東方穿孔羊   作:ほりごたつ

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第六十九話 あゝ古い神よ、新古の地にて

 片田舎というほど廃れてはいない。

 けれど発展した大都会と言い切れるような場所でもない。

 暮らす人々も多くも少なくもなく、特筆すべき物など未だ残る雄大な自然くらいしかない。言うなれば都会と田舎の境目、境界線のような立ち位置がこの町であり、そんな町並みに溶け込み今や忘れ去られようとしている場所がある。

 周囲の立地も海には面していないかわりに険しい山に囲まれた谷間の盆地で、人が居着くには些か不便な土地ではあるが、この国の中央辺りに位置したこの地は古くから人の往来が多くあり、それ故住まう者もそこそこにいた。

 何もないような場所になぜ人が居着くのか?

 それは訪れる人々にも居を構える人々にも目的というか目当てがあったからだ。来訪者や住人それぞれが目当てにしたソレは偉大な神の御力。昔々の人々が崇め奉り、その御威光を求めた相手がこの地にいたからだ。

 それがこの地に建つ社の裏の祭神様。

 廃れかけた神社で今一人の妖怪と対峙している古い神、洩矢諏訪子である。

 

 人が神から離れ科学を信仰し始めた今でこそ『忘れられたモノ』『忘れられかけているモノ』程度の存在に成り下がり、この地の語り部が語る内の一柱程度の力しか持ち合わせていないが、遠き過去にはこの地を恐ろしい力で纏め治めていた神様だ。大元はこの地の自然より発した自然霊だとか、自然物に宿っている精霊が力を得た者だとか、色々な話があるようだが現在の彼女は土着の神の頂点として在り、祟り神として消えかけている状態である。

 大半の力を失い消えていくのを待つだけ、そんな状態にある神様だが、今晩見られるその御姿は久しく見せていなかったかつての在り方、土着神の頂点らしい恐れに満ちた有り様となっていた。

 

 こうなった原因は前述した妖怪、恐れられる神がその畏れを現し成しても焦りを見せない女のせいだ。

 神遊びの始まり、それを告げた諏訪子の柏手(かしわで)を聞いても動かない。社で語らう二柱に姿を見せてから同じ姿勢のまま、日傘の柄を回しながら。時折扇で髪をなびかせながら。高く立派な鳥居に腰を降ろしたまま動かない八雲紫のせいで恐ろしい神としての姿を再度見せていた。

 その態度や表情、立ち位置から、高慢な者で気に食わない、偉大な神として名を馳せた我らに対して不届きな姿勢を貫いたままで気に入らない。と、洩矢の祭神が顔に出すには十二分な姿のままで紫は笑っているだけであった。

 

 そんな笑む妖怪に神の一手が迫る。

 語らうだけにあった静かな夜を揺らすように、地上より伸びる二本の腕足が鳥居の上で動きを見せない紫に向かって伸びる。先に妖怪少女を襲ったのは腕。巨人の腕と呼んで間違いないサイズの両腕が紫目掛けて打ち下ろされる。紫の座る鳥居もぶち抜いて境内の石畳すらも瓦礫に戻す、そんな勢いの見られる両手が不届き者を叩かんとする‥‥が、襲われる妖怪は驚きもせず顔色も変えず、近づく平手を見上げ口を開くだけであった。

 

「ご立派な手の平ですわね。これほど大きなモノを操る余裕がおありとは、消えかけの神だとは思えませんわ」

「好きに言うがいいさ。その口いつまで聞いていられるのか、私が見聞してやるよ!」

 

 紫が煽りのような物言いを呟き諏訪子が返答する。

 互いに言い返すが、今まさに潰されかけている紫の方が口にした余裕を持っていると、二人の顔色から伺い知れた。方や未だ存在したままで扇の奥で嘲笑う者。方や新たに増える事はなくなった貯金をはたいてどうにか神らしく見せてい者なのだ、本当に余裕があるのはどちらなのか言わずとも知れるだろう。

 そうして神を嘲笑う者がニィと頬を緩め、近く大きく見えている手長の平手を見据えて眼前に扇をかざす。迫ってくる巨人の掌と合わせるように伸ばすとそのまま軽く空を撫でた。すると現れる二対のリボン、宙に浮く二対の紐が夜風に揺れると空が割れ、そこだけに異様な空間が広がっていく。開いたスキマを見つめ一瞬目を細める諏訪子だったがそれでも手長の勢いは緩めず、振り上げた力のままに紫を打ち滅ぼす‥‥つもりが、紫の扇がツィと動かされるだけで、地を揺らすはずだった神の一手は開かれた裂け目へと消えていった。

 

 手長が消えて一瞬静まる境内、だが攻め立てる側の気概が鎮まる気配はない。攻め手を失った神が静寂を打ち消すように再度手を合わせる、響いた神の両手に動かされるのはボヤケた輪郭と透ける肌をした足。先に消えた手長様に同じく、足長様も紫に向かい歩を進めた。

 透けてぼやける実体の無い足が地を蹴る。

 石畳が軋み揺れ響く。

 そのまま踏み潰さんと高く上げられた足が鳥居諸共紫を踏み抜こうと降ろされる……

 

――けれど紫は動かなかった――

 こちらも変わらず笑うだけ。

 扇で笑みを隠したままで、落ちてくる足の裏を眺め、笑むだけだ。 

 

「神と争いその余裕、益々気に入らん」

 

 笑う少女に発せられる神からの託宣だが、紫にはありがたい託宣というより気にかける必要のない御託にしか聞こえていないようだ。扇の奥で薄まる瞳、淡く輝く紫の瞳が見えなくなりそうなほど細まる。神に攻められど変えない、変わらない態度に表情。

 対峙する諏訪子が吐き捨てたようにその顔からは確かに余裕が感じられる。それは紫のよく見せる胡散臭い笑顔であり諏訪子には嘲笑う表情としか感じ取りようがないが、そう見えても当然だろう、紫の笑みは余裕やゆとりからのものではない。

 笑む理由は只々可笑しいから。

 かつては神として王として、一国を収め土地の眷属をも服従させて君臨した洩矢神が突然訪れた自分に対し攻撃するも無駄に終わる姿が滑稽に映るから、どれも届かず手をこまねいている姿が酷く滑稽で可笑しいからだ。

 

「余裕と仰られましたが、何か思い違いをなさっておいでね」

「思い違い? 妖怪風情が何を言うのか、思い上がりの間違いだろう?」

 

 今にも自分を踏み潰さんとする脚を眺め紫が吐息とボヤキを薄く漏らすと、諏訪子は言い返したがその後の返答はなかった。

 代わりに諏訪子へ届いたのはまたもや気に入らないもの、常人であれば聞こえないだろう声量で放たれた紫の笑い声だ。クスリ、開いた扇の軸より漏れた声は確実に諏訪子に届いた。その笑声(しょうせい)に舌打ちで(こた)える神社の祭神だったが、紫の声が扇のスキマを抜けるとその先で手長を飲み込んだ亀裂が現れ、迫る巨人の足の裏を飲み込み何処かしらへと隠してしまった。

 

 掻き消えた手長と足長。

 場に残るは巨大な手足を操りけしかけた神と二人のやり取りを見届ける素振りの神、それと今までよりも少し柔らかい笑みを見せる紫。

 諏訪子の見せた攻め手を潰した、それ故余裕の表情を見せているのか。二柱の考えはそのようにあるがそれでも紫は表情を変えただけで何をするような事もなかった‥‥いや、笑っていただけの女もようやく動くらしい。二度の神罰を防いで見せたスキマを閉じて二柱の前にフワリ降りると、雨でもないのに差していた傘もたたみ、同時に扇も閉じて見せた。

 

 望まれぬ参拝者が動くと空気も動く。

 攻めた神とそれを捌き切った妖かし、両者の距離が近づくと静まりひりつく境内の空気。肌に刺さるような空気と共に静かな夜が場に降りてくる。

 けれどその静寂はこの争いを見ていたもう一人の神、八坂神奈子が口を開く事により破られた。

 

「スキマの、なんのつもりだ?」

「さて、なんの事でしょう?」

 

「その態度よ、抗う素振りも見せず笑むだけでいるのは何故だ? 何を企んでいる?」

 

 境内に座ったまま、片膝立てた神奈子が問う。

 大きな力を未だに保持したままにいるスキマ妖怪。ところによっては神隠しの主犯などと呼ばれ、実際に神を隠し葬る事すら出来てしまえそうな手合に向かい直球で問いかけた。

 言い切った後で諏訪子に睨まれていたが、軽く首を振って声なき返答を済ませる。問うたところで素直に聞いて答えを述べるような相手ではない、諏訪子が言いたいのはそんな事でそれくらいは神奈子も察している。けれど今までの流れから小さな違和感を覚えていた神奈子は敢えて真正面から問うたようだ。

 

「酷い仰りようですわね、企みなど何一つございませんのに。それに私は既に要件を伝えておりましてよ?」

「何を‥‥招待状というやつか?」

 

「然様ですわ、八坂の神。私が姿を見せたのは貴方様方を楽園へご招待すべきかと考えたからですわ。それ以外で思う事などございませんのよ?」

「楽園だと?」

 

 紫が再度の招致を告げる。閉じた扇を再度開き、その企み顔を隠して。

 不審な笑みを貼り付け直し貴女方もご一緒に如何かと、白い手袋で隠した手の内を見せつけ誘う。だが、そんな態度は全て無視されたようだ。話を振った神奈子が紫の手を払い耳馴染みのない単語を聞き返す‥‥けれどここで開かれるのは紫ではなく、もう一柱の口。

 

「貴様の手がけた地があるらしいな、消えていく者達の楽園だったか? 現の世では生きられなくなった、保たなくなった連中の最後の拠り所だとか、忘れ去られた妖かし共の隠り世だとか、そう呼ばれる地があると聞いた覚えがある」

 

 失われた者の楽園、作り上げた紫が述べるならこう言うだろうが、諏訪子が語ったものでもそれほど差異はない。故に紫は否定はしない、少しの訂正はするようだが。

 

「諏訪子、お前……」

「隠り世はまた別に存在しますがソレはソレとしまして。私だけではなく幻想郷まで存じ上げられておいでとは重畳の至りですわね。土地を離れる事のない神の耳に入るなんて、宣伝などはしておりませんが私が知らぬうちに広まったのでしょうか?‥‥それとも」

 

 否定すべき部分は否定して、紫はそのまま饒舌多弁と繋げる。語りつつ今晩見せた笑顔の中でも一際嫌な顔をする、してみせて、何かを言いかけるがその言葉は神奈子の問いに遮られた。

 

「勘違いするな神奈子。私も覚悟は済ませているんだ、今更長らえようなどとは思っていないよ」

「ならば今の物言いは――」

「聞いただけさ。小耳に挟んだ話で何時だったかは定かでないがね、あの姉妹の姉がそんな地に向かった話を思い出しただけだよ」

 

 神奈子の物言いに被せてそれ以上は言わんでいいと、発せられる言葉を潰していく諏訪子。

 語らう神々の声は固い。口にされた覚悟というのもお硬い文言であるし神の口らしくそうなっただけともとれるが、それでも覚悟と発したのは神であり、覚悟は神を祀るこの神社の巫女、正確には後に風祝となる一人娘の為で本来の神口(かみくち)とは多少変わってしまうが。

 

「お姉様……磐長姫(いわながひめ)様でしたら幻想郷で過ごされておいでですわね、毎日狼煙を上げて存在を誇示されておられます。姉妹神といえばつい最近では秋の姉妹もいらして、いえお迎えにあがりましたのよ?」

「秋の? 妹はまだ存在していると聞いたが?」

「そのはずだな、見たという話を聞いたばかりだ」

 

 過去には高くそびえる富士よりも高かった八ヶ岳、今では幻想郷でそびえる妖怪の山となった場所。そこに住まうのは話から読めた人物だろうその地に移住する事になった姉神様。彼女の事を紫が伝え、ついでの形でまさに今日幻想郷へと向かった秋神も話す。

 するとそのついでの方に守矢の二柱が引っ掛かる。紫が語った秋の神は彼女が姿を見せる少し前に二柱が話していた者であり、遠足から戻った早苗が姿を見たと言った相手だ。未だこの地にいるはずの者で、稔りある行事がある限りは消えずにいられる相手のはず。

 であればと、二柱の疑惑の眼差しが曖昧な妖怪に向けられる。

 

「豊穣を司る妹君はどうにか神としてご顕在あそばされていたようですが姉君は弱々しいお姿で‥‥私がお迎えに上がった際には消え入る寸前、今にも神上がりされる気配にありましたわね」

 

 注視されると紫は語り始める。

 懐疑の眼差しを向けたままにいる二柱に向けて、今日姿を見せたのにはこんな理由があったのだと伝わるよう少し大袈裟に、身振り手振りを交えながら続きを論じる。

 

「姉君も僅かながら残る信徒の事を案じて悩まれたようですが、最後には妹君に付き添われて本日めでたく幻想の地に」

 

 柔らかに、明らかに何かを含んだ顔のままで語る妖怪。話を聞く二柱は僅かに目付きを強めているがそこに含まれた御心など気にせず、紫は続きを語る。

 話の内容から消えていく秋の神を紫が誘い手引したような言い草に聞こえるが、実際は消えかける瞬間に姿を見せて、何もせずに忘れ去られてしまうくらいなら新天地で神として在られてはどうかと軽く語っただけである。

 実りの神が紫の作った箱庭に収まれば人間()の餌が増え、紅葉を彩る神が土地におわせば住人の心にも季節を愛でる余裕が出来る。そうなれば感情の起伏も激しくなり、そういったモノを食す連中の食事にも困らなくなる。そんな流れが出来上がればこちらの世界では消えていくだけだった二柱も神としていられ、幻想郷も潤うだろう。愛する庭が豊かになる、第一に考えるのはその事だろうが新たに迎えて住人となった神に対しての心も彼女の暗い腹にはあるのかもしれない。

 

「なるほど、貴様が現世に姿を見せた理由はそれか」

「静葉はそこまで弱ったか‥‥穣子も今日見せた姿が現し世での最後になったかい」 

「ええ、そのようで……本日はそのお誘いの帰りに足を運んでみただけですのよ?」

 

 頷く二柱に合わせる紫、けれどこの場では腹の中身まで決して語らない。

 見せる顔は変えずに語る振る舞いは、浮かべた余裕そのままで少しの手の内を語るだけで、訪れた腹黒い商人が上客(カモ)の会議室で旨い話を勧めるような、軽々しい語り姿とでも言うべきか。

 

「宜しければ二柱もご一緒にと、そんなお話の為に今夜は伺ってみたのですが……如何でしょう?」 

 

 饒舌に語る紫、押し売りの文句を神に届けると閉じた扇を開いて煽ぐ。

 先ほど二柱が語った雰囲気からまずあり得ない、のってこないと理解していながら煽るように問いかけるが、語りかけた内の片方は返事もせずに姿を薄れさせて霞み、消えていってしまった。

 

「あらあら、祟り神様のお姿が」

 

 荒事の最中に同じく、柔らかで嫌味な笑みを見せる紫が消えていく神に問う。けれど問うた神からの返事は何もなく、代わりに残る一柱から返事が届く。

 

「白々しいな、八雲の」

 

 やや目を細めて、強い眼差しの神奈子が返す、

 一人残った神奈子から放たれた言葉は言いがかり、もしくはやっかみに近いものだ。ただでさえ招いていない参拝客を相手にして機嫌を傾けていたようだが、諏訪子が姿を消した事で残された神奈子の雰囲気は更に重くなったらしい。組んだ腕の力強さからは薄っすらと憤りや怒りの気配が見え隠れする。

 

「何の事やら、見当もつきませんわね」

 

 それでも暖簾に腕を押す姿勢を崩さない紫だったが、その姿勢も含まれる心にも多少の変化があったようだ。少しだけ俯いて、神奈子に表情が見えるか見えないかという角度に傾ぐと仄かに声を漏らす。 

 漏れ出た嘲笑に乗るモノはこの先の話の流れ。諏訪子が紫に向けて放った手長足長は祟り神の元には戻らずに隙間へと消えた、拝まれなくなった神が僅かな貯蓄をはたいて現した手足を私が隠した事で貯金の払い戻しがされなかった、小さな事ではあるがそれは弱る神からすれば大きな損失であろう。そこから鑑みるなればこの地の神もきっと‥‥と、含む笑顔に心情を浮かばせてみるも、覗きこむように顔を伺う八坂の神からは紫の読みにはなかった言葉が吐かれた。

 

「その言い様にその顔、益々鼻につくが今の我らに‥‥いや……」

 

 途中まで言い掛けて押し黙る神奈子。

 聞いていた紫の顔色は変わらないが何か引っ掛かるのか、悪戯な視線を神奈子に投げかける‥‥けれど、一睨みされるだけで終わりのようだ。少し前に口にされた秋神が司る紅葉よりも濃い、今まさに顔を出し始めた太陽のような臙脂色の瞳に紫色の女が映る。

 

「‥‥言い淀まれるとは、何かございまして?」

「何事もない、争う気がないのならもう去れ」

  

 口をつぐんだ神奈子に伺いを立てる紫だったが欲しい答えは返ってこないようだ、代わりに届いた返答は立ち去れという拒否の姿勢だけ。

 それもそうだろう、守矢の二柱には紫の誘いに乗る理由はない、寧ろ誘いなどただの方便で実際は消えていくだけの我らをあざ笑いに来ただけだと、その程度に捉えているのだろう。ふと見せてしまいそうになった弱気な部分『今の我らには貴様と争うような余裕はない』と、先に言い淀んだ言葉の後に続けそうだった言葉は飲み込んで一言、立ち去れと、神奈子はそれだけを話し踵を返した。

 

「……わかりましたわ。お話頂いている間に彼は誰時(かはたれどき)といった頃合いとなりましたし、朝日が訪れる前に御暇いたしますわね‥‥」

 

 振り返り、そのまま神殿へと歩んでいく神の背中。その後ろ姿に紫が語りかけるが、その声は届かないと言わんばかりに神奈子は歩き続ける。まるで今晩は何事もなかった、そんな空気を纏っているような、すっかりと静まり返った神社の境内で二人の距離が離れていく。

 今日の出会いはこれまでとそんな雰囲気に思えるけれど、歩き去る神の背に紫から吐き捨てられた言葉が刺さり、それが神奈子の足を止めた。

 

――他者の心を糧に生きる者が覚悟とは余程の事なのでしょうね――

――そのお覚悟がいい方向だけに作用する事をお祈りしますわ――

――いえ、ここは頼んだほうがいいのかしら?――

 

 紫の口上に神奈子が振り返る。

 そのまま何か言い返すつもりで口を開きかけるが、嫌味を吐き捨ててくれた相手の姿は殆ど消え失せていた。神奈子が最後に見たのは全身を隙間に沈めていく紫の顔半分だけ、頬に手を添えて柔らかく笑う顔の半分だけであった。

 神奈子と目が合うと態とらしくクスリ、小さな笑い声を漏らして完全にいなくなるスキマ妖怪。

 

「‥‥他者の心を弄ぶ輩に言われる筋合いなどないわ」

 

 一人境内に残された神奈子が愚痴を漏らした。

 誰もいない、神奈子一人だけが残されている境内を小さなボヤキが抜けて消えていく中徐ろに手を合わせ軽く叩く。パァン。静かな景色に邪気払いの柏手が響く、同時に神奈子の姿も風に巻かれて消えていった。

 こうして誰もがいなくなり、暫くするといつものように日が昇り朝が訪れた。静けさも暖かさもいつものような朝。神と妖怪が戯れていた昨晩とは打って変わって、本当によくある朝。

 いつもの朝と違いがあるとすれば、毎朝神社の幼子が目覚める前に起きて朝食の準備をしていた神が今朝は姿を見せなかった事と、この日を境に二日おき三日おきと目覚めなくなっていくようになってしまった事だろう。

 


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