眷属の夢 -familiar vision   作:アォン

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冗長さは頭の悪さだ。皆は手遅れにならないようにしようね。





あーでもないこーでもない

 

 

 

『うわぁーっはははははははは!さあもっと運べぇ!積めぇ!世界中に我が偉大さを見せつけるように、天まで届く高さの像をここに建てるのだ!休みたければ好きにしていいぞ、永遠に楽にしてやる!』

 

『働けえ、働けえ!!』『ううっ……』『ぐう……』

 

『ああああああ!!ベル君、アルゴス君……!!おいやめろっ!!こんな馬鹿丸出しなモン作って、キミはずかしくないのかよっ!?見ろ、皆爆笑してるぞっ!!』

 

『あいつ馬鹿だよな』『本当にな』『おもしれーよな』『世界レベルだな』『金メダル級だな』『天まで届くよな』『いつ崩れるかな』『賭けようぜ』

 

『ふん!!関係ない連中が何をほざこうが、知ったことか!!大体貴様はなんだ立場もわきまえず偉そうに、しもべ共の心配などしている場合か?』

 

『は?立場……んっ!?何だ!?何だこれ!?こんなのいつ繋いだんだ、はやく外せよっ!い、いやボクより先にあの子達を……』『刑吏ィ!このチビに思い知らせてやれ!』『はァ!?何……!』

 

『おーっす。ほんなぁ、ちょいとドチビはお勉強の時間やなぁ?』『こういうのはあんまり趣味じゃないんだけど』『!?!?!?!?、な、何だ君達は!?何だその格好は!?!?いつこの馬鹿の手下になったんだよ!?!?!?』

 

『あ~罪人の質問なぞ聞こえんなぁ~ケッケッケ……』『どう、似合うかしら?フフフ』

 

『うぐっ、よっ、寄るなっ!!あっち行けっ!!この悪党どもめっ、こんな事してただで済むと思ってるのかっ!?』『は!手前が始めた戦いに負けたくせ、グダグダと。見苦しい、聞き苦しい!これがこの世の理だと知るがいい!おい、やれ!!』

 

『それじゃあ~最初はどうしたろっかなぁ~、ムチにするか、縄で縛るか……おっとこんな所に蝋燭が』『まぁ、何にせよ……まずは、脱がしてあげなきゃ駄目じゃない?』

 

『嫌だあああああああああ!!触るなあああああああああああ!!だっ誰か、ベル君っ!あっ、くそっ、違う、畜生っ、ボクが、ボクが助けてあげなきゃっ、でもっ、うっ、うぐうううっ!!こんなの、こんなの、うわああああああああっ!!』『…………ア…………』

 

『いいザマだな!ふはははは、はーーーーっはっはっはっはっはっはっはっは!!』『……ィア…………』

 

『身の丈に合わん望みなんざ、抱えるもんやないなあ?うひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!!』『…………スティア……』

 

『大丈夫よ、痛いのも苦しいのも、すぐに忘れるものだから。フフフ、アハハハハハハハハ…………』『…………い、起きろ…………』

 

『ああ、ああああああ……う、ぐ、う、く、くうっっっそおおおおおおおおおおあああああああああああっっ!!!!』『ヘスティア!』

 

 

 

 

 

「うっだらあああああああーーーーっっ!!!!」「ぐぶぇっ!?」

 

女神の全身に満ちる怒りは、起き抜けに上体を跳ね上がらせて、握り拳を全力で振り抜かせた。それは象頭の顎へと直撃し、彼の脳を激しく揺らした。

 

「。…………ん?夢?」

 

「うわあ、これは……神様、災難ですねぇ」

 

床に崩れ落ち昏倒しているガネーシャの身体を持ち上げながら、医師が零した。ヘスティアは我に返って、周囲を見回す。白い床とカーテンとベッド、薬棚。白衣。椅子。細部は違えど見覚えのある作りの部屋である。両手首をきつく締め上げる枷も、両足首から伸びる重い鎖も、猛烈に腹が立つ無数の嘲笑も、すべてヘスティアの脳裏から塵も残さず消え去っていた。

 

「?、?、?、……医務室?なあ、キミ。何でボクはこんな所に居るんだい?……ガネーシャ?どうしたんだ?いったい……」

 

「これって、私が片付ける事案なのか」

 

医師は溜息をついた。寝息を立てながら、あの剣姫に抱きかかえられてやって来た女神と、それが床に就かされて暫ししてからやって来た神の間にどんな事情があるかなど、知ったこっちゃない。とても疲れているようだから寝床を貸してあげて欲しい等と、それだけ言って押し付けてくれた美少女冒険者への恨み言は密かに募った。

とりあえず夢の住民を呼び戻す代償に夢の中へと旅立った者の目覚めを促すのは、急務だったと言えよう。

 

「ガネーシャ、ごめん。ええと……実はどんな夢を見てたか思い出せないんだけど……なんだか、ものすごく腹が立って、そのまま、つい」

 

「ふ、いいパンチだ。踏み込みも合わせていたら、首まで飛んでいた所だな、ははははははは!!、と、まあそれは置いておくか」

 

ガネーシャの飛ばした冗談の意味などヘスティアには皆目検討がつかなかった。眉をひそめた心底訝しげな顔つきを流し太い腕で鞄を探る彼の神の心境を、唯一の立会人である医師は少しだけ慮った。

 

「これだな。確かに渡しておくぞ」

 

「え、何だい、こりゃあ……??」

 

ベッドに座りながら受け取った、その分厚く重い紙束を腿に乗せたヘスティアは、それをよこした相手と視線を交互に動かしてから、中身に目を通す。

 

「お前の持っている資料を更に細かく調べあげたものと思ってくれていい。その連中の生死問わず、それぞれの名前、種族、出身、実力、異名、現状。どれも、把握している範囲でしかないが、……俺に出来るのはここまでだ」

 

「……これが、全部、か。……すごい」

 

凡そ女神の手首ほどの厚みはある製本した資料は、世界最大の都市を丸ごと熱狂させる催しを幾度も大過なくやり遂げてきた群団の持つ力の強大さ、そしてまたハーフエルフ一人の成し得られる事の限界をも雄弁に物語る。だが、ヘスティアはその力の比較よりも、この大きな糸口へと繋ぐ道を示してくれた事への感謝の念ばかりが湧き上がっていた。勿論、一日も待たずにこれほどの量の情報を集めてくれた存在に対してもだ。

固く重く閉ざされた栄光への扉を開くための鍵は確かにここにあるのだと、そう確認するようヘスティアは資料を胸に抱えた。引き締まった表情をガネーシャに向ける。

 

「ありがとう。必ず、この恩には報いるよ」

 

「おっと!違うぞヘスティア。これで貸し借りは全て無し、だ。わかるだろう?」

 

腕を組むガネーシャの心境を理解出来ない者など、オラリオに果たして存在するだろうか?大いなる不始末の原因の片割れこそとある密告によって突き止めることが出来たものの、大猿の鎖を外した事をあっさり認めて謝罪した彼女は頑として主張した。やったのはそれだけ、後は知らないわと。以来、八方手を尽くして『子供』の仇討ちに執念を注ぐ彼の姿は、その血を分け与えられた者達もまた等しく倣うところだ。

神の街で俄に醸しつつある不穏な空気とは、たかが一戦神のくだらぬ企みなど及びもつかない領域から生まれ出づるものに他ならないのである。

尤もヘスティアはそこまでの見地も思索も至らせるだけの余裕など無かったが――――重要な事は、それではないから。

 

「そうだね。……そうとも。ボクはね、必ず成し遂げるよ。アルゴス君が無罪で、それを信じて証明してみせた英雄の名は皆に知れ渡るんだ。その時誰だって思い知るだろうさ、この街の住民なら、こんな横暴に対して傍観者なんて気取るべきじゃないんだってな!!見ててくれよっガネーシャ!!」

 

「あ、女神様。…………行っちゃったよ。元気なもんだ」

 

ベッドを降りながら力強い宣誓を医務室に響き渡らせ、ヘスティアは大急ぎで走り去っていった。いくらも時間は残されていないと知っているのは彼女だけではない以上、その猛進ぶりを努めて止めようとは医師も思わなかったが……。

 

「あの資料の人物全員あたっていくつもりでしょうかねェ、ガネーシャ様?あと半日も無いのに。出来ると思います?」

 

呆れ顔でベッドを整えている死すべき者の質問に、やおら部屋を出ようと踵を返していたガネーシャは立ち止まる。

そして、言った。

 

「俺は、その機が尽きぬうちに義理を果たした。ならば後は、連中次第ではないか?」

 

出来なくば、それはその程度の事だったというだけの話だろうというわけだ。

寸分の隙も見当たらない正論に、医師は肩をすくめ、小さく鼻で笑った。

ガネーシャは振り向く事なく、医務室を後にした。

 

その程度、でしかなかった顛末などその神は幾らでも知っていた。省みるのも億劫なほど。道半ばで力尽きた者共の夢の残骸を踏みしだいて歩み続けた末に、今があるという事も。

それをともに成し得た愛する『子供』の事だけが、今の彼にとって何よりも優先すべき事項だった。

 

 

 

 

--

 

 

 

突如手渡された膨大な量の情報をどのように扱うべきかと、いざ冷静な思考で途方に暮れる時間もヘスティアに与えられなかった。バベルから飛び出て全力疾走した末に辿り着く万神殿、入り口からごった返す人集りは、こんにち彼女がこれ以上なく思い知らされた、徒労をのみ与えてくれる第三者の群れとの認識から些かも本質を違えてなど居ないのに。

けれども、ヘスティアは躊躇しない。まだ何も終わってなどいない、歩くのをやめる理由は何一つありはしないとわかっているからだ。

まるでラキアとの小さな諍いなど完全に無かった事になっているかのように、かれらはその話題に口さがなく熱中する。ロキ・ファミリアが。レベル6が。地下水道で。正体は……?

人波に埋没する小さな女神は、思い切り息を吸い、いざや再び我が存在をこの場所に知らしめんと、腹の底に力を滾らせた、そして。

 

「諸君っ!!どうか静聴――――」「神様」「っ、っっ、っ??」

 

仰々しく掌を翳したヘスティアの、威勢よく張り上げられた声は思いもよらない存在によって遮られた。変なタイミングで息を呑んでしまい目を白黒させている主に構うこと無く、ベルは真剣な顔つきを崩さずに真っ直ぐ向き合う。

途切れた呼び掛けに対し訝しげに向けられていた数知れない視線はすぐに外れていった。ヘスティアは目の前の『子供』だけを確かな存在として感じ取っていた。

言葉を忘れさせる気迫があった。

 

「ひとつ、……手掛かりを、見つけたんです。神様はどうですか?」

 

『子供』の掴んだものの全容を問うよりも先ずは、女神は携えるそれを差し出すのだった。分厚い冊子を開いたベルは、すぐ記載されている概要を知った。

 

「ガネーシャから。ハーフエルフ君の言ってた、もう居なくなってしまった連中ひとりひとりに至るまで調べてくれたんだよ。……なんとかして、ここから繋がるものを見つけ出さなきゃ……」

 

主の声さえ遠くに感じる。それは、彼の中にあった大きな欠片と繋がり合い、目の前の闇を照らしていく微かな輝きを放つような、そんな幻覚をすら呼び起こすのだ。それはとてもか細く、遠い。しかし、確かに見出した達成への道筋に他ならぬと信じる以外、今の彼にはなかったのだ。

出し抜けにベルは冊子を床に置き、ポケットから草臥れきった紙を取り出して広げた。公然の礼を弁えない突飛な行動にヘスティアは面食らう。ロビーに満ちる衆目の幾つかも、それを見て訝しげに細まった。

主に理由を問われるより先にベルは口を開いた。

 

「あったんです、居たんですよ、その方法と、作り出した人達が……!」

 

「何だって!?」

 

声を上ずらせるヘスティアも『子供』に倣って床に這いつくばり、開かれた頁とそこから写し取られていく冒険者の名前を見やる。一心不乱のようすを崩さないベルの双眸は絶えない輝きと、消えそうな揺らめきの双方を危うく両立しているように見えた、その主には。

 

「エルフ……?」

 

書き写される名の共通点をすぐに見出したヘスティアは、その単語を呟いた。その奇跡を齎した血を分け与えし者の名よりも、各々の肉の器に宿る血のみを以て『子供』は選別している事に気付いたのだ。

 

「生き残りのうちの、エルフの誰かが、それを持っているって事かい?」

 

「っ……はい、きっと。いや、必ず、そのはずです」

 

僅かに、苦渋をその顔に浮かべるベル。その胸中、自分の掴んだ手掛かりがどれほど心許ないものであるかぐらいわかっているからだ。この分厚い資料から、雑把もいいところの公約数で拾い出せる情報量はどれ程であろうか。それらに行き当たって、それでも望むものへと続かなければ……?

だが決して、そんな弱音など表に出すべきではないとその手と目は動きを止めない。迷妄は歩みを止めさせ決して抜け出せない闇へ引き込むばかりの、忌むべき悪徳なのだとベルは断じて、頑なに滾る衝動へと薪を焚べ続ける。

その時間はどれ程続いたか――――ヘスティアは見守る事しかしなかった。そして、唐突にその瞬間は訪れたのだ。

 

「――――え?」

 

恐ろしい速さで頁を捲るベルは、その記述を目にした瞬間、動きを止めた。指し示す紋章。その下に、ずらりと名前が並んでいる……視線は交互に移されて、やがて更に目を見開いて止まった。

 

「おいベル君、どうした。何か……このファミリア?…………もう団員すべてが……ん?」

 

当然だが、すべてが硬直した少年の様を見ただけでは、未だヘスティアはその所以を理解できなかった。紙に押し付けられている人差し指の先を見やる。剣と翼の紋章。正義の女神とその『子供』達。方々から恨みを買った挙句に壮絶な滅びを迎えて久しい群団……そのうちのひとつだ。

描かれた紋章の下に箇条書きされている名前の数々。現況:死亡。死亡。死亡。死亡。死亡。無惨だ。だが、憐憫の芽生える暇も無く、『子供』の視線を奪うものにヘスティアの意識は注がれた。一人の冒険者の名前。それに覚えなどあるはずもなかったが。

 

「……行方不明。指名手配中………………って、?」

 

たった一人の生き残り。ヘスティアはベルの顔を見て言外に問う、キミが掴んだものと、これとの関係は?その返答はなされずに、また頁を捲る音が奏でられる。周囲の喧騒も、たった二人きりのファミリアには決して届いていなかった。

そしてベルはその記述へと行き当たる。その人物の似顔絵、種族。来歴、末路まで、そこにはしっかりと刻まれていた。

時が止まったような感覚をベルは味わった。突如道がそこに開かれたような、…………そしてその先にある、深い闇も。どうせそこには何も無いだろう、無駄な努力はもうやめろと囁く何かの気配も。

だが、今のベルの瞳には、あらゆる諦めの理由を退けるその力が宿っていた。

 

「おわっ、ベル君っ?ちょちょっと、せめて何処へ連れて行くのか」

 

「あとで説明しますっ!!」

 

誰の理解も及ばざる熱狂が眷属を支配していた。柔らかい手の感触は、ベルの右中指から伸びる鎖となったかのように固く繋がって、小さな主従を同じ速さで走らせるよう互いの心身に働きかける。抱きかかえられ、寄りかかられてではなく、ふたりはそれぞれの足を必死に動かした。

ベルは走った。主とともに、遂に見出した救いの光明へと向かって。

ヘスティアも走った。前だけを見つめる『子供』の手から伝わる、何者にも覆せざる確信が実るよう、その一心だけを胸に秘めて。

 

 

そして、誰も、かれらの道を阻む事はしなかった。すれ違った数だけ理由はあれど。

 

 

 

--

 

 

 

「やっぱり。剣姫は只者ではなかったニャ~。ミャーははじめて見た時から知ってたニャ、あいつはこれくらいやるって」

 

「そんな事より、あのオオカミ男が倒したっていう『戦士像』ってのは何なのニャ。怪物祭に出た連中と似てるって噂だニャ~」

 

夜も更けて酒場は盛況だった、平素とさしたる違いもなく。歓談に満ちる店内においてすれ違った店員達の何気ない駄弁りに、酔いも回っている客のうちの某が乗った。

 

「そういや、昨日のちっこい連中はどうしたんだろーな」

 

「知らんニャ~」

 

「そりゃお前、頑張って聞いて回ってるんだろ?朝から見たぜ、必死な顔してまぁ。泣かせるこった……」

 

その蛮行はきっと、たった一人で竜牙兵の王を滅ぼす事よりもずっと実りの少なく、また果たせる見込みなど誰も見出そうともしない愚挙と評するべきであると、かれらは誰に言われるでもなく知っていた。

しかしその見立ても、単なる嘲笑の的として挙げられるべき事としての所以だけではないのだとも、理解は等しいのだ。

 

「どう考えても無理だよな」

 

「あんな坊やと神様じゃ、な」

 

「……何もかもが足りず、届かなかった訳だ。結局、まんまとラキアの連中に乗せられちまったって事だろ?余計な面倒に繋げてくれないことだけ祈ろうや」

 

男達は肴を口にしながら、冷ややかに、それでいて僅かに感じるものがあるのをその口調に忍ばせている。

そうだ、もしもかれらに残された時間がもっと有れば、さもなければ、ラキアの要求が此度のそれを遥かに超えて誇大であったならば、捕らえられたのが誰からも忘れられかけていた出来損ないの身体のせむし男でなければ、それに味方せんと立ち上がったのがレベル1の木っ端冒険者のみではなく、或いは今まさに遍く羨望を集める栄光に満ちた若人達か、共に並び立つ者達であったならば?

希望は今よりずっと大きく明るく有り、義の元に集う者を呼び、野次馬を惹きつけ、一口乗ろうとする目敏い連中も群がっていただろう。

ヘスティア・ファミリアは、正義を掲げるにはあまりにも、力が足りなすぎた。

俗欲無くして動かぬ死すべき者を味方にする力こそが、地に引きずり降ろされた絶対者に最も必要なものであると、あの小さな女神は気付くのが遅すぎたのだ。

市井の者達はすぐに看破したのである、傲慢で粗暴なだけではない、巧妙さと賢しさを持つアカイアの戦士は、身の程を知らずに喧嘩を売ってきた相手を、誰に憚られる謂れもなく屈服させる手段を通したのだと。

 

「お気の毒だニャあ。シルの目が節穴だったとは言わニャいけど、……多分、物珍しさで曇ってただけなんだニャ~。気を落としちゃ駄目なんだニャ」

 

「そうそう、あの灰かぶりに絡んでたボケ共も、シルがしょーもないヤツに引っ掛からないように、誰かが巡り合わせてくれた運命のカタチなんだニャ~。きっと、もっといい男が居るニャ」

 

「まあ、ミア母ちゃんにケンカ売るあたり、見込みが全然って事はニャいかもだけどニャ……」

 

「……」

 

愚か者への寸評とは当人のあずかり知らぬ場所で繰り広げられていた。うら若き店員達はせいいっぱいの配慮を忍ばせて、銀糸の如く細やかに煌めく前髪の奥で情薄く眼光を宿したまま勤めに励む同僚へと話を振るのだ。それに返答が無いのも、ただ居た堪れなさだけを各々に湧き上がらせるだけだった。

 

「ありゃあただのモノ知らずか、癇癪持ちなだけだと思うぞ俺は。おかみさん相手にあんな剣幕で。見てるほうが寿命が縮んだぜ」

 

「右に同じく」

 

「と言えばなあ、なあおかみさん。例の乳飲み子と面識あるって、本当なのかい」

 

取り留めの無い、酒の席での会話にすぎない。皆はそれぞれの相手とのそれらに夢中であり、店主に話を振ったかれらにしたってそれは同じ事だ。ミアの様子はいつものそれとまったく同じで、如何なる事象にも揺るがない性根を顕す体躯で忙しなく注文に応えつつ、口を開くのである。

 

「ふん。見た目通りの気の毒なうすらバカ野郎さ。それ以外の事なんか忘れたよ」

 

一太刀でその話題は切って捨てられた。素気ない返事に、客も苦笑いだけして別の話題に移っていく。微かに揺れる照明の下で生まれる、軽々しく気怠い空気は、決して絶えずこの店にあるべきと誰もが思う事だ。この店に通う誰もが。

酒気に委ねあらゆる苦難を忘却させるためにこの空間はあると、皆が知っているのだ。

その理に歯向かう蒙の輩は、三度、そこに現れたのだった。

 

「――――……!!」

 

一番にその来訪者を感知したシルはただ、言葉を失くして視線を釘付けにさせられるだけだ。鮮烈に蘇る記憶は、彼女に対していかなる反応も封じるようはたらきかけた。灰を被ったような白い髪と、柔らかな店内の灯りを受けて凶々しさすら秘めるよう映る真紅の瞳は、些かの翳りも見出だせないあどけない表情といっそう不釣り合いな印象を放つ。

そう、ベル・クラネルの顔には無用な気負いも消え入りそうな儚さも見出だせないのだ。気まずさと怪訝さを隠さないようすでその手を握る女神と比さずとて明らかなほど。揺れない決意をまっすぐに感じ取れるシルは、己の動揺を殊更に自覚させられる。どんなことばで呼び掛ければ良いだろうと愚かな考えを巡らせる自分への嫌悪は、余計な世話を焼いた結果味わわせた失態の苦酸を我が身の如く感じ、未だ後悔する彼女の情深さによって尽き果てず湧くのだ。

――――が、だ。

そんな、無条件に弱きを慈しむばかりの美徳も、しょせんは力ある者による選択、差別に過ぎぬという確たる主張を、彼女以外の店員は翻しはしない。

 

「くぉ~の、ノータリンの灰かぶり坊主。おミャあの欲しいものなんてここには無いって何べん言われりゃ理解するんだニャ。どうせもう浴びる酒だって買えニャいだろうに、頑張ってるのを褒めてほしいんならテメエの神様にでも泣きついてろニャ」

 

必要以上に粗暴な言い方であるのをクロエは自覚していたが、それなりの理由もあれば誰に咎められようと主張するべきだというのは、彼女のあらゆる言動を裏打ちする信条なのである。甘ったれのガキに連れられる女神が眉間と鼻根を狭めるのが見えたが、知ったこっちゃない。むしろこうして誰かが言い聞かせるのに誂えられた機会と受け止めるべきではないかとすら思う。不遜と言いたくば言うがいい、お前の『子供』こそ、敬虔であれこそすれ他の死すべき者による安穏の場をかき乱すのを厭おうとしない愚物ではないかと。

威圧する意味もあった声音の強さは、馬鹿げた後ろめたさに煩悶するシルへの当て付けも目論んでの事だ。隠しようもない侮蔑の念を発する店員は我こそこの場の代弁者であると、ベルの前に立ちはだかって腕を組む。

そして傍観者達は言葉に出さずとも思うだろう、哀れなことだと。責め立てようとはしない、ただ、あの矮小なファミリアにこれ以上の徒労と不幸が齎されぬようにと、半ば諦観の混じる憐憫のみを送るのだ。

 

 

そして、それらのすべてが、主を連れ立ってここに立つただの少年にとって、今燃え盛るものを消し止めさせる理由になりはしないのだと、誰が知っているだろう。

 

 

「確か、店員のかたの中にエルフの女性が居たと記憶しているんですけれども、少し話をさせてほしくて来たんです。会わせていただけますか?」

 

「オイつんぼ野郎、もっと大きな声で言わんとわからんのかニャ?」

 

ベルは全く悪びれない様子で店員に尋ねるのだった。そんな姿を見て僅かに鼻白むがすぐに、より直截にクロエは凄んでみせる、ぬけぬけとほざくなと。猫人の発達した表情筋で作る威嚇の面相には、少年らに対し無為に時間を浪費させまいという気遣いすら含んだものだったが――――

 

「……嫌がらせのためにここに来ている訳じゃないって事だけはわかって欲しいんです。僕は」

 

「諦めるわけにはいかない?……正しいと信じてるから?あの乳飲み子に何かを期待しているから?途中でやめるのはみっともない事だと思うから?は……どれにしたって、あんたの手に負えない事だった、それだけの話で終わりじゃないか。得られず遂げられず、蔑まれて疎まれて、それだって何かを終えた結果のひとつだ。敗けて失うのを受け入れるのがそんなに嫌かい。新しい別の道を踏み出すのが、自分の歩いた道が間違いだったと理解するのがそんなに怖いのかい」

 

少年の明瞭な意思表示を女店主の大きく、よく通る声が遮り、継いだ。その全ては正しい言葉だとベルは知っている。反駁し説き伏せようなど、齢二十も無い童貞にとり、無意味極まる大業という事もだ。だからベルはただ、自分の求める事をのみ口にするしかないのであるが、その主としてはもはや我慢ならんのだった。

ぷつん、とヘスティアは自分の頭のなかの何かがキレる音を聞く。本日これで何度目かは知らない、数えてない。誰ぞの知ったことか。怒るべき時に怒るのがなぜ悪い?血の気を失くした顔の双眸は瞳孔を縮まらせ、酷薄な展望ばかりを口にする無責任な傍観者達への非難のみで満ちる感情を克明に映し出す。

 

「ッッッッ、だからっ!!なんでっ!!まだ何も終わっちゃいないのをキミ達はっ、勝手に決めつけてっ……!!」

 

「待ってください、……ミア母さん、神様。…………クラネルさん」

 

腕を振り上げて威嚇しつつ、カウンターにかじりついて喚き立てる小さな女神。何らも畏れを顕さずに対峙するミアの間に、シルが割って入った。そのまなざしは穏やかであっても決して媚びようというものでなく、多くの客達を真に虜にする、遥かな場所から注ぐ月光のように柔らかく、揺るがずに在る事を錯覚させる光を持つものだ。そしてミアは、もはや何も言わずに退く事にする。ヘスティアも、その真剣な面持ちで流石に憤激を押しとどめた。

迷宮のいかなる怪物をも屠る力など持たぬだろう(ヘスティアにはそうとしか見えない)彼女は少なくとも今、弱く小さな『子供』へのあらゆる負い目を排したたたずまいで、一組の主従と相対しているのだ。その口から紡がれるものを憚ろうとするべきでないと理解出来ない者はここに居なかった。

 

「あなたは……」

 

一挙に満たされた静謐の中、真っ赤な瞳を見据えるシルは、その実己の心の奥をそこに見出しているのだと気付くのだ。ベル・クラネルの纏う義憤と虚勢、懇願、容易にそれらを見透かせても、その奥に揺らめくものとは、彼女自身が遠いいつか、遥かなどこかで、確かに見ていたものであるかの如く、魂の奥深くがざわめく感触を湧き上がらせる。そうだ、それは――――この少年をはじめて見た、あの日も。再び見たその時も。打ちのめされ消えていきそうに見えたあの後ろ姿にすら、その微かな幻影は重なっていた。

触れれば崩れ落ちそうなほど不安に揺れている心根と同居するその、何か。シルは僅かに瞑目し思い改める――――それは今、問いただすべき事か?くだらぬ負い目を帳消しにしようという浅はかな目論見と等しく、この時において無用な事とだと彼女は知った。

今彼に聞くべき事は。

 

「何のために、この街にやって来たのであれ、冒険者になったのであれ、――――何になりたいのであれ。ここに来たのも、すべてを投げうってでも、手に入れたいものがあったから、なんですね」

 

「はい」

 

果断に、ベルは答える。

 

「諦めるつもりもない」

 

「はい」

 

迷いはあれど、今それにとらわれる事は無意味だと――――少なくとも今はそうだと――――ベルは知っていた。

 

「たとえ、その先に何があろうと。……何も無くても?」

 

「はい」

 

シルはそれ以上何を聞く事もしなかった。

何も言わず、ベルとヘスティアに背を向けると、それから店の奥へ続く扉を開いた。

 

「どうぞ」

 

短く促されると、ベルは主の手を優しく引いて足を踏み出した。どんなものが先にあろうと膝を屈さざる理由はまさに、彼の手の中にあった。

どこまでも脆く儚い戒めで繋がれた者もまた、同じ思いで歩調を合わせていた。

通路を行く間、店の団欒など存在しないかのように三つの影の周りは静寂を保っていた。

 

 

--

 

 

 

底のない絶望の中でも、そこが果て無き苦界の坩堝だろうが、死すべき定めの訪れる時というのは誰にも推し量れずに無明の中を漂い続け、あらゆる意思も届かずに振る舞う。かつてすべてを失ったと思っていたリュー・リオンは、いつの間にか今の居場所を愛おしく思っている事を薄々自覚していた。それは同時に、絶えない罪悪感と自責の念、そして恐怖を呼び起こし続ける。いずれ裁きの時は来る。終わりをもたらす使者は、自分の築いたあらゆる欺瞞を暴き、世に知らしめに現れるに違いないとさえ。

幼き頃、親から聞かされた他愛の無いお伽話が、その源泉なのかもしれない。すべてを失い、すべてに対する怒りだけを燃やし、憎悪のまますべてを滅ぼした男の話。彼は全てを終わらせた後どうしたのだろうか。途切れた道の先に何を見出したのだろう。

新たな何かを、求め続けたのだろうか?

その最中にも、自分と同じように、消えない過去に苛まれ続けたのだろうか?

……たとえかりそめの安寧を得たのだとしても、然るべき審判が下る時を恐れ続けるよりも惨めな人生など、あるだろうか。

 

「リュー」

 

ひとりきりの部屋に、軽く扉を叩く音が響いた。リューは……何となく、自分を呼ぶ者の持ってきた用件を、悟った。シルの呼び声の中には、一瞬で理解させる何かがあったのだ。予感ではなく、確信だ。

返答はしなかった。扉が開く。思いつめた表情の同僚の後ろに立つ者の姿を見ても、リューは動揺を覚えなかった。

 

「意外と、早かったですね」

 

机に向かいながら平坦な声音をよこす姿は、ベルにとってはあの日の光景の既視感を想起させるに不可避のものだ。しかし冷淡な反応ではあっても、その言葉は厳かな戒飭と計り知れぬ郷愁の透けるものと今の彼は充分及び知れた。

 

「……ミア母さんから、店の皆から聞いてはいました、あなた達の事は。……しかし、ここまで辿り着けるとまでは、決して思ってはいませんでしたよ。ええ、まさか。貴方のような、腑抜けが」

 

「僕じゃなかったら、もっと早くに突き止められていたに違いないですよ」

 

右手を握られる力が強くなっても、ベルは慇懃な態度に努めた――――実のところは、この店のひとびとから掛けられる滑らかな謗りの何れからも、なぜだか心を波打たせるものを感じ取れなかったのだ。それも今傍にあるものによる力なのかもしれない。

表情を変えずリューは立ち上がると、部屋の隅に置かれた棚の、一番下の引き出しを開けた。古びた木箱は、辛うじて片手に乗せて持ち上げられる程度の大きさだった。四人それぞれの息が聞こえそうな密室では、机に箱が置かれる音もいやに大きく感じられた。

誰も言葉を発しなかった。いや、一組の主従においては、発せなかった、と言うべきだった。その箱の中身の意味するものを察したがゆえに。

木箱に鍵は無く、簡素な蝶番だけで繋がる蓋は、それこそ赤子の手であっても暴かれるのを免れられないのに違いないようにベルには見えた。事実、リューの細長い指がそれを持ち上げる動作からは、手紙の封蝋を破るよりも儚い力だけしか感じられなかった。探し求め、狂い焦がれ続けたそれは、こんなにも粗末に扱われるべき代物であるだろうかと、身勝手な失望すら呼び起こされる……。

 

「……」

 

その貌は、部屋の灯りによって余す処無く晒された。

銀色の、天秤だった。支柱と支台は一つになって表面に精微な彫金が拵えられており、高級な燭台にも似ていた。違うのは、その先端に乗っているのが細い天秤棒であること、そして……。

 

「この羽根によって、発した言葉が虚偽であるか、真実であるか、すべてが看破されます――――例外なく。たとえ、それが天上の超越者であれ」

 

リューは、空色の眼光を刃のようにぎらつかせた。羽根は、いかなる素材で作られたものだろう。鶏のそれと区別のつかない小さな羽根が支柱から外され、皿の片方に乗った。

天秤は、微動だにしない。

 

「その血の持ち主の言葉が偽りならば、それに重さなど無い。というわけです」

 

支柱の天辺が掴まれて、引かれる。硬い、光沢がこすれ合う音が短く生まれて、白く短い、研ぎ澄まされた一本の短剣が抜き去られた。街の誰からも忘れ去られた正義の御璽は、その本懐を果たせずに久しくとも冷たい輝きは失せることなく、切っ先は鋭かった。

それは今一度凍りついた空の色の双眸とともにベルに向けられた。

 

「私が貴方にこれを預ける理由とは、いったい何なのですか?」

 

「……」

 

リューは答えを待たず、自分の指に刃を宛がう。すぐさま赤い線がそこに走った。左手を天秤にかざす。

一滴のしずくが皿に落ちた。

 

「これは私に残された、最後の……かつての家族との絆そのものです。他にはもう、何も無い。アストレア様の眷属で生き残ったのは、私だけ。アストレア様も、この街には居ない。どこに居るかも、わからない……」

 

リューははじめてその表情を僅かに歪ませた。消えない苦痛と後悔の色は口まで波及して刹那言葉を途切れさせる。血の乗る皿が沈み、天秤が傾いた。

疾風の異名を持つ、アストレア・ファミリアの美しき女剣士。弱きを助け悪を挫く正義の群団にその名を連ねたエルフが、いかなる経緯を辿っていち酒場女の身に落ち着いたのか、ベルには知る由もない事だ。わかるのはただ、彼女はもはや大手を振って冒険者として名を馳せられないだけの理由があるということ。ガネーシャから渡された資料から鑑みれる事はそれだけだった。そして、たとえそこに彼女自身の端的による告白が付け加えられたのだとしても、とりたて何かが覆る事も無かった。

ベルはその悲劇を既に知っていた。

 

「正義を通したい。恩人を助けたい。暴虐に屈するわけにはいかない。主に恥じる生き方を晒したくない。どれもたいそうな言い分ですが――――」

 

アカイアの戦士達の醸し出すそれにも比肩しうるだろう、正義の女神の最後のしもべの纏う気迫は静かで、そして硬かった。ベルは黙って、それを正面から受け止めていた。ともに在る者の温度も、繋がる場所に打たれた軛のように冷たく締め付ける指輪の感触も、それらだけでは決して彼が気圧されるのを防ぐ盾とはならない。

ベルはあくまでも自分の意思と身体だけでリューと相対していた――――本人はそうと信じていた。

 

「聞こえの良い言葉を並べ立てるだけの者に、これを好きにさせるわけにはいかない。今度の、貴方の選んだ道、そのきっかけ、全てを聞かされなければ、私は納得などできない。手を貸すことなど、有り得ない」

 

リューの右手に握られる刃が再びベルに向けられた。皿に落ちた赤いしずくは、刀身についた血糊が拭きとられるとともに霞のように消えており、天秤棒は水平を保とうと揺れ戻る。その慣性がおさまるまで、ベルは差し向けられる光から目を逸らさなかった。僅かな時間は、執行の階段を昇る囚人の如き絶望感を想起させるものではなかった。

ただ、その時が来ただけなのだろうという、奇妙な得心があった。奇妙な既視感。彼の思い出す青色の瞳の更に奥にそれはあった。荒れ狂う嵐の大波と黄昏に照らされる穏やかな潮騒の帳――――それらを突き破った先にある永遠に無の広がる優しい揺り籠。

失うかもしれない恐怖も、失ってしまったものへの未練も、それを思い出すだけで幾つもの泡となって身体の奥底へと溶けていくように受け入れる事が出来た。

ベルは一度だけ振り返った。

目に見えない鎖で自分を繋ぐ、この世で最も彼が畏れる存在は柳眉を撓らせて唇を引き結び、どこまでも不安げな思いをありありと表情に描いていた。希望の生む苦しみとはかくも等しく全てのものを苛むものとベルは確信を新たに抱き――――それに耐える為のものの尊さも、右手の中に感じた。

羞恥と我執を覆い隠そうとする賢しさは、少なくとも今のベルには無かった。前を向き、ベルは自らその手を刃に当てた。

 

「最初、は――――そうだ。僕が、この街にやって来た、その理由から――――」

 

赤いしずくを一滴、皿に落とした。

それから少年は、今に至るまで歩んだその短い道程を語り始める。

失ったもの。

得たもの。

教えられたこと。

出会ったひとびと。

成したこと。

そのさなかに思ったことの、何もかもを。

 

 

 

どんな導きも見えない昏い海の底にあるような、そして静かで、憚りを感じない心持ちのまま、ベルは連々と述懐する。無限の闇の中にある彼はしかし、繋がれたものから流れ込む温かくて安らかなものによって、最後まで穏やかな気分のままだった。

その何よりも大切なものは、自分のしなければならないことを決して忘れさせなかったのだから。

 

 

 

--

 

 

 

その少年はたった一人の家族を失くした。後に残された記憶の幻影は寝ても覚めても決して消えなかった。その中の最も鮮烈で心惹かれる――――日に日に増しゆく虚無を微力ながら打払い慰めてくれる甘やかな――――薫陶が、彼に一つの決断をさせたのだった。一世一代と言っても良かった。彼はその村で生涯を終える事について、何ら危惧すべき事案など抱えてはいなかったのに。残されたものの中には、その為の物が充分にあったのだ。周囲からは思い留まるよう諌められたが血肉に至るまで染み込んだ憧憬には抗い難く、まさしく捨て身の大博打として彼は故郷を捨てた……客観的な事実だけを並べれば、そうだ。

英雄になれば。

ベル・クラネルはその思い一つで、神々の街へとやって来たのだ。

 

「……本当は、違ったんです、きっと。……いや……」

 

誰からも相手にされる事はなかった。ベルが今にして思うのは、それは誰もが自分の本心を見透かしていたためではないだろうか、ということ。足を棒にして歩く『子供』に向ける目はどれも慈悲深かった。お前の居場所はここじゃない、と、言外に含めようかと如く。

そんな事も今まで忘れていたのだ。あたたかい揺り籠の中で生きてきた『子供』にとって、自分の居場所は自分で築くしかないということは、最初の日に骨身に染み渡らされた常識だったのに。

そしてそれを忘れさせてくれたものとの出会いが無ければ、今きっとここに自分は居ないとベルは知っていた。

 

「僕は、居場所が、欲しかった。なくしてしまったものの代わりが、欲しかった。……ひとりで生きる事が怖くて、この街に逃げてきたんです……」

 

英雄になれば誰もが讃え、惹かれ、必要とするだろうか。人の心を掴むのに苦も無くなれば、もはや自分はひとりではなくなるだろうか。

――――孤独こそが、あの鮮血と業火に満ちた夢の残骸を呼び寄せるものならば、底のない闇へと永遠に落ちていくようなこの恐怖から自分を救ってくれる誰かが、あの光り輝く英雄の街に居るだろうか。

かつてリューに投げかけられた問いの答えは、ずいぶんと長い時間をかけて紡ぎ出されたものだった。告解とともに赤い瞳に満ちる感情は幾つも混じって溶けあい、当人にすら明らかに出来なかった。見る者の眼球に映り込み、血肉を伝いその魂まで至ってはじめて姿を顕すものだった。

 

「神様と出会って、――――本当にすぐに、そんな事も忘れさせてくれた。冒険者の端くれとして、神様の『子供』として、この街の住民として生きていこうと我武者羅になれば、本当に、あっという間に忘れられた。全部…………」

 

恐ろしいあの夢の事も。

 

「でも、わからなくなったんです、自分が。何が切っ掛けだったのか……」

 

思い巡らせて行き当たるのは、遥か下層をうろつくはずのその怪物と遭遇したあの日だろう。あの時自分の中で何かがおかしくなった。そうとここで言い切れば、まさしくそれこそが真実だと誰もが理解するところだろう。

いや、違う。とベルの中で否定する声がする。あんなただの偶然で、それによって決定的な何かが始まる事などあるはずがないと。それは確かに最初から自分の中にあったのだ……隔絶した力の差を認めようが、それによって歩みを止める事など考えもしない蛮勇。目の前の敵を討ち滅ぼし、死が現れればそれをすら蹂躙して前に進まねばならないと身体を突き動かす衝動。同時に再び眠りの世界を支配するようになった、あの夢。

自分は元々何かが狂っていて、多くの偶然の幸運によりそれは封じられてきた。そのひずみがばねじかけの玩具のようにあるべき形に戻ろうとしているだけなのに違いないと、ベルの中の悲観論に満ちた別の自分が叫んでいた。

 

「それでも気付かないふりをし続けて、結局フィリアの日に、とんでもない事になってしまった。あんなにも神様を悲しませて……自分に何が出来るのか、何も出来ない自分の居場所がどこにあるのか、どんどんわからなくなっていったんです」

 

導の絶えた道にあってただ歩み続けねばならないという空虚な使命感に縋り付こうが、既に新たにこの街で得ていたよすがは苦痛を強いる鎖となって少年を絞め殺そうとその戒めを強めていった。背負わねばならないものは、自らそう選んだ決意から背いた瞬間に魂を苛むだけの枷となったのだ。迷宮の最もとるに足らない存在相手に四肢を凍てつかせ、死の恐怖を見出させるほどの……。

かくも弱り果てた『子供』に手を差し出した者は言った、ただ進み続けるだけが生きる方法ではないはずだと。けれども、それによって英気を蓄える余暇も無いとすぐに思い知らされたのだ。立ち止まった者が得るものなど無く、蹲って待つ者が守れるものも無い。与えられるのは嘲りと侮りだけ。誇りも名誉もそこには無い。……なおも擁護者の慈悲が無限に尽きず自らに注がれるものと驕れる図々しさを持っていたら、ベル・クラネルはこの街に来ることは無かっただろう。

何よりも、正体のわからない幻影は打ちのめされた自分が再び立ち上がるまでその貌を闇の中に潜めたままで居てくれるだろうかと思えば、もはやベルは一切の逃げ場も無い絶望の虜囚である事への苦悶の嗚咽をあげるだけだった。すべての光の届かない、あの場所で。

 

「そこに居た誰かが、アルゴスでなくても、きっと良かった。ただ……誰かに、すべてを聞いて欲しかっただけで。誰かに、知って欲しかった。けど、神様に、知って欲しくなかった。一人きりの『子供』がこんなにも弱いと知られて、見放されたらと考えると……」

 

「そんな事っっ、あるわけがっ、無いだろおっ!!」

 

眷属の述懐は空色の瞳だけに向けられてひたすらに静かに、止まる事無く続いていたものだったが、その最中ずっと主の中で膨れ上がり続けてきた様々な情動の渦が、ここに至って瀑布となり溢れ出した。彼女の左手は如何なる力によってでも引き離されるのを拒んでベルの右手を握り締めていて、部屋中を揺るがす悲鳴に近い絶叫が彼の耳元すぐの処で発せられていた。それもすべて、愛しい少年が自分を置いたまま、遠い何処かへと歩いていってしまうかのような危惧に突き動かされてのことだった。

目を見開いてぶるぶると震えているヘスティアに向き直ったベルの顔は、どこまでも平穏で、優しげで、そしてどこか虚ろな微笑みがあった。まるで手から伝わるはずの不安を芥も感じていないかのようで、さもなくば――――

 

「――――そう言ってくれる筈だと、思えば思うだけ、恐ろしかった。聞けなかった。また、ひとりになるかもしれない――――」

 

――――丸ごと、区別なく混ざり合ってしまっただけなのかもしれなかった。己の抱える不安は『子供』のそれと相違なく、そしてそれに対し当人に問いただせず煩悶し、関係無い誰か――――ヘスティアの場合は、野次馬根性逞しい連中もそこそこに居たが――――の助けすら求めた事まで同じだったのだと理解すれば、もはや何を心苦しく思う事などあるだろうか?

海から汲み取ったものは器が違うだけで同じ、ただの塩水だ。同じところ、同じ時から互いに離れてしまったと勘違いしていた両者の苦悩など、顕界にあまた蔓延る窮愁の中でも、もっともちっぽけで馬鹿げたものだったのに違いないのだと、ヘスティアは芯から思い知った。

ぽかんとしたまま目を瞬かせる主を置いて、ベルは首の向きを戻した。

 

「――――全て聞き届けてくれたアルゴスは、教えてくれました。自分が何者なのか、身を隠す理由、この街に戻ってきた理由。どうして、教えてくれたのかはわからなかったけど……、……っ」

 

言葉に詰まったベルは首を横に振った。

 

「誰かに聞いて欲しかった、誰でも良かった、それが、誰も頼れない、縋るものもないと思い込んで、ただ一人臥せて、酒と一緒につまらないプライドを吐き戻しながら、泣き咽ぶだけの『子供』であれば、誰に話す事も無いから――――そう思ったからだけなのかもしれないけど」

 

 

『ひとりは、辛えだろ……』

 

『誰からも必要とされないなんて……辛いじゃないかよ』

 

 

それでも彼は、不安と恐怖と、それが形となったような正体のわからない夢に食い殺されそうだった少年に力を貸してくれた。ほんの些細な助力で、ほんの僅かな間だけだったのだろうが。

 

「それだけの恩を返す為に馬鹿な事だと思うなら、馬鹿でも良いです。僕は……」

 

ベルは何の言葉も無く自分を注視し、耳を澄ましている三つの顔を見渡して、強く、どんな偽りも纏わないその言葉を紡いだ。

 

「ここで諦めてしまえば、もう何処にも辿り着けない。二度と自分の足で歩く事は出来ない。神様と一緒に居られる自分にはもう、戻れない。……そんなのは、絶対に嫌です」

 

「そして。万事丸く収まったとして、かの乳飲み子がこの街に留まり、あまつさえ貴方のお守りを続ける理由など、あると思いますか?」

 

冗長な演説の余韻など与えない、リューの放つ冷厳な問い掛けも、既に通り過ぎた場所にあるものだった。赤い瞳に迷いは無かった。

 

「彼が望む事と、僕の人生は、別の事です」

 

「つまりすべては自分の為と。寂しい、認められたい、自分を見失いたくない、正義などどうでも良い、自分以外の誰かの事など知ったことではない――――だから、この便利な道具を貸せと?」

 

目を伏せて浮かべる苦笑とともに放たれる指摘も、ベルの心を揺らす事はなかった。

 

「はい」

 

「――――ここでのあなたの言葉が、一片の偽りもない真実であると、誓えますか?」

 

溶けない雪を抱えた雲に塞がれた空のように、重く冷たい声だった。同じ色の瞳は、それだけで心臓を貫けそうな鋭い刃となってベルに突き付けられていた。

そこに秘めたる確かな誇りを汚す返答を口にすれば、リューがどんな行動に出るにしても躊躇などしないだろうと、誰もが知っていた。

ベルははじめて――――この部屋に足を踏み入れてはじめて、ずっと優しく添えているだけだった主の手を握る力を強くした。彼自身から、はじめてそうしたのだった。

 

「ベル・クラネルは、主ヘスティアの名にかけて誓います。この場で語った全ての言葉が真実であると」

 

 

 

 

 

 

赤い血に満たされた小皿は、それが当然の光景であると主張するのだった。

 

こんな、肌に触れる感覚を与えるのも危うい羽根と釣り合いを保つ理由など無いとばかりに、勢い良く身を沈めることで。

 

 

 

--

 

 

 

歪な身体で生まれ、誰しもに気持ちの悪い出来損ないと蔑まれた男がいた。図体ばかりが大きく頭の中身はお粗末で、不揃いの歯が開けば汚い濁声で言葉を紡ぐ男は、誰からも嫌悪され侮られた。誰も彼を省みなかった。ともに在ろうと願い出る者など居なかった。同じ血を分け合う者であってすら。

だがどんなに馬鹿にされても、何度怪物に屈しそうになっても、自分の弱さに潰されそうになっても、男は諦めずにその道を歩き続けた。

自分の命を救ってくれた者に、自分の居場所を与えてくれた者に、自分を愛してくれた者に酬いる為に。

……同胞達はいつしか、その愚昧なせむし男の姿に絆されていった。かれらは男とともにその勇猛さを振るい、誰よりも優しく、慈悲深く、偉大な主の名をこの地上全てに知らしめるべく、更なる戦いの道へと挑み続けたのだ。

それだけが自分の出来る事だと男は信じていた。

 

しかしその日は、唐突にやって来た。男の主は、言った、扉から入る陽を背にして。

すぐに、帰ってくるから、待っていなさい、と。毎日、毎日戦って、疲れてるのだから、ゆっくり、眠っていて……、と。

微睡みもすぐに消えていた男は、しかし寝床の上から立つ事も無く首肯した。主の言葉は背く事など有り得ないものなのだ。何故と問う事もしなかったのは、言わない理由があるからだとわかっていたからだ。

そして主は扉を閉めた。足音はすぐに聞こえなくなった。男は追い縋る事もせず、再び眠りについた。久しぶりの、長い眠りだった。

 

目を覚ました時、男の、その主と、数多の血を分けあう兄弟達の暮らす居から、あらゆる人影が消え去っていたのを男は知った。

男は唐突にひとりになった。誰にも何の理由も説明されなかった。街中の者達に尋ねて回った。皆は何処へ行ったか。なぜ自分だけ残されたのか。何でもいいから知らないか。かれらは顔を顰めつつ、その同じ答えだけを返した。知らないと。

だが男は街を出ようともせずただ待った。それが主に下された命だった。

 

何日も待った。

街の誰もが畏敬を抱く神の住処である広い神殿に、ひとり残されたまま。それ以外の住民の存在ははじめから無かったかのようだった。その日までの苛烈な道程の中で手に入れ築き上げた武具も魔法の道具も蓄えも全て消え去っていた。

かれらが持ち去っていったのだろうか。

そして、自分だけを置いていったのか。

何故だろうか。

疑問は決して消えなかった。何度寝ても覚めても、ひとりきりで、話す相手も居ない男は頭の中で自分との対話を繰り返した。何故、何故、何故。

 

何日も、何日も待ち続けた。食うために迷宮へひとり入り、そしてその日の食う分だけを手にして戻り、絶えない問答に俯き頭を抱える日々。

季節は巡った。誰も訪れず、碌な手入れも行き届かない館は見る影もなく寂れ荒れ果て、そこに誰ぞが暮らすのかも人々の記憶からは薄れ変質していく。化け物が住み着く廃墟と。

そしてその日が訪れた。街を埋もれさせていくような豪雪に館が包まれていったその日の朝、男は夢を見た。

 

遥か昔の記憶、凍てつく全身を大きな温もりに包まれたその日の夢を、ひとりきりになったあの日と同じ場所で、男は見た。

 

……そして男ははじめて、主に背いた。打ち捨てられた館を後にし街を出て、ひとり、誰の思いも背負わず、誰と繋がるよすがも持たず、歩き出したのだ。

いずこかへ去っていった自分の家族の足取りを追って。消えてしまった、自分の運命の標を求めて。

街に降り注ぎ積もっていく雪は、そこに残された男の足跡などあっという間に消し去ってしまった。

 

それから男はひたすら、歩き続けた。

 

男の異形は、何処へ行っても、恐れられた。手がかりはおろか、まともな対話すらも与えられる事は稀だった。

夜闇の中を這いまわり、陽の届かぬ場所で耳をそばだてて、残された微かな足跡を探し続けてきた。西へ東へ、北へ南へ。時間は信じられないほど速くに流れていった。

男はその歩みを止めなかった。その渇望をとどめる事は出来なかった。世界の果てまで、歩き続けた。

 

それでも彷徨い続ける男は、いつしか人々に追い立てられるようになった。

おぞましい外見はきっと、男の心を知らない者にとって、怪物との区別などつくものではなかったのだろう。

武器を携え迫る者達から逃げて、逃げて、逃げ続けた。

そして、男は、戻ってきた。かつて家族と暮らしていた、この街に。男は自嘲と後悔に囚われた。男が求めた帰る場所とは、ここではなかったのだというのに。

それでも、ここで待つ以外に男の思いつく道はなかったのだ。

 

或いは……家族達は、とうの昔に、この街に帰って来ていたのかもしれない。そして廃墟と化した館を見て、男の不忠にただ怒り、去っていったのかもしれない。

すれ違いになった事もわからずに、愚かな自分が、悪戯に時と労力を注いだだけだったのかもしれない。

それでももう、男に残された選択肢は、他に無かったのだ。

一度背いてしまった主との約束に縋る事、それ以外には、何も。

 

 

--

 

 

「あなたも、休んだほうがいいですよ」

 

仮眠室。ベッドの一つに身を横たえている主に付き添って、ベルは横の椅子に座っていた。まだ夜明けまで時間はあったし、もっと言うならアカイアの戦士に宣告された刻限への懸念は更に遠く必要ないところにある。そのように説き伏せられ、ここに案内されたのだった。

さもあれば、主にそう請われたのでもなかった以上シルの提案を拒絶する理由など無かった、が。

 

「でも……」

 

「休みましょう?」

 

「……」

 

「ね?」

 

反駁する気が削がれていくのは単にそれだけ疲れているからだ、ともベルには思えなかった。迫る笑顔の持つ異様な威圧感を前に。

緩く握ったままだった主の手から右手を離す時、僅かな名残惜しさを覚えるベル。自嘲が漏れる、こんなにも近くに居るのに何を恐れる事があろう、と。あれほど強く言い切られて……。

ふと、そこで下らぬ雑念が消え去る異変を感じた。

 

「、……えっ、と」

 

「…………ヘスティア様」

 

離れようとしたベルの右手を、目を閉じて安らかに眠っているはずの女神の左手は素早く握り直した。強く。シルは身を乗り出し、枕の上で寝息を立てている顔を真っ直ぐに見下ろす。笑顔のまま。

 

「申し訳ありませんが、ベッドは一人用なんです。と言っても、他に幾つかありますので……クラネルさんには、そちらで休んでいただくことになります。よろしいですね?」

 

横から見える表情はまことに一片の敵意も見出だせない、貼り付いたような笑顔である。ベルは少し離れた場所に立ってなぜか冷や汗を一粒浮かべた。

よく見りゃ目を閉じた主の顔にはいつの間にやら幾筋も流れ落ちる汗の跡が光っている。じっとりと濡れていた手のひらは、緩やかにその力を弱めていくのがわかった。

 

「聞き届けて頂いて、恐縮な事です」

 

「は、はは……」

 

久しぶりに触れる外気を冷たく感じる右手を持て余しつつ、ベルは乾いた笑いを漏らす事しか出来なかった。曇りのない笑顔を前に、口元が引き攣る。

 

「では。ごゆっくり」

 

反対側の壁際に置かれたベッドに就くよう促すと、シルは必要以上の会話を求めずに部屋を出た。得も言われぬ圧力も無い、純粋な気遣いに満ちた笑顔と台詞だった。

 

「は……い。ありがとう、ございます……」

 

綿の詰まったクッションに寝転ぶ少年は、急激に薄れゆく意識の中でもどうにか一言、絞り出す。

かく、と、力が抜け落ちて深く床に身を沈める姿は、扉を閉めるシルの見た最後の光景となった。

 

「……ベル君?……」

 

全てから切り離された静寂の中、息を殺して耳を澄ませば辛うじてその寝息を聞き取れるほどの距離が主従を隔てている。ヘスティアの呼び掛けはいかなる反応も生まずに虚空へ消えた。狸寝入りをする必要もとっくに無くなっていたが、何となくばつが悪いと感じるまま、ベッドの上で身を捩って『子供』のほうを向く。

仰向けになっている横顔には些かの苦悩の陰も見出だせなかった。告解の間保っていた、まるでそこに居ないかのような錯覚を呼び起こす虚ろな悟りの表情もまた。

 

「…………」

 

眠気は無かった。かの剣姫による気遣いを施されなければ、今胸の内を朧げに漂う不安にも気付く事はなかっただろうとヘスティアは煩悶する。何を不安に思うのか、とも。

思いは同じ、もはや蟠りなどない。求めるものへと遂に至った。どんな懸念があるというのか?

そこまで考えた所で、ヘスティアは掛布で頭を覆って目を閉じた。

つまらない、ひたすら無意味な疑問だ。今どれほどそれをひとりで解き明かそうと注力して、果たせる道理などあろうはずもないではないか。

忘れてしまえ。

その一心で、ヘスティアは夢の訪れを待ち続けた。

 

 

--

 

 

個室に戻ったシルは、机に顔を突っ伏すリューを見て、どう声を掛ければいいものかと瞑目し唇を引き結んだ。その時間もごく僅かの事だった。

 

「私は」

 

組んだ腕をそのままに、天井を仰ぐリューは、ずっと遠くを見る目をして――――慚愧の念をその口から溢れ出させるのに任せた。

 

「何も変わってなどいなかったようです、ね。偏狭で、傲慢で、冷酷で、朽ち果て既に無いものへの未練にばかり囚われて、空虚な言葉で自分の弱さを着飾って…………あれからどれほどの時間が経ったか……やり直せたらと、振り返ればそれだけを……」

 

「……どうして、それを恥じる事があるの?」

 

目を閉じ俯くリューの両肩を、シルは繊細な手つきで抱いた。顔を寄せて、言い聞かせるよう呟く。

 

「容易く手を貸そうとしないのも、それだけあなたにとって大切なものだから、思い出をいつまでも色褪せさせずに愛しく思っているからじゃない。それを頑なに守り続ける事の、何が悪いの?忘れずに思い続ける事が愚かなんて、どうして、誰が言えるの?……」

 

「…………」

 

過去を消し去る事などそんな存在にも出来ない、どんな罪もその者の魂に刻まれて永遠に苛み続けるものなのならば、得難きものに囲まれて過ごした輝かしき日々への憧憬を軽んじる理由などどこにある。シルは、そのように伝えようとする。

振り向くリューは、儚げに笑っていた。

 

「有難う、シル。貴女も休んでください」

 

「……あの子達を起こさなきゃいけないもの」

 

「私が引き受けます。貴女には、明朝かれらと付き添って貰わなくては」

 

窓から覗く夜闇は澄んだ瞳の色へと注がれていて、向けてくる双眸はおそろしく虚ろなものにシルには見えた。

どんなに時間を掛けても変わらないもの、確かに変わっていくもの、どちらもが同時に存在するような不可思議な光景を前に、もはやそれ以上言い募ろうとはしなかった。

 

「じゃあ……お願いね」

 

「ええ……お休みなさい、シル」

 

誰だって変わる。深く傷つき、空っぽだった一人のエルフは、これからも変わっていくだろうか。思いを馳せてシルは部屋を出て廊下を歩く。

その虚無を埋められる何かを、見つけてくれるだろうか。或いは現れるだろうか?自分には決して成し得られないだろう大業をやってのける誰かは――――

 

「…………」

 

今一度訪れた仮眠室にて、緘黙の安寧に沈む主従を見比べる。

シルは、突拍子もなく――――聞けば誰しもが不可解極まる顔を浮かべるのに違いない、遠大な空言を呟いた。

 

「あなたなら、やってのけてしまうのかも……ね」

 

少年をはじめて見たその時から胸の奥に燻っていた、奇妙な予感。それは乙女特有の近視眼的な懸想の発現などとは遥か程遠いものに違いないだろう、その中に潜む正体の知れない、仄かな不安を理解すれば。

シルは、ベルの頬を優しく撫でると、すぐにもう一つだけ空いているベッドへと潜り込んだ。

何も知らずに夢の中に居る少年は、頬に触れた手のひらの柔らかさを決して知ることはなかった。

 

 

 

 

--

 

 

『ゥ…………、…………』

 

幼子は声を出す事も出来なかった。曲がった背骨と不均等に生えた四肢を持つ身体は地にうつ伏せになり、顔は横を向いていた。歪んだ醜い貌に埋め込まれた青い双眸は、今にも消えてしまいそうな光を湛えながらその光景を視界から外す事をしなかった。

痩せ、汚れ、沢山の傷を負った女の顔。髪は幾房も抜けて、腫れた両瞼は薄く閉じられ――――いや、開いているのか――――、半開きの唇は青く、隙間から覗く歯は所々欠いていた。

幼子と向かい合うように倒れた女の細い強張った腕は伸ばされ、小さな背へと乗せられている。愚図る体力も尽きかけた我が子を慰めるように、女はその指を微かに動かした。指の退いた僅かな隙間に、突き刺すような冷たい感触が生まれた。

幼子は大きな瞳で、空から降る白いものをしかと認めていた。数え切れないほどの白い粒は空中を覆い尽くして、この死すべき者どもの這い回る地表遍く隠してしまいそうなほどに夥しく在った。

 

『ォ…………ガァ、ぢゃ、……ン……』

 

『……ン、ぁ、……ぁあ、ゆ、き……雪だよ…………ア、ル、ゴ、ス…………ゆき……』

 

母子はしんしんと奏でる雪の音にも遮られるほど小さな会話を成した。

 

『き、れ、い…………だね…………』

 

つぶやく女の目にそれは映っていたのだろうか。腫れた瞼から光るものが流れ落ちて、凍てつく地面に染み込んで消える。

 

『…………ぉがぁ、…………お、で…………』

 

『……アルゴ、ス…………』

 

何事かを訴えようとする我が子を女は、渾身の力で抱き寄せた。ざらつく地に擦れて、弱りきった幼子の柔肌は擦れて捲れた。その痛みに声を上げることも、今のアルゴスには出来なかった。

 

『…………ご、め、ん、ね……』

 

『……………………』

 

母の言葉を理解するほどの思考能力も無い幼子は、それでも自分をかき抱く者の心情を解し違える事はなかった。

 

『おまえ、も…………わ、たし、も………………こ、……、な、…………終わ、…………、…………、ため、に…………』

 

母の声が薄らぐにつれ、降りゆく雪はますます多くなっていくように思えた。母の細腕の隙間から見える白い結晶達は、ただ何も言わず、何も聞かず、何の意思も持たずに空から落ちてきているのに違いなかった。

 

『………………、う、ま、れて、きたん、…………じゃ、……………………な…………、…………の……に…………ね…………』

 

それきり、母は言葉を紡がなくなった。アルゴスはそれでも何もしなかった。何も出来なかった。寒さにじっと身を縮こまらせ、積もっていく雪を見つめていた。

母の身体はいつしか地面と同じ温度になり、凍りついたまま動かず、その腕の中にあるものを永遠の眠りへ誘う無慈悲な監獄と成り果てた。だがアルゴスはそれに恨みも無念も抱かなかった。

あらゆる救いから見放されたこの世界から去った母は、我が子を救うための最後の方法をここに残していったのだろうと、冷えていく脳の僅かな思考能力でその答えを紡ぎ出した。

これで全てが終わる。そう思えば、アルゴスは自分に与えられたどんな痛みも苦しみも忘れられる気がした。

それは、かなわなかった。

 

『…………』

 

目を閉じその意識をいよいよ手放そうとしていたアルゴスは、己の全身がとても大きな、あたたかい何かに包まれたのを理解した。硬く冷たい地面と違う、とても安心する柔らかい何かが自分の顔を撫でる。

 

『――――』

 

声がする。聞いたことのない声は何を言っているのかわからない。アルゴスがぼんやりと抱くのは、これこそ現し世から解き放たれた者の行き着く場所だったのかという、甘やかな期待が叶えられた事への歓喜だ。それは胸を一瞬で満たし、両目にまで溢れ出す。

 

『ゥ、ゥ゙ゥゥ゙、ヴ、ぁあ゙っ……あ゙、あ゙ぁっ……ゔっ、…………ぐゔっ…………』

 

獣の呻き声とも区別のつかない泣き声は、確かに喜びから生まれたものであるはずなのだ。アルゴスは不思議だった。嬉しくて涙など流すだろうかと。それに、浮いた身体を動かす事も出来ない。声を出すのにも、全ての力を振り絞るような労苦を同時におぼえた。死者は生者と如何なる違いの理に身を置くというのだろうか。

疑問が湧いてもしかし、その口から出るのは掠れ消えそうな、濁った泣き声だけだった。

 

『おまえは――――まだ、生きたいの?』

 

歪な四肢が痩せ細り、瞼は腐り、腰は曲がった、輝かしき生命の謳歌から遥か遠い場所に居る幼子を抱く女神は、そう口にした。

 

『っ、っ、…………ゥ、…………ヴ、ぅ゙…………』

 

天を仰ぐよう抱きかかえられた幼子は、半開きの青い目で何を見ているだろうか。何も見えていないようにも女神には思えた。全てを覆い隠そうと降る雪よりもずっと偉大で美しい存在が自分なのだと、その自分の腕に抱かれる栄誉がどれほど得難いものであるかと、今ここで声高らかに宣おうと誰が耳を貸すだろう。女神は長い睫毛の下に煌めく瞳で、尽きかけた生命の火の揺らめきをじっと見つめていた。

 

『…………ぃ、い゙、や゙だ…………じに、だ、ぐ……ね゙、ぇ…………』

 

ぼろぼろと、大きな左目からそれに見合った大きな涙のしずくが、いくつもこぼれ落ちた。

 

『…………』

 

魂の芯から響いたその言葉を聞くと、女神は上着をはだけさせて柔肌を晒した。突き刺す冷気も雪の帳も、それを躊躇させる理由とはならなかった。何者も触れ得ざるものと振る舞う女神の身体の、美しく整った豊満な乳房は惜しげなくそこに晒された。

見る者は他に誰も居なかった。

ここに転がる哀れな女の骸と、その死にかけたせむしの幼子以外の、誰も。

 

 

 

誰からも見捨てられた『子供』の口にその血を分け与える女神の姿は、白く染まる大地の中に埋もれていく。

ある主従の出会いがかくの如きものであったという事実をすら、この世界から消し去ってしまうかのように。

 

 

 

二度と戻れない過去の記憶の中で、アルゴスは涙を流し続けた。

どうしてそれを止められないのか、わからないまま。

 

 

 

 

--

 

 

 

朝の慌ただしい時間帯をやや過ぎて、往来にはそこに目当ての物があるから行き来する者の姿がそれなりにあった。かれらは概ね、通り過ぎる某の素性を知れば、それに好奇心を疼かせるだけの余裕を持っていた。

じろじろと注がれる視線にむず痒さを覚えるのも、それだけ周りに目を張り巡らせられるほどに疲労を取り払えたからなのかもしれぬと、ベルはぼんやりと思った。とはいえ、最早いつかのように他者に向けられる感情に一喜一憂するような事もしなかった。

 

「オイ、ありゃあ……」

 

「いよいよ出頭の日かあ。まあ、精々よく扱われる事を祈るしかねぇよな」

 

「人質って言われてるけどよ、自分からああなっちまうんなら、オラリオが世話する必要なんてあるかね?」

 

「小さな穴を一つ空けた前例を作るって事じゃねーの?」

 

耳を貸さずにベルは突き進む。目指すべき場所へ、果たさなければならない約束の為にその歩は進められていた。連れられるよう道を行く二者の美貌も人々の目を惹くが、それを受ける彼女らにしても思うことはベルのそれと同じだった。

 

「おやっ……シルちゃん、と……男、男男、男ッッ!?嘘だっ!シルちゃんが、男、男のッ後ろを歩いて、歩っ、あるあるある……!!」

 

「違いますよ!神様と大事なご用件のお手伝いに、付き添っているだけです」

 

懸想に基づくしょうもない勘違いについては、きちんと訂正するのを忘れなかったが。

 

「……ベル君」

 

前へ向かって歩けば、いずれはそこに辿り着く。万神殿の前で立ち止まるヘスティアは意を決したように眷属へと声をかけた。

振り向く顔はシルの温情により、充分な休息と序に食事まで与えられたおかげか、昨晩のそれの仄かな不穏さも感じ取れない。ただ、緊張も浮かばせていない抜けたような雰囲気は、別の懸念を誘発するのだった。

 

「……大丈夫、だよな?これで……」

 

「大丈夫じゃなかったとしても――――」

 

口にしてはいけないとわかっていてそれを尋ねる愚かさに気付くより先に、『子供』が言を継いだ。

はっとして、目を見開くヘスティア。ベルの浮かべる微笑はとても儚かった。

 

「ラキアに連れて行かれて、そこでどんな扱いをされようが、諦めずに戦うだけです、僕は」

 

「…………」

 

そう言って前へとまた歩き始めるベルの後ろ姿に、ヘスティアは安心よりも先に再び言い知れぬ不安を覚えたのだった。思い出す、ある言葉。

――――終わりを決めるのは、それを始めた者がそうと望んだ時だけ。

もしも、彼の次に挑む戦いが、今よりも遥かに途方も無い相手とのものであったならば、その先は。

そしてまた、その先は?

終わりなんていつ訪れる。あの恐ろしい変貌も、その末路も、それが生む苦悩も、決して逃れられずにこの心優しい少年を苛み続けるものなのではないのか――――?

 

「神様」

 

「はぅっ?」

 

さらりと銀の毛髪が耳を撫ぜるほど、シルの顔は近くにあった。肩を跳ねさせる小さな女神を見て、くすくすと笑っている。

気づいたヘスティアは顔を一気にしかめ、唇を尖らせて足を踏み出した。抱える苦悩を深刻で崇高なものと信じていた自分がどうしようもない馬鹿に思えたのだ。

 

「えい、何だ。おいベル君。ボクは別に、ビビったわけじゃないんだぞ。わかってくれてるよな?……キミもだぞっ!あのね、ボクは……」

 

「わかってますよ。ええ、必ずうまく行きます。心配する事なんか無いですよ」

 

必死な様子で『子供』に言い聞かせるヘスティアは、それから首だけ後ろへ向けてきちんと同行者にも念押ししていた。木箱を大事に抱えたシルは笑みを崩さずに肯定のみ送る。ぷんすかと怒って大股で歩く女神と並んで笑っている少年を見て、言い尽くせぬ感情が募るのを確かに理解しつつ……。

好奇と憐憫と、ひょっとしてという疑念の混じる視線はロビーに足を踏み入れれば更に密度を増したようにも三人には思えた。だが、そんなむず痒さはすぐに消え去る。広間の中央に並び立つ二人の戦士を見た瞬間に。

 

「観念したか」

 

副官のわかりやすい挑発に、いい加減懲りたヘスティアは目つきを悪くして睨み返すだけだった。しかしその『子供』に至ってはまるで表情を変えずに、向けられる圧力を受け止めている。傍から見ればまさしく不信心者共の指摘も正鵠を射たものかとも思える落ち着きようだ。全て諦めて悟ったのかと。

 

「見つけたものを持って来ました」

 

「出せ」

 

「出来ません。目的の為に使う以外は、無闇に晒さないようにと言われたので」

 

声は極めて平らかで、よく通った。居丈高に命ずる隊長の面相は異論を受け付けない意思が明白なものだったが、気に掛ける風も見せずに堂々とベルは受け答えをしていた。如何なる逡巡に感ける理由も無いとばかりに。見る者のいずれも、そうと悟るのを容易くする光景がそこにあった。

 

「ならば、相応しい場所がある」

 

隊長は、踵を返した。見下す金の双眸の残光も主従の目から消えぬうちに、後に続く男が口を開く。

 

「さっさと来るがいい。真実の証明とやらをする気があるならな」

 

不遜極まる物言いとは罪人の同胞と見做されているが故なのか、はたまた神とそれに命を捧げる者に等しく向けているものなのか、それとも彼らにとっては相手がラケダイモンでなければそのように振る舞うのが礼儀であるのか?

ベルにも、ヘスティアにも、シルにも、そして物見遊山にロビーで散らばる者達の誰もそんな事はわからなかった。まずもってそんな疑問よりも先立つ憤りに顔をしかめる者が殆どなのだが。いずれにせよひとつ皆が理解しているのは、職員専用のフロアへと足を踏み入れていく神と人の目的とは決して、ラキアに跪く為ではないのだという事だった。そう、その当事者達も。

 

「……こんな所に閉じ込めて……こんなの……」

 

長い廊下の先、冷たい石造りの螺旋階段を下りながら、ヘスティアは吐き捨てるよう呟く。灯りはかなりの距離を開けて先導している憎き戦神の尖兵の姿を未だ見失わせず、おかげで女神の義憤は硬い足音が生まれるたびに募る。

主の気持ちを理解して余りあるベルの顔に浮かぶ苦々しさ。すべては自分が招いた事なのだと振り返れば……。

 

「大丈夫ですって」

 

一番後ろを歩いている彼女の言葉も、しょせん部外者であるからこその楽観視から生まれるものなのだと反駁する事も、主従には出来ただろう。根拠のない後押しに、どうしてこうも心が軽くなるのか。短き戦いの日々の冷たい記憶は、かくも無条件な肯定を与るのに疑念を抱かせるのに充分だったのだから。だが、そうはしなかった。

揃って首が向くのを見て、シルは笑う。当惑を顕にする表情は瓜二つだった。

 

「ね?足が遅くなってますよ。兵隊さん達が怒っちゃいます」

 

――――歩んだ苦難の道の答えがすぐそこにあるのならば、最早ここではどんな後悔も不満も無意味なのだと、主従は理由もなく悟った。

気負うものの無い女店員の笑顔が神の街の住民を魅了するのは、それと相対した者の眼を啓かせる力があるからだった。

 

「キミは……不思議な子だね。フィリアの時だって、キミが居なけりゃきっと――――って……そうだよベル君、あの時の事忘れちゃいない、よな?」

 

「……そう、でしたね。あの時……」

 

頬に手を当てるベルは、漸く、あの日酒場で彼女に与えられた問い掛けの答えを見つけた。はじめての邂逅の記憶は、狂おしい憤怒と悲嘆の彼岸へと押しやられ終ぞ戻る事も無かった筈だ。いまこうして主とともに地の底の無辜の虜囚目指して足を運んでいるという、数奇な道程を選ぶ事をしなければ……。

その顔に浮かぶ慚愧は何よりも自らの非礼の表れだった。名も知れぬ同業者たちから受けた謗りなどとっくに何処かへ消えていた。

 

「なぜ足を止めようとする?下らん温情が、そんなにも名残惜しいか」

 

一同は知らずに足の動きを遅くしていたようで、隊長の後に続く男が縦穴に響く野太い声を上げた。感傷に浸る僅かな暇もよこさない横暴ぶりには、ヘスティアも口を開かずにいられない。

 

「キミらは寛容とか慈悲とか、どんな誰かにも分け与えようと思わないのか?」

 

「それで、分け与えられた者は恩の為ラケダイモンに命を捧げるようになると?いかにも、敵陣に僅かな手勢で飛び込む覚悟とはいと遠き場所にある言葉だ」

 

「っ、っ、っ~~~~…………!!」

 

「……神様。よしましょう」

 

無用に隔意を煽るばかりの言動をこそヘスティアは省みさせようというつもりだったのだが、神を恐れぬ者達にその言葉は決して届かないとベルは知っていた。口を噤んだまま荒ぶる鼻息だけで主のその胸中を察しつつも、どうにか宥めながら歩を進める。

僅かに伏目がちになりながら兵士の後をつけるベルは決して怒りを忘れているわけではなかったし、自責の念から逃れられたわけでもなかった。今はそれに囚われる時ではないと思っていただけだ。

やがて道の終着点へと辿り着く、五つの人影。そこには牢の中で鎖に繋がれる罪人と、二人の獄吏、そして女神の目を剥かせる思わぬ人物が居た。

 

「おや、ヘスティア様。此度はご機嫌麗しゅう」

 

呑気にギルドの長はほざいている。ヘスティアは眦をつり上げた。

 

「麗し……!!、キミの目は節穴かっ!?そもそもなっ、こんな連中に良いように使われて恥ずかしくないのか、えぇっ!?」

 

「き、決まりですので、そう仰られましても……」

 

汗を流して神の怒りにたじろぐロイマンの本心をすら計り知る方法を、ヘスティア・ファミリアは見つけ出したのかどうか――――それは、今こそ証明されるのだ。

 

「……ベル、……神゙様……」

 

牢の奥で、著しく非対称な形をして並ぶ青い光が動いた。歪な巨躯は隅で腰を降ろしたままであり、薄暗い灯りではその全貌からおぞましき印象を見る者へと過大に訴えかけるのみであろう。

ベルはアルゴスの目をじっと、僅かな間だが確かに射竦めるよう見つめて、それから振り返る。あらゆる乱心と無謀な試みを想定している二人の兵士のまなざしは、酷寒の大地の底で育まれる氷床のようだった。

 

「……シルさん、お願いします」

 

「では――――おふた方もそんな、怖いお顔をする必要なんてないですよ、もう」

 

余計な感情の発露を努めて抑えた少年の声に苦笑しつつ、シルは箱の蓋を開けてそれを取り出す。かような荒事からかけ離れた職務に従事する婦女子に対してすらその仕草一つ一つへ躊躇無く殺気を向けてくる兵士達の忠勇ぶりには、弁解のひとつも述べたくなるものだった。

牢の前の小さな机に、音もなく天秤が置かれる。

アストレア・ファミリアの団員達が、主への忠と、自分達の誇りの証として生み出した恩寵の顕現は、そこに在るだけのただの道具に過ぎない。死者の妄念も、女神の悲嘆も、残された者の苦悩も介在しない……。

 

「この短剣で血を皿にとって、もう片方に羽根を乗せます。後は、血の持ち主に真偽を問うだけ、ですね。血は、羽根で撫でれば消えますので――――」

 

「その道具が何者の意思も及ばざるものとどうして言える」

 

シルの説明に割り込む男に噛み付くのを、ヘスティアは必死で堪えた。両拳を胸の前で震わせ、引き結んだ唇の下で歯が音を立てそうに噛み締められる。こいつら、因縁つける事しか頭にないのか!!と。

尤も、視線の集まる中心に手を添えている女給仕は、気にした様子もなく麗かに笑った。

 

「ならば誰の耳目も届かぬよう、あなた方だけでこれを使ってみればわかる事では?これを生み出した人間もそのファミリアの神様もとっくにこの街には居ませんし、縦しんばそうでなくともその力と意思をここに呼び寄せて計らせているのだ等と仰るなら、それこそ根拠のない妄言と謂うべきでしょうね」

 

「……この罪人の否認が全て真実の言葉として、それが罪状の存在自体の有無となると?覚えてなければそれまでだろう。そんな粗末な裁断など考慮に値すると本気で思うのか」

 

「――――あなた達は」

 

ベルは、自分が思った以上に低い声を出している事に、口を開いてから気づいた。だからと言って驚きもしなかったし、況してやその台詞を中断しようとも思わなかった。

ただ、頭の中が冷えていくのを感じた。覚えのある感覚だった。脳髄から、胸の奥から、その冷たさは全身へと行き渡っていく。

 

「罪人、罪人と、アルゴスを呼びますけど。ひとつの物証でもあってそう断じているんですか。……二百を超える悍ましい罪状とやら。その全てが証言に基づいて掛けられたものなら、どうしてアルゴスの言葉が無価値なものと決め付けるんですか」

 

平坦であるのに力強い声音は、地の底の亡霊達の怨嗟のようにヘスティアは錯覚した。すぐ隣にある白い前髪の中から覗く真っ赤な瞳は、紛れもなくフィリアの日に見せた狂気の片鱗そのものだとすら。こんなにも真っ当な主張をしている『子供』に、どうして危機感を抱くのか。小さな女神には検討もつかなかった。

誰も言葉を発さず、少年のただならぬ威容を見つめている。二人の戦士に至っては、いよいよもってその眼差しに明確な戦意を宿らせる。それは、少年の指摘が確かに真実――――全ては、証言に基づく告発であるという――――を捉えたものであったがゆえの図星が生んだもの等ではなかった。

限界まで空気を張り詰めさせた末に、その目は見開かれた。

 

「意思も誇りも棄て神の奴隷となるだけの恥知らず共が、何を裁くっていうんだ――――今ここで言ってみろ!!!!」

 

茶番の末に焦燥を爆発させた少年は、広大な地下牢の隅々まで行き渡る声量でその憤怒を知らしめた。餓鬼の癇癪と一蹴するにはあまりにもその気迫は鋭く、烈しきに過ぎるものだと誰もが認めるだろう。

丸腰で、ただ両拳から血を滴らせ、噛み砕きそうに歯を軋ませるだけの少年に対し、眉の下の金眼は今一度研ぎ澄まされる。それは、一切の手心もなくぶつけられた罵倒への怒りによるものだっただろうか。

少なくとも、副官の場合は、そうだった。

 

「貴様ッ……言い残す事はそれだけか!!塵芥同然の痴者の分際で、ラケダイモンの名誉を汚す覚悟は――――」

 

「あら。お優しいのですね。ドーリア人の男達というのは、言葉よりも先に行動するものとよく聞いていましたけど」

 

『子供』の変貌と、街で暴れた大猿のそれなど及ぶべくもない凄まじい敵意に顔を蒼白に染めていたヘスティアは、その中に放り込まれる軽口にいよいよ目を剥いて混乱の坩堝へと落ちていく心境だった。

得物をいざ構えようとしていた男は、その凶相を無防備なシルへと向けるのに躊躇しなかった。彼女の店の常連にしてみればいざその男気が試される時と袖を捲る光景だが、彼らにとって至極残念なのはとっくにそれを為している者が居る事実だ。

ベルは音を立てて床を踏み、シルを庇うように腰を落として構えた。その様は主の多大な不安をかき消すと同時に、なんだか釈然としない気分を僅かに呼び起こした。そっちだけか。まあ、わかるけどさ。

はたして男どもその他のくだらぬ自尊心などこの世に存在しないかのごとく涼し気な顔をして、シルの口上は止まらなかった。

 

「いつだったか、私のお店の女将さんが聞かせてくれたんですよ。ラケダイモンの名誉というのは、弁舌の速さではなく流した血と積み上げた屍の量で計るもので――――あまり好きな考えじゃなかったみたいですけどね。でも、そういう殿方の生き方だって少し素敵だと、思ってましたよ?それが実際はこう、所望の物を用意されてもあれが違うこれが違う、ああだこうだと理屈をこね回して……。まあ、噂は噂ですもの。よくある事ですよね……」

 

「この……!!」

 

男のこめかみに青筋が浮かぶ。鼻を膨らませて口元は痙攣しており、四肢に漲る筋肉の興りを見るでもなく、湧き上がる激怒の奔流をその全身から溢れ出させようとしているのは明らかだった。

いつ血を見るのもおかしくない構図が出来上がっていた。少なくとも牢の前に立つ獄吏はそう思い、息を呑んだ。が――――

 

「そこまでだ」

 

「そ、そこまで、そこまでにしておきましょう。ここは、かような騒がしい事をするような場所ではないと、わかって頂けますかなベル・クラネル君……と、シル・フローヴァ君。君も言い過ぎだ」

 

見えない火花の中に身体を滑り込ませるロイマンの姿など、ベルには見えていなかった。ただ、闇の奥から一つの言葉もなく向けられている青い双眸だけが、辛うじて正気を保つ彼の視認する世界の全てだ。生まれて一度も見た事のない広く深い褥を必死に思い出し、傍にある尊きものの存在を視覚以外の全ての感覚に繋ぎ止めようと拘泥していた。

かたや二度目の恥辱を雪ぐ機会を隊長に諌められた男は、心身に叩き込まれた戒律に従いその佇まいを正していた。表情にあるのは、己の浅慮への憤懣だけだ。

 

「ッ……申し訳ありません」

 

「頭を冷やせ」

 

隊長は一瞥もくれずに天秤から短剣を抜き、指に切っ先を当てる。したたる血は皿と刃を濡らして煌めいた。羽根が、もう片方の皿に乗せられる。

 

「――――我はラキアの民として、その偉大なる擁護者の意向に従いオラリオに来た。目的はひとつ、ラキアを脅かす悪逆の徒アルゴスを捕縛し正当な裁きの場へと拘引すること」

 

「それが真実と、誓えますか?」

 

口髭の中から生まれる、太く力強い声。シルは微笑みを絶やさずに、隊長と向き合う。

互いの双眸は、いかなる欺瞞も暴く真実の光だけを宿すように、煌々と輝いていた。

 

「誓おう。我が神と王、ラキア全ての民の名誉にかけて」

 

 

 

天秤は、傾いた。

 

空にも等しい質量しか持たない、一枚の羽根のほうに。

 

 

 

--

 

 

 

「はん!結局大嘘だらけの連中だ。アルゴス君を引っ立てる理由なんかあるハズが無いさ!」

 

ロビーに戻って、主従と付添人は待機していた。すべての罪状についての尋問が行われるという以上、どれほどの時間がかかるだろう。衆目に晒されて待ちぼうけしているのはいかにも間抜けな絵面だが、そんなものも気にならない焦燥感は何もせずに居る状態では募るだけだった。ヘスティアの大見得も、奇妙な雰囲気を感じ取ったゆえのものだ。

 

「何か、気になる事がまだあるんですか?」

 

ベルの顔にかかる翳りについて、その主は尋ねる事に気後れを感じていたが、シルはそうではなかった。懸念に触れようとしない欺瞞を正そうという義侠心とも、無関係ゆえの好奇心とも、その根源は定かではない。

いまにも心臓が口から飛び出しそうになっているヘスティアをよそに赤い眼光は恨めしげにシルの顔へと向けられた。

 

「……あんな風に、周りが見えなくなって感情に任せて動いて、神様とシルさんが居なかったらどうなっていたか」

 

ベルが真に寒くなる事実とは、自分が自分でないかのような激情が、確実に自らの理性と同居しているという自覚を持っている事だった。絶望的と言っていい彼我の力量差を知りながら、なおもその罵倒と気勢は萎えずに発せられていたのだ。退く事など有り得ないと。

すべては猛る業火が過ぎ去ってから気付くのだ。或いはそれは常に消えることなく灰の中で燻る種火の如く、密やかに心を覆う機会を伺っているのではないだろうか。

付き纏う恐怖の影を克服出来ない弱さへの嫌悪すら、赤い瞳の中に浮かび上がる。しかし、シルは真顔で、真正面からベルを見つめながら、口を開いた。

 

「そんな事。気にする必要なんかないですよ。言ってる事もごく当然でしたし、少なくともあの隊長さんは最初から手を出そうなんて気は無かったと思いますよ。それに……周りが見えない人間は、あんなふうに誰かを庇う事なんてしません。ねえ、神様」

 

あまりに不可解な精神構造を持つ少年の苦悩を、いかにもなんでもないもののように言ってのける。いきなり同意を求められたヘスティアは、目を白黒させて、次いですぐ先刻の光景を思い出し別の感情を持て余した。それから、暫し熟考し、顔を上げる。

 

「、……ん、いや、ん、うん。そう、そうだ。その通り。全くその通り!あいつらが全部悪い。ベル君は悪くない。あれくらい言って当然、給仕君を庇ったのもごく当然。そうに決まってるじゃないか。暗く考えるような事じゃないぜ、間違いない!」

 

余計な私情も混じってはいたがヘスティアは概ね『子供』の不安が取り除かれるよう力強く宣う。握り拳を掲げた威勢のよい姿が、その意図を達する後押しとなっていた、と思われる。

 

「さて問題なんぞ無いとわかったところで、終わった後のことでも考えようじゃないか。そーだな、ここはぱーっと、…………気持ちだけ盛大に、お祝いするとしようか。勿論、アルゴス君も一緒にな」

 

腕を組み得意げで希望に満ちた未来を夢見る主の面持ちに、ベルの口元も緩んだ。

 

「色んな人にもお礼をしなきゃいけないですね」

 

「うん、そうだ。まず一番は……」

 

微笑ましげに主従を見ていたシルは、女神に話を振られて困り眉をつくった。

 

「私よりも、あの娘にお願いします。どうせ、突っ撥ねるだけかもしれませんけど……本当は、違うんです」

 

シルの顔には仄かな寂寥が漂う。リュー・リオンというエルフについて部外者の及び知れる事実は、彼女が一度家族を失くしてしまったという事、それだけだ。そして、それで充分なのだ。ヘスティアもベルも、何くれと言われずとも理解は容易かった。

 

「私は――――あの娘がかつて命を賭していたものが、全て失われたわけじゃないと確かめたかっただけだから」

 

「……正義が負けるなんて事あるもんかい。どんな悪党だって最後は敗けて滅び去るのがこの世の定めってヤツだ。あの娘もすぐにわかってくれるさ。なっ、ベル君」

 

ラケデモニアからオラリオまでその名を響かせるかの戦士を前にしてもいけしゃあしゃあと煽りをくれていたシルが、はじめてその弱みを吐露していた。魂なき燃え滓となった凶刃に居場所を恵んで得た良心の充足も、後悔のみに囚われ苦悩する姿を垣間見れば瞬時に消えてなくなるのが常だった。

かつて疾風の名を戴いた女剣士が今一度立ち上がり、歩き出す為の何か。それは、自分では決して与える事の出来ないものだとシルは知っているのだ。

 

「ベル君?」

 

「……そうですね。信じるもののために戦い続ければ、負ける事なんて無い。神様が教えてくれた事です。間違っているはずがないです」

 

自分の歩みの正しさを信じる者だけが手に出来る力は、ベル・クラネルの最も冒し難いところで消えずに輝き続けるだろう、彼自身が、それを手放す事を選ばない限りは。

『子供』の赤い瞳は、自分を見つめる丸い大きな瞳を見つめ返す。そこにあるものを、魂に焼きつけるかのごとく。

 

他の余計な事など、全て消し去ろうとするかのごとく。

 

 

 

--

 

 

 

灰色の男は語る。正義を掲げて戦った者共の末路を。

 

『悪人は徒党を組んで、くだらないお題目を唱える連中に対抗する事にしたのだ。目的が同じなら、自分本意な人間同士のほうがうまく行くんだろうよ……闇討ちなんて日常茶飯事だった』

 

悪党は金をばら撒き、街中に間諜を放ち、ギルド内部にまで協力者を作り、敵の正体を丸裸にしていく事を優先した。本拠地、構成員、内部事情。

 

『……どんどん動きづらくなったさ。そのうち根拠のない噂が出回った。因縁をつけて悪とでっち上げて私刑にかける、自治を名乗った愚連隊だとな』

 

細い鎖を掛けた敵に、それでも悪党は直接挑む事はせずに奸策を弄する。かれらは猜疑に心を食われはじめた正義の戦士のひとりに、それぞれ味方を名乗って接触しはじめたのだ。

かつて助けられた。恩返しがしたい。悪の根をこの街から絶やそう、と。それは寄付であったり、情報提供であったり、単なる励ましの言葉であったりもした。

 

『時間をかけ、偽りの信用を築いていったのだ。一人、一人、全く別の住民から協力を申し出られるのだよ。困窮のさなかに。どれほど救いに思ったか、わからない筈も無いか、お前なら』

 

かれらは敵を完全に滅ぼす為の手段をとった。二度とくだらぬ思い上がりを抱かないようにする為に、その心の底からの敗北を味わわせる方法をかれらは知っていた。

散々に痛めつけられた怨恨はよほど深かったのだろう。正義に対する復讐とは命を奪うよりもずっと、残酷な仕打ちを望んでいたのに違いなかった。

 

『別々の協力者全てが繋がっていたなどと、考えられるか?思いつく事もしなければ、問いただす事も出来ない。二度と会うこともない相手に、どうやって?――――奴らは、我々の間に亀裂を趨らせるのが目的だったのだ』

 

あの人が良からぬ連中と話しているのを見た。あの人に乱暴に問い質された。あの人は神様と仲が良いみたいですね。あの人にみかじめ料を求められたんですが。あの人があの人についてこんな事を。あの人が言っていた、割に合わない。もう嫌だ。抜け出したい。何の得にもなりゃしない。こんな事の為にこの街に来たんじゃない――――

 

『一足先に悪の手にかかった連中は、マシだったのかもしれん』

 

誇りが残っていれば、それを糧に復讐の炎を燃やす事も出来るだろう。最後まで正義を疑わずに死ぬことが出来れば、無念はあれど悪を憎み続ける事は出来るだろう。

だが正義の群団は、互いの中に敵の幻影を見出した。僅かに芽生えた不和の種が、些細な諍いや勘違いで蠢動し、団員の心を覆い尽くしていった。少しずつ、時間を掛けて。

 

『疑心に囚われ、その血を分け与えた者、命を捧げる主を信じられなくなった者がどれほど脆いものか』

 

ようやく気付いた神々による裁断も、上っ面ばかりの戯言、贔屓、不正の顕現だと眷属達は受け取った。

神に死すべき者の虚言は通じない。

では、死すべき者は神の虚言を如何にして看破できよう。

あの特別な『子供』を庇っている、いや、神自身が既に堕落し、正義を棄てたのだとまで主張する者が現れた。

 

『一度そう言ってしまえばもうおしまいだよ。とんでもない誹謗だと神は怒り、眷属はそれを見て不信感のみを育む。況してや志を同じくしていた別のファミリアの連中相手には……』

 

奴らが情報を流したのだ。奴らが陰謀を企てた。こちらの勢力を削いで、悪を追放した後に築く新しい秩序の主導権を得るために。街なかで彼らは口汚く互いを罵りあった。本来彼らが戦うべき相手はとっくに息を潜めていた。啀み合う正義の群団を見て、物陰で必死に笑いをこらえていたのに違いない。

これこそ悪党の陰謀だと唱える声も少数だった。真実を見抜く目を持つ数少ない者は、不信と狂乱に目の曇った仲間に激しく非難されるか、無視され、終いには排斥された。

 

『――――それこそが、どんな苦難よりも耐え難い事だった。あんなにも深く硬いと信じていた絆は何だったのだと……そう言い残して街を去る者も次々と現れた。二度と戻っては来なかった』

 

彼らにとっての真実は神の言葉ではなく、自分達の中にある正義だった。それに悖るならば神など信ずるに値しないとまで宣い、専横を働く者達は監視と密告を是として団員を常に恫喝した。支配の快感に酔っていたのだろうか?それすらも知るすべはもう、無い。

 

『もう私達を結びつけるのは、憎悪と恐怖だけだった。抜ければ敵につく。抜けるのは裏切り者だ。それしか頭に無かった。……真実とは、いったい何だろうな?何が罪だった?神を信じられなかった事か?正義……いや、都合の良い真実に縋った事か』

 

それでも守らねばならない一線を誰も越えず、そこで踏み止まっていたのだ。だが、そんな均衡を無くしてしまうのは悪党どもにとってどれほど容易い事だったろうか。

 

『ある日、一つのファミリアがオラリオから消えた。本拠地は徹底した破壊と略奪に晒され、何一つ残らなかった』

 

迷宮で罠に嵌められ、団員は丸ごと怪物の餌になったのだという噂は疾風のように街中へ広まった。

それが、最後のひと押しだった。

 

『壮絶な抗争が起こった。このままでは、あのファミリアのように皆殺しにされる。ならば、とね』

 

そして全てが滅び去った。死ぬまで自らの過ちに気付けなかった者はどれほど安らかで誇り高き一生だっただろうか?

正義の共食いにかこつけて遂に姿を顕した本当の敵に真実を告げられた者は、推し量り難い絶望を味わった。

しかばねと瓦礫の転がるかつての安息の住処で、正義の戦士は嘲笑を浴びせられる。果てしない馬鹿ども。お前達の破滅は自分自身で招いた事だ。仲間同士殺し合ってまでいったい何を成そうとしたんだか?

 

『命を奪われるよりも凄惨な最期だ。自らの過ちを悔い続ける生を与えられた哀れな死すべき者に、天界へ去る神々は失望の目しか残さなかった……』

 

失意に任せ街を去る者、抜け殻となったままとどまり続ける者。いずれにしたってかれらにはもう何も残されていなかった。罪人の烙印はかれら自身がその魂に刻み込んだ。名誉も誇りもその手で穢し、二度と届かない処へ自ら堕ちていったのだ。

 

『そうなって私はやっと理解したのだ。なぜ立ち止まれなかったか……私にとっての真実……私が欲しかったものは、あの安らぎの場所だけだったと。苦楽を分かち合って、共に同じ道を行く仲間達との時間。耐え歩き続ければ、全てが終わればそれが戻るはずだと、信じ切っていたのだよ。私は、自分の事しか考えていなかったのだ……』

 

その目から全ての光を失くした男は言った。この世の本質は無明であり、死すべき者は最期まで偽りの中で這い躙り続けるさだめにあるのだと。闇の中に在る者達は信じたい事を真実と錯覚し、或いは自分を騙してさまよい続ける。気まぐれに地上に降り立った天界の住民達だけがその愚かさを計り知れるのだとも。

あるべき正義は輝かしくその目を晦ませ、突き付けられる真実は想像だにできなかった己の弱さと醜さを照らし出す――――いや、それこそが、最初から死すべき者の手にあるべき唯一の真実であったのか。絶対者に仕えながらもそれを理解出来なかった罪人達は、贖う事の出来ない過ちに慄き、俯き続けるだけだろう。ただ目を瞑り、神の言葉だけを信じ続けていれば良かったのだ。

 

生まれながらの盲者が見出だせる真実など、その者の心に焼き付いた幻影でしかないのだから。

 

すべてを悟った男は、二度と立ち上がる事も無くなった。

この街に積もる灰の一部となって。

 

『見たくもないもの、知りたくもないものを好きに暴き立てる事の出来る力を手にして、それで何を得るというのだ?…………教えてやる。この道を歩き続けるお前が辿り着く場所は――――』

 

灰色の双眸が、ベルを飲み込んだ。

 

 

 

『希望のない、闇だけだ』

 

 

 

 

--

 

 

「……弱いから、そうなっただけだ」

 

「え?何か言ったかい」

 

独り言つ眷属に、ヘスティアは耳聡く聞き返した。ベルは、口元を緩めたまま、首を振った。

 

「どうでもいい事を思い出しただけです」

 

本当に信じるべきものを信じることが出来ない弱さが、かれらから光を奪った。

こうして傍で見守ってくれている、あたたかで輝かしい、何よりも尊い存在を蔑ろにする事など、あってはならないのだ。

蠢く闇を退けるよう、ベルは心の中でそう自分に言い聞かせていた。

 

 

 

--

 

 

牢の前のラケダイモンは手心など与えず、矢継ぎ早に尋問を行う。

 

「……以上の容疑について、心当たりはあるか」

 

「…………知ら゙ね゙え……おでは何゙も、やっでね゙え」

 

「次だ」

 

阻もうとする意思を持つ者はそこに居ない。少し離れて佇む二人の獄吏と壮年のエルフは、何も言わない。その領分から外れた事である以上。

同じ口上を繰り返して何度目だったかアルゴスは数えていなかった。答える度にする仕草も同じだ、目を閉じたまま、首を振る。僅かに揺れる鎖が音を立てる。単調な作業は、彼の心の翳りを増々大きくしていく。

そう、彼は恐れていた。

あって欲しくない光景から逃れるために、その目は最初から固く閉じられていたのだ。

ただの気まぐれの同情心、どうにもならない孤独感を紛らわす為に手を差し伸べた、不思議な少年……どこか、胸が締め付けられるような既視感を想起させてならない小さな主従に対して自分が施した事など、どれほどのものであろうか?かれらは最初から、断ち難い絆と、それが生む力を備えていた。忘れてしまっていただけで。

そんなかれらは些細な恩義の為、大国の暴虐に正面から挑み、打ち崩す手段を手に入れた。いかにも耳当たりの良い美談ではないか。

どうして容易く信じられよう。

己の呪わしき愚かさと、それが招いた必然の末路を座して受け入れる心を固めつつあったせむし男にとって、ベルの所業とは直視するに眩しすぎた。安っぽい英雄譚に没頭するには、彼は多くの事を知りすぎていた。

そう。もしも、もしも――――あの天秤が、自分の意思と反した結果を示す光景を目にしてしまえば?

あの少年と女神が、全てを投げ出す覚悟で探し出してきたものが空虚な紛い物でしかなかったとしたら。偽りでも、その結果を知ったかれらが抱く絶望の深さを思えば。

 

かれらの自分へと向ける眼差しが、それまで余りにも多くの者達から向けられ、慣れきった――――嫌悪と恐怖に満ちるものに容易く変質するだろうと思えば。

 

甘やかな期待は、強ければ強いだけ、叶わなかった虚無で以て自身を打ちのめすのだ。それが何よりも、アルゴスにとって恐ろしい事だった。

 

希望など抱くなと、アルゴスはひたすらに、闇の中で自分に言い聞かせていた。

 

それでも、その言葉を発するのは抗えなかった。

 

「……おでは何゙も、やっでね゙え……」

 

途方もなく長く感じる、神の命を受けた法の番人による裁断の時間。

最中ずっと、アルゴスの頭のなかにその言葉が響いて、決して消えなかった。

 

 

 

『前を向いて歩き続けなさい。誰にも恥じず、戦いなさい。お前が本当に得難く思うものを――――希望の光を、放さず持ち続けなさい』

 

 

 

癒えない孤独に苛まれる眷属は、たった一人、今の己に出来うる唯一の戦い方を忘れる事は出来なかった。

 

たとえ、一切の真実の見えない暗闇の中でも、小さな主従により思い出させられたその力は、彼の歩むべき道を確かに照らし出していた。

 

 

 

 







・馬鹿丸出しなモン
壊すと隠しメッセージが!それはまさしく作者×登場キャラ対談。つまりGOWはラノベだった??

・過去を消し去る事などそんな存在にも出来ない
わかりますね?聞いてますかクレイトス??

・口にその血を
乳も血も一緒だろ!?そうだろ!?成分的にそうだ!!間違いないんだぜベル君、さあ!!
などというエロ同人的展開はこのSSとは無縁だと誓います。

・正義のファミリア達とアストレアの天秤
もちろん全部捏造設定に決まってる。こんなお粗末な話に誰がした。

・ドーリア人の男達というのは~
意訳:「ベラベラとよう舌の回るヤツだ。きさま本当にスパルタ人か?」

・神の言葉だけを信じ~
「私に従っていれば良かったのだクレイトス!!更に強くなれたものを!!」


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何故投稿した後に未編集の箇所に気付いてしまうのか。教えてくれオリュンポスの神々よ。




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