夢を掴む、その瞬間まで・・・   作:成龍525

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大変長らくお待たせ致しました! とだけでは言い表せないほど長い期間の無更新状態、本当にすみませんでした(>_<)
その期間については後日活動報告の方で簡単に綴れたらと考えてはいますが、前回から約5年半振りの更新。しかも前後編の後編なのにここまで間が空いてしまいました…

さて、今回はあかつきvsそよ風が遂に決着――!
前回とあわせて相当長くなってしまいましたが読んだ後、一人でも多くの方を楽しい気持ちに出来たらいいなと思います(*^^*)


第13話~日出ずる暁~

一ノ瀬や六本木が自宅へと向かって歩いていた中、二宮はその足は自宅とはまるで別方向へ。

しかも普段使わない頑張市郊外へと向かうバスへと乗り、移動し始める。

ぼんやりと、けれども明確な意志を宿した瞳で流れ行く景色を眺め、その少し後。

とある停留所でバスを降り、そこから暫く歩いていくと二宮の眼前に真っ白い大きな建物が姿を現した。

「……まさか、またここに来ることになるとはな」

 小さくそう呟きながら二宮が静かに睨んだのは、建物の入り口に掲げられている“頑張総合病院”の文字。

ため息を一つつき、二宮は自然と重くなる足取りでその厳かな門を潜っていった。

 中に入りエントランスホールにもなっている待合室を真っ直ぐ、診察を待っている人や椅子に座って休んでいる入院中の人達を尻目に受付カウンターへ歩いていく。

「こんにちは、今日はどのようなご用件でしたでしょうか」

「あっ、えぇと、少し前に電話でお見舞いの予約をした二宮瑞穂といいます」

カウンター前に着くと受付の女性看護士からにこやかな笑顔でそう尋ねられた。

二宮が面会の予約をした日と患者名を告げると受付の看護士は手元のパソコンを操作し、何やら調べていく。

「――――さんの病室は東側にある別棟の110号室ですね、それと面会時間は30分以内となっております」

「分かりました、ありがとうございます」

軽く会釈をしてその場を離れた二宮は東側の別棟へと移動していく。

何回か階段を上り、汚れ一つない通路を進む二宮だったが、二宮は一体誰のお見舞いに来たのか。

 

『一ノ瀬巴』

 

 ようやく辿り着いた病室の前には一ノ瀬の妹、巴の名前。

正確に言えば目的は他にあるのだが、一ノ瀬巴のお見舞いに来た二宮。

そう、数日前から決勝戦前日の最終調整後にここを訪れようと考えていたのだ。

だが一ノ瀬本人からスランプの原因を聞き出せないまま行っても仕方ない。自分の憶測だけで動いて事を余計に拗らせてしまうのも本末転倒。

最後の決心をするべく一ノ瀬を豊夢センターへと誘い、その場に六本木が居合わせてしまったのは予想外でもあったが――無事に一ノ瀬が抱えていた思いを訊くことが出来て今ここに至っている。

 色々と頭の中で思考を巡らせ、目的を成した時のことをイメージして病室へと続くドアをノックした。

沈黙が続くが暫くして「……どうぞ」と巴の声。

ほんの一瞬天を仰ぎ、二宮はドアをゆっくり開けていった。

そして三ヶ月前の“あの日”、入ることすら出来なかった室内へと一歩を踏み出していく。

中に入ると巴は居た。

ベッドの上で上体を起こし、窓の外の景色を力無く見つめていた。

近付いてくる聞き覚えのない足音に巴は視線だけドアの方へ向ける。が、視界に入ってきた人物を見るや否や見る見るうちにその表情を険しいものに変えていく。

「兄さんと同じユニホーム……?」

「急にすまねえな、三ヶ月前にも一度ここには来てるんだが……会うのは今日が初めてだったな、オレは二宮瑞穂。あかつきでキャッチャーやってる」

面会に来るなんて誰からも聞いてない、そんな雰囲気を巴は出していた。

その様子を気にする風も無く二宮は言葉を紡いでいく。

「今の状態から察するに、大方周りの話とか大して注意して聞いてないだろアンタ」

「――は? 兄さんの相方かなにか知らないけど初対面でいきなりその言い方は失礼なんじゃないですか!?」

「面会時間は30分しかない、だから手短に言う……アンタのその態度、もう少し何とかして欲しいんだが」

いつになく喧嘩腰で、試合に臨む時の戦闘態勢のような目で半ば癇癪を起こしかけていた巴を見据えた。

その射抜くような視線と共に、睨んでくる巴に更に続けた。

「あの日、アンタを見舞いに来た一ノ瀬さんをアンタは傷付け、拒絶した。それが例え何かの行き違いがあってのことだったとしてもそれは紛れもない事実」

「……っ」

「その日以来、一ノ瀬さんはずっと不調に陥ったままだ。明日が予選の決勝戦だという今この瞬間もずっと苦しんでる」

巴はそれ以上何も言い返せなかった。兄が調子を崩したまま苦しんでいることを、その兄の姿を病室にあるテレビであかつきの試合を観て巴は知っていたから。

それでも尚、巴の澄んだ青空のような瞳はきつく二宮を睨んだまま。

が、次の瞬間、二宮は思いも寄らない行動に出た。

 

「だから、頼む! 一ノ瀬さんを助けてやってくれねえか」

「ちょ、いきなりそんなことされても――」

 

 勢いよく、そして深々と二宮は頭を下げる。

二宮がお見舞いに来ること自体巴にとっては予想外の出来事で、予期せぬ展開の連続。どう対応したらいいのかを考える間も無いくらいに困惑していた。

頭を下げたまま、二宮は何度も何度も「頼む」と言う、声を絞り出していくように。

巴もまた整理が全く追い付いていない頭で必死に言葉を紡いでいく。

「なんで……今日初めて会った赤の他人の頼みをわ、わたしが聞かなくちゃいけないのっ」

「……ああ、そうだよ。オレは赤の他人だよ、でもな」

頭はまだ下げたまま、その体勢のままゆっくりと、そして二宮ははっきりと自分の思いを告げていった。

「でもな、オレにとっても一ノ瀬さんは尊敬出来る人で、その人が苦しんでいるならオレも力になりてえんだ」

「わ、わたし兄さんのこと尊敬なんてしてないし! そそれにっ、兄さんが本調子になれないの、全部わたしが悪いみたいに言わないでくれますか!?」

本当は自分のせいだと分かっていた。

けれどもその事実を解りたくなかった。認めたくなかった。

しかし、苦し紛れに出たそれらの言葉は巴の気持ちとは裏腹なもの。

 巴が言い終えた後、二宮は下げたままの頭を静かに上げていく。

見開かれた目は今までよりも鋭く、眉間に皺が出来る程きつく巴を睨め付けていた。

そして一歩、また一歩と巴に近付いていき、すぐ隣まで来た次の瞬間。

 

――――パシッ!

 

「……え」

乾いた音が部屋中に響き渡った。

その音と同時に、ほぼ反射的に左手で頬を押さえていた巴。

頬から伝わって来るのは軽く痺れるような痛みだった。

「ぶたれた? わたしが? 誰にも……兄さんにだってぶたれたことないのに――!」

そう、巴はぶたれたのだ。

さっきの言葉が本心からのものではない、そのことは二宮にも伝わっていたのだが、我慢出来ない何かがあったのか右手で巴の左頬をぶっていた。

澄んだ空色のような瞳に薄く涙を湛えていた巴を見つめる二宮、その両目にあったのは怒りでもなければ嫌悪でもなかった。

「どんな経緯であれ原因を作ってしまったのがアンタなら、その原因を取り除くことが出来るのもアンタだけ……そうじゃないか?」

そこにあったもの、それは――優しさ。

己の過ちを、兄への気持ちを認めたくても認められないでいた、苦しむ巴の心にも届く優しさだった。

「一ノ瀬さん、こうなる前までは毎日のようにアンタのこと話してたよ」

「わたしの、こと?」

「ああ――妹は歌うのが上手くてね、お見舞いに行った時に妹が歌ってくれると癒されるんだ。今日を精一杯生きている妹の歌声を聴いてるとオレも今日を精一杯頑張らなくちゃって思える。――って、三ヶ月前も嬉しそうに話してた」

「兄、さん……うぅ、ひっく……」

今まで誰も自分がどんな態度を取ろうときつく注意されたり、手を上げられたこともなかった巴。それだけに二宮の厳しさが、優しさが嬉しかったのかもしれない。

「う、うわあぁぁっ――」

巴は泣いた、声にもならない声を上げながら。多剤耐性結核になってからは誰にも見せることのなかった涙を、自分の弱さを今二宮の前で溢れさせていった。

二宮は黙って目を閉じ、巴が落ち着きを取り戻すまで待つことにした。

 

 数分経ち、巴も落ち着き涙が止んできた頃、二宮は再び目を開けると――。

「……」

目の前の巴と目が合うも、潤んだ瞳ではばつが悪かったのか、慌てて視線を窓の外へと逸らされてしまった。

頭を掻きながら苦笑いを浮かべる二宮、するとベッド脇の着替え等が入っているであろうナイトテーブルの上、そこに置いてある“あるもの”に気付く。

「ふぅん、アンタもやっぱり好きなんだな、野球」

「――あ、え? それは、その……て、あっ、ちょっと!」

そこにあったのは“あの日”一ノ瀬が巴のために持ってきた薔薇とガーベラのアレンジメントと、一冊のスコアブックだった。

スコアブックを手に取ろうとした二宮を止めようと巴も慌てて両手を伸ばす、しかし間に合わず。

その動揺ぶりは、リボンで一本結びしてあった背中まである淡い藤色の髪の乱れようにも表れてしまうほど。気付けばその目にはもう涙はなかった。

「普通本人の許可なくそういうの見ます!? 信じられないっ」

「何そんなに怒ってんだか……ほー、一応書き方知ってんだな」

 強い意志が戻った瞳で睨む巴、その視線をものともせず二宮はページを捲っていく。

二宮の予想通り巴が書いたであろうこのスコア、その中身は野球のルールを詳しく知っていなければ書けないような内容ばかり。

ここまで事細かに書くには野球が好きでなければ無理だと、そう二宮は思った

それと同時に二宮は奇妙な感覚に囚われて、表情が少しずつ真剣なものに変わっていく。

5番バッターの打撃成績、ピッチャーの持ち球や配球、様々な内容に見覚えがあったのだ。

「これ、ひょっとして……」

「……」

一つ一つの記入を確認していくように見ていき、次のページを捲ったその時。

「間違いない、今の大会のスコア――ん?」

栞代わりに準決勝のスコアのページに挟めてあったのは一枚のカードだった。

二つ折りにしてあるカードの表面には何か文字が書かれていた感じであったが、何かに濡れたのか滲んでいて読めない。

「それはダメ!!」

巴が突然そう叫び、凄い速さで二宮が手に取ろうとしたカードを奪っていった。

「な、なんだ? ……まあいい、このスコア、オレらの試合のだろ」

「べ、別にあかつきの為に書いたんじゃないからっ。に、兄さんの為に書い――あっ……」

大事そうにカードを両手で包みながら反論した巴であったが、いざ我に返ってみると口走った言葉があまりに恥ずかしく、赤面したまま俯いてしまう。

巴は自分の胸の内にある気持ちをついつい暴露してしまったのである。

「フッ、やっぱり好きなんじゃねえか。野球も、そして兄さんのこともよ」

俯いたまま何やら小声で否定する巴に二宮は軽く謝り、見ていたスコアブックを巴の膝の上に静かに置いた。

そしてそのまま続けた。

「オレは今アンタを苦しめている病気が何なのか詳しくは分からないし、アンタと一ノ瀬さんがどんな兄妹だったかも知らないが……どっちも信じてみればいいじゃねえか。野球も、その野球に直向きな兄さんも」

「……や、野球と、兄さん?」

温かな笑みで頷く二宮、まだ耳まで真っ赤な巴だっだがその表情はどこか呆気に取られた風でもあり。

「ああ、だから今すぐにとは言わねえ。すぐに癇癪起こすような態度を改めて、一ノ瀬さんと仲直りしてやってくれ、頼む」

また、どこか嬉しそうでもあり。

「うん、今まで謝る機会なかったけど、兄さんが次お見舞いに来てくれたら……謝ってみる。癇癪は今更直せないかもしれないけれど」

てへっと舌をちょんと出し、はにかみながら巴は頷いた。そして二宮に約束した。

自分が好きな兄を、兄が好きな野球を。何よりも明日をもう一度信じてみようと。

「でもまあ、その誰彼構わず噛み付くことが出来る気概、オレはそんなに嫌いじゃねえ。寧ろ好きだぜ」

「――――っ!? あ、ああアンタじゃない! わたしには巴って名前がちゃんとあるっ」

「それはすまなかった、ア、じゃないな。と……巴」

今まで絶望しか感じられなかったこの閉ざされた世界、独りぼっちだった小さな世界。

でもこの世界は実際は小さくもなければ独りぼっちでもなかった。

巴の歩んできた人生、数々の病との長く険しい果て無き闘いの日々に疲れ果て、自ら世界の扉を閉ざしていたのかもしれない。

実の家族であっても寄せ付けようとせず、殻に閉じこもり、そうすればいつかはこの苦しみから逃れることが出来るかもしれない。

全ては自身の思い過ごしだったのかもしれない。

しかしそう気付いた時には既に自分ではどうすることも出来なくなっていた。

扉の鍵を見つけられず、殻の破り方も忘れてしまい、本当の絶望の意味を知ったその時、二宮が現れた。

鍵の見つからない扉をこじ開けてくれた。

殻を外側から破ってくれた。

絶望の淵にいた自分を二宮が助けてくれた。

今日初めて出逢った、たかだか二十分足らずしか一緒に居れていないが――。

この不思議な巡り合わせで出逢った二宮に対して、巴の心は本人の知らないところで淡く色付いていくのだった。

 

 アンタから巴と呼ぶことにした二宮は、巴から色んな話を聞かされた。

“あの日”、一ノ瀬と衝突してしまったのは長い病院生活の中でストレスが溜まっていたのも理由の一つだが、晴れ渡る空が気に障りつい癇癪を起こしてしまった事。

そもそも雨の日ならば野球部が早く終わることもあるため一ノ瀬がお見舞いに来ることもあるものの、晴れの日は十中八九練習があるのでお見舞いに来ることも滅多に無いから好きではなかった事。

雨の日だと体調も落ち着いていて、お見舞いに来た兄が歌を聴きたいと言っても雨音で周囲を気にすることなく歌うことが出来るから雨の日は好きだった事。

 本当に色んな話をしてくれた。

 

そして面会時間も残り数分。

「今日はお見舞いに来てくれて、ありがとう」

「まあ、なんだ……一ノ瀬さんを助けたかっただけだ、気にするな」

この二人の時間はそろそろ終わりを告げる――。

そのことを心のどこかで感じていたのだろう、巴の瞳は雨上がりの空にあるような艶やかさを纏っているようだった。

話し始めた頃の険しい表情や射抜くような視線は、もうどこにも無い。

「本当に兄さんを救う為に来てくれたんだとしても、わたしはわたしで救われた」

時折笑みを零しながら、しおらしげに語っていく。

二宮もその変化に戸惑いながら黙って相槌を打っていた。

「わたしの考え方を変えてくれた約束はきっと守る、だから――」

そこで一旦言葉を区切った巴、深く息を吸い二宮を真っ直ぐ見据えた。

「だから、その……瑞穂くん。わたしからもお願いしていい、かな?」

「そうだな、突拍子も無いことじゃなければ聞いてやってもいい」

よくよく考えてみればここまで巴に一度も名前どころか、苗字すら呼ばれてなかったことに気付いた二宮は若干はにかみながらそう言って頷く。

「ありがとう――春の県大会も地区大会も、ここ最近兄さんマウンド上で勝利の瞬間を迎えることはなかったでしょ? 先発しても途中で崩れて猪狩くんと交代になってたから最後まで投げられなくて……だから明日の決勝戦、兄さんに勝利の瞬間をマウンドで迎えさせてあげてほしいの」

何も言わず黙って巴の願いを最後まで聴いていた二宮。

「……なんだ、そんなことか」

「そ、そんなことって…! わたしは真剣に話して――」

その呆気ない反応に巴は憤慨しかけ、噛み付かんばかりの勢いで二宮に迫った。

だが二宮はそんな巴を右手を前に出して制し、更に話を続ける。

「心配いらねえよ、一ノ瀬さんは明日完投する。勿論、勝利投手としてな」

最後に「信じな」と付け足し、そして力強く二宮は笑ってみせた。

いつもの巴なら、少なくとも三十分ほど前の巴だったならそのまま噛み付いていただろう。

だが今の巴は恥ずかしそうに頬笑み返していた。

自然体の巴がそこにはあった。

そんなやり取りをしていくうちに打ち解けた感のある巴に、二宮は気になっていたことを最後にと訊いてみることにした。

「そうだ、結局のところあのカードは何だったんだ?」

「これ? これはね、兄さんが“あの日”わたしに贈ってくれたお花のアレンジメントに添えられていたの」

そう言って巴はずっと両手で包んでいたカードを二宮に手渡した。

渡されたカードを開いて二宮は中身を読み始め、何度も読み返してカードの内容を覚えていた巴はその隣で(そら)んじていく。

 

『巴へ――このアレンジメントに使われている花だけど、巴の好きな花言葉と、そして野咲青果店さんのアドバイスからフラワーセラピーの効能もあるそうだから、それを考慮してガーベラと薔薇にしてみたよ。

希望は絶対あるから、巴の夢も絶対叶うから、だから大丈夫!

それと巴の澄んだ空色の瞳、兄さんは好きだ。どんなに苦しい練習でもどんなに厳しい試合の局面でも、空を見上げれば巴を想うことが出来たから、今まで頑張ってこれた。

空を見てると巴の歌声が聞こえてくる、そんな気がするから。

また巴の歌、聴きたいな――』

 

 兄から妹へ、思いの丈が綴られていたカードの中身を読み終えた二宮。そしてはにかみながらも諳んじていた巴。

ほんの一時、二人の視線は交わり、次の瞬間そよ風が二人の頬を優しく撫でていく。

見ると窓が少しだけ開いていた。そこから吹き込んできたのだろう。

二宮と巴は窓の向こう側に広がる広い、とても広い夏の空を見て笑った。

どちらからともなく、自然と込み上げてくる晴れやかな気持ちを空へと還すように笑い合うのだった――――。

 

 

「…………まさか瑞穂に読まれるとは思わなかったよ。というより、よく巴と話せたね」

 

 ベンチに戻って来るなり一ノ瀬は隣に座っていた二宮に対し、開口一番にそう言った。

五回の表、自らの連続四球で招いていたノーアウト満塁のピンチ、語り掛けてきた一ノ瀬の表情は今までそんなピンチに身を置いていた者のとは思えないほど軽やかで、どこか気恥ずかしそうで。

それもそのはずだった。

5番、6番、7番とそよ風打線の中軸から下位を三者連続。三ヶ月前に調子を崩す前までは一試合で最低でも5つ前後は三振を奪っていた一ノ瀬だったが、今日の決勝戦では四回終わったところで僅か1つ。

それがここに来て、しかもノーアウト満塁という大きなプレッシャーが掛かる場面での三者連続三振、嬉しくないわけがない。

だが、心の奥まで根を張り巡らせていた、三ヶ月の間一度も脱することが出来なかった不調が何故今になって急に復活の兆しを見せ始めたのか――。

「正直、門前払いも覚悟してたんですがね……話せば解ってくれる娘で助かりました」

そこにもやはり、一ノ瀬巴の存在があった。

1点差を追う中盤でのノーアウト満塁という絶望感漂う場面、一ノ瀬と二宮それぞれが“あの日”を思い出していた時、目の前の現状を見るに見兼ねた二宮は昨日の事を一ノ瀬に話していたのだ。

六本木と三人で汗を流した豊夢センター。そこで一ノ瀬達と別れた後、実は一人で頑張総合病院に行っていた事。

そして巴と会い自分の願いを告げた事やお互いに気持ちをぶつけ合った事。

思いも伝わったことで巴は本来の穏やかさを取り戻すことも出来、だからこそ“兄に勝利の瞬間をマウンド上で迎えさせて欲しい”という約束を託された事も。

その真実を知ったことで一ノ瀬は己が心の足枷となっていた不調の根を、自らの意志で払い除け、この大ピンチを本来の力を発揮して切り抜けていたのだった。

「瑞穂、結局兄妹揃ってお前に助けられたよ。本当にありがとう」

「よして下さいよテレ臭い。それよりも! 勝ちましょう! 妹さんの為にも何が何でも」

(ようやく――いつもの一ノ瀬さん、だな)

「ああ、そうだな!」

レガースのベルトを緩めながら一ノ瀬に本来の明るさが戻ってきたのを確信した二宮。

一ノ瀬もまた次の攻撃に備えてバットを手に取り、力強くそう応えた。

 

五回の裏、1点を追うあかつき。

この回の先頭打者は8番六本木。

前の打席ではそよ風のエース阿畑が駆使する彼独特のナックル“アバタボール”を攻略出来ず、セカンドゴロに倒れていた。

ここまであかつきは十六人打席に入ったが散々たる結果で、ヒットは二回に二宮が放った得点にも絡んでいるセンター方向へのツーベースヒットのみ。

 しかし、ベンチで六本木の素振りを見ていた一ノ瀬と二宮は同じことを考えていた。

六本木は豊夢センターで一緒にナックル打ちを特訓していた。だから大丈夫と。

そんなことを二人して考えていると、誰かの気配を感じ一ノ瀬達は同時に気配のする方に顔を向けた。

「あのピンチ、よく抑えてくれたな一ノ瀬」

「か、監督ありがとうございますっ」

そこに現れたのは渋いサングラスを掛けたがっちりとした体格の持ち主、あかつき野球部の監督である千石忠その人だった。

「一ノ瀬、続投難しいようならこの打席、猪狩を代打に送ってそのまま継投してもらうが……どうだ、まだいけそうか?」

ここまでの投球内容は決して良いとは言えない、寧ろいつ交代の指示が出されてもおかしくない状況だったのだが、問い掛けてくる千石監督の表情は何故か穏やか。

「――本来試合には私情を挟むべきではないのですが、いけます。投げさせて下さい!」

「監督っ、オレからもお願いします!!」

そう言って頭を深々と下げる二人に、千石監督は更に語っていく。

「ふっ、やはりそう言ってくると思ったよ。実はな――」

千石監督の口から語られていくのは、今バッターとしてそよ風のエース阿畑と対峙している六本木の言葉だった。

打席に入る前に六本木は千石監督にこう伝えていたのだという――「今の一ノ瀬さんなら最後まできっちり抑えてくれますよ」と。

六本木の気の利いた激励を知ったバッテリー両者は決意を更に固くする。

その様子に安堵のため息を浅く漏らす千石監督。

 改めて千石監督へ一礼し、一ノ瀬は手早く支度を済ませ腰を上げた。

ネクストバッターズサークルへと向かおうとしたその時だった。

「一ノ瀬さん」

「ん、どうした?」

呼び止めた声の主は猪狩守。

先程の千石監督とのやり取りを聞いていたのだろう、グローブもボールも持たず完全な手ぶら状態。

「流石の僕でも投げる気満々のエースがいるのにマウンドに立てませんよ」

手ぶらの状態、つまりは代打やリリーフ継投で交代する意志は自分には無いと、そう意志表示を猪狩なりに示した結果であった。

一ノ瀬はグラウンドに片足を上げ、そして柔らかく頬笑み頷く。

「猪狩ありがとう、甲子園はオレ一人じゃ投げられないからな、期待しているよ」

「もちろん、そのつもりです。僕の目標は世界一のピッチャーですからね」

こんなところでは負けられない。

既に甲子園優勝をも視野に入れた、ともすれば皮肉たっぷりな言動にも聞こえてしまうが、一ノ瀬にはちゃんと伝わっていた。

“あかつき一強”を背負う絶対的エースである一ノ瀬だからこそ感じ取っていた。

猪狩はそれを言うだけの実力を持ち合わせているがそれ以上に努力も継続している、それ故に他者にも厳しいが自身にはもっと厳しいと。

そんな猪狩なりの励まし方なのだと――。

 自分にはこんなにも頼もしい後輩がいる、甲子園を制し野球部を引退した後、エースナンバーを託せる者がいる。

とても少し前まで不調に苦しんでいた者の心理とは思えないが。

そんなことを考えながらネクストバッターズサークルへと一ノ瀬は向かっていった。

 

『9番、ピッチャー一ノ瀬君』

 

 程なくして一ノ瀬の本日二度目の打席がやってきた。

前のバッターである六本木はアバタボール攻略に苦しみながらもカットで粘り、内角高めに甘く入ってきたアバタボールを打ち、ノーアウトランナー一塁。

豊夢センターでの特訓が活きている、ならば自分も打てる。

「――ストライク!」

(くっ、ここまでかなりナックルを投げ続けているのにこの変化か……)

そう思っていたが、現実はそう甘くはなかった。

確かに豊夢センターでナックル打ちの特訓をした、しかし一ノ瀬は二宮と六本木を指導していたこともあり二人に比べれば打ち込みの絶対数が少ない。

加えてピッチング同様バッティングも三ヶ月前の“あの日”から調子を落としていた。

如何にその不調が内面から来ていたものであり、今はその不調から脱していたとはいえ、感覚的な部分はまだ勘が戻りきっていないのだ。

ましてや相手は県内屈指の変化球を武器に持つ阿畑、アバタボールだけでも厄介だがシュートやカーブ、フォークまで織り交ぜられたら三本松や七井であっても容易に打てるものではなかった。

(むっふふっ、後は追い込んでアバタボール7号でアウト1ついただきや!)

(今のオレではやはり打ち崩せない……なら取る道は一つ、か)

 そこからテンポ良く投げていく阿畑だったが外角高めへのシュートはカットされ、内角低めコーナーギリギリのカーブ、そしてフォークは低めに外れてカウントツーツー。

一ノ瀬は横目でちらっとベンチを見る、しかし千石監督からのサインは出ていない。

出ていないどころか両エースの戦いを見守るようにただ黙って両腕を組み、じっとグラウンドを見つめていた。

視線をマウンド上の阿畑へ戻した一ノ瀬はバットを構え直す。

ファーストランナーの六本木もベンチと打席の様子を察したのかリードの距離を僅かに広げていく。

一呼吸の後、阿畑はノーワインドアップのモーションで左足で地面を踏み込んでいった。

「これで――終いや!」

気合いの言葉と共に放たれたほぼ無回転のボールは内角低め、ストライクゾーンの縦ラインをギリギリ割るか割らないか。そんなかなり際どいコースへと向かっていく。

球速はせいぜい110キロの中ほど、この程度の球速であればあかつき打線もここまで打ち倦ねることはなかったのだが、ミットに近付くにつれてその揺らめきを増していく選ばれし九人(ロイヤルナイン)ですら完璧に打ち取ってきた魔球――それがアバタボール。

 

「……ここだ!」

「な? なんやて!?」

 

 その一瞬に球場全体がどよめいた。誰もが打つと、一ノ瀬はヒッティングすると、そう思っていたただけに皆驚きを隠せないでいたのだろう。

試合中盤、1点ビハインド、ノーアウトランナー一塁、得点チャンスを簡単には作れそうにもないピッチャー。それでも“あかつき一強”を背負っている一ノ瀬塔哉ならばバットを振る、そう思っていた。

事実、一ノ瀬はあかつきの得点力ある打線と自身のその高い打力も相まって、高校生になってからのほぼ全ての打席でバットを振るっている。

しかし、今この試合を観ている人々の目に流れ込んでくる現実は違っていた。

勢い弱く土の上を転がっていくボール、二塁に向けて全力疾走する六本木。

誰もが予想もしていない現実――いや、恐らく千石監督と六本木だけは一ノ瀬の意図を酌んでいたのかもしれない。

エースで4番としてあかつきを牽引してきていたあの一ノ瀬がランナーを送るためにバンドをしたのだ。今の今まで不調で苦しんでいた自分が勝利の為に成せる事、それは安全な形でランナーを進塁させることなのだと。

 他の高校ならば作戦の一つとして十分に有り得る手段も、今のあかつきでは有り得るはずのない一ノ瀬の思いの込められた送りバントでワンナウトランナー二塁。

アウトカウントをそよ風に一つ献上してしまったがこれで得点圏にランナーを置くことが出来た。打順も丁度一回りして三巡目へと突入していく。

ここで右打席に入るのは選ばれし九人(ロイヤルナイン)の一人、八嶋であった。

チーム一の俊足バッターである八嶋はここまで2三振と結果は振るってないが、放つ雰囲気はどこか飄々としていた。

一ノ瀬が身を削って作ってくれたチャンスを更に広げたい。

その一心で八嶋もまた初球に対してバットを寝かしていく、阿畑の投じた低めの外側へ外れていくアバタボールにバットを押し当てていき、自身も一塁へ向けて加速していった。

フォロースルーを終えた阿畑は慌てて一塁側へ転がっていくボールを右手で掴むが――。

「セーフっ、セーフ!」

「ギリギリ間に合ったーーーー!!」

「な、なんちゅー足しとんねん……」

ファーストへ送球するも間に合わず、結果六本木も三塁を陥れることに成功していた。

アウトカウントはそのままでランナー一塁、三塁、犠牲フライでも1点入る場面。

県内の絶対王者たるあかつきがこの絶好の得点チャンスを見逃すはずもなかった。

続く二番の四条、一ノ瀬の時とは違って千石監督から早々にスクイズの指示が飛ぶ。

四条はこれを完遂、あかつきがようやく同点に追い付くことが出来た瞬間だった。

 だが、この回のあかつきの追撃もここまで。

四条のスクイズによりツーアウトなった後は3番の七井が三振に倒れてしまいここで五回裏の攻撃は終了となる。

 

 そして六回表、ここから一ノ瀬は調子をどんどん上げていった。

「よし、一ノ瀬このまま最後まで頼むぞ」

「はい! もうこれ以上点を取らせはしませんよ」

復活の兆しを見せた前の回の三者連続三振、それを更に六者連続三振へ伸ばす快投を見る者全てに見せつけた。多彩且つ高レベルな変化球を寸分違わぬコントロールで狙ったところへ決めていったのだ。

今ここに在るのは正しく、三ヶ月前までマウンド上に在った一ノ瀬塔哉本来の姿。

そして県内最強サウスポー、絶対王者あかつきのエースの姿だった。

(フッ……これだと僕の出る幕はないみたいだね)

その雄姿はベンチで見ていた次代のエースの心にもしっかりと刻み込まれたことだろう。

 

更に七回のあかつきの攻撃、ここでも一ノ瀬のプレイは躍動していた。

第2打席でセカンドの頭上を越すヒットを放っていた六本木、この回も先頭打者だったがボール球をきっちりと見極めて四球を選び出塁。

ノーアウトランナー一塁――。

ここで迎えるバッターは9番、少し前にも同じような場面で打席に入った一ノ瀬である。

今日ここまでの一ノ瀬は三振と送りバントによる犠打と全く打てていない。

マウンド上の阿畑も一ノ瀬に打たれるイメージは抱いていなかった。

(何かしらの理由あっての前打席のバントなんやろ……なら痛打はないと思いたいわ)

そう思い、そして一応の用心としてアバタボールを初球から連発――が、その用心が裏目に出てしまうことになる。

一球毎に一ノ瀬の鈍っていた打撃の勘は冴えていき、その結果そよ風側の思惑に反してボールカウントの方が先行、一転して不利な立場に立たされてしまう。

仕方なく他の球種で一ノ瀬を打ち取ることをそよ風バッテリーは決めたが、あかつきでもトップクラスのバッティングセンスの持ち主である一ノ瀬にとっては寧ろその決断は好機でしかなかった。

阿畑が投じた7球目。

外角低め、コーナーを突くようにしてリリースされたボールが走ってくる。

「くっ、届いてくれ――!」

「打ち損じてくれればワイの勝ちや!!」

どうせフルカウント、最悪歩かせてもいいという気持ちで際どいところにシュートを投げ込んできた阿畑。

一ノ瀬は左打席から可能な限り腕を目一杯伸ばしてバットを振り切っていった。

ほぼ同時に快音が頑張市民球場内を駆け巡る。

流し打ちの形で打ち返された打球は緩やかに放物線を描きながらレフト方向へ。レフト中山は打球の落下点を見定めながら一歩、また一歩と少しずつ後退していく。

だが、頭上に差し出された中山のグローブに打球が収まる感覚はいつまで経ってもやってくることはなかった。

次の瞬間――。

 

「わああああああぁーーーっ!」

 

 球場全体から、取りわけあかつきの応援団が集まっている一塁側内野席からどっと歓声が沸き出した。

「んなアホな……」

打球の飛んでいった方向を呆然と見つめていた阿畑を尻目に六本木が、一ノ瀬がダイヤモンドを一周してホームへと還ってくる。

 一時は負け越し、何とか同点まで追い付いたあかつきは終盤となる七回裏、遂に勝ち越し。ツーランホームランを放ってみせたのは一ノ瀬だった。

この一打は仲間のため、自分のため、そして何より巴のために。その一ノ瀬の強き思いが引き寄せた奇跡だったのかもしれない。

 一ノ瀬の放った一発により逆に2点差を追う形となってしまったそよ風だったが、本来の実力を取り戻した一ノ瀬は最早敵なし。

八回表の先頭打者は5番嵐田からと打順的にも悪くはなかった、しかし正確無比なコントロールの前に手も足も出せず嵐田は三球三振。続く6番の松風も多彩な変化球に翻弄されて三球三振に倒れ、三者連続三振は免れたものの7番風祭は一転してストレート主体のピッチングに押されショートゴロ。

瞬く間にスリーアウト、反撃の狼煙を上げる暇さえ与えてもらえなかった。

一方、あかつきにはその裏の攻撃で勝利をぐっと引き寄せる一振りが飛び出す。

今日2打数2安打1四球と打撃好調の二宮によるセンター方向へのソロホームラン。

貴重な1点を追加、スコアは2対5と最終回を前にして戦局は大きく動き始めた。

 

 決勝戦もいよいよ大詰めとなり、9回表。

そして、マウンドに立っているのは“あかつき一強”を背負う者、一ノ瀬塔哉。

夏の日差し、力の限りの声援とそれぞれの思い、それらが重なり合って今日一番の熱気となり球場全体を包み込んでいた。

その熱気の中、もう後のないそよ風は阿畑の号令でベンチ前に円陣を組んでいく。

「ワイのせいでこないな苦しい展開になってもうて……ホンマすまん」

申し訳なさそうな表情で言葉を絞り出していく阿畑。

しかし、仲間達の顔を見渡していくうちに阿畑の表情も少しずつ緩み出す。

「……って、みんななんちゅー顔しとるんや、せっかくのシリアスな雰囲気台無しやん」

「何言ってるんですか、阿畑さんのお陰で僕達ここまでこれたんですよ?」

「阿畑さん以外が投げてたらもっと打たれてたと思います」

「そもそも個人的に決着つけたいヤツがいるからあかつき戦はワイが投げる! って言ってたの阿畑じゃなかった?」

暫しの沈黙――。

「あ、言われてみればそうやな。アハハハ……はぁ」

一年や二年、そして同学年の仲間からも率直な励ましを受け、嬉しいやらこそばゆいやら。

ボケた後に希にやってくるスベった感覚、それに似た感覚を抱きながら阿畑はエースとして、キャプテンとしてチームをまとめる最後の言葉を発していく。

「せやな、暗い気持ちで戦ってたら結果まで暗くなってまう。だから、最後までワイらの野球をしようや!」

「「オーーーーっ!!」」

 

 決意が固まったそよ風、打席には8番中山。

キャッチャーズボックスにしっかりと腰を落とし構えた二宮は横目で中山を確認し、マウンド上の一ノ瀬は二宮のミットだけを見据えていた。

(今の一ノ瀬さんなら下位打線が相手でも万が一は有り得ない、勝てる――!)

(残るアウトはあと3つ……巴、待っていてくれ)

そして気持ちを新たにした一ノ瀬はセットポジションからワインドアップモーションへと移行し、左腕をしならせていく。

「ストライク!」

中山への初球は内角高め、コースに決まった140キロ前後のストレートからは球威が衰えている様子は見られない。

最終回、しかも五回までで9つの四球を出してる分球数は必然的に多くなっていて疲労も蓄積しいるはず、にも拘わらずこの球威である。

それはきっと妹の願いに応えてやりたい――そんな兄の想いが既に限界を超えているはずの一ノ瀬の心と体を支えているのだろう。

 中山の見逃し三振からワンナウトとなりバッターは9番阿畑。

「諦めたらそこでゲームセットや、ワイは諦めへんでー!」

一ノ瀬ほどではないにしろ阿畑もバッティング能力は高く、調子が良ければ打線の中軸を担えるだけの打撃力を持っていたりする。

「……」

――が、追い込まれてからの主審が下した判定はストライク。

阿畑は結局一球もバットに当てることなく三振、無言のままベンチへと帰っていった。

これでツーアウト、随分と長く感じられた決勝戦も残すところあと僅か。

「あとひっとり! あとひっとり!! あとひっとり! あとひっとり!!」

一塁側の内野席、あかつき全校生徒と応援団によるあと一人コールが球場全体に鳴り響く。

マウンド上の一ノ瀬にも、キャッチャーズボックスにいた二宮にも、ここに居る誰もが球場内の空気の振動を全身で感じ取っていた。

 

「すみません、タイムお願いします」

「――タイム!」

 

 徐に腰を上げた二宮は主審にタイムを申告、あと一人コールの中マウンドへと駆けていく。

「ん? どうした瑞穂」

「あ、いや、特に何もないんですけど……何となく」

お互いミットとグローブで口もとを覆い隠しながら言葉を交わしていく。

五回の表、あの大ピンチの時と同じ光景。

しかしあの時とは状況も違い、二人は笑っていた。

「そうか、最後まで気を遣わせてしまったな」

「いえ――それじゃあオレ戻ります、と言ってもまたすぐ来ることになりますがね」

「ああ、期待して待ってるよ」

にこやかな雰囲気のまま短い会話は終わり戻っていく二宮を一ノ瀬はただ黙って見守っていた。二宮の足取りと一ノ瀬の眼差し、そこにはもう迷いなど存在していないようだった。在るのは勝利への確信のみ。

戻った二宮はキャッチャーズボックスに入り直し、一ノ瀬はバッターへと向き直る。

プレイが再開されツーアウトランナー無し。

バッターは一巡して5打席目、1番、左の速水。

一ノ瀬は二宮が出したサインに対して首を横に振ることなく、ミット目掛けて投げ込んでいった。

1球目、外角低め外れていくスライダー、空振りでストライク。

2球目、真ん中高めラインギリギリにストレート、見逃してツーストライク。

「あと一球! あと一球!! あと一球! あと一球!!」

そして、何事も起こらなければ次の一球で全てが決する、この試合の行く末を見守っている全ての人達はそう感じていた。

一ノ瀬もそう、この三ヶ月間一度も味わっていなかったその瞬間がすぐ目の前まで来ているのだから誰よりもそれを強く深く感じていたことだろう。

(巴、見ていてくれ)

少しの間青く澄み渡る空を眺めていた一ノ瀬、閉じていた目を開けた。

左手で握っているボールを更に力強く握り、ワインドアップモーションを起こしていく。

リリースする左腕を意識しながら肩を回転させていき投球軸を捉え、前方に出されていく右足。

一瞬遅れて左腕がしなり、指先から放たれた白い軌跡がミット目掛けて走っていった――。

 

 

 ――――開けていた窓から病室へと吹き込んでくる柔らかい風。

 

『決まったあああーっ、決勝戦を制したのはやはりあかつき! そして最後まで重圧のマウンドを守り通したのは一ノ瀬! 復活を遂げた左腕が甲子園への切符を掴み取りましたあああーっ!!』

 

 個室に備え付けられていたテレビから興奮を隠しきれない地元テレビ局のアナウンサーと解説者の声が響いてくる。

ベッドの上で起こしていた上半身はその瞬間、小刻みに震え出した。

「兄さん、やった、ね……!」

メッセージカードを胸の前で両手で抱きながら、顔をくしゃくしゃにしながら巴は泣いていた。嬉し涙を流していた。

(瑞穂、くんも…約束、守ってくれてありがとう――)

涙で喉が詰まりそうになりながらも呟いた。

おめでとう――と。

ありがとう――と。

そう何度も何度も呟いた。

 巴の膝の上にはスコアブック、ページは開いたままだった。

ページの日付は今日、書かれていたのは夏季県大会決勝戦。

巴がテレビを観ながら書いていたのだろう、テレビで知り得ることが出来る内容を可能な限り、事細かに記されていた。

――3打数3安打1打点1四球、本塁打1本。

自分に明日への勇気を与えてくれた、考え方を変えてくれた二宮の打撃成績もしっかりと書かれていた。

そして一ノ瀬塔哉、つまり兄の投球内容に至っては一球一球コースや球種、打たれた方向やどんな打球だったのかまで本当に詳しく。

だが、最終回だけ空白のままだった。

巴もまたこの試合を始まりからずっと観てきていた。

立ち上がりからの不調も、五回表のノーアウト満塁からの好投も全部。

兄の全てを見てきたからこそ、感じていたからこそ最終回での一ノ瀬が抱いていたものも巴には伝わってきていた。

だからこそスコアを書くことすら忘れ、最後の一球である内角低め、バッターの腰の高さほどからストライクゾーンへと入ってくるカーブ。

その一球を固唾を呑んで見守っていたのだろう。

 

 窓の隙間から流れてくるそよ風が真ん中で分けてある巴の淡い藤色の前髪をそっと揺らしていく。

ふと視線を窓の方へ向けた。

「わたしも約束守らなきゃ……ちゃんと、謝れるかな」

巴の澄んだ青空のような瞳に映っていたのは果てしなくどこまでも広がっている夏の空。

とても清々しい、太陽が輝く青く澄んだ空だった。

 




――はい!

このあかつき外伝の前後編はパワ11の日本代表編で少し語られた一ノ瀬兄妹と二宮さんを何故そうなったのかを含めてしっかり描きたかったので、ここまで何とか書き切れてホッとしております(^ー^;A
因みに、前回後書きにて『あかつきレギュラー陣の名称ですが、もうあれ、厨二病全開なネーミング~』と書きましたが……その数年後のパワプロアプリにてあかつきシナリオが追加された際、公式が全開フルスロットルだった(主に十傑ネーミング)ので、それを目撃した時に自分は「選ばれし九人、よし浮いてない!(そしてあかつきフルメンバーのパワターも出揃った!)」とか思ったとか何とか(笑)

~ちょっとした?余談~
前回の後書き時に2013最後のシナリオ、ラグナロク分校が来たー! と盛り上がっておりましたが、時というのは無情なもので……前回~今回までの年月で2016,2018と発売され、更には予定通りなら今年7月に2020発売となりますね!\(^o^)/
そしてこの5年半弱の間でアプリ経由(実際はヒーローズや2016,2018のサクセスでの新規キャラもいますが、人数的にはほぼほぼアプリから、かなと)ではあっても新キャラもの凄く増えていてそれがまた魅力的なキャラばかりなので彼・彼女達も長い目で見て自分の小説内で出せたらいいなー、と今色々考え中です(出せたとしてまだまだ先の先かもですが…)


次話についてはまたいつ更新出来るかは不明ではありますがなるべく年を跨いだり、など無いように頑張りたいと思います!
後書き含め、ここまで読んで下さった方々、本当にありがとうございました!!(*^O^*)

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