眷属の夢 -familiar vision   作:アォン

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今更ですけど「下水道で遊ぶな」の一部をちょっと変更しました。
読み直す人なんか居ないとわかっていても手を加えずにはいられない病!!






アカイア人がやって来た

 

 

 

「ガヴィッ!!」

 

ゴブリンの顎を砕いた握り拳が、そのまま天蓋目掛けて振り抜かれる。仰け反って倒れゆく敵の姿と、飛び散る歯、噛み千切られた舌までベルの目は捉えていた。視界の端より迫る煌めきは、脳よりも先に五体が理解する情報となってその手を動かす。

硬質化させた舌で獲物を打ち据える生態を持つフロッグシューターは、その口を開いたまま驚愕するのだ、狙いすました一撃を避けられ、素手で掴み取られた事に。瞼から飛び出しそうな単眼が、一瞬でその死すべき者がこちらへ距離を詰めてくるのを見ていた。

 

「ゲッ」

 

最期の光景が錯覚だと気付けないまま、フロッグシューターは眼球もろとも脳幹へと刃を突き立てられ、命尽きた。伸びた舌を一引きでたぐり寄せた少年の膂力と判断力は、闇深き迷宮にあって讃えられる事も無く、そして恐れを知らぬ蛮勇さと咎められる事も無い。ただ、彼の身に宿る戦士の在り方がそこに顕れているだけだった。

短刀を引き抜くと眼球と脳髄に詰まった体液が吹き出し、顔に掛かる。拭う気も起きなかった。仰向けの姿勢のまま、床に手をついて立ち上がろうとするゴブリン目掛け、跳ぶ。

 

「ふん!」

 

「ガ!!」

 

その頚椎を喉仏ごと踏み砕いても、ひり出された断末魔の吐息を聞いても、右手に在るのがただの真鍮の輪と、レベル1の冒険者が持つには過ぎる業物だけだとベルは認識していた。

瞳孔が開いているのがわかった。すべての視覚情報が脳の奥を燃やしていき、全身に循環していくのも。

滾る戦意を抑えずに刃を振るう事は、こんなにも身も心も軽やかなまま出来たものだっただろうかとさえ思う。

息をつく間もなくまた闇の中から現れ、迫る影。昂揚する五体は、反射的に動く。容易い敵とは言えない。だが、敗れ地に臥す未来図などベルは描かない。それは彼自身の生まれ持った、或いは何かに培われた確かな性情の生む無謀さなのか、誰も知り得ないのだ。だが、少なくともレベル1の冒険者がこれほどの戦闘技術を発揮するにあたっては、その恐れを知らない判断力は欠かせぬものであるのに違いない。

大きく踏み込んで、胴体に前蹴りを叩き込んだ。吹っ飛び、床に背を打つゴブリンは、休む間もなく頭を掴み上げられる。

瞳が映し出したのは、狩る者の浮かべる、食いしばった歯と開いた鼻の穴でつくられた凶相だけだった。

 

「んっ!ふっ!んん゙っッ!!」

 

「ゴッッ!、グッ!、ッ……!」

 

思い切り床を踏みつけた勢いで腰を捻り、ベルはゴブリンの顔面を壁面に叩きつける。一度では終わらない。腕と肩までの筋肉が興り、引っ掴んだ頭部を何度も、何度も叩きつけた。

硬い破砕音に水音がまじる頃にはもう獲物の息の根は止まっていた。

死骸を投げ捨てて、通路の奥を見る。生命の気配を感じる。自分の存在を感知し、排除すべく向かってくる……或いは、逃げようとする者達の気配だ。

闘争心が研ぎ澄ます五感は、更に少年の身体を突き動かそうと急き立てる。それが、自分でない、自分の中の『何か』の意思なのかどうか等、今のベルは考えもしない。何を迷う?戦わねば、進まねば、得られるものなど何も無いというのに。主に託された確信が、縛ろうとするあらゆる戒めの存在を忘却させているのだ――――

 

「ベル……そろそろ゙、時間だ」

 

「えっ?」

 

濁った声に振り返る。敵意を感じない巨体に気付かなかったベルは、言葉の意味を理解するのも少し遅れた。

まだ第四階層ではないか――――と思うが、主との間に横たわっていた溝を何とか埋める事が出来たのがつい先程の事と顧みれば、ここらでアルゴスが撤収せねばならない頃合いになっているのも道理だ。

 

「先に゙引ぎ上げるぞ」

 

「あ、うん。ありがとう」

 

燃え盛る衝動がすう、と引いていき、穏やかな水面のように心が静まるのを感じた。

前回までの、ぐつぐつと煮えたまま渦巻く感情を持て余していた有様が嘘のようだった。

 

「……いい神様゙だな。おでの出る幕゙じゃ、無がったかも知れね゙え」

 

外套を翻しつつ、アルゴスが口を開く。

不穏な会話の流れを感じて、ベルは目を剥いた。

 

「そっ、それは……」

 

「いや゙、付き合うのを止め゙る訳じゃあねえ゙。ただ……お前ぇの神様゙は、お前ぇの事が、本当に大事で……優しい゙んだって、思ったん゙だ」

 

焦燥を浮かべたベルに掛けられた言葉の中には、明らかな憧憬が込められていた。

 

「アルゴス」

 

「……神様゙には、何でも話しでやれや……」

 

それきり会話は途切れ、アルゴスは通路の奥へ去る。

彼の積み重ねた時間や想いとは、どれほどのものなのだろうか。

それを少しでも理解できる日は来るだろうか……などとさえ、ベルは思った。

 

 

--

 

 

「……覚えのない事で、追い掛け回されて、……ひたすら彷徨い歩いて逃げまわって、ようやく帰って来た、か。……ここが、キミの生まれた場所なのかい?」

 

アルゴスは首を振った。

 

「違え゙………………でも、元々、こごで待っていなきゃいけない゙理由が、あったんだ……」

 

「それは、なんだい?」

 

「…………」

 

アルゴスは、静かに、ゆっくりと語り始めた。

どんなに追い立てられても、ここに戻って来なければならなかった理由。

守らなければならなかった使命の事を。目の前の女神の『子供』に聞かせたものと変わらない……遠い昔の、とるにたらない記憶を。

 

 

--

 

 

「あんた、またとんでもない値段を吹っ掛けたんですって。苦情が来たわよ」

 

「一振り一千万くらい、大騒ぎするような値段かよ?嫌なら他所行けば良いって話だろ」

 

「……椿の一言であんたの仕事は無くなるって、わかってるの?」

 

『子供』達の告白を受けてから一晩明けて、目覚めた街を練り歩く小さな女神は、その場所へとやって来た。

今の懐具合では生まれ変わったって手の届かないだろう高級武具店の扉を開くと、何やら剣呑そうな雰囲気の会話が聞こえる。片方は昔馴染みとして、もう片方は誰であろうかとヘスティアは首を傾げた。

 

「ちょっと、まだ話は……ヘスティア?」

 

「はいじゃっお疲れさんでした~っと。失礼、神様」

 

「……お、っと」

 

やる気なさそうにこちらに歩いてくる赤い短髪の男。ヘファイストスの眷属に違いない彼の人相とは、まず目を奪うその濃い隈取り……それが、万人におそろしく不健康な印象を抱かせるだろう。化粧かと思うヘスティアだが、一瞬合ったその瞳はひどく充血しているのを見た。寝不足だろうか?

ともかくたいへん不真面目で不遜な態度を隠さずに、彼はヘスティアと入れ違いになって出て行った。ひらひらと手を振る後ろ姿は緩みきった無気力さを大いに醸し出す。

しかしこうして本拠地に出入り出来るのであれば、それなりの腕の鍛冶師なのであろうとヘスティアにも想像はつく。耳にした、いっせんまん!という単語が聞き間違えでないのならば――――おそらく先の会話は商談についてのことであろう。次元の違いすぎる話題に直面すると、たいていの者はひどく客観的になる――――随分ボッてる悪徳鍛冶師らしい。

 

「キミの所にもあんな不良君が居るんだなあー」

 

「……生まれ持ったものに振り回されて、腐ってるのよ。で、何か用?」

 

深い溜息をもう一つついて、ヘファイストスが胡乱げな目つきになる。またわざわざここに足を運んで来たのは、世間話の為ではあるまい、と。いつかの時と同じような表情になったヘスティアを見れば明らかである。

ただ別段、重苦しい気分にはならなかった。ほんの数秒前まで顔を突き合わせていたどうしようもない『子供』の抱えるままならなさと比べれば、あれと話し合うより気勢を削ぐ事など余程あるまいというわけだ。

腕を組みこちらを見上げるヘスティアが、口を開いた。

 

「例えばだけどさ……『子供』が、神の血を使わず、自分の意思だけで力を書き換えたり、発現させたりする事って、あり得ると思う?」

 

「……は?何ですって?」

 

耳を疑う発言にヘファイストスは一瞬理解を拒否した。意図せずに反射的に漏れ出た自分の言葉で、目の前の顔が一気に不安に歪むのがわかった。

何と言ったか。

神の血を分け与えられる事無く、奇跡を宿す者……それは。

 

「……古代の英雄達」

 

千年の昔に神々が地上に降り立つ前より、この地に穿たれていた大穴。そこから溢れ出す怪物を前に、死すべき者達は為す術もなく蹂躙されていく定めにあった。特に、生まれながらにして魔の力を持つ事も無い、毛の抜け落ちた、貧弱で、愚鈍な、二本足で歩く死すべき者の中で最も憐れまれるべき種族。逃げ惑い、隠れ生きる事だけが、かれらの生きる道だった……。

だがかれらがそのまま滅びの途を辿らなかったのは、その散っていく大勢の命の中で、襲い来る凶悪な怪物を次々に斃してゆく英雄達が居たからだ。その光景はまさしく奇跡としか伝わっていない……神の血も借りずに目覚めさせたその力の根源も、今となっては誰も知らない。しかし、確かにその者達は存在したのだ。

いま迷宮に挑む冒険者達と較べてさえなお眩く、その偉業を語られる者たちが。

 

「こ、古代の」

 

「さもなければ全然聞いた事無いわ。ギルドに記録は残ってるかもしれないけど。……そういう天然モノは、良かれ悪しかれ名を残さざるをえないものだし」

 

真なる絶対者の君臨せざる世界におけるかれらは、往々にして並ぶ者無き存在として振る舞うか、さもなくば縋る寄る辺として死すべき者達を守り導いたという。心、生命、歩むべき道をも。

――――その最期は決まって、幸福なものではなかったというのが、ヘファイストスの知るところだが……それは、今話していることとは関係あるまい、きっと。

 

「そっ、そう、なのか……」

 

顔の幼さを色濃くさせる大きな瞳が、動揺で染まっていた。

幾千、幾万もの、散っていった冒険者達が求め信じたかっただろう、己こそが、この世界に名を残す運命を背負っているのだと。或いは、神の力さえ超越した存在たらんとすら夢を見たかもしれない。

しかし本当にそれを手にした時、どう思うだろうか?

その座を与えられる事で、何が満たされ、何が叶うのだろうか?

 

(それを望むかとは無関係ってのが常なのよね。そういうのは)

 

降って湧いて得たものとは、望まざるものを押し付けられることと同義だ。今さっき口論の末に出て行ったあの野郎の姿を思い出すまでもなくヘファイストスにはわかる。ヘスティアもそうに違いない。

そして――――口を噤んで冷や汗を流すヘスティアの顔を見て、ある推論が、いや、確信にも近い予感が生まれるのだ。と言うよりも、わざわざこうして聞いて来た以上、そう理解せざるを得ないではないか?

 

「……」

 

ヘスティアの『子供』は、まさにその運命を背負う存在なのではあるまいか、と。

尋常の理を超越した、巨大な運命に選ばれた存在……。

当人がそれを有難がるかどうかや、それが幸福かどうかは全く別だという事は、きっと小さな女神も理解しているのだろうとヘファイストスは察する。

 

「まあ、どうあっても、その『子供』が選ぶ事じゃないの?得たものをどうするかは……私達の出来る事なんて、大したものじゃないわよ、きっと」

 

「ん~~~~……」

 

俯き、やがて頭を抱え始めるヘスティア。苦悩の程は深そうだ。さもあろう。

如何にも軽く結論してしまったが、これを聞いたのが他の神であったらどうだっただろう。目覚めさせる力が前例の無いスゴイものだったとか、そんな次元の話にとどまらない異常事態としか言いようが無い。みながその『子供』への好奇心をむき出しにして、小さな女神はそこから始まる怒涛の日々に一瞬で飲み込まれるだろう。

それを薄々ならず理解しているから、彼女はここに来たのではないだろうか……?

 

「……仲直りは出来たの?」

 

「……んんっ?な、何か言ったかいっ?」

 

「いえ、何でもないわ」

 

何にしてもこうやって相談に来ている以上全てが解決したわけではないらしいが、とりあえず前向きにはなったようで少しの安堵を感じるヘファイストス。だが先日の抜け殻同然だった有様と比べれば、随分とまともな姿だ。……そして、すぐに、自分の人の良さに辟易したが。

大体、どこのファミリアだってこういう蟠りを大なり小なり抱えてるものではないか?死すべき者はいつだって、神々の思いもよらない姿を見せる。少し目を離しただけで、万華鏡のように変わっていく。だからこそ、天上における永遠の存在は魅了され、見守り続けているのだ。

自分だって、そんなあれやこれやの悩みが無いわけでは無いのだ。これ以上付き合おうという気も、いい加減にしぼんできた。

 

「それだけ?だったら」

 

「あ、それともう一つあるんだ」

 

さっさと帰るよう促そうとした途端、眉間に皺を刻んでいた表情をぱっと切り替えて言い放つ姿に、往年の図々しさを思い出してしまう。それに応じてしまう自分もどうなんだと、つくづく思うヘファイストスだった。

 

「まあ、いいけど。ところで……あなた、仕事は?」

 

 

--

 

 

視界を占める程の広さを誇る屋敷を前にヘスティアは立ち尽くしている。閉められたままの大きな扉の造りだけでも、打ち棄てられ荒れ果てきった自らの住居と比べる事の無意味さを悟らせる豪奢ぶりである。

傾き始めている陽できらめく装飾が、いっそう女神の心境を暗くさせている。本当はこんな所来たくないと、その表情が物語っていた。

 

「ううっ、会いたくない……やっぱ帰ろうかな」

 

「誰にかな?」

 

「ぎょっ!?」

 

ぼそっと呟いた独り言のはずが、思わぬ返答であった。ヘスティアは驚いた拍子に左足を上げ、右手は頭の上に、左手は右腰を掴むように動き、右足一本を軸に振り返るという器用な真似をしてみせる。

 

「いやあ麗しのヘスティア、まさか君の方から私を訪ねてくれるなんて、これは天地開闢以来の出来事に違いないな!……ところでそのポーズは何だ?」

 

「かっ、勘違いしてくれるなよっ。ちょっと調べ事があるだけだっ」

 

佇まいを直したヘスティアは慌てて訂正を促した。苦手な相手だった。いや、それは結構なオブラートに包んだ表現方法である。頭に月桂冠を乗せた顔は女性とも紛う美しさを湛え、小さな女神では見上げる必要のある整った長身は何故か胸に手を当て気取ったポーズを取っている……かくの如き姿を持つ古馴染みの神相手にまるで心を揺り動かされざる理由は、幾らでもあった。

 

「ははっ!相変わらずツンデ」

 

「帰る」

 

「あああ待った!わかった!真面目に話すとも!」

 

ロキ程ではないにしろ……いや、方向性の違いだけであり、ヘスティアにとっては会話の端から愉快でない気分が重力加速度に導かれるが如く増加していく相手であるのは同じだ。うんざりした顔の彼女を必死でなだめすかすアポロンの姿は、そびえる豪邸の主とはとても思えない軽薄さである。後ろのヒュアキントスはただ押し黙り控えていた。

 

「じゃあ立ち話もここまでにして、続きは中でゆっくりしようじゃないか」

 

「けっこう!時間は取らせないよ!」

 

隙あらばモーション掛けてくる色ボケ野郎という認識はおそらく永劫覆るまいとヘスティアは固く信じていた。ともかく、聞きたい事だけ聞いてさっさと終わらせるべきなのだとも……。

そう思いながらヘスティアは口を開いた。

綺羅びやかな神の住処を遠くに眺めて通り過ぎる人々が、街に溢れる喧騒の中からその言葉を拾い取る事は無いだろう。

 

「――――」

 

ヒュアキントスとともに侍らされていたダフネは、その問いを投げ掛けられた瞬間の主の顔について、少なからず、いや、正味かなりの、驚きを感じた。

瞼を大開にして眼球は飛び出し、鼻梁が縮んで鼻の穴が無様に開き、唇はめくれて半開きの口の中の歯茎が丸見えになった――――身も蓋もない言い方をすれば、崩れきった不細工なツラである。驚愕、嫌悪、恐怖?どの感情を呼び起こされたものか、或いはその全てなのか。

彼女の知る限りにおいてはいつも余裕たっぷりで知性豊かな言動を絶やさない姿か、気障ったらしくかっこつけて腹立たしくも決まっている姿か、そうでなければ熱っぽい目に恍惚とした空気を漂わせる色男然としている、実際見てくれだけは良いこの神の心を大いにかき乱す存在とは一体……。

 

「……なんだよその顔は。知ってるのか?知らないのか?」

 

「へっ、ヘスティア……どうして私にその名を聞かせ……いや、なぜ私が知ってると思うのだ!?私が奴をどう思ってるか……」

 

いよいよ青ざめた顔で後ずさるアポロン。まるで突如そこに怪物が現れたのを前にした一般人のような有様である。

 

「奴とはねえ。まあ、キミがどう思ってるかは大体わかるけど。それなりの規模のファミリアで顔が利く連中を当たってるからさ……でも、ヘファイストスも知らないって言うし、ヘルメスは出掛けてたし、じゃあ後はキミなら知ってるかな~って」

 

「知らん!知らん!誰がアレの行方だの、まして好き好んで関わろうなんて……うう、考えただけで体調が悪くなってくる」

 

「アポロン様」

 

「おお、ヒュアキントス」

 

額を抑えてよろめく主を忠勇なるしもべが支える。寄り掛かるアポロン。美青年二人が密着している構図……交差する互いの目に妙な熱を感じる。ヘスティアはそーいうのを見て楽しむ趣味はぜーんぜん無かった。げんなりした。ダフネも同じ表情だった。

 

「ああ、すまないヘスティア。この話はここまでだ。いや残念……またの機会には、もっと楽しい話題を頼むよ。では」

 

「あっそう。変なコト聞いてごめんよ」

 

全然ごめんなさいなんて顔してないヘスティアだが、背を向けて大扉を潜るアポロンには見えなかった。続くダフネが来客に小さく頭を下げて、家の中へと消えていく。重い音を立てて閉まる扉の前で、小さな影が小さく息を吐いた。

また、別の伝を頼らねばならない。ヘスティアはその場を後にした。

 

「デメテルにも聞いてみるかなあ~」

 

 

 

--

 

 

最近のエイナの心の中には晴れない靄がずっと漂っている。おくびにも出さない様子で業務をこなすその実、少し気になるあの少年について胸中如何ばかりか、とミィシャは察しているが……。

 

「エイナ、知ってる~?あの子、最近はずっと夜に篭ってるんだって~」

 

「……かれらがどんな風に扶持を稼ぐなんて、私達の決めることじゃないでしょう。ベル君にはベル君の事情が」

 

「わたし、その子の名前言ってないけど」

 

メガネの下で緑色の眼光がぎらついたので、ミィシャは黙った。気になるなら勤務時間を変えてもらえば、もっと顔を合わせて話す事だって出来ようにと思いつつ、手仕事に意識を戻す。

 

「ねえねえ。あの話本当かな……リヴィラの街が大変な事になったって」

 

「もう、次の人来てるわよ!」

 

僅かな駄弁りも貴重に感じるくらいには、今日も盛況なギルドの相談窓口である。冒険者どもは入れ代わり立ち代わりにやって来て、受付嬢達の対応もそれぞれ変わる。やって来る仕事をこなすだけでなく、めんっっっどくさい書式の紙とひたすら戦う。やれ攻略進捗だ、やれ相談履歴だ、やれ報告書だ。ああ、お金稼ぐって大変だとミィシャの頭がパンクしそうな頃合い。定時が過ぎて、もう少し。

 

「よっし、終わりっ!」

 

ようやく区切りがつき、引き出しを閉じて息をつく。伸びをして肩を抑えながらぐりぐり回す姿は、多少慎ましさが足りない。が、疲れ切った人間は大体、細かいことを気にしなくなる。少なくとも彼女はそのたぐいだった。

 

「ふううヴッ、お疲れぇぇ……」

 

「お疲れ様……。……」

 

「……会いに行けば?」

 

「……誰に」

 

ちょっと気を抜くと遠い目をする同僚はいつもこうすっとぼけるので、ミィシャはお手上げなのであった。

あんな僕ちゃんでも、好き者は居るんだなあと改めて思う。自分の好みと言えばもっと背は高く、もっとムキムキで……と他愛の無い夢想に浸ろうとした時に、その訪問者が現れた。

 

「もし~……えーと、何て言ったかなエ、エイミー……じゃなくて」

 

ぱっと、同僚の目に光が灯るのをミィシャは見た。はて、彼女はかくも現金であっただろうか。実際怜悧そうな見た目と面倒見の良さの落差が人気ではあるけれども……。

 

「ヘスティア様っ?どうしてここへ?」

 

「おっと久しぶり、ハーフエルフ君」

 

ツインテールを揺らすちっちゃな背と可愛らしい表情、そして大人しくない大人な胸部を揺らす女神は片手を振って挨拶し、軽やかな足取りでカウンターへ向かってくる。まこと深刻さの伺えない様子である。

はて同僚の言によれば彼女こそあの悩める新米君の主であろうに、担当職員の気の揉みようと比べてどうだ。それとも『子供』の問題については放任主義なのであろうか?とまでミィシャは思った。

 

「あの、ひょっとしてベルく、いえクラネルさんのお話ですか?」

 

「や、ベル君の事は……んまあ、何とかやってるからさ、そんなに心配しなくてもいいよ。ここに来たのは……」

 

短く簡潔な質問に、ミィシャは素知らぬふりで耳をそばだてる。怪訝そうな表情に同調してしまいそうになりながら引き上げる準備をして、他の職員やら冒険者やらと挨拶を交わした。それなりに働いていれば、すっかり馴染みの顔も出来てくるもので……。

 

「エイナちゃん、まだ上がってないだか?」

 

「あ、ドルムルさん。も~少し掛かりそうですねぇ。でも話はすぐ終わるって……アレ?」

 

世間話を散らせるどよめきがロビーに広がっているのに気付く。一日の稼ぎを終えた冒険者達も、かれらの相手をする職員達も、その中をかき分けて走る小さな集団を見ていた。

中心には、よく肉のついた身体と顔を上気させている見覚えのある人物が。

 

「なんだ?いったい何の騒ぎだか?」

 

「あれは、ロイマンさんに……皆ギルドのエライ方々ですね。どうしたんでしょう」

 

高級なスーツを汗で濡らすのも厭わず急ぐ面々は、そのまま街へと繰り出していった。

普段は奥に引きこもって何をしてるんだかさっぱりわからない連中の行脚に目を奪われてるのは同僚と小さな女神も同じと横目で知るミィシャ。

口頭では望む答えを得られなかったヘスティアは、顎に指を当てて、つぶやいた。

 

「今のうちに、ウラノスのところへ言って聞いてみるのも……」

 

「ダメですよ。今調べてますから、おとなしく待ってて下さいね!」

 

良からぬ企みを阻止するべくエイナは語気を強めた。それが時間外拘束される事への苛立ちではなく、ほんの少しだけ心のつかえが解けた事の安堵を隠すためのものと知る者は、少なかった。予期せぬ訪問者に待つようきつく言うと、ロビーの奥へと消え資料室へと向かった。

望みの情報を引っ張り出してくる作業が終わるまで暫しの時間が掛かるだろう。

 

「……エイナちゃん」

 

「今日は駄目っぽいですね~」

 

同僚への懸想を隠さない純情なドワーフの背を見送る。いと寂しげな姿は憐憫を誘うが、こういう場面でも融通を利かせて真摯に働くからこそ、彼のような輩は絶えないのだとミィシャは知っていた。

気になる店に一人で行くのが心細いからというやや情けない理由で、ミィシャはエイナを待ち続けた。

 

 

--

 

 

夕日に照らされるオラリオを囲む巨大な城壁の切れ目で異様な空気が漂っている。日々、数え切れない人々が出入りする城門は開け放たれたままだが、当然誰も彼もを何の妨げもせず通しているわけではない。その証拠が、今群れをなして道を塞ぐ門衛達である。

警戒を隠そうともしないいくつもの険しい視線の先には、街の境目まであと一歩の所に佇む二つの人影があった。

分厚い革と青銅で造られた鎧兜の上からもわかる隆々とした筋骨は、鼻当てを挟んでぎらつく双眸と相まって彼らの陰影をさらに鋭く研ぎ澄ます。十を越えるオラリオの秩序の守護者達を前に僅か二人で対等の威を放つ者達の携えるは、右に長槍、左に大盾。防具と同じく、余計な装飾を排した実用本位のシンプルな拵えが、貧相さよりも精悍さを引き立てている。

そう。全身をも覆い、半端な刃や矢弾などものともせず――――或いは、相手の肉体に叩きつけ粉砕するのも容易い重量を持つだろう大盾。そこに刻まれた文字が、傲岸なる訪問者の出自全てを物語っているのだ。

二本の線が生む鋭角を上向きにした、彼らの呼び名を意味する頭文字が。

 

「やはり、ラケダイモン――――ラキアの狂犬ども、か。神々の都を、たった二人で攻め落とそうと思い立ったというのか、あの戦神は?」

 

門衛の一人が呟くのを聞いているのか否か、ラキア兵の片方が長槍の石突きを地面に叩きつける。その振動が形を持ったかのように、遠巻きに見ている人々は揺れた。

直後、兵が口を開く。

 

「何度も言わせるな!!!!ラキア領内で手配中の大罪人がこの街に逃げ込んだ、奴を捕縛する為に我々はここに来た!!!!オラリオは我々に協力するのか、しないのか、意思表示をしろ!!!!」

 

街の一角、いや、街中すべてに轟き渡ろうかという怒声である。興味本位の野次馬達は鼓膜を貫かれ悶絶するほどだった。神々の寵愛を受ける戦士達すらも怯ませる気迫は、隣でまるで動じていないもう一人の兵の姿とともに空気をいっそう張り詰めさせる。

高まる緊張は、あと一押しで血を見させる事態を招くものと見る者全てに予感させるほどだった。流れる血はどちらのものが多くなるのか、恐るべき事に彼らはそれすら判然としない。

 

「ああ、待たれよ!ラキアの使者達よ、どうか……オラリオの戦士達も、静まられい!」

 

恰幅の良いエルフの男が必死の形相で割り込んでいなければ、目を覆う惨劇がそこに生まれていたのだろうか?日々の修羅場で鍛え上げられた戦士の心胆がぶつかり合う光景にあって、贅肉を揺らしながら情けない顔で懇願するロイマンの姿は場違いに過ぎ……しかし、空気を白けさせるのには有効に働いた。それこそが、彼の目論見であったのかもしれない。

流れ落ちる汗を拭いつつ、ギルドの長はラキア兵に向き直る。

 

「ウラノス様の名代として、要望は確かに聞き届けましょうぞ。結論は……」

 

「餓鬼の使いで来たのでは無いのだぞロイマン・マルディール。既に触れが出ている以上、事の次第は知っている筈だろう……くだらん駆け引きなど考えるな」

 

腹芸か本心からの狼狽か、どちらであっても一切の誤魔化しも許さないという口調は、先の怒鳴り声を真横で聞き流していた方の兵が放つものだ。静かで、圧倒的な重圧を纏う台詞。兜の下に見える濃い髭を、口の周りからもみあげまで蓄えた男。その眼差しは一寸のぶれもなく正面を射抜いていた。野次馬達はようやく、立ち並ぶ二人の兵の上下関係を理解する。

しかし首へ刃を突きつけるような率直な物言いを浴びせられても、ただ情けない顔で舌を動かすのがロイマンという男だった。

 

「触れが出ていようが出ていまいが、それはラキア領でのみ通じる話でありましょう。この街が協力するかどうか私の一存で決められるものではなく、更に言えば罪人とやらがこの街に逃げ込んだという話も本当だか……おホっ!」

 

空気が穿たれ、口上が途切れた。

弁舌滑らかな丸い顔を掠めた一撃は、後退した生え際を僅かに剃り落とし夕空へ向かい消えたのである。門衛が臨戦態勢をとるのも半瞬遅れる技は、間違いなく彼らが相対する者の一人が放った必殺の一閃だった。

右手に握る長槍を僅か上方へ傾けて突き出した構えのまま、一際鋭く、重く、空気を引き締める言葉が続く。

 

「まだとぼける気か?奴が何者であるのか、奴がここに逃げ込む理由は何か、全て掴んでいる。目撃情報だけで敵のはらわたに飛び込み探るなどと思うのか」

 

「……あなた方がこの街で行使出来る権利は、罪人を捜索・連行する事のみですが。こちらの捜査方法への口出しも、人員の要請も出来ない。一度街から出たらそれまでと」

 

纏う雰囲気を一変させるロイマン。百五十を超える齢で培った老練さが、感情を消した能面から滲み出る。

如何に数え切れない絶対者達を擁し擁される地であろうと、それだけで立ち行く道理など存在しない。神の膝元へ逃げ込めば重ねた罪も帳消しなどという不条理を受け入れた時、神の都はあらゆる威信を失うだろう。オラリオの治罪法および周辺都市との条約の一文一文字に至るまで叩き込まれた脳細胞が、眼前の狼藉者へ繋ぐべき鎖を瞬時に導き出す。

取り巻きの職員達も門衛も、贅肉だけ貯めこんだ無為なる事務役と思っていた男が、かくも苛烈なる暴虐の輩と渡り合っている光景に驚きを禁じ得なかった。

 

「貴様がこれ以上口にして良い言葉は、我々を受け入れる事の是非だけだ」

 

「この、言わせておけば……!」

 

「誰も動きなさるな!……滞在期間は三日ですね。ギルド本部へとご案内致します」

 

不遜も極まった振る舞いにはいよいよ門衛の額に青筋が浮かび始める。だがそれでも決して得物を抜かないだけの矜持は神々の『子供』として、この街の住民として身に着けた得難きものだった。

ともかく男二人はロイマンに促され、遂にオラリオへと足を踏み入れた。身体を揺らさない力強い歩みは、迷宮の怪物を屠る冒険者とも区別のつかない足運びと映る。……それを身に着けさせる技の目的は、神のしもべ達とは全く異なるものと知っていても、人々の目はそのように理解するのだ。

髭面の男とその部下を囲うように門衛が侍って行列を成し始めた時、部下のほうの兵が突如口を開いた。

 

「オラリオの住民達よ!!!!我々の追う大罪人について僅かな手掛かりでも持つ者はすぐに来い!!!!確かな報酬を約束する!!!!」

 

「っ、おい、誰が喋って……!」

 

「その巨体はふた目と見られぬ醜さを湛えたせむしの片端者!!!!挙げられた罪状は領内だけでも二百件を超えている!!強盗!!傷害!!殺人!!強姦!!人の心を持たぬ怪物だ!!!!」

 

今また耳をつんざく音量が街中へと轟く。部下の兵を制止しようという声も刹那に消えて無くなり、また野次馬達は耳を塞がなければならなかった。

足を止めずに歩きながら、ラケダイモンの兵はその名を叫んだ。

 

「罪人の名は――――乳飲み子(alkeides)アルゴス!!!!かつてこの街で神の名を背負い、戦った、お前達の同胞の一人だ!!!!」

 

 

--

 

 

「なにこれ。落書き?」

 

「げえっ、本当に人間かよ」

 

「あいつらの装備を見たか?貧弱なもんだ」

 

「わざわざ招き入れるなんて、ギルドは何考えてるんだか。罪人の捜索なんて、偵察の間違いだろ」

 

ロビーに集まった冒険者達は好き勝手な寸評を述べていた。ラキアからの訪問者がギルド内に設けられている専用の居室へ移され、手配書の発布が行われた頃既にオラリオは夜の顔に染まっていた。年齢、性別、人種、全てがバラバラの顔ぶれであったが、その中の誰一人でさえも、その人相書きに載せられた男の顔と比べれば、まさしく神の創りたもうた芸術品と言うべき風貌と言えた。

そんな連中の応対に追われる同僚を尻目に、さっさと交代と引き上げていく人影が二つ。彼女らだって、この突然の事態のおかげで幾分かの残業を課せられた身であり、後を任せた者達の恨みがましい視線など気にかけるほどの善良さを発揮出来はしないのだ。

 

「ねー。もー、さっさと上がっていれば、巻き込まれずにあのお店に行けたのにいい、ねえ?」

 

「そうね……」

 

上の空のエイナには、肩をすくめざるを得ない……しかし、察しはする。あの小さな女神は、遠くラキアよりやって来た騒動の次第を聞き及ぶや目を見開いて顔色をなくし、脱兎の如くこの場を後にしたのだ。それはもう、恐ろしい勢いだった……小さな身体なりに、という前提だが。しかし、重要なのは絶対的な基準と照らした速度ではない。

 

(絶対、何か知ってるよねぇ……)

 

その女神の口にした質問と合わせて考えれば、あまり穏やかではない想像を容易にしてしまうのも仕方ないとミィシャは思ってしまう。あらぬ方向を見ながら足を動かす同僚に、それとなく話を振る。

 

「その、罪人?容疑者?の神様の事を、聞いてたよね。ヘスティア様は。ずっと昔にオラリオから居なくなったファミリアのメンバーの行方について……」

 

つまり、すでに何らかの情報を掴んでいたうえで、こちらに接触を図ったのではあるまいか?という、ごく自然な推察へと移ろうとしたミィシャの台詞がエイナによって阻まれる。

 

「……既にラキアが懸賞金を掛けてるのを知ってただけかもしれないわ。懐事情が厳しいみたいだから、臨時収入の当てとして探ってたとか」

 

「あぁ~なるほど」

 

ああも焦ってたのは、おいしい話を横から掻っ攫われかねないと思ったがゆえなのか。可愛らしいナリで存外がめつい所もあるのだなあ、等と少々けしからん感想を抱く。

望外の訪問者の噂でいつもより少しだけ大きな喧騒に満ちる夜の街道を歩きながら、二人の受付嬢の会話は続いていた。

 

「ラキアの人達、スゴかったよね~。腕も足も筋肉カチコチなのが見えたけど、皆あんな軽装なのかしら?」

 

「あれは多分ラケダイモンだけよ。あの集団は、ラキアの中でも特別だから」

 

「そうそう、そのラケ、ダイモン。私よく知らなくって……皆、なんであそこまで警戒してるんだろうね」

 

他に理解出来た彼らの人となりと言えば、コリュス式の兜の下から見えた猛禽のような険しい目つきくらいである。確かに、只者ではないという雰囲気はわかる。が、世界中に名を馳せる冒険者達の集う街にあってその実力が決して突出しているようには思えないのだった。

まだ年季は浅いが、確かにギルドで勤務して数多の荒くれ者達の応対をしてきたミィシャだからこその感想だ。しかし、それこそが肝要なのだとエイナはすぐに指摘する。

 

「だから、特別なのよ。ラキア最強の軍団ラケダイモンは、その強さを維持するために独自の文化を長年、頑なに守り続けてる……装備も、戦い方も、普段の生活も何もかも。結果、質量ともにこの街の冒険者達とも遜色のない実力を身に着けてるって話。少しは聞いたこと無い?」

 

「ぜ~んぜん……オラリオ侵攻の事は習ったけど、そんなの授業で出たっけ?」

 

「授業に出なかったら知らなくていい、ってことじゃないでしょうが……そうね。じゃあ、アカイアは知ってるでしょ」

 

眉間を狭く必死に学生時代の記憶を思い出そうとするミィシャ。呆れたエイナが、頼りない同僚のおつむを豊かにするための作業を続けていく。夜闇を照らし星々を隠す魔石の輝きとすれ違いながら、エイナの頭に叩き込まれた知識の数々が紐解かれつつあった。

 

「あ~、え~とラキアの属州のひとつ……だっけ」

 

桃色の前髪を指で弄りつつミィシャは、顔をくしゃりと歪ませる。かなりの困難を伴う作業に挑んだ結果だ。

 

「はい、正解。かつては独立した都市国家群だったけど、『魔剣』の力に屈して纏めて取り込まれて……それでもなお、各々強固な自治の気風が強いのね。ラケダイモンはそこに住む彼ら自身が名乗っている呼び名よ」

 

へ~、ほ~、と。感嘆する声からして、どうやらマジで知らないらしいとエイナは察して、少しの危機感を覚えた。大丈夫だろうか、この同僚は……それともこんな教養など身につけないのが、むしろ一般的なこの年頃の女というものなのだろうか?そんなくだらない杞憂をひとまず置いて、口上が続く。

 

「その文化と言えば……生まれた時点で、見込みの無い赤子は捨てる。子供のうちから家族と引き離して、兵士として肩を並べる者達と共同生活を送る。それからずっとずっと、ひたすら訓練の日々ですって。贅沢だの娯楽だの、一切禁止らしいわ」

 

「うえっ。楽しくなさそー……何でそこまで?王様もそんな独自の共同体を許してるの?オラリオを攻め落とす為?」

 

「そこの所は、よくわかってないわ。ずっと昔からそうだったみたいだし……彼らは未だにラキア自体を信用してないからだとか、古代から信仰していた別の神に定められた風習だとか……ともかく、彼らにとってはその生き方、強さが何より誇るべきものみたいね」

 

ラキアによる過去五度に渡るオラリオ侵攻についてだけなら、学び舎の必修課程に含まれる内容だ。しかしそれらの戦火の渦において常に神々の戦士達と互角に渡り合っていた戦闘集団についてまではいちいち触れる事は少ない。そういう薀蓄を喋りたがる物好きな教師も居ないではないにしろ。

ともかく誰もが認めるのは、東の軍事大国が万を超え擁する兵士達とは、怠惰と愚鈍の輩などでは断じてないということだ。それでも、人外蠢く迷宮を踏破する英傑達の前には塵芥に等しき価値と貶められてしまうのがラキアとオラリオの戦争なのだ。

ならば、怪物と矛を交えるという篩も与えられずにそれほどの力を持つに至った連中の異質さとは、この街の遥か地下に眠る者の正体と等しく計り知れない。戦闘民族ラケダイモン。その飽くなき力への渇望を支えているものとは一体なんなのか。不信、信仰、矜持、或いは、別の何か……少なくとも今ここで他愛無い会話の種としてしか扱わない者達では永劫掴めないものだと言えたし、彼女達もそう自覚する。

 

「ふーん。とにかく、スゴイ人達なんだねえ。指名手配犯もけっこうな元冒険者らしいし、たった二人でしょっ引くっていうなら、確かに適任なのかな?」

 

「まあ、本当に捜索に来たってだけなら、そうでしょうけど。数日でどうこうなんて無理よ」

 

かなり以前から囁かれている噂を念頭に置いてのエイナの言である。ラキアはまた、この街への侵攻を目論んでいるという……。斥候代わりに送り込んだと見るのが尋常の視点であろう。

 

「それにしてもね~、あの、特にヒゲの人の筋肉!見た?はぁ、惚れ惚れしちゃったよ~。昔見た『テルモピュライ』っていう演劇に出て来た主人公思い出しちゃった。もうね、ムッキムキで、目つきもギラギラしてて、傷だらけになって戦う姿がかっこ良くてぇ、あれが私の初恋だったなぁ~」

 

「……それ、ラケダイモンの繰り広げた戦いが元になった話よ。知らなかったの?」

 

「えぇ!?うそお、だって見た目が全然違うじゃない、演劇じゃ皆パンツ一丁でマントだけ羽織ってて……!」

 

それは演劇だからでしょう、と突っ込むのも馬鹿馬鹿しくなる同僚の残念さに、エイナは少しだけ頭が痛くなった。ついでに好みの男性のタイプについても、少々理解し難い趣味があるのだとも知って……。

好み。好みと言えば。いや、関係ない、関係ない……が、あの少年は、どうしただろう。どうしているだろう?その主は大丈夫、と言っていたし、それを信じたいと思う気持ちはある。

果たして今宵も彼は迷宮へと征くのだろうか。隣で続く尽きない歓談に相槌を打ちながら、エイナは家路を歩くのだった。

 

 

--

 

 

目が覚めても誰も居ないという経験は、随分久しぶりであるようにベルは感じた。思えば主はどんな時も、眠りの中から戻る自分の前に居たのだと理解する。

何者の気配もない家の中は仄かな寂しさ以外の、別の感情も想起させる。それは……。

 

(……いや、早く準備して、行かなきゃな)

 

遥か遠くに過ぎ去ったもの……そうでなければ正体のわからないもの、に振り回されるのは御免だった。やらなくてはならない事があり、辿り着かなければならない境地がある。その為の力を貸してくれる者が、心を預けてくれている者が居るのだ。

作り置きされた食事ごと胸にあるつかえを飲み込み、手入れされた装備を着ける。いざ、少年は一人の冒険者となって迷宮へと赴こうと扉を開いた。

 

「ベエェェル君んんんっ!!ストップストップ!!ダメだ今日は休み!!今日の冒険は病欠だあっぶぐっ!!」

 

「うわっ、神様!?」

 

開いた瞬間、強烈なタックルを食らって部屋の中に逆戻りした。辛うじて踏み止まったベルは、勢い余って抱きついたままの柔らかい存在の肩を掴んで狼狽する。

 

「あの、神様?どうしたんですか?今日は駄目って言うのは、一体」

 

「……はっ!ああ、そうだよ大変なんだ。こいつを見るんだ!」

 

『子供』の胸の中で浮かべていた恍惚とした表情を消して、ヘスティアは持っていたその紙を広げてみせた。瞬間、ベルは目を見開きそれを手に取った。

 

「……!」

 

手配書に大きく描かれているのは人間よりも爬虫類をまず想起させる異相。下に並べ立てられる罪状の数々。言葉も絶えたホームに、繊維が握り潰される音がいやに大きく響く。

手の震えを抑えられない。それを生む、心の中で首をもたげる激情も。目が険しく吊り上がってくるのは、ベル自身にもわかった。それが主にどんな印象を与えるかも推し量る余裕は、今の彼には無かった。

 

「嘘だ」

 

「そうともさ。あの子はそんな奴じゃ……っておいベル君!何処行くんだい!」

 

「何処、って……知らせなくちゃ。こんな!」

 

ベルの思考が混沌としていた。駆け出そうとするのを抑えるのも必死に振り向き、切羽詰まった形相を主に向ける。言わずとも知れているだろうと、声にならない批難をも含ませる非礼すら、彼は気付けないのだ。

その衝動を生むのは、縋るものが失われるかもしれないという恐怖であり、それを齎すものが脈絡無く現れた事に対し座視する事が出来ない焦燥でもあり、そして――――

 

「落ち着くんだよベル君!君が行かなきゃ、あの子だって迷宮へは降りないんだろう。……今の君は、あの子からの否認を引き出して、自分が安心したいだけじゃないのかい!?」

 

「そ……!!」

 

ヘスティアの核心を突いた指摘で、ベルの身体は凍り付いたように立ち止まる。疑心は一目で見抜かれていた。生命を預けると決めた筈の相手に抱いた、吹けば飛んでしまうほどの小さな、……確かな不信など、高々十と少しの齢しか重ねていない子供の、幼稚な義憤では隠しきれるはずも無いのだ。

思い切り図星を突かれて顔を赤らめる。拳を握る音が聞こえそうになった。自分の浅はかさへの怒りが爆発しそうになって吹き荒れるのをベルは感じた。

 

「っ、っ……どう、しろって、それじゃあっ……!」

 

「大丈夫だ、ベル君。落ち着いて」

 

硬く掌に爪を立てる両手に小さく温かい感触が触れると、その熱が嵌められた枷の冷たさを際立たせる。それが、煮え立つベルの心を冷ましていった。

今の自分の中で勢い付こうとしているのは、怪物と戦う時に燃え盛っているものと同じなのだろうか?ベルには、わからない。

知らずに荒げ出していた呼吸が穏やかになり、手に送られる力は緩む。

 

「ラキアからやって来た連中がギルドで話してるのを聞いたんだ。滞在するのは三日間だって」

 

「三日……」

 

ベルは己に言い聞かせるよう復唱する。三日。三日経てば、全てが元通りになるのか。前触れ無くやって来た、この不安は消えてくれるのだろうか?ベルは知っている。それは、違うと。自分はいつ切れてもおかしくない、本当に細い糸にぶら下がっているだけの虫に等しいのだ。

そう、あの二人が去れば全てが無かった事になる等とはヘスティアも思わなかった。掛けられた嫌疑を晴らさねば死ぬまで日陰者なのは同じ事だ。だが、なにより今は彼の無実を証明する事よりも、自分の『子供』に力を貸し与えてくれる猶予を稼ぐほうが先決だと思っていた。兎角、アルゴスの境遇をどうにかするのは後回しだった。その判断が冷淡と謗られようと、いま選択すべき手段は変わらないではないかと自分に言い聞かせながら……。

 

「あの子がこの街に帰ってくるまでどういう道筋を辿ったか……少なくともその最中好きこのんで誰かを傷つけたり、何もかもを薙ぎ倒して突き進んできたワケじゃない筈だろう。今も街の隅っこの、あんな入り組んだ所で息を潜めて……たかが三日、見つかるなんてよっぽど運が悪くなきゃ」

 

すべては都合の良い推論だ。縋りたくなる魅力に満ち溢れている……そう言って跳ね除けここを飛び出し、アルゴスに会いに行って、いったい自分に何が出来るというのか?

下手に接触して、その場面を誰かに見られたら?そう、例えば、あの少女。絶対者たる眼前の女神は決して偽りを看過させ得ぬ力を持つというが、しかし……。

滾る感情が今度はどんどん冷たく暗いものに変質し、後ろ向きの考えが止まらなくなっていく。

 

「この事は……ボクが伝えておくから。だから、ベル君……信じて待つんだ」

 

穏やかな声にも、その強い意志を主は隠さない。揺らぐ『子供』の心を繋ぎ止める為の精一杯の言葉だった。それくらい、ベルにもわかる。

それでも、たやすく収まりがたく、胸中は波打つ。続くその言葉を聞くまでは。

 

 

「待つことしか出来ない苦しさは、わかるよ。いつだってそうだ、いつだって……。……でも、耐えなきゃいけない時だって、あるはずだろ?」

 

 

 

--

 

 

『はっ、はっ……』

 

リリは必死で走っていた。頼りない灯りを片手に、迷宮の出口を探し求め、ひたすらに脚を動かす。一寸先も明らかでない深い闇を我武者羅に突き進む暴挙をけしかける存在は、すぐ後ろまで迫って来ている。

途切れ途切れに吐き出す息が、流れる汗とともに身体にまとわりつく。

 

『待ちやがれェ!』

 

『このペテン野郎っ!』

 

『よくも……!』

 

『許さねえぞ、テメエだけは!絶対に!』

 

『殺してやる!!』

 

『うわあああああああああーーーーッ!!』

 

耳を塞いでしまいたい。しかし、それだけで何もかも無かった事に出来ればどれほど楽だろうか。

フードを貫いて聞こえてくる怨嗟の叫びは幾重にも響き、決して消えないのだ。

 

(うるさい、うるさい……黙れ、お前達なんか、知らない!)

 

そう、何度も心の中で唱える。

知ったことではない。

騙されるのが馬鹿なのだ。陥れられたのは、己の無能さが招いた災禍だと知ればいい。

 

(ずっと、そうやって生きてきた、私は!)

 

迷宮において生命を賭けて事に挑むのが尊く讃えられるべき姿だと言うのならば、幼い頃からそうしてきた自分だってその栄誉は等しく与えられるべきであるはずだ。

相手が人間か、怪物か、それだけの違いだろうに。なぜ批難されなければならない?

 

『そうしなければ、生きて来られなかったんですよ――――!』

 

叫ぶ。誰に聞かせたいのだろうか。闇の中に消えていった者達は、それを聞いて納得するだろうか?了解し自分を許すだろうか?そんな事あるはずがないとリリは知っている。どんなに仰々しい止むに止まれぬ事情も、他人にとっては塵芥同然なのだから。

走り続けた脚はもう、震え出してその動きを止めたがっていた。止まるわけにはいかない。止まれば、どうなる。

自分が捨ててきた何もかもに、追いつかれるのだ。

 

『はあっ、はあっ、はあっ!』 

 

頭を鐘撞きで叩かれているような痛みが襲い、視界は明滅して更に覚束なくなってくる。全力で収縮する肺が、開かれた口の端に泡を生んだ。

早く、逃げなければ。ここから出なければ。帰らなければ……。

酸素が尽きかけた脳は、彼女自身の求めるものさえ定かでなくさせていく。

闇の奥に、その姿を認めさせるほどに。

 

『あっ、ああっ!』

 

手の中の青白い灯りよりもずっと明るく、暖かそうな光がそこにあった。無限に広がる闇の中で遠くに、しかし、確かに存在する救い。それを見た瞬間、リリの顔は安堵と歓喜で花開くように綻んだ。それが、全身の力を奪う。

 

『あうっ!』

 

脚がもつれ、転倒するリリ。持っていた灯りが、何処かへと消えていく。痛みを覚えるよりも先に顔を上げた。

 

『――――!』

 

視界を縫い付けるように奪う光に、必死で呼び掛ける。

 

『――――!――――!!』

 

血走った目でそれを見つめ続け、喉が千切れても構わないとばかりの大声で呼ぶ。うつ伏せになり、最早指一本も動かせないほどに困憊した身体が震える。

闇が遂に、自分の全てを包み込もうとしているのにも関わらず、リリは叫び続けた。

 

『償え……!』

 

『返せ……!』

 

『元に戻せ……!』

 

どす黒いものがのしかかって来る。同時に、身体の芯まで響く冷たい怨嗟の声は心臓を撫でる指のようであり、少女の中の根源的な恐怖を呼び起こすのだ。

 

『やめてっ!やめてっ!嫌っ!』

 

涙が溢れる。どうして。今更。何で私が?胸の奥で無尽蔵にわき出す疑問に、答えは決して帰って来ない。

振り向けない。全身が凍り付いたように動かない。闇に囚われたリリは、叫び続けた。

 

『お願い!助けて!助けてっ!!』

 

リリは知っていた。

今自分を包み、喰らい尽くそうとしているものの正体を。

今自分が求め、決して届かないものの正体を。

 

『ああああっ!やだ、やだあ!もう、……許して、許して!!どうして?!なんで私だけ……!!――――おかあさん!!おとうさん!!助けてえっ!!』

 

なりふり構わずに助けを求めるリリの姿は、いつしか重ねた年月を遡り、ずっとずっと小さな少女となっていた。

泣き叫ぶ彼女の見つめる光の中に、永遠に失われたものが在った。

闇に覆われていく視界の中に立つ二人は、リリの記憶の中にある、いつもの表情を浮かべていた。

 

『子供』の事など決して省みていないだろう、別の何かに心奪われ、ぼんやりとしたまま、遠い所を見ているあの表情を。

 

闇の中の罪人は、己が業に全てを蹂躙され消えていくまで、ずっとその光から目を離せなかった。

かつて在った、自分が帰るべき場所と、そこで待つ家族の幻影から。

 

 

--

 

 

「……最低」

 

目を覚ましたリリは激しい動悸と呼吸を整えるのにも苦心した後、その一言を絞り出した。全身が汗で濡れている。衣服の貼り付く感触が更に不快感を増大させていた。

悪夢だ。

クソみたいな夢だった。

クソみたいな足跡を辿らされる夢だった。

何の意味も持たない憧憬。何の役にも立たない感傷。うんざりだ、かつて幾度と無く蘇っては苦しめられた、くだらない記憶の数々。

とっくに忘れ去ったと思っていたのに……。

 

(あれのせいだ……あのひと達の姿が……)

 

狂気じみた烈しい戦いを演じる力を持ちながら、愚かしさともとれる優しさと、どうしようもない弱さに苦しみ歯噛みする姿を持つ少年。

それらをただ大きな慈悲と許容で受け入れる神。

人外そのものの姿からはとても想像出来ない穏やさを併せ持ち、それが却って底無しの不気味さを漂わせる男。

光満ちる神の住まう地を恨めしく見上げる事も叶わない、暗く深い見捨てられた場所で、彼らが不可思議な結束を築いているのをリリは見た。

 

どうしてその光景が、あの、永遠に届かない場所に在るものと重なってしまうのだろう?

 

自分の両親は、あんなにも自分以外の誰かを思って泣き、怒り、笑い、会話する事があっただろうか。思い出せない。

リリは、思い出したくもなかった。

思い出そうとする度に、胸の奥が膿んだ傷のように鈍く疼くから。

縋りたい、頼りたい、助けて欲しいと泣きつく相手はもう何処にも居ないと、思い知らされてしまうから――――いや。

 

(私には最初から、そんなもの、在りはしませんでしたけど)

 

自嘲に口元を歪ませようとしても、それがひどくぎこちないものであるとリリは自覚したくなかった。

 

「……ッ」

 

たまらなくなって、上着を脱ぎ去る。乾きかけた汗のせいで、室温が低く感じた。

手が、肩を越えて背まで伸びた。抑えがたい衝動が身体を突き動かすのだ。そこに刻まれた証を、この爪で刳り、掻き毟り、皮ごと引き剥がし、滅茶苦茶に千切り裂いてしまいたいと。

 

(糞、糞、糞……)

 

突き立てられた爪から流れ落ちる血も、閉じられた瞼の端から流れる何かも、この世界の誰も見ることは叶わないものだった。

 

(私には、関係ない。関係ない。忘れろ……あんな連中……出会った事も……思った事も……何もかも)

 

部屋の端に、丸めて放り捨てられた手配書が転がっていた。

それは、今のリリとは、決して関係のない事象の記載された、ただの紙切れだった。

褒賞金だの、容疑の真偽がどうだの、被害者の感情だの……何もかも、彼女には関係のない事だった。

 

自分の重ねたものに対しても、誰しもがそう思ってくれればいいのにと、暗く狭い、彼女の唯一の居場所で、ただリリは願い続けていた。

 

 

--

 

 

ベルは、夢を見ていた。

陽炎の中にあるように朧気な幻影のかけら達は、戒めの鎖を軋ませている。

過去を消す事など出来はしないと囁くように。

 

 

 

 

 

彼は長い旅を続けていた。その旅がいつ終わるのか、決して知らなかった。ひとつ言えるのは、自分はこの旅を終わらせない限り、決して帰るべき場所へと辿り着けないのだという事だ。

立ち塞がる障害を踏み越えた脚も、襲い掛かる牙を全てへし折って来た腕も、ひたすらに疲れ果て、冷えた鉛で覆われたようだった。

だが。

それでも、歩みを止めることは出来ないのだ。

全身を引きずるように歩く彼に、何処からとも無く声が掛けられる。

 

『化け物!』

 

罵声だった。軽蔑の目が向けられている。誰も彼には近づかない。

 

『罪人め、ここから去れ!』

 

彼の姿を見た者は誰もが、そう言った。おぞましき所業の証がへばり付き、決して許されることの無い罪を背負ったその姿に恐怖しない者は居なかった。

 

『呪われし者よ、お前が救われることは決して無いぞ』

 

歯を食いしばる。彼は反駁する事の無意味さを知っていた。正しき道理を宣い責め立てる者全てを縊り殺せようとも、その力は己を救う何の手立ても掴めない事も。

 

『神よ、どうして、このようなケダモノを……!』

 

みなの言葉は、全てが真実だった。全ては地の果てまで知らしめられていた。彼が何者か……その名も姿形も、何処から来たのか、何をしたのかも。だから、彼は決して何も語らずに歩き続ける。

突如、行く先の大地が割れ、巨大な影が現れる。

 

『うわあああーーーーーっ!!!!』

 

悲鳴が重なり、人々は逃げ惑う。なぎ倒される家々とともに松明が倒れ、こぼれ落ちた火は一気にその勢いを増していく。黒雲で覆われた天に稲妻が走り、荒れ狂う風雨が何もかもを押し流す。現実に同居し得ないはずの光景が彼の前に現れても、疑問など抱かない。抱く暇など決して無い。

――――そのすべてが討ち滅ぼし、乗り越えるべき関門であることに、何の変わりもないではないか。

あまねく死すべき者の血肉と魂を蹂躙する存在は巨大な顎門を開き、対峙する罪人を冥府へと誘う呼び声をあげた。それは、天地とそのはざまを丸ごと揺るがすように鳴り響いた。

 

『――――オオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!』

 

だが、どんな怪物と対峙しようとも、どれほどの災厄に見舞われようとも――――

 

『はアああああああああっ!!!!』

 

彼は、その歩みを止めない。

終わりなき殺戮と破壊の日々を生き抜く為に、戦い続ける。いつか、その日が来ると信じ続け、地を蹴り、両腕を振るう。聞く者の心を凍てつかせる咆哮がとどろき渡る。襲い来る牙。降り注ぐ火炎と雷鳴。すべてを飲み込もうと押し寄せる瓦礫と瀑布。それらは決して、彼の歩みを止まらせる事は無い。

そのさなかにも彼は、数え切れない罪を更に重ね続けるのだ。携える刃で血肉を裂き、骨を砕き、目につく何もかもを焼きつくし、自分以外の生命の痕跡を黒い大渦の中へと叩き込んで。

果ての見えない旅を、彼は歩き続けた。

 

誰しもの目を奪う姿になっても、

 

誰に恐れられるようになっても、

 

誰よりも強い力を手に入れようとも、

 

今の彼にとって、それらはもう、何の価値もありはしなかった。

 

彼が失ったものとは、そんなものを手にしなくとも、いつだってそこに在り続けていたものだったのだから。

 

『…………』

 

立ち並ぶ廃墟の中で、しかばねが堤防のように積み上がって続いていた。どれほどの時と叡智を注ぎ築き上げられたのかも知れない荘厳な建造物の数々とともに。小さくとも、確かな安らぎとぬくもりが営まれていた家の数々とともに。

すべては崩れ落ち、死以外の存在を見る者に伝える事は無くなった場所で、彼は暫し立ち尽くした。

黒焦げになった人間の欠片を舐める残火が、彼の足元を照らしている。もとは泣き喚く赤子だった黒い塊を抱く骸を蹴飛ばして、彼は再び歩く、ただ、前に進む。更に重くなった全身を、真っ赤な血で染めたまま。

 

 

彼が背負う罪がいつ無くなるのか。

彼がいつ、人の心を取り戻せるのか。

彼が故郷へと帰る日は来るのか。

誰も知らなかった。

 

 

傷だらけの彼は、歩き続ける。

世界の果てまでたどり着こうとも、その歩みを止めることは出来なかった。

 

 

いつか示されるかもしれない救いの道を求めて。

 

 

身体の奥に宿る、小さな希望。それは、彼を支配して消えない呪いのように在り続けていた。

 

 

 

 

--

 

 

「ベル君!」

 

闇が切り裂かれて現れたものにより、ベルの心臓は大きく鼓動し、身体がソファから跳ねた。

 

「――――はぅ、あっ!!」

 

「わっ」

 

寝床から転がり落ちそうにもがく眷属の姿に驚いて、ヘスティアは怯んだ。がたん、がたん、と、震える空気が髪を僅かに揺らす。

荒く不規則な呼吸音を漏らすベルの口は、言葉を紡ぎだすのにもそれなりの時間を要した。

 

「っは、はあ、はぁ……は、夢?……神様?」

 

身体じゅうの重さが一気に消えたような違和感と、虚無に満ちていた胸に流れ込む現実の五感で、ベルの思考が乱れる。夢。見慣れた悪夢。現実に引き戻されると同時に燃え尽きて無くなる幻影。

理解した瞬間、眼前に在るものを認識した。灯りの消えた部屋でも、不安に歪む主の表情はよくわかるくらいに近かった。……頭が、酷く痛んだ。

眼の奥から生まれる信号を抑えるように額に手を当て、それから自然と右目の古傷をなぞってしまう。

 

「すっ、すいません……また、煩くしてましたか?」

 

「……どんな夢を見たんだい?」

 

いつだったかの際と違い、単刀直入な質問である。酷いうなされようだった。固く閉じた歯を軋ませ、眉間は深く谷を作り、掌がソファを引き千切りそうなほど握られ、傷により生きながら手足を腐らせてゆく獣と紛う深い悲痛の声を上げる。その姿は、どう見たって尋常の寝相と理解する事は出来なかった。

そこから呼び起こされるヘスティアの疑念はもはや抑えがたい、『子供』の抱えている……極めて個人的な問題の数々、は、全て繋がっているのではないか?この恐ろしい悪夢も、敵を前に見せる全てを省みない凶暴性も。或いは……それらは全て己の与えた血と不可分のものであるのかも、という、突拍子もない妄想さえ浮かび上がるのだった。

あの日の闘技場での変貌からはじまった明らかな異変は、これ以上座して見守ることはしない。さもなくば今後更なる溝が生まれ、またそれを埋めるのに苦しみ、悶える事になるのは間違いないのだ。彼自身が自分を変えようともがいているのに、ただ黙っていていいわけがない。

ヘファイストスの述べた推論を思い出す。それは、遥かな古代の英雄達が顕現させていたという、誰もが夢見る無類の奇跡そのものなのか?

……率直な意見を口にできるのならば、絶対に否だとヘスティアは叫びたかった。これが、英雄の姿だと?わけのわからない苦しみに苛まれ、みずから死へと突き進むような内なる衝動に支配され、深く傷つき、眠りの安らぎも妨げられる。それが、死すべき者達の望んでやまない、歴史に名を刻む誉の代償だというのか。

英雄譚とは悲劇と決まっているということか。誰が決めたのか?大いなるものを得るために差し出さねばならないのはその人間性以外に無いなどと、そんな運命を許容するのは、決してヘスティアの望むところではなかった。

 

(英雄になりたい、そうキミが望む限り、ボクはどんな協力だってするさ!でも、こんなの納得出来るかっ!!)

 

知らなければならないのだ。眷属の中に潜む闇の正体を。それが計り知れない栄光へと導く、生まれ持った祝福なのだとしても――――その全貌を知り得ざる限りそれは、何者も拒絶する闇にすぎない。

真剣な面持ちを突き付けられて、ベルは言い淀む。それは、怖い夢に怯える本音を明かしたくない、というものより、別の理由があるのだ。

汗のしずくが顎から一粒落ちる。心臓の鼓動が痛いほどに大きく感じた。

 

「よく、わからないんです。いつも、目を覚ました瞬間に、殆ど忘れてしまって……なんだか、凄く苦しい、疲れる夢だって事はわかるんですけど」

 

断片的に思い出せるのは、どうしようもない虚無感と、酷い罵りの言葉、燻ぶる激情の残り火――――そして、底無しの恐怖――――だった。

見たことも、聞いたことも、感じたことも無いはずの憧憬のかけら達は、繋ぎ合わせられるだけの数も大きさも、あまりにも足りなかった。

暗い部屋で、荒い呼気のリズムが静まるにつれ、かち、かち、と置き時計の音が聞こえるようになる。その間もヘスティアは横に座り、ただ『子供』の背に手をあて、彼の心身を労っていた。心から。

――――だからこそ、それを問うのだ。

 

「いつから見るようになったのかな」

 

 

ベルは息を呑む。いつから?答えなどわかりきった質問だった。開きかけていた瞳孔が窄んでいく。身体の芯が冷えていくような、或いは、脳の奥に火がつくような、形容しがたい感覚が生まれるのがわかった。

大きな影。大きな背。大きな手。真っ白い髪と髭。深い皺を刻んだ笑顔。力強い声は、村中何処に居ても聞こえる。

その声で褒められ、その手で背を叩かれる事を知っていれば、畑仕事も、炭焼きも、道具の手入れも、どんな仕事の手伝いにも何の苦労も覚えなかった。

その声で叱られ、その拳で頭を叩かれる事を知っていれば、どんな虚偽も、怠惰も、思い上がりも、どんな悪徳の芽生えも立ち所に憚られた。

何も知らない幼子だった自分が学び得たあらゆるものは、そこにあった。

 

 

それらは、ある日、ウソのように消えてなくなったのだ。

 

 

「……祖父、が……居なく、なって、から……」

 

失ったものの生む虚無、失うかもしれない不安。自分に手を差し伸べてくれたあの異形の男に、自分は何が出来るか。何も出来ないのか。信じて待つ以外に?そんな、すぐ揺らぐ弱い心根が、こんなくだらない悪夢を見せるのに違いない……そう、続けたかった。

なのにどうしてか、言葉が閊えているのに気付いた瞬間、ベルの視界が塞がれた。

何が起きたのか理解するのは、その声が聞こえてからになる。

 

「わかった、ベル君。……わかったよ。変な事聞いて、ごめんな。もう、お休み……」

 

ヘスティアは、その頬を伝うものが見たくなくて『子供』を胸の中にかき抱いたわけではないのだ、と自分に言い聞かせたかった。もっと根源的で、尊い衝動がそうさせたのだ、と。

さりとて、自分の質問の無神経さを悔いる分別もあった。聞き出さねば何もわからないし何も出来ないと知っていても……。

癒えない傷痕を覗き込む咎は必ずや、贖わなければならないだろう。その方法は、全てを明らかにし、この子の闇を打ち払う以外に無いのだ。

小さい震えが、穏やかな寝息の感触へと変わっていくさなか、ヘスティアはそう決意していた。

 

 

 

 

それは、途方も無い困難と苦痛と、悲嘆と絶望、破壊と死を知らねばならない道であるとは、決して知らずに。

 

 

 

 

--

 

 

 

招かれざる客のせいで、街全体の空気が張り詰めているのだと信じる者は少なからず居た。

 

「知らないね、何も。わざわざ来てもらって悪いけど」

 

「……失礼、貴女はこの男と面識があると聞いていますが」

 

「だから何だい?ロキ・ファミリアのあの三人なんて、よくまあ世話されてたもんだよ。で、ある時を境にさっぱり行方知れず、それっきりさ。生きてた事が驚きだよ。で、まだあるのかい!?」

 

「い、いえ。わかりました、はい。では、これにて……」

 

強くなる声で相手の機嫌の傾き具合を察知したのか、捜査にやって来た職員達が慌てて店を去るのをシルは見送った。街中駆けずり回り、本来の職務であるテナント査察もこなさねばならない彼らの心労がその小さな背に感じられる。

他方、鼻息一つついて仕事に戻る店主の影から、ぴこぴこと動く毛だらけの耳が覗いた。

 

「なんか嫌な雰囲気だニャ~。ラキアのパシリ共、さっさと帰って欲しいニャ。ホントにこいつが潜んでるにしたって、どうせ見つかりっこ無いニャ」

 

クロエは自分で指差した手配書を見てしかめっ面を浮かべる。他のキャットピープル達もつられて縦長の瞳孔を注いだ。裂けた口と剥き出しの歯、顔中に皺と瘤を浮かばせ異様に大きな左目を持った人相。見る者達の顔をひきつらせるのに充分な異形である。

 

「うーん。つくづくひでェ顔……母ちゃん、マジでこんな人間いるのかニャ?」

 

「迷宮で会ったら間違いなく怪物と勘違いするニャ……」

 

「きっと、若い頃に不幸な事故に遭ってこんな顔になってしまったんだニャ……可哀想ニャ」

 

「ああ、今でもよく覚えてるよそいつの事は!!アンタ等も同じ顔にしてやろうかい!!??」

 

「ヒーッ!!」

 

好き勝手ほざきまくった末、いよいよ猛烈な怒気を当てられ、ネズミのように散らばる店員達。ただでさえ日の高い時間では客入りも疎らなのに、今の街を包む状況が状況であり、商売人達にとっては大変よろしくない。くだらない話に花咲かせるのもわかるが、そうそう見逃すような女に仕切られてる店ではなかった。

しかしシルの推測するに、店主の一喝を生んだのは、娘達の弛んだ態度を引き締めるためだけのものではないようにも思えてならない。

 

「リューを呼んできてくれるかい、シル」

 

「はい」

 

心を見透かされたようなタイミングで頼まれる。努めて平素のふりを保ちながら扉を開いてバックヤードへ向かったシルは、机に向かって書類仕事に勤しむ若草色の後頭部に声を掛けようと口を開いた。

 

「あ……っ」

 

そこで計ったように振り向くリュー。偶然だった。視線がぶつかり、言葉に詰まる。気心知れたふたりだからこそ、互い、無防備な瞳に浮かんだ胸の内を読み取ってしまうのだ。

なぜこの日、リューが表に出ていないのか……ギルドの職員から、なるたけ姿を隠さねばならない理由。そしてラキアの兵士が探す者は、店主ミアにとってどう映る存在であったか……。

短い沈黙の後に、リューは乾いた笑いを漏らした。

 

「……正当な因果の齎されるべき者は未だそうならないというのに。ラキアの探す『乳飲み子』がミア母さんの言う通りの者であるのならば――――また、とんだ笑い話ですね」

 

「やめてよ……リュー。あなたは……」

 

「あなたの見込んだ、あの小さな冒険者に対して言った台詞の、なんと中身の無いことか」

 

口端を歪めるリュー。その空色の瞳の奥……彼女の脳裏ではいつだって、その声が渦巻いて消えない。恥知らず、お前はその身に刻まれた血に値しない者だと。

己の全てを私怨で満たして成し遂げた愚行を償う方法を、未だに彼女は知らない。それはひょっとしたら、死ぬまで見つからないものなのではないかとさえ、思うことがあるのだ。決して口には出来ない、偽らざる本音だった。

自己否定とは承認欲求を満たす最も安易な道であると知っていても、もはや自嘲は止め処のない勢いを得つつあった。最も信を置く存在を前にしてこそ顕れる、リュー・リオンの最も弱い姿。

シルは、どうにもならない気分に歯噛みした。

 

「死すべき者の本質というのは、決して変わるものではないのかもしれませんね」

 

「そ――――」

 

「なに、グダグダやってるんだいっ!!」

 

怒鳴り込んできたミアの姿で、底を知らない場所へと沈みかけていた空気が霧散した。

目尻の吊り上がった憤怒の表情は、今も必死で表の掃除をする店員達をへたり込ませるのに充分だろう迫力を放つ。

 

「あんたみたいな小娘がわかった風な事ほざいて、俯いてるヒマがあったら仕事しなっ!!なんでシルがあんたをここに連れてきたのか、忘れてるんなら兎も角!」

 

「!……はい、申し訳ありません!」

 

伏せられていた目が開かれ、リューはすぐに立ち上がるとカウンターへと出て行った。疾風のようだった。

残される二人。事務所がいやに広く感じられる。

 

「ミア母さん……」

 

「……たまには甘えるのも甘やかすのもいいけどね。仕事は別さ」

 

真顔に戻り、ミアがつぶやいた。その人の全てを知っていようがいまいが、自分に出来る事はその背を叩く以外知らないとわかっている女の言葉だった。

そう。

全てを知る事など出来ないのは誰しもが同じなのだ。報いや、救いがやって来る日はいつなのか……それは死ぬまで来ないのかも。だったら、今出来る事に全力で取り組むだけだと、ミアは思っていた。

それこそが、未来を切り開く為に出来るたった一つの事なのだと。

 

「変わるさ。誰だって変わる。空っぽだったリューがああなれたように……あの『乳飲み子』だって、どうなったかなんてわかりゃしないよ。実際に会いでもしなきゃね」

 

「……でも、それは、悲しいですよ」

 

シルにもわかる理屈で、それはとても素晴らしい事だと思う。しかし、変わって欲しくないと願う事も、等しく尊く罪のない事ではないかと思うのだ。

かつて肩を並べ戦った冒険者が街を去り彷徨い続けた果て、心を失くした怪物となって帰ってきた。そんな事を聞かされてああ、そうなんだ、とたやすく受け入れてしまうのは、無情過ぎると……。そんな自分の願いは、ただ現実を受け入れられないだけの唾棄すべき弱さなのか?

遣る瀬無さを溢れさせるシルの言葉に対し、ミアは、目を細めて言った。

 

「人生だよ」

 

開かれた扉を出て行く店主の、大きい背をシルは見送った。

――――あの、小さな少年は、どう変わっていくだろうか。

そんな、脈絡のない事を思いながら。

 

 

--

 

 

アイズは夢を見ていた。

ずっとずっと昔の夢だった。

 

 

 

 

穏やかな風の吹く草原に自分はただ一人残されている。鳥の声。降り注ぐ柔らかい日差し。そんなものは、彼女の心を決して慰めてくれないのだ。

たった一人。このままずっと、たった一人なのだ、自分は。優しい彩りの花々に囲まれ、あらゆる災いから隔絶されたこの場所で、世界の終りが来るまでずっとこうしているのだと、アイズの中に奇妙な確信があった。

ずっと遠くに見える眩い光をただ、眺めることしか出来ない。

痛みも苦しみも、飢えも渇きも無い無慈悲な牢獄で、アイズは這いつくばり、涙を流し続けていた。

どうして。

どうして、私を置いていったの。

いつまでも、そう問い続けていた。

孤独が生む絶望に、全てを食い尽くされる日まで、ずっと。

 

 

 

--

 

 

リヴィラの戦いからもう数日が過ぎていた。一度地上に戻った者達が知ったのは、あの巨大花が街の下水道に姿を現した事。アイズが遭遇した謎の女と合わせて考えれば大いなる陰謀を容易く想起させる事態だが、それ以上の衝撃として、重傷を負わされたレベル5の狼人とレベル6のドワーフの姿が眷属達を出迎えていた。

フィリアを鮮血で染めた謎の怪物達の、同類。リヴィラを襲った災禍ともどもギルド側は調査を進めると同時に緘口令を出しているようだが、それが正しい対処法かどうかまでは誰にもわからなかった。

こと主神の鼻息荒さはすさまじく、何としても尻尾を掴んでやるわと目をギラつかせていたが、そんな中でも深層への探索を許すのだから大胆なのか、『子供』の自主性を尊重しているのか、やはり誰にもわからない。

ともかく迷宮は三十七階層の一角。

ティオナは、団員達の作る休息用の陣地の隅、皆から少し離れた暗がりの中、縮こまるように身を抱えて眠るアイズの顔を覗き込んで、一瞬だけ言葉を失くすほどの驚愕を覚えねばならなかった。横顔に一筋、閉じた瞼から流れ落ちるものを見て……。

 

「……アイズ」

 

「……っ?」

 

びくりと上体を跳ね上げたアイズ。そのまま寝ぼけ眼も改めずに、きょろきょろと周囲を見回す金色の瞳にティオナは再び面食らう。まるで親の姿を探し求める幼子のような、無防備な仕草だった。

それなりの付き合いはあるつもりだったという自負も僅かに揺らぐ光景だが、敢えて深く問いただそうという時と場合ではないとティオナは知っている。丸くなった目にようやく理知の光が宿り始めたのを見計らい、声をかけた。

 

「おはよう。お腹減ってない?」

 

「う…………ん。……」

 

目を抑えて俯くアイズに背を向けて、ティオナは少し残しておいた食糧を取りに離れた。

どんな夢を見ていたの?たとえこの探索が終わった後だとしてもそれを口にするのはなんとなく、憚られる気がする。友人が時々見せる、ひどく思いつめた表情や、力への底知れない執着と関係しているのかもしれない……。

そんな思いを巡らせながら、手渡したものをもそもそと口に含むアイズの事をじっと見つめる。

 

「そろそろ発つぞ。準備しておけ」

 

武具の手入れを終えたリヴェリアの声。張り詰めた気持ちが伝わる。冒険者としての本懐を果たす気持ちと、地上に向ける心配事の間で揺れているのか……ベテランもいいところの大魔法使いにとっては、決してはじめての葛藤などではないのだろうが。

すっくと立ち上がったアイズが、剣を抜いて調子を確認していた。

眉間に皺を寄せるティオナに、こっそりと近づく者が居た。

 

「大丈夫でしょうか」

 

レフィーヤが不安げだ。まずいまずい、と心中で首を振る。近頃まったく規格外過ぎる出来事が立て続けに起きまくる、それに動揺するのは誰だって当たり前だ。

 

「心配ないって。おねーさん達に甘えときなさい!」

 

グッと手を握る。カラ元気だのなんだの言われようが、ムカつく狼人に脳天気バカだのほざかれようが、自分の最大の取り柄をみずから捨て去りたくないティオナだった。後輩の顔から少しだけ緊張が抜けるのを見届ける。

さて、置いて。

 

「――――来たな」

 

休息を終えた冒険者達は、やがて部屋から伸びるたった一つの通路に集う怪物達の姿を認め、それぞれの得物を手に取っていた。

未来に待ち受ける、あるかないかもわからない無貌の影に思いを馳せる時は終わろうとしていた。

 

「――――!」

 

無心で胃の中を満たした後の剣姫が、一番に突撃を仕掛ける。

それはまるで、自分の中にある迷いを断ち切りたいかのように、ティオナの目に映っていた。

どこまでも飢え渇く、獣のようでもあった。

 

 

 

消えざる、微かな夢の残滓――――泣き伏せる、弱く幼い自分――――を打ち払うかのごとく、アイズはただ、剣を振るっていた。

 

 

 

 

--

 

 

「隊長。西地区の見取り図になります。交通情報も調べてあります」

 

ギルド本部の一室、必要最低限な家具だけが置かれまるで飾り気の無いそこに、机を挟んで偉丈夫の男が向かい合っている。どちらも彫り深い顔に締まった表情を浮かべ、眼光は刃のように鋭い。その生命を預ける得物は今でこそ壁に掛けられてはいるが、使い古された軽鎧までは仮眠の時でさえ外さなかった。しかし彼らがこの街にとって明らかな敵対者であり、彼らにとっての此処がまさに胃袋の中と言うべき場所なのだと考えれば、それでも不用心である事夥しい姿と言わねばならないだろう。

若い男の出した紙を取って広げ、隅々まで羽ペンでなぞっていく髭の男。街道の広さ、立ち並ぶ店舗の種類、如何なる神の管轄であるか?同時に広げた資料と照らしあわせて、ラケダイモンの隊長は正確に情報を書き込んでいく。ギルドの職員が見れば、顔色を失うだろう光景だ……街が街ならば、その場で処刑である。それを成さしめさせるのは恐れを知らない勇敢さか愚かさか、ひとつ言えるのはたとえどんな事態になろうとも彼らは座して裁きを待ったりはしないだろうという事だ。

そう、相手が神であっても。

 

「ヤツの情報は?」

 

「……ありません、一切。やはり、街ぐるみで匿っているのでは」

 

「フン……」

 

口髭の中から吐かれる低い声が、ずしりとした重さを錯覚させる響きを残す。それから暫く、ペンの走る音だけが続く。魔石灯の光は、人の営みの温かさなどまるで解さぬかのごとき冷たく鋭い光陰を部屋に落とした。

大岩の睨み合うような空気は、若い男が口を開いて破られる。

 

「あなたほどの方が、このような任務に……王は愚かだ。我ら以外にオラリオと渡り合える力を持たない以上城壁を破る事はおろか、それと対峙するのもおぼつかない、なればこそ常備軍の質をもっと高めるべきなのだ。あなたを将として――――」

 

若い男は忌々しげに吐き捨てる。ラキアの支配者への不満が、ありありと感じられる言葉だ。城壁内の構造を探らせるのに、ラキア最強の戦士を使う意味がどこにあるのだろうか?いや、わかる。わかっているのだ、今回の仕事のもう一つの目的は。しかし、それでも止まらない口が、自然と根本的な問題まで言及するに至れば、それを一瞬で押しとどめる声が短く与えられる。

 

「くだらん妄言は許可していない」

 

顔を上げずに手を動かす隊長に、頭を垂れた。

 

「申し訳ありません」

 

「褒賞金を上げると伝えろ。いずれ口を割る者が出る……冒険者に誇りなど無い、所詮は金以上に価値あるものを理解出来んクズ共だ」

 

侮蔑を隠そうともしない物言いはオラリオの戦士達に拳を握らせるに充分であったろうが、実際彼の場合、それに躊躇を抱くような性情ではなかった。口を利く意義すらも見出していないだけなのだ。その傲慢さも、ラケダイモンとして生まれ育つ事によって培われた賜物である。彼らは皆がそうであり、自らよりも信頼し尊ぶのは血よりも固き絆で結ばれた兄弟達だけだった。その中でも最も深く広く、大きく威を抱かれる男の言葉とは、妥協と平安にのみ心砕く国の長などよりも重く優先すべきものと男達は疑わない。

 

「了解!」

 

拳を胸に当て溌剌と返事をすると、若い男は得物を取って部屋から去る。瞳だけ動かして見送った隊長は、やはり何も言わずに、すべき事のみに取り組む。愚かで傲慢な、それでも仕えねばならない主から与えられた使命に。

近く行われるだろう、この神々の住まう街への侵攻、その真なる目的を果たすための布石を打つという役目が、今の彼の背負うものだった。

今また街へと繰り出し、住民達すべてから猜疑と軽蔑のまなざしを向けられているだろう部下と、全く同じ……。

 

「……」

 

血、勝利、征服。それらをただ求めるよう育ち、今もなおひたすらに飢える戦士は、しかしその衝動を充分に制御出来る理性も併せ持っていた。自らの率いる者達の抱く不満をすべて理解し、受け止めるだけの器も。

彼らの肉体に宿る、眼前の敵を滅ぼす為の知恵も力も、今はまだ振るわれる事は無かった。

今は、まだ。

 

 

--

 

 

確かに、今のオラリオは小さな異物を囲んでいて、それが小さな波紋を呼んでいた。けれどもそれは、ほんの少しの間だけしか続かない事だと誰もが知っていた。

小さな営みの中で生きる者達の小さな懊悩など、精々その者の命が尽きるまでしか続かないのと同じように。

ベルは、結局その三日間を休養に充てるべしという主の提案に従う事となった。タダ飯だけ貪り寛ぐだけというのは、故郷においても日々を勤労に注いできた少年にとっては気後れがする時間であったが。

 

「神様。やっぱり、少しだけ潜って稼いだほうがいいと思うんですけど」

 

「いーやっ!キミは頑張り過ぎたんだよ!あんな暗い穴ぐらで日がなうろついてるのを続けてたから、心も元気が無くなっちゃってたんだ。たまには街をぶらついてみたり、こうして家で少し羽根を伸ばしてダラダラしてみたりしようじゃないか!」

 

机に座って食事をとりながら、そういうものか、と思い直すベル……納得出来ない理屈でもなかった。いつ自分の全てを飲み込もうとも知れない激情は、こうして主と団欒の時を過ごしている限りはまったく無縁のものに思える。恐ろしい夢の片鱗のことを吐露出来たのも多少、楽観的な視点に立つにあたり良い方向にはたらいたのかもしれない。

 

「たかが三日くらい。蓄えだってそんな切羽詰まってなんかいないんだから良いんだよ。もっと楽しい話でも……。そうだね、昨日知り合いのところにちょっとお邪魔してねぇ……アポロンって神なんだけど、まぁコイツと来たら男女かまわず気に入った『子供』を囲い込む愉快な癖があるんだけど。ねぇ?ハーレムなんて囲われる側にしてみりゃどんな気分なんだか……」

 

「ぼっ、僕を見ながら言う事じゃないですよねっ!?」

 

「おやっ、おかしいね。別に特定個人の事を思い出していたわけじゃないんだが……どこかで聞いた話と似ていたからかなぁ、モテたいだの、素敵な人と出会いたいだの……まあ関係なかったね、失礼、失礼」

 

「うう……」

 

赤面するのを抑えられないベルだった。過去を変えることが出来るならば、あんなとんでもない事を恥ずかしげもなく言ってしまった自分を殴り倒すのがたった一つの望みだと思う。そんな微笑ましい感情の発露は、ケラケラと笑っている主の顔とともに、かれらに背負わされた多くのものを少しの間だけ、忘れさせてくれていた。

現実の何かが変わる訳ではないにしても、今のかれらにとってそれより大切な事を、誰が知っているだろうか。

心身をひたすらに擦り減らす日々にいた者達にとっては少なくとも、今この時よりも愛おしいと思えるものは無かった。

 

「そういえば……神様、バイトは大丈夫なんですか?」

 

「ぎっっっくうううっっっ!!!あそれはそれはだねベル君、手配書が出たって知ってその足でなんとか頼みこんで休みを貰ったんだよ、もうキミが心配でしょうがなくて……。いやあほんと、足を向けて寝られないねあの店には……」

 

ふと思い至る疑問への返答はすぐだった。そこまで心配していたのか。いや事実、主が止めてくれなければ自分はその危惧を実現させていたのに違いないのだ。

ベルは感謝と懴悔の念を深くして、決意を新たに固める。こうして息を潜めて待った結果がどうあろうと、必ずその歩みを止めはしまいと……。

忠節の揺るぎない『子供』を前に、内心ヘスティアはやべーマジやべーどーしよーいつホントの事を話せばいいんだよーとのたうち回っていた。斯くの如き有様を演じながら街の片隅で、主従は待ち続ける。今はそれしか出来なかった。移ろう時の流れは誰にも止められない。審判の時は誰のもとにも等しく訪れるだろう。世界の生まれた時から紡がれる運命の糸車を止める手段を持つ者は居ないのだ。

 

「……」

 

リリは迷宮を出入りする無数の冒険者達の影を縫って歩く。闇の中で生まれ闇の中に生きる少女は、あまりにも儚いたった一つの希望を追い続けて彷徨う。いつ自分を捕らえるとも知れない無数の牙と爪を掻い潜り、その持ち主たちの生き血を啜りながら。

もう二度と戻らない幻影を憎みながら。

広いロビーを早足に去るサポーターの姿を省みる者は居ない。誰しも思う事は、己の日々の糧、強さ、誉。誰が悪い奴だ、誰が陥れられた、傷つけられた、苦しんでいる……そんな話に立ち止まって、振り向くほどの余裕は無いのだ。そのどれもは、死すべき者が等しく繋がれた枷なのだから。

 

「……」

 

酒舗の奥で仕事を任されているリュー。彼女は時たま思う事がある。過去――――何よりも大切なものを踏みにじられ、その喪失と絶望はどんな言葉や法でも贖えないと信じ、最もおぞましく究極的な清算方法を成し遂げる事を選んだあの時。真っ赤に染まる視界と手のひら、恐怖に歪む『罪人』どもの顔――――、今も決して消えない記憶のかけらを、振り返りながら。

――――自分の前には確かに、他に選ぶべき道があったのではないだろうか?と。

復讐の念に曇った眼では決して見つける事のかなわなかった、もっと、別の道。身も心も捧ぐと誓った高潔で慈悲深い主の想いに応え、その悲しみを濯ぐ為の方法はきっと、どうしようもなく長く、苦しく、辛い、実りの遠いものであったのに違いない。だから、自分はそれらを背負う事を拒絶したのではないか?ただ胸の中に吹き荒れる憤怒の嵐に全てを委ねる安楽な道を選んだ自分は、優しいぬくもりに満ちたこの場所に身を置くに値するのか?

リューには、わからない。わかるのは、過去を変える方法など決して無いということ。そして、あるべき運命の形というのは、死すべき者には決して知り得ざるものだということ。

そして、信じたいのは、選択に過ちも正しいも無く、未来になって、あれが正しかったのだと信じられる行いを積み重ねるしかないのだということ、それだけだった。

それが、虚無に取り憑かれた自分へと与えられた、最も尊い答えだった。

 

「……」

 

街外れの廃水道の奥で、追い立てられるべき罪人は息を潜めてそこで待ち続ける。女神からの言伝に対し、その提案を拒絶する事もしなかった。

彼にとっては、たとえ自分を探す者が一人足りとも居なかったのだとしても、変わらない事だったのだ。

一度背いてしまった、主の命に従う事は……。

 

 

 

 

 

何者も知らない何処かにある運命の鏡の中で、すべての死すべき者……いや、神々ですら外れる事の出来ない、辿るべき道が紡がれていく。

 

 

運命の糸車は、誰も彼もの意志も寄せ付けずに、回り続けていた。

 

 

世界が始まる前、かつて自らを滅ぼした者と、再びまみえるその時を待ち望みつつ。

 

 

 

 

 







・ラケダイモン関連
完全に捏造設定。

・誰が決めたのか?
ホメロス「俺俺」

・金以上に~
史実のスパルタも経済的には後進国だった。らしい。





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