第三試験会場へ向かう飛行船の中。エンジンの甲高い音が響く機関室脇にて。
小窓から外を除けば分厚い暗雲が船を包んでいる。よくある事ではあるが何処か可笑しい。機関整備士のレッソは不吉な思いを拭い切れないで居た。
機内に漂う空気が舌の奥に苦い。微かな刺激臭すら混じっている気がする。これは良くない兆候だ……それもとびっきりの、と彼は思った。
レッソは寂れ果てた漁村の生まれである。地図にさえ乗っていない僻地の村だ。
全てから忘れ去られたような辺境……いや、もう遠い記憶の彼方にしか存在せず、あの村で過ごした少年時代は自分の思い過ごしではないのか。そう信じてしまいそうになるほどに荒れ果て、夜明けと共に村を包む霧の中でうらぶれた。何の面白みも無い寒村であった。
本来ならば父の跡を継いで漁師の手伝いになっていた筈の人間である。だが、現実にはそうならなかった。故にレッソはここで整備士をやっている。
「燃料バルブにオイルパイプ、部品の磨耗度合いも異常なし……。チッ、どうなってやがんだ」
レッソはマニュアルを片手に機内を徘徊する。操縦室の連中が言うには細かい異常や誤作動が頻発しているらしい。こんな日は大事故が起こるものだ。
この仕事についてもう4年になるが、事故らしい事故には遭遇していない。それは新米の頃、自分が乗る事になった飛行船に対して言い知れぬ悪寒を覚え、何とか理由をでっち上げて降ろして貰った経験に由来する。周囲に島すらない遠洋上で原因不明の空中爆発。捜索隊は出たが一人の死体すら見つからなかった。勘のお陰で生き残れたのだ。レッソは自分の勘を信じていた。
今日もあの日と同じだ。呼吸する空気に濃密な危機的予感を孕んでいたと記憶している。
油汚れの酷い軍手で鼻の下を擦りながら、海の邪悪な神が祟っているのだ、とレッソは思った。
反対側の手は何かに縋り付くように動いて、腰から下げたスパナを握り締めている。出発前は何てこと無かったのに、なんという不運だろうか。脳裏に昔の記憶が呼び起こされた。
レッソの故郷の漁村はとにかく辺境にあったから、伝承なども極めて特異な物が多かった。
村に居た頃は恐ろしく狭い領域だけが世界の全てであったから、自分ではそうだとは思わなかったのだけれども。記者だの考古学者だの、余所者が現れる事が稀にあった。
父や母は旅人の姿を見ただけで唾を吐き捨て、腐った魚の臓物を撒き散らして歓迎しようとするほど余所者を嫌っていたが、レッソ自身はそうでなかった。
「こんな話があるんだ。教えてもいいけど……」
自分たちと違って身奇麗な格好をしていた彼らに対し、自分が持たざる者であるが故の嫉妬は抱いていたが、自分もそのお零れに与る術を自然と身に着けていた。
連中は自分たちと違ってお利巧だ。難解な言葉で困らせようとする。自分たちを見下すいけ好かない連中であるのは違いない。
だが村の周囲の地形や言い伝えには全くの無知であり、レッソがそういった秘密に対して情報提供を匂わせれば? 連中は水面で口をパクパクさせるだけの魚に成り下がる。くだらない歌の代価として上等なコートを巻き上げた事もあった。数日分の食料を巻き上げる事など造作も無かった。
レッソ少年は無知だったが、知識が足りないだけで判断力はあった。生意気なガキでも自分なりに将来を見据えていた。
自分は四人兄弟の三男である。親父の持っている沈没寸前のボートだって立派な財産で、それは間違いなく長男に受け継がれるだろう。事故があっても可能性があるのは次男まで。自分が納まれる場所に豪華な椅子は用意されていない。あるのは惨めな生活だけだ。
地味で面倒な雑務を押し付けられながらも媚に媚びて、船底に巣食うフジツボみたいに、長男の船にしがみ付く。食うだけでも精一杯だから結婚もできない。そんな未来は願い下げであった。
それを回避するためには、金が要る。
金さえあれば、自分の船を手に入れられる。
そうしたら女だって選び放題だ。かつてはそれが全てであった。
村の女たちは今の自分のような素寒貧には見向きもしない。だがエンジン付きの立派な漁船(それが呆れるほど小さい舟であったとは村にいる時はまるで知らなかった)を持つ家の長男たちに対しては……! 彼女たちに性欲こそ抱いていなくとも。男としてのプライドがあった。
自分にはまるで見向きもしない女達が、村長の息子などには視線を送っているのを見て。自分など視界にも入らないその態度を肌で感じて。悔しくて悔しくてたまらなかった。
「……うっす、報告行って来ます」
昔を思い出して唇を噛み締める。レッソは頭を振って思考を追い出した。
どやら現在、船のコンパスが踊り狂っているらしい。レッソがチラリと見た限り北と南を指す筈の針が物凄い勢いで回転しているのが把握でき、操縦の事など何も知らない少年にも異常事態であると認識できる。
普段ならば自分より上の連中が報告に行くのだが、現在それどころではない。
「まじでヤバイ、大丈夫か? この船……」
慌ただしく怒鳴り合っている運転士や機関士を背後に、レッソは協会の人が居る部屋へ向かう。
ハンター試験とやらの受験生たちもこの空気に反応しているのか、客室の廊下を通る間もピリピリとした空気が肌に突き刺さる。
中には問い詰めて来る手合も居たが、レッソだって詳しい事は知らない。
適当に言葉を濁していると舌打ちされて離れていった。
「すいません! 機関長がお呼びです!」
メンチだかメンツだか。そんな人が居る筈の部屋をノックする。
だが内部から返事は無い。プロハンターとか言う割に適当な奴らだ。そんな事を思いながらドアを何度も叩く。しかし手の甲が痛くなるほど叩いても反応がない。
「入りますよ! 返事をして下さい!」
仕方なしにドアノブに手を掛けると、不用心な事に鍵は掛かっていなかった。
カチャリと音を立てて扉が開く。明るい室内に顔を突っ込めば珈琲の香が漂っている。なんだ居るんじゃないか。レッソは唇を尖らせながら部屋に踏み込んだ。
部屋の中央にあるテーブルの上では2つのカップが湯気を立ち上らせている。ほんの数分前まで人が居たのだろう。椅子に置かれたクッションも尻の形を残していた。
「……? 仕方ねえ、戻るか」
シャワーでも浴びているのだろうか。近寄ったが水音はしないし、バスルームは暗い。
もしかしたら異変に気づいて行き違いになったのかも。その可能性に行き当たったルッソは無駄足だと溜息を吐く。
部屋を出る前に改めて振り返り……。コーヒーカップが消えている事に気づいた。
「え? あれ、さっきまで」
目を擦りながらテーブルへ目を向ける。間違いなくあった筈なのに。今は無い。
ゴクリと喉が鳴る。自分の呼吸音が妙に大きく聞こえた。充満していた珈琲のそれも残り香さえ無く完璧に消えている。
待てよ。この部屋には人が居た筈だが、荷物は何処へ行った?
後退るようにしてドアへと尻を擦り付ける。部屋を見回すが人の気配は無い。
いくらハンターでもカバンの一つは持ち歩くだろうに。完璧に片付けられた一室には備え付けの家具以外に何もなく、椅子でさえ適切な位置から動かされていないように見える。
前に見た時には間違いなく使われていたクッションも、今見るとルームサービスの直後のように整っているではないか。レッソの背筋に冷たい物が流れた。
「……知らねえ、俺は、知らねえぞ」
極限まで研ぎ澄まされたレッソの耳が、船内のスピーカーから走るノイズを捉える。
ザザッ、ザッ、不規則な雑音が妙に恐ろしい。いや本当に不規則な音だろうか? まるで歌っているようにも聞こえる。
音だ。全ての音だ。耳に入る全ての音が。ノイズだけではなく船が軋む音や甲高いエンジンの音、自分の心音や呼吸音までもが一つのリズムを刻んでいるような気がした。
「……っ!」
レッソは沈黙にも無人の部屋にも耐えられなくなり、耳を塞ぎながら逃げ出す。
歯を食いしばりながら船内を駆け抜け、自分に命令を出した先輩に殴られる事を覚悟しながら縋り付くと、先輩は訝しげに首を傾げた。
「は? メンチってハンターに連絡? 誰だよソイツ。
今この船に乗ってるプロハンターは、サトツさんと会長だけだぜ?」
呆然と顔を見返すが嘘や冗談ではない。レッソは脱力しヘナヘナと腰を下ろす。
船に異常があった筈では……。そう問いかけると眉を顰められた。
「おい、寝惚けてるのか? 順調そのものだろうがよ」
船は現在、会長の命令でゆっくりと運行中であり、それさえ無ければ今頃は目的地に到着しているのだと彼は言う。指差した時計を見ると数時間が経過していた。
今までサボってただろ。まあ順調だし良いけどよ。呆れた様子で肩を竦めた先輩に対し、レッソは何も言えない。ただ喉の奥に残る嫌な苦味を飲み下す事しかできなかった。
何かがこの船に居て、そして過ぎ去って行ったのだ。
メンチというプロハンターは何処へ行ったのだろう? あの大男も消えている。
だが、とレッソは思う。この世界には正気の人間が関わってはいけない事があるのだ。彼らは運悪くそれに触れてしまい、自分は助かった。それでいいのだと唾を飲み下す。
何もなかった。それで良いじゃないか。
油臭い作業着を脱ぐと熱いシャワーを浴びて布団に入る。3時間後まで仮眠を取ろう。黴臭く薄っぺらい煎餅布団が今は何よりも愛おしい。耳栓を詰め込んで目を閉じた。
眠りに落ちる直前、無数の巨大な蛇のような何か、正体不明の化け物が這いずるような音を耳にしたが、正気の世界に居たいレッソは意図的にそれを忘れた。
ダゴンちゃんから一言
「謝りたいのにメンチさんもブハラさんも居ないよぉ! 何処行ったの!?」