今回は彼女の幕間回です。
では、どうぞ。
拒絶され、罵られ、裏切られた―――
(ママ…)
警官達に暴行を加えられ、ボロボロになったヒルダは強い雨が降りしきる灰色の空を見上げながら、虚ろな表情でとりとめもなくそんなことを考えていた。
抵抗する気どころか、動くことさえ今の彼女には出来なかった。
(もう、どうでもいいや…)
積年の願いが最悪の形で裏切られたヒルダは、自暴自棄になっていたのである。目に映る警官たちの顔に、下卑た笑みが浮かんでいる。
(このまま殺されるのかな…? それとも輪姦される…? …フン)
好きにすればいい。それがヒルダの偽らざる心情だった。
(本当に…どうでも…いいや…)
警官の一人が手を伸ばす。少し後、自身に何が起こるかのか。それを知る前にヒルダは意識を手放した。
(ん…?)
意識を手放してから少し経ち、不意にヒルダが意識を取り戻す。おかしなことに自分はまだ死んでもいなければ、男達の慰み者にもされていない。
と、ぼやけた視界に、再び自分に向かって誰かが手を伸ばしてくるのがわかった。
(今度こそ…終わり…かな…?)
その人物が自分に何かする前に、ヒルダは再び意識を手放した。
(あれ…?)
どれぐらい経ってからであろうか、又ヒルダは意識を取り戻す。と言っても、未だその意識は虚ろで、頭には靄がかかったようにハッキリしない。今の状況がどういうものなのかまだ認識出来るほどではなかった。が、先程までとは違った不思議な感覚を全身が包んでいる。
(何だろう…これ…)
ヒルダは何かに身を委ねていた。一定感覚で微妙に上下動し、その振動が痛めつけられた全身に響いている。そして身を委ねていたその何かとは身体の正面が密着していた。
(あったかい…)
その密着した何かは、先程までとは違ってヒルダを何故か安心させた。雨はまだまだ降りしきっているものの、その何かと密着している身体の正面はとても暖かく、そして懐かしいものだった。
(これは…)
この感覚を思い出す。辿り着いたのはまだ幼い日、幸せに暮らしていたときに母親であるインゲに負ぶわれていたときのことだった。今感じているのはその感覚だったのだ。
しかし、一つだけ違う点があった。背中の感覚が母親のものとは違うのだ。そんなことはありえないが、もし自分を負ぶっているのが母であるインゲなら成長した分その背中は小さくなっているはずである。しかし、今身を委ねている背中は母親のものとは思えないほど広く、大きく、がっしりしていた。成長した自分が身を委ねても余裕で受け止めてくれるほどに。
言うなればこれは…
(パパ…?)
まず浮かんだのはそれだった。だが、何故かその可能性は即座に消えてしまった。変わりに浮かんだのは
「お…兄…ちゃん?」
自身に兄はいない。だが、何故かこの背中はそういう存在を感じさせるものだった。まだ虚ろな意識の中、ヒルダは自身を包んでくれる暖かな感覚に身を委ねると、三度意識を手放した。
その顔は今までのものとは違い、安らぎに満ちた表情だった。
「う…ん…」
ヒルダがぼんやりと目を開ける。まだハッキリしない頭の中、最初にその目に飛び込んできたのは見たこともない天井だった。
「…っ!」
次第に意識がハッキリして、ヒルダが上半身を起こした。
「痛った!」
全身に暴行を受けたときの痛みが走る。皮肉にもその痛みが現状を現実と認識させた。顔をしかめながら、ヒルダは辺りを見渡す。
「? ここは…?」
高級そうな内装に日の光を多く取り入れるように造られた窓。ソファーにテーブル。そして自分が今、身を委ねているのはフカフカのベッドの上だった。隣を見ると、自分が休んでいるのと同じようなベッドがもう一つ設えられている。
「あたし…何で…こんな…」
意識を失う前にハッキリと覚えているのは舗装されていない畦道である。そこと現状のここは何をどうしたって繋がりようがなかった。
(ここがあの世? だったら随分即物的な場所だな)
まさかそんなことあるわけないと思いながら、現状を理解するために再び視線をあちこちに走らせる。と、
「気がついたか」
「えっ!?」
不意に声を掛けられビックリしたヒルダが慌ててその方向に目を向ける。そこには、見慣れた顔の男が立っていた。
「お前…シュバルツ…」
思えばここに来て初めてヒルダはシュバルツの名を呼んだ。が、シュバルツはそれに答えることなくつかつかと歩み寄ると、近くにあった椅子を引いてそれに腰掛けた。
「傷の具合はどうだ?」
ヒルダに尋ねる。その姿はいつもの見慣れたものではなく、薄紫のインナーに青いジャケット、そして黒いズボンと、向こうの世界でのキョウジの格好とよく似た服を着ていた。以前、ジャスミンに頼んでいたものの一つがこういった私服の類であったのだ。
「え…あ、ああ…」
一応答えたものの、今一つ状況が飲み込めずに答えることが出来ない。そんなヒルダにシュバルツは言葉を重ねた。
「幸いにして内臓破裂や骨折といった重篤な症状は見られなかったのでな、私が応急手当てをしたのだが、そこは勘弁してくれ」
「え? お前が?」
「ああ」
コクリと頷く。
「本当は医者に見せるべきなのだろうが、診療中に万一お前がノーマだと言うことがバレてしまってはまた大事になるからな」
「……」
ノーマ。その言葉を聞いただけで顔を伏せ、ヒルダは唇をかみ締めていた。そもそも自分がノーマだからこそこんな目にあったのだ。このときほどヒルダは自分がノーマであることを恨んだことはなかった。
「それと、手当てをするためにお前をそんな格好にしたが、そこは怒るなよ」
「格好…?」
ヒルダが己の身体を見下ろす。包帯やら何やらで確かに手当てされているが、それよりも身に付けてるのが上下の下着一枚だけだった。
「いっ!」
限りなく全裸に近い格好になっていることに気付いたヒルダが慌てて布団を引っ張ると己の身体を隠す。そして、シュバルツをキッと睨みつけた。
「テ、テメエ、一体何を!」
「落ち着け、愚か者」
やはりこうなったかと言った感じで、うんざりした表情でシュバルツが溜め息をついた。
「仕方がなかろう。服を着たままでは手当ては出来ないし、何よりあんな濡れ鼠の格好のままでは風邪や肺炎を併発しかねん。全裸にしなかっただけありがたく思え」
「う、うるせー!」
真っ赤な顔になったヒルダが思わず憎まれ口を叩いた。頭では納得出来ても心ではそうはいかないのである。又、同性に見られるのと異性に見られる違いもあるのだろう。今のヒルダは彼女らしくない初心な反応だった。
「大体、ここは何処で、何でテメエがいるんだよ!」
話を変えるためヒルダが叫んだのがこれだった。
「ここは、お前が倒れてから一番近い都市部にある、一件のホテルだ。…しかし噂に聞いてはいたが大したシステムだな。利用に一銭も金がかからないとは。正直、まだ信じられん」
「フン、人間様の世界はそうなってるんだよ」
忌々しい表情になって吐き捨てるようにヒルダが口にした。
「そして私がここにいる理由だが、お前も大体は目処がついているのだろう? ジルに頼まれて、お前とアンジュを保護しに来た」
「フン、だよな」
予想通りの返答を聞いて落ち着いたのか、視線を逸らし鼻で笑う。ヒルダは口元に自虐的な笑みを浮かべた。
「死ぬんなら戦って死ねってか。ホント、あの司令らしいよ…」
少しずついつもの調子が戻ってきたのか、振り返るとぎこちないながらもいつもの皮肉気な笑みが浮かんでいた。
「テメエも物好きだよな。わざわざあたしらなんかを捕まえによ」
「そうかな?」
対してシュバルツはいつもと変わらずに冷静に返す。
「発見したときにはお前はボロ雑巾同然だったのだ。あのままならどうなっていたことか…。それだけでも、意味はあると思うがな」
「ハッ、お優しいこって」
大仰に肩を竦める。
「…そう言やあ、あのポリどもはどうしたんだよ?」
話の流れから自分を暴行した警官たちのことを思い出し、ヒルダが尋ねた。
「知らん」
「はぁ?」
シュバルツの返答に、思わずヒルダが面食らった。
「知らねえわけねえだろ! あの連中があたしをそのままにしておくかよ!」
「言葉が悪かったな。今どこで何をしているかは知らんと言う意味だ」
そしてシュバルツが当時の状況を説明した。
「お前を見つけたとき、ボロ雑巾のお前を囲むようにして何かろくでもないことをしようとしていたのでな、遠慮なく叩きのめしてやった。恐らく、今頃は仲良くどこかの病院のベッドの上ではないのか?」
「……」
こともなげにそう言うシュバルツにヒルダは一瞬、二の句が告げなかった。が、すぐに自嘲気味に呟く。
「ハッ、ノーマのあたしを助けるためにポリぶちのめすなんて、テメエは馬鹿かよ」
「この世界では女である前にノーマなのかもしれんがな、私にとってはノーマである前に女だ」
そう言い切り、淡々と言葉を続ける。
「相手が誰であろうと、どんな理由があろうと、何の抵抗もしない女性を集団で暴行するような輩にかける情けはないし手加減してやる義理もない。この世界の常識など知ったことか」
「……」
ヒルダは何も返せず、俯くとギュッと布団を握り締めた。
(何でこいつは、一々…)
こうなんだろう…。思わずヒルダは涙をこぼしそうになったが、グッと堪えた。そのまましばし静寂があたりを包む。
「何も…聞かねえのかよ…」
どれぐらい経ってからだろうか、ポツリとヒルダが呟いた。
「聞いて欲しいのか?」
同じようにシュバルツもポツリと呟いた。
「自分から言い出さないということは聞かれたくないということだと思ったから、憚っていたのだがな。それに…」
シュバルツはチラリとヒルダの姿に目をやった。
「その姿を見れば大方の想像はつく。芳しい結果にはならなかったのだろう?」
「フン」
つまらなそうにヒルダが鼻を鳴らした。
「何もかもお見通しってわけかい。流石、出来る男は違うね~」
「……」
いつもの皮肉。しかしシュバルツは反応しない。それはいつものことと言うのもあるが、それより何より、それが精一杯の強がりだということがわかっているからだ。
そんなシュバルツを放って、ヒルダが勝手に喋り出した。
「あーあ、今思えば馬鹿な真似をしたもんだ。思い出だけに頼って、ママが待っていてくれるなんて」
「……」
「あたしらの居場所なんざ、この世界の何処にもないんだ。今更ながらに思い知らされたよ」
「……」
「もういっそ、このまま死んじまおうかな~」
自暴自棄になり、投げやりな態度でそう呟くヒルダ。すると、ここで始めてシュバルツが行動を起こした。椅子からすっくと立ち上がると、ヒルダのベッドに腰を下ろしたのだ。
「な、何だよ…」
いきなり近寄られ、何をされるのだろうかと若干警戒するヒルダ。するとシュバルツはいきなりヒルダの後頭部に手を回すと、そのままグッと力を入れて自身の胸に彼女の顔を抱いたのだ。
「なっ!」
予想外の行動にビックリして逃れようとするものの力を入れているのかビクともしない。
「て、テメエ、一体何を…」
ようやく顔を上げてシュバルツを見上げると、ヒルダが文句を言う。だが、シュバルツはそれに対して返答しようとはせず、ただ一言、
「泣け」
とだけ言った。
「はぁ!?」
何言ってんだこいつと言わんばかりにヒルダが怪訝そうな表情になった。
「何言ってんだ、お前?」
思ったことをそのまま口にするヒルダ。シュバルツは視線を落とし、ヒルダの顔を見た。不意にその真っ直ぐな瞳に射抜かれたヒルダは何故か心臓が高鳴り、視線を外さざるをえなかった。
「母親から手酷い仕打ちを受けたのだろう?」
思わずヒルダの身体が小刻みに震えた。思い出したくないのか、表情も曇る。
「脱走などをしたらどうなるか、わからぬお前ではあるまい。にもかかわらずお前は脱走をした。全ては母に会うため」
「……」
独り言のようなシュバルツの言葉を黙って聞いている。
「その結果が、最悪といっていい形の結末を迎えたのだ。悲しくないわけはないだろう。虚勢を張っても痛々しいだけだ、見るに耐えん」
「だから…泣けってのかよ…」
「ああ」
シュバルツが頷いた。
「悲しいときに泣けないのは不幸なことだ。それにここまできて、今更強がる必要もないだろう」
「っ、うるせーな! いいから放せよ!」
シュバルツの拘束から逃れようともがくヒルダ。しかしその拘束はビクともしない。
「放せ! 放せったら!」
さらにもがくヒルダ。しかし結果は変わらなかった。そのうち抵抗も弱くなり、そして、
「う…」
さっきのシュバルツの言葉で色々と思い出したのだろうか、目に涙が溜まってくる。それを見計らったというわけでもないのだろうが、シュバルツがもう片方の手を背中に回してポンポンと背中を叩く。まるで幼い子をあやすかのように。そして、それが引き金となった。
「う…あ…あああああっ…」
ついにヒルダはシュバルツの胸の中で泣き出してしまった。一度堰を切ってしまうとあふれ出た想いはそう簡単には止まらない。意識しようとせざると、ヒルダはシュバルツの言葉通りその胸の中で泣き崩れることになった。
「……」
シュバルツは黙ってそのままヒルダを抱きしめ、同じように背中をポンポンと叩いてあやす。二人は暫くの間、そうやって時間を過ごすことになったのだった。
「ZZZ…」
どれぐらい時間が経ったであろうか、シュバルツに背を向ける格好でヒルダは寝息を立てていた。それを現すかのように肩が小刻みに上下している。
「泣き疲れて眠ってしまったか…」
シュバルツは未だヒルダのベッドの上に腰を下ろしている。もっとも、彼女の邪魔にならないように隅っこに陣取る形ではあったが。
「……」
不意に、シュバルツはヒルダに手を伸ばすと彼女のトレードマークであるツインテールに手を伸ばした。と言っても、シュバルツに背を向ける形で寝ているので、片側だけしか手に出来なかったが。
そしてそれを掬い上げると、撫でるようにゆっくりと梳いた。
「お前に…いや、お前たちに何の咎があると言うのだろうな」
思わず口をついて出たそれは、前々から思っていた疑問だった。
「人を騙したわけでも、人を襲ったわけでも、ましてや人を殺したわけでもないのに、ただマナが使えないノーマというだけでこの仕打ち。そんなことがそれほど重要なことなのか? 私にはわからんよ」
そのまま窓の外に目を向けた。往来を行き来する人々の姿が見える。
「あそこを歩いている連中とアルゼナルの面々。どれほどの違いがあると言うのだろうな。マナの有無こそがこの世界で最も重要な意味を持つのかもしれんし、実際そうなのだろう。だが、やはり私にはわからんよ」
もう一度ヒルダに視線を戻した。
「マナの有無で実の母親にまで拒絶され、裏切られて手酷い仕打ちを受けるとはな。…哀れな」
言葉通り、ヒルダを哀れむような目で見る。そしてその手に掬ったヒルダの髪をするっと滑らせて元に戻した。
「何とも…妙に疲れたな。私も今日はもう休むか」
シュバルツはヒルダを起こさないようにゆっくりと彼女が寝ているベッドから立ち上がると、そのまま隣にあるベッドに向かう。
途中、ジャケットだけ脱いで手近の椅子にそれをかけると、シュバルツはそのままベッドに横になった。そして目をゆっくりと閉じる。
アルゼナルからここまでやってきて、警官たち相手に立ち回り、そして雨の中ヒルダを背負ってここまで歩いてきたのだ。自分ではそうは思っていなかったが、少しは疲れが溜まっていたのだろう。シュバルツにしては珍しく、目を閉じると随分早い段階で眠りの世界に落ちていったのであった。
「ん…?」
シュバルツが寝息を立て始めてからどれぐらい時間が経っただろう、不意にヒルダが目を覚ました。辺りを見回してみると、もう深夜なのか真っ暗である。
カーテンを閉めていなかったから外部からの幾つかの光が入ってきたので、真っ暗といっても辺りを確認するのには苦労しなかった。
「そっか。あたしあのまま…」
眠りに就く前のことを思い出す。休養は取ったものの当然まだ節々は痛むが、その痛んだ身体でベッドの上に胡坐を掻いた。
「……」
その視線の先には、穏やかな寝息を立てているシュバルツの姿があった。その姿を見て思い出す。
『お前たちに何の咎があると言うのだろうな』
あの一言を。実はシュバルツがヒルダの髪を梳いて呟いていたとき、ヒルダは眠ってはいなかった。身体はボロボロだったが精神的に昂ぶっていたからだろうか眠ることが出来ず、シュバルツに背を向けて寝たふりをしていただけだったのだ。
そのため、結果的にだがシュバルツが何の気なしに呟いた一言一言を全部聞くことになってしまったのだった。
『お前に…いや、お前たちに何の咎があると言うのだろうな』
『人を騙したわけでも、人を襲ったわけでも、ましてや人を殺したわけでもないのに、ただマナが使えないノーマというだけでこの仕打ち。そんなことがそれほど重要なことなのか? 私にはわからんよ』
『あそこを歩いている連中とアルゼナルの面々。どれほどの違いがあると言うのだろうな。マナの有無こそがこの世界で最も重要な意味を持つのかもしれんし、実際そうなのだろう。だが、やはり私にはわからんよ』
『マナの有無で実の母親にまで拒絶され、裏切られて手酷い仕打ちを受けるとはな。…哀れな』
どれもこれもノーマにとって…いや、この世界では陳腐な言葉である。だがそれだけに刺さった。…いや、沁みたという表現が正しいかもしれない。ノーマだからというフィルターを通すことなく、一個人として見てくれたことに。何せ、誰もそんなことはしてくれなかったのだ。そう、血の繋がった実の母親でも。
確かにシュバルツはこの世界の人間ではない。最初は何バカなことをと思いもしたが、あの機体を見てすぐにその思いは改まった。何より、男であるのにマナが使えないのが決定的である。
だからだろうか、何の偏見もなくアルゼナルの連中と接しているためにシュバルツに憧れる隊員たちは非常に多い。隙あらばと思っている連中も十指に余るほどいるのをヒルダも知っている。
今までは冷めた視線でそれを横目で見ながら小バカにしていたヒルダだった。しかし…
「……」
ヒルダはゆっくりとベッドを降りるとシュバルツの傍までやってきた。そして身を屈めて視線をシュバルツの顔の辺りに合わせると、つんつんと人差し指でその頬をつついた。
「ん…」
違和感を感じたのだろうか、思わず身じろぐが目を覚ます気配はない。
「ふふっ♪」
楽しそうに笑うと、先程と同じようにヒルダはその頬をつついた。シュバルツの寝顔を眺めるその顔は今までのヒルダの中でも飛び切りの笑顔であり、心が洗われるような穏やかな表情だった。
「さて、ここでお別れだな」
翌日、早々にホテルを退去したヒルダとシュバルツの二人は、そこから程近くにある人目には付きにくい海岸にやってきていた。既に連絡はしていたため、アルゼナルからの迎えは来ている。
「あ、ああ…」
受け答えはするもののどうにもその歯切れは悪い。
「? どうした?」
そんなヒルダを訝しがったシュバルツが、不思議そうに尋ねた。
「な、何でもねえよ…」
そう答えるものの、視線を合わせようとはしない。どうにも不思議に思ったシュバルツだったが、本人が答えようとしないのに無理から理由を聞くのも野暮だと考え直して追及はしなかった。
「そうか」
「これからどうすんだ?」
視線を外したままヒルダが尋ねる。
「じゃじゃ馬はお前だけではないだろう? もう一人の、文字通りお姫様を迎えにな」
「あ、ああ、そうか。そうだったよな」
ホテルでのシュバルツとの会話の中でそう言っていたことを思い出し、ヒルダは納得した。が、どうにもその様子は妙なままである。
(? 変な奴だな?)
重ね重ねそう思うシュバルツだが、今はそれに構っている状況ではない。何せ、もう一人のお姫様の状況がわからないからだ。
(もしあいつが碌でもない目にあっていれば、この世界なら嬉々として報道で報じるだろう。が、テレビでも新聞でも、そういった報道は一切なかった。ならば、まだ間に合うと思うが何せあの猪だ。早く見つけるに越したことはないからな)
アンジュが聞いたら失礼なこと言うんじゃないわよ! とでも詰め寄ってきそうなことを考えながらシュバルツは軽く片手を上げた。
「ではな」
ヒルダに別れの挨拶を告げると、シュバルツは身を翻す。
「あっ…」
ヒルダの口から思わず声が出た。手を伸ばすもその背中に届くわけはなく、一歩一歩その距離は開いていく。そして少しずつだが確実に開いていくその距離にヒルダの胸は締め付けられた。
(行っちゃう。このままじゃ、ホントに行っちゃう…!)
「お、おい!」
思わず呼び止めたのと走り出したのはほぼ同時だった。
「ん?」
シュバルツがヒルダの声に振り返るのと、ヒルダがシュバルツの首筋に腕を回して抱きついたのはほぼ同時だった。そして、
「んっ…」
目を閉じたまましっかり抱きつき、ヒルダはシュバルツの唇に己の唇を重ねたのだった。
『あーっ!!!』
迎えに(と言うより、連れ戻しにと言ったほうが正しいかもしれないが)きた隊員たちが思わぬ光景に大声を上げてしまった。が、それはシュバルツも同じことである。
「!?!?!?」
呼び止められて振り返ったら、目の前にはもうヒルダの顔のどアップがあり、そして次の瞬間には唇を重ねられていたのだ。流石のシュバルツといえども慌てるなと言うほうが無理だった。
であれば引き剥がそうと思ったのだが、そうしようとするとそうはさせじとでも言うのか、ヒルダがますます力を入れて離れようとしない。
それでも、シュバルツの力をもってすれば、無理やり引き剥がすことは十分可能だった。しかし、自分に抱きついてる彼女の細腕から何かを感じ、シュバルツは抵抗を諦めることにした。
「んっ…」
どれぐらい経ってからであろうか、ヒルダがようやく唇を離した。それと同時にシュバルツの首筋に回していた腕も放し、半ばぶら下がるような格好になっていた状況から地に足を下ろした。
「お、お前「い、いいか! 勘違いすんなよ!」」
シュバルツがどういうことか問い質そうとしたが、皆まで言わせずにヒルダがその言葉を遮った。
「ん?」
「これは…その…あくまでもお礼だ! 助けてくれたことのお礼! だ、だから!」
キッと鋭い視線を向けてヒルダがシュバルツを見上げて睨みつけた。
「あたしがお前をどうこう思ってるなんてわけじゃねえんだからな!」
セリフだけ聞けばなんとも勇ましいものだが、その実、顔は真っ赤で目は潤んでるとあれば説得力は欠片もない。いきなりの不意打ちに驚いたシュバルツだったが、そんなヒルダの様子に程なくいつものシュバルツに戻っていた。
「ふっ…」
思わず軽く笑う。だがシュバルツの目の前にいるお姫様はそれが気に入らなかったのか、シュバルツを睨みつけていたその目がスッと細くなる。
「んだよ。何がおかしいんだよ…」
「すまんすまん」
謝るものの、クククと咽喉の奥で笑っているのは変わらない。いい加減、少し気分を害したヒルダはムッとした表情になった。
「ふ、フン。どうせあたしにはあんなこと似合わねえよ。悪かったな」
「何だ、拗ねたのか?」
珍しく挑発するような口調でシュバルツがそう言った。
「! だっ、誰が…っ!?」
そのまま文句を重ねてやろうとしたヒルダだったが、それは出来なかった。何故なら不意打ち気味にシュバルツにハグされて固まってしまったからである。
「あ…う…」
顔を真っ赤にしながら固まってしまうヒルダ。シュバルツはそんな彼女の耳元に口を寄せると、
「ありがとう」
と、一言礼を言った。そしてそのままハグを解く。
「えっ…?」
固まっていたためにシュバルツが何を言ったのかを未だ理解出来なかったヒルダ。そんなヒルダに、シュバルツはメイやヴィヴィアンたちなどの比較的幼い連中にするように、ポンポンと頭を軽く二度叩く。そして今一度クルリと背を向けると歩き出した。
「お、おい!」
その、さっきと同じように離れていく背中にハッとしたヒルダが思わずシュバルツを呼び止めた。声の聞こえてきた位置から、今度はさっきとは違って十分に離れていることがわかったシュバルツが、これまたさっきと同じように振り返る。
「何だ?」
「あ…や…」
思わず呼び止めてしまったものの、今回はさっきとは違い勢いもなければ思い切りもないため為に返答に困ってしまう。しばらく逡巡したヒルダだったが、ようやく出てきたのは
「気を…付けて…」
という、なんともしおらしく、ヒルダには実に似合わない言葉だった。
「ああ。お前もアルゼナルで大人しくしているのだぞ。何せまだその怪我は完治してないのだからな」
「う、うん。それと…」
「まだ何か?」
シュバルツが尋ねると、ヒルダはコクリと頷いた。
「アンジュのこと…頼む」
「最善は尽くす」
シュバルツは任せろとも、わかったとも言わなかった。それでもその一言は何故だか何よりもヒルダを安心させた。
「では、今度こそ本当にさらばだ」
ヒルダに背を向ける。そして次の瞬間、シュバルツはその場から姿を消していた。
「……」
穏やかな潮風が吹く中、ヒルダは髪を掻き上げる。そしてシュバルツがいなくなったその場所に思いを馳せるように、暫くその場を動かなかった。
…が、ヒルダの後ろで彼女を連れ戻しに来た隊員たちが、嫉妬の炎を燃やしながらすごい目で彼女を睨んでいたことを、ヒルダは知る由もなかった。