眷属の夢 -familiar vision   作:アォン

1 / 16
需要不明。




1章 -眠りの中
CSアタック失敗!


その伝説は神々の黄昏の時代よりも遡る――――

 

ある男が居た。誰よりも強く、誰よりも恐れられる男だった。

 

男は何者も恐れず、勝利と征服を求め戦い続ける日々に明け暮れていた。

 

男は数々の武功を打ち立てた。誰もが男を英雄と讃えた。

 

それでも男はただの人間だった。

 

戦士として生き、人間同士の戦いで敗け、命を散らす。それが神に定められた、男の運命だった。

 

やがて、その時は訪れた。かつてなく強大な敵は、男に確実な死の運命を叩きつけようとしていた。

 

しかし、男は生き延びることを望んだ。生き足りなかった。

 

強さを、栄光を、畏怖を欲した。だから、死を拒絶した。

 

男は神に願った。

 

「神よ!我が敵を滅ぼせ!我が魂を――――捧げよう……!」

 

神は男の願いを聞き届け、男の死を退けた。

 

そして男は、更なる力を手に入れた。

 

何人をも滅ぼしうる力を。

 

無限の栄光をもたらす力を。

 

すべてを傅かせる力を。

 

 

 

 

そして男は、力の代償を支払ったのだ。

 

なにものにも代えがたい、究極の代償を――――

 

 

 

 

 

 

失われた英雄譚の断片(著者・成立年不詳)より

 

 

 

 

 

 

 

 

--

 

 

 

 

 

 

 

 

ベルは、ひどい悪夢を見る事がある。その悪夢はちょうど、祖父の死を境として彼の安眠を妨げるようになった。

夢の中の自分は何か、形容しがたい激しく、強大で、恐ろしい勢いを持ったものを内に滾らせていて、それは押しとどめがたい衝動でもって肉体を動かすのだ。もちろん、夢の中で、だが。

あるいはそれだけなのならば、……つまり、思春期特有の、そういった衝動なのかと彼自身も理解するところなのだろうが(亡き祖父の影響とも思うだろう)、それだけで終わらないがゆえに悪夢とベルは認識していた。

夢の中の自分が、意味の取れぬ大声を張り上げ、腕を振り回す。目に映るのは、真っ赤な何かが蠢き、飛び散る光景だ。その度に自分は得も言えぬ爽快感を味わい、そして、理由の分からない不安感が募るのである。

自分が何か恐ろしい事をしているのだという実感は、夢が終わって初めて理解するのだ。夢の中の自分が覚える不安感とは違う……夢の中のベルは、口にするのもおぞましい残虐な行為への良心の呵責など、芥ほども抱きはしない。

ならば、『彼』の抱く不安とは一体何なのだろうか?つまるところ夢の中のベルは、まるでその光景を『かつてあった過去を思い返している』ように眺めていたのだ。ベルはまるで、この狂宴の果てに待つものを知っていて、それをひどく恐れ、悔やんでいるかのように、心のなかを千々に乱れさせた。

夢の中の自分は障害を次々になぎ倒して突き進み、ついにその神殿の前に立った。その時こそ、不安は警告となって夢の中のベルを制止させようとする。

 

『ダメだ。入るな。入ってはいけない。ここに入るな!!……』

 

しかし彼は警告を無視してその扉を蹴破り――――

 

 

 

「……君、ベル君、……ベル君!」

 

「え……」

 

ヘスティアの声が、ベルの意識を現し世へと引き戻した。齢幼い少女にしか見えない姿の女神は、目を見開き、切羽詰まった表情でベルに呼びかけていた。

悪夢にうなされる眷属の姿は、孤独を恐れる弱き神の不安を大いに煽ったのかもしれなかった。

 

「はっ、……ああ、夢、かぁ……」

 

「ベル君……」

 

いつからだったろう?そう、この小さな女神に仕える事を選んでから、ベルが悪夢を見る事は無くなった。

それはやはりこの夢が、家族を失った虚無感が見せる不安と恐怖の顕現でしかないという事の証左なのかもしれない。

そこまで思った所で、安堵の息を吐きつつ未だに、心配そうな面持ちを向けてくるヘスティアに気付いたベルは、慌てて口を開いた。

 

「あ、その……すいません、神様。ひょっとして寝言とか酷かったり」

 

「……まったく、酷いもんだったよ。石のベッドで眠ってる訳でもあるまいし」

 

「ぃえ、はは……」

 

眉間の皺を深めて、ヘスティアは皮肉をぶった。それは、自分の安眠を邪魔された怒りよりも、たった一人の眷属を苛む悪夢の内容を知ることが出来ない焦燥感によって引き起こされた言動だ。

 

「いったい、どんな夢を見たんだか。財布を落としたのかな?迷子になったのかな?小指をタンスにぶつけたのかな?」

 

「な、なんでそんな、現実にありそうな嫌な出来事を挙げていくんですか……」

 

茶化す女神の言葉は、ベルの頭の中から、夢幻の残照を拭い去るのに有効に働いた。それこそがヘスティアの目論見だったのだけど。

そう、神といえども、人の心を縛る悪夢を払うことなど出来ない。ならば内容を問いただして思い出させるより、さっさと忘れさせるのが最良の対処なのだ……。

ヘスティアは、そう考えていた。

 

「ともかく、眠気がすっ飛んでしまったのを償ってもらうよ。全く……」

 

「ちょっと、神様!?」

 

ヘスティアはもぞもぞと、ベルの寝床の中に、潜り込んだ。神様などとは言うが、見た目は紛れもない美少女だ。

この状況はベルにとって、様々な不都合な事象が発生するのだが……。

 

「えい、大人しくするんだ。ボクを蹴り出そうっていうのか」

 

「そ、そうじゃなく。これはっ、ちょっと!待ってください!」

 

ヘスティアは彼女独自の思考論理に従って行動していたが、それはつまり、ともすればコンディションを変調させてダンジョン探索に不測の事態を発生させるかもしれない眷属を思いやっての事でもあるのだ。そう、間違いなく。

だからベルはじきに、自身の抵抗が無意味なものと知るだろう。

 

(そうだ、神様は僕の気を紛れさせようとしてくれてるんだ、間違いない……)

 

そう、間違いない。だから結局、一つのベッドで一組の男女が朝を迎えるにあたって、それ以外は何ら昨日と変わることのない経緯を辿ったのであり、小さな女神がそのことを少し不満に思ったのは、彼女の単なる我儘である。

 

 

--

 

 

『ベル、この物語の中の英雄達が一番重要に思っていたことは何だと思う』

 

『女の子にモテることでしょ?』

 

『違う!……いや違わないが、それはつまりだな……そう、一番おいしい事、であって、ふだん肝に銘じておくべき事とは別のことだ!』

 

『……わかんない。一番強くなるのを目指すこと?』

 

『……』

 

『?』

 

そして、白い顎鬚を蓄えた祖父は黙り込んだ。

故人とかわした他愛無い会話の憧憬をベルは思い出していた。

たまに祖父は、ふと、自分のほうに視線を向けながら、その実まったく違う別のものを見ているような様を見せることがあった。

ここではないどこか遠い場所、今ではないいつか違う時のことを思い出しているような……。

その寂しげな表情は今もありありと蘇らせることが出来る。同じ口による、「女にモテる事が如何に素晴らしいことか」という薫陶にも等しく、だ。

 

(ああ、くそ、なぜ今こんな事を思い出しているんだろう僕は)

 

それはきっと命の危機に晒された人間が見る、思い出の走馬灯なのだろうと、ベルは理解していた。

彼は今、彼自身の抵抗など歯牙も掛けずに屠りうる力を持つ怪物の手によって、その短い人生の幕を閉ざされようとしていた。ベルが必死で脚を動かすのは、それをわずかに先送りにしているだけに過ぎないと、見る者は思うだろう。

見上げる巨体を持つミノタウロスは激しい鼻息とともに涎をこぼしながらベルを追っているのだろうが、そんな姿を確認しようなんて、ベルは毛の先ほども思わない。

 

(そうだ、止まれば死ぬ!振り向けば死ぬ!僕は死ぬ……死ぬ!?死にたくない、死にたくないんだよ僕は!)

 

レベル1の素人冒険者の現実がそこにあった。遥か下階層に棲息しているはずのミノタウロスは――――ベルの及び知らない事だが――――ロキ・ファミリアの不始末により、第五階層に迷い込み、そこに出くわした哀れな供物の血肉を啜る為に今、その本能を露わにしていた。

勝てるはずがないのだ。

 

(僕はここで終わりなのか!これが不純な動機のままオラリオにやって来た報いなのか!?)

 

力なきがゆえ身の丈に合わない望みを抱いた末路に辿り着こうとしていたからこそ、ベルは先の思い出を蘇らせたのだろうか。

古今東西の英雄達はみな、強かった。その力で怪物を斃し、未踏の地を征服し、勇名轟かせ、そしてモテた。

自分は辿るべき道を間違えたのか?そう、英雄とははじめから強き者なのであり、弱者が目指すべき目標などではない。まさしくおとぎ話の中の、隔絶した超越者だったのではないだろうか?……

そこまでベルが思い至った所で、遂に彼の身体にミノタウロスの歩幅は追いついた。大きく硬い蹄が、小さい人間の頭蓋を砕くのを目的にして、蹴り下ろされた。

 

「でええっ!」

 

ベルは間抜けな叫び声を上げた。幸いにして彼の脳髄は迷宮の床を飾る赤い花になりそこねたが、砕けた床の罅が、小さい人間の脚を絡めとった。

勢い余って転倒し、そのままベルは振り向いた。

今生の終焉がそこにあった。高い上背を持つミノタウロスの眼光は、へたり込むベルの目線の高さからは見えなかった。かわりに、ぼたぼたと滴り落ちる涎のしずくが床を黒く染めるのがよく見えた。

ベルは尻だけ動かして、少しでも距離を取ろうと足掻いた。一秒の逃避行は、背に当たる壁の感覚でもって完了を告げた。部屋の隅に縮こまる白髪の少年は、顔色を完全に失った。

 

(ああ、死んだ。終わったんだ……)

 

出会いなどなかった。おぼろげな願い……というのもおこがましい、浅ましい欲望に従った結果がこれだ。

はらはらと涙を流すベルは、持ち上げられる蹄の底面を眺めながら、図らずしもだろうが、ここへ導いてくれたあの祖父の事を思い出した。

そう、黙りこくったままの祖父は、あの後、何と言っただろうか……。

現実感を喪失したままのベルの思考はかつてなく澄み渡り、脳細胞を高速で働かせていた。

ミノタウロスの口から落ちてくる煌きの一粒を見分けるほどに。

 

『……それはな、希望を捨てない事だ』

 

『希望?……』

 

『そう、希望だ。ベル、忘れるな。どんな時でも希望を持ち続ける。英雄達は皆、そうして戦い、生き延び、真に得難いものを手に入れたんだ』

 

『得難いもの……?』

 

『お前にも、いつかわかる。そうだ、忘れるなベル……』

 

『……』

 

『どんな苦難の中でも、絶望の底に居ても、光の届かない暗闇に閉ざされていようとも……希望があれば、戦えるんだ。

 たとえ、全てを失っても……

 希望の光を失わない限り、人間はどんな事だって成し遂げられるという事を……忘れるな』

 

(……こんな場面で、こんな事思い出して、どうしようもないじゃないか)

 

希望。希望を捨てずにいれば、心の内の希望の光が目の前の怪物を消し去ってくれるとでもいうのか?そんな話、ベルは聞いたことが無い。

そう、何かを変えるのは、何かを成すのは、意志ではなく力ではないか。自分の死は意志の気高さも浅ましさも無関係な、単なる弱さの結果ではないか。

 

(……希望。英雄になってモテたい。そんなやましさも、希望の一部だ。甘ったれた心持ちが、こんな状況を呼び寄せたんじゃないのか)

 

ベルは恐怖に包まれ動けない身体の中で、改悛の念を育んでいた。

 

(くそ、くそ、くそ……!こんな終わり方なのかよ、弱いから……強くないから、英雄じゃないから!)

 

後悔がやがて、己が弱さ、至らなさへの怒りへと変質していくのに、ベルは気づかなかった。刹那にも満たない時間で確かに、彼の中の何かが首をもたげつつあった。

それが何なのか……そもそも、その存在への違和感すら、彼が抱くことはない。それは、確かに彼の中に存在したものなのだから。

昔、祖父が居なくなるよりもずっとずっと前から……。

蹄が少しずつ視界を覆っていくのが見える。

 

(希望だって……)

 

瞬時に、ベルの全身に力が行き渡る。短刀を握る指が、柄を握りつぶそうと白んだ。

刃を床に突き立て、ベルは横っ飛びに身体を跳ねさせた。直後、ミノタウロスはまたしても、迷宮の床を砕いた。

つぶてが周囲に飛び散ることで、乾いた音がベルの耳をうった。

床に向けられていたベルの視線は、獲物を見失ったミノタウロスの顔を見上げた。感情の伺えない横顔を睨めつける眼差しは、いつの間にか、炎のような熱と、氷柱のような鋭さを持っていた。

立ち上がり、腰を低く落とす。自然と上体を屈ませた姿勢は、獣が獲物に襲い掛かろうと構える様にも等しく、それに気付いたミノタウロスの自尊心をひどく挑発した。

ちょこまかと逃げまわるだけしか能のない、この小さい生き物は、なんとここに来て自分に立ち向かおうとしているのだ!

ミノタウロスは、咆哮をあげた。弱き者の反逆を許さない傲慢が、怪物の怒りに火をつけた。

ミノタウロスは最早、獲物をいたぶり楽しむ選択肢をとらなかった。前肢を地べたに立て、一気に全身の筋肉を律動させる。一対の白い角は、ベルの息の根を完全に断つ為の槍となって、一直線に迫った。

レベル1の冒険者にとってのその攻撃とは、断頭台に仕掛けられた罪人に迫るギロチンと等しく、完璧な未来予測を可能にさせる代物だ。

ほんのついさっきまでの、怯え縮こまるだけの少年相手だったなら、そうもなったに違いない。

ベルは、歯を食いしばり、息を止め、目を見開いた。

 

(『希望は――――弱者が持つものだ』!!)

 

ベルは意識を断つ瞬間まで、ミノタウロスから目を逸らさなかった。

 

 

--

 

 

ミノタウロスの分厚い喉頭を激しく震わせて吐出された呼気は、ロキ・ファミリアの面々のいずれも聞き及んでいた。それが、二度に渡ったことも、だ。

まんまと獲物を一匹取り逃した彼らは大急ぎでその尻を追いかけて、このフロアまでやって来ていた。

 

「ちっ、先越されたか」

 

獣人族の男、ベートは走りながら悪態をついた。彼はファミリアの中でも名うての戦士だが、それでも頂点ではない。彼を置きざりにするほどの使い手こそ、哀れなはぐれミノタウロスを仕留めた狩人に他ならなかった。

通路を曲がると、視界が開けた。広めの部屋の床に、点々と戦いの跡が残っていた。そして、その先に、赤黒い血溜まりが作られていた。

ミノタウロスの残骸の前に腰を下ろしている金髪の少女が振り向いた。

 

「ベートさん」

 

「ああ、ひでえもんだぜ。本当に容赦ねぇな、お前は……。……なんだそりゃ?」

 

アイズは、白い髪の少年を抱き起こそうとしていた。あどけない顔立ちの人間族だ。二十にも満たないのに違いない……。

鮮血の一筋で顔の左半分を赤く飾っている少年は、目を閉じたまま微動だにしなかった。

 

「運の悪い奴だ。ま、この稼業の宿命だがな」

 

「……死んでません。気絶してるだけ」

 

ベートは夢散らした敗残者への哀れみを口にしたが、アイズがすぐにそれを否定した。そう、心音は途切れてはいない。しかし、頭を打っているようだ。

万難を排そうというのならきちんとした治療を受けさせる必要があるかもしれない。誰がその負担をするのかはさて置くとして……。

 

「はっ、雑魚が一匹。放っとけよ。どうせレベル1のゴミだろ?ロクに刃向かう事もせずに無様にやられて、ここで怪物に殺されるならそれが運命なんだよ」

 

「……」

 

アイズはベートの言葉を無視して、少年を背負った。恐ろしいほどの強さを持ち、感情を露わにするのが少ない彼女は、その人間性もまた並の人間を超えているものだと誤解されがちだ。

けれども、自分達の不始末のせいで負傷し昏倒している同業者を捨て置くような無慈悲さなど彼女は生来から持ちあわせて居なかった。

 

(それに……)

 

「おい、くだらねぇ情けなんて掛けてんじゃねえよ!助けるのはいいが、取り分は――――」

 

「権利なら、あるはず」

 

「はあ?」

 

アイズはミノタウロスの骸の痕に残った魔石の欠片を一つ、ベルの懐に放り込んだ。流石にそこまで看過するのは、ファミリアの一員として絶対にできないと、ベートは声を荒らげたのだが、アイズに遮られて間の抜けた声を吐き出すにとどまった。

アイズは、肩越しに少年の顔を見た。まぶたを縦断する古傷は、閉じられた右目によってつながったままだった。

 

「最初の一撃は、この子のものだったから」

 

「……何だって?おい!?」

 

さっさと足を動かすアイズをベートが追った。彼らが去ったあと、しばらくすると、部屋からは一つの戦いの跡は何もかも消え去ってしまった。生きている迷宮は、一匹の怪物と一人の人間の間で起きた事など、たちまち忘れ去ってしまうのだろう。

けれどもアイズの瞼の裏からはきっと、その光景は消えないのだ。

 

「アイズ、とベート……!?何、誰その……死体じゃないよね?」

 

「さっきのアレはやっぱりアイズが仕留めた時の声か。この子も巻き込まれて可哀想になぁ」

 

追いついたファミリアの面々が囃し立てる中にあっても殆ど反応を返さないのはいつものことだが、アイズが本当に上の空である事に気付いたのはごく少数だった。

そう、彼女はただ、思い返していた。突進するミノタウロスに対して猛然と立ち向かい、自分の何倍もの巨大な質量を受け流しながら、その片目に短刀を突き立てる少年の姿を。

背に掛かる軽さは、柄が眼球に接触するまで深々と、おそらく脳にまで達するほどに刃を突き立てられるほどの膂力を持つとは俄に思えなかった。しかし、その光景は確かに存在したのだ。

ミノタウロスの角ごとその巨大な頭を引き寄せ、血よりも赤く瞳を燃やし、真っ白い歯を割れそうなほどに噛み締める表情……少年はあの時、まさしく獲物を喰らうために牙を剥く一匹の獣だった。

 

(君は……)

 

理解の域を超越した激痛はミノタウロスの肉体を危機からの逃避行動へ走らせたのだろう。自らの生命を害する存在を遠ざけるために、迷宮に生まれ落ちて以来最も強大な力を発揮して、上体を激しく振りかぶったのだ。

そして小さな少年の身体は、短刀ごと木っ葉のように飛び、壁に叩きつけられて倒れたのである。

はたして部屋の入口から始終を見ていたアイズはそこでようやく我に返り、倒れた少年を尻目にもんどり打って苦しむミノタウロスへ引導を渡すことに大した労苦を払わずに済んだ。

 

(……そうだ。名前も知らない……)

 

背を通して仄かに伝わる鼓動を聞きながら、アイズの中で少年への興味が芽生えていた。

強者を見たのが今日この日が初めてなどということは決して無い彼女は、『たかが』ミノタウロス一匹相手に、ともすれば、良くて相打ちの無謀な賭けに挑んだようにしか見えない少年の姿に、何かを感じていた。

ただ敵を倒すだけの強さや、強敵を相手に退かない勇気、強者を超えようとする貪欲さ。英傑が持つものとされる様々な、そして彼女にとっては見覚えのある資質の、そのいずれとも異なる別の何か。

それに対する理解を深めるのは、時間を掛けるだけではきっと出来ない事だろうという確信だけが今のアイズの中にあった。

 

 

 

--

 

 

 

 

ベルは夢の中に居た。

 

青く茂る草原の中の小道を歩いている。緩やかな風が肌を撫でていた。

 

背の曲がった、やや丈の低い、けれどもしっかりと木の葉を湛えた木が、彼の前に現れた。

 

その奥に佇む、石造りの、小さな家も……。

 

(ここは)

 

ぼんやりと、夢の中のベルは思った……懐かしい場所だと。何故だろうか。

 

答えは明らかだ。彼は、この場所を知っているのだから。

 

(そうか)

 

彼は、小さな家の扉の前に立った。

 

(……家、だ。帰って来たんだった……長い旅路だったけど)

 

胸の中に安らぎが溢れ、同時に、全身を心地よい疲労感が包んだ。

 

(心配していただろうか)

 

それは、自分の生き方と切り離せない、ままならぬ悩み事だった。戦地へ征く事は、待つ者に対して、信じ耐える事だけを押し付ける傲慢に等しい。

 

しかし、だからこそ人間は、それを守るために、そこへ帰るために強く在れるのかもしれないと、彼は思うこともあった。

 

(会いたい)

 

逸る気持ちはもう抑え難かった。彼は、扉の把手を掴んで、押した。

 

陽の光が彼の影を家の中に落とした。質素だがしっかりした作りの家具の数々と、磨かれた化粧台の鏡が、ここに住む者の安穏たる営みを証明していた。

 

嗅ぎ慣れた匂いがする。自分の家の……自分が帰るべき場所の、自分の帰りを待つ者の匂いに、期せずため息が漏れた。

 

自分は、生きて帰って来られたのだ……。

 

(会って、触れたい……確かめたい)

 

後ろ手に扉を閉じるのも忘れて、奥に見える寝室へ向かうべく足を踏み出す。

 

(元気にしているだろうか。病気になったりしていなかっただろうか)

 

そうだ。

 

彼は、この小さな家に、待つ者を残していたのだ。

 

小さな家の、……ちっぽけで、脆く、そして、なにものにも代えがたい――――

 

(ああ、やっと……)

 

寝室の中から、影が覗いた。

 

そこには、彼がずっと追い求めていた、大切な――――

 

 

 

 

 

--

 

 

 

「ん……ん……」

 

ベルの意識が開けると、暖かい感触が手の中にあるのをおぼえた。

ベルは、不思議な夢を見た事だけを覚えていた。詳しくは思い出せないが、なにか、とても優しい、そして、今伝わる温度のように心休まる……。

そのぬくもりは、彼の寝床に頭を突っ伏しているヘスティアの手のひらから伝わるものだった。

黒いツインテールが床にだらりと私雪崩れているのが見えた。

 

「神様……」

 

「……?」

 

ぽそりとした呼びかけに対し、ヘスティアはもぞ、と頭を動かして、顔を上げた。ぼんやりとした目の光は、薄黒く汚れた下瞼のせいで殊更に知性のはたらきが鈍いような表情をつくりだしていた。

口を半開きにしたまま暫しして、ヘスティアは眼の焦点を合わせると、かっと瞼を開いた。

 

「ベル君っ!!!!」

 

「うあっ」

 

飛びつかれて抱きすくめられたのだ、とベルは視界が黒くなってから気付いた。

 

(や、柔らかい??)

 

何か、先ほどと違う幸せな感触が顔を包んでいるが、それが何なのか直接確かめるのは、今の体勢では不可能な事だった。

 

「君はっ、何て無茶を……君に、何かあったら、君は……ボクはねぇっ!君が、あんな姿で戻ってきて……ボクはねえ!!」

 

「むぐむぐ」

 

(い、息が、出来ない)

 

意味の取れぬ台詞を必死で紡ぎだすヘスティアは、今こそ自分が眷属の命を奪い去ろうとしている事に気づくのに、少し時間がかかった。

芳しく、心地良い拘束から解き放たれたベルの顔が真っ赤だったのは、酸欠のせいだけだっただろうか。それは、彼自身にしかわからない事だが……。

自分の醜態に気付いたヘスティアはすぐに眷属から離れると、少し顔を赤らめてから狼狽を隠すよう咳払いを一つして、そしてベルのことを睨みつけた。

 

「っ……、何を……考えているんだ君は!!ミノタウロスと戦っただって?馬鹿か!!死にたいのか!?」

 

「うう」

 

いかなる反論も出来なかった。素人冒険者の分際で調子に乗って第五階層にまで足を踏み入れるという暴挙に飽きたらず、更に十階層下に棲息する筈の闖入者と刃を交えるなど、狂気の沙汰と言う他ない。

そう、あの時の自分は何かが狂っていた。あの瞬間、ミノタウロスの蹄から逃れた幸運に感謝し、尻尾を巻いて遁走するのが最良の判断であったに違いないということは、年端もゆかぬ小僧ならずともわかる道理だろう。

それでも、戦わなくては、と思ったのだ。倒さなくては……倒すべきだ、これは逃げるべき天敵などではなく、屠るべき獲物なのだ!という、尋常の理を超えた使命に突き動かされ、ベルは立ち向かったのである。

しかし、自分の力で打ち勝つのを選んだ彼の蛮勇とは、アイズが駆けつけていなければ、怒り狂ったミノタウロスによって物言わぬ肉塊へと変えられる結末だけを残したに違いない。

ヘスティアはそれを含み置いたうえで、憤激を露わにしていた。

 

「いいか!こうして呑気にベッドの上で寝っ転がっていられるのも、偶然!偶然の産物なんだよ!完全な偶然!君の力で掴み取った安息なんかじゃない、あのヴァレン何某とかいう色目使いのいっけ好かない奴が気まぐれで助けてくれたから……」

 

「助け……そうだ神様、僕を助けてくれた人って」

 

「聞けィ!!」

 

ヘスティアの言葉で、ある事実に思い至る。ベルが覚えているのは、逆手で握った短刀を、渾身の力でミノタウロスの眼球に突き刺した感触までだった。

極限にまで研ぎ澄まされた五感は、ベルの認識する時間の流れを何倍にも引き伸ばしていた。全てが鈍重に動いて見え、突進してくるミノタウロスの纏う風の感触をつかむ事すら可能としていたのだ。

絶叫を上げたミノタウロスの凄まじい抵抗により身体が地を離れ……そこで、ベルの記憶は終わっていた。

……何故、自分は命を繋ぐことが出来たのか、という疑問は、やっとベルの頭の中に浮かんできた。が、ヘスティアにとってその疑問を口にされることは、逆鱗を更に撫で付けるのに等しい行いだったようだ。

まなじりを吊り上げていよいよヘスティアは地団駄を踏み始めた。

 

「ああ、まったく!まったく!君は全然わかってない!自分の力でどれだけやれるかを理解出来なくて、迷宮探索なんて出来ると思うのかっ!?大体あんな女、ちょっと背が高くて力があるからって見せつけるようにおぶって、君を寝かせてからもジロジロとねめつけて……うああ許せないな!思い出すだけで不快だ!」

 

「すいません、すいません神様……だから、落ち着いてください……」

 

「君はねぇ……君はねぇ……ふう、ふう……」

 

鼻息を荒らげて非難する女神の口上は後半になると急に意味不明の文言と成り果て、眷属による制止を誘った。

ぶんぶん振り回していた腕を降ろし、激しく肩で息をするヘスティア。ひとたび感情の勢いがおさまると、一気に彼女の肉体を疲労と酸欠が襲った。

やっと、落ち着いてくれた……と、ベルは内心安堵した。しかし、彼は、自分の愚かさをすぐに理解する。自分が何をしたのか、彼は未だに理解していなかったのである。

ヘスティアは、顔を俯かせて、震えだしていた。

 

「……君が目覚めなかったらと思って、もしも君が戻って来る事も叶わなかったらと思って……ボクがどんなに……どんなに……」

 

途切れる言葉が彼女の心情を雄弁に物語っていた。彼女が味わったベルを失うかもしれない恐怖の理由とは、彼がたった一人の眷属だからなのだろうか?それとも、別の理由があるのだろうか?

心のなかを読み取るすべなど持たないベルはしかし、そのいずれかであっても、いずれかでなかったのだとしても、仕えるべき主君を悲嘆に暮れさせるに足る正当性を自分が備えることなど決して無いということを知っていた。

小さな女神の、小さい握り拳が白んでいた。

 

「か……神様」

 

「バ、バカ、バカ、この大馬鹿……、し、死んで……死んだら、終わりなんだぞ……何もっ、残らないのに……何を得られるって……」

 

光るものが床に滴っているのが見えた時、ベルは自分の愚行の意味を真に知った。

どうあれ生きて戻って来れたんだから、それでいいじゃないか。なんて、帰りを待つ者にとって、これほど無責任な理屈などあろうか?

ベルはあの時確かに死んでいたのだ。一矢報いた、それだけの自己満足にすら浸れる事もなく……お人好しの何方かが現れなければ。

それを、目の前の女神に対する不実・最大級の侮辱と呼ばなければ、なんと形容するべきだと言うのか?

その神の最初の眷属は、レベル1にして、単身、無策無謀な戦いに挑み、屍を迷宮に喰われた。一月にも満たない時の間に。

そのような神のもとに恩寵を求む者など、現れはしない。誰もが求めてこの地へ集うのだ。富を、名を、色を。

選択という利己の本能を剥き出しにする行為とは、選ばれる側にとってどこまでも冷徹だという事実など、ベルは誰に言い聞かせられるでもなく知っている。そう、身を以って。

 

(……何も残らない)

 

そう、今の自分が死んでも、何も残らないのだ……。

目の前の彼女が、たった一人の、この寂れた神殿の住民となって残されるだけで……。

 

「神様……ごめんなさい。僕は……」

 

「……っ、……っ、……」

 

抑えた声が、嗚咽となってヘスティアの喉から漏れていた。その一拍一拍が、ベルに罪悪感を積み重ねていった。

 

「ううっ」

 

ヘスティアは、ベッドの上のベルの胴体に顔を埋めた。両手が、すがりつくように、掛布を掴んでいた。

ベルは震えにつかれる細い背を見ていた。

 

(僕がここに戻って来られなければ……神様も、あの時の僕と同じ気持ちを味わう事になるのか?)

 

たった一人の家族……ベルの、大好きだった祖父は、ある日唐突に居なくなった。

いつものようにちょっと出て行くだけの様子だった祖父の背は、陽を背負っていつもよりも大きく見えていたように思う。

誰よりも強い、どんな魔物にだって負けないと思っていた祖父は、それきりベルの人生から隔絶した存在となった。

いつものように出かけ、そして帰って来なかった……それが、ベルの知る、死別という究極の対人関係の形だった。

 

(目を覚ましても、誰も居ない、悪夢に魘されても……)

 

はじめは現実感の無さだけがあった。本当は生きているのではないか。あの祖父が死ぬなんて、きっとどこかで生きていて、今この瞬間にでも扉を開けて……などとさえ、ベルは思う節があった。

当たり前のように存在したものが無い事への違和感は、日を追い募った。一人で起床し、一人で食事をとり、一人で畑仕事をして、一人で湯に浸かり、一人で床につき……。

彼の暮らす家の何処にでも、どんな時にでも、祖父は居た。白い髪と髭を蓄えて、皺を浮かべて破顔し、雷のように怒る事もある、たった一人の家族だった。

それを自覚した夜、ベルは悪夢を見たのだ。

血と、炎と、狂気の虜となった自分が、恐ろしい何か、決して言い表す事の出来ない、名伏しがたい何かのもたらす恐怖に押し潰されるあの夢を――――

あの永遠の暗黒の中に置き去りにされるような恐怖こそが、ひとり暮らす少年の心をオラリオへの逃避に駆り立てた、などと言い換えても、さしたる誇張にあたらないだろう。

そして出会った目の前の小さな女神が持つ、暖炉の篝火のような暖かさによって、確かにベルは救われたのだ……。

 

「神様」

 

「……」

 

彼女を新たな家族と断言することが、ベルに出来るだろうか?出会って重ねた時間とは、確かに絆の強さの測りにもなるのだろう。しかし、そうでない場合もある筈だ。

ただ……ベルは、ヘスティアのことを祖父の代替品のように思いたくはなかった。大切な何かを欠いてしまった自分を満たす、ただの部品のようには……。

彼にそう思わせるようにさせるものこそが、眷属がたった一人だけのファミリアが確かに地上に存在する証だと言えた。

 

「約束します……神様。もう、こんな事にはならないって」

 

「…………」

 

ヘスティアは返事をしなかった。しかし、少年による神への宣誓は、途切れずに続いた。

 

「どんな事があっても、命を投げ出すような事はしません。次からは必ずここに、自分の足で、戻ってきます……必ず……」

 

そう言って、ベルは、硬くこわばったヘスティアの手に、自分の手のひらを重ねた。何か深い意図があるでもない行為だったが、そうすることが、この誓いを何よりも侵し難いものにするように、なんとなく思ったのだ。

それきり沈黙が暫し続いた。

 

「………………」

 

ひたすらに固く重い空隙は、ベルが犯した罪がそのまま形をとったかのようだった。何も無い重圧とはまさに、実体を持たずに人を縊り殺す力を持つ、神にしか赦せない至高の首枷と等しかった。

ベルはただ、耐える事しか出来なかった。己の主が、赦しを求める傲慢な眷属を受け入れる寛容を示してくれるように祈る姿は、見る者の居ない小さな部屋の中に佇んでいた。

ベルは、眷属の誓約とは違う、遥か古の時代の、今やお伽話の中にしか語られない、天上の存在だった頃の神が与える呪いの事を思い出していた。

祖父の持っていた多くの英雄譚の断片たち。その中には、輝かしい勝利と征服の詩のみならず、失敗と悲劇に終わる物語が同じだけ存在した。

ある意味ではオラリオという檻に縛られていると言える神々が冒険者に分け与えている力などとは桁の違ったその恩寵は、多くの人間に栄光と破滅をもたらした。

たとえ背負いきれない誉すら与えられたのだとしても、絶対者に対する裏切り、謀り、欺きがあれば、それらは死ですら償えない究極の罰を呼んだのだ。

 

(それが、神との誓約なんだ……)

 

未だにそのような絶対的な誓約がオラリオで行われているのかどうか、ベルの及び知る所ではないが、己が欠いていたのはそれを背負う覚悟であったのだろう、と彼は思っていた。

それが自分に示せる唯一の、主に対する忠誠の証だとも……。

 

「……バカだな」

 

ヘスティアが呟いて、顔を上げた。少し腫れた下瞼は、彼女の仄かな笑みに翳りを与えず、むしろその柔らかさを強調しているようでもあった。

 

「いずれは破られると解ってる約束を口にされて、信じる奴なんかいやしないよ、ベル君……」

 

「神様」

 

ヘスティアは自分の言動が矛盾している事を知っていた。眷属の無謀さを咎め、激しく動揺するいっぽうで、心の内ではその蛮勇に対する理解もあったのだ。

それが冒険者の性なのだろう。人として生まれ、何かを求め続け、時として身の丈に合わない強大な障害と相対し、取り返しのつかない失敗を経験し……そうやって、変わっていくのだ。

神と人は違うのだ……。

 

「……そこまで言わせるとは、意地悪が過ぎたかな、ボクも」

 

そうヘスティアは自嘲したつもりだったが、ベルにしてみれば、生意気な小僧のたわ言への、諦念を滲ませた台詞に聞こえた。

けれども反駁するだけのものをベルは持たなかった。この小さな女神の持つ言葉の重みを覆し、いかに自分が誠実で、賢く、強い人間であるかを声高に言ってのけるほどの厚顔さも。

打ちひしがれるベルに、ヘスティアは優しかった。

 

「反省しているみたいだし……許してあげるとしようか……今回だけ、だぞ!」

 

ヘスティアはそう言って、上体を起こして、少し崩れていた身形を整えた。いつもベルに見せる、幼い少女のようにしか思えない、あどけない笑顔を浮かべて。

 

「一日寝てたんだ、お腹だって空いてきたろ?そろそろ……」

 

そこまで言った所で、女神の細い胴体から、虫の鳴き声に似た小さな音が漏れ出た。部屋の空気が一気に弛緩した。

ベルが目を丸くしてるのを見て、ヘスティアの顔は真っ赤になった。

 

「わ、ど、どこかの誰かが起きるまでついててやったんだぞ!いいかっ、こんな世話焼きで素晴らしい神なんてオラリオ何処探したって居ないんだから、きちんと報いてくれよなっ!」

 

ヘスティアは腹の虫を必死でごまかしながら、慌ててキッチンへ向かった。小さな背に、ベルが手を伸ばした。

 

「あ、もう大丈夫ですから、準備は僕が」

 

「ああダメだ!寝てるんだ、いいな。特に後を引くような傷だったわけじゃないのは確かだが……今日はもう全休だ。わかったら大人しく待っているんだ」

 

眷属の義務も、首だけ振り返った主にそう捲し立てられては、果たせそうもなかった。ベルは小さく返事をして、ベッドの上で縮こまった。

そういえば、今身を預けているベッドも、本来は自分に所有権の無いものだ。これほどまで主に気を使わせてしまう事に、またベルは不甲斐なさを感じた。

 

(情けない)

 

思索に耽ると、キッチンから聞こえる物音も聞こえなくなった。

全ては、自分の無様への後悔だった。

 

(何も知らない、何も成せない、何も得られない……)

 

半身を覆う掛布を握りしめる。全ては、自分の弱さだ。そうであるからこそ弱く、弱いからこそ数々の不始末はベルの背にのしかかる。

 

(やがては、全てを失うのか)

 

一つの残酷な回答へと至ってしまうのに、時間は掛からなかった。名高き英雄達の影に積み上がる名も無き骸は、英雄が斃した敵だけではない。いま自分を押し潰そうとしている、もっとも恐ろしいものに喰い殺された者達でもあるのだと。

何かを求めて、何かから逃れて、何かを守ろうとして、果たせずに散る……何も残らずに。

そうでなければ、永遠に続く戦いに身を浸す道を歩くのだ。高みを目指して、心血注ぎ、栄光を目指し続ける日々を。

 

(強くなりたい……)

 

もはや、選んだ道から逃れる事などベルには出来なかった。それに、オラリオから離れたとしても、そこにある世界の理は変わらないだろう。

弱ければ喰われ何も残らないというもっとも原始的なルールは、この地上で暮らす全ての存在が縛られている絶対的な律だった。

戦いに勝つ強さ。知恵を働かせる強さ。欲しい物を得る強さ。そして、戦い続ける強さ。

全てが自分に足りないものであり、生きる為に必要なものだとベルは知った。

 

(違う、強くなければいけないんだ)

 

弱い自分が強者を目指している猶予など、与えられていないのだと、ベルは思う。

彼はもう、その背に神の名誉を預けられているのだから。

立ち止まっている暇も、項垂れている暇も無いのだ。それこそが、人が高みへ這い上がる事を出来なくさせる真の弱さではないか。

だから強くなければならない。更なる力を、栄光を、畏怖を求め続けなければならない。

それが、自分の選んだ道なのだ。

 

(神様の為にも……)

 

黙するベルの決意をはかり知る術など、ヘスティアは持たなかった。

愛する眷属を労る為の豪華な晩餐の準備に苦闘する彼女は、己の存在意義を発揮する時だと燃えていた。幾分、不器用なりにだけれども……。

ともかく、いつもより少しだけ量の多い夕食は、それから暫くして恙無く済まされたのである。

 

「それにしても、こんなに沢山、どうしたんですか?まさか、買ったんじゃ」

 

「君の事を話したら、有給ついでに、賄い代わりにくれたのさ……良い職場で助かったよ、本当に」

 

夕食の多くを占めていた、芋を揚げたファストフードの由来をベルは知った。

ベルは主と会話しながら、ベッドの上で上着を脱ぎ去りつつあった。それは勿論、彼が何らかの下世話な期待を抱いてやっている訳ではない。

 

「じゃあ、始めるよ……少しばかり痛くしてやろうかな、今回は……」

 

「お、お手柔らかに……」

 

うつ伏せになったベルの背中を見下ろして、ヘスティアが低い声で恫喝した。勿論、彼女にそんなつもりなど毛頭ないが、要らぬ気苦労を掛けさせてくれた少年への恨みは確かに晴らしたかった。

とまれ……ヘスティアは、針で指先に穿った傷から、赤い雫をベルの背に落とした。オラリオに降り立った一柱の女神の恩寵が、今まさに眷属の身に刻まれようとしていた。

血の一滴で、既に彼女によって書き記された神の文字の数々がゆらりと波紋を作り、矮小な人間(mortal)の運命を浮かび上がらせる。そう、彼の成した過去と、彼に開かれている未来の姿は、主にのみ見る事を許されている。それは、破られてはならないオラリオの律なのだ。

ヘスティアの人差し指が、ベルの背を這いまわる。生涯理解できないだろう言語によって運命が紡がれていく感触だけをベルは味わっていた。

オラリオのあまねく眷属たちは、こうして神の力を魂に刻みつけられ、新たな力と、己の辿る運命の標を得るのだ。迷宮を踏破するという使命を背負わされて……。

或いはそれを神に繋がれた呪いの鎖と思う者も、この都市に存在するのだろうか?ベルはその疑問の答えを知らない。

 

「……」

 

「神様?」

 

唐突に背を撫ぜる指の動きが止まった。今までにない主の挙動に眷属が反応するのは当然の事だったろう。

首だけ動かして、どうにかヘスティアの表情を窺おうとしたが、腰の上に陣取っている彼女の顔を見上げるのはベルの人体の構造上無理があった。

 

「神様……?」

 

仕方なく、ベルは呼び掛ける事しか出来ない。けれども主の返答は無かった。硬直した指の感触が、心なしかじりじりと熱を帯びてきているように錯覚する。それはベル自身の内から湧き出る正体のわからない不安への焦燥の産物なのか、それとも別の何かなのか、それすらベルには掴めない。

水を打ったような静寂。数分にも満たない空隙は、ベルにとってどこまでも永く感じられ……意を決して、彼は三度目の口を開いた。

 

「神様っ」

 

「んっ!?」

 

「うひっ!」

 

強めの呼び掛けで我を取り戻したヘスティアはびくりと身体を震わせ、その拍子にベルの背に思い切り指を滑らせた。

突然おかしな方向へと突っ切って行く感触に、ベルも驚いて素っ頓狂な声を上げてしまう。

はっ、とした様子で指を離したのだろう、とベルには手に取るようにわかった。先ほどの理解不能な有り様と違って。

 

「あ、いやいや、何でもない何でもない。いや少しね、君、いきなりこんなに成長してて……こりゃあ、ビックリするよ、誰だって」

 

「そんなに……ですか?」

 

「うん、うん」

 

ヘスティアは上ずり気味の声で取り繕っていた。それほどに……と、ベルは己の無謀な挑戦を思い返す。

神の刻印によって与えられる力とは、その人の歩んだ道筋の如何により決まる。長い時間を掛けて少しずつ高みを目指すも、命を賭して近道を選ぶも、その人の意思一つなのだ。

此度、主を驚嘆させたものは、図らずしも得られた数少ない実りなのかもしれない。

 

「……もっと危地を潜り抜ければ、近道が出来ると思っちゃいないだろうねぇ?」

 

「っ、ち、違いますよ!思いません!絶対!」

 

「ふぅん」

 

後頭部に投げかけられた痛烈な指摘、半ば図星を突いていたと言えるのかもしれないが……それでもベルは、先刻において行った誓約を昨日の今日で投げ棄てるほどの無責任さを持っていない。

どんな近道でも、途中で命果てれば何も成せないのと同じだ。時間を掛けて積み重ねなければ得られないものの多さを知るにはベルはまだ若かったが、それがどんな物であろうと失う時は一瞬だという事だけはよく知っていた。

ヘスティアはベッドから離れて、机の上でペンを走らせはじめる。

今しがた自分が刻んだ神の文字を、ベルでも読める人の文字に書き写しているのだ。

 

「まあ、いいさ……冒険をしなけりゃ、冒険者じゃないってのも、本当の事だ。あえて危険を冒す選択肢を全部潰してくれなんて、言わないよ」

 

「……」

 

含みのある言葉を、ベルは上着を着ながら、黙して受け止めた。

 

「ほら、おしまい。スゴイぞ。今までで一番の伸びしろだ」

 

手渡された紙を広げて、ベルは目を丸くした。なるほどヘスティアの言葉に偽りは無かった事を、全ての項目において満遍なく上昇している数字が証明している。

敏捷の伸びは、あれほど追い回された以上さもあろうと言うべきだが……。

 

「特に……力と、耐久が、一気に伸びたね。まあ、キツイのを一発貰ったようだからねぇ?」

 

「は、ははは」

 

痛がり屋を自覚する少年が打たれ強さに伸び悩むのはやはり、肉を切らせて骨を断つような戦いとは距離を置いていたからだろう。

ミノタウロスとの戦いは、今までとは全く違う戦い方をベルの身体に覚えさせたのかもしれない。

それを今後どう生かすかは、彼自身の意思が決めることだ。神の刻印は人の行く末までは定められないのだ。

 

「散々あれこれ言っておいてなんだけど、痛めつけられる喜びに目覚めてしまったというのなら、ボクも何も言えないが……」

 

「そんな事あるはず無いでしょうっ!」

 

刻印により強化される度合いにその人の性情がある程度左右する傾向も確かに無くはないが、ヘスティアの口にした危惧は少々誹謗じみており、ベルは精一杯否定した。

割りと必死な眷属の姿を見て、女神はケラケラと笑った。

 

「冗談、冗談。じゃ、今日はもうお休みだね……頑張って休んで、明日の英気を養いたまえよ?」

 

「……はい。ありがとうございます、神様」

 

「うん」

 

ヘスティアは椅子から立つと、いつもはベルの寝床になっているソファに身を沈めた。魔石灯がすう、と光を弱めていく。

広大な都市の片隅の、小さな神殿の、小さなファミリアは、眠りの時間を迎えていた。

 

「あの、やっぱり僕がそっちに」

 

「ベル君」

 

ベルはどうしても、居心地の悪さを感じていた。はっきり言うともう、自分の体の壮健さを充分に感じ取れていた。丸一日も独占しておいて更にもう一晩というのは……と、それほど豪放さの無い少年だから思うことだ。

けれども半身を起こした彼の言葉を、ヘスティアは遮った。

薄暗い部屋の中でも、その穏やかな笑顔は確かに認められた。

 

「おやすみ」

 

有無を言わせない迫力を持つ、などという類の仕草でもない。しかしそれでも、ベルは自分の理の無さを悟るのだった。

一瞬、言葉を失ってから、ベルも口を開いた。

 

「おやすみなさい、神様」

 

それを聞いたヘスティアは、にっこりと破顔し、横になった。

ツインテールが小さな肩と一緒に掛布の中に隠れるのを見て、ベルもベッドの中に身体を潜り込ませた。

目を閉じる。

闇が彼の視界を満たした。

そして、思う。

 

(もっと……)

 

もっと、強く在ろう。

今よりも、ずっと……。

こんなにも優しい主に報いる為にも……。

 

(必ず、ここへ帰る事が出来るように、強く……)

 

帰りを待つ者が居る。そう思うと、少年の胸の奥が暖かくなっていった。

 

(帰る場所を、守ってくれているひとが居るんだから……)

 

そう。もう、一人ではないのだ。

あの耐え難い虚無感に苛まれる事も、あのどうしようもなく恐ろしい夢を見る事も、もう無いのだ……。

じわりとした熱が彼の全身に行き渡る頃、ベルの意識は夢の中へと旅立っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そしてベルは、夢を見た。

 

 

大声で、自分は何かを叫んでいる。

 

 

松明を投げつける。それは、真っ赤に燃え広がる。目の前に広がる全てを、包み込んでいく。

 

 

それと一緒に、自分の後ろに付き従う多くの影が、いっせいに広がった。

 

 

影は、別の影を突き刺す。

 

 

影は、別の影を叩き潰す。

 

 

影は、更に火をくべ、更に影が濃く、大きく、強くなる。

 

 

もっと、

 

 

もっと、

 

 

もっと……。

 

 

自分の心が燃え盛る炎に魅せられていくのがわかる。

 

 

それは、全ての敵を滅ぼす力だった。

 

 

それは、誰もが目を奪われずにはいられない力だった。

 

 

それは、何者をもひれ伏させる力だった。

 

 

立ち塞がるものに、両手に携えた刃が振り下ろされ、炎よりも赤い生命の証が視界を満たしていく。

 

 

もっと……!

 

 

もっと……!

 

 

もっと……!!

 

 

果てなき行軍の末、遂に、その神殿の前に立った。

 

 

そうだ、この神殿の中に――――

 

 

『ダメだ。入るな。入ってはいけない。ここに入るな!!……』

 

 

しかし彼は警告を無視してその扉を蹴破り――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




・mortal
「死すべき(運命の)者」転じて「人間」の意味。TESシリーズのプレイヤーなら「定命の者」という訳でお馴染み。
神またはそれに準ずる超越者が人間を自らと対比した言い方。ネガティブな捉え方をすれば見下した言い方なのかもしれない。
GOWシリーズの神々は人間と自分達を同格だなんて思っちゃいないので、クレイトスは事ある毎にこう呼ばれる(そうでなけりゃ「spartan」)。
ダンまちの神々はどうなのかはわかりません……。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。