立場が逆転し、地面に仰向けに倒れ込んだ麦野に、上条は馬乗りになって右手で肩を掴んだ。
腫れ上がった顔に笑みを浮かべ、麦野は演算は出来るが能力が発動出来ないことに内心で舌打ちをしながら、上条に向かって挑発するように言う。
「はっ、倒れた女を躊躇なく馬乗りで押さえつけるとか、がっついてるなぁ童貞は、猿並みだな」
「悪いが、こっちも時間がないんだ。さっさと本題に入ろう」
上条は麦野の戯言に取り合わず、まっすぐ見据えて問いかける。
「今日の実験はどこで行われる?――
その上条の様子に、麦野は笑みを引っ込めて、問い返す。
「さっき言ってたお友達ってのは、第一位の事か?」
「……ああ」
上条は麦野の言葉に、自身の心の内を伝えようと吐き出すように答える。
「……俺は、
「――はっ」
上条の絞り出すような言葉に、麦野はこらえきれないとばかりに笑みを漏らす。
そして――
「ははははははははっははははっはははははははっはははははははははっははは」
麦野は笑う。狂ったように、壊れたように哄笑する。
さすがの上条も、自分の大事な思いを馬鹿にされたように感じ、声に怒気が混じる。
「………………何がおかしい?」
思わず麦野の肩を掴む右手の力が強くなる。
だが、麦野はそれに対して顔を顰めることすらせずに、見下ろされている立場でも構わず、上条を見下すように言う。
「ふざけてんじゃねぇよ、オナニー野郎」
上条はその言葉に頭が真っ白になる。
「な――」
「テメーの本心はそれじゃねぇだろうが。第一位を助けるとか、この実験を止めるとか、クローン連中を救うとか、そんなのは全部詭弁だろうが」
「なっ!? ふざけんな、そんなわけ――」
「お前のそれは、全部テメーの自己満の為だろうが?」
上条の吐き出しかけた言葉は、麦野のその侮蔑したような笑みと言葉に、完全に塞き止められた。
「気持ちいい
「違うッ!」
「違わねぇよ。お前のそれはただの自己満だ。お前の理想の世界を作るために、お前の
「違うッ! 違うッ!」
違う。断じて違う。
俺は、この世界をあの世界に少しでも近づけたいだけなんだ。
あの、事件も、失恋も、借金もない、誰の涙も、どんな悲劇も存在しない、あの黄金色の誰もが『しあわせな世界』に。
そうすれば、みんな幸せで、みんな笑ってて、誰も泣いてなくて、そんなハッピーエンドはないだろう?
だから、だから俺は――
「お前は私よりも――誰よりも狂ってるよ」
上条は燃えるような瞳で麦野を睨み付ける。
だが麦野は、上条を見下すような、侮蔑するような――哀れむような、瞳を止めない。
上条はポケットの中から取り出し、あの発火装置を左手に握った。
銀の尖った先端を下に、持ち手を手甲に血管が浮かび上がるほどに強く、固く握り締める。
「自分が歪んでることに気付いているくせに、必死に気づかないふりして正当化する。すでに後戻り出来ねぇレベルでぶっ壊れてやがるくせに、何の変哲もない顔で笑いやがる。その綺麗で、素敵で、真っ白な
「………………黙れ」
「本当に――」
麦野はそこで、挑発的な笑みを止めて、本当にかわいそうなものを見るように、目を細めた。
見ていられないと、哀れむように。
「――救えねぇ野郎だ」
その言葉で、上条の視界は真っ白に染まり、音が消えた。
必死に塞き止めていた何かが決壊し、必死に閉じ込めていた何かがこじ開けられた気がした。
「うわぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!」
上条は左手を振り上げた。
その尖った銀の先端が、照明を受けて光る。
麦野は眩しそうに目を細めたが、身動ぎ一つしなかった。
上条は涙を流しながら、その凶器を持った左手を振り下ろす。
触れられたくない部分を、必死で守るように。
認めたくない現実を否定し、心地よい
その尖った銀の先端を――無抵抗に横たわる麦野沈利に向けて、渾身の力で振り下ろした。
×××
ガキンッ! と、その銀の先端が通路の金属の床に突き刺さって折れるのと、上条の携帯が震えるのは、ほぼ同時だった。
「…………」
「…………はぁ…………はぁ…………はぁ………………」
上条は顔を俯かせて荒い息を吐く。麦野はそんな上条をただ無表情に見上げていた。
しばし両者沈黙し、ただ携帯の振動音だけが響く。
上条は、ゆっくりと携帯に手を伸ばした。
「…………ああ、俺だ。…………ああ。わかった、よくやった。………………ありがとう。……すぐ、そっちに向かう」
上条は通話を切り、ダランと両手を揺らす。
そして、俯いたまま、麦野と顔を合わせないまま、彼女の肩を掴んでいた右手を放し、麦野の身体からゆっくりと立ち上がった。
――そして、ポツリと、何かを呟く。
そのまま上条は、ゆっくりと、ふらふらと、人一人分の幅の通路を出口に向かって進む。
麦野に背を向けたまま、一度も振り返ることなく、彼女の前から遠ざかる。
「…………」
麦野は、ゆっくりと立ち上がると、自身に背中を向けたままフラフラと遠ざかっている上条の背中を凝視し――自身の周囲に白球を浮かべる。
そして、その細く長い指を、上条の背中に向けて――
「…………」
――そのまま、上条の姿が見えなくなるのを見送った。
「…………チッ」
麦野は懐から携帯を取り出し、電話を掛ける。
『――もしもし、麦野? 絹旗です』
「ああ、私。アイツに連絡しておいて。
『…………超、了解です』
絹旗も麦野との付き合いは長い。
あえて麦野が撃退という言葉を選んだ理由を、彼女も察しているのだろう。
察しているが故に、そこに触れずに“仕事”の話を続ける。
『――こっちの移送準備も完了しました。……麦野はどうします?』
「……ああ、ちょっと疲れたからアンタ達だけで進めていいわよ。あとはダミーの研究所からさらにダミーの研究所に移送するだけでしょう?」
『……わかりました』
そこで仕事の話は終了したが、なぜか絹旗は通話を切らない。
その理由を察した麦野は大きく溜め息を吐く。
『……あ、あの、麦「――絹旗」』
そこで麦野は、声色を鋭く変えて、絹旗に釘を刺す。
「今日のことは――いいえ、“上条当麻”のことは忘れなさい。いいわね」
『…………』
「アイツと関わると、確実に“不幸”になる。――あれは、そんな
麦野は、そうはっきりと言い切った。
電話口の向こうの少女は、しばらく沈黙すると、やがて消え入りそうな声で、泣きそうな少女のように『……はい』と漏らし、通話を切った。
麦野は携帯を仕舞うと、上条が出ていった通路の方を見遣る。
小さい背中だった。
今にも折れてしまいそうな、砂の城のようにさらさらと崩れてしまいそうな、そんな背中だった。
――友達を救い、学園都市の闇をぶっ殺す為だ!
――
――うわぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!
救えない少年だった。
親船派の上条当麻といえば、すでに学園都市の裏の世界でも、それなりに名が通っている。
裏の世界にも首を突っ込んでくる
にも関わらず、まだ高校生にもなっていない中学生の少年が、
言ってのけて、しまえる。それは明らかに異常なことだ。
確かに闇の世界には、上条よりも幼い少年少女はうじゃうじゃと存在する。絹旗もその一人だし、この実験の関係者の第三位も、上条の仲間の第五位も――そして、奴が救うと言った第一位も、確か上条と変わらない歳のはずだ。
どいつもこいつも碌な目に遭っておらず、多かれ少なかれ、歪み、壊れ、狂っている。
それがこの街――学園都市だ。
だが、そんな街の暗部で生きてきた麦野でも、あれほどの壊れ者は見たことがない。
一体どんな悲惨な目に遭えば、あんな風に盛大に、あんな風に徹底的に――
『俺は、ただ……悔しいだけなんだよ』
――あんな風に、優しく狂えることが出来るんだろう。
少年は呟いた。
ただ悔しいんだと、泣きそうな顔を浮かべながら、ただ一言、そう呟いた。
何が悔しいのかは分からない。少年がどんな目に遭ってああなり、ああなってしまい、あんな風に壊れてしまったのかなど想像もつかない。
だが、それでも少年は、戦っている。
歪んでしまっても、壊れてしまっても、狂ってしまっても。
それでも少年は、ただ『みんなのしあわせ』の為に、止まることなく戦い続けている。
絹旗と戦い、フレンダと戦い、そして
ボロボロの身体で、フラフラの足取りで、壊れた少年はそれでも向かった。
救うべき友達が、敵として立ち塞がる――学園都市第一位が待ち構える、新たな戦場に。
「――はっ、気持ち悪ぃ」
気持ち悪い。
善性過ぎて気持ち悪い。善行過ぎて気持ち悪い。
なんて歪んだ、正義のヒーローなんだ。
なんて救えない、正義のヒーローなんだ。
あんなのと関わってしまったら、確実に皆が不幸になる。
誰かの幸せの為に戦っているヒーローが、新たな不幸を生み出し続ける――。
麦野は笑う。その皮肉を嘲笑うかのように、上条当麻が出ていった、照明が心許ない明かりを照らす出口に向かって。
「……精々無様に足掻くといいわ。――学園都市の闇は、アンタみたいなやつが祓いきれるほど薄くない」
あんな危ういヒーローが打倒できるほど、学園都市の絶望は温くない。
だが、それでもあの少年は立ち向かい続けるのだろうと、麦野はなんとなく思った。
何度負けようと、何度裏切られようと、何度繰り返そうと、何度でも、何度でも立ち上がって、立ち向かって――そして、傷つき、壊れていくのだろうと。
もはや、取り返しがつかないほどに壊れているのに。
壊れているからこそ、まるで古びたレコードのように、何度も同じことを繰り返す。
「救えねぇ野郎だ」
麦野は――嘲笑するように吐き捨てる。
そしてそのまま、上条が出ていったのとはまた別の出口に向かって、明かりから背を向けるように、悠然と歩みを進めるのだった。
暗く、昏い、闇の中へ。上条とはまったく違う、ヒールを鳴らした力強い足取りで、
望むところだと、言わんばかりに。
闇が、暴かれる。
歪んだヒーローの、抱える闇が。
それでも、ヒーローは、戦い続ける。
すでに止まれない程、壊れてしまっているから。
もう彼には、それしかないから。