。

 

「逃げるんだっっっ!!」

 

「…………!!」

 

ベルはやっと、何もかもを悟った。自分自身をしこたま殴ってから全身をバラバラに引き裂いて殺したくなる衝動を抑えこむために、割れそうなほどに歯を噛み締める。少し腰を落としてから、自分にしがみつく主の肩と膝の下にそれぞれの腕を通して、一気に持ち上げた。

軽い。

それは、羽根のように軽かった。

そして、そのまま彼の心臓を押し潰してしまいそうに重かった。

 

「ッ…………!!!!」

 

走った。

飛ぶように地を蹴って、道路を駆けて行く。

 

(逃げるのか?)

 

走る。

ただ走る。

 

(逃げるのか!)

 

黙って走る。

ひたすら走る。

 

(敵から背を向けて、逃げるのか!?)

 

何も言わずに自分の身体にしがみつく、暖かく柔らかいものの感触だけを思って。

今も頬に残る痛みだけを思い出して。

 

(戦わずして、恐れをなして、逃げるのか!!?)

 

「あああああアアアアアーーーーーーーーーーーーッッ!!!!」

 

「…………っっ!!」

 

都市に響き渡る咆哮を上げて、少年は走った。

その肩にただ顔を埋める女神は、きつく目を閉じ、眷属の首に固く手を回して、ただ、一刻も早くその場所にたどり着けるよう祈った。

二人の帰る場所。

あの小さな神殿の、小さな部屋へ。

決して、何が起ころうとも……世界がこの瞬間滅びようとも、今自分を抱いて走る少年から離れまいと誓いながら。

正体のわからない恐怖と戦いひた走る少年の孤独を、少しでも紛らわせられるようにと、願いながら……。

 

 

 

--

 

 

 

「おっかねぇな、冒険者ってのは……」

 

脱兎の如く走り去った影を見失ってから、男は零した。先程まで繰り広げられていた戦いの喧騒。その中心に居た少年の顔を思い返し、彼は今一度、肝が冷えた。背丈からして自分の半分ほどもあろうかという齢で、武器も持たずにあの身のこなし。見上げる巨体を前に一歩も退かずに怒涛の連撃を叩き込む少年の凄まじい形相。

思い返すにつけ、つくづく住む世界の違う住人だと改めて思った。そんな者にこそ自分の生活は支えられているとも自覚はしていたが、これほど間近で見せつけられる機会は初めてだった。

 

「あんな毎日じゃあ、そうそう身も持つかねえ……」

 

必死で縋りついていた可愛らしい少女こそが、あの少年が忠を捧げる主なのだろうとも気付いていた。故に、少女への同情も抱く。あれほどに気を揉ませるような戦いを繰り返すようじゃ、どちらも早晩寿命が擦り切れてしまうに違いない、と。

 

(まあ、関係ないがね)

 

彼はただの野次馬の一人だった。ほんの少し、その場に居合わせた面々よりも、好奇心が優っていただけの……。

ともかく、これ以上ここに留まる理由は、彼も持っていなかった。やがて、後始末をつける連中はやって来るだろう。邪魔にならないうちに退散しようと、彼は振り返った。

壁があった。

 

「は?」

 

突如現れた障害物の正体を確かめるより先に、彼は全身を襲う衝撃で意識を失った。

冒険者ですらない一人の人間は、そのまま、立ち並ぶ商店街の、防具屋の軒先の陳列棚に飾られた防護服の中に突っ込み、微動だにしなかった。

道を阻む小石を払いのけたシルバーバックは浅く口呼吸を繰り返し、真っ赤に充血した目を見開いて、道路に残る足跡を見つめた。

黒い、右足の爪先の形だけが点々と続く、血の跡。

再び街の一角は、人々の悲鳴で満たされる。しかし、それを呼び起こした者は、煩わしさなど覚えなかった。

彼の中にあるのは、全身をぐつぐつと煮えたぎらせる激しい怒りだけだった。

鳴き声も発さずに、巨体は四つん這いになって、鎖を引きずって真っ直ぐに走った。

あの、白い、小さな者に対し、今自身を満たす激情の全てを叩きつけるべく。

その脳裏からはもう、銀色の女神の存在など、残滓すらもなく消え去っていた。

 

 

 

--

 

 

 

 

ヘスティアは今度こそ、眷属に対してかける言葉が見つからなかった。ホームの扉を開いて、ベッドに主の身体を降ろして、それからベルは俯いて立ち尽くしていた。両手の拳から血が滴り落ちていた。シルバーバックの不意打ちで残る全身の鈍痛などよりも、ずっと癒しがたい痛みが彼の胸を冒していた。

かつてないほどに、彼を今苦しめている彼自身の愚行を諌めれば、それが僅かな救いになるかもしれない。しかしどうしてもそれを出来ないのは、単なる甘さなどではない。

今日二度も見せたあの、心優しい少年の全てを支配して突き動かしていた何かの事を思えば……。

 

(……やっぱり、あの刻印だ。絶対に、おかしい。単なる強さだけじゃない、もっと根本的な所が……)

 

ベルが演じた戦いは明らかに、冒険者になって一月も無い素人に出来る動きではないとヘスティアにはわかっていた……神の刻印によって成長していく身体能力とは違う。力や速さに任せたものではなく、頭の中で完成された独自の戦闘論理に基づく動きだ。敵の弱点を瞬時に見抜き、それを的確に突いて隙を作り出し、そこから更なる致命傷へ続く攻撃の機を呼ぶ。

……もしも、ベルの発現させた異常さがそれだけだったのならば、ヘスティアも或いは……なんとか、それこそが彼自身の中で目覚めた新たな異能なのかもしれないと許容する事が出来ただろう。

しかし、違う。

眷属を突き動かしていたものはそんなものじゃないという確信はもう、揺るがなかった。

まるで、彼という人格、意識を、彼ではない何かが丸ごと乗っ取ったような光景に、ヘスティアは底知れない恐怖を感じていた。

考えられる原因は一つしか無い。あの、彼の背に浮かび上がった、未だ目覚めるのを待たされている運命の刻印……しかし、と思う。

 

(でも、アレはまだ刻んでいないはずだ……なのに……)

 

あの時、真っ赤に輝く巨大な文字とともに、それは炉のエンブレムをかき消して、ベルの背中に浮かび上がったのだ。

予言じみた、不吉さしか呼び起こさない刻印……。

そこで、もしやの可能性が女神の中に芽生えるのは必然だった。

 

(……有り得るのか?神の力無しに、発現させるなんて……!)

 

一瞬で、その懸念がヘスティアの頭の中を覆い尽くした。

がばりとヘスティアは立ち上がって、ベルの震える肩を掴んだ。

 

「ベル君、脱いで!」

 

「……?!」

 

「はやく、背中見せてくれ!」

 

罪悪感と卑下、何よりも、訳の分からない衝動に身を任せ二度も主の事を忘れた今日の己自身への怒りに震えるベルは、突然のヘスティアの行動にただ困惑した。

そのまま、反抗も許されずにベルはベッドに引きずり倒されて、あちこち破れた上着を無理やり剥かれる。

未だに全身を支配する黒い感情の渦と主のただならぬ気迫によって、ベルは一言も言葉を発せないままだった。

そのまま眷属の腰の上に座ったヘスティアが、針を探すのも惜しく親指の皮を噛み切る。

滲んだ血が、少年の硬い背に押し付けられた。

溢れる光が漣となり、神の文字が浮かび上がる……。

 

「…………」

 

矢継ぎ早に指を動かし、ヘスティアは神の恩寵を発現させていく。力。速さ。器用さ。打たれ強さ。いずれも、あの恐るべき大猿との戦いによるであろう成長が見られていた。ここ数日のそれに比べれば、僅かな伸びしろではあったけれども。

ともかく、そんな瑣末な数字の多寡などどうでもいい。遂に本題へと辿り着く。空白のままの、発現を待つ運命の眠る箇所。

震える指で、その、未だ目覚めぬ運命の形に、ヘスティアは触れた。

赤い、血のように赤いその刻印が、音もなく、人間の背に現れた。

そして、ヘスティアは、見た。

再び、そこに現れた、運命の形を。

あの時見た文言に続いて綴られる、新たな文字を。

 

 

 

 

 

 

『目覚めを退ける事は叶わないだろう』

 

 

 

 

 

 

『その時を免れる事は能わないだろう』

 

 

 

 

 

 

 

『因果を覆す事は果たせないだろう』

 

 

 

 

 

 

 

『決して』

 

 

 

 

 

 

 

 

『何者も』

 

 

 

 

 

 

 

 

「――――!!!!」「神さ――――?」

 

「ッッバァオ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙!!!!」

 

「!?」「わっ!」

 

部屋を揺るがす大音響でベルは跳ね起きた。その反動で不敬にも主を危うく床に転がす所だったが、そんな事にもベルは気づかなかった。声の持ち主を知っていれば、それほどの反応も見せた。

間違いない。どうして忘れられようか?ほんのさっきまで、その顔を突き合わす距離で聞かされていた咆哮の事を。

あの大猿は、自分を追ってここまでやって来たのだ。そう理解した瞬間、ベルの全身の筋肉の興りが皮膚に浮かび上がる。あたかも彼の身体そのものが、戦いを求めているかのように……。

行かなくては。

……倒さなくては。

…………今度こそ殺す。

ベルが一歩、踏み出した。

 

「……ッ!」

 

がたっと音がして、ベルの頭が一瞬で澄み渡った。振り返る。

床に座り込み、縋るような目つきを向けて、手を伸ばしかけている、小さな少女の姿……。

 

 

 

--

 

 

 

 

 

『……!お願い!』

 

 

 

 

『一人にしないで!……』

 

 

 

 

『行かないでーーーっ……!』

 

 

 

 

 

 

--

 

 

 

 

視界に一瞬だけ、何かが重なった。同時に、何かが、聞こえた。遠い何処かから、誰かの……。

――――身体中を這う黒い何かの感触を今、ベルは理解した。自分の心を容易く覆い尽くす……何か。

 

「ア゙ア゙ア゙ーーーーーーーーオオ゙オ゙ーーーーーーーーッッ!!!!」

 

再びの咆哮、そして、地響き、上から聞こえる倒壊音!それに突き動かされるように、ベルはヘスティアに駆け寄って、発作的に、小さな身体を包み込んだ。

 

「っは……っ!」

 

「…………!」

 

発作的な衝動だった。戦場へと急き立てる足を力づくで従え、体の奥から溢れる激しい戦意を振りきる程の。

細い肩に乗せる両手は、その中にあるものを決して傷つけまいとという繊細さと気遣いを持っていた。

少年の硬い胸板に視界を覆われたヘスティアは、再び眷属が我を忘れようとしていた事への不安を覆された驚愕で、何が起きたのか一瞬、理解が遅れた。

そして、鼻から頭の中に送られるにおいで、自分の置かれた状況を知る。濃い、汗と、血のにおい。激しい戦いの痕。彼の中に潜む何かの証……。

ずん、と、また部屋が揺れて、天井から埃が落ちた。びくりと二人の身体が震えた。それは、恐怖が引き起こした反応だ。しかし、ホームに乗り込んできた怪物に対してのものではない事は明白だった。

反射的にヘスティアは、ベルの背中に少しだけ腕を回し、捲られた状態からずり落ちていた肌着をぎゅっと掴んだ。瞼を閉じる。

怪物の憤怒の叫びも、どこか遠い世界のできごとに感じた。主従の間に無言の、一瞬の安らぎが、確かに生まれていた。

けれども……。

 

「ガア゙ァァーーーーーーーーーーーッ!!!!」

 

もう一度、部屋が揺れて、ベルはもう、悟ってしまった。

もう、駄目だ、と。

これ以上、ここに留まれば、いずれこの場所も探り当てられる。そうなれば、この小さな、ベルの帰るべき場所は、たった二人の住民もろとも、いよいよ蹂躙されるだろう。

たとえ命に代えようとも、それを座して待つ事は出来なかった。

自分がこの災厄を呼び寄せた以上、やることはもう、決まっていたのだとベルは思った。

……その認識は、彼の主も、また……。

自分の肩から眷属の手が離れるのを、ヘスティアは止めなかった。

止められなかった。

顔を上げ、大きな瞳は、ベルの赤い瞳と向き合う。その揺れる光に宿る葛藤と罪悪感は、どうすれば拭い去ってやれるだろう?

彼の背負った……或いは、その中に既に巣食っているのかもしれない巨大な、計り知れない何かに対しての憤りすらも、ヘスティアは抱いていた。

それが、神が一人の人に対して向けるには、哀れまれるべきほどの矛盾に満ちた思いだという事を、ヘスティアは知らなかった。

 

「…………ベル君」

 

一緒に行く事を眷属は望まないだろうということを知っていたヘスティアは、しかしそれでも、隙あらば彼を喰らいつくそうとするものから遠ざける術を、精一杯思案していた。

今、自分が差し出したものなど、ひょっとしたら、何の意味も持たない浅知恵ですらないのかもしれない、とも予感していた。

それでも、縋りたかった。

重ねた時は浅けれど、彼の贈ってくれたものに込められた思いに。

そんな、儚い希望が、真鍮のリングに嵌る翡翠を一瞬、煌めかせたのかもしれなかった。

 

「………………僕……は……」

 

「必ず…………」

 

震える喉から搾り出そうとした言葉が遮られた。ベルは、聞き苦しい釈明と懇願を飲み込んで、主の顔と、その前に掲げられる指輪を見つめる。

 

「約束、してくれ……帰って、これを……その手でボクに返しに、自分の足で……帰ってくる、って……」

 

一語、一語、噛み締めるように、紡がれる言葉。白く細い指がわずかに震えているのをベルは見た。

その決意のほどの片鱗を知れば、背くことなど断じて許されない使命と彼の心に刻み込まれる。

それは、あの恐ろしい衝動に身も心も委ねる事への楔でもあるという真意も。

かつて女神の目の届かぬ遥かな闇の底で、ミノタウロス相手に演じた蛮勇の結果……あれを上回る最悪な予想図こそが、自分を塗り潰す黒い何かのもたらす未来と、決して、忘れないように……。

 

「……守ります。必ず、ここに、自分の足で、帰って来ます」

 

目覚めたあの日、自分が立てた誓いを、再び口にする。

手に落とされた指輪の硬い感触は、偽りを看過せざる誓約の鎖とも紛う。ベルはそれを、右手の中指に嵌めた。

拳を握って確かめる。主から託された信頼の証を。

言葉もなくベルは立ち上がり、片付けられていた武具を取り出して素早く身に着けていく。いい加減に着こなし慣れてきた供与品達は、あのレベル2相当の怪物をここから連れ出すのに、どれほどの役に立ってくれるのかどうか、ベルにもわからない。第五階層で辛くも命を拾われた駆け出し冒険者の身では……。

棚の中の試験管をひとつ取り、飲み干した。身体に残っていた痛みが引いていく。馴染みの神の気遣いを思い出し、ベルは感謝した。残ったもう一本を腰袋のポケットに仕舞う。

 

「オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙!!!!」

 

細かい傷に覆われたナイフベルトを締めた瞬間、また、大きく部屋が揺れる。猶予の無さは明らかだ。

 

「―――――」

 

神殿の一階部分の荒れ果てようを想像し、ベルの中でざわりと何かが揺らめく。それは握った右手の中の感触ですぐに消え去り、本人の自覚を免れたが。

とにかくベルは狭い部屋の中を移動する時間さえも惜しかった。駆け足で、扉の前に立つ。

そして、振り向いた。

何も言わずにただ、戦いの準備をする眷属を見守っていた女神は、両手を腹の前で握り、図らずしも何かに祈るような姿を象り、ベルの事を見つめていた。

視線が交差する時間はわずかだった。

何よりも失い難い絆を手の中に感じるベルの瞳は、決意で固く引き締まり、主の姿を映す。

 

「ベル君」

 

「はい」

 

最後の会話だった。

 

「君が行く場所に待っているのは、とんでもない強敵なのかもしれない、けど」

 

「……」

 

「勝たなきゃ、生きて戻って来れない、なんて事だけは、考えないでくれ……」

 

「…………」

 

「逃げて、失う物なんか何も無いんだ。あれを片付ける動きも出始めているはずなんだから……」

 

ベルがシルバーバックと対峙せねばならないのは、この場所を守るためなのだ。何をおいてもここから奴を追い出して……あわよくば、本来この珍事を収める義務を持つ者と引き合わせる事が、彼の役目と言えた。

戦う必要など、無い……そう、主は眷属に対し、最後の忠告をしたのだった。

それが彼女に出来る、少年に潜む何かを退ける為の最後の力添えだった。

ベルは、黙って、力強く頷く。

そして、扉を開いた。

戦地へ続く暗い道の先の階段目掛けて、地を蹴る。

閉じていく蝶番も省みなかった。

獲物を探す大猿の地団駄で、把手が戻る音は、かき消されていった。

眷属の姿が扉に阻まれると、遂にヘスティアは床に膝をついた。

小さくなって、自分の両肩を抱いて、そこに残る少年の温もりを思い出した。

そして、ただ祈った。

天界の絶対者は、ただ、そうする事しか出来なかった。

 

 

 

 

--

 

 

 

 

祭壇の奥から飛び出したベルの前には、無惨に荒れ果てた神殿の内装が広がっていた。申し訳程度に残っていた装飾や、朽ちてもなおその役目を保っていた椅子、机、棚。全てが破壊されていた。

辛うじて、石造りの祭壇だけが、その形を保っていた。

それを成さしめた者は今、ベルに背を向けて、神殿の中央に佇んでいた。

 

「…………ッッ!!」

 

心の中から湧き出す激情の奔流は少年を一気に支配しようとのたうった。帰るべき場所を滅茶苦茶にされた激しい怒りが、彼の身体を突き動かそうと急き立てる。

しかし、抜いたナイフを握る右手の中指を締め付けるリングが、彼に自身の役目を思い出させた。怒気を鎮めるように、静かに、深く息を吐く。

 

(こいつは、僕を狙って、ここまで来たんだ)

 

ならば、やる事は決まってる。あの木偶の坊を、外へ誘いだして――――

そう思案に耽けようとした瞬間、巨体が振り向いた。

 

「――――――――」

 

ベルの身体が、思考が、止まった。

白い体毛の中に浮かぶ、黒い顔面。引き結ばれた口元は、先程まで喉を潰すような怒声を発していたものとは思えない穏やかさを保っているように見えた。

しかし、そこから、シルバーバックが唐突に慈愛の悟りに至ったなどと読み取ることなど、どんな愚か者にだって出来ないだろう。

血走った血管で真っ赤に染まる、限界まで見開かれた両目を見れば。

己が対面したことのあるどんな人物でも発した事のない、果てしない怒りがそこに宿っているのだと、ベルは瞬時に、理解した。

祖父に幾度もぶつけられた叱責や、先日のエイナが爆発させた癇癪とも違う。

 

(死、――――?)

 

殺意。

底知れない憎しみの生み出すそれは、ただ散漫に、目についた者に襲い掛かる迷宮の怪物達の放つものとは、桁が違った。

まして、ベルがこれまで倒してきたのは、レベル1の冒険者ですら倒されるのも珍しい連中ばかり。

明確な指向性を持った、格上の存在にぶつけられる復讐心は、あっという間に少年の心を蹂躙した。

ぶる、ぶる、と、ベルの足が笑い始めた。本人の意思と関係なく。

 

「ぁ…………ぅ…………っ」

 

硬直した喉から意味のない声が漏れた。

悪寒が全身を駆け巡っていた。

 

(……!?)

 

そしてベルは、自分の股間が濡れているのに気付いた。

それが、レベル1の冒険者が、レベル2相当の怪物と対面した時の正しい反応なのだと、今ようやく、彼は気付いた。

全ては、遅きに失していたのだけれども。

 

「ア゙ーーーーーーーーーーーーーッッ!!!!」

 

咆哮は、凍り付いたベルの身体を打ち砕くように揺さぶった。瞬間、ベルは、手の中にあるその感触を思い出した。

片や遂に、遂に怨敵を見つけ出したシルバーバックは、狂喜と憤怒に全身を任せて、祭壇の裏に立つ人間目掛けて跳びかかる。

 

「うわあああああああああああっ!!」

 

悲鳴を上げ、ベルは身体を転がす。かつての彼を満たしていた戦意は、霞のように消え去っていた。

シルバーバックの振り下ろした両拳が、祭壇の上に立つ、半身を崩れさせ由来も知らぬ神像を粉々に打ち砕き、ベルの身体に破片を降らせた。

 

「ああああああああああああああっ!!」

 

恐怖が少年を突き動かしていた。それはかつて第五階層で見せた姿の再現だった。かつてない生命の危機。いや、それだけではない。

叩きつけられる激情の波に呑まれた事は、あれから幾分かは成長したはずの彼から、反撃や抵抗の意思を根こそぎ奪い去っていたのだ。

思考を満たすのは、逃避の一念だけだった。

バネが戻るように身体を起こしたベルは、全力で、出口に走る。破壊された両開きの扉から見える都市の光景へ向かって、彼の全身の筋肉が稼働する。

引き裂き、噛み砕き、磨り潰しても足りない相手が逃げていく姿は、祭壇の痕に立つ怪物の充足感よりも、虫を潰しそこねた屈辱を呼び覚ます。

 

「グッバァア゙ア゙ア゙ッ!!!!」

 

「ひいいいいいいいいいいいいい!!」

 

疾風を纏い走る彼の顔は、正面から吹き付ける風圧と、何よりもただ、後ろで吠える怪物に対する恐怖に歪み、涙と涎を止め処なく溢れさせていた。

あっという間に神殿の外へと脱出する事に成功したベルはしかし、何の安らぎも得られていない。後ろから迫る重い足音は、むしろ彼の生命維持本能を更に刺激する。

敷地から飛び出し、全身を傾けて曲がると、直後、角に巨体が激突する音が聞こえた。

振り向く事など出来ない。その瞬間、自分は死の招き手に捕らえられ、逃れられない終焉を迎えるとベルは知っているのだから。

なぜ自分は、あんなのを相手に立ち向かったりしたのだろうか?

なぜ自分は、あんなのを相手に逃げられると思っているのだろうか?

浮かんでは消える疑問について腕を組み考える時間など無かった。街の外れの路地を駆け抜ける捕食者と被捕食者のチェイスは、幾多もの曲がり角を越え、周囲の住民達に恐怖をばらまいていく。

 

「なっ、何だあ!?」

 

「怪物だ!!

 

「どうして街に現れるんだ!?」

 

「誰か何とかしてくれ!」

 

巨体が靡かせる鎖は、狭い路地を方向転換するたびに建造物に衝突し傷跡を残した。目的地などまるで念頭に無いベルの逃走劇の終わりがいつ訪れるのか、誰にもわからない。

しかしその終わりの瞬間の画は、誰にも明らかな想像が可能だろう。

小さな獲物を手中に収めた大猿が、怒りとともに握り潰すその光景は。

ベルの頭の中を占めるのは、未来への絶望だけだった。

 

 

 

--

 

 

 

なんだか、不穏な物音がスラム街のほうから聞こえていた。リリは嫌な予感がした。

そうでなくても、今日という盛大な祭りの日で浮かれている冒険者達から、少しばかりのお零れをちょろまかして回るのに勤しんでいた所で、何やら慌ただしく職員が闘技場の方角へ走って行くのを少し前から見かけている。

変な緊張感が街全体に漂っているのだ。娯楽など眼中にない彼女でも、周囲に意識を巡らせる人間が増えるのは好ましくない状況だった。

 

(何だっていうんですか……)

 

心の中で舌打ちをして、俯いたまま道路の端を歩く。その姿は、うだつの上がらないサポーターそのものだ。向けられる蔑みと疑念の裏をかいて幾人もの冒険者を謀ってきた食わせ者とわかる人間など、居ない。絶対に。

大きな背嚢を背負い直す。がちゃっ、と重い音がした。

 

(こう中途半端な時間じゃ、迷宮に行っても仕方ない、ですか……)

 

リリは、馴染みの骨董品屋に向かう事にした。幅広の道路を挟んで反対側に見える細い路地へ入るべく、一歩、踏み出す。

瞬間、彼らはリリの前に初めて、姿を現した。

遥かな古代より伝わる偉大な建築家の名を冠する薄暗い旧市街から飛び出す、小さな影。

 

「ああああああああああああああ!!!」

 

それを追って、構造物を肩で押しのけ、生み出す瓦礫もろとも道路に躍り出た巨大な影。

 

「ジャァア゙ア゙ア゙ーーーーーーーッ!!!!」

 

それが何なのかリリは一瞬、理解が遅れた。白い少年のシルエットは、その全体像を把握するより先に、彼女の鼻先を掠めて過ぎ去った。刹那遅れて風が吹き、リリのフードの下の髪を揺らした。呆然と、少年の背を見つめる。

 

「!?……っ!?、!?、!??!」

 

次いで、どどん、どどん、どどん、と、道路を重く鳴らす足音が、リリの足裏を通じて鼓膜に届く。振り返った瞬間、彼女は自分の愚鈍さを呪った。

その怪物の存在をリリは知っていた。レベル2相当の怪物だ。迷宮においても一度しか見たことのないそいつは、片手で数えられる数のレベル1の冒険者のパーティなど、まとめて物言わぬ肉塊に変えられる実力を持つ事すら。

シルバーバックは全力の四足歩行による追走の勢いを殺すのを許容して、獲物の前に立ちはだかる障害物を右手で掻っ攫った。

 

「っがは!!」

 

巨体の質量に、その四肢が生んでいた速度を乗じたエネルギーは、大きな背嚢で若干の軽減を経てもなお、ホビットの姿をした小さな生き物の抵抗を無くすだけの衝撃を持っていた。

立ち止まったシルバーバックは、ブラックアウトしているリリの身体を、背嚢ごと振りかぶる。

視線は真っ直ぐ、その先に在るのは愚かにも直線道路に迷い出た憎き獲物だ。

シルバーバックの口角が上がる。双眸は、目論見の成功を幻視していた。本能を優先して働く怪物の脳味噌も、今は足を動かして脅威から遠ざかる事しか考えていない人間の虚を突くのには、充分過ぎる出来だった。

 

「ッッヂャァァ!!」

 

その姿が現れてからパニックに陥る通行人達の耳に届く掛け声と、低い風切り音。物言わぬ投擲物となった少女の身体は、一直線に、目標へと向かった。

背を丸め、今にもつんのめりそうなほどに必死さを滲ませて走る、レベル1の冒険者のもとへ。

 

「ぐっ!?」「うげッ!!」

 

噴石のようにリリの身体はベルと衝突して、両者はごろごろともみくちゃになって道路を数秒転がり、止まった。それぞれの背嚢と腰袋の中身が周囲に飛び散る。

臥せり、衝撃に軋む全身。何が起きたのか、ベルは状況を考えるよりも、自分を覆う大きな何かを必死で押しのけた。人ひとり収まりそうな背嚢の下から這い出す。

その持ち主もまた、激突に脳を揺らされた事で意識を取り戻しており、慌てて身を起こした。

互いに図らず胡桃色の瞳と真紅の瞳は向き合い、困惑が走る。しかし誰何をする暇はどちらも持たなかった。……それどころか、目を合わせたその一瞬すらも、迫る大猿から逃れるのにあたり、致命的な隙と言えたのだ。

石畳を伝わる振動のリズムに気付いた時、シルバーバックの凶相はもう、道路の真ん中に座する二人が、開かれた口から覗く牙の一本すら見分けられる距離まで在った。それを認めた瞬間、ベルの身体は再び恐怖の虜になった……しかし。

 

(――――違う、狙いは僕だ。――――この子は違う!!!)

 

傍にある小さな身体の存在を理解したからこそ、そう思ったのだろうか。あるいは……彼の右手にある小さな絆の先にある者の事を思い出したからなのか……。

かっ、と目を開いたベルは立ち上がって、少女の前に陣取る。

 

「逃げてっ!!」

 

「あ、あっ!?」

 

既に中腰になっていたリリは、全てを察知し、頭を抱えて地べたに貼り付いた。

背嚢に潰されるようにうつ伏せになる少女の姿まで捉えずに向き直った瞬間、ベルの視界は、逆転した。

 

「ッぶっ」

 

自分の身体が宙に浮いているのだと、ベルは気づけなかった。振り上げ気味の軌道を描くシルバーバックの右の拳は、少年の腹に直撃していた。破裂した内臓は、即座に少年の口まで血液を送り込んだ。

すべては無意識の反応だった。防護服の緩衝効果など全く意味も成さず、その一撃は彼の意識を瞬時に刈り取っていた。握られていた短刀は、いずこかへ放り出された。

与えられたベクトル量によりベルの身体は、空中に吐血を散らしつつ大きな放物線を作り出し、その先にあった露店に衝突することで止まった。

商品を片付けている最中だった店主はとっくにその場を離れていたので、屋根と骨組みを破壊された以上の損失は無かった。

 

「ごボっ!」

 

迫り上がる血塊を再び、惜しげも無くベルは吐き出した。屋台の残骸の上に寝そべったまま、その四肢は全く動かなかった。視界はぐるぐると回り、ぼやけ、空の青い色すらも判然としない。

指一本も動かすことすらかなわない少年は、ずし、ずし、と、ゆっくり近づいてくる巨大な者の気配だけを理解し、必死で身体に鞭を打った。

 

(立て。立て。動け。動け!……逃げろ、逃げろ!)

 

真に迫る生命の危機は、すでに少年の身体を恐怖から解き放っていた。しかし、肉体はそうはいかない。無防備な腹に受けた拳の威力は、事前に彼が口にしていた魔法薬が無ければ、今頃ベルの意識を完全に絶っていただろう。ひょっとしたら、命さえも。

しかし、そんな幸運も今この状況を覆すには何の力も持たなかった。シルバーバックは、崩れた建材の上で苦しむ獲物の前で止まった。

躊躇なく、右手を伸ばす。それを妨げる者は誰も居ない。観衆は、これから何が始まるのかを全て、悟っていた。

少年を掴む大猿が目尻を下げ、歯を剥き出しにした恐ろしい笑顔を浮かべているのを見れば……。

次の瞬間、壊れた人形のような体で囚われたベルは、焦点の合わない目を大きく見開いた。

 

「あっっぐあアァァアアアアアアああぁあガアアアァァァアアッ!!!!」

 

悲鳴の痛ましさに人々は目を背け耳を塞いだ。シルバーバックの凄まじい握力がベルの身体にバキバキと嫌な音を上げさせた。少年が受けている責め苦は、先の主が受けたものなど、比べ物にならない。激しい恨みと憎しみに基づく握撃。全身を砕かれそうになる痛みに歪んだ表情は、シルバーバックの溜飲を大いに下げた。

その満面の笑みは、拷問を行う刑吏達がなぜ仮面を被るのかという疑問を抱く者に対し充分な答えを示していた。これほどにおぞましき愉悦は、決して人間が浮かべて良い表情ではないと神も断じるに違いない。

 

「ッ、ぼおッ、お゙えぇっ」

 

「!ッギッ!」

 

大猿の笑顔は、獲物の吐き出す大量の血液で曇った。左目が赤く塗りつぶされると同時に、多少は満たされたはずの復讐心は再び、燃え盛る。

 

「ガアアッ!!」

 

「がっ」

 

左手で目を擦りながら、右手は後方へと振る。投げ捨てられたベルは、石畳で顔面を打ち、その後、怪物の右手首の撓りを受け跳ねた鎖によって、背中を打ち据えられた。

地面との口付けのせいで鼻血を流している顔は、歪んだ。

 

「ぎゃ、……っ!」

 

背中側の防護服も突き抜ける激痛。否、それは比喩ではない。怪物が意図せず反射的な速度の手首のスナップを利かせた鎖は、鋼鉄の鞭となって文字通り、ベルの皮膚まで切り裂いていた。

人体の中でも最も痛みと衝撃に強い箇所で受けてすら、彼に立ち上がる意思を一瞬奪わせるほどの痛み。皮膚を伝って走る衝撃は、声すらも上げさせ難い。背筋が伸び、四肢が石のように強張る。痛みを和らげ逃す為の、無意識の反応である。

呑み込まれた悲鳴は、シルバーバックの耳に確かに届いていた。振り向き、うつ伏せのままぶるぶると細かく震え悶える人間の姿と、その上に伸びたままの鎖に付いた血、人間の背を切り裂いた跡を見て、彼の頭脳は素晴らしい名案を弾き出した。愚かにも自分に挑み、あろうことか地の味まで味わわせてくれた生意気で傲慢な生き物に対し、簡単に死をくれてやる慈悲など彼は持たなかった。

シルバーバックは右手で鎖を掴んだ。そして、手首の筋肉を律動させる。ほんの少しだけ、上下に動かす為に……素早く。

すると、鎖に与えられた力は、蛇が移動する際の姿勢にも似た形を保ち、そのまま、鎖の先端へと伝わっていく。

……その途中に居る、くたばりかけの少年の上を通過して。

 

「ぎゃあああっ!!」

 

今度こそ、ベルは悲鳴を上げた。うつ伏せのまま首から背筋までの脊柱をピンと反らして、大口を上げて絶叫する。道路の中央で生まれる光景の凄惨さには、遠巻きに見る人々も口を噤んで、恐れ戦くだけだ。しかし彼らは自分の命を代わりに差し出そうなどと思わない。それは賢明さと言われこそこそすれ、臆病さと誹る資格を持つ者等居ない。どうして、勝てるはずがない相手に挑む意味があるのか。

彼らは知らないが、今まさにその愚行の代償を支払っているのが、地に臥して鎖でしばかれる少年その人なのだ。

 

「ギャハアッ」

 

下劣な歓声を上げて、大猿は右手をまた振る。鎖が撓った。

 

「っぎいいぃっ!!」

 

少年の身体が跳ねる。裂けた防護服の中から筋繊維が覗いていた。痛みで握られる両手のひらは、彼自身の指が食い込んで血が流れだしていた。

背中側の留め金が破壊されて、身につけていた防具が石畳に落ちた。

 

(……立て、……立て!!)

 

痛みは意識を奪わなかった。肉体に与えるダメージ自体は、少ない。ベルは、やっと四肢に力を入れる事が出来るようになっていた。立ってどうする、逃げられると思っているのか、等、そんな疑問も抱けないほどに思考は鈍っていたけれども。

腹に力を入れる。血が迫り上がる。それでも、震えながら四つん這いにまで持ち上がる身体。

 

「ぐっ、ブフッ」

 

ベルは、産まれたての子鹿を象る姿から、全力で片膝をついてその首を持ち上げた。

まったく無駄な、抵抗とすら呼べない努力をあざ笑う大猿の顔があった。

振りかぶられる鎖を、毒蛇の姿のようにベルは幻視した。

 

「…………ッ!!」

 

反射的に左腕を盾に掲げ頭を下げた。それは確かに、彼の身体の皮膚をこれ以上切り裂かせるのを防ぐことは叶った。しかし、鎖を受け止めた下膊は、そのまま鉄の身体を持つ蛇によって一気に骨まで絞め上げられる。

破裂しそうな圧力を左腕に受けて、ベルは歯を噛み締める。鎖は封じた。

 

(それで、それでっ……!?)

 

続く策など無かった。ただ、痛みから逃れる為の行動は、何の活路も開かなかった。シルバーバックは嗜虐心を顕にした顔を崩さずに、鎖で繋がれた人間を思い切り、引っ張った。

未だ震えるベルの足では、大猿の引力に抗する事など不可能だった。少年は空を舞う。

手枷を中心に描かれる歪な半円軌道を辿ったベルの身体は、喫茶店の看板に背を叩きつけられた。長い半径と大猿の腕が生んだ角速度の生む破壊力を食らったベルの脊柱が破壊されなかったのは奇跡と言えた。

 

「ぐげっ……!お、ゲ、ぶっふ、ヴッ、ボォッ!」

 

破裂した内臓からまた血液が口まで吹き出す。びしゃびしゃ、と吐き散らされた血は道路に落ちるとすぐ黒くなった。それはあと片手で数えられるだけ繰り返されれば、彼の生命活動は停止するだろう量だとシルバーバックは本能的に察知している。一度でも辛酸を嘗めさせられた存在がその命を確実に減らしていく姿はまことに、彼を喜ばせていた。ぴくぴくと痙攣している瀕死の虫ケラを、しばらく見守るほどの悪趣味に目覚めるほどに。

身を横たえるベルの視界は闇に侵されつつあった。ここに至って、全身の力はどれだけ彼が立ち上がるのを望んでも空回り、壊れた風車のように錆びついて僅かに震えるだけだ。横向きに倒れたまま、ぼーっと、大きな影を見つめる。

潰れた鼻には息を通せず、血を流す口の端から、かひゅ、かひゅ、と、僅かな呼気を漏らす事しか出来ない。

 

(死、ぬ、……?)

 

痛みも苦しみも感じなかった。ただ、漠然とそう思った。

それはちっとも不自然な結果ではなかった。当然の帰結だった。むしろ、ここまで耐えられた事への驚嘆を呼びこそしただろう。

かつて天才アイズ・ヴァレンシュタインは、齢一桁にして冒険者の道を選び、一年かけてレベル2の座によじ登った。それは奇跡と讃えられた。

神に仕え一ヶ月にも満たない少年も、職員に聞かされたそんな逸話にか細い憧憬を抱いた事もあった。しかしどうして、そんな奇跡を自分が上回れるなどと思い上がれる?……確かに自分の使命は、逃げて、生き延びるだけで良かった。けれども本当に、それだけで済ましたくないという無謀な野心を抱かなかったのか?

……こんな怪物を相手に、どうして対等に戦えるなどと、思えたのだろう?

 

(……な、んで、……だろう……?)

 

ベルの頭の中は何故の一言で埋め尽くされる。脳の血が足りなかった。思考の中の時系列は乱れていた。今の彼の姿は戦った結果などではない。一方的な蹂躙を受ける贄に過ぎない。

彼の中に蘇っていた『戦いの記憶』とは、巨体の髪を掴んでその顔面を石畳に何度も叩きつけて、鼻の骨を蹴り砕く感触の事に他ならない。

 

(…………あ、れ、は)

 

そうだ、戦った。あの時の自分には、必ず殺すという決意があった。

……今は、違う。ただ恐怖に囚われて逃げ果せる事だけを目的に、無様を晒し尽くして――――その結果が、これだ。

 

(――――、?)

 

暗くなっていくベルの視界に、陽が反射するものが映った。ほんの少し、眼球を逸らすと、繋がれた鎖で浮く左腕と、胴に挟まれ無造作に投げ出される右手があり――――それを、ほんの少し伸ばせば届く場所に、それがあった。

彼の手から離れたはずの短刀。そして、腰袋から放り出された、ガラス管。

 

(――――!!)

 

まだ、瞼の力は失われていなかった。皿のように開かれた目で捉えられた、僅かな救いの糸口。

けれども、今のベルには、そこに手を伸ばす事すら出来ない。

 

(ち、畜生……!)

 

ほんの少し。

ほんの少しで、届くのだ。その蜘蛛の糸より細い希望の光に……。

あまりにも出来過ぎた話だと、自嘲する余裕など無かった。ただ、自分を呑み込もうとする死の導き手から逃れたい一心だった。

しかし、運命が彼にこの巡り合わせを用意したのだとするのなら、あまりにも残酷に過ぎると、この光景を見る者は思うかもしれない。

魔法薬一本で立ち直り、その貧弱な短刀一本だけを手に、戦え、と宣う者の意思を……。

ベルの虚ろな目は必死で、短刀のきらめく刀身を映し続ける事しか出来なかった。

 

(あ、あ、駄目、だ……だ、め、だ…………あ、れを……取らない、と……)

 

左腕に絡み付く鎖は逃走を許さず、散々痛めつけられた身体では立ち上がる事すらおぼつかない。そんな状況を受け入れられない現実逃避にも等しい願いも、どんどん霞んでいく。

赤い瞳は少しずつ焦点を失っていった。

涙が流れ落ちる。

無力感と、悔しさは、透明なしずくになり、横向きの彼の顔を伝って石畳に落ちた。

 

(…………だ、め……だ……)

 

視界の光は消えていく。闇は、ベルの全てを覆い尽くしていった。

ベルは、気づけなかった。消え行く彼の意識に残っているのは、戦いの意思だけだった。

 

(……た、立て……たっ、……て……あ、い、つ、を……)

 

そう、気付けなかった。

どうして自分がここに居るのか。

なぜ、生命を失うかもしれない戦場へと、自ら足を運んだのか。その疑問に。

右手の中指にある小さな輝きも、彼の目にはもう、映らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

--

 

 

 

粘着く闇の中に居るのを彼は知った。そこはどれだけ藻掻いても決して抜け出すことの出来ない、果てしなく広がる、深い、暗黒の海だった。

自分を引きずり込もうとうねる幾つもの渦を避けて泳ぐ。

水平線の果てにあるものを求めて……。

 

『――――っ!』

 

『……!』

 

声。か細い声。……彼はそこへ行かなくてはならないと知っていた。全身に力を込めて、タールよりも重く黒い水をかき分けて突き進む。

 

『――――っ、――――……』

 

『はっ、はあっ』

 

手足を漕いで、漕いで……どれほどの時間を経たのか。声は少しずつ、少しずつ大きくなっていく。

それが、彼の中に、一筋の希望の光を見出させた。

否、それは、真実、彼の目に映るものだった。

 

『っ、くっ、はあっ、はあっ!』

 

酸素を求めて息は激しくなる。あそこへ、行かなくては。何としても、行かなくてはと、全身が逸る。

水平線すらも定かではない闇の世界にたった一つだけ見える、小さな、青い灯火のもとへ……。

しかし、彼の努力もむなしく、四肢に絡み付く澱は、その動きをどんどん鈍らせていった。水は泥のように反発し、それはいつしか土のように固くなっていき、彼を阻んだ。

 

『ふっ、ぐっ……うっ、お、おおおっ!』

 

声を上げて腕と足を動かそうとしても、もはやかなわない程に、その黒い何かは彼の身体を縛り付けていた。

闇の中に身体が沈んでいく。彼を導く仄かな光もろとも。

 

『――――っ!…………っ!』

 

必死に呼ぶ声は、隔たる闇にかき消され、遠ざかる。歯噛みして手を伸ばしても、それは決して、届かない場所へと去っていくのがわかった。

伸ばした左手が縛り上げられる。黒く、固く、幾つにも連なった鎖。次いで、右腕にも同じように絡みついて、瞬く間に彼の動きは完全に封じられてしまった。

どんなに力を入れて解こうとも、それらは両側から彼の身体は強く引っ張る。張力は彼の全身にいきわたり、激しい痛みを与えた。

鎖はそのまま、彼を硬い何かに叩きつけた。ごつごつとした、岩肌のような壁面に。

 

『がはっ……!』

 

背骨を砕こうとする衝撃により、肺を絞った一声が出る。ぎりぎりと、鎖の引く力は強くなる。彼の両腕をいずれ胴から千切り取ろうと目論んでいるかのようだった。

彼を襲う責め苦はそれでもまだ、終わらない。

 

『ぐあっ!』

 

壁面を突き破って現れる、無数の干からびた手。鋭い爪を備えた、誰のものとも知れぬ手が、彼の身体を引き裂こうと掴み、ねじり、爪を食い込ませる。

自由を許さない戒めの中にあっても、彼は必死で身をよじって、抵抗を続ける。

諦める事など出来ないのだ。何が立ちはだかろうとも……。

首を掴もうとする指に噛み付き、その咬筋力と首の筋肉の働きによって、ひからびた腕を千切り、吐き捨てる。

手のひらを無くした手首から血が吹き出して彼の顔を汚した。

その血煙の奥に、何かが見えたのを彼は感じた。

そして気づく。断崖に縛り付けられる自分を正面から眺めている、無数の気配、視線を。

 

『…………!』

 

ぎらぎらと輝く双眸は幾つもの大きさと色を持ち、吊り上がった三角形を象りこちらへ向けられていた。

揺らめく歪な光。先の彼が望んで止まなかった、か細くも確かで、安らぎを湛えた灯火とは全く違う――――敵意、を宿した、憎しみの光。

 

 

 

 

 

死ね……。

 

殺す……。

 

よくも……。

 

痛みを……。

 

苦しめ……。

 

報いを……。

 

許さない……。

 

逃がさない……。

 

忘れるものか……。

 

 

 

 

 

 

 

――――恐れよ……!!

 

 

 

 

 

 

 

『ッ…………!!!!』

 

しかし、叩きつけられる念は、彼を臆させるどころか、その両腕にさらなる力を与えたのだ。鎖をその手に握り締めさせ、繋がれた何かを渾身の力で引き寄せる。

重く、硬い――――何か。彼と繋がり、決して離れることのないそれは、彼にとって、支配こそすれど服従するべき存在ではないのだ。

闇の住民達を睨み返す。この世の全てを切り裂くどんな刃よりも鋭く研ぎ澄まされた眼光は、彼の見る者全てに恐怖を与えた。

彼の身体を苛む何もかもも、もう何の枷にもなりはしなかった。

ただ、彼の中に、怒りが満ちていた。

この苦しみを与えたものへの。

この痛みを与えたものへの。

 

『う、おおおおお、おおおおおオオオオあああああああーーーーーーーーッ!!!!』

 

鎖が解き放たれた。

壁を蹴り、彼は更なる闇の中へ跳ぶ。

憎い。

全てが憎い。

目につく何もかも。

身も心も、魂も何もかも、その衝動に呑み込まれていった。

全てを、滅ぼすために。

彼を縛る何もかもを、消し去るために――――

 

 

 

 

 

 

『――――そうだ、忘れるな――――』

 

 

 

 

 

 

『――――全てを失っても――――』

 

 

 

 

 

 

 

『――――希望があれば、戦える――――』

 

 

 

 

 

 

 

どこかから聞こえたその言葉も、彼を覆い尽くす闇の中に、あっという間に、溶けていった――――。

 

 

 

 

 

 

 

 

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スパルタ人に学ぶ弱点講座

・金的
GOWシリーズでの主な被害者はサイクロプス。特に落日と降誕の場合ブレイズでザクっとやられるので痛いどころじゃ済まなそう。

・髪の毛
エウリュアレ、タナトス等、びろーんと伸びた髪はクレイトスに狙われるが、特に私怨があるわけではないハズ。
ラノベのキャラの場合下手に切ると大変な事になるので、狙われる事は少ない。安心。

・顔面
口、目玉、脳味噌と、弱点てんこ盛り。とにかくここを殴りまくるか刺しまくるかすれば勝てる。
非常にエグいし名有りキャラクターに対して行われるのを見ると可哀想になる(でもボタンは連打する)。


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