彼女と出会ったのは、おそらくもっと前なのだろうけど、その日その時になって初めて俺は彼女を、認識することになった。
「ナオちゃん」
俺は彼女にいきなりその呼び名で呼ばれることになる。
この街に住んで8年。初めて言われた呼び名だった。
俺は別に不快だとか恥ずかしいとは思わず、ただ懐かしいと感じた。
歯車。
回り始めた歯車は次の歯車へと連鎖をし、また一つの巡り合わせとなって動き始める。
東條希。
彼女の歯車は、中でも重要な軸となって連結し、幾つもの歯車を回すことになる。
俺は、そんな大事な人のことをずっと忘れてしまっていたわけなのだけれど、思い出した時には既に俺の歯車は、彼女の歯車に硬く噛み合わされ、強く回されていた。
回り始める。回り始めたらもう、止まらない。
やがて何かが音を立てて壊れるまで。
@@@
それは、日曜日の休日のよく晴れた朝のことだった。
俺は犬を連れて、犬に連れられて、どちらが引っ張り引っ張られるでもなく、散歩道である近所の神社へとやってきた。
神田明神と呼ばれる、この街の高台に建てられた神社だ。
壁の様な階段を俺はこいつと登り、朝の陽光が射す目覚めたばかりの街を、ほんの少しだけ高い所から見下ろした。
早朝の湿り気を含んだ空気は厳かに境内を包み込み、鳥の囀りと参道を箒で穿く音だけが心地よく耳を通り抜けた。
浸るという程でもないものの、知ってか知らずか俺に繋がれた犬もここへ来ると酷く落ちついた。
どんなに夜更かしをしてゲームや読書に没頭しようとも、休日は決まって朝早く目を覚まし、俺はここにきた。
少し経てば街はあっと言う間に騒がしくなってしまうが、だからこそこの僅かな静寂の時間が好きだった。
「…………」
しばらくすると「わん」と満足して犬がこっちを見て吠え、俺は「あぁ」と返事をする。
それが散歩終了の合図だった。いつもなら。
けれど、今日に限ってこれが始まりの合図だったのかも知れない。
振り返る。
女性。巫女装束。箒。
「おはようさんです」と少し変わった言い方でその人は言った。
だけど初めてそう言われたのは随分前のことで、慣れてしまっていた。
「おはようございます……」と俺は挨拶を交わした。
ただずっとそうしてきたから、今更になってその先があるだなんて思いもしていなかった。
俺は、彼女に呼び止められた。
「キミ、間違ってたら御免な。もしかして音ノ木坂学院の一年生と違う?」
「え?」
「あれ? 気のせいやったかな?」
と
声とは裏腹に彼女の表情は大人びていて、大人な女性にも見えたし、しかし雰囲気はほんわかな女の子にも見えた。
不思議な感じがした。
一本に結われた腰まで伸びる長い髪は清楚で、でも白衣の上からでも分かる程の胸元の膨らみが巫女という神聖さと生々しさが混ざり合い、
(俺は今、一体何と会話をしているんだろう)と心の中で本気でそう思った。
俺は先ほどの問いかけに「そうです」と答えた。答えて、よく分からない状況に緊張する。
「やっぱりそうなんやね。音ノ木に男の子が来るなんて珍しいから顔覚えてたんよ」と彼女は言う。
彼女も音ノ木坂学院に通う生徒ということだろうか。
俺は必死に目線を下げない様に耐える。
かと言って彼女の顔を見続けるなど俺には不可能で横に、ずらす。斜め下。犬と目が合う。
「ウチ、三年の東條希言うんよ」
三年生。通りで。緊張感はさらに増す。もうどうしていいのか分からない。
俺は、犬に向かって俺の名前を名乗る。
犬が「わん」と返事をする。少しだけ、冷静さを取り戻した。
彼女からの言葉は無い。彼女を、東條希と言う二つ先輩の顔を少し見る。
すると彼女は、大きく目を見開いていた。何がおかしかったんだろうか、と思った。ただ自分の名前を言っただけだったのに。
彼女の目尻はよく垂れていて、そしてくっきりとした二重まぶたをしていた。
彼女は約十秒もの間、向こうの世界に行ってしまったかの様に固まっていた。
「あの……どうしたんですか?」と訊く。
「……ナオちゃん」と彼女は言った。
「え?」
「……あっ、ほらキミ一年生やん? 休日はよくここに来てくれてるみたいやし、それなら愛称でも付けて呼んであげよう思ったんよ」
「……そうですか」と俺は言う。
二つも学年が上の先輩だから、多少納得いかずとも俺は仕方なくうなずいた。
「犬のお散歩ってことは、住んでるのはこの辺なん?」
「すぐそこ……です」と答える。
「そっか。ウチも近いんよ。学校も同じやし、これも何かの御縁なのかもしれんね。もしよかったら仲良うしよな?」
と彼女は言った。
「は、はい……」と返事をしてみるものの、やっぱり腑に落ちない。
あまりに突然で、緊張して、意味がわからなくなっているのかもしれない。
それは多分、ずっとただここで挨拶を交わしていただけの関係だったからだと思った。
「ほな、まだお手伝いの途中やから、ウチ行かなダメやけど、ちゃんとまた来るんよ? 恥ずかしなって来なかったりしたらウチ承知せえへんからね」
と言った。続けて「ウチ、生徒副会長やし」と意味深な言い方で悪戯そうな笑みをした。
とても、印象的な笑顔だった。
「ほなナオちゃんまたなー」と去って行く彼女に俺は「あっ……はい、東條先輩」と挨拶をすると、彼女はほんの一瞬だけ物悲しそうな表情をしたが、やっぱりニヒッとした笑顔で去り、気のせいかもしれなかった。
ありがとうございました。