学園黙示録:Cub of the Wolfpack 作:i-pod男
目覚めた場所は、タオルを敷いたエアーマットレスの上だった。起き上がると、ガラステーブルの向こう側に例のソファーがある。周りの家具も定位置に収まっていた。何も壊れておらず、どこも荒らされた様な形跡は無い。
自分が夢を見ている事を自覚している、確か明晰夢と言う奴だったのだろうか?それにしては五感から取り入れられた情報があまりにもリアルだった。しかしそうでなければアレの説明がつかない。
目頭やこめかみを指で揉みながらずきずきと痛む頭をマッサージし始める。
「よう、起きたか?」
階段を登って来た竜次が笑いかけながら尋ねた。手には小さな土鍋が乗った盆を持っている。
「私は、一体・・・・?」
「アブサンを飲んだ後、バーサがお前に向精神性の幻覚剤のガスを吸引させた。二日の間気を失っていた。」
「幻覚剤・・・・」
「簡単に説明してしまうと、お前が心の奥底にしまい込んだ最も恐れている物を強制的に引っ張り出す効能を持ってる薬だ。そして最悪の形でそれを体験させる。精神崩壊するギリギリの濃度まで上げてたから最初はどうなるかと思ったよ。普通の人間なら心その物が崩壊して精神科病院で一生を終える悲惨な結末を迎える。」
つまり、冴子は心を折られる事無くそれに堪え切ったのだ。
「とりあえず簡単な物を作って来た。冷ましてあるからしっかり食え。」
土鍋の蓋を取ると、溶き卵や刻んだ葱が入った粥が現れた。鰹の出汁の良い匂いもする。冴子は蓮花を手に取って一口掬おうとしたがやはりまだ感覚が多少ボケているらしく蓮花は手から滑り落ちた。
「全く。世話が焼けるな、お前は。」
竜次は蓮花を拾うと少し掬っては冴子に食べさせた。最初こそは恥ずかしがって躊躇していたが、二日も寝ていた所為で胃袋が空腹だと強く主張された所為で結局折れた。
「よく頑張ったな。偉いぞ、冴子。」
完食すると、まるで主人の指示を聞いて誉められる犬の様に優しく頭や顎の下を撫でられた。冴子は気持ち良さそうに目を細める。
「・・・・ワン・・・・」
冴子はか細くそう呟いただけだったが、竜次はそれを聞き逃さなかった。
「ほう、冴子はそう言う趣味があったのか?」
「あ、いや、今のはその・・・・・自然に・・・・・」
赤面しながら慌てる冴子を見て、竜次は更に加虐心を刺激された。
「なるほど、自然に『ワン』と言う鳴き声が出た、と。益々堕落してるな。そんな媚を売る様な目も自然に出来る様になるなんて、狼どころかまるで恥もプライドも無い駄犬じゃないか。よっぽど躾けて欲しいんだな。だとしたら、俺がその内直々に本格的な奴を施してやる。そうだ、今度はチョーカーでも付けてやろう。俺達にしか分からない、お前が俺の物だと言う証を。首輪だったらちょっとあからさま過ぎるしな。」
耳元でそう囁かれ、冴子は鋭く息を飲んだ。ゾワリと背筋が泡立ち、体が火照る。
「さあ、言え。ねだれ。お前は俺に何を欲しい?」
欲しい。彼が与えてくれる物は全て。ゴクリと生唾を飲み込む。
「御影君・・・・いや、竜次、の・・・・・・」
「はい、ストーップ。」
竜次は鬱陶しそうに声がした方に顔を向ける。
「・・・・バーサ、良い所だったのに何で邪魔すんの?」
口ではそう言っているが竜次の口元には笑みが浮かんでいる。恐らくバーサがその場にいる事を既に察知していたのだろう。
「仕事があるからよ。今日の外回りは貴方とスペクターが当番でしょ?大丈夫とは思うけど、一応その子も一緒に連れて行きなさい。それと飴だけじゃなく鞭もしっかり入れるのよ?彼女に一番効く『鞭』が何かは知ってるわよね?」
「勿論。」
竜次のしたり顔を見て満足したのか、バーサは頷いた。
「
バーサが冴子に差し出したのは、ベクターに没収された村田刀だった。
「彼を説き伏せた代償は、外回りの仕事で耳を揃えてしっかりと払ってもらうわよ。暴利もたっぷり付けてね。それと、これはあくまで一時的な『借用』であって『譲渡』ではない事をお忘れなく。」
「はい。ありがとうございます。」
一階では既にスペクターが待機しており、ゴーグルの調子を確かめていた。
「遂に私が外回りか。KGBやFSBでの社畜ならぬ軍畜時代を思い出す。ルポ、今回は何を探せば良いのかね?」
「必要な物と数はリストに書き留めておいた。他に欲しい物があれば調達しても構わんが、これに記載されている物を最優先しろ。先導はここからベルトウェイがやる。ここを襲った不心得者共が使っていた車を使え。」
ダイニングテーブルには銃が何丁か置かれていて、スペクターの傍らには長距離用の高倍率スコープと銃剣を取り付けたスプリングフィールドM1A1、そしてH&K Mk23が鎮座していた。Mk23にはサイレンサーを取り付けられており、複数のマガジンと一緒に置いてある。
「三人一組だから・・・・
「
それを聞いた竜次はあからさまにつまらなそうな表情を浮かべてルポに助け舟を求めた。だがルポは何も言わずに首を横に振る。
「分かった。」
渋々テーブルに置かれたコンパウンドボウ、矢筒、P-14、そして弾薬とサイレンサーを定位置に収めて行く。冴子も並べられた銃を見て迷った。銃を撃つ機会など一般的に規制が厳しい日本ではほぼ無い。冴子もウルフパックに出会うまで触れた事すら無かった。
最近になってようやくスミス&ウェッソン M37に慣れ始めて来たが、銃が持つ正式な名前は勿論選ぶ為の基準すらも未だにあまり分かっていない。
見かねた竜次はテーブルからベレッタM92Fを取り、銃身下部のレールにライトとレーザーポインターを搭載した装置を取り付け、サイレンサーと共に彼女に渡した。
「ベレッタM92F、ハンドガンの中じゃ初心者でも扱えるリボルバーに勝るとも劣らない位シンプルな銃だ。M37の方はベレッタの弾が切れるまで取っておけ。弾切れになってもマガジンはまだ使えるから捨てるな。後、ベレッタを落とさない様に気をつけろ。銃身に傷がついたら暴発の危険性が高まる。」
撃鉄に近い右側面にあるセーフティーをかけてホルスターに押し込み、プレートキャリアーを着込むと、刀を手にして冴子の身支度は整った。
竜次も準備を整えると、ルポ達と抱擁を交わして外へ出た。幸い他所での騒ぎが大きいからか感染者の数は思いの外少ない。急発進させた車で突っ切れる程度の数だ。
「リュウジ、運転を頼む。」
「へーい。」
竜次は運転席、冴子が助手席、そしてスペクターがサンルーフを開けて後部座席から偵察役を引き受ける。アクセルを力強く踏み込んで十分に加速し、小規模の群れを成す感染者をはね飛ばして行く。骸が車体に当たる度に鈍い音がして揺れる。
「竜次、出発する前にスタックが
「三人一組で行動する時はポイントマン、つまり先陣を切る前衛が必要だ。今回それに抜擢されたのが冴子ってこと。前衛に一人、後衛にはスペクターと俺の二人。だから
なるほどと冴子は何度も小さく頷いた。
スペクターが背負っているお馴染みのマンパック型無線機からベルトウェイが指示を飛ばし、スペクターがそれを竜次に伝えて時折道を変えつつ運転を続けた。
「リュウジよ、やはりこの車は駄目だな。」
「最近のハイブリッドはトランスミッションが全部オートマだしね。力一杯アクセル踏んだとしても大して加速はしないし。まあ、利点らしい利点は燃費が良いって一点だけだけど。」
『おい、もうすぐ到着するぞ。一キロ先、左方向だ。』
ハンドマイクからベルトウェイの声がそう告げる。見えて来たのはウルフパックガヘリで移動した時に着陸した、あのショッピングモールだった。
「え、ここなの?」
「ああ。意外と使える物が揃っている。ホームセンターやスポーツ用品店もあったからベクターが欲しがっている矢や材料となる木材も容易く手に入るだろう。ベルトウェイ、建物の中は無人か?」
『いや、何人かいる。今サーモで確認出来るだけでも十一人。一人は多分警察官で銃も一応持っている。他に武器らしい武器を持っているのはその中でも警察官を含めて三人しかいない。と言っても、これはあくまで見えてる物の数を言ってるだけだからな。』
「じゃあどうする?場合によっちゃ殺すか餌にも出来るけど。」
『スペクター、そいつらが邪魔をしたり障害となりうる様ならばあの娘に殺させろ。荒事に馴れて貰わねば後々確実に足を引っ張る。』
「了解した。元々
「母さん、心配しなくても良いよ。俺の言う事だったらしっかり聞いてくれるから。聞かなかったら『お預け』をすれば済むしね。」
『無茶は程々にな。お前は死に難いだけで不死身ではないのだから。』
「D’accord.帰る時にまた連絡するよ。Over and out」
非常階段付近に停車し、二階に登った。非常階段の鍵をピッキングで開き、中に侵入する。先頭に立たされた冴子はサイレンサーを装着したベレッタを片手に開けた扉の裏側などを確認してぎこちなくもハンドサインで安全を伝える。
「スペクター、必要な物って何?」
紙切れを取り出したスペクターはそれを竜次に渡した。
「見た所このショッピングモールで書いてある物は全て揃う筈だ。化粧品と薬が数種類、包帯を持てるだけ、カーボンファイバー製の矢と弓弦、カセットコンロのガスボンベ、ワイヤー、ロープ、歯ブラシ、エアダスター、オイルスプレー、グリース、汚れ落とし、後は化成肥料だ。しかも銘柄を限定している。」
「肥料、ですか?」
何故そんな物がいるのか全く分からない冴子は首を傾げたがその疑問は竜次が解消した。
「冴子、そいつを頼んだのはベルトウェイだ。物にもよるが化成肥料には大抵硝酸アンモニウムがかなり使われてる。燃料油と混ぜりゃあ簡単な爆弾の出来上がり、なんだぜ?ま、使うならガソリンよりもニトロメタンがベストなんだがな。基本的に比率は硝酸アンモニウムが6、燃料が4。後は花火なり癇癪玉なりの小さな発破を起爆剤にして伝爆させれば車一台をバラバラに吹っ飛ばす事だって出来る。勿論、分量をキッチリ考えて事に当たればの話だが。後、発泡スチロールと燃料か石鹸とライターオイルを混ぜてペースト状にすればナパームの出来上がりだ。」
「そ・・・・そうなのか・・・・」
「あ、悪い。冴子の得意分野は文系だったな。理数系の科目は数学以外俺が夏の強化合宿が終わった後で見てやっとお前が満足するレベルに達したし。」
ニヤニヤしながら少しばかり意地の悪い事を言うと、冴子はそっぽを向いた。実際冴子は数学以外は文系の科目を得意としている為、竜次の化学に関するうんちくは殆ど理解出来ていないのだ。
「こらこらリュウジ。冗談でもそんな風にレディーの知性を貶す物じゃないぞ。親しき中にも礼儀あり、だ。」
「冴子、十二時。ナイフは左構え。」
瞬時に冴子の左手はナイフのヒルトを掴み、ベレッタを握った右手に添えられていた。銃口の二十数メートル先には制服姿の婦人警官がいた。こと武器に関しては規制が輪をかけて厳しい日本では警察官であろうと銃を向けられる事などそうそう無い。
竜次とスペクターは視界の死角に隠れている為、今は冴子しか見えていない。顔を晒している冴子が同世代に見えたのか、動揺を浮かべながらも話しかけ始めた。
「あ、あのっ!大丈夫です!私は警察官です。ここは安全ですのでっ!先輩が救援を要請しに出ていますのでそれまでここにいれば———」
安心です、と言おうとした所で彼女は白目を剥いて倒れた。彼女の背後から光学迷彩を解除した竜次が現れた。そして彼女の左頬に右手を、右側頭部に左手を添えて首を思い切り横に捻った。枯れ枝を折る様なポキリと言う音がして、婦人警官の息の根が止まるのを感じた。
「隙だらけなんだよ、バーカ。」
「リュウジ、彼女がポイントマンなのだぞ?陣形を崩すな。」
「だって冴子、撃たねえんだもん。撃たないとしても明らかに油断してたんだから十分に近付いて刀かナイフでざっくり、なんて事も出来た。なのにそれをしなかった。」
婦人警官の装備帯に収められた警棒と手錠を抜き取り、冴子が持っているのと同じM37を革製のホルスターから抜き取り、盗難防止用ランヤードから切り離した。死体は俵の様に担ぎ、三分程してから戻って来た。
「死体は片付けといたよ。後、冴子。」
銃とナイフを握ったまま動けずにいた冴子の肩を掴み、深々と指を食い込ませた。
「言った筈だぞ?俺の好みは、強く、躊躇いの無い女だと。セーフハウスに辿り着く前のお前は凄かった。だが今のお前は違う。あの時のお前はどうした?躊躇うお前など、俺は嫌いだ。要所で必要な事を必要な時に出来ない奴など、皆を危険に晒すだけだ。そんな奴は・・・・」
肩が握り潰される様な痛みに悲鳴を上げそうになる。
「そんな奴は、要ラナイ。そんな奴は、邪魔ダ。そんな奴は、俺ガ殺ス。」
セーフハウスの時とは違い、肌が泡立つ事は無かった。代わりに冴子はドスの効いた囁き声でどっと冷や汗をかき始め、俄に震え始めた。声もが出せない。
蛇に睨まれた蛙も、一気に飲み込まれる刹那にこの様な気持ちになるのだろうか?ガスマスクの所為で表情は窺い知れないが、その方が良いのかもしれない。もし今彼の顔を見てしまったら恐怖に押し負けて死んでしまうかもしれない。
「お前が誰の物か、絶対に忘れるな。次グズったら、『お預け』程度の事では済まさないぞ?」