女体化して女子大に飛ばされたら初恋の人に会えたけど、面倒な運動にも巻き込まれた。 作:斎藤 新未
「何やってるのよ!」
カレンはまっすぐこちらに走ってきて、そして千鶴を思い切りビンタした。
千鶴の手からは力が抜け、上着から手が離された。
俺はその場にうずくまる。
息をするとピーピーと喉から変な音が聞こえる。
危うく、意識が飛んでしまうところだった。
「千鶴が、トーコを連れてきたの?」
「ち、ち、ちがう。ちがうの」
千鶴の声は大きく震え、あまりの動揺に扉に派手に背中をぶつける。
「じゃあなんで手足の縄が切れてるのよ」
「知らないよ!」
逃げ場を失った千鶴の、ヒステリックな叫び声が廊下にこだました。
「トーコ」
カレンが、俺をまっすぐ見た。
「屋上に出てどうしようと思ったの。出たら殺されるんだよ。お願いだから、生きてよ!」
カレンの意外な言葉に、俺もまっすぐとカレンを見つめ返す。
「なんで、俺のこと…」
するとカレンは、表情を緩めて言った。
「私、ずっと考えてた。でも、考えても全然わからなくて…」
一度目を伏せてから、つま先から頭のてっぺんまで、じっくりと視線を這わせる。
「今のトーコは、絶対トーコじゃない。でも、この手とか、足とか、顔とか。やっぱりトーコだから。それにほら、ここにあるホクロ。これはトーコのホクロなの」
手、足、顔に触れて、そして首筋に触れ、俺の顔を愛おしそうに見つめている。
涙を浮かべたその大きな瞳に、吸い込まれそうだった。
「あのとき変な薬を飲んで、記憶が混乱しているだけなら、私が元に戻すから。今は人がかわったような気がするけど、きっとまた記憶が戻るはずだから」
アキたちがこれからのことを相談していたあのとき、カレンはずっとトーコについて考えていたのかもしれない。
どんなに確認しても身体はトーコなのに、記憶がなくなっただけじゃなく、まるで別人のように性格まで変わってしまっていたトーコ。
あの薬のせいで、精神になんらかの異常をきたしたのではないか。
これが、カレンなりの答えのようだった。
「だから、死なないで。お願いトーコ。一緒にここを出よう」
カレンは顔をくしゃくしゃにして俺にしがみついてくる。
何と答えたらいいかわからず、そっと肩に手を置いた。
クククク。
また、あの嫌な笑い声が聞こえた。
見上げると、千鶴は、俺たちを見て気味の悪い笑顔を浮かべていた。
「何がおかしいんだよ」
「だって、逃げられるわけないもん」
カレンは勢いよく千鶴を睨みつける。
「逃げられる!逃げるのよ!」
「カレンさんは、犬ですか?」
「…違う」
「だったら逃げられませんよ。私は保護してもらいますけどね」
「待って、千鶴は犬だっていうの?」
「そうですよ。国家のために働いてきた、犬ですよ」
「そんな…。じゃあ、国家機密はもう?」
「いいえ。私が持ちだしたわけじゃありません。でも、警察がまだ攻撃してこないところを見ると、あなたたちの中に犬がいそうですね。カレンさん。もう一度聞きますが、違うんですか?」
その時、カレンは何かを思い出したように天井を仰いだ。
その沈黙に俺は、違和感を抱かざるを得なかった。
まさか、カレンが本当に…?
「カレン…?」
しかしカレンは強い目線で俺を見返す。
「私じゃない。私は、そんなことしない」
何かがひっかかったが、ウソではないことを信じるしかない。
「家族のところに、帰りたくないですか」
「…帰りたいよ」
カレンがつぶやくように言い、俺も父親と母親の顔を思い出した。
父親は俺と違っていつも冗談ばかり言っている人で、母親はそんな父によく頬をふくらませていた。
ケンカすんなよ、うざいなぁって、よく思っていたはずなのに。
今はただ、あのケンカをまた見たくて見たくて、涙が出そうになる。
「だったら、カレンさんも犬になりましょうよ。私、これから警察に降伏しますから、一緒に行きましょう。ただ身体をもてあそばれるだけで苦しい事なんて何も」
千鶴の言葉をカレンが遮った。
「千鶴は、またその生活に戻るの?」
「え?」
「身体をもてあそばれるだけのその生活に、戻りたいの?」
千鶴は、その質問を予想していなかったようだ。
口をポカンと開け、言葉の意味すらできていないかのようにカレンを見つめている。
「そうだよ」
俺も意を決して口を開く。
「そんな生活やめろよ。マツリも…なんで、自分の身体を大切にしないんだ。家族のためって、そんなことして家族が喜ぶのか!?」
切実な思いだった。
しかし千鶴は小さく笑う。
「だって、家族に売られたんですよ、私」
「…逃げだそうって思わなかったのか?」
「思いませんよ。小さい頃からそんな生活が当たり前だったんだから。ご飯を食べたあとに歯を磨くみたいに、朝になったら新聞を取りに行くみたいに、火曜日の夜になったらホテルに行く。これが、当たり前のことだったから。みんながそれをしていないって知ったときは、本当に驚いて…」
千鶴は、声をつまらせた。
「驚いて、それから、うらやましかった…」
大粒の涙が、千鶴の目からこぼれた。
「今まで、誰かに言ったことは」
「言えないですよ。こんなこと」
俺は一歩千鶴に歩み寄る。
「俺に相談しろよ。俺だったら、トーコだったら、お前の悩みちゃんと受け止めてたよ」
「そうなんでしょうか」
「そうだよ」
「それなら、トーコさんと、友だちになっておきたかった」
「何言ってるんだよ。友だちだろ?」
千鶴は小さく、でも嬉しそうに笑った。
俺はさらに一歩歩み寄る。
「警察に降伏なんてしないで、一緒に逃げだす方法を考えよう。逃げ出したら、そんな生活捨てようよ」
しかし千鶴は、今度は力なく笑う。
「ムダです」
「なんで」
「言いましたよね、一ヶ月以内に戦争が起きるって」
「戦争!?」
カレンが、声をあげた。
「はい。戦争。しかも、ただの戦争じゃないです」
「…というと?」
「ずっと揉めていた国あるでしょ。あの国が日本に原子爆弾を落とします。そこから日本が反撃します。その戦争で、日本人の3分の1が死にます」
「ちょっと、ちょっと待って」
思考も口も追いつかず、うまく舌が回らない。
「なんで、そこまで?攻撃されることまで」
「すべては、国際レベルで計画していること。知っていますか?この宇宙に、人間が棲める星など地球の他にないんです。今、世界中の資源が減少していて、生活が追いつかない状況になっています。だから、人口削減を図るためにと、国際会議で決まったらしいです」
俺とカレンは、言葉を失ってしまった。
「だからこれから、世界各地で戦争が起こりますよ。みんな死にます。みんなみんな」
また千鶴は肩を震わせて笑って、そして泣いていた。
「私は行きます。家族を守らないといけないので」
そうして千鶴は、静かに屋上への扉を開けた。
ヘルメットとタオルを置き、そして外へとゆっくり歩いていく。
俺たちはもう、なすすべがなかった。
千鶴の小さな背中が、さらに小さくなっていく。
「そういうことだったのか」
いつから聞いていたのか、アキと園子と椿が姿をみせた。
「みんな死ぬ、か…」
椿が眉をしかめ、千鶴の後姿を見送る。
千鶴の話が本当かはわからない。
でもここにいる全員、多少なりとも、救いようのないような絶望感を抱き始めたのは間違いなかった。
屋上に出た千鶴は、大学の正面に向かって両手を大きく振っている。
飛び上がっているところを見ると、顔見知りの誰かを見つけたのだろうか。
「園子、椿、戻ろう」
アキがそう言って踵を返す。
俺とカレンはアキたちを追いかけることもできず、その場に立ちつくしていた。
その時、
パスン。
風を切る音が聞こえた。
屋上にもう一度目をやると、千鶴がゆっくりと背中から倒れていく。
その音を聞きつけ、アキたちも屋上の入り口へ慌てて戻ってきた。
屋上では、追い打ちをかけるように何発もの銃声と同時に、千鶴の顔、胸、腹、足から血が吹き出し、まるで操り人形のように身体を折り曲げながら崩れ落ちていった。
しばらく、俺たちはその場を動けなかった。
その光景はまるでスローモーションのように頭の中を流れ、我に返ると、確かな絶望が俺を襲った。
アキたちが一斉に走りだす。
俺とカレンも、その背中を追いかけた。
身体を丸めて疾走する。
とりあえず、講義室Bへ。