眷属の夢 -familiar vision   作:アォン

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本文における「ヘスティアの崩れた表情」のイメージは、ちょぼらうにょぽみ先生の(少々ハーブか何かやつておられる内容の)公式四コマ漫画参照。




殴る女

 

 

綺麗だと思った。それは、透き通っていた。……自分の色に染めたい、と思う。しかし、どう染まるのかも見ていたい、とも思う。

その時までのフレイヤは小さな少年の行く末を想像して楽しむだけの、ただの観客だったのだ。その時までは。

けれども、その時、彼女は見てしまった。そして、惑いが芽生えた。

自分が見た、あの美しいものは、まやかしだったのか?

自分が見た、あの乱れる、激しい、荒れ狂うものは、錯覚か?

どちらが真実なのだろうか?

その疑問は彼女の心を覆って、晴れなかった。

彼女は自覚せず、心囚われていたのだろうか?

その小さな人間の中にある、量りがたい何かに……。

彼女はただ、ベッドで眠る少年の寝顔を、遥か遠い場所から見つめるだけだった。

 

 

 

 

 

 

--

 

 

 

 

ミノタウロスに叩きのめされた少年がまだ眠っている頃、その酒場に大世帯がやって来た。

 

「ありゃ、上客がたがいらっしゃったニャ~」

 

「口より先に動かすもんがあるんじゃないかい?」

 

「はいニャ~」

 

オラリオで最も栄光に彩られた冒険者の集団が、店員に案内されて席につき、酒宴を開催する。周囲の好奇の視線をまるで意に介さない豪胆さも、彼らの隔絶した実力によるものなのだろうか。

数の多さからか、テラスと店内に分けられても彼らはよく盛り上がっていた。

 

「はい団長、も一杯。どうぞ、遠慮無く」

 

「……ティオネ、これ、何杯目だっけ?」

 

「いいじゃないですか、何杯でも。大丈夫ですよ、大丈夫」

 

「わたし、世界が終わる日には絶対これ食べるって決めてるのよ~」

 

「何処でも同じ事言ってるじゃねぇかてめえは」

 

「ん、ぐ…………もう、一杯!!」

 

「ンハハハハハ!やるやんガレス!」

 

神が率先して馬鹿馬鹿しい事をするので、引っ張られた団員達も乗っていく。畏怖を以ってその名を語られるロキ・ファミリアの姿は、少なくとも今同じ店に入って来た者ならば、面影すら掴めないかもしれない。彼らを遠巻きに、一挙一動を探るように見つめる者達が居なければ……。

無遠慮な眼差しを殊更に集めているアイズは、しかし、輪に入って騒ぐでもなく、かと言って黙々と胃を満たすでもなく、細い体にさえ見合わない遅さで箸を進めていた。

 

(…………)

 

アイズは長い遠征の憂さを晴らすような団欒を遠くに感じていた。それというのも、彼女の頭の中を占めるある光景のせいなのだ。遠征で壊れてしまった得物の修理に赴いた時も、その様子は気取られていた。一々問いただす無粋さを持たない相手に、だったが。

 

「お気に召しませんか?」

 

不意に掛けられた言葉に意識が引き寄せられた。銀色の髪を持つウェイトレスが、呆けていたアイズを呼び戻した事で、少し悪戯っぽい笑顔を浮かべている。西地区でも有数の繁盛店である所以は、この店員の存在を抜いて説明することは出来ないだろう。はっと目を惹く美しさと、豊かな包容力を併せ持った笑顔は、男達の不毛な期待を煽り、彼らを足繁くこの酒場へ運ばせるのだ。

それはともかく、気の抜けた有り様をはじめて他者に指摘された事で、アイズは少し顔を赤らめた。

 

「そういう訳じゃ……ない、です。お気遣いさせてしまって、すいません」

 

努めて動揺を隠し、アイズはこの場をやり過ごそうとした。しかし、シルは、じっとアイズの顔を見つめる。口の形は、微笑みを保ったままだ。

アイズは奇妙な既視感をおぼえた。なぜだか、見覚えのある表情のように思える……ファミリアに所属するどの冒険者とも違うし、彼女の利用する店の店員達とも違う、思い出の中の誰とも違う……。

そうまで思った所でシルが口を開いた。

 

「――――誰か、気になる誰かの事を思い浮かべてた……んですか?」

 

「!」

 

「ん何やて!!??」

 

核心をついたシルの指摘はアイズの中で芽生えつつあった疑念を一瞬で吹き飛ばした。はっと目を開いてしまった事は失策だったと、次の一瞬で気付く。それは誰の目にもそれが真実だと明らかになる返答に等しい。少し離れた場所で浴びるように酒を飲んでいた筈のロキが、理解した者の筆頭だった。

大きく音を立てて椅子を蹴倒し、席を押しのけて猛然と向かってくる主の姿にアイズは少し圧倒された。

 

「ア、ア、ア、アイズたん、まさかまさか、話に聞いたあのドチビん所の坊主を!?それはぁ!!」

 

「あの、落ち着いて下さい」

 

この世の終わりに直面したかのような絶望を顔に浮かべたロキがアイズに食って掛かった。そう、概ねの話はロキも聞いていた。取り逃したミノタウロスに踏み潰されそうだった少年をアイズが助け、その素性がなんとあのヘスティアの眷属だった事を。

図らずしも宿敵に恩を売れた事実にロキは内心ほくそ笑んではいたが、団員の注釈には少し気掛かりな事があったのだ。あの浮ついた話が一つもない――――だからこそ、主神の寵愛著しい――――アイズが、その少年に対し大いに興味を示していたという、実に不穏であること夥しい話を、ロキはアマゾネスの姉妹から聞き出していたのだ。あろうことかわざわざあの宿敵のホームにまで送り届けたとも!

ソイツがどんな何かをしたのか全てを知るわけではないが、はっきり言ってアイズがそんな容易く男に心惹かれるようなタマではないとロキも思っていた……思いたかった、ので、ここに至るまでは敢えて触れる事もしなかった。彼女の背に文字を刻むその時に知っていれば、それこそ根掘り葉掘り聞いていただろうが……。

その小さな引っ掛かりが、シルの指摘とそれに対するアイズの反応で一気に決壊したのだ。

 

「あーっ!ダメ!ぜっっったいあかん!不許可やーっ!他の男なら……他の男でも容認せんけど、あのドチビの所の奴なんて男だろーが女だろーが世界が崩壊しても絶対許さん!!」

 

「……そういうのじゃないです」

 

これでもアイズは相当必死だった。こういう、収拾のつきそうにない空気が彼女はひどく苦手だった。楽しくないとは思わないが、それよりは静かな方が好ましく思う。ゆえにどうにか押し止められないかと思案するが、他者の目にはあまり真剣に宥めようとしているように見えないのが、彼女にとっての悲劇だった。

辛抱たまらん様子のロキは頭を抱えてうめき出す。

 

「あ、あああ!こ、こんな悪夢が!あんなに可愛かったのに!どんな男も撥ね退けてきたのに!よりにもよって、よりにもよって……う、おお、おおお、うちのアイズたんが……これは夢や……おうっ、おっおっ……」

 

「だから、違うって……」

 

「もう聞いちゃいねえよ、こいつ」

 

崩れ落ちて嗚咽しながら床を叩き始めたロキに対してなお弁解をしようとするアイズをベートが止める。そして、主の首を掴んでもとの席目指して引きずった。

 

「い~や~離して~……うあぁ~……」

 

まこと不遜な態度も、それが彼であることと、酒の席であることで目溢しされていた。そうでなくても、この都市に居る限りは神も人も大差の無い力を持つ存在だ。腕尽くでも、うっとおしい酔っ払いを追い払うのはアイズの力であれば造作も無い事だった。そうしなかっただけで。

起こされた椅子に座らさせられ、くだを巻きながら酒をかっ食らうロキを、周りの団員達が適当に相手をする。彼らも確かに、ロキ同じような懸念を大なり小なりは抱いている。ただ、そういう沙汰に結びつかせようとすると、主の怒りを買いかねないので、突っ込んで触れる事もない。冒険が好きな連中だが、無謀と勇気の違いくらいは知っていた。単に面倒な事態になるのが嫌なだけとも言うが。

 

「すみません、藪を突いてしまったみたいで……」

 

「……構いません、別の切っ掛けでも、ああなったと思います」

 

シルの謝罪に対してもアイズは角を立てずに流した。尋常とは違う自分の様子について、こういう場所ならばいずれは話を振る者が現れたに違いない。ならばとその役目を外部の者が引き受けてくれた事に、恨みを抱く必要もないのだ。

そう今の自分は、少し平静ではないと自覚していた。

 

「アイズさん」

 

隣に座っていたレフィーヤが心配そうに声をかけた。いや、それはアイズを慮る意思というよりは、熱狂に近い尊崇を寄せる相手の心を奪う者が居る事への不安に基づくものだ。

ただアイズは不快には思わなかった。非難されるべきは、色々と想定外の事態の多かった遠征も終わって後輩が思うところも多かっただろうに、そういった鬱憤を晴らす意味もこの席に存在する事を忘れていた己の迂闊さだ。

軽く首を振り、安心させる為に、口元を緩め、そして。

 

「……食べる?」

 

「えっ、えっ!?」

 

取り皿を片手に持ち、料理の切れ端を乗せたフォークをレフィーヤの口に向ける。突拍子もないその行動に、レフィーヤは激しく狼狽した。

 

「そそ、そんな事、させられませんっ!?」

 

「……そう、残念」

 

「あっ……」

 

手を引っ込めて、ぱくりと一口で屠った。なぜだか、レフィーヤが残念そうな顔をして、アイズは少し、おかしくなった。

その気持ちをさすがに察したのか、端麗なエルフの少女の顔がさっと赤らむ。

 

「かっ、からかわないでくださいっ」

 

ぷいっと顔をそむけ、料理に手を伸ばし始める姿を見て、知らずに高まっていたアイズの緊張が緩まっていった。

そうだ、今は楽しむのが先決だ。……無意味な思索を続ける気も、失せていた。

 

(…………ベル・クラネル…………)

 

最後に一度だけ、その名を思い出す。

驚愕に目を剥くギルド職員の表情と、眠る彼を見て真っ青になる小さな女神の顔とともに。

 

「…………ふん」

 

ベートは、横目で一瞬、アイズの方を伺ったあと、杯の中身を飲み干した。問いただすタイミングを逃した僅かな苛立ちで、鼻を鳴らす。

少年が助けられた事は周知の事実だが、そこに至るにあたっての出来事を見たのは当事者のアイズだけだ。ベートの中に残る小さなしこりが取れるのは、少なくとも今ではなかった。

 

(あんな灰っかぶりのガキが、ね)

 

アイズが無駄な虚言を弄する人間ではない事をベートは知っている。なら、あの時聞いた二度の咆哮……そのうちの最初の一つが、あの弱小ファミリアのレベル1によって成さしめられたのは、確実だ。

そして、それ以上の事はもはや知り得ない。彼女がそのときの光景を忘れられないでいるらしい、という事以外……。

ならば、とベートは思う。

 

(……止めだ。くだらねぇ、あんなチビ一匹、もう関わることもありゃしねぇ)

 

アイズと同じように、彼もまた、今はただこの時間を堪能する事だけを優先するのだった。

月が地上を照らす時間は当分は続くだろう。

少年が目覚めたのはそれから少ししてからの事だが、ロキ・ファミリアの面々がそれを知ることはなかった。

 

 

 

 

--

 

 

 

 

ベルはメインストリートでミアハと出会った。灰色のローブを身に纏う美男子に暫し見惚れてから、慌てて頭を垂れた。

彼こそ地上に降り立った偉大なる者達の一柱だった。木っ端冒険者であるベルにとっては、仕えるべき主以外で唯一親交を持つ神でもあった。

 

「こんにちは、ミアハ様」

 

「うむ、元気そうだな、ベル」

 

迷宮探索を終えて疲れた身体を引きずり気味のベルと並ぶと、ミアハの優雅な佇まいは更に歴然とする。その起源からして人間と違う超存在の気品は、ファミリアの規模がどうという事など無関係に輝かしい。

その手に持つ買い物袋が無ければ、更に引き立った事だろう……。

 

「なるほど、ヘスティアの言っていたとおり、中々、やる気に満ち溢れているようだな」

 

「あ、これは。その」

 

ミアハが目を細めて笑う。ベルは、あちこち血と土に汚れた自分の身なりを省みて、バツの悪そうな顔をした。

相変わらずの肉弾戦によって襲い来る有象無象を蹴散らしているベルだ。文字通り彼の足によって頭蓋の中身をぶち撒けられた住民も居て、その痕は彼の足裏にまだ僅かに残っている。

ここ数日の間そんな様で帰って来ている眷属を見て、ヘスティアはいよいよ愚痴の一つも友人に零したくなったのに違いない。

 

「なに、それでこその冒険者だろう?逞しく育っているのなら良い事だ……私の所の薬も要らなくなる程には、なってほしくは無いが」

 

ミアハが笑う。彼のファミリアは迷宮探索を糧としているのではなく、それを生業とする者達が重宝する物資を取り扱っているのだ。数えきれない程の人と神の跋扈する都市では、財を築くのにあらゆる方法がある。

そして、その中でも零細と言える規模のファミリアとなれば、その主神みずから足を使い、汗を流す。そう、ベルの所属するファミリアも、そういう例のひとつであり、目の前の神が率いるファミリアも……。

 

「その、それ以前に、買い揃える懐事情を用意するのが先になりそうで……」

 

ベルが悲しみを覚えると共に苦笑した。魔法薬は安くはない。効果も当然、値段なりにはあるが、ベルの場合、よほど強力なものは常備どころか一つでも勿体無くて使えないだろう。そして、それ以前に買えない。

経済規模が同じでも食い扶持の単価が違い過ぎるせいで尻込みしてしまうのは、単にベルが取引相手との付き合い方について無知なだけなのだろうか。

 

「成程、なら……サービスに、これだ」

 

「えっ、……えぇ!?ミアハ様?」

 

少年の泣き言めいた言葉を聞いて、ミアハは出し抜けに魔法薬を取り出し、ベルの手を取って握らせた。ベルは、手の中にある物が信じられずに、何度も目線を試験管とミアハの顔を往復する。作るための技術が代え難いとはいえ、材料だって無料ではないし、掛かる時間も含めての値段をつけた商品のはずだというくらいはベルにも想像がつく。或いは、主がそのように頼んだのだろうか?それとも、実は後で請求書が送られてくるのか?いや、そもそも冗談かも。

混乱して表情をくるくる変えているベルを見てミアハが口を開けて笑った。

 

「はは。そんなに驚くほどの値段じゃないのが、うちの商品のセールスポイントだ……おっと、効き目は保証するぞ。気に入ったら、一度来てみてくれ」

 

「あ、あ、ありがとうございますっ!」

 

呆気にとられているうちに踵を返し、颯爽と去っていく後ろ姿に、ベルは深く頭を下げたのだった。

それから、雑踏の中に消えていった群青の長髪と同じ色の試験管を見て、思う。

 

(客として、期待されてるのかな)

 

個人的な好悪だけで貴重な資産を分け与えるほどのお人好しでこの都市が溢れているとは、流石のベルも思わない。勿論、全く無いとも思いたくないが。

ただ、打算か慈悲かのどちらであったのだとしても、それに応えるべく励もうという結論だけは変わらなかった。

顔を上げて歩き出す。帰りを遅くして得する事象など、ベルは知らない。迷宮からの帰り道の見慣れた光景の中を突っ切って行く。

そして、いつも目を引き寄せられる所にまで差し掛かる。そこに立ち並ぶのは、武具が飾られるショーウィンドウだ。強化ガラスの中で煌めく造形品は、わかりやすい力の象徴として、少年の心を魅了してやまなかった。

しかしそれも過去の事だと、ベルは自分に言い聞かせた。

 

(ダメだダメ。手に届かない物を見上げてもしょうがないって……)

 

値札に書かれた現実に打ちのめされるのを繰り返す事も、もうやめにしようとベルは決意し、歩調を速めた。

帰りを待つ者がいる場所へ、一人の眷属が急いでいた。

 

 

 

 

--

 

 

 

 

「ベル君、怪物祭って知ってるかい?」

 

日課である、迷宮探索で得た糧を眷属の身に刻む時間を終え、ヘスティアはベルに聞く。

唐突な問いかけではあったが、ギルドにおける貴重な出会いで得ていた知識が幸いし、ベルは口を開くことが出来た。

 

「ガネーシャ様が主催するお祭りって聞きました。迷宮の怪物達と戦うのを見世物にするって……」

 

「うん、うん。勿論それだけじゃない。盛大にまぁ、色々と他の商業系のファミリアがお店を出しまくるって話でさ」

 

都市を上げての興行は、比喩でも何でもなく世界中から人が集まる。金も。

多くのファミリアがそれを見込んで独自の販売戦術を駆使するのに違いない。

 

(ミアハ様の所も、お店を出すのかな?)

 

つい先刻に出会ったのだから、当然そう連想する。そして、あの気前の良さについて合点がいったような気がした。この都市でならいくらでも専門店で取り扱っている魔法薬も、外部では貴重な品々だ。それを求める人々はたいそう群がる事だろう。一本二本など、約束された大増益の前では大した損失でもないのかもしれない。

いずれにせよ……迷宮から富を持ち帰るファミリアには凡そ縁の薄い話だ。

 

「あんまり、僕らには関係ないかも、ですよね……」

 

「…………」

 

「神様?」

 

ぽろっと零れた言葉が、ヘスティアの表情を曇らせた。じとっ、と目つきを悪くし、口を尖らせてベルを見つめる。

何か、まずい事を口にしてしまったのかとベルは動揺した。

 

「あ、あの」

 

「……そーうだね。確かにボクらには関係ないね、迷宮で戦って、せせこましくバイトをして……明日も、明後日も、その次の日も……」

 

「…………あ」

 

明後日の方向へ顔を向けて、不機嫌さをむき出しにした様子で恨み言じみたセリフを吐くヘスティア。そんな様を見せつけられれば流石にベルも気付いた、皮肉をぶつけられているのだと。自分の鈍感さを呪うベル。

 

「そーさ、世界中から観光客が集まって、どいつもこいつもお祭り騒ぎ。かたやボク達アリンコみたいなファミリアは遊ぶ間も惜しんで代わり映えせずにいつもと同じ」

 

「あああのっ神様っ!僕もその、毎日こんなんじゃ体が持つかなあ、なんて思うんですよね」

 

露わになっているベルの上半身は、数日前とは見違えるように多くの擦り傷の痕がある。薄っすらと青痣を成している箇所も幾つか……。

すべては迷宮探索で拾ってきた余計な取得物だったが、言葉とは裏腹に彼自身は大して気に留めてはいない。そう、主の言わんとする事に気付いたからこその慌てようだ。

弁明丸出しの、不自然な話題の持ち出し方はしかし、ヘスティアの機嫌を良くした。

 

「そうか!うんうんそうだろうそうだろう、ボクもそう思ってね、バイト先に休みを貰ったのさ。一日だけだけど、ここ最近はキミも本当に頑張ってるんだから、心の洗濯がてら…………その一緒に、遊んで回らないか、なんてさ」

 

花が開くように表情を明るくして、ヘスティアは何度も頷き、その提案を持ち掛ける。最後の方は少々、彼女にとって勇気の居る発言だったので、やや詰まり気味だ。尤も主の葛藤などベルは知る由もないが。

ともかく自分の選択が正解だった事に安堵はする。そして、主の心遣いに深い感謝の念を抱くベルだった。

 

「喜んで!ありがとうございます神様!」

 

「うん!よし!決まりだっ!」

 

グッと両手を握りしめる彼女の喜びは、単なる日々の労働から解放される事だけに由来していない。愛しい眷属と二人きりの行楽という予定は、彼女の未来を明るく照らしていた。

ベルにしてみても、確かにこのまま彩りのない日常を続けていくのは、色々と心の中の余裕が削れていくようにも今更思えた。胸の奥で未だ燻る力への渇望を自覚しつつも、まだそれに全てを委ねてなどいないのだ。

それに、主とはいえ、可愛らしい少女と休日まるごと使って一緒に遊ぶというのは、彼にとって初めての経験だ。畏れ多く思いながらも期待してしまうのが、彼が男である所以だった。肉体的な摩耗を癒やす目的も承知しているが。

……ふと、ベルは気付く。

 

「でも、お金の方は大丈夫でしょうか?」

 

零細ファミリアの悲しさは、主が交歓会から持ち帰った料理で食を繋ぐなどの倹約ぶりが全てを物語る。丸一日の収入を蹴って行楽にいそしめる経済状況なのかどうか、ベルの中で不安が芽生えた。

ヘスティアは眷属の懸念など物の数ではないとばかりに、人差し指を振る。

 

「今までの積み重ねは、そんな生半可なものじゃないよ。それに財布の中身の使い方は、きちんと想定済みさ」

 

毎年、どういう店がどの辺りに置かれ、相場はどの程度なのか……そういうことまで、ヘスティアはアルバイト先で、或いは合間合間に調べていた。その上で、今度の決断に至ったのだ。

それも、二人の蓄財あってこそと言うべきだ。特に、最近のベルの持ち帰る日当の目覚ましい増え方は、彼の中に垣間見た不吉な運命への不安と同じだけの期待も呼び起こす。小さな雛鳥が偉大な空の主となる助けに、少しでも手を貸せたなら……と、ヘスティアは思う。

そう、個人的な願望など二の次で、これは愛する眷属に、更なる飛躍の力を与えるための休息なのだ!と、彼女は胸の中で邪念を退ける。

何も知らないベルは、主の深謀に尊崇の眼差しを向けた。

 

「神様……何から何まで気を使わせて、僕は何も……」

 

「何を言っているんだい……水くさい事言っちゃダメだぞ」

 

恐縮するベルの手を取ってがっしり握るヘスティア。元々は畑を耕す日々を送っていた少年冒険者の強張った手のひらの感触も、彼女は嫌いではなかった。

 

「二人で頑張っているから、二人で楽しもうって、おかしくもなんともない。だろ?」

 

「……はい!」

 

優しく諭す言葉に反論の余地は無かった。ベルは力強く頷いた。

手を包む小さな両手の暖かさは、少年に自己の存在意義を強く自覚させた。

この温もりの為に捧げられるものは、何であろうと厭わないと。

 

 

 

 

--

 

 

 

 

ローブの奥から見える銀色の目は、底の知れない思慮を含むものに思えた。隣に座る主に似て……。

その目は今、窓の外へ向けつつ、今ではない過去の光景を映しているのだろうと、アイズは推測していた。

 

「……あの子の色……何よりも透き通っていたように思った……けど……」

 

フレイヤが目を細める。その感情の機微の真相を見抜く事までは、流石のロキも不可能だ。いくら、長い付き合いとはいえ。

ただ、知っている旧友の顔ではなかった。気に入った『子供』を付け狙う狩人の目……所有者の事情など考慮せず構わず奪い取ろうとする冷徹さ、その過程自体を楽しむ残虐性、そのいずれとも違う別の何かを秘めた表情。

いつ如何なる時も、ロキの前の美の女神は優雅に振るまい、我を忘れるような醜態も無かった。あまねく男の心を組み伏せる麗しき女神は常に、蹂躙する側に立つ捕食者だった……だが。

 

「違った……のかしら。何かが……違った、あの時、あの子は……」

 

「……おーい?大丈夫か?」

 

遂にフレイヤが自問自答し始めて、ロキは恐る恐る声を掛ける。よほど、その、目をつけた『子供』を気に入ったのだろうか?だとするならばその『子供』は随分と前途多難だ。享楽主義者のフレイヤにとってお気に入りの『子供』とは、遊び道具にも等しいのだから……。

フレイヤははっとした様子で、対面に座る二人の方へ顔を戻した。

 

「まあ、ようわかったわ。なかなかの入れ込みようで……ソイツも運が良いんだか、悪いんだか」

 

「……」

 

小さな懸念が一つ消え去り、ロキは椅子にもたれて呆れ顔で呟く。公の場所に珍しく顔を見せた旧友が何やら面白い……もとい、怪しい企てでもしているのかと思ってここに詰問の場を設けたロキは、既に目的を達した。まあ、真相自体は珍しくもない話だった。彼女自らが動いて情報を集めるというのがやや異例だったと、それだけだ。

期待外れという思いも少なからずあった。どんなとんでもない陰謀でもあるのかと勘ぐってしまったのも、それだけ地上の日々の平穏さが彼女の性根に物足りなく感じているからだ。どれも可愛い『子供』達。かれらは命を賭けて大いなる謎を解き明かすべく、日々戦う。それは一つとして同じものの無い物語の数々を生む……しかし、それも結局、神々にとっては他人ごとに過ぎない。

自分達が当事者になるには、『子供』を使ったウォーゲームが精々なのだ。かつてロキが日常的に行っていた、天界を巻き込んだ大騒動などとは比較にならない矮小な遊び。

 

(ま、そんなデッカイ事なんてそうそう起こらんわな……)

 

拍子抜けしたロキは、フレイヤが依然として沈黙を守っている事に気づくのに、僅かな時間を必要とした。

無表情だが、憮然としている様子でもなく、怒りを押し隠すようなものでもなく、ただこちらを見ているだけの顔。それも、ロキにとっては新鮮だった。

 

「あーっと、スマンスマン。まー正直な、どんな面白い事仕出かそうとしてるんかと、一枚噛ませろってなもんでな……」

 

「そういう事は、真っ先にあなたに教えるつもりだから、安心して良いわよ」

 

背もたれから身体を起こして言うロキに、フレイヤが微笑んだ。いつもの顔だった。

 

「んで……ソイツは一体何処の誰や?」

 

ロキが身を乗り出して尋ねる。ここからは完全な余興だ。数多の悲喜劇を生んだ恋多き女神に見初められた哀れな子羊、それを知っておく事は退屈凌ぎの種の一つにはなるだろう。その口角は自然と持ち上がる。

 

「……内緒、ね」

 

「オイオイここまで来て……かぁ、けち臭い事言わんで~」

 

「フフフ……」

 

素気無く扱われてしまう主の姿に、ほんの少し前に剣呑な空気を纏っていた面影も忘れてしまいそうにアイズは思う。仮面をつけた者同士の探り合いは既に終わったことを知った。

 

(……?)

 

ふと、フレイヤの顔を見る。美しい顔だ。銀色の目とまつ毛が、窓から入る陽で輝き、みずから光を放っているかのような錯覚を呼び起こしている。

……それだけではない、アイズが感じたものは。

 

(何処かで……)

 

どこかで、見たような、何かと、似ているような……主とは違う、誰か……記憶を探り当てるだけの時間は、生憎与えられることはなかった。

 

「それじゃ……私も、このお祭りを楽しみたいから」

 

「なんや~一緒に回ろうとか言わんのか?古馴染みを寂しがらせてどうすんねん」

 

「あら、二人きりのほうがいいんじゃないのかしら?」

 

席を立つフレイヤの視線を受け、アイズは自然と佇まいを改める。緩んだ空気に呑まれそうになるが、今会話してる二柱の神が、この都市の頂点なのだ。この場に相応しくない振る舞いはすまい、とアイズの矜持が邪念を打ち払った。

 

「ま、それはそうやけども……」

 

「ほら、待っていた物が来たみたいよ……それじゃ、また機会があれば」

 

緊迫していた話し合いの空間はいつの間にやら周囲の客を追い立て、ロキが頼んだ朝食が運ばれてくるのも相応の時間を要させていたらしい。恐々とした様子でウェイトレスが料理とともにテーブルへ向かってくるのが見える。

ローブを翻して階段に歩を進めようとしたフレイヤは、ぴたりと止まって、首だけ振り向きアイズを見た。そして、口を開く。

 

「今の所に居るのが疲れたなら……いつでも相談に乗るわよ?アイズ・ヴァレンシュタイン」

 

「……!?」

 

「んがっ!!」

 

「フフ、じゃあね」

 

ひどい置き土産を残し、フレイヤは去った。

下顎を打ち上げられたような姿勢で一瞬硬直したロキは、古馴染みの姿が消えるとともに立ち直り、アイズにかじりついた。

 

「ア、ア、ア、アアアアアイズたん!!アイツだけは、後生やからアイツん所だけはあああああああ!!!!」

 

「……行きませんから、落ち着いて下さい」

 

やはり、似ているように思う。周囲を引っ掻き回す愉快犯ぶりが……と、改めてアイズは思った。しがみつく主の頭を押し返しながら……。

 

 

 

 

 

--

 

 

 

 

 

 

ヘスティアの心はかつてなく満たされていた。その日は精一杯のファッションセンスを発揮した姿で、たった一人の眷属とともに朝から街を回っていた。

人波溢れる街の中、事前に仕入れた情報に従って要所要所のスポットを巡る。出店で買い食いし、小さなゲームを楽しみ、様々な見世物で驚嘆する。二人きりで。二人きりで。

こうも浮かれに浮かれた状態だと、うっかり気を抜けば涎の垂れたニヤケ面の一つでも晒してしまいそうだった。威厳を保つために彼女は常に必死で気を張っていた。

かたや主の苦労も知らずベルは、祖父に託された薫陶の中から必死で女の子のエスコートの方法について思い出しつつ、この祭りの中を練り歩いていた。

 

『自分から話題を出せ。あれ欲しくない?これ見たくない?だ。素気無くされても何度もやれ!』

 

「神様、あそこのお菓子、食べたことあります?美味しそうですよ」

 

「そうか!よし!食べよう!」

 

『遊ぶ時は自分が先だ。上手くいくにしろ行かないにしろ、初めてのものは先導するのが基本だ!』

 

「神様、輪投げで……うわ、あんな景品もあって……ちょっと、やってみても良いですか?」

 

「そうか!よし!やろう!」

 

『あんまり歩き回ってばかりだと疲れてくるのは当たり前だ。向こうが言う前に、こっちから休憩を切り出せ!』

 

「神様、朝からずっと歩き通しですし、あそこで少し休みませんか?」

 

「そうか!よし!休もう!」

 

概ね上手くいっていた。なんだか主の反応がどれも同じような気もしたが、常に満面の笑顔を保ち弾んだ声を上げるので、きっと正しい筈だと思う。

 

(良いんだよね、こういう感じで……)

 

予めヘスティアに知らされていた都市の見取り図と例年の店舗の出店場所、それと各地の休憩ポイントを頭に叩き込んでおいた事も、主の機嫌を損ねずに居られるのに功を奏していた。

街路樹の周りのベンチに並んで座る二人は、ジュースを飲んで喉を潤していた。傍から見れば少年少女の微笑ましいデートの光景にも映っていたかもしれない。少なくとも少女の方はそう思われて悪くは思わないだろう。

ベルの方も、勿論気を使う苦労も少しはあったが、こうもやることなす事に対し喜色を露わにしてくれる主と一緒にいられる事に比べれば、瑣末に過ぎる問題と言えた。

 

(来て、良かった)

 

ベルは心の底からそう思った。

一息ついたベルの視界に、チラチラと光るものが映った。惹き寄せられる双眸。

 

「あれ……」

 

彫金細工の露店だ。掲げているファミリアの名前までは知らなかったが、小さくとも確かに目を引く精微な造形の数々がよく見えた。

はた、と思いつく。

ベルは、財布の中身を確認した。一応、主と分けて持って来てはいる。二人で稼いだのだから、使うぶんも分けるべきだとの女神のお達しが最初にあったので……。

 

「……神様?」

 

「何だい?」

 

眦を垂れて緩みきった笑顔を向けるヘスティア。糸のように細まった目は、きちんと視界を確保出来ているのか等というくだらない疑問をベルに抱かせたが、ともかく彼は主の手を引いて、露店へ向かった。

 

『タイミングが重要だ。相手のご機嫌が最高潮だと確信した時……それが、プレゼントを選ぶ時だ』

 

「どうしたんだい?」

 

「……その、神様は……どういうのが、好きですか?この中なら……」

 

「!?!!?!?!?!?!??!!?!?」

 

『一緒に選ぼう、と声を掛ける。しかしその実!選ぶのは当然お前だ!全ての力を動員しろ!運命の導きを手繰り寄せて、最善のものを見つけ出せ!どんな強敵を倒すのも、この試練を成功させる困難さには敵わんと知れ!』

 

ヘスティアは耳を疑った、それが幸福の絶頂に居る自分の脳の誤作動による幻聴であったかと。大口を開けて絶句する顔は、天地が逆転するのを目の当たりにした人間だって、これほどの驚愕を浮かべるだろうかとさえ見る者に思わせる。

ベルはと言うと、突如目を見開いたその表情を見て、或いは悪手を打ったのかと勘違いしていた。やはり、こういう物品は贈呈するのに重すぎるものであろうか?と。露店の商品である以上、値段も高が知れる程度の代物であるとふんでの判断だったが……。

 

「やっぱり、こういうのは興味ないですか?」

 

「!!いや!違う!……いや!違わない!……じゃない!大好きだよ!ボクこういうの大好きだっ!」

 

恐る恐る聞くベルに、ヘスティアは高速で横に首を振った。ツインテールが残像を描いた。多少大袈裟な反応ではあるが、今日においては然程珍しくもなかったので、ベルもいい加減慣れつつあり、却ってほっとしていた。

改めて、並んでいるアクセサリーの数々を眺める……値段と見た目の相関関係など、ハッキリ言ってベルにはよくわからなかったが、やはりそれなりに値が張るものは、貴重な鉱石を使っているのかもしれない。或いは魔石を使った、特殊な効果を持つ物も混じっているのだろうか?

 

「冒険者さんかい?こいつらぁ、迷宮に持って行くには役に立つような代物じゃないよ。……っと、神様へのプレゼントなら、関係無いか」

 

店主が、少年の意図を汲んでにやっと笑う。ベルは心を見透かされ少し頬を赤くしたが、隣のヘスティアは色とりどりの輝きを放つ品物に目移りしまくり、耳に入ってはいないようだった。

 

(ベ、ベル君がプレゼント、ボクに!アクセサリーを…………やはり、指輪か!?指輪!ち、誓いの……いや!待て!まだ、まだ早いぞベル君、そういう物を贈るのはもっと時間を掛けて仲を深めてからじゃないと重みってものが……ああ、でも!嬉しい!これがボクらの絆の証になるのか!素晴らしい!!)

 

依然、混乱した頭で瞳をくるくる動かすヘスティアは、品定めという目的など完全に喪失していた。尤も、ベルにとっては好都合だった。祖父の言葉を実行に移すにあたっては。

ごく、と唾を飲んで、意を決するベル。

 

「か、神様。迷ってるのなら、僕が選んでも、いいですか?」

 

「ええっ!?!」

 

素っ頓狂な声に、ベルの方も驚いて縮こまった。店主は、初々しい二人のさまを見て、笑いを抑えていた。

 

「いえ、欲しいものが決まったのなら、それでも……」

 

「はっ!そっ、そうしてくれ!ぜひ、君に選んで欲しいなっ」

 

「、はい」

 

両拳を握って迫る主の顔は真剣そのもので、ベルは気圧されてそのまま倒れそうになる。

ともかく、ここまでは見事に祖父の言葉通りに進んでいた。そう、全てはこの最後の一手に掛かっているとベルは知っていた。じいっと目つきを鋭くして、黒い布の上に並べられた品々を見渡す。

指輪からはじまり、ネックレス、イヤリング、ピアス、髪飾り、と、一通りは揃っている。彫金だけで造られた物もあれば、透き通る宝石を据えられた物も。こんな値段で売って、大丈夫なのだろうか?とさえ思えてしまうのが、貧乏ファミリアの構成員の性だが、今はその事を必死で忘れて、ベルは目を凝らしていた。

 

(一番高いの!……なんて、駄目か。……神様に、似合うような物……)

 

少しだけ瞳を動かして、主の姿を目に入れる。ものすごく真剣な目でこちらを見つめており、その期待の高さが伺えた。黒い髪、あどけない顔付き、細い手足……その、少し発育の良い胸部……は、あまり関係無い。煩悩を振り払った。

 

「……?」

 

そのおかげで、広げられた商品の隅のそれを見つける事が出来たのかもしれない。真鍮のリングに取り付けられた翡翠の輝きは、他の宝石達に比べると、一段と地味だった。飾り気の薄い、どこか無骨さをも感じるその指輪は、こうして目に止めるよう意識しなければ、すぐに忘れ去られてしまうような作りだ。しかし不思議な事に、値段について他の品とも大差無い……。

 

「それ、ウチで作った奴じゃないんだ。外から仕入れた、骨董品枠、ってところかな」

 

視線だけを観察してベルの疑問を推測し、店主は口を開いた。ベルは、顔を上げる。

 

「そういうのも扱うのがウチの特色って訳さ。意外と物好きが居るもんなんだよ……他にない魅力をビビッと感じるのか……特に今日みたいに人が集まれば尚更」

 

手入れも大変だけど、と店主は付け加えた。ベルの目はもう一度、その指輪へ落とされた。遠い何処かで、知らない誰かに作られた指輪。どれほどの年月を経て、どれほどの人の手を渡ってきたのだろうか?或いは、人の手から離れ、どれほど眠り続けていたのだろうか?それは今こうして、二十も齢を重ねていない子供の前に置かれている。そう思うと、言葉に出来ない感傷が仄かに芽生えた。

それは、遥かな時を重ねた遺物への純粋な畏怖なのだろうか。それがこうして自分の前にある数奇な運命への感嘆なのだろうか。それとも、別の何かなのだろうか。

ベルは自分の気持ちを分析することは出来なかった。ただわかっていたのは、これよりも主に捧げるに相応しいものはここに無いだろうという奇妙な直感だけだ。

 

「これ、神様は、どう思いますか?」

 

「……うん。良い。すごく」

 

君が選んだものなら、何だって。と続けそうになるのをヘスティアは堪えた。偽らざる本音は、相手の気持ちを軽んじてしまう事もあると彼女は知っている。それに、事実としてその指輪はヘスティアも好ましく思った。無闇に派手ではない落ち着いた意匠のほうが、大人っぽい魅力を引き立ててくれるはずだろうし、きっとベルもそれを見込んで選んだのだろう、とも。

事実はともかく両者の口にする意見は一致していた。財布を開いてベルは目当ての物を手に取った。

 

「まいどあり」

 

店主は上機嫌で、主従の背を見送った。

 

「す、すいません。サイズ考えてませんでした……」

 

「良いさっ、指輪だからって、指にしか着けちゃいけないなんて決まりは無いだろ?」

 

眷属のうっかりも、ヘスティアにとっては大した問題にならなかった。細い指ではスカスカになってしまう指輪を大事に握りしめると、そこから身体中に感動の波が広がっていくのがわかる。大切な眷属に捧げられた初めての品は、彼女にとっては彼の分身そのものと言えた。

両手で贈り物を大事そうに抱える姿を見て、ベルも充実感に包まれた。同時に、祖父の薫陶に、深く感謝していた。彼は、一番の難関を突破出来たのだ。

 

(またこんな風に、神様を喜ばせられる機会があったら良いな……)

 

遠い目をするベルの口元は緩んでいた。主の心を満たす事が出来た達成感は、少年に新たな目標をもたらしていた。それともそれはひょっとしたら、神に仕える者の義務感ではなく、可愛らしい異性と重ねる時間への憧憬なのかもしれないが、その事を自覚はしていなかった。

そんな風に思いを馳せていた彼は、右手の甲を何かがつついているのに気付くまで、少し時間が掛かった。

何だろう、と視線を右手側に落とす……小さな、真っ白い手の甲が、触れていた。目を丸くしてその持ち主の顔を見る。

ほんのりと、頬を赤らめているヘスティアは、もごもごと口を開いた。

 

「そ、そろそろ、闘技場に行くじゃないか。その、人も増えて来て、はぐれたら大変だし……」

 

主の申し出に一瞬、ベルは呆けた。

手。手を?

どうするって?はぐれたら??

察することの出来ない少年の脳裏に、その言葉が蘇った。

 

『手を握るタイミング……これがまた、難しい。さりげなく接触し、流れでそのまま行ければ文句なしだが……いや、お前にはやはり無理が……』

 

眉間に深い谷を刻む祖父の顔が消え去ると、ベルは全てを理解した。

 

「あっ…………は、はい」

 

頷く彼もまた、少し顔を赤らめた。

小さな柔らかいものが、手のひらにするりと入ってくるのを感じる。

 

(いや、神様は、僕の事を心配してるだけだ。別に、変な意味なんかじゃなくて……)

 

少しでも力を入れれば壊れてしまいそうにも思える主の手を包みながら、ベルは言葉少なげに、足を動かすのだった。

恥ずかしそうに少し俯いて歩く姿は、隣のヘスティアも同じだった。

小さな二つの影が、怪物祭のメインイベントの会場へと向かっていく。ほんの少しの時間は掛かるだろう。

けれども、二人にとって感じられる長さが、それ以外の者の観測する長さと同じなのかどうかは、どんな存在にだってはかり知れない事だった。

 

 

--

 

 

 

「人、多くなって来ましたね……その、神様、手を放したら呑まれそうですので……」

 

「うん!うん!わかってるとも!きちんと握っていないとなっ!」

 

東のメインストリートは同じ事を考える人々によって激しく混雑していた。

ベルは右手の柔らかい感触に少し鼓動を早くしつつ、行く先にそびえ立つ闘技場を見上げた。都市の中央に陣取る摩天楼にも劣らず、その威容は小さな少年を圧倒する。

 

「こんなに沢山の観客も収容出来るんでしょうか?」

 

「大丈夫、まだ、この時間なら入れるはずだよ。……例年通りなら」

 

とは言うヘスティアだがそろそろ周囲の雑音で会話も危うくなりそうな状態であるのを理解すれば、もう少し早めに足を運んでおくべきだったか、との懸念が湧く。しかしそれを今まで忘れさせてしまうほどに、二人で分かち合う観覧の時は心躍らせるものだった。

思えばこうして全ての重荷を気にせず楽しむ時間は地上に降りて初めてだ。何かに追い立てられる焦燥感も無く、ただ代えがたく大切な存在とそれを分かち合う時間も……。

 

「えへ」

 

それも、二人で重ねた努力の報酬だ。降って湧いた幸運などではないからこそ、その価値を計り知れないものにヘスティアは思っていた。かつて旧友に居候先を叩きだされた時は途方に暮れたものだが、全ては今手のひらで繋がる存在との出会いから始まったのだ。

小さな偶然の出会いをもたらした運命に深く感謝せずにはいられなかった。大いなる幸福感が、ヘスティアの表情を崩した。

それが小さな不幸を呼んだ。

 

「あっ!」

 

「……ああっ!」

 

口元と一緒に緩んだのか、ベルもまた目的地に意識を奪われていたのか、人波の大きな撓みが二人を揺らした時、互いの手が離れた。ベルはすぐに手を伸ばしたが、一瞬の遅れを待ってから正気に帰ったヘスティアはすぐに、押し寄せる通行人の影に飲み込まれていった。戻ろうとしても、すでに闘技場を目の前にした人々の流れをかき分け逆らう事は、今のベルには不可能だった。

 

「神様っ!」

 

「――――っ!――――!!」

 

呼び声は雑踏の中に吸い込まれ、二度と彼のもとに戻って来なかった。そうしている間にもどんどんと流されていく。ベルは己の失態に歯噛みする。

 

(馬鹿!)

 

「こら、押すな!」

 

「あ痛たたた!ちょっと!」

 

「やめてよ!」

 

決断は早かった。無理矢理に流れを横断して、いよいよ闘技場の入り口へ至ろうとするところでその脇に飛び出した。罵声など届かなかった。

屹立する偉大な建造物を見上げる暇もなく、ベルは大声を上げる。

 

「神様ーーっ!」

 

返事は無かった。小さなツインテールの少女の姿も、止めどなく入ってくる人々の姿に埋もれて、決して見つける事が出来なかった。

 

(どうしたら……)

 

途方に暮れそうになる。ヘスティアがそうであるように、ベルもまた今日という日、二人で楽しむ休日の行楽は久しぶりの骨休めとして、そして、例え相手が神と言えども美しい少女と一緒に過ごす時間の充実感を満喫していた。それが、一番大事な催しに訪れる時に至ってこのアクシデントだ。

どうにか解決策を頭の中から引き出そうと必死で思案する。

 

『一度握った女の子の手を離すのは、一度手にした金貨を手放す以上の間抜けだぞ、忘れるな!』

 

(じゃない!)

 

何の実にもならない祖父の言葉を思い出してしまうのは、それだけ今のベルが焦っているからだ。早く主を見つけて闘技場に入らなければ、席が無くなってしまうかもしれない。折角、主自ら建てたスケジュールを台無しにしてしまうのは眷属として、男としての自尊心を保つ為に避けねばならない最後の使命だ。

しかしその為にとるべき手段が悲しいかな思いつかず、その最中も絶えず人波が闘技場へ流れ込む。……そう、あの中に主が居るのならば、きっと、と思い至ったのはすぐだ。

 

(でも、今から並んで入ろうったってなあ……)

 

もう、闘技場の中に入ってから探した方が早いに違いない。先の判断の失敗を知り後悔した。頭を抱えてしゃがみ込みたくなる手際の悪さだった。もしここが迷宮だったら……二手もの過ちは、命という代償を払うには充分過ぎる、とまで思い、背筋が冷える。

どうあれこれ以上の失敗を重ねる事は避けたかった。なら、一番堅実で、時間の掛かる方法を取るだけだとベルは思った。そして、遥かメインストリートの後方へと足を向けようとした瞬間、目の端に何かが掠めた。

 

「?」

 

煌めく何か。それは、闘技場の入り口を外れて、建物に沿った横道の先に一瞬見えた。銀色の何かが。

ベルはその先に、闘技場の中へ入る通路があるのを発見した。観客用ではない、おそらく関係者専用のものだろう。

抗い難い誘惑が彼を襲った。近道……。

 

(……駄目だよ、犯罪じゃないか)

 

入場料は入り口で取っているのだ。それを知っていて侵入するのは彼の良識が許さない事だった。ベルは、ため息をついてから行列の果てへと走った。

瞳の片隅に残る残像は、すぐに消え去った。

 

「…………」

 

小さな通用口の影の中で、銀色の瞳が、少年の背を見つめていた。

ローブの下で、唇が引き結ばれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

--

 

 

 

 

「おや?あれって」

 

闘技場では既にメインイベントが開催中だった。レベル1の冒険者など歯牙にも掛けない凶悪な怪物達は、ガネーシャの擁する中でも精鋭に位置する強豪テイマーの手で華麗な演舞を披露している。それは外部から来た観光客は当然として、冒険の日々の気晴らしにやって来た者達の驚嘆の声をも容易に引き出すのだった。

ロキ・ファミリアの所属するその三人娘も、今この場所を包む熱狂のさなかにあったが、そこで些かこの場所に不釣り合いなものを見つける。

その少女の姿はティオナの記憶にも残っていた。いい加減満杯にも近い闘技場の観客を掻い潜り、黒いツインテールをふるふると振り回し、不安気な表情で何かを探し回っている……服装こそ違えど、その(やや幼げながら)整った容姿と、小さな背丈に実った豊かな胸は……。

 

「ヘスティア様ー?」

 

「!っな、え、キミらは……その」

 

「あ、そっか……はじめまして、ロキ様の所でお世話になってる者です。以前顔だけお見せしたんですけどー」

 

ヘスティアが覚えているのは、ベルを背負ってホームにやって来た金色の女冒険者だけだった。ロキは知らないもののその時に礼の一つ位は済ませていたのだが、その少女のやたらに無遠慮な少年に向ける視線ばかりがヘスティアの印象に残っており、一緒にやって来たアマゾネスの姉妹の事など目に入っていなかったのだ。

そんなんだから、仲の悪い神の名前を出されてヘスティアは少し警戒心を抱いた。ただでさえ、楽しい時間が唐突に途切れてしまった不幸を嘆いていた所だった。

 

「うっ、……そ、そうか。すまない、忘れてて……じゃ、ボクは用事があるから」

 

「あ、ちょっとちょっと!待ってくださいよ!」

 

「わあっ」

 

あっという間に踵を返して立ち去ろうとするヘスティアだったが、両肩をがばりと抱きかかえられ素っ頓狂な声を上げた。ティオネの豊満な胸部がヘスティアの後頭部を包んだ。

 

「何をするんだっ、ロキの差金かっ?くそっよりによってベル君とはぐれてしまった所を狙うなんて!何とでもしてみろ、ボクは屈したりなんかしないぞっ!」

 

「何もしませんよ~……そこまで嫌わなくってもいいじゃないですか……何か、お困りの事でもあるのかと思って」

 

ティオネは、さては怨敵の陰謀と疑うヘスティアを宥めた。少し話を聞こうとしていただけでここまで拒絶されると、ファミリア同士の関係というものの煩わしさを感じる。あんなに困ってますという顔をした少女を放っておくような性質ではないティオネは、特にそう思った、この時。

 

「ベル君って、あの、アイズが助けた男の子ですよね?一緒に来ているんですか?」

 

「……か、関係ないじゃないか、そんな事」

 

女神のこぼした名前はティオナにも聞き覚えがあった。白い髪と、右目の古傷を持つ幼い冒険者だ。ギルドに運んでいった際には、彼の担当職員がひどく動揺していた事をよく覚えている。特に大事無しという診察結果を知った安堵の表情も。

んが、その彼の行方について、素気無くヘスティアは突っぱねる。それも、あのロキの『子供』だからという理由もあるが、あの時に同伴していた人間というのも彼女にとっては立派な理由の一つだった。客観的に言ってそれは理不尽も極まっていたのだが。

さて、ここまで不審を露わにされてしまえば、この姉妹もどうしたものかと困った。善意を受け取って貰えないのは悲しい事だが、それは与える側の身勝手な感情だという事はわかってる。最初から席についたままのレフィーヤも、先輩達のそんな様を見てどう収めたものかと狼狽するだけだった。

硬直した空気の中に、新たな風を吹き込む者は唐突に現れた。

 

「あ……皆さん、奇遇ですね、こんな所で。……その方は?」

 

「シルさん?」

 

レフィーヤは後ろから掛けられた声の持ち主を見て目を丸くする。先日の酒場で、主の疑念を焚き付けてくれた美人店員がそこに居た。アマゾネスの姉妹も、振り返る。一緒に、ヘスティアも。

 

「うう、今度は誰だよ……」

 

「……えっとお、一緒に来た眷属の子とはぐれちゃったみたいで」

 

「そうだ、シルさん、……白い髪の男の子を見かけませんでした?右目に、縦に傷跡が走ってる、15歳くらいの」

 

一人きりで、面識のない連中に取り囲まれる状況に、元々それほど豪胆ではないヘスティアは、急に心細さを感じ始めた。これが最初から一人でここの観戦にやって来ていたのならまた違っていただろうが。そんな姿を晒されていよいよティオネも罪悪感が芽生え、肩を抱いていた手を離した。

レフィーヤの放った問い掛けは正直、この居た堪れない空気を変える意味もあった。この広い闘技場の中で、確かに特徴的ではあるが少年一人の身柄を、偶然居合わせた人間が知っているなどという幸運などありようはずもないと。

しかし。

 

「ひょっとして、赤い瞳の子ですか?さっき、入り口の辺りで……」

 

シルの言葉は確実に、探し求めるあの子を示したものだとヘスティアは直感した。この場から逃避したいという願望も多分に含まれた反応だった。

 

「そ!その子だ、間違いないよ!案内してくれないかっ」

 

ぱっとシルの目の前に移動するヘスティア。こうも引かれてしまうとは、やっぱり最初の印象が悪かったかな、と姉妹は思った。それとも、そこまで自分達の主を嫌っているのか、と。実態はもう少し子供じみた、彼女らが知れば笑ってしまうような感情の発露の結果なのだけれども、それを知ることはない。

結果的にヘスティアを導く事になったレフィーヤはと言うと、まさか的中するとは思わずにただ驚くだけだった。

そんな有り様の三人が黙っていたのに気付いたヘスティアは、やっと自分の態度の拙さに思い至り、激しい改悛の念にとらわれる。慌てて振り返った。

 

「と、と……そ、その!済まなかった、君達、あまり冷静じゃなかった……せいで、個人的な感情が……ええと……」

 

わたわたと身振り手振りで必死で弁解しようとする神の姿は、許容量を超えた事態に直面した幼い少女にしか見えない。ティオナは、くふっ、と吹き出した。

 

「や、こちらこそ変な絡み方して申し訳ありません。また会った時にでも、ウチの神様のお話、色々しましょ。ヘスティア様」

 

何しろ、同じ存在によって要らない気苦労をちょくちょく掛けられているのは実のところファミリア構成員達にしても共通の話題だ。それも絶妙に、ファミリアの運営に影響を及ばさない範疇というのが、小さな悩みの種だ。

そう考えれば、意外と話の合う相手なのかもしれないとヘスティアも思った。

 

「ああ……うん、ありがとう!…………す、済まない、君達の名前は……」

 

初対面での誰何を失念していた事に気づき、気まずそうにしてヘスティアは言葉を途切れさせる。そしてそれは対面する冒険者達も同じだ。

 

「ってえ、名乗ってなかったですねわたし達……」

 

「ひ、非礼をお許し下さい!」

 

ティオネが妹につられ笑い、そして神相手の無作法にようやく気付く。レフィーヤなどはいつの間にか席から立って「気を付け」状態だった。

 

「ティオネです。で、妹のティオナと、期待の新人レフィーヤです。これからも、宜しくして下さい」

 

「サイン貰うなら今のうちですよ~」

 

「ティオネさん、ティオナさんっ」

 

自己紹介ついでに茶化す言い方でレフィーヤが声音を強めた。

彼女達の仲の円満さは見るに明らかだ。ヘスティアは、ベルが未だに一人で迷宮探索をしている事を思い出した。彼にも、こういう仲間が必要なのかもしれない、という考えが頭の中によぎる。いくら自分が思いを寄せようとも、仕えるべき主とは仕えるしもべにとって、じゃれ合いながら共に娯楽に興じる事のできる相手にはなり得ないのではないだろうか……と。

 

「ありがとう、君達……。……もしもまた、うちのベル君が変な事やってるのを見たら、その場で叩きのめしてくれると嬉しいな」

 

「あはっははは、任せといてくださいよ!」

 

手を振って、ヘスティアはシルとともにその場を後にした。ほんの少しの寂寥感が彼女の中に残っていた。二人きりのファミリアである事への疑問など、これまで露ほども抱かなかったというのに。

周囲の歓声も耳に届かず、ぼんやりとしたままシルに歩調を合わせるヘスティア。

ロキの『子供』達との会話の間から何も言わずに見守っていたシルは、小さな女神の隣を歩きながら、その横顔を見つめる。

 

「大事なんですね、その子の事が」

 

「……えっ?」

 

掛けられた言葉の意味が一瞬とれずに、ヘスティアはシルの顔を見た。優しい微笑みだ。きっと、これを向けられた異性は一目で彼女の虜になってしまうのだろう。

 

「たった一人の事について、思いつめている顔をしてましたよ。そういう顔をしている人、よく見るんです」

 

「ん、うん。大切で……とても、大切な『子供』だから」

 

シルが連想していた存在の名前を口にすればヘスティアは口を尖らせて不貞腐れたのに違いないが、幸いそのような会話の運びには至らない。

ヘスティアの万感の思いの篭った返答を聞いたシルは、少し黙してから、口を開いた。

 

「シル・フローヴァです」

 

「?」

 

「名乗り遅れて申し訳ありません。西のメインストリート沿いの酒場で働いていますので、機会があればご贔屓にしてください、ヘスティア様」

 

「あ、……君達は売り込みが上手だね」

 

口上を最後まで聞き届けたところで、ヘスティアは理解して、曖昧に頷いた。もし、自分が神ではなかったら、シルは助力を買って出ただろうか?という訳だ。少々強引さも感じる営業ぶりだが、彼女の纏う雰囲気は、その強かさを畏怖に感じさせる不思議な力がある。

或いはそれは、彼女もまた仕える神によってそのような力に目覚めたからなのかもしれない。そこまでいちいち聞き出そうとする事もヘスティアはしないが。

そんな思いを見ぬいたのか、シルは微笑みを絶やさずにまた言う。

 

「安心してください、ウソはついてませんよ。まだ行列の中に並んでいるはずですから、入り口で会えますよ」

 

「んー……任されてくれよ、頼むから」

 

何だかやりにくい相手だとヘスティアは思った。先程の三人娘と比べなくても、何というか、本能的にうまく打ち解けられそうにない存在にも感じられてしまう。こういう、腹に一物抱えていそうな者は……。銀色の髪の色がその思いを助長しているのかもしれないと、当人の意思とは無関係な責をすら脳裏を掠める。

それでも今はとにかく、はぐれてしまった彼と合流するのが先決だった。

 

 

 

 

 

--

 

 

 

エイナはここ数日、憂鬱な気分を払えずに居た。それも一人の少年の引き起こした事象が原因だ。……さりとて、彼に全ての責を負わせる事もできなかった。少なくとも衆目に自分の醜態を晒した事に関しては。

そんな中でも仕事を手抜かりなく行える彼女の評価はギルド本部からも高い。まあ、担当冒険者への多少の贔屓くらいは、お目こぼししますよ、という温情が却って彼女を縮こまらせていたが。

そして迎えた怪物祭の当日、闘技場の誘導係として彼女はその役務を果たしていた。今また一人、彼女の案内を受ける観客がここに居る。

 

「この前はその、本当にすいません、僕は」

 

「もういいってば……私も何というか、ちょっと頭に血が上っちゃって……もう!この話は終わり!今後は触れない事!」

 

この日の準備に追われて受付業務から外れていたエイナとは、あれ以来の再会だった。顔を合わしてから小さくなって何度も謝罪するベルの姿を見ているにつけ、エイナの中で羞恥心と罪悪感が募る。というわけで、まずは過去全てを消し去る事を彼女は宣言するのだった。

そう何度も縋るような目で見上げられては、何というか、もっと別の感情が湧き出してきてしまうという不都合もあった。

いかんいかん、とエイナは頭を振る……イメージの中で。

 

「ほら、到着。ようこそメインイベントへ、冒険者君?」

 

「わ、――――っ!」

 

緩いスロープ状の廊下を上がった先に開かれた光景は少年の目を奪う。数えきれない人々の注目が一つに集まる事で生まれる熱狂は、単なる大勢の喧騒とはまったく違っていた。様々な意思がうねり渦を成す空気の中心で、これを主催する偉大な神の栄誉を背負うその冒険者が、ベルのような木っ端冒険者では逆立ちしても敵わない怪物相手に華麗な演舞を披露する。

昆虫にも似て歪な外骨格装甲に全身を包まれた怪物が、頭部から屹立する角を使って小癪な人間を串刺しにしようと踏み込み、それを紙一重ですり抜ける男は自慢の得物で強かな一撃を叩き込む。手に汗握る光景の一工程毎に、彼の四方八方から歓声が轟き渡った。

ベルの驚嘆するのは、彼の並外れた技術と、その豪胆さだ。この尋常を超えた量の注目を浴びてなお、あれほどの技を披露し続けられるのに、どれほどの経験が必要だろうか?もはや想像もつかない。

あれこそ主の偉大さを万人の前で証明し、名声を知れ渡らせるに相応しい眷属のあるべき姿、の一つだとベルは理解する。

 

「凄い――――」

 

目を皿のようにして、観客席の出入口に立ったままのベルは感動に打ち震えている。その姿を横で見るエイナとしては、やや複雑な気持ちを胸に秘めていた。

 

(……そうよね、こういう人の為の催しでもあるんだし)

 

はっきり言ってエイナは怪物祭があまり好きではなかった。怪物を封じるために作り出されたオラリオでこんな祭りを開くのは、いかにも矛盾の極みだと思うのだ。冒険者に迷宮を攻略するための活気を与えるという目的はわかるが、何しろ彼女ら職員に与えられた仕事というのは、今はああやって忠実に劇俳優をつとめる怪物がいつ不慮の事態を引き起こそうとも、適切にリカバリを行うという一点に尽きる。その為にあれやこれやと雑務に明け暮れていると、何だか波打ち際の砂浜をキャンバスにして絵画に打ち込んでいるような気分になってくるのだ。

しかし、目の前でこうしてまんまとガネーシャの意図に嵌っている冒険者の姿を見れば、まさしくかの神の目論見が成功していると自覚する以上に、ここ数日の労苦が報われたような達成感が生まれてしまう。

ふう、とため息が零れた。

 

(……これ以上仕事人間になっちゃうのは嫌ね)

 

エイナは出し抜けに、目を輝かせて鼻息荒くする少年の傍に寄った。

 

「わっ、エイナさん?」

 

「疲れちゃうし、座る場所探しましょ?」

 

馴染みの受付嬢の顔がいきなり近くに現れて驚き、頬を赤くして慌てるベル。エイナの言葉は職務放棄も連想させるものだったが……。

 

「で、でも」

 

「観客の案内が仕事だもの。大丈夫」

 

これくらいの息抜きくらいは許容してほしいとエイナは思った。しかし彼女自身すらも与り知らぬ本音とは、横にその少年が居なければ、そんな選択を採らなかっただろうという一点に尽きる。右も左も分からなかった素人冒険者は命の危機という洗礼を経て、僅かずつに変質しつつあったが、彼女にとってはやはり、どこか頼りなく、幼い庇護欲を刺激する年下の少年なのだった。

 

「そうじゃなくて――――」

 

「ベルくーんっ!」

 

地を揺るがす歓声の中でも、ベルはその声を聞き分ける事が出来た。そう、彼はある目的を抱いてこの闘技場にやって来て、そして偶然エイナと再会したのであって……勿論、このメインイベントを観戦するというのは目的の一つに含まれるが。

兎に角、不運にも逸れてしまった主を探し当てる必要性を僅かな間とはいえ失念していたのは、どうあっても弁護の余地の無い失態である。

全力で走るヘスティアはベルの眼前で立ち止まり、激しく肩で息をする。そして、恨みがましい目つきでベルの顔を見上げた。

 

「……仲良くやっていたみたいじゃないか、ベル君。ボクの事放ったらかして」

 

「あぃいやっ!ちち違います、い、今から探そうと」

 

「本当かな~~~~?……ちょっと、ハーフエルフ君。うちのベル君と、どういう関係なのかな?」

 

じとっ、と眷属を睨めつけていた双眸が、隣のエイナに向けられる。先のアマゾネス姉妹へ向けていたものよりも更に、不審を剥き出しにしていた。

それを受けるエイナは表情にこそ出さないものの、巡り合わせの悪さと、それ以上に自分の迂闊さを省みる。ベルが一人きりでここに来たという先入観を抱いたまま、余計な色気を出してしまったのは、己の愚かさだ。

ツインテールの少女の素性を勿論知っていたエイナは、その女神による少年への思い入れの強さを一瞬で感じ取り、ならばとなるたけ事態が面倒臭い方向へ行かないように努める事にした。少し、ベルから距離を離しつつ。

 

「はじめましてヘスティア様、私はエイナ・チュール。ベルさんの担当職員を務めさせて貰っています。ここには初めていらっしゃった様子でしたので、ご案内しようかと」

 

「……そうか。いつもありがとう。それじゃあ、案内はこの辺で」

 

ヘスティアは、すうっとベルの間に滑りこむと、その手を重ね合わせた。女神の目の奥に光る疑念を払拭するのには、そこそこの困難が立ちはだかるだろう事をエイナは知った。尤も、ヘスティアの懸念は強ち的外れでもないのがややこしい所だった。少し気になる男の子、放っておけない危うさを持っている新米冒険者という印象以上のものを抱いているかどうかは、エイナ自身にもわからないのであって……。

 

「?」

 

唐突に、その場に屯す面々は、その違和感に気付いた。

かれらの鼓膜を震わせていた音響は、いつの間にかなりを潜めていた。歓声はどよめきに変わり、人々の不安と混乱を更に煽った。

それも全ては、彼らが見つめる舞台に現れた異物の成さしめた事だった。

ベルも、ヘスティアも、エイナも、そして、三人から少し離れた場所に立つシルも、その光景を見て、呆然としていた。

 

「あれは――――」

 

ようやく怪物を手懐け、それを恙無く退場させた調教師の周りに、どす黒く、底の見えない闇の穴が、幾つも穿たれていた。

穴から滲み出る闇はざわざわと蠢き、その形を少しずつ確かにしつつあった。

その、例えようもなく凶悪で、残虐な性質をそのまま象ったような、この都市の誰もが目にしたことのない、真の怪物の姿を。

 

 

 

 

 

 

 

--

 

 

 

 

 

 

 

栄えあるガネーシャ・ファミリアでも彼のテイマーとしての腕は上位に位置する。それだけではなく、純粋な戦士として、冒険者としても……例え鼻持ちならないとの誹りを受けようとも、凡百の冒険者とは文字通り格が違うと自称出来る位の経験を、彼は積んでいるつもりだった。

 

(何だ、こいつは)

 

まずは牛に似た、一対の曲線を描く角だ。それは、そいつの顔を覆い隠す鉄仮面から天に向かって伸びていおり、殊更に特徴的なシルエットを形成するのに一役買っている。

左の肩当て以外の上半身は血色の失せた肌を晒していたが、それは両手に持つその武器の異質さと合わせて、形容しがたく不気味な印象を見る者に与えるだろう。

 

(天秤刀……しかも、二刀流だと)

 

片刃が柄を挟むように生えた武器だ。それは振り回すには危険過ぎ、断ち切るには力を込められず、突くにもリーチが足りない。見掛け倒しの一語に尽きる工芸品であり、余程の腕を持っていなければ、命を賭けて迷宮に挑む冒険者が手にするような得物ではない事を彼は知っている。それを両手に携える怪物の姿はしかし、先程から彼の首筋に舐めるように貼り付いて離れない悪寒を呼び起こしていた。

腰から下、ボロ布に包まれた下半身は、未だに闇の穴から全てを明らかにしていないまま、ひらひらと揺らめく。その怪物が全身から吐き出す、紫紺色の呼気に合わせて。

 

(まずい)

 

当然、こんな奴が闘技場に現れる予定などありはしない。彼の思い至る結論は一つ。迷宮から這い出でた侵入者だ……それも、きっと、いや、間違いなく、危険な!そう、かなりの深層を探索した経験がある彼なればこそ察知できる本能的な予感は、確実に当たっていた。

 

「非常事態!!観客は直ちに退出!!誘導急げ!!」

 

困惑に満ちた闘技場に、神の怒声が響き渡った。一番上の観覧席に座っていたガネーシャは立ち上がって、あらん限りの声量を絞り出していた。

瞬間、その、『角の』は、一瞬で彼の目の前まで間合いを詰め寄らせたのだ。

鉄仮面に刻まれた、視界を確保するためのスリットから、真紅の眼光が一瞬だけ垣間見えた。

 

「は!!」

 

反射的に退く。銀の軌跡が眼前で交差した。紙一重のところで、刃は彼の命を刈り取るのを逃した。

 

(疾い!――――!?)

 

辛うじて『角の』の全身を視界に収める距離で、相対する怪物の脚部は存在しないという事実を彼は認識した。はためくボロ布は何も守っていない、漏れ出る、禍々しい色をした靄以外の物は……。

肉体的な攻撃への耐性の高い、所謂霊体タイプの敵だという分析を行う。彼は舌打ちした。手持ちの得物が有効な相手かどうか、極めて疑わしい。せめて、すぐにでも駆け付けてくれるだろう増援まで持ちこたえられるかどうかという危惧さえ抱く。それほどの相手と彼は見抜いていた。

彼の思惑を、『角の』が考慮する事はなかった。乾いた上半身をねじる姿を晒したのは一瞬。それを目にして、彼の首筋はいよいよ凍りつく。――――来る!

 

「!」

 

『角の』は、得物を投げ放つ。二回。

楕円に見える死の刃の回転は、屈んだ彼の頭上を通り過ぎた。……彼でなければ、何が起きたのか理解せずに、その頭を宙に舞わせていただろう。

 

(投擲用かっ)

 

ただでさえ扱いづらいその得物を遠距離攻撃の手段としても活用している。厄介極まる相手だ。しかし、付け入る隙はあると知った。地を這うほどの姿勢で、『角の』の懐に跳ぶ。髑髏を模した鈍色の手甲が見えた。

手甲から伸びる爪が、得物を投擲した姿勢から腕を引き戻す勢いで彼の顔を掠める。

彼の耳に、風切り音が届いていた。

 

(戻ってくると分かってて、正面きって挑むかよ!)

 

天秤刀の形状は、その攻撃方法と合わせて、彼に一つの推論を与えていた。あれは、近接武器であると同時に巨大なブーメランでもあるのだと。それは正しく、最初の一振りを避けたまま『角の』に挑めば、彼はその無防備な背を貫かれ事切れていただろう。

だから彼は、『角の』の背後を取る事を望んだ。碌な防具も身に着けていない上半身に、憂いなく一撃を叩き込む為に採った選択。それは、妥当だった。

けれども彼の犯した過ちとは、もっと根本的な部分だ。

 

「後ろだ!!」

 

(ああ、後ろから来るって、わかって――――)

 

彼の過ちとは。

様子見に徹しなかった事だ。

全く知識を持たない、得体の知れない敵に対して、単身挑む。冒険者として最も初歩的なミスだった。

数のアドバンテージを得るのを待たなかったのはきっと、彼が未だに演舞の熱狂を脳に宿したままだったからという一点に尽きるだろう。衆目を沸かせる快感は、冒険者としての冷静な判断力を奪い去っていたのだ――――。

彼は、どん、という衝撃と同時に、自分の身体が意図せず動きを止めた事に、困惑した。

『角の』の剥き出しの背に回り込んだまま、彼の足は一切の命令を拒絶していた。背筋を斬り裂く為の剣を持つ手は、構えたまま微動だにしない。

 

(あれ)

 

「――――!!」

 

自分の名を呼ぶ声がする。忠誠を誓う主の声。大きく、優しく、厳しい、何よりも敬愛する主の声だ。駆け出し冒険者だった自分を目にかけ、ここまで導いてくれた最も偉大な存在の声が、彼の脳裏に様々な憧憬を呼び起こした。迷宮の苦難、受けた傷の痛み、仲間を失った悲しみ、手に入れた栄光、目覚めた力、はじめて怪物を手懐けた時の感動。自分が代え難い存在であるとその存在意義を確信した瞬間。

 

遠い故郷の記憶。

 

小さな家の、小さな家族。

 

全ては一瞬の事だった。腹から熱いものがせり上がり、彼の口からあふれた。

 

「ぶっ、グフッ」

 

紫色の、靄に包まれた刃が彼の腹腔から飛び出ていた。暗くなっていく彼の視界に、振り向く鉄仮面が手に握る得物を振り上げるのが映っていた。

崩れ落ちそうになる身体を、姿の見えない背後の敵がまた刺し貫いた。熱い、と感じた。痛みを感じるのは、もうすぐだろう。

けれども、その前に、自分の命の火は消え去るだろう事を彼は知っていた。

 

(なんて、あっけないんだろう)

 

自分の終わりを、どこか他人事のように彼は感じていた。ついさっきまでは、万雷の歓声を浴びていたのが、いきなり正体の分からない怪物の相手をする事になって、……一つの選択の間違いで、この有り様だ。

儚いなんて一語で片付けられる程に、自分の重ねてきたものは、取るに足らないものだっただろうか?けれども、彼はそう思っても、もう何も覆すことは出来なかった。

一人の人間は、そうして死んだ。

 

 

 

--

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「きゃーーーっ!!」

 

「ひいい!!」

 

「早く!早く逃げろーーーっ!!」

 

信じがたい事態は確かに目の前で起きていた。エイナが見たことも聞いたこともない怪物……否、怪物達は、あっという間にテイマーの命を刈り取った。

 

「押さないで!押さないでくださーいっ!」

 

動揺している暇など、彼女に与えられなかった。すぐに自分のすべきことを悟る。ギルド所属の従業員として、観客の安全確保だ。怒涛のように押し寄せる避難者の波を必死で整列させようと、片手を口に添え大声を張り上げる。

誰も彼もが、恐慌夥しい表情を浮かべていた。さもあろう、かれらの目の当たりにした一人の無惨な死に様は、自分達の身にも降りかかろうとしている無差別の災厄に他ならないと理解しているからだ。

 

(迷宮の怪物達が、直接地上に現れたというの!?そんな事が……!)

 

『角の』に引き続いて、闇の穴は次々に穿たれ、そこから挨拶する新顔ども。『角の』に似たシルエットの下半身を揺らめかせる、両腕が抜身の刃になっている怪物と、錆びついた鎧兜と剣で武装した、青白い肌の亡者兵。

主催者の声を聞いてもなお、その目を殺戮の痕から離せなかった者達は、亡者兵によって放られた赤熱する砲弾が観客席の手前で炸裂したのを見て、やっと、この事態が他人事ではないと知ったのだ。

 

「ベル君はやく!ぼっとしてる場合じゃないよ!」

 

ヘスティアは、人混みの勢いに入らず立ち尽くす眷属の腕を引っ張って急かす。ガネーシャの指示が飛ぶや否や本分を全うすべく動いたエイナは、とうにこの場に居ない。出入口からほど離れた場所に取り残された一組の主従など、必死の思いで避難をする人々は省みようとはしなかった。

 

「あれは」

 

「聞いてるのかっベル君!アレは然るべき連中が対処するんだから、ボクらはさっさと逃げるんだっ!」

 

ヘスティアの視界の端に、観客席から颯爽と飛び降りる影が幾つもあった。その中には見覚えのある、あの怨敵の恩寵を受ける娘達も居る。ガネーシャは助太刀代わりに、丸腰の彼女達の為の得物を闘技場の頂からばら撒いている。丸腰でこの場所へやって来た冒険者達の中には幸運にも、凶悪極まる実力を持つ闖入者に対抗出来うる筈との希望的観測を抱かせる手練が何人か存在していたのだ。

そう、いくら専門的な前衛でこそなかったとはいえ、いま血の海の中に沈んでいるのは、ド素人のベルなど及びもつかない程の実力を持っていたはずの戦士だ。もしも、と考える事すら陰鬱な想像だが、ベルがかれらの後に続こうなどと思っているのならば、何をおいてもそれを阻むのが自分の義務だとヘスティアは思った。

 

(逃げる?……逃げる、逃げる……?)

 

ベルの中に何度も響き渡る、主の言葉。しかし、心の何処かから、その山彦に混じって、疑念が滲み出る。逃げる。何故?あんな連中相手に、遅れをとる事など、あるのか?……あの程度の……?

それはベルの足を退かせまいとその場に縫い付ける。それどころか、あそこへ飛び込めと急き立てる。

 

(逃げる……?違う、違う。倒す……倒す、敵だ、あれは……敵だ……)

 

腕を引く女神の力など、何の障害にもならない。ベルは、一歩踏み出す。逃げる事など出来ない。許されない。あれは自分が倒すべき敵ではないか。何故、そんな選択を採る必要があるのか?

彼の中でずっと眠り続けていたものが、首をもたげる。目覚めを待つ何かは、静かな身じろぎとともに、少年の身体を、心を、支配しつつあった。

 

「ベル君……?ベル君っ!!」

 

主の声も彼の歩みを止める力にならなかった。既に戦端の開かれている舞台を見つめ、取り憑かれたようにそこへ向かおうとする眷属に対し、遂にヘスティアは両手で腕を掴んで踏ん張りはじめた。しかし、思い虚しく彼女の足は少しずつ、観客席の床を滑っていき――――。

 

「ベ――――」

 

「っ!」

 

乾いた音がベルの耳をうった。衝撃で視界が大きく揺れ、危うく倒れ込みそうになるのを足腰が踏ん張って持ちこたえる。ベルは我に返った。殴られたのだ。

急に視界がハッキリと澄み渡った。舞台で死闘を演じる者達の姿しか映らなかったのが不思議に思えた。彼の目を覚まさせたシルは、頬を打ち据えた右手を下げると、にこりと微笑んだ。

 

「男性として、こういう時は……きちんと、女性を先導するのが、マナーだと思いますよ?」

 

「……っ」

 

有無を言わせない威を放つシルの言葉は、ベルを自責の念で潰れそうにさせるのに有効に働いた。

自分は、主を忘れたのだ。あの時、ミノタウロスと対峙した時に自分を支配していた時と同じ、訳の分からないあの衝動に囚われて。

ベルは、呆然とした表情をヘスティアに向けた。

ヘスティアもまた、ゆっくりとこちらを向くベルの顔を見て、はっとした。突然、目の前で可愛い眷属の顔面を引っ叩かれれば、そうもなる。直後に、こんなにも思いを寄せる彼が、この緊急時において自分の事を完全に忘失していた事への悲しみが湧き出した。それと同時に思い出すのは、彼の背に浮かんだ運命の刻印のこと。あまりにも不吉極まる、予言じみたその文面……。

ベルの顔に浮かぶ激しい悔恨の想いを理解しながらも、ヘスティアの心は戸惑いと悲嘆、そして僅かな怒りと綯い交ぜになり、黒く渦巻いていた。

それでも、辛うじて声を絞り出すことが出来たのは、得体の知れない衝動から少年を開放してくれた第三者の存在があったからだろう。

 

「……早く、避難しよう」

 

細い喉を通ったかすれた声は、観客席に溢れ返る悲鳴にもかき消されることなくベルの心を揺さぶった。弁護の余地など与えられなかった。俯いた顔で背を向ける主の後を追う以外に、彼に出来る事は何もなかった。

 

「……」

 

シルは無表情で、人混みに消えていく主従を見つめていた。

 

 

 

 

--

 

 

 

 

ティオネは『角の』の一番ヤバイ特徴を目に捉える事が出来た幸運に感謝していた。ゆえに、今自分達に襲い掛かる災厄を切り開く突破口を見出だせないのは、単なる実力不足だとも自覚させられる。

 

「分身きたっ!」

 

「はいっ!」

 

レフィーヤは、音もなくそこに現れた昏い紫色の影目掛け、炎を放つ。弾ける爆風が影を包んで、後方に吹き飛ばした。

彼女が押し戻したそれこそ、不幸な犠牲者の臓腑を引き裂き屠った当事者、『角の』の影……姿を象る分身だ。前触れ無く次々に現れる影に囲まれる『角の』は、まるで奏者を導く指揮者のように両手を構え震える。

総勢二十人弱の戦士達が相手をしているのは、『角の』に呼び出される分身のみではなかった。『角の』に似た怪物の『手刀』と、舞台を取り囲んで絶えず砲弾を投げつける『擲弾兵』。数はそれぞれ、七体、十体ほど。

更に襲い来る分身を全力の横薙ぎで吹き飛ばす二人のアマゾネス。

 

「多くないっ!!?」

 

「こっちだって数は増えてく筈でしょっ!」

 

姉妹が手に取ったガネーシャの助太刀は、槍。後方の魔導師を主砲として据え防衛する戦術を選んだ事が正解か不正解かは、未だに定かではない。視界の端には自分達と同じようにツーマンセル、スリーマンセルで怪物達の相手をする冒険者の姿があった。

それでも、相手にする連中はかなりの強さだと一目でわかる。半端なコンビネーションの攻撃ははためく反物の如く回避され、踊るように振り回す両手の刃はかれらの碌な武装も無い身体を切り刻む。それだけで済むのならまだ事態は容易いと言えるのも質が悪い。

ティオネは火の粉の弾ける音を耳にとらえた。

 

「レフィーヤ、伏せてっ!」

 

「っは!」

 

振り返り、腰を捻りながら跳躍する。槍は天頂方向目掛けて回転し巨大な車輪を描いて、石突き部分が砲弾に叩きつけられた。

打ち返された火達磨の弾丸はあらぬ方向へ飛び去り、空になった観客席にぶつかって爆裂する。着地したティオネの槍を握る手が、びり、と痺れた。

恐怖を顔に浮かべ屈むレフィーヤの後方で、『擲弾兵』がニヤリと笑みを浮かべたように見えたのは、ティオネの目の錯覚である。鼻も唇も削ぎ落ちた亡者が嘲笑など出来ようか?

そう思わせてしまうほどに厄介なのが、この絶妙な火力支援によって人間どもによる反撃の手を封じてくるという点だ。或いは直撃すれば、火傷程度ではとても済むまい。包囲殲滅戦という、あまりにも有効な戦術を採った敵側に明らかな利があった。

それを悟れない者などこの場において一人足りとも居はしない。僅かな隙を見ては、『擲弾兵』を狙って必殺の一撃を撃ち込む。そう、今しがた、恐怖を振り払い立ち上がったレフィーヤがそうしているように。

 

(行け!)

 

エルフの放つ炎は糸のように真っ直ぐに伸び、亡者兵士の顔面を貫く。兜の下の乾いた表皮は、立ち所に吹き上げる灰となった。業火に顔を舐められ身悶える最中に、右腕は爆ぜた砲弾と共に消し飛ぶ。果たして面倒な問題が一つ片付いたように誰の目にも映るのだが、それがぬか喜びすら呼び起こさない事は既に証明されていた。

倒れ伏した全身を黒いコケラ屑と変貌させて消滅する『擲弾兵』。その痕にまた、闇の穿孔が開き、青白い手が床をついて現れる……それは、ロキの眷属達でなくとも、既知の光景だった。故に、実体の朧げな『手刀』を屠る事を第一に動かざるを得ないのだ。

レフィーヤの顔が蒼白に染まる。迷宮内部であっても、これほどの速度で新たな怪物が生まれ落ちるケースは稀だというのに、入り口たるバベルから離れたこの場所に直接現れてくる。余りにも異例づくしの事態だ。

 

「……!あと、幾つ倒せば……!?」

 

「これじゃあ半端に数揃えても、ジリ貧じゃないのっ!」

 

「やっぱりアイツ!親玉を何とかしないと、をぉっ!?」

 

『手刀』の一体が視界の外から躍り掛り、三人の戦列に割り込む。両腕を広げ独楽のように回転すると、窪んだ眼孔の中の禍々しい光が歪んだ軌跡を残した。

 

「くうっ!」

 

浅く腕を切り裂かれ、一筋の傷から血が零れ落ちた。レフィーヤの顔が痛みに歪む。『手刀』の双眸がそれを捉え、理解したのだろうか。人間で言うところの橈骨をそのまま肥大化させ研ぎ澄ましたかのような形状の刃は、若いエルフの更なる血を求めて振りかぶられた。

死がそこにある、その実感が、かつてない危地に放り出された少女の心身を舐り、強張らせる。だが、『手刀』の両肩口に、小麦色のシルエットが絡みついた。

 

「――――!!」

 

「んっの!!」

 

「捕まえたぁあ!!」

 

『角の』の相手の最中にも横槍を入れまくり、ちょこまかと攻撃を避けまくりやがっていた相手を遂にその手に収め、ティオナとティオネは恐悦に顔を崩す。遡れば戦神の系譜とされる戦士の血が、彼女達の中の残虐性を今この瞬間だけ、顕にしていた。

どちらが合図するでもなく、二人して一息で肺を膨らませ、全身の筋肉を張り詰めさせる。それぞれで刃を羽交い締めにする両腕が巌のように硬化し、しなった。

 

「「おぉっ、っらああああああああああああっ!!!!」」

 

『手刀』の錆びた肩当ての下で、大量の筋繊維がブチブチと音を立てる。両腕に掛かる強大な引力は、凄まじい反作用との相乗効果により、亡霊の体を木切れ人形のように分解しようと襲い掛かる。

そして――――!

 

「ギイイイアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」

 

どす黒い血が『手刀』の両肩から溢れ出る。正確にはもう、そこに肩は存在しなかった。肩口から両腕を引き千切られた痛みを感じることが出来るのかどうか、一堂に会する誰も知ることは出来なかったが、ともかく亡霊の絶叫は、そいつの起こした最後のアクションとなった。

 

「レフィーヤ!大丈――――」

 

「、後ろですっ!」

 

紫色の靄がティオナの後ろに現れる。天秤刀を交差させたまま振り上げる『角の』の分身は、罪人の咎を贖わせる処刑人の似姿そのもののようにレフィーヤの錯覚を呼んだ。

 

「せぇやああああっ!!」

 

ティオネの渾身の突きが、分身の胸を貫く。跳びかかりながら体重を乗せた一撃は分身の体勢を大きく崩した。だん、と着地したティオネが、獲物を串刺しにしたままの槍を握り、歯を食いしばる。彼女の目に映るのは、こちらに向かって天秤刀を投げつけようと上体をよじる『角の』の姿だ。

 

「お――――おおあああっっ!!」

 

ぶんっ、と重い風切り音と一緒に、槍から放たれた分身が本体向かって宙を舞う。そう、両者を結ぶ線の間には、『角の』が放つ二つの刃が待ち構えていた。両断、もう一度両断。三つに切り分けられた分身は地に落ちる事なく、その場で煙のように消え去る。

そして、両腕を失った『手刀』の身体が、地に崩れ落ちる音を立てた。

妹の危機を退けたティオネは、達成感に浸る事もなく、石突きを地面に撞き立て、顔を歪めた。

 

「うーっ、ヤバ、痛」

 

「ティオネ……!」

 

脹脛をしとどに濡らす血は土まで広がり、ティオネの左足を中心に黒い染みを作り出す。真っ赤な傷口の奥には黄色い脂肪が僅かに顔を覗かせる。かなり、深い。筋肉まで達している可能性を考慮するべきだ。ティオネの顔の血色の悪さからして、戦いの昂揚による鎮痛作用も期待できない。

いつの間に……と、ティオナの心胆は底冷えした。いつ、こんな深手を与える攻撃をされたのか?視線の先に居る『角の』は、戻って来た天秤刀を受け止めたばかりだった。

他方、レフィーヤは唇を噛みちぎりそうな程に歯を食いしばる。自分の鈍重さが敵の不意打ちを呼び、それをフォローした先輩は奇襲を受け、この様相……碌な戦果も出せずに足を引っ張る己の無力さを呪う事しか出来ない。

 

「ってー……はは、これでもわたし、食いしばった方みたい……なんて……」

 

「っ……!」

 

脂汗を浮かべるティオネが、半笑いの口で揶揄する。その意味を理解するには、周囲で死闘を演じている者達の姿から推察すれば瞭然だ。ティオネ程ではないにしろ、いずれも浅くない傷を負い、その動きは明らかに当初より鈍っている。……うち一人などは、利き腕を真っ赤に濡らして武器を取り落としていた。そう、あれが居る組が相手にしていた『手刀』が、次の標的をこちらに変えたのだろう。この怪物達が何を考えてるのか等理解したくもないが、目的は一つ、ここに立つ全ての人間の死という事だけはわかる。傷つき、戦力に穴を空けまともに戦えなくなった連中などいつでも狩り殺せるというわけだ……。

三人のみならず、人間達は戦況を理解した。辛うじて保たれていた均衡は崩れ、今こそ自分達は迷宮の子供達の供物として捧げられようとしている事を。

 

(駄目、まだ!)

 

姉に取り付いて動きを止めたティオナ目掛け、砲弾が迫るのをレフィーヤは見た。瞬時に精神力を高める。諦めれば全てが終わる。仲間の命も、自分の命も、取り零す訳にはいかない。覆い被さらんとする悔しさを振り払って、指先から火球を放った。

 

(アイズさんなら、挫けたりなんかしない――――!)

 

爆音。そしてまだ、もう一投が背後に迫ると感じ取る。その耳が、砲弾の纏う火の粉の音を逃さない。目で追うより先に右手で指し示し、視線を合わせた瞬間に放つ。直撃!

 

(次!次は!?そうだ、今の状況を変える手は……!)

 

「駄目レフィーヤ!止まらないで!」

 

半手先を取ったと判断しての一瞬の思索を自分に許すレフィーヤ。しかし、それが彼女の限界だった。ティオネの悲痛な叫びを聞いた瞬間、彼女のうなじの肌が粟立った。風の感触が届くと同時に地を蹴る。――――熱い。

 

「うあっ……!」

 

アマゾネスの姉妹の目にするのは、エルフの細い胴体を両断するべく右腕を袈裟斬りに振った『手刀』と、命と引き換えに背の皮を裂かれたレフィーヤ。何の防御効果もないお洒落な服は柔肌とともに赤く染まった。それでも踏みとどまろうとする彼女の頭上で、飛来した砲弾の爆音が轟いた。衝撃に脳を揺らし、彼女の身体は遂に倒れる。

もはや座して見守る義務も無い。断腸の思いで姉から離れ槍を握るティオナはしかし、背後の空気が乱れるのを感じる。振り返れば、『角の』の分身。朧げなシルエットは、天秤刀を掲げてこちらへ迫り来る。

 

「糞!!」

 

目一杯の悪罵がティオナの口から溢れた。まずい、非常にまずい。やれるかどうか?という自問は即座に否との答えを導き出す。『角の』は絶えず分身を生みつつ後方で嘲笑い、『手刀』は『擲弾兵』と同時に、戦力を残す者を集中的に狙う。分散してそれぞれで敵を潰すのは完全な失敗だったのだ。戦力を固め、指揮を執る者を置いておけば……と、無意味な仮定が過ぎる。緊急時の寄せ集めの軍勢を取りまとめられる人材も、果たしてこの場に居るのかどうかとも思うが。

腹をくくり眦を吊り上げる妹の顔を横目に、ティオネもまた激痛をおして構えた。やるしかない、どうあっても。選択肢など無かった。

 

(団長、ロキ様、皆……。せめて、斃れるのは私だけで!)

 

地に手をつき、まだ立ち上がろうとするレフィーヤの姿を見て、ティオネは強く願った。妹とレフィーヤが聞けば憤慨するだろう悲痛な願いは、いまの彼女にとっては何を引き換えに実るのも惜しくなかった。

『手刀』が両腕を開き、吠える。それが、処刑の合図だった。刃を持つ独楽と、斜め十字を掲げた執行者が、三人の闘いを終わらせる為に迫った。

 

(立て……立たなきゃ……どうして、私は!!)

 

レフィーヤが思い返すは、つねに出遅れ守られていた、先の遠征の記憶だ。あれほど悔いていたのに、全く変わっていないではないか。そのまま終わって、良い筈が無い。握り拳で地面を押し、身体を捻って背を起こそうと試みる。しかし、空を向いた彼女の目に、見たくないものが映る。

 

「ぁ……っ!」

 

砲弾を包む炎は陽に溶けそうに白熱し、自らを解き放つ瞬間を待ち受ける。それは地に這いつくばる若いエルフの身体を吹き飛ばす時だ。レフィーヤは揺れる脳幹を鎮め、精神力を研ぎ澄ます。が、撃ちだされた炎は、空を切って天に消えた。

 

(そ、ん、な……)

 

最期の一矢を外した絶望が、レフィーヤの心に歯をかけた。彼女は、自分の死を、ひいては傍に居る二人のアマゾネスの暗い未来すらも幻視した。

恐怖は遂にその瞼を落とさせ、一縷の希望の光すらも、彼女の心から消し去ろうとした。

 

(――――もう、終わり、なの――――)

 

全てが闇で覆われていった。思考も、感覚も、記憶も、何もかも。

死の運命から逃れられぬ者は、審判の時に追いつかれたのだった。

 

 

 




・アマゾネス
アセンションに登場。ちゃんと片乳が削がれているが、弓矢は使わない。アレスの血を引く部族とされ、復讐の女神達のしもべとしてデロス島に現れクレイトスの行く手を阻む。

・ハデスフィーンド
擲弾兵。GOWIIに登場したグレネードゾンビ兵。よく見りゃ女である(IIIのオリュンポスフィーンドは乳丸出し……)。

・レイスオブアテネ
手刀。初代GOWでは地上投げ→空中投げ三セットで倒せてしまう。やる気あんのか!?

・レイスオブハデス
角の。アセンションのレイス。遂に地上投げへの耐性を手に入れたが、潜行モードからは普通に引きずり出されて投げられてしまう。そしてそのまま空中投げが入る。意味ね~。

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