姉は…帰ってこなかった。
俺のもとへ戻ってきたのは、花柄の白いベルトがついた、可愛らしい時計だけだった。
『戻ってきた』というのも正確ではない。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
姉は仕事の関係か、時折、帰ってこない日があった。
1日、2日家を空けることは珍しくなかった。
だが、3日以上家を空けることは決してなかった。
きっと、まだまだガキだった俺のことを心配してのことだろう。
姉の誕生日から、一週間が経っていた。
姉を信じて待つ日々は限界を迎え、俺はたった1人、姉を探すための捜索を始めた。
幼いころから生まれ育ったこの杜王町。
姉と二人、小さな世界に生きてきた俺にとって、この町はやけに大きく感じた。
父や母がまだ生きていたころ、一緒に目にしていた田舎げな風景は、都市開発の影響ですっかり現代的に変化していた。
いい思い出など、ほとんどない町だった。
「どこに行ったんだ…姉さん」
姉が消えて、俺は杜王町を隅から隅まで舐めるように探し歩いた。
嫌だったが、親戚連中の家にも足を運んだ。
少なからず血のつながった人間だ。
少しは手を貸してくれるはずだと思っていた。
この悲しみを、共有してくれるのではないかと期待した。
だが、俺に浴びせられたのは、思いやりや同情といった感情が一切ない叔父の言葉だった。
「知るか…どうせ、男と一緒にこの町を出たんだろう。お前は捨てられたんだよッ!!」
殺してしまいたかった。
もう誰も頼りにしないと心に決めた。
何日も何日も、あてもなく、手がかりもなく探し続けた。
その間、俺の頭の中を叔父の言葉がぐるぐると回っていた。
『捨てられた』
姉が俺を捨てるはずがない、俺を裏切るはずがない。
そう信じていながらも、「もしかしたら」の可能性を否定しきれずにいた。
「それもいいさ。姉さんが幸せなら…幸せでさえいてくれれば」
そう思いはじめている自分もいた。
姉の手がかりを見つけたのはそんなときだった。
白皮のベルト、花柄の模様、小さな丸い文字盤。
姉に贈った時計だった。
時計屋の親父に、無理を言って掘ってもらった『M.K』という姉のイニシャルが、文字盤の裏に刻まれていた。
時計は暗い路地裏に、日の光を避けるようにして落ちていた。
白い皮のベルトには、小さな『焦げ跡』 がついていた。
まるで、近くでなにかが爆発したような……
俺はそこで確信した。
姉は何か事件に巻き込まれたに違いないと。
自分が捨てられたのではなかったという安堵感と、姉の安否が確かめられない不安の入り混じった複雑な感情が、俺の中に渦巻いた。
時計を持って警察に行った。
だが、警察は取りあってくれなかった。
「君ぃ~未成年だよねぇ? 保護者はいないのかな?」
「だからッ!その姉さんが俺の保護者ですッ!」
「ふーん、わかったよ。それじゃあとりあえず、その時計を預からせてもらえる?」
この若い警官からは、一切の正義が感じられなかった。
こいつに、やっと見つけた姉との繋がりを渡すわけにはいかなかった。
俺は無言で振り返る。
帰り際にその警官が同僚と話すのが聞こえた。
「チッ、『また』行方不明かよ」
「しかも若い少年少女ばかりだもんなぁ?」
「行方不明だなんて言っているが、きっと若い奴らはつまんねえこの町に見切りをつけて、さっさと出て行ってるんだろうよ」
「違いねぇ!」
そう言って笑う警官の顔を覚えて警察署を後にした。
『また』と言っていたのがいつまでも頭に引っかかった。
体力も、精神力も尽きかけていた。
魂の抜けた亡霊のように、杜王町をさまよった。
広い交差点にさしかかった時、俺は通行人とぶつかってそのまま倒れた。
「大丈夫かい?すまないね。考え事をしていたものだから」
俺にぶつかった男がスッと手を差し出して言った。
金髪のサラリーマン風の男だった。
「俺の方こそ、すみません…」
情けない声を絞り出して答えた。
ふと、男の顔を見ると、優しい言葉とは裏腹に、その表情には柔らかさはなかった。
視線は氷のように冷たく、血の通わない、まるで植物のような男だと思った。
『無視をして通り過ぎようとしたが、人の目があったから声をかけただけだ。ごく自然に。世間一般の人なら当然そうするように。通行人から(あいつ、ぶつかって少年を道路に転ばせておいて声もかけずに逃げやがった)なんて感情を抱かせないために声をかけただけ。ただ目立たないように。目立たないように』
そんな気持ちが、その男の表情から伝わってくるようだった。
「それじゃあ」
俺に聞こえるか聞こえないかくらいの声でそうつぶやくと、男は高そうな白いスーツのほこりをサッサッと払い、髑髏柄の刺繍が入ったネクタイを直して足早に歩き去った。
振り返り、去っていく男の方を見ると、早くも杜王町の風景に溶け込み、存在さえも影のように薄れていくその男に、言いようもない不気味さを感じた。
―――
穴倉のようなアパートの一室に帰ると、玄関先で倒れこんだ。
俺は泣いた。
世の中の冷たさに。
己の無力さに。
姉を失った喪失感に。
俺は哭いた。
それはほとんど叫びに近かった。
何日も歩き回って疲れた身体の、どこからそんな声が出るのかと思えるほどだった。
両親をなくしたときに枯れたと思っていた涙が、止めどなく溢れてきた。
姉の幸せを見届けたときに、流すはずの涙だった。
「きっと姉さんは殺されたんだ。もうこの世にはいないだろう」
根拠はなかったが、俺はその想像が現実であるだろうということを、心の最も深い本能的な部分で感じ取っていた。
―――
何時間経っただろう…
泣き疲れた頃、俺は背後に人の気配を感じた。
この気配が姉のものだったなら、どんなによかっただろう。
振り向く間もなく、俺の背中に激痛が走った。
俺の身体は、物々しい装飾がなされた『矢』 に貫かれていた。
静かな夜だった。
月には薄い雲がかかり、 明かりはなかった。
俺は自分を貫いた『矢』を握りながら、前のめりに倒れた。
倒れながら、俺を殺したヤツの顔を拝んでやろうと振り返った。
月が影に隠れていたせいで、顔は確認できなかった。
軍服に似た、変わった学生服を着た男だった。
男は、『弓』を持っていた。
何百年も前に作られたような古びた『弓』だった。
そして男は、夜よりも静かな口調で語り始めた。
「…ここ数日、お前のことを観察していたが、面白いヤツだ。野生の動物のように何日も休まずに歩き回ったと思えば、ヒステリックな女のように泣き叫ぶ」
男は持っている『弓』で、アパートの床をコツコツと鳴らしながら言った。
その音と、部屋の時計の秒針が進む音は正確に一致し、重なって部屋に響いた。
1秒のずれもないその音は、男の几帳面な性格を表しているようだった。
「かッはッ……」
この男は何故俺を観察していた?
俺を殺す理由は?
どうやってこの部屋に入った?
なにより…
こいつは姉の失踪と何か関係があるのか?
聞きたいことは山ほどあったが、喉の奥に鉄の味がする液体がこみ上げてきて、声にならなかった。
呼吸をするごとに、喉の奥がコポコポと鳴った。
俺に質問してきたのは、男の方だった。
「お前を突き動かす感情は何だ? そんなにボロボロになるまで駆け回った理由は? ぜひ聞いておきたいね」
これから死にゆく俺にそんなことを聞いてどうする。
そんなことを考えながら、俺は男に一矢報いようと、目の前にあった置時計を投げつけた。
力いっぱいに投げられた時計は、直線の軌道を描き、男の顔面に飛んでいった。
しかし、男の顔にぶつかる瞬間、見えない壁に阻まれたように男の足元に転がった。
転がった時計には、作り途中のパンケーキのように無数の小さな穴が空いていた。
何が起きたのか分からなかった。
だが俺には、今目の前で起こったことを冷静に分析する時間も、判断力も残っていないようだ。
視界がかすみ、全身から急激に体温が失われていくのを感じていた。
俺は、最後の力を振り絞り、おそらく人生最後であろう言葉を口にした。
「『順番』を守れ……ゴブッ……くそッタレ!人に…ものを尋ねたいんならなぁ…ガッ…」
言葉の節々に血を吐きながら言った。
それを聞いて、男は床を小突くのをピタリとやめた。
「フフフッ『順番を守れ』か、確かにな。そういう几帳面なところは気に入ったよ。うちの間抜けな弟とは大違いだ。ならばひとつだけ答えてやろう。お前は今、自分が狂った殺人鬼に殺されるとでも考えているんだろうが、そうじゃあない」
男は俺に近づくと、俺の胸に刺さった『矢』を乱暴に引き抜いた。
「がっああああぁぁぁッ!!」
『矢』が刺さっていたところから血が吹き出し、俺の意識は薄れていった。
「お前は『矢』に『選ばれた』んだよ、鞍骨倫吾。お前には『資格』があるということだ。目覚める頃には『力』を手にしていることだろう。何のためにその『力』を使うかはお前次第だが、俺の『目的』に役立つ『力』であることを願うよ。クックック……また、会おう」
男がそう言うのを、俺は遠のいていく意識の中で聞いた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
『夢』を見ていた。
姉がでてくる『夢』を。
これは『夢』だとわかる『夢』だった。
暗い小道を、幼い俺と姉が手をつないで歩いていた。
つないだ手には白い花柄の時計。
はじめは優しく手をとってくれた姉が、次第に足を早めて俺を置き去りにして行く。
「待って!」
姉は決して振り返らない。
まるで『振り返ってはいけない』とでも言うように。
その時の姉は、いったいどんな顔をしていたのだろう。
「待って、姉さんッ!」
姉は答えない。
俺は走って姉に追いつこうとした。
だが、追いついて姉の手をとると、その瞬間、姉は煙となって消えた。
戻りたい、優しい姉がいた頃に。
やり直したい、美しい姉と過ごした日々を。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
意識を取り戻した俺の顔には、乾いた涙の跡が残っていた。
『矢』が俺の体を貫いてから何日たっただろう…
俺は死んでいなかった。
目覚めて体をさすってみたが、胸には刺された跡すらなかった。
まさか、あの出来事は夢だったのだろうか。
…いや、夢ではない。
それだけは確信していた。
「また、会おう」
あの男はそう言っていたが、俺はあれから二度とあの男に会うことはなかった。
あの男を探し出して、報復してやろうとか、事情を聴きだしてやろうという気にもならなかった。
むしろ感謝していたくらいだ。
俺にはやらなくてはならないことができた。
姉が殺されたというなら、真相を突き止めなければならない。
復讐しなければならない。
大事なのは『順番』だ。
あの男のいう『力』とはこいつのことだろう。
目覚めた俺の体には、醜い『悪霊』が取り憑いていた。