ソードアート・オンライン~竜殺しの騎士~   作:nozomu7

45 / 46
仮想世界と現実世界での目覚め

「(……ユウ……!)」

 

 ユウは自分を呼ぶ声に、反応した。

 

「(ユウさん!)」

「「(お兄ちゃん!)」」

 

 まるで、半分寝ていて半分起きている、そんな感覚であった。だが、次第に意識がはっきりとしてくる。

 

 ぼやけていた視界が、はっきりと目に映る。そこには、華美な装飾を持つ緑色のトーガに身を包んだエルフに、地面に伏せている黒・茶色・青・紫の髪を持つ、エルフ……というよりは人間大の妖精か? とユウは考える。

 

 だが、若干灰色が混ざった茶色の髪を持つ猫耳少女と、その近くに伏せている青い子竜の姿で、彼はすぐに気が付いた。

 

「シリカ……どうしたんだ、その恰好?」

「ユウさん! 気が付いてくれたんですね!」

 

 気が付いてくれた? とユウは首を傾げ、再び周囲を見る。

 

 なぜか憎々しげな様子で、キリトとユウを睨みつける、緑色の気持ち悪い男。

 

 黒髪ボサボサ頭のエルフ。キリトのように全身真っ黒の両手剣使い。

 

 虚空から現れている鎖で吊るされている、きわどい恰好のアスナ……のような妖精。

 

 赤い服を好んでいたSAOとは異なり、青系統の服でまとめた猫耳娘となったシリカ。ピナもいる。

 

 青い長髪で、アスナや藍子を連想させる雰囲気を持っている妖精。その隣に、紫色の髪をしていて赤いバンダナを額に巻いている少女は、自然と木綿季を彷彿とさせた。

 

 その2人が、なぜか感極まった様子で泣いている。

 

「お兄ちゃん……!」

「木綿季……? なあキリト、ここどこなんだ?」

 

 自分は、キリトがヒースクリフを倒した後にあの水晶のような板の上で、キリト・アスナと共に茅場と会話をしたはずだ。そして、会話が終わり、浮遊城アインクラッドの最期を見届けた後に、生き残った全プレイヤーがログアウトされたはずである。

 

「今いるのは明らかにVR空間。しかも、なぜか全員のアバターがエルフ風。シリカに至っては、なぜか猫耳娘だ。非常に可愛らしいけど、ビーストテイマーだからといって、別に自分が猫耳になる必要などないだろ? そして何より……どうして藍子と木綿季がいる!?」

「え、私たちって分かるの? アバターなのに!?」

「兄貴なめるな。木綿季が『お兄ちゃん』って呼んでくれた以上、すぐに理解できた」

 

 突然のシスコン発言に、姉妹は照れて頬をかく。キリトは呆れた様子でユウを見つめ、シリカは涙を浮かべながら笑顔で彼を見つめていた。

 

「あー、なんか重力増強? なのか? 魔法っぽいのがかかっているみたいなんだけど。キリト以外が伏せているのは、その影響。だったら……シリカ、少し痛いけど、ごめんな?」

 

 ユウはシリカに突き刺さったままの《魔剣フロッティ》を抜くと、地面に叩き付ける。すると、辺り一帯を支配していた強力な重力が、一瞬で霧散した。

 

「な……」

 

 その光景に口をパクパクとさせる須郷の前で、ユウは平然と剣をタップしてその性能を確認する。

 

「ん~、なんだか、おれはこのキモイおっさんに操られていたってことでいいのか? その間のことが、中途半端に記憶に残っているんだが……ナニコレ? 《魔剣フロッティ》。えっと、何々……《魔法破壊》。剣に触れた魔法を無効化する。特殊攻撃及び魔剣の効果も含む。《竜の祝福》。装備するだけでSTR、VIT共に大幅上昇。《竜の翼》。飛行持続可能時間大幅増大……。とんだぶっ壊れ性能じゃねえか。最後の飛行持続可能時間ってのは、よく分からないけど」

 

 とそこまで話したユウは、ウインドウを閉じてキリトを見る。

 

「で、キリト。説明頼む」

「えっと……察しの通り、お前はこの男……須郷に操られていたんだよ。こいつは《アーガス》からSAOのサーバーを引き継いでその管理をしていた《レクト・プログレス》の男で、《レクト》の令嬢であったアスナを自分のものにしようとしていたんだ」

 

 相変わらず、切替の早い親友だ、とキリトは思いながら説明を始めた。

 

「でも、アスナは俺と同じように、ログアウトされないままだったんだよな? いや、SAOからはログアウトしているといってもいいのかもしれないが……。ああ、つまりは事実婚って感じか? アスナを昏睡状態にしたまま、婿養子にでもなろうって魂胆だった」

「相変わらず、恐ろしいほど察しがいいな……で、そのついでなのか、ユウも自分の洗脳の配下において、新たなMobとして使っていたから、シリカたちも一緒にここ……《アルヴヘイム・オンライン》、通称ALOっていうVRMMOの世界に来たんだ。さらに言うと、他にも300人ほどのプレイヤーで人体実験をしている」

「なるほどね……」

 

 ユウはキリトから、その視線の先を須郷に移した。

 

「き、貴様……この世界の創造主である僕に、そんな視線を向けるな!」

「黙れよ屑。野良犬みたいにキャンキャン泣いている暇があったら、剣を取れ」

 

 ユウの言葉に反応して、キリトが手に持っていた黄金の剣《エクスキャリバー》を放り投げた。

 

「決着をつける時だ。泥棒の王と、鍍金の勇者の! システムコマンド、ペインアブソーバをレベル0に!」

 

 ペインアブソーバがレベル0になると、仮想世界で受ける痛みも現実世界のそれと同じになる。しかし、この場でそれに臆する者は、須郷ただ1人だった。

 

 思わず後ずさりする彼に対して、キリトは言う。

 

「逃げるなよ。あの男はどんな場面でも臆したことはなかったぞ。あの……茅場晶彦は!」

 

 その言葉に、須郷が目を見開く。

 

「か、かや…茅場ァ! そうか、あのIDは……。あいつらを手助けしたのも……。な、何で……何で死んでまで僕の邪魔をするんだよ! あんたはいつもそうだ。何もかも悟ったような顔しやがって! 僕の欲しいものを端からさらって!!」

「須郷、お前の気持ちはわからなくもない。俺もあの男に負けて家来になったからな。でも、俺はあいつになりたいと思ったことはないぜ。お前と違ってな」

「こ、この……ガキがぁ!」

 

 キリトの言葉に、須郷が激昂して黄金の聖剣を振るう。しかし、そこには重さも、速さも、技も存在しなかった。

 

 それをひらりひらりと躱したキリトは、小手調べに男の頬を浅く斬る。

 

「いぁッ!? い、痛いィィッ!」

「痛いだ……? お前がアスナやユウに与えた苦しみは、こんな物じゃないだろう!」

 

 キリトが叫び、己の剣を振り下ろす。その斬撃は、思わず己を庇おうとしたその男の両腕を斬り落とした。

 

「いぎゃぁぁああ!? 手が、僕の手がァァッ!」

 

 黄金の聖剣を手放し苦痛の叫びをあげる男を、ユウは冷めた目で見つめた。

 

「全く、愚かだな」

 

 自分の竜殺しの聖剣を肩に担いでいた彼であったが、それを両手で構えると全身で振るった。ただし、刃ではなく、その鎬で相手を殴るという形で。

 

「ごぶべらっ!?」

 

 殴られた衝撃で、地面に叩き付けられる須郷。ユウはその男の髪の毛を掴むと、改造されたSTR値にものを言わせて宙へ放り投げた。

 

 数多の斬撃が、須郷の体を切り刻む。そして、最後にその体を仰向けの状態で地面に叩き付けると、先ほどまでのキリトと同じように、剣を突き立てて床に縫い付けた。

 

「さてと、こんなことをしてくれた礼をしなくちゃな」

「ひいっ!?」

 

 自分でも驚くほど、のっぺりとした感情のない声が出た。その言葉に悲鳴を上げる須郷の胸に馬乗りになり、ユウは両手の拳を握る。

 

 つまり、先ほどシリカにやった内容を返すつもりだった。

 

 がっ、がっ、がっ! と、原始的な音が響く。須郷は仮想世界で抑えきれない涙で顔をぐしょぐしょにしながら、ただただ悲鳴を上げていた。

 

「……こんなもんか」

 

 ユウは最期に、《魔剣フロッティ》の剣先にある斧のような形状の刃で、その頭を真っ二つにする。《アスカロン》とはところどころ異なっているが、その部分だけ同じだった。

 

 その最後の一振りで、須郷のアバターは完全に消滅した。

 

 それを見届けたユウは、その巨大な剣を片手で振り回し、アスナを拘束していた鎖を切断する。突然鎖が切れて倒れそうになった彼女を、キリトが抱き止めた。

 

「……信じてた。ううん、信じてる。これまでも、これからも、君は私のヒーロー……いつでも、助けに来てくれるって」

「……そうあれるよう、頑張るよ。さあ……帰ろう」

 

 キリトはそう言うと、管理者用のメニューウィンドウを開いた。

 

「現実世界はもう夜だ。でも、すぐに君に会いに行く」

「うん、待ってる。私も最初に会うのはキリト君がいいもの。……とうとう、終わるんだね。帰れるんだね……あの世界に」

「そうだ……色々変わってて、ビックリするぞ」

「いっぱい、色んな所に行って……色んな事、しようね」

「ああ。きっと」

 

 その言葉を最後に、キリトはアスナを現実世界へと帰した。

 

 その後わずかばかり余韻に浸っていた彼であったが、すぐにユウのいる方へ振り返る。

 

「さあ、ユウも帰ろう」

「ああ……だけど、その前に話しておくことがある」

 

 ユウはそう言ってキリトを制すると、3人の少女へと向かい合い……そして、頭を下げた。

 

「……俺、お前たちにひどいことをした。シリカにも、藍子にも、木綿季にも」

「ユウさん、それは操られていたから」

「言い訳なんか、確かにいくらでもできるさ。でも、お前たちを傷つけたのは、事実なんだ……」

 

 そう言うと、彼の瞳から涙がこぼれた。

 

「一番守りたかった人たちを傷つけて……俺は、何をやっていたんだろうな」

 

 ユウはそう言うと、シリカを一気に抱き寄せた。

 

「……ユウさん……!」

 

 数か月ぶりに抱きしめられ、彼女はその胸に顔を押し付けて涙を流した。久しぶりの温もりに、自分の心まで暖かくなっていく気がした。

 

 しばらくして互いに体を離すと、彼はシリカの後ろからずっとその様子を見ていた双子を手招きした。その意味を知った彼女たちも、その衝動に任せて自分たちの兄に飛びついた。

 

 ずっと求めていたその2人を、彼は力強く抱きしめる。

 

「ありがとう……俺の妹でいてくれて。ありがとう……俺の恋人でいてくれて」

 

 彼はそう言うと、キリトの方へ振り返った。

 

「キリト……じゃあ、頼む。また、今度は現実世界で会おう」

「ああ……またな」

 

 ユウの言葉にキリトは笑顔で返すと、その精神を元の世界へと帰した。

 

 全てが終わり、これでキリトも、シリカも、ランとユウキも現実世界へとログアウトすることになる。そして、それぞれ待ち焦がれた人に会いに行くのだが……その前に、キリトが突然虚空に向けて言葉をかけた。

 

「そこにいるんだろ――ヒースクリフ」

 

 すると、しばらくの静寂ののちに、突然その姿が現れた。

 

 白衣のポケットに無造作に両手を入れた、若き天才科学者……茅場晶彦が。

 

『久しいな、キリト君。そしてこの姿で会うのは初めてになるな、シリカ君、ラン君、ユウキ君』

「ヒースクリフさん……ですか?」

『この姿では、茅場晶彦と呼ぶのが妥当であろう』

 

 そう言う男に、キリトは問いかける。

 

「生きていたのか」

『そうであるとも言えるし、そうでないとも言える。私は、茅場晶彦という意識のエコー……残像だ』

「相変わらずわかりにくい事を言う人だな」

 

 キリトとランはその言葉の意味が多少分かっているようだが、シリカとユウキにはさっぱりだった。

 

 その代わりに、シリカが訊いた。

 

「やっぱり、あの時助けてくれたのは、茅場さんだったんですね」

 

 その言葉に、茅場は頷く。

 

『まあ、私のIDをキリト君に貸し与えたのは事実だ』

「まあ、礼は言っておくよ」

『礼は不要だ』

 

 キリトの礼を受け取らずに、茅場は話を続けた。

 

『君と私は無償の善意が通用する仲ではなかろう。もちろん代償は必要だよ、常に』

「……何をしろというんだ?」

 

 彼が問い返すと、その頭上から黄金の光が現れた。

 

 それはひとつのオブジェクトとなって、キリトの両手に納まる。それは、卵のような結晶だった。

 

「これは……?」

『それは世界の種子、《ザ・シード》だ』

「《ザ・シード》……?」

『芽吹けばどういうものか分かる。その後の判断は君に託そう。消去し、忘れるも良し。しかし、もし君があの世界に憎しみ以外の感情を残しているのなら……』

 

 そう言った茅場の言葉に、シリカの脳裏にも、あのデスゲームでの2年間の出来事が蘇った。

 

 あの世界には、確かに恐怖と憎悪があった。しかし、それでもあの世界は楽しかった。SAOをプレイしたことで自分の人生は普通の人とは異なるものとなってしまったが、そのことに関してはあまり悔やんでいない。

 

『では、私は行くよ。いつかまた会おう』

 

 その言葉を最後に、茅場は消え失せた。

 

 そして周囲を覆っていた闇を仮想の夕日が赤く染め上げ、巨大な鳥かごの中に彼らは立っていた。

 

「ユイ! 大丈夫か!?」

 

 キリトが気が付き、彼女に言葉をかける。すると、突然上から小さな女の子が姿を現し、そのままキリトに抱きついた。

 

「パパッ!」

「ユイ! 無事だったか!」

「はいっ! パパのナーヴギアのローカルメモリに退避したんです!」

 

 ユイも無事だったことで、彼らは一安心する。

 

「じゃあ、ログアウトしたらすぐに会いに行きたいね」

 

 ユウキの言葉に、全員が頷いた。

 

「うん。私も……目が覚めてから最初に会うのは、キリト君がいいもの」

「ああ。すぐに会いに行く。シリカたちも……ユウに会いに行ってくれ」

 

 その言葉に頷き、全員が一斉にログアウトした。

 

 

 

 

 

 珪子は、再び現実世界に戻ってきた。すると、《ナーヴギア》に存在するバイザーの向こうに、ひとつの影が映る。

 

 どうやら、人のようだった。……まさか!

 

「……珪子、珪子!」

「お母さん!」

 

 珪子は慌てて飛び起き、《ナーヴギア》を頭から外した。

 

「何やってるの!」

 

 かん高い声が、珪子の耳に突き刺さる。

 

「どうして、こんなことをしたの? 答えなさい」

 

 少し低い声でそう言われる。

 

 珪子は、こんな風に母親に怒られたのはいつ以来だろう、と思った。

 

 両親は基本的に一人娘である自分には甘かったし、自分はいつも周りの大人に対して『いい子』であるようにしていたから、あまり怒られるという経験自体が少ない。

 

 しかし、あの世界で慢心し、そしてユウの手によって救われてその背中を追いかけるようになると、怒られる、ということの意味が少しだけ分かってきた。

 

 怒られるという事は、大切に思われているということだ。愛されているということだ、と。

 

 だから、後ろめたさと申し訳なさはあっても、そこに以前のような怖い、という感情はほとんどなかった。

 

「お母さん」

 

 珪子は顔を上げて、はっきりと彼女の顔を見た。心なしか、少し老けて見える。

 

 いや、老けて見えるのは、一番最後に母親と心の底から打ち解けて話をしたのが、2年前だからかもしれない。あの世界から帰って来てから、家の中ではSAOだけでなく、VRに関する話題すら避けられていたから。

 

「ごめんなさい。今、ALOをやっていたの」

「ALO?」

「《アルヴヘイム・オンライン》っていう、VRMMORPG。SAOが終わるよりも先にできた、《ナーヴギア》の安全性を強化した《アミュスフィア》っていうゲームのソフトなの」

 

 そこまで一気に言い切った彼女は、そのまま告げる。

 

「だけど……そこに、SAOプレイヤーで、まだ還ってきていない人が閉じ込められていたの」

「……SAO事件は、もう終わったはずでしょう。珪子も、やっと目が覚めて」

「300人も、まだ目が覚めてなかったの。私があの世界で一緒にいた人も」

 

 SAO事件の被害者が目を覚ました、という大きな報道に押されて、あまりそのことは世間では注目されていない。

 

「だけど、あの世界にいた人と似た人がALOの中にいるって話を聞いて……飛び込んだの。2人に黙っていたのは、絶対に止められると思ったから……」

「止めるわよ。当然でしょう!」

「でも、私は行きたかったの!」

「っ!」

 

 あの世界から戻ってから――否、14年間の中で初めて聞いた娘の力強い声に、母親は怯んだ。

 

「私、VRゲームをやめたくない! お母さんたちにとっては、ただ辛かっただけの2年間でも……私にとっては、そうじゃない。確かに、あの世界は危険が多かった。ゲームが始まったばかりの頃は絶望で自ら命を絶った人も大勢いて、私も見た。ゲームが進んで行くにつれて、そういう人はだんだん減ったけど……今度は、ゲームのモンスターに殺される人を見た。中には、他のプレイヤーに殺された人だっていた! 一度は、私もそういう人たちに殺されそうになった!」

 

 辛い記憶を思い出し、彼女は涙を流しながらも、それでも叫んだ。

 

「でも、別に全部が辛かったわけじゃない! 楽しいことだって、いっぱいあった。可愛い子竜を、肩に乗せた。初めて、ひとりで料理をつくってみた。年上の女の人に、姉のように接してもらえた。何より……大好きな人ができた!」

 

 この気持ちをきちんと分かってくれるのは、きっとあの世界にいた人たちだけだ。言葉だけで、母に全てが伝わるとは思っていない。

 

 でも……その一端だけでも伝わってほしいと、珪子は思う。自分たちの娘が、あの世界でどのように生きていたのかを、知ってほしいから。

 

「だから……止めないでください。お願いします……」

 

 彼女は震え、滲んだ声でそう言うと、最後にベッドの上で正座になり、母親に頭を下げた。

 

 その肩は震えていた。

 

 あんなにも強気に出たばかりなのに……やはり、自らの母親には一生勝てないのだろうか、と珪子は思いながら、その言葉を待つ。

 

「はあ……」

 

 そして、ため息とともに、母親は言った。

 

「いつのまに、こんな強情な子になっていたのかしら」

 

 独り言のようにそう呟くと、「顔を上げなさい」と言われたので、珪子は恐る恐るその顔を上げた。

 

「しょうがない子ね。私の負けよ」

「お母さん……!」

「初めてね。私がここまで怒鳴っても、珪子が言い返してきたのは。私の知らない間に、こんなに育っているなんて……」

 

 そう言っている母の瞳は、嬉しさと寂しさが混ざった複雑なものだった。

 

「あの2年間のことを後悔しないように『たったの2年間だったから』って思いなおそうとしてきたのだけれど……学校に通うよりも、あなたは大切なものを勉強してきたように思うわ」

 

 授業料はあまりにも高すぎるけどね、と続けると、

 

「じゃあ、最後までやりなさい」

「……はい」

「まだ、やることがあるんでしょう?」

「うん。今すぐ、横浜に行きたいの。横浜港北総合病院って所に」

 

 珪子の言葉に「じゃあ、すぐに支度をしなさい。夜遅くなるから」と母や言った。

 

「遅いから、病院の入り口までは一緒に行くわ。危ない夜の街に、娘を一人きりで放り出すわけにはいかないの」

「ありがとう、お母さん」

「それと……」

 

 にこやかな笑みを浮かべる母親に、まだ何かあるのだろうか、と珪子は首を傾げる。

 

「行く途中に、珪子の彼氏について詳しく聞かせなさいね?」

 

 やはり……自分の母親には一生かないそうにない、と珪子は思った。

 

 

 

 

 

 母親が運転する車に乗せられて、彼女は横浜港北総合病院へと移動した。その中でSAO時代での恋人生活のことをかなり吐かされてしまったが、ここでは割愛しておく。

 

 駐車場に車を止め、約束通り病院の入り口まで一緒に歩く。

 

「珪子君と……お母さんでしょうか」

 

 その彼女を迎えてくれたのは、この日の夜勤をしていた倉橋先生だった。なんでも、藍子からALOでの進捗具合を聞いており、《世界樹》に辿り着くおおよその予定時間を聞いていたらしい。それに合わせて「夜に3人が来ても、面会時間が過ぎた裕也君とこっそり会わせられるように」と自分の勤務日程を調整してくれていたというのだから、頭が上がらない。

 

 医師が面会時間をぶっちぎるのを許可するのはツッコミどころ満載なのであるが、珪子はスルーした。というか、それどころではなかった。

 

「私が紺野裕也君の主治医をしております、倉橋です」

「このたびは、娘がご迷惑をおかけして申し訳ありません」

 

 母親が頭を下げるが、彼は笑顔でそれに応えた。

 

「彼ら3人兄妹のことは、患者と医師という関係以上に大切にしてきたつもりですから。その裕也君を初めて側で支えてくれる子ができたことが、僕には嬉しいですよ」

 

 だから、遠慮なく何でも言ってください、と言ってくれた。

 

「珪子君。私はお母さんと話をしていますから、裕也君の元に行ってあげてください。もう妹さんたちは、とっくに彼の病室ですよ」

「ありがとうございます。お母さん、行ってくるね!」

 

 珪子は倉橋先生の言葉を聞くと、すぐさま歩き出した。エレベーターに乗り、そして一直線に彼の病室へと向かう。

 

 扉の前に立つと、深く深呼吸をした。中で、双子のすすり声が聞こえてくる。

 

 うれし泣きをしているのだろう。その声を聞いただけで、自分も心の底から熱いものがこみ上げてきた。それをなんとか飲み下し、そして病室の扉を開ける。

 

 病室の中は、灯りがつけられていなかった。しかし、この日は月が十分に明るかったので、必要なかった。

 

 あの世界で見たその姿と異なり、少年の頬は痩せこけていた。しかし、その笑顔の優しさはそのままだった。

 

「……しり、か」

 

 小さな声だった。声を出す筋肉すら、あの2年間の中で衰えているようだった。

 

 それでも、はっきりと聞こえた。

 

「ゆう、さん」

 

 自分の名前を呼ばれただけで、ここまで嬉しくなることは、今までになかった。

 

 ベッドの傍らにしゃがみこむ藍子と木綿季の手招きに応じるように、彼女は歩み出た。ゆっくりと……だが、狭い病室の中では、すぐにたどり着くことができる。

 

 近づいて手を差し伸べると、その手を握られた。あの世界の彼とは違って、とても弱々しかった。

 

 だから、代わりに自分が力強く握りしめ、そして一気に彼の胸の中に飛び込んだ。

 

「ユウさん!」

「シリカ……ありがとう」

 

 互いに抱きしめあい、互いの存在を確かめ合う。

 

「良かった、本当に良かった……!」

「お兄ちゃん……!」

 

 側にいる双子も、涙を流す。

 

「裕也……俺の名前は、紺野裕也、だ。シリカは?」

「綾野、珪子、です」

「珪子……もう、絶対に離さない」

「私もです、裕也さん」

 

 そこまで言葉を交わした2人は一度体を離した。あの世界が本当の意味で、終わったことを確かめるために。

 

 

 

「おかえりなさい、裕也さん」

「ただいま……珪子」


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。