父と母は、俺がまだガキの頃に事故で死んだ。
夫婦仲良くドライブしていた途中、飲酒運転をしていたトラックに突っ込まれたらしい。
両親が運転していた軽自動車は、大型トラックと大型トラックの間に車ごとはさまれて、薄い鉄の板に成り果てたそうだ。
警察が遺体を回収しようとしたが、どこまでが車の一部で、どこからが人間なのか、見分けもつかなかったという。
俺の家は決して裕福ではなく、親が俺に残してくれたものはほとんど無かった。
少しはあったらしいが、死肉に群がるハイエナのように、親戚の連中が喰い散らかした。
そのくせ、親戚連中には俺を育てる気はサラサラ無かった。
親戚中をたらい回しにされる…わけではなく、そもそも引き取りもしなかった。
両親の事故の日を境に、世界は、幼い俺が生きていくにはあまりに厳しいところとなった。
それでも俺が希望を失わずにいられたのは、姉の存在があったからだ。
鞍骨恵という名だった。
歳の離れた姉だった。
親の愛情はほとんど受けずに育った俺だが、「たぶん父さんが生きていたらこんな風に叱ったんだろう」、「母さんはこんな風に微笑んでくれただろう」そう思わせてくれた。
ときに父のように厳しく、ときに母のような愛情で包んでくれる。
そんな姉だった。
親戚の連中は、姉に俺のことを任せ、毎月微々たる生活費だけをよこした。
常識的に考えて、子どもがたった二人でこの世の中を生きていけるはずがない。
だが姉は、そんな状況に文句の一つも言わなかった。
きっと、欲にまみれた醜い大人たちに囲まれて生きるより、二人きりで生きたほうが正しい道を進むことだ思ったに違いない。
後で知った話だが、両親が二人でドライブへ出かけた日、「もうお姉ちゃんだから大丈夫」と言って留守番を申し出て、二人を送り出したのは姉だった。
姉は、責任を感じていたのかもしれない。
「もしあの時、わたしが二人を送り出さなければ…」
そんな無意味な仮定を繰り返し、自分自身を責めていたのかもしれない。
ともかく、姉は俺を一人で育てることを決めた。
当時、学生だった姉は、学校をやめ生活費を稼ぐために働いた。
今となっては、未成年の姉がどのように金を作っていたのかは定かではない。
もしかしたら、杜王町の…この町の闇に手を染めていたのかもしれない。
そんな可能性は考えたくもない。
だが、幼い俺にも、姉が自分の青春を削って俺を育ててくれていることくらいはわかった。
姉が自分の幸せを養分に変えて、俺に吸わせてくれていることくらいはわかった。
そのことを思うたび俺は、背中を這うような罪悪感にさいなまれたものだった。
だが、俺が姉に自分の幸せのために生きて欲しいと願うと、姉は決まって、『呪文』のようにこう言うのだった。
「大切なのは『順番』よ、倫吾。お姉ちゃんはあなたが幸せになってから、幸せになればいいのだから」
と。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
中学に上がる頃、姉は俺に小遣いを渡すようになった。
うちの家計に一切の余裕がないことは、誰の目から見ても明らかだった。
その日を暮らしていくのに、精一杯だった。
しかし、俺が受け取りを拒むと姉はそれを突っ返した。
こっそりと姉のもとに返したこともあったが、翌日には自分の財布に戻ってきていた。
「遊びざかりの男の子が、お小遣いくらいないと格好がつかないわよ」
姉は『例の呪文』のあとにそう続けた。
遊びざかりと言うなら、きっと姉の方がそうだったろう。
姉は贔屓目抜きにしても美しい容姿をしていた。
『愛を捉える』容姿をしていた。
言いよる男も少なくなかったに違いない。
姉が自分の人生を生きていたなら、そこには少なからず幸せがあったに違いない。
それに比べて俺はというと、遊ぶといっても周りに一緒につるんで遊ぼうと思えるような奴はいなかった。
どいつもこいつも俺や姉のような苦労をしているわけでもないくせに、いつも不平や不満を口にしていた。
やれ、学校の教師が気に入らないやら、先輩が厳しくて部活をバックレたいやら、将来的に勉強をする必要が感じられないやら。
俺にとっては、それらの悩みがとてつもなくくだらないことに感じられ、周りの連中を見下す要因となっていた。
だが、姉にそのことを言うと、フフフと笑い「それが普通よ」と優しく言った。
姉はどうやら、『普通』というやつの中に幸せがあると信じているようだった。
だから、俺にせめて『普通』の生活をさせようと一生懸命だったのだろう。
それから、俺は姉に心配をかけない程度に友達付き合いをするようになった。
ただ、姉に貰った小遣いはほとんど使わずにおいた。
俺には、ある野望があったからだ。
『普通』の中にある、ごくささやかな野望。
雪の降る季節、俺はその野望を実行に移した。
世間では、クリスマスイブと呼ばれる日はちょうど姉の誕生日だった。
俺は、貯めてあった小遣いを握りしめてイルミネーションきらめく街へと走った。
そうして、時計屋のガラスの扉を開くと、その時計屋のショーウィンドウに並ぶ、小さな腕時計を買った。
小さな丸い文字盤に、白い皮のベルト。そのベルトには可愛らしい花柄がプリントされている。
決して高いものではない。
だが、銀の夜に輝く月のように美しい姉には、雪解けの色のない水だけで育った可憐な花のような姉には似合いの時計だと思った。
その夜、俺は姉に時計を渡すタイミングを今か今かと待ちわびた。
姉はどんな顔をして喜ぶだろう。そのことで頭がいっぱいだった。
質素な夕食のあと、きれいに包装された箱を姉に渡した。
俺は姉の笑顔を想像していた。
だが俺が受けたのは、透き通るようにか細い腕の繰り出した平手打ちだった。
「倫吾!!あなたって人は!」
そう言いながら、姉の目から白い頬にかけてひとすじの涙がこぼれた。
姉の目は、「言ったでしょ倫吾!『順番』が大切なの!まずはあなたが幸せにならなくてはいけないの」、そう訴えかけているようだった。
その様子を見て、俺はとんでもない過ちを犯してしまったのではないかという気持ちになった。
だが、それは俺の杞憂だった。
姉は、とまどう俺の額にキスをして、それから俺のからだをゆっくりと抱きしめてくれた。
「ありがとう……倫吾」
姉は震える声で言った。
抱きしめられながら、俺はこれまで味わったことのない幸せを感じ、そして俺の野望が成功したことを確信した。
翌日、姉はまぶしい笑顔で出かけていった。
腕には可愛らしい花柄の時計。
陰りのないその笑顔を見て、俺は改めて姉のために何かしてあげられたことへの充実感に満たされた。
美しい姉がさらに輝いて見えた。
そしてそれが、俺が姉を見た最後の姿となった。