暗い部屋の中で、私は震える。いつかやってくるあの恐ろしい怪物に攫われるのが怖くて、耐えられなくて、涙を流しながら震えることしかできない。
奴にとって私は器でしかない。有機の身体を手にした、最も人形に近い人間。言うなればアリスに一番近い存在。それが今の私らしい。奴は私の身体を用いて真のアリスへと到達しようとしているのだ。そこに私の意思はない。言うなれば身体目当てなのだ。
奴が何者なのか、検討はついている。アリスに執着し過ぎて人間の枠を……それどころか世界の枠組みすらも超えてしまった、怪物。何度も何度もアリスを求めて世界を彷徨う放浪者。それがあの、河原郁葉という男の正体。
そんなことはどうでもいいのだ。問題は、私の心が奴との戦いで折れてしまったということ。本来の自分を殺され、友を喰われ、パートナーすら糧にされてしまった。私は格闘経験があるだけの、ただの女子高生なのだ。そんな女の子が心を折るくらいには、一連の事件は凶暴過ぎた。
今も、意味もないのに部屋に閉じこもって震えているだけ。もう何日こうしているだろうか。震えていても、そのうちこの身体は完全にアリスの器になってしまって、そうなれば奴も私を迎えに来るというのに。それが恐ろしく、この身体が忌々しくも思う。だけども同時に、リリィさんの意思を託された身体でもある。それは誇りに思わなければならないのに。
矛盾が私を苦しめるのだ。
部屋のドアがノックされる。外側から解錠され、それが開かれると招かれざる客がいた。メガネをかけた長身の青年、坂口隆博だ。
「いや、来ないでッ!!」
この男も、あの怪物の友人だ。私を守るために来たらしいが、そんな男を私が受け入れるはずがなかった。だが彼は何やら顔に緊張感を醸し出している。おまけに武装して、まるでこれから戦争にでもいくと言わんばかりの格好だ。
彼はズカズカと私の目の前まで来ると強引に私の腕を掴み上げた。
「行くぞ、郁葉が来る。逃げるぞ」
嫌がる私を強引に外へ連れ出そうとしてくる。もちろん私は必死に抵抗した。
「あなたもッ!奴と繋がってるんでしょうッ!?嫌、私は器なんかじゃないッ!きっとそう、あなたも私を器としか見てないのよッ!」
「あーもううるせぇ!いいから来いって!愛しのリリィさんもいるんだから」
ズルズルと散歩に行きたくない犬のように引きずられると、彼の言う通りリリィさんはいた。私にしか見えない霊体として。リリィさんは私のそばに近寄って言う。
「琉希、奴が来る。今は逃げるんじゃ」
「逃げるって、どこによ!あいつはどこにでもいる!追ってくるの!世界を超えてまでも!あの白薔薇のために!」
「落ち着くんじゃ!少しでも時間を稼がなくては計画もうまくいかん!」
怒鳴りつけるように言うと、リリィさんは私の身体に入ってくる。こうなれば私にできることはない。ただ微睡みの中に沈むだけ……
「おい、もう腕を掴まんでもいい」
さっきまで駄々を捏ねていた琉希ちゃんが急に大人しくなる。恐らく主途蘭が憑依したんだろう。俺は腕を離すと、スタスタ歩いていく主途蘭琉希に追従する。
「琉希ちゃんに憑依できたのか?」
「いや……今まではできなかった。それだけ琉希の身体がアリスに近づいたと言うことじゃ。奴め、どうしてタイミングまでわかるんじゃ」
目をギラつかせながら二人で階下に下りると、私服のみっちゃんと人形状態の蒼星石と金糸雀が玄関で俺たちを待っていた。
「急いでかしら!あの変態、もう数分で到着するって水銀燈が!」
水銀燈。河原家の次男である礼君のドール。彼女は何かしらの弱味を金糸雀に握られているらしく、現在スパイ活動中。俺たちは急いで靴に履き替えると、外に出て駐車してある車に乗り込む。林元家の車で、高級車だ。
俺は助手席に乗り込むと、運転をみっちゃんに任せる。続けざまに後部座席に三人が乗り込んだのを確認して、発進の合図を出した。
「行こう」
そう言うとみっちゃんは車を発進させる。
「香織ちゃんは、本当に来ないのか?」
そう尋ねれば、メイドであるみっちゃんが苦しそうに頷く。
「琉希お嬢様を頼むって……」
「ああ、そうか」
きっと郁葉も香織ちゃんには手を出さないだろう。彼女を襲うメリットがない。それもあの子は分かっていての事だ。
「防弾ベストは着たか?」
「うん、コートの下に……隆博君も、一応コートを着ておいて。警察に止められでもしたら大変だから」
みっちゃんがそう言うと、後部座席の蒼星石がコートを渡してくる。それを羽織ると、プレートキャリアーとライフルが隠れるようにする。
「主途蘭も、ほら」
「いや、奴は儂には……琉希の身体に傷をつけることはせんはずじゃ。いらん」
堂々と言い張る主途蘭琉希。確かに器に傷でもついたらたまったもんじゃないだろうな。
しかし。郁葉め、本当にこの少女を殺してまでアリスを目指すのか。まぁ俺も元々そのつもりだったんだが。今は事情が違う。俺は女の子の涙に弱いのだ。
誰もいないリビングで紅茶を啜る。今から来る訪問者のせいで味が分からないが、それでもティータイムは淑女の嗜みだからやめない。
香織ちゃんはいつものように、少しだけ冷めた紅茶を啜りながら青年を待つ。そして待ち人はやってくるのだ。ドンドン、と玄関のドアが叩かれたかと思えば、鍵など意味もないと言わんばかりに轟音がなる。きっと爆薬でも使ったのだろう。ここは住宅街だというのに騒音を気にしないと言うことは、雪華綺晶が何かしら近隣住民に細工をしているということだ。
廊下を歩く足音が響いたと思えば、リビングの扉を開けて彼は来た。
「お、開いてんじゃーん!」
品位のかけらもない口調で言うと、ようやく香織ちゃんは姉をあんな状態にした男と邂逅する。
白いパーカーに少しだけ茶髪の男。服の上には防弾プレートが入った装備を備え、右手には短いライフル。河原郁葉と言う名の悪魔が、そこにはいた。
しかし香織ちゃんは動揺せずに紅茶を啜る。そしてティーカップをソーサーに置くと彼と目を合わせた。
「君が、まさよしくんだね」
「違うのですけれど」
ふざけた男だ。まるでサーフ系ボディビルダーのように彼は言うと、対面するソファにどっしりと腰掛けた。
「きらきー、入って来て」
彼がそう言うと、トコトコと白い少女がやってくる。人間にしか見えないその少女は、雪華綺晶。きっと薔薇を使っているのだろう、そのサイズは人形ではない。彼女は香織ちゃんにぺこりとお辞儀をすると、悪魔の横に座った。
「うちの雪華綺晶も可愛いだろう?」
自慢気にそう言うと、悪魔は雪華綺晶の肩に腕を乗せる。
「初めまして、かしら。河原郁葉さんとそのお人形」
「そういう君は林元香織ちゃん」
「こちらこそ、初めまして。ローゼンメイデン第七ドール、雪華綺晶ですわ」
男とは違って丁寧に挨拶をする雪華綺晶。しかし今の状況と人形の様相が返ってミスマッチしているせいか、どうも気味が悪い。
「さて、早速だけど。君のお姉さんを迎えに来たんだわ」
「へぇ、そう。迎えに来た、ね。誘拐の間違いじゃなくて?」
「お、そうだな。で、琉希ちゃんはどこに?」
わざとらしくキョロキョロ周りを見回す悪魔。
「いないわ。帰ってくれるかしら、招待もしていない相手と話す程、暇じゃないの」
極めて強気で対応する。悪魔はふーん、と言ってから立ち上がると、香織ちゃんの真横へ来て身を屈め、目線の高さを合わせた。まるで子供に話すように。
「灰は灰に、塵は塵に。何事も、始まりがあれば終わりが来る」
唐突に悪魔は笑みを浮かべて語り出す。しかしその笑みに狂気が孕んでいる事を理解できないほど、香織ちゃんは世間知らずではない。
「人間が生まれ、老いて死ぬ。それと同じように、全ての事象には終着点があるのさ」
さも当然だと言うようにジェスチャーを交えて説明する。最初こそ香織ちゃんにはこの男の言うことの意味が理解できなかったが、そこはお嬢様学校に通う淑女。聡明な頭脳は言いたい事を次第に理解し始める。
少女はキッと睨み付けると湧き出た怒りを押さえ込みながら問うた。
「姉が器になり、貴方が奪いに来るのは必然だと?」
狂気を孕んだ笑みが輝く。それが肯定を示しているのだと理解するには十分なほどに。
「誰にでも訪れる運命はあるのさ」
「させないわ」
即座に香織ちゃんのゴスロリ服の袖から拳銃が飛び出してくる。その銃口は確実に悪魔の額を指していて。引き金を引けばこの男の脳みそは吹き飛ぶだろう。
だが悪魔は笑みを絶やさず、むしろやってみろと言いたげな挑発的な表情で言う。
「引けよ、ほら。撃てばいい。お姉ちゃんが助かるぞ?」
ここで思い出してみてほしい。河原郁葉も、坂口隆博も、そして河原礼も。そのどれもが人を殺すという禁忌を犯している。対してこの香織という少女の手は真っさら。いかに憎い敵と言えども、殺すという行為に抵抗があるのはまともだといえよう。むしろ、この青年達がおかしいのだ。息をするように、それが当たり前だというように敵を殺すのだから。
「撃てないか?なら俺が手伝ってやるよ」
唐突に悪魔が銃を掴み、自らの額に押し付ける。
「ほら、引き金を引けよ。グロックの引き金だ、3キロくらいしかないだろう。引けって。引けよオイッ!」
震える少女に怒鳴りつける。だがそれでも少女は引き金を引けなかった。人殺しの領域に踏み込めなかったのだ。悪魔は銃をかっさらうと弾倉を外しスライドを引いて薬室の弾薬を抜き去る。そして弾なしの拳銃をテーブルの上に放った。
「覚悟もないなら銃を持つな、向けるな。お前は姉を助けるチャンスを自分から手放したんだぞ」
とうとう泣いてしまった少女にそう言い放つと、ソファに座る雪華綺晶の手を取って部屋から出て行く。そして去り際に一言だけ。
「それでいいんだ」
呟くようにそれだけ言って、二人は家から出て行く。残されたのは姉を助けられず、ただ見ている事しかできずに自分の無力を思い知る少女のみ。
二時間ほど車を走らせている。その間ずっと休憩はしていない。気がつけば海岸がすぐそばに見え、走り屋が喜びそうな峠を走っている。
「みっちゃん、運転変わろうか?」
運転手みっちゃん。その横で隆博が提案をするが、彼女は首を横に振った。
「隆博くん運転下手でしょ。それにもうすぐ着くし……ほら、あれ」
顎でみっちゃんが遠くの家屋を指差す。海沿いの山の中にひっそりと佇むコテージ……あれこそが林元家の別荘であり、いざという時のために香織ちゃんが用意したという隠れ家だ。
隆博は後ろを振り返り、寝ているドールズに声をかける。
「おい、もうすぐ着くから起きろみんな」
「う〜ん……車は眠くなるかしら」
「ごめんマスター、ちょっと寝ちゃってた」
眠そうに目をこする金糸雀と蒼星石。主途蘭は……起きていたようだ。相変わらず無愛想な表情で道の先を見ている。隆博は後部座席の窓から後方を確認する。人はもちろん車もいない。どうやら付けられていないようだった。
「憎まれ役がお上手だ事」
ふと、隣に座る雪華綺晶が少しばかり機嫌が悪そうに言った。ハンドルを握りながらちらっと彼女の顔を見ると、また前を見る。
「別に。本当に憎まれ役じゃん」
あの少女の姉の身体を奪おうとしているのだ、これが憎まれずにどうするのだろうか。しかし雪華綺晶が言いたかったのはそう言う事ではないらしく。
「ねぇ、マスター。もう少し自分を御自愛なさってくださいな」
そんな事を言うもんだから、俺は鼻で笑って答える。
「なんだよ急に。俺は自分が大好きだよ」
「嘘ばっかり。いいですもん、その分私がいっぱい愛しますから」
拗ねたように、でも愛たっぷりにそういう雪華綺晶がおかしくて素で笑ってしまった。いい子だなぁこの子は。
ひたすらに車を走らせる。奴らの隠れ家に向けて。もう勝負はすぐそこまで迫っているのだ。