長い長い階段。
俺は、その一段一段を処刑台に上がる処刑人のように噛みしめながら登っていた。
そして、1番上までたどり着くと、高層ビルの屋上へと続く重い扉を開いた。
屋上から、見下ろすこの町は怪しく光って見えた。
「遅いぞ貴様。こんなところに呼び出しやがって」
そこには、一人の男が立っていた。
醜く太った男だった。
酒に溺れ、ギャンブルに狂い、妻や娘にまで見放された男の成れの果てだった。
俺や姉を見捨てた、叔父の姿だった。
こんな男と、俺やあの美しい姉が、たとえごくわずかだとしても血がつながっていると考えただけで吐き気がした。
とても、おぞましく、残酷な心になれた。
「……」
「何とか言いやがれクソガキがぁ! お前が、『姉が管理していた親の財産が見つかったので、相談に乗って欲しい』と言ったから、わざわざ来てやったんだ。嘘だったらぶっ殺すからなぁ!」
俺は黙って叔父の罵詈雑言を聞いていた。
『財産』?
もちろん嘘だ。そんなものがあるわけがない。
もしあったとしても、この男に相談する訳がない。
俺と姉にあんな仕打ちをしておきながら、この期に及んで自分を頼ってくるという発想ができるこの男のめでたい頭に、感心すら覚えた。
目の前の醜い男は、薄くなった頭をせわしく掻きむしりながらブツブツと何か言っている。
よく『人は見た目じゃない』だなんて言うが、俺はそうは思わない。
腐った果実が周りの新鮮な果実をも腐らせてしまうように、腐った心はそれを取り巻く外見へも影響を及ぼし、醜く変化させてしまうのだろうと考える。
こいつみたいなやつがいずれ犯罪者になる。
この男の本性を知っている者なら誰でもそう思うはずだ。
「クソッ! あの売女め! 俺には財産はもう無いといいながらやっぱり隠していやがったかッ!あんなに良くしてやったっていうのによお」
その言葉を聞いた瞬間、俺の目に黒い炎が宿った。
全く光の無い黒。
何もかもを焼き尽くしてしまうような炎。
それは、たとえどんなことが起ころうと、目的を遂行しようという意思の表れだった。
俺の心に宿る『漆黒の殺意』を意味していた。
「売女ってのは姉さんのことか?」
俺は感情のない声で淡々と呟いた。
「あぁん?今なんつった?」
「いやどうでもいい。俺にとって『時間』は限りのあるものではないが、貴様と同じ空間を過ごす時間ほど無駄なものはないからな」
そう言って、腕にした時計をみる。
壊れた時計の針は動かない。
俺は叔父に向かって全速力で突っ込んだ。
叔父の体はぐらりとバランスを失い、そのまま後方に引きずられる。
そして、俺は叔父もろとも高いビルの屋上から落下した。
「なッ!? 気が狂ったか? 俺と一緒に心中するつもりかぁぁぁぁぁぁ!」
落下しながら、俺の腕を血が出るほど握りしめ唸る叔父に、俺はそっと囁いた。
「あんたは『運命』を信じるか?」
そして、俺は自分に取り憑いた『悪霊』の名を。
俺が名付けた名を叫んだ。
【ワン・ホット・ミニット】
◇◆◇◆◇◆◇◆
誰しも、一度は考えたことがあるはずだ。
「あの頃に戻りたい」
「もう一度やり直したい」
と。
自分の現在に満足していないとき、あるいは、 自分が直面した悲惨な『運命』を受け入れきれないとき。
そんなときに、過去に戻って昔の自分に忠告してやりたいと思ったことが、一度はあるはずだ。
自分に降りかかる残酷な未来を知っていれば、その『運命』立ち向かい、乗り越えることができるかもしれない。
未来を変えられるかもしれない。
俺が矢に貫かれて手にした『力』。
俺に取り憑いた『悪霊』がもたらしたのは『時間を戻す能力』だった。
俺以外の人間は、時を戻されたことにも気付かない。
『俺だけ』がこれから起こる『運命』を知って、その記憶をもったまま、『やり直す』ことができる。
だが、制約もある。
戻せる時間は最長で『1分』。
1分以内なら戻せる時間は自由がきくが、それ以上は戻せない。
それに、時を連続で戻すには、戻した分だけの間隔をあけなくてはならない。
つまり、『同じ時を何度も何度も繰り返す』ことはできるが、この能力を使って『遠い過去に戻る』ことはできないというわけだ。
そう、あの頃に戻ることはできない…。
『1分』だけ。
【ワン・ホット・ミニット】
俺だけの熱い時間。
『1分』とはいえ、これから起きる『運命』を知るということは、それを『乗り越える』キッカケとなる。
『運命』を知る者と、知らない者ではどんな結末を迎えるのだろう。
俺は再び、屋上へと続く鈍色の重い扉を開けた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「遅いぞ、貴様。こんなところに呼び出しやがって」
叔父は、さっきと一言一句変わらないセリフを吐いた。
まあ『未来』だったことを『さっき』というのもおかしな話だが。
俺は、叔父にもう一度問う。
「あんたは『運命』を信じるか?」
「何の話だぁ?」
「『運命』ってやつは大きな流れだ。それを乗り越えるのはちょっとやそっとじゃいかない。例えば、割れる『運命』にある皿は必ず割れる。つまづいた拍子に落として割れるのか、子どもが親の気を引くためにわざと割るのか、それはわからない。だが、割れるという『運命』は変わらない。その皿が運命を乗り越えない限りなッ!」
「一体なに言ってやがる? とうとうイカレたか?」
俺は、腕にした小さな時計にそっと触れた。
「俺は、これから起こる『運命』を知っているッ! あんたは知らないッ! さぁ、あんたは『運命』を乗り越えることができるかなッ?」
叔父は、懐からギラつく刃物を取り出した。
「やっぱり、こんなことだろうと思ったぜ! 貴様の頭が狂ったかどうかには興味はねぇが、つまり『財産』の話は嘘だったってわけだッ! ぶっ殺してやるッ!」
そう言って、叔父が俺のところへ走り出そうとした瞬間、ビルの屋上をさらう突風が吹いた。
叔父は風に足を取られ、屋上から『一人で』落ちていく。
「なッ!?」
落ちていく男を見ながら、呟く。
「ビルから落ちる『運命』の人間は必ず落ちる。『運命』を乗り越えない限り。たとえ、方法や過程が違ったとしても…な。やっぱり、あんたは『乗り越え』られなかったな」
【ワン・ホット・ミニット】
叔父が落ちるのを確認して、俺は再び能力を発動させた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ビルの屋上へ続く鈍色のドア。
…が、しかし、『今回』はそのドアを開けない。
俺が、屋上へ行こうが行くまいが、あの男がビルから落ちる『運命』は変わらない。
きっと、自分が死ぬ理由もわからないまま、あの男は死ぬだろう。
『運命』とは大きな流れだ。
「あれ?鞍骨じゃねーか。どうしたこんなところで」
ビルの前で、クラスメイトに声をかけられる。
小学校から同じクラスで、よくつるんでいるやつだ。
ただ、特別仲がいいというわけではなかった。
会話を合わせて気の合うふりをしたり、時間が合えば一緒に飯を食べに行ったり。
そんな、普通の関係だった。
こいつがこの場所を通りかかったことは単なる『偶然』に過ぎないが、俺はこいつがここを通りかかることを知っていた。
『繰り返す1分間』の中で、見ていたからだ。
この偶然は利用させてもらう。
「やあ、お前こそどうした?これからどこかへ行くのか?」
俺は、いかにも驚いたという感じで答えてみせた。
「今からクラスの連中とファミレスで飯でも食おうって話になっていて。お前も来るか?」
「ああ…付き合おう」
これで、俺にはアリバイもできた。
俺達が歩き出したのに遅れて、後方でドスッという大きな音と、女性の大げさな悲鳴が聞こえた。
クラスメイトは振り向いて「何だ?」という顔をしたが、すぐに再び歩き出した。
「なんだったんだろうな。今の」
「さあな、ビルからなにか落ちてきたんじゃないか?この街のゴミが詰まったゴミ袋か何かが」
他愛もない会話をしながら、俺達はファミレスへ向かった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
翌日の地方新聞の隅に、小さな記事がのっていた。
『会社員、借金を苦にビルから飛び降り自殺か?』