今回は帰還後の独房のお話になります。
では、どうぞ。
※追伸
活動報告のアンケートご協力、ありがとうございました。皆様のご意見を参考に、アンジュに関してのオリジナル展開はなしで、原作通りにいこうと思います。
「起きろ、アンジュ」
アルゼナル内独房に、サリアの声が静かに響き渡った。当人のアンジュはというと、何一つ身に纏っていない全裸の格好で独房の中で気絶していた。
タスクによってアルゼナルまでエスコートされ、無事にアルゼナルに着いたアンジュ。タスクはアンジュを送り届けると再びいずこかへ去っていった。
そんなアンジュを迎えたのは司令のジル。アンジュは彼女に厳しい視線を向けると、教えて欲しいことがあるんだけどと歩み寄った。そのことに意外にもジルは快く了承したがすぐに不敵な笑みを浮かべ、そしてアンジュの腹を殴って気絶させたのだ。
反省が終わったらな
その一言を添えて。そしてそのままアンジュは独房に連れて行かれ、この現状というわけである。
「駄目みたいね…」
サリアの傍らにいるエルシャが呟いた。目を覚まさないアンジュにサリアははぁ…と溜め息を一つつくと、
「やって」
と、エルシャを促した。
「いいの?」
「早く!」
エルシャは少し逡巡したように間を置いたが、やがて、
「イエス、マム…」
と答えると、傍らに置いてあったバケツを手に取り、そこに汲んであった水を思いっきりアンジュに浴びせかけた。その冷たさからか、それとも器官にでも水が入ったのか、アンジュはゲホゲホと苦しそうに咳き込む。
「目が覚めた?」
そんなアンジュを見据えるサリアの口調には、何の感情も感じられなかった。
「ここは…ぐっ!」
未だおぼつかない様子で全身から水を滴らせながらアンジュがぼんやりと呟く。と、次の瞬間、全身を走る痛みに激しく顔を歪ませた。
「本来は隊長が来るところなんだけど、別件で少々忙しくてね。代わりに私が処分を通達するわ」
そんなアンジュに対し、サリアは先程までと変わらず何処までも冷酷であった。
「ゾーラ隊アンジュ、脱走の罪により反省房で一週間の謹慎。並びに財産、資産、全て没収。勿論、ヴィルキスもよ」
その裁定に、アンジュの表情が厳しいものとなった。ある程度は覚悟していたが、正直ここまでは…とでも思っているのだろうか。
「けじめはつけなくちゃね。脱走犯なんだもの」
申し訳なさそうな口調でエルシャが語りかけた。実際問題、彼女が申し訳なく思う必要はないのだが、そこは性格というやつだろうか。
「…ねえ、どうして? どうして脱走したの?」
表情を曇らせたままエルシャが尋ねた。
「えっ?」
「私たちは赤ん坊の頃からここにいるわ。外の世界を知らないし、待っている人もいない。出て行く理由なんてない。外にノーマの居場所なんてないのに、どうして?」
困惑したアンジュに、エルシャが訴えかける。そんな両者を見ていたサリアだったが、
「結局、私たちとは違うのよ」
斬り捨てるかのように冷たくそう告げたのだった。
「信じるんじゃなかった」
最後にそれだけ言い残すと、サリアは身を翻してとっととこの場を後にした。二人に交互に視線を向けていたエルシャも、少し間を置いてサリアの後を追いかけるように独房を後にした。
「……」
彼女たちに何も言い返せなかったアンジュがふと傍らに視線を移すと、自分の制服と毛布が置いてあった。毛布に手を伸ばすとそれで身を包む。しかし、先程水をぶっ掛けられたこともあって寒さは防げないのか、くしゃみをして、
「寒い…」
と、身を震わせながら呟いたのだった。と、
「うるせえ…」
不意にすぐ近くから良く知る声が聞こえてきた。それに気付いたアンジュが振り返る。
「ヒルダ…」
そこには予想通り、ヒルダの姿があった。アンジュに背を向け、毛布に包まっている。いつもと違うことと言えば、髪形がツインテールではなくストレートなことぐらいだろうか。何の気なく距離を詰めたアンジュだったが、
「近寄んな」
鋭い声にその歩みを止めさせられてしまった。あまり変わっていないその態度に少しホッとしたアンジュがそのまましゃがむ。
「帰ってきたんだ、貴方も」
答えはなく、変わらずに背を向けて蹲っている。が、
「痛つつっ…!」
身体が痛むのだろうか、痛みに声を上げるヒルダ。
「大丈夫?」
そんなヒルダに気遣わしげな表情でしゃがんだままアンジュが近づいた。と、
「近寄んなっつってんだろ!」
ヒルダは毛布を剥ぎ取ると上半身を起こしてアンジュに相対した。その姿を見て、
「どうしたの? その顔…」
アンジュは思わずそう言わずにはいられなかった。打撲痕や青痣などで、とてもではないがいつもの姿が見る影もないからだ。
「何を…されたの?」
アンジュが事情を尋ねると、ヒルダは視線を外しながら、
「聞く前に自分から話しな」
と、促した。
「死刑」
少し間を置いてアンジュが言ったのが、その一言だった。
「は?」
素っ頓狂な声を上げたヒルダに構わずアンジュはその先を続ける。
「裸にされて、鞭で叩かれて、罵声を浴びせられて、首を吊られた」
「…へぇ、なかなかじゃん」
痛々しい姿だが、ヒルダが薄く笑みを浮かべた。
「んで、ヒルダは?」
「ヘッ…50人にボコられた」
「まぁ…」
アンジュが感嘆の声を上げる。とはいえ、本当に50人に暴行されたらどう贔屓目に考えても生きているわけがない。それをわかった上でのヒルダの発言だったし、アンジュの反応だった。
「全員、再起不能にしてやったけどね」
ヒルダが誇らしく胸を張る。調子が戻ってきたのか、大分いつものようになってきた。
「その割には、随分やられたのね」
「…うっせえ」
拗ねたわけでもないのだろうが、アンジュの揶揄にヒルダは毛布に包まると再び背を向けて横になってしまった。
「お母さんには…会えた?」
アンジュの言葉に、ヒルダは一瞬ビクッと震える。が、すぐに、
「さあな」
とだけ返した。
「…そ」
その返答と雰囲気で察したのだろうか、アンジュはそれ以上何も聞くことはしなかった。
「う、ううっ…」
アンジュが用意された制服を着て、独房の中という劣悪な環境ながら暫く寛いでいると、横になっていたヒルダが呻き声を上げ始めた。
「嫌だ! 嫌だ! ママ!」
飛び起きる。その顔は恐怖に歪み、呼吸も尋常じゃなく荒い。
「…ママ?」
ヒルダが言った一言をアンジュが繰り返す。そのことにヒルダは思わず顔を歪ませてアンジュに背を向けた。
「はあっ…」
夢から覚め、現実を認識するとヒルダは大きく溜め息をついた。それが安堵によるものか、落胆によるものかはわからないが。
「珍しい、落ち込んでるの?」
「ああっ!? んなわけ…んなわけ…」
アンジュが再び揶揄するようにヒルダの顔を覗き込む。その口調にヒルダはいつもの調子で否定しようとするものの、言葉尻はどんどん力のないものになっていく。そして、
「ママだけは…受け入れてくれると思った…」
額を押さえると、普段からはとても考えられないような弱々しい口調でそう呟いたのだった。
「えっ?」
「ママだけは、ノーマのあたしを許してくれると思ってた。…でも、ダメだった」
いつの間にか浮かんでいた涙を目に湛えながら、ヒルダはそれが零れ落ちないようにだろうか俯いていた顔を上げ、天井を仰ぎ見ていた。
「あれが、ノーマってことなんだ…。外の世界に、ノーマの居場所なんてなかったんだ…」
とうとう堪えきれなくなったのかヒルダが涙を流した。そんなヒルダを、アンジュがなんともいえない面持ちで見る。
「…ここにはいるじゃない、貴方の仲間が」
思わず口をついて出てきた言葉がそれだった。が、
「仲間? …はっ、いねえよ、そんなもん」
自嘲気味に、そして寂しげにヒルダが呟いた。その脳裏に浮かんだのは前日、ゾーラとロザリーとクリスが連れ立ってここへやってきたときのことだった。
『帰ってきたんだ、ヒルダ』
ボロボロになったヒルダを見下ろしながら、クリスが心底どうでも良さげに呟いた。
『なあ、どうして脱走なんかしたんだよ』
こちらはロザリー。クリスとは違い、その声色には気遣わしげな色が感じ取れた。
「……」
ヒルダは何も言わず、顔を背けたままジッとしているだけだった。
『何で相談してくれなかったんだよ? あたしら、友達だろ?』
尚も言葉を重ねるロザリー。しかし、
『友達と思ってなかったんでしょ』
『えっ!?』
クリスが断罪するように呟いた。
『ハッ、気付くのおっそ』
よせばいいのに、それを煽るかのようにヒルダが憎まれ口を叩いた。
『思ってねえよ、最初から友達だなんて。上手くやっていくために、あんたたちに合わせてやってただけだっての』
『マジ…で…?』
ヒルダの発言にショックを受けるロザリー。それを制するようにクリスが歩み出る。そして、
『ねえ、ヒルダ』
ヒルダの名前を呼ぶと、その顔に唾を吐いたのだった。いつもの引っ込み思案のクリスとは思えない行動である。
「……」
そんな三人を、ゾーラが腕を組んで背後から見ていた。その表情は悲しそうな、辛そうな、なんとも表現のしようがないものだった。
『死ねばよかったのに』
『! く、クリス!』
流石に言いすぎだと思ったのかロザリーが口を挟んだ。そして、
『…その辺にしときな』
今まで傍観に徹していただけのゾーラも同じく口を挟んだのだった。
『お、お姉さま』
『お姉さま…』
ゾーラはゆっくりと歩み寄るとロザリーとクリスを自身の後ろに引かせた。そして、
『…残念だよ、ヒルダ』
と、言葉通り本当に残念そうに呟いたのだった。
『ゾーラ…フン』
ヒルダがそんなゾーラを見て鼻で笑った。
『騙されたのはテメエが悪いんだよ』
『っ! ヒルダ、あんた『クリス』…で、でもお姉さま』
『いいから大人しくしてな』
『……』
敬愛するゾーラへの暴言で激高しかけたクリスだったが、他でもないゾーラ本人に止められて、不承不承だったが矛を納めた。
『…さて、それじゃ言わせてもらうけど、的外れなこと言ってるんじゃないよ』
『ハァ?』
どういう意味かわからずヒルダは眉をしかめた。
『あたしは別にあんたがあたしらを裏切ったことに残念だって言ったわけじゃない。あんたの馬鹿さ加減に残念だよって言ったのさ』
『んだって?』
聞き捨てならない言葉にヒルダはキッとゾーラを睨んだ。が、ゾーラは少しも動じる様子はない。
それどころか、その視線には憐れみの感情が入っていた。
『あたしらはあんたが何の目的で外の世界に行ったのか詳しくは知らない。が、外の世界にあたしらノーマの居場所があると本気で思ってたのかい?』
『っ!』
その指摘にヒルダは視線を逸らして唇を噛んだ。そして変色するほど拳を強く握り締める。
実際問題、最悪の形でそんなものはなかったと思い知らされたのだから反論のしようもなかった。
『あんたはその辺りは理解してると思ったんだがね。あたしが買い被りすぎてただけだったみたいだね…』
『う、うるせえ!』
苦し紛れに反論するヒルダだったが、意味のある反論は出来なかった。
『…まあ、罪は罪、罰は罰だ。暫くそこで自分の浅はかさと愚かさと馬鹿さ加減を呪うんだね。…行くよ、ロザリー、クリス』
『は、はい!』
『はい、お姉さま!』
それだけ言うと用は済んだのだろう。もう一度だけチラッとヒルダに目をやると、ゾーラはロザリーとクリスを引き連れて独房を後にした。
『……』
一人取り残されたヒルダは強がった代償か、呆然としながら沈んだ目をすることしか出来なかった。
「あーあ…」
頭の後ろで手を組むと、ヒルダは仰向けに寝転んだ。
「なんにもなくなっちゃったな…」
すっきりした口調だったが、しかし寂しげにヒルダが呟く。
「部屋も金もない。生きてる理由もなーんにもない。いっそ殺してくんないかな…」
「ダメよ」
自虐的に呟いたヒルダを、アンジュは否定した。
「死ぬのはダメ」
「…生きろって?」
ヒルダの返答に、アンジュの目が鋭さを増すようにスッと細くなった。
「フフッ…アハハハッ…流石は元皇女様、言うことが違うね」
何が楽しいのか、ヒルダが笑い出した。だがすぐ、
「こんなクソッタレのどん底なのに、まだ生きろってわけ!? 希望だけは捨てずにって!? ねぇ!?」
と、噛み付くように身を乗り出した。
「…臭うでしょ、死んだら」
そんなヒルダに、アンジュは当然のようにそう呟いた。
「は?」
「止めてよ、こんな狭いところで」
「それだけ?」
「それだけよ」
「…ハハッ、何処まで自己中なんだよクソッタレ!」
これには流石のヒルダも毒気を抜かれてしまい、額に手を当てて笑うしか出来なかった。
「負け犬が何言ってるの?」
鋭い視線のまま、今度はアンジュが噛み付くようにヒルダに言い放った。
「希望ですって? …そんなもの、本気であると思ってるの? あるのは迫害される現実と、ドラゴンと殺し合う日常。…全く、バカバカしくって笑えてくるわ。偏見と差別に凝り固まった愚民ども。ノーマってだけで馬鹿みたいに否定しか出来ない。マナが使えないのが、そんなにいけないこと? 違ってちゃ、いけないの?」
先程までのミスルギでの光景が鮮明の脳裏に蘇り、アンジュが悔しさに打ち震えながら呪詛の言葉を紡いでいく。
「ぜーんぶ嘘っぱちなのよ、友情とか、家族とか、絆なんて…」
そこで一区切りする。いつの間にか神妙な様子でヒルダはアンジュの話に聞き入っていたが、
「あーっ!!!」
不意に頭を掻き毟り始めたアンジュに驚き、ビクッと身体を震わせた。
「友情って素晴らしいとか、絆こそが美しいとか、平気で口走ってた自分を殴りたくなったわ!」
「フッ、ばぁーか」
ヒルダが微笑を浮かべた。この独房内で初めて浮かべた本当の笑顔だった。
「ホント、バカよ。どいつもこいつもバカばっかり。世界は、腐ってるわ…」
制服を握る手に思わず力が入っていた。
「壊しちゃおっか、全部」
「はぁー?」
アンジュの発言の内容に、ヒルダが疑問の声を上げた
「出来そうじゃない? パラメイルとアルゼナルの武器があれば」
「陸まで何千キロあると思ってんだ。燃料切れですぐにドボンさ」
肩をすくめて否定するものの、アンジュは自分の発言を取り下げようとはしない。
「長時間稼動出来る機体を造ればいいじゃない」
「食料どうすんだよ?」
「魚なら取り放題でしょう? 何なら、人間達から奪ってもいい」
「資材とかは?」
「何とかなるわ」
腰掛けていた簡易用の椅子兼ベッドから立ち上がると、アンジュはツカツカと歩いて格子を握り締めた。
「私を虐げ、辱め、貶めることしか出来ない世界なんて、私から拒否してやる。こんな、腹立たしくて、苛立たしくて、頭に来る世界…」
「ムカつく」
「え?」
ヒルダが呟き、アンジュが思わず振り返った。
「そういうの、全部纏めてムカつくって言うんだよ」
「だったら」
笑みを浮かべながらアンジュがヒルダに近づいた。
「ぶっ壊してやるわ。こんなムカつく世界、ぜーんぶ」
「ハハッ、良いねぇ」
いつものように薄く笑いながらヒルダが答えた。
「協力してやってもいいよ。あたしもぶっ壊したいものがあるからさぁ」
そして又一つ、ここに生まれたものがあった。二人は気付いているだろうか、それが先程自身が否定した、絆とか友情と呼べるようなものだということを。
とはいえ、まだそれ自体に気がついていないのかもしれないが。
「随分と不穏当な発言をしているな」
そんな二人の耳朶を、新たな声が打った。その声にアンジュが振り返る。
「シュバルツ」
男の声だから当然なのだが、ゆっくりと姿を現したのはシュバルツだった。その姿を見てヒルダはヤバッと小声で呟くと、慌てて毛布を被ってシュバルツに背を向けたのだった。
「何しに来たのよ?」
ゆっくりと格子のところまで歩み寄ると、アンジュが尋ねた。
「様子を見に来たのだが。…ヒルダ、何故そんなことになっている?」
「え?」
振り返ったアンジュはすぐにシュバルツの言った意味がわかった。
「…貴方、何やってるの?」
毛布を被って背を向けているヒルダに思わず尋ねる。
「う、うるせーな。あたしのことは放っとけよ!」
いつもの憎まれ口を叩くヒルダだが、格好が格好なのでそれこそ格好つかないこと甚だしい。が、ヒルダにもこうせざるを得ないわけがあるのだ。
(言えるかよ、キスしたせいで迎えに来た連中に更に顔を変形させられたなんて。それ以上に、お前にこんなみっともない顔見せられるわけないじゃないか!)
もう十分見られているのだが、それでもこれ以上自分の酷い顔を見られたくはないのだ。そしてあのときの気持ちに嘘はないとはいえ、半分は勢いに背中を押されて口付けをしたのも事実。冷静になった今、自分がどれほど顔が赤くなっているかわからず、それと同じぐらい普通に接する自信がなかった。その結果の苦肉の策であった。
「…まあいい。しかし、大人しく反省しているかと思ったが…」
そこでやれやれとばかりにシュバルツは溜め息をついた。
「…何よ?」
アンジュが見上げる。ヒルダがああいう状態になったため、もっぱら応対するのはアンジュの役目となっていた。
「いや、このアルゼナルに来たばかりの頃のお前のことを思い出してな。それを考えると、よくまあ今さっき言ったことを言えると思ったのだ。あのときのお前に今のお前を見せてやりたいぐらいだ」
「止めてよ! 思い出させないで! あのときの自分は顔から火が出るぐらい、のた打ち回るぐらい恥ずかしいし後悔してるのに!」
アンジュの言葉は嘘偽りのないものなのだろう。羞恥からか真っ赤になりながらも、忌々しい様子でシュバルツから目を逸らしたのだ。
「世界を壊す…か」
そんなアンジュを見下ろしながら、シュバルツはポツリと先程アンジュが言った一言を繰り返した。
「…何?」
シュバルツの呟きに、アンジュが視線を鋭くして睨みつける。
「何か文句あるの?」
視線が更に鋭さを増した。まるで、文句があるなら許さないとでも言いたげに。
「文句はないがな…」
「じゃあ、何よ。まさか止めろとでも言いたいわけ?」
「有り体に言えばそうなる」
シュバルツの返答に、アンジュは嘲るように、しかし寂しげに鼻で笑った。
「フン、結局貴方もいい子ちゃんに過ぎなかったわけね」
「そうではない」
シュバルツがアンジュの言葉を端的に否定した。
「じゃあ、何なのよ」
アンジュの鋭い視線がシュバルツを射抜く。まるで中途半端な答えは許さないとばかりに。そんな想いを十分感じたからだろうか、シュバルツは少し間を置いてから重々しく口を開いた。
「お前に赤子が殺せるのか?」
「え?」
その質問に、アンジュが一瞬戸惑った。内容を理解するよりも早く、シュバルツが言葉を重ねる。
「自分に敵意を剥き出しにしてくる相手には容赦せずに相対することも出来よう。が、何も出来ぬ無垢で無抵抗な存在の額に銃口を押し当て、その引き鉄を弾くことがお前に出来るのか?」
「っ! それはっ!」
思いもよらない指摘だった。明確な返答を出来ず、アンジュは唇を噛み締めると思わず視線を逸らした。
が、シュバルツの問いかけは止まらない。ヒルダも背を向けながら、ジッとシュバルツの言葉に耳を傾けていた。
「お前がさっき言ったことはそういうことだ。自分に都合の悪い物だけ排除するなどということは出来ん。0か100か、どちらかしか選べんのだ。例えばエルシャが可愛がっている子供たちが全員普通の人間だったら、お前にあの子たちが殺せるのか?」
「……」
アンジュは何も言い返せなかった。確かに、自分が…自分たちがやろうとしていることはそういうことだからである。
この世界を壊してやるという決心は変わらない。変わらないが、実際にその局面に遭遇したとき、行動に移せるかどうかは又別の話だった。ヒルダも同じ心境だった。
「…お前たちの意志や気持ちは尊重したいのだがな、私は、お前たちのようなうら若き乙女が人を殺め、血で塗れていく姿を見たくはないのだ。…まあ、これも都合のいい勝手な言い分だと重々承知しているがな」
我ながら度し難いものだな、と続けたシュバルツに、しかしアンジュもヒルダも何も言い返せなかった。確かに一方的で勝手な言い分ではあるが、自分たちを慮ってくれているのは痛いほどわかっているからである。
言葉だけではない。今までの行動もそれを裏付けているのだ。反論の言葉が浮かんで来るはずがなかった。
(まるでお兄様みたい…。ううん、ミスルギのあんな兄じゃなくって、本当の意味での)
(温かいなぁ…。まるで昔、ママに包まれてたときみたいだ…)
アンジュもヒルダも心地よい感情を感じながらも黙ってしまい、独房はしばし静寂の支配する空間となった。
「…すまん、妙な雰囲気にさせてしまったな」
その静寂を破ったのはシュバルツだった。
「とりあえず、ここに来た本来の用件を果たさせてもらおうか」
「? 本来の用件?」
アンジュが首を傾げた。ヒルダも気になるのか、なるべく顔を見られないように注意しながらシュバルツに視線を送った。
と、シュバルツが一度独房の入り口をチラッと確認すると、懐からビニール袋を取り出した。
「受け取れ」
そしてそれを格子越しにアンジュに渡す。そう大きなものでないため、格子の幅に引っかからずに無事にアンジュに手渡すことが出来た。
「何よ、これ?」
言われるままに受け取ったアンジュが尋ねる。
「差し入れだ」
手短にシュバルツが答えた。見張りの隊員に聞かれないためにだろうか、少し声のトーンを落としている。
「あの後、出撃がなかったのでいつものように夕飯を作らされてな。炊き込みご飯を作ったのだが、それで握ったおにぎりだ。後、お茶が入っている」
「わぁ♪」
アンジュの顔が綻んだ。ヒルダも思わず毛布を剥ぎ取り、シュバルツたちの方に顔を向けている。
「良いの?」
「良くはないだろう、反省中なのだからな。だから、見張りの連中にバレないように気をつけろ」
「ありがとう♪」
本当に嬉しそうにアンジュがお礼を言った。シュバルツの料理が一級品なのはもう十分すぎるほどわかっているだけに、これは何よりも嬉しい差し入れだった。が、当のシュバルツは、
「礼ならここを出た後でゾーラに言え」
と、思いもよらない言葉を二人にかけた。
「え?」
「は?」
ビニール袋を自分の簡易ベッドに置いたアンジュが振り返る。ヒルダも思わず疑問を口にしていた。
「自分の食事が終わった後、私のところにゾーラがやってきてな。お前たちに何か差し入れてくれと頼まれたのだ」
「そう、なんだ…」
(ゾーラ…)
その気遣いに二人は嬉しくも心苦しかった。どう弁護しようが、自分たちは隊の皆を裏切った身である。なのにその頂点である隊の長が、こうして自分たちの為に働きかけてくれたのだ。焦れるような思いに身を焦がすのも無理はなかった。
「全く、部下思いなことだ。色々問題はあるが、あいつは本当にいい隊長だな」
『……』
アンジュもヒルダも俯き、何も返答することは出来なかった。
「さて、ではな」
用件は全て済んだのだろう、シュバルツが独房を後にする。と、アンジュとヒルダは慌てて格子に駆け寄った。
『シュバルツ!』
奇しくも二人の声が重なる。
「ん?」
振り返ったシュバルツに、
「その…あ、ありがとう」
「ま、又来てくれよな」
恥ずかしいからかアンジュもヒルダも頬を染め、視線を逸らしながらポツリとそう呟いた。そんな二人の態度に軽く笑みを零し、
「ああ」
とだけ答えると、シュバルツは今度こそ独房を後にしたのだった。
(世界を壊す…か)
自室へ帰る途上、シュバルツは再びアンジュが言っていたさっきのことを思い出していた。
(確かにあんな仕打ちを受ければ、そう思うのも無理からぬことだ。出来るかどうかは置いておいて、やるというのなら否定はせん。…止めては欲しいがな)
だが、無理な話だろうなとシュバルツは思っていた。それほどの仕打ちだったのだ。
しかし今はそれよりも気になっていることがあった。アンジュが独房で吐露した数々の心境の中で、どうしても肯定できないことがあった。それは、
(友情も、家族も、絆も嘘…か。それは違うぞ、アンジュ)
このことだった。そしてシュバルツの脳裏に、向こうの世界の忘れえぬ人々が次々に浮かび上がる。
弟を初めとするシャッフルの面々
レインやアレンビー、シャッフルのクルーの連中
父と母の笑顔
そしてあまりにも大きな存在だった東方不敗マスターアジア
(あれが紛い物であるものか。今のお前に言ったところで、火に油を注ぐだけだと思ったから言わなかったがな)
(もし、それでもそれが嘘だと言うのなら…今までのそれは本物ではなかった…それだけのことだ)
(何より、お前は父と母の為に涙を流したではないか)
と、不意に遠くから微かに歌声が聞こえてきた。
(これは…)
歩みを止めて耳をそばだてる。それは確かにミスルギで聞いたあの歌だった。
(アンジュ…)
ここからでは姿の見えないその歌姫に思いを馳せる。
(いずれお前にもわかる時が来よう。友情も家族も絆も決して嘘ではないという時がな)
シュバルツは止めていた歩みを再開させると、そのまま自室へと戻ったのだった。