黒羊と土蜘蛛がじゃれ合った地底世界の底。
その地底の地面よりも下、熱気揺らめく地底の更に奥深い場所。
地上から離れた地底世界の中心に建つ洋館の更に地下には、以前までは鬼や獄卒が屯し堕ちてきた者達を責めていた場所があった。
今は切り離されてその機能を失っているが、当時に作られた施設や地形はそのままに残り、誰かが落ちればまたすぐにでも責め苦が始まるだろう、そんな雰囲気が残る場所。
残る施設、例えば針山。
手入れの行き届かなくなった今は錆びついてしまい、美しい銀と赤のコントラストは見られなくなったが、錆びついていようとその鋭さは変わらない。
上を歩めば突き刺さりそのまま体を穿く鋭さはのこったままで、錆びた今のほうが責め苦には良いかもとすら思える。
他の箇所も同じである。
残る地形、例えば血の池。
手入れをする者が消えたのは針山と同じ、こちらも流れは止まり淀んでいる。
流れない水は腐るだけ、そして流れない血も腐り凝固する。
完全に流れなくなった端の方では表面は凝固しているが、空気に触れないその下部分は腐敗しゴポゴポと沸き立つようにガスを放っている。
稼働全盛期には真っ赤でサラサラと流れていた池は黒ずみ、今では腐敗臭とガスのような何かを湛え死の池と呼べるモノとなっていた。
そんな血の池地獄に唐突に堕とされ現れた船があった。
見た目は木造の船だがその帆には赤い筆文字で『寶』と書かれている。
帆に描かれた文字から鑑みればこの船は宝船という事になるが、乗っているモノは財宝ではなく人であった。
正確には元人間、今は妖かしと成り果てた者達とその守護者。
一人は快活だった幽霊。
封じられてすぐは船の先頭に立ち、誰かに対して強く想う心酔に近い心を宿し、暗く見えない天を仰いでいた…が、その強い心は今では折れかけ、心酔よりもこうなった事への怨む心が強くなってしまい、今の彼女の青緑の瞳には憎しみしか宿っていない。
もう一人は凛としていた尼僧。
堕とされてすぐの頃は、誰かを尊信する想いを瞳に宿し天を仰いでいたが、その心も今では被る頭巾の奥に隠れてしまった。頭巾で隠した瞳には失望を浮かばせるようになった、天を向くことなくただ船の床を見つめるだけとなり、消えてもおかしくない尼公。
変わらないのは彼女を只々守リ続ける大きな入道雲だけ、彼だけが天を仰ぐばかりとなっていた。そんな入道雲の見る先に変化が起きる、パラリと何かが落ちる音を桃色の入道雲が確認していた。
「ウンザン…?」
入道雲の動きに呼応する尼公、入道使いと呼ばれる妖怪の彼女が数百年ぶりに天を見上げた。
この地に封じられ、何もない暗闇を見続けて次第に病んだ彼女の心、今も促され見上げただけで、視界が定まる事はなかった…が、今日だけは焦点が定まる。
「あれは…?」
同じく促され天を見た船幽霊。
左手に持つ穴開き柄杓を見つめる先に高々とかざしている。
背に担ぐ錨にうっすらと何かが辺り、そのナニカが届けられている大元を見上げ見つめていた。
三人の瞳に届いているのは光。
なんでもない、ただの外の光だ。
だが封じられこの地に捕らわれた三人には、これが唯の光には見えなかった。
「ヒジリ…」
光を見つめ呟く船幽霊。
呼んだのは彼女達が心酔し尊信した誰かの名前。
偶々届いた光、偶々この地に引っ越してきた者達がいたせいで届けられた光。
地を揺らし土地ごと地上に現れた誰か。
血の色をした屋敷の起こした振動が、彼女達の封をほんの少しだけ歪ませ光を届けた。
血の屋敷が届けた光は血の池に囚われる彼女達の光明となったのだ。
船幽霊の呟きと共に動き出す三人、その光に何かを見た船幽霊と尼公。
忘れかけていた誰かを思い起こさせる一筋の光明に向かい動く。
光に向かい再度ヒジリと、互いに一言だけ呟いて。
血の池地獄の血を迫り上げて、光満ちる世界へと戻ろうと。
◇◇◇◇◇
左右にゆらゆらと飛びながら進む木桶。
綺麗に灯る赤提灯や橙のような赤のような色合いで灯る灯籠の列の中、誰かを探すようにキョロキョロと回りを見渡して、町並みの中心地に向って飛んでいる。
彼女の心境を知らない地底の住人が、楽しげに揺れ翔ぶキスメに向って色々と声をかけるが、声を掛けられているキスメは目当ての誰か以外を構うような余裕はなかった。
顔つきは普段よりも真剣で、まるで見たくないものでも見てきたかのような青ざめた顔をしている。
「あぁもう! 大将はどこにいるってのさ! こっちも騒がしいけど、入り口の方が騒がしいってのに!」
口悪く愚痴るキスメ。
拉致があかないと町中を探しながら飛ぶ事をやめて、地底の町並みが一望できる高さまで高度を取り、その位置から大将と呼ぶ誰かを探し始めた。
キスメのいる高さまで上ると地底の入り口から中心地の大きな洋館まで続く、地下のメイン街道の全景が見える。
「いつものたまり場にもいなかったし…」
普段であれば笑う声や喧嘩する声が聴こえる飲み屋。
そこが今の探し人のたまり場と呼べる場所。
こうして空から探し始める前にキスメが一番に向かった場所であったが、今日はそこにはいなかった。平常時なら9割方そこに居て、片膝立てて豪快に酒を煽り、侍らせる者達と痛快に嗤っているはずなのだが…
「もしかしなくてもあれか、あっちに手を取られてるのか!?」
酒場に連なる大衆食堂らしい店や、一本道を入った場所に建つ、娼婦が積めて淫靡な灯りが灯る小さな館や、その近くに並ぶ職人が開く仕立屋など、別の辺りを見ていたキスメが何か思いついたように見る方向を定める。
見つめる先は地底世界の中心部分。
旧地獄跡地の真上に建てられた大きなステンドグラスが目立つ洋館。
和風な建物がほとんどに思えるこの地底世界、その中でで異彩を放つ屋敷『地霊殿』がある中心部を見つめていた。
「お! やっぱりこっちにいた!」
桶入り娘が見定めた先。
地霊殿のすぐ側に建つ誰かの住まい、その屋根の上で大きな盃に並々と酒を注ぎ、煽り飲み干す者がいた。腰まで伸ばしっぱなしの輝く金髪、その上には尖った赤い何かが見えるがあの位置にあるのはなんだろうか?
金の髪と半透明なロングスカートを血の匂いが乗る風に靡かせて、地霊殿の扉を眺めている。
取っ手の部分には外から閂がかけられて、扉前には色々と積まれていて、それを若く見える鬼や腕力のありそうな大柄な妖怪が抑えていた。
扉の前にある屋敷の庭も床に中たる部分が赤く染まり、その染みは地霊殿の扉の方から広がっているように見えた。
「やっと見つけた! 勇儀の大将、大変なんだってば!」
高度を下げながら、聞こえるように大声で叫ぶキスメ。
フラフラと下がってくると、勇儀と呼んだ女性の少し後ろにゴトンと着陸し目と耳で周囲を確認していた。
キスメの耳に届くのは隣の女性の喉が鳴る音と、下で踏ん張る者達の息遣いくらい、事件の中心部に近いこの辺りは避難も済んでいるしさすがに静かだ…が、少しばかり匂うなと思うキスメ。
勇儀と呼んだ者が見つめる先と、勇儀の事を見比べ始めた。
「なんだい慌て顔で、こっちもそろそろ慌ただしくなりそうなんだが」
キスメが見比べているとクルリと振り向く大将妖怪。
振り向くとよく分かる赤い何かの正体、それは角であった。
後ろから見ても分かるほどに立派な一本の角、額から天を衝くように伸びるそれには1つ星が宿り、天を衝く角にあるそれはこの者以外は輝かず落ちる、そう語るくらいに力強く見えた。
そんな一本角の女性、声をかけられ振り向いたが、その表情は少しばかり笑んでいて、濃く漂う血の匂いを楽しんでいるかのように捉えられた。
「こっちもこっちだけどあっちもあっちだよ! ヤマメを殺っちまうようなのが来たんだ!」
死んでもおかしくはない争いだったが、ヤマメは死なず今頃は二人並んで歩いているだろう。
その辺りは後述するとして、ヤマメが負ける相手がいるとにわかには信じない一本角の女。一度眉を上げてからキスメを見つめなおすと、偽りないかとキスメに問い正した。
「鬼の大将相手に噓を言うわけないだろ! さっさと行ってくれないと本格的にヤマメが逝っちゃいそうだ!」
当たり前のように噓はないと言うキスメ。
それもそのはず、この女性は種族鬼で噓を嫌う、一言でも噓を話せばたちまち角に宿るソレのようにされるだろう。
地上ではとうに忘れられた存在である鬼、たった一人いるだけでも危うい幻想郷のバランスが崩れかねない者達、その頭目と言い切ってもいい者がこの女だ。
ヤマメと共に恐れられたと以前に伝えたが、身に宿す怪力は土蜘蛛と同等か場合によってはそれを超える者、それがこの鬼の御大将、星熊勇儀であった。
「んなもん知るかい。死んだら死んだでそれで終わりさ、負けたヤマメが悪いってだけだ…その相手が何者か知らないが、こっちに来て暴れるってんならその時は出てってやるよ」
互いに同じ人間に討たれた逸話があるヤマメと勇儀。
それを互いに知っていてどちらもその力量を知っている二人、その割には冷めたような態度を見せる勇儀だが、鬼という種族は喧嘩や戦いに拘りを持つ者達だ。
この勇儀が拘るのは他者の介入など交えない、一対一の、力と力をぶつけあう真剣勝負。
旧知であるヤマメもそれを知っていて、勇儀もヤマメなら余程の者が相手でも負ける事などはないと考えている、冷たく言い放つのはその信頼に対する裏返しである。
「んもう、じゃあいいさ、パルスィはどこにいるか知ってるかい?」
「パルスィなら橋にいるだろ? 寧ろあいつが橋以外のどこにいるってのさ?」
キスメが地獄の繁華街を通った際にはいなかった者の名を問う。
その問いかけに対して、さも当然の事のように橋にいるだろうと述べる勇儀。
名が出たので先に紹介しておくが、パルスィと呼ばれた者は旧地獄に広がる都の入り口、そこに架かる朱色の橋の番人兼嫉妬心の化身である。
日本に伝わる嫉妬の化身、妖怪橋姫だと思われがちだが単純に嫉妬心の化身であって橋姫ではない…と、心を揺らすような深緑の瞳を揺らして語っていた事がある。
突き放すような物言いも多く、あまり他者と関わらない性格で明るいとは言いがたい妖怪だ、雰囲気からすればこの勇儀の真逆と言ってもいいだろう。
そんな者が景色を揺らしてモヤァと顕現した。
「ここよ」
鬼と釣瓶落としの話でも聞いていたのか、返答しながら現れたパルスィ。
勇儀の金よりもワントーン暗い金髪を揺らし、細い両腕を組んで華奢な体を隠すように現れて鬼の隣に降り立った。二人並ぶと勇儀の肩くらいしかないパルスィの身長、華奢な体のパルスィが小さく見えるが、この場合は勇儀がデカイだけである。
「うお!?…脅かすなって、
不意に現れたパルスィに驚きを見せる勇儀
その拍子に少しだけ盃を傾け酒がチョロロっと宙に飛ぶが、体毎動かしてその酒を迎えに行きゴクリと喉を鳴らして飲み干した。
一息ついてから預けた者『さとり』という地霊殿の主の事を問いかけるが、綺麗になったとは何の事か?
それは屋敷に掛けられた閂の理由と共に、もう直わかる事になる。
「さぁ? 流せというから川に投げ入れたけれど、その後は知らない。ペット達は水浴びしてたわ」
「水浴びさせたんならそれでいいさ、血腥いよりかはマシだろうよ。で? お前さんまで出張ってきて、こっちの相手でもする気になったのかい?」
「まさか、近くのほうが心地いいだけよ…羨望も憎悪も私の糧だもの」
本来ならば地霊殿の中にいるはずのさとりという者とそのペット達。
それらを川に放り込んできた、ペット達は遊んでいたと素知らぬ顔で話すパルスィ。
どうでもいいような態度に見えるが実際どうでもいいらしい、同じ地に住む管理者であるさとり、立場を鑑みれば敬うべきそれに対して興味が無いと態度で示すが、彼女が興味があるのは他者の感情だけだ。
閉じられた地霊殿の扉、その奥深くを見るように目を細める嫉妬の化身…彼女が言うようにこの奥には羨望や憎悪といったモノが閉じ込められている、正確にはそれらを放つ者達なのだが。
屋敷の庭を赤くしている理由もそれで、ミシミシと鳴り始めた扉からもうすぐ溢れ出てくるだろう…光求め誰かを求めて。
~少女達移動中~
一方旧都の外の者達。
彼女たちがいるのは緑や青に淡く光る苔が生した鍾乳洞。
外から訪れる者などほとんどいない、ましてや歩く者など余計にいない暗い洞窟。
その広くて暗い洞窟内を並んで歩く妖かし二人。
ハイヒールから響くコトォンコトォンという音を楽しむようにわざと鳴らすアイギス。
その隣には踵のないローファーからのカツカツという足音を立てるヤマメ。
つい先程まで命のやり取りをしていた妖怪二人が、仲良さ気に会話し歩んでいる。
「全く、早く言ってくれればいいのにさ。温泉目当てで遊びに来たんなら、取って喰おうなんてしなかったってのに」
並んで歩く二人の見上げる側。
黒谷ヤマメがアイギスの顔を下から覗きながら、ほんの少しだけ意地悪さの混ざる笑顔で話す。
自身の流した血に濡れたポニーテールを僅かに揺らして、着ている焦げ茶色のシャツ、その右の肩口にはザックリと突かれた跡を残しながらも、話をする表情は明るい。
明るく輝く金髪も貫かれた跡が見える右肩も痛々しく見えるが、本人に痛がる素振りは見られなかった。
「煽ってきたヤマメが悪いのです、問答無用で始めたのは貴女の方ですよ? 私が文句を言われるのはお門違いというやつです」
歩く二人の内の見上げられる側。
ヤマメに下から覗かれる形で話すアイギスも穏やかな笑みを見せ、意地悪に話してきた新しい友人に対して返答する。
こちらもこちらで随分と血で汚れていて、一度バラバラに裂かれたとわかる跡が、きっちりと着込んでいる三つ揃えのスーツに見られるが同じく表情は明るいものだ。
一度の命のやり取りを経て、下の名前で互いに呼ぶほどには仲良くなったらしい。
「喧嘩を売った私が言う事でもなさそうだが、先に縄張り荒らした奴が何言ってんのさ。それよりあれだ、タイミングが悪かったね。お目当ての風呂だが今は楽しめそうにないよ」
自分に対しても話すアイギスに対してもご尤もな事を話すヤマメ。
意地の悪い笑みから悪戯な笑みに表情を変えて、タイミングが悪かったと見上げたままに話している。先程からこうして見上げっぱなしのヤマメ。
首が疲れるほどの角度ではないが、見上げられっぱなしはなんとなく気になる黒羊、すこし浮くか離れるかすればいいのにと考えている。
が、ヤマメからすれば普段話す相手、今はどこかの住まいの上に立つ鬼と同じくらいの背をした友人は、見上げるにしても慣れた角度で疲れるような事はないようだ。
「タイミング? 楽しめないとはどういった意味合いでしょうか? お休みだったり、枯れてしまったり…期間限定で湧いていたりするのでしょうか?」
気になるからか、ほんの少しだけ猫背になるアイギス。
歩くにしても立つにしても、シャンと背筋を伸ばしていたアイギスが背を丸めた事でなにか気を落としているように見られたようだ。
見上げながら歩いていたヤマメが少し近寄り、低くなった肩に腕を回して悪戯な声を出して語る。
「期間限定ってのは正解かな、今は違うモノが湧いててねぇ…そろそろ気がついてもいい距離なんだが、私らが匂うからわからないかもね」
肩に回した腕を利用し、アイギスに体重を預け背を伸ばすヤマメ。
そろそろわかる距離というのを、こうして背を伸ばせば見えるくらいだと姿勢で表し伝えている。遠くを見るようなヤマメに釣られてアイギスも背を伸ばし遠くを見るが、つま先立ちになったヤマメが騒いですぐに背を丸めた。
見えないと少し眉根を寄せる長身の女だが、匂いも言われたなと思いだし、少し鼻を鳴らしとすぐに気がつくことが出来た。
「血の匂い?」
「そういうこった、本来なら中心地の屋敷周辺で温泉が湧き出してるんだが、ちょっと前から血混じりになっちまってねぇ。原因もなんとなくわかってるが手が出せないのさ」
ケラケラと笑うヤマメ。
名物と言える物が楽しめない状態にある、そう言いながらも嗤うのは彼女が明るいから…ではなく、彼女達からすれば手が出せないからどうしようもないと開き直っているからのようだ。
温泉に混じる血は地下深くから立ち上ってきた物だ、光目指して上ってきた誰かが吹き上げさせた物…いうなればかつての地獄の名残であり、その管轄は地底世界ではなく別の場所にある。
が、そこは後々に述べよう、二人が何かに気がついたようだ。
「いや、タイミング…良かったかもしれないねぇ、アイギスちゃんよぉ」
声色は変わらないが笑みが変わるヤマメ。
ちゃんなんて付けて呼ぶのはわざとだ、そう言うと変な顔をするアイギスの事を面白がり敢えて付けて嗤っている、がそれはこの場ではどうでもいいか。
話を戻す。
名を呼んでからスンと鼻を鳴らすヤマメ。
一気に濃くなった血の匂いに気がつくと、アイギスの肩に回していた腕を下げ手を取り走り始める。勇儀が取りまとめ力業で閉ざした栓、地霊殿の扉を閉ざす閂。血の池地獄を管轄する現地獄の偉いさんが来るまでは持つだろう、そう考えていたその栓が外れたと、匂いから気付き一気に走り出す。
手を取られ連れられる形で走りだしたアイギスも匂いに気づいた、溢れるように一瞬で濃くなった血の匂い、温泉よりも心地よいものを浴びる事が出来るかもしれない、そう語るように笑み走りだした。