御原がサングラスを外した。
まず標的となったのは翼だった。幹部の露わになった目が翼の目とかち合う。一瞬、御原の目が光ったように感じ翼は身震いした。
何が起こったのか、彼には分からなかった。
「翼先輩!」
蜜柑の声、棗と流架の驚いた視線。それらによって初めて、自分の状況を知る。己の右足が異様に重い。制服のズボンごと、灰色の石へと変じてしまっている。
「なんだ、これ・・・・・・」
呆然とつぶやいた翼の脳裏に、森にあったアリスがよぎった。ごろごろと転がっていた石像。メドゥーサ、石化のアリス。
アリスの攻撃はやまない。再度翼に襲いかかろうとしたそれを、流架が庇おうと走り寄った。翼の身体を突き飛ばす代わりに、彼の肩がアリスの標的となった。
「これは失礼」御原が意地悪く笑う。「肩とはきわどいところにやってしまった。このままでは心臓へ血液がうまく回らなくなってしまう」
尻餅をついたまま動かない流架を見て、最も動揺したのは棗だった。彼の怒りに呼応するように、炎の壁が強くなる。だが不意に、棗は胸を押さえて苦しげに咳き込んだ。強くなっていた炎が、弱まり――ついには消えた。
「どうやらずいぶんと身体に負担をかけているようだ。このまま足掻こうが、何もかわらない。消耗した姿でZへ連れていかれるだけのこと――いや、待て・・・・・・」
何かを思いついたようだった。柚香、と御原が呼ぶ。
「こやつらに付き合う必要などどこにもない。すぐにでもアリスを奪ってしまえばよい。ここにいる全員のものをね」
「・・・・・・4人分のアリスを一度に奪えるほど、私の力は強くはありません」
「いざというときに役立たずですね。ならば黒猫のだけでも盗んできなさい」
柚香が棗のもとへ歩み寄る。攻撃されることなどまるで考えていないかのように、ためらいもなく。棗、と翼が叫ぶが、本人は動かない。動く体力がないのか。それとも。
「――お前のようなアリスは、ない方が身のためだ」
するり、と柚香の腕が棗の方へ伸びていく。抵抗もせず、己の首に絡みつくのを、棗の赤い眼はただただ凝視する。視線は磁石のように引きつけられ、離れない。アリスを盗られる、そんなことが本当にあるのか、もしそうなれば自分はどうなるのか――
ぐるぐると回る現実味のない思考を、高い声が打ち砕いた。
「棗!」
蜜柑の声だった。志貴に拘束されていたはずの彼女は自由になっていた。なぜか。
「志貴、貴様、手を抜いたか!」
御原が怒りの声を上げたが、志貴は手抜きなどしていなかった。彼の結界のアリスを、蜜柑の無効化が打ち砕いたまでのこと。殿のアリス石を握りしめながら、蜜柑は未だに無効化を働かせている。
「棗に手を出すな!」
そう柚香に向けて叫ぶ。強い言葉の裏に懇願が見え隠れしていると、分かるものには分かっただろう。
微動たにしない柚香の頬が不意に赤く照らされ、爆発音と振動が身体へ打ち付ける。隙を突いて棗が炎を放ったのだ。御原の方へ向けて。
咄嗟に志貴の結界が御原を守ったが、炎はそのさらに奥の壁をも飲み込んだ。奥で爆発音が立て続けに起こる。黒服達は顔を青くした。そこには組織のコンピューターやこのアジトの制御装置がある。御原も緊迫した表情で部下を動かしたが、返ってきたのは悲鳴混じりの返答だった。
「駄目です幹部! このままでは自爆装置が・・・・・・!」
じりじりと追い詰められ、御原の目は血走っていた。こうなったのも、学園のやつらが来たからだ。こいつらが来なければ――
不意に、御原は痛みを感じた。何かが突き抜けたような感覚、その直後の激痛に、思わず叫んだ。何が起こったのか。ぼたぼたと、雫が落ちる音に視線を下げれば、鮮血が床へと待っているのを見た。己の、腹から。腹に突き刺さったナイフ。
刺した人物はいつの間にか目の前に来ていた。
「柚香、貴様、なんのつもりだ!」
すみません、と義務的に柚香の口が動いたように、蜜柑には見えた。
「すぐに手当をすれば助かるでしょう」
「貴様・・・・・・」
御原の顔は憎悪で醜悪に曲がっていたが、状況の悪化を彼も悟っていた。今にも気絶してしまいそうなほどなのだ。苦虫をかみつぶした表情で部下へ瞬間移動を命じる。柚香や棗を睨み付けながら、彼らは消えた。
部屋を見回し、自分たち以外誰もいないのを確認してから、柚香は蜜柑達を振り向いた。その手にはぽたぽたと血液を垂らすナイフがある。それを彼女は、流架へと突きつけた。
「舐めなさい。そうすれば石化が解けるから」
流架は意識も混濁している状態だった。無事な蜜柑がナイフを口元にあてれば、肩が喪との色と質感を取り戻した。続いて翼と棗も、嫌そうな顔をしながらも舐め、石化を戻した。
「全員無事ね。ならすぐに廊下に逃げなさい。もうすぐここは自爆装置が起動するから」
「あなたはどうするんよ」
「瞬間移動できる。廊下に行けばすぐに・・・・・・」
「お母さん」
柚香の肩がぴくりと揺れた。翼達が驚きの視線を蜜柑へ向けた。蜜柑もまさか、この状況でこの言葉が出るなんて自分でも想像しなかった。けれども、一度口にした言葉はとまらなかった。
「・・・・・・どうして、助けてくれたん? Z、なのに」
一瞬だけ、柚香の顔に感情が表れた。怒りでも諦念でもなく、いわゆる哀しみに近しいものだった。痛みを堪えるように唇を噛みしめて、またすぐに無表情へ――無理矢理に、感傷をひっこめた。
「――廊下に行けばどうすればいいか分かるはずだ」
「お母さん」
「早く」
翼が強引に引っ張ったので、蜜柑も走り出すしかなかった。振り向きざまに母を見て、すとんと理解が落ちた。蜜柑の母は、母と呼ばれることを拒んだのだ。
「・・・・・・あなたも行きなさい、黒猫」
仲間の後を追おうとしない棗を柚香が促したが、少年が動く気配はなかった。柚香を見上げてくる赤い瞳は、強い感情に充ち満ちていた。
「助けなくて良いのかよ」
「・・・・・・誰を」
「あいつは初校長のものになってる」
それだけ言って棗は出て行った。後には柚香と志貴のみが残される。自爆装置はあと数分にも動き出すだろう。
「――初校長の、もの・・・・・・?」
廊下に出て目についたのは、壁に取り付けられた絵のようなものだった。風景画でも人物画でもない。これは地形図じゃないかと、気づいたのは棗だった。それを受けて翼が叫んだ。
「お前ら、何かキーワードを言うんだ! なんでもいいから! おそらくこれでワープするんだ!」
「――“ZERO”や!」
叫んだのは蜜柑だった。手には柚香からもらったカプセル。
「Zの正式名称や!」
ぐぉん、と空間がゆがんだ。高等部の穴の時のように、蜜柑達は絵へと吸い込まれた。