……すいません。改めまして銃皇無尽のファフニール三巻突入でございます。
“赤”の始動
海が、蹂躙されている。
無数の触手が青い海を、銀色に染め変えていく。
放射状に広がる触手の中心には、巨大な紫色の眼球が覗いていた。
それはあまりに異質で、強大な生物の姿。
その名もドラゴンと総称される怪物の一体。
パープル・ドラゴン―――“紫”のクラーケン。
蛇腹状に連結され、鞭のようにしなる触手は、ミスリルと呼ばれる理論上最硬の合金製で、紫色の眼球から放つ反物質弾はあらゆるものを消滅させる。
最強の矛と盾を同時に用いるその能力は、“
「あの時と……同じ」
十四歳の物部深月は、ミッドガルへと侵攻してくるクラーケンを遠くの空から見下ろし、小さな声で呟く。
以前見た“青”のヘカトンケイルは、大地を砕き、隣町を踏み潰していた。ドラゴンというのは、ただ存在するだけで世界を壊すものなのだろうか。
銀色の触手に浸食されていく海面を眺めながら、深月はそう考える。
「ぼーっとしてちゃダメだよ、深月」
すると横から声が響く。その途端、架空武装からの空気変換で宙に浮いていた深月はバランスを崩した。
「ちょ、ちょっと
深月は慌てて体勢を立て直し、傍に寄ってきた少女に文句を言った。
「あ、ごめんごめん。深月はまだ、あんまり飛ぶの上手くなかったよね」
頭を掻いて謝る少女は深月とほぼ同時期にミッドガルへ転入したという
艶やかな黒髪を肩の辺りできっちりと切り揃えている都は、大和撫子という表現がしっくりくる少女だった。彼女の架空武装が薙刀の形をしている事も、その印象をより強めている。
何でも器用にこなす都は、空気変換による飛行法も深月よりずっと上手い。深月はそんな親友の事を少し嫉妬しながらも、尊敬していた。
「そこ、無駄口を叩くな! 敵はもう目の前だぞ!」
私語を交わす深月と都を、部隊の隊長である
「……お姉ちゃんに怒られちゃった」
悪戯っぽく舌を出し、都は笑う。 彼女は遥の妹だ。生真面目な遥と、常にふざける余裕を忘れない都の性格は真逆と言っても良かったが、容姿はとても似ている。特に顔立ちは瓜二つだ。
「都、ありがとう」
深月は小声で礼を言う。クラーケンの威容に呑まれていた深月の緊張を、都は解こうとしてくれたに違いないのだから。
「んー? 何のことかなぁ?」
誤魔化すように都は笑い、
「……頑張ろうね、深月。ミッドガルを―――私たちの居場所を、守るために」
深月に微笑みながらも、真剣な声で言う都。
「―――うん」
表情を引き締め、深月は頷く。
あれから二年経ち、十六歳になった今でも、深月はこのとき見た都の笑顔をはっきりと覚えている。
その情景は瞼の裏に焼き付いていた。
目を閉じるといつでも思い出せる。
だってそれは―――深月が最後に見た、親友の微笑みだったのだから。
◇
二十五年前、日本上空に出現した最初のドラゴン―――“黒”のヴリトラ。
それ以降、人間の中に生まれ始めたヴリトラと同じ力を持つ子供―――上位元素生成能力者“D”が集められた南海の孤島。それがこのミッドガル。
設立当初は隔離施設の側面が強かったミッドガルだが、現在は自治組織として世界に大きな影響力を持つようになった。
任意の物質を上位元素からの変換で作り出せるという能力は、経済的な価値がとても高い。希少な資源の生産依頼を引き受ける事で、“D”は社会に貢献している。
だがミッドガルには公になっていない、もう一つの役割があった。それは、
ドラゴンに見初められた“D”は、接触される事で同種のドラゴンに変貌してしまう。そして今まさに狙われているのが、物部悠の膝に腰かけているティア・ライトニングだ。
彼女を見初めたのはレッド・ドラゴン―――“赤”のバジリスク。現在もティアを求めてアフリカ大陸を横断しているという。だが大陸とミッドガルの間には大海が横たわっているので、泳ぐのに適さない肉体構造を持つというバジリスクが、海を越えて来るかはまだ分からなかった。
「はい、あーん」
ちょこんと膝―――正確には太ももの上に横向きで座ったティアは、手にしたサンドイッチを悠に差し出してくる。無邪気で、無垢な笑顔を浮かべながら。
まるで悩みなどなさそうな風に見えるが、数日前までは自分のことをドラゴンだと言い張り、他の“D”たちとの間に大きな隔たりを作っていた。
しかし次第にクラスメイト達の優しさに触れ、彼らと一緒にいる事を―――人間として生きる事を選択し、ティアを迎えに来たドラゴン信奉者団体“ムスペルの子ら”のリーダー、キーリの手を自らの意志で振り払い、ティアは今ここにいる。
最初は彼から離れようとしなかったティアだが、クラスに馴染めた影響からか、現在はクラスメイトのリーザと一緒に学生寮で生活していた。
「ねえユウ、早く!」
甘えるような声で悠に口を開けるよう促すティア。他の皆とは打ち解けたものの、甘えん坊なところは変わっていない。膝に乗るのはもう止めないかと提案したのだが、授業中は我慢するから今はお願いと、押し切られてしまった。
「……仕方ないな」
そんな悠も彼女を甘やかしてしまうのも仕方のない事。悠は観念して、大人しくサンドイッチを一口
場所は食堂棟一階にあるカフェテリア。当然他人の目もあり、こんなことをするのは恥ずかしい。だが下手に遠慮した場合、ティアとイリスが言い争いをし始める可能性がある。
「モノノベ、次はあたしだよっ」
右隣に座るイリスが体を寄せて悠にサンドイッチを近づける。ちなみにティアに食べさせてもらったのはタマゴサンドで、イリスが持っているのはツナサンドだ。
ティアに触発されたのか、食事まで手伝ってもらうのは心苦しかったのだが、それを言うとイリスに「そんなこと関係ないよ」と返されてしまった。
今はいないが、万が一この場に大和が居たとしたらからかってくるかもしれないと悠は一人、思う。
彼は“D”ではないが、非常に強力な力の持ち主である。色々と訳あってミッドガルの学生として生活をしている。他の生徒達も、大和を強者だと認知していた。
「……いただきます」
悠は周囲の視線を意識の外に置き、イリスのサンドイッチを頬張る。
「えへへー」
嬉しそうに表情を緩ませるイリス。何だか目を合わせていられなくて、悠は口をもぐもぐと動かしながら視線を彷徨わせる。
「早く早くっ、ティアのも食べて」
それを見ていたティアは待ちきれないといった様子で、再び自分のサンドイッチを差し出してきた。
悠は二人に急かされながら、順番に一口ずつ頬張る。サンドイッチばかり食べていると、さすがに喉が渇いてきた。
けれど間断なく、交互にサンドイッチが口元に向けられるので、それを言い出すタイミングがなかなか掴めない。
「おーおー朝っぱらからいいご身分なこって」
するとそこにおちゃらけたような声が響く。
「―――ティアさん、イリスさん、それはお世話をしているとは言いませんわよ?」
更にそこから呆れ混じりの声も届く。
声の聞こえた方に顔を向けると、金色の髪の少女と黒髪の少年に視線を向けられていた。
「っく……大和、リーザ、おはよう」
悠は口の中にあったサンドイッチを急いで呑み込み、クラスメイトの少女―――リーザ・ハイウォーカー、同じく少年―――大河大和に挨拶を交わす。そんなリーザは長い金髪をふぁさっと手で払い、仏頂面で返事をする。
「おはようございます。タイガ・ヤマトの言葉通り、朝から女の子を侍らせて、いいご身分ですわね」
大和の言葉を借りたリーザの皮肉気な口調に悠は慌てる。
「いや、これは侍らせてるとかじゃなくて、二人は怪我してる俺を手伝おうと―――」
「言い訳乙。大体悠、大きな怪我じゃなかったろ」
「そ、それは……」
大和に傷を塞いでくれたので、食事程度なら大丈夫なはず。二人の手を借りなくても可能なので、悠は言葉に詰まった。
「必要ない事をさせているのでしたら、それは侍らせているのと同じ意味ですわ。そしてティアさん、イリスさん―――あなた達もダメダメです」
「ひゃわっ!?」
「……リーザ、怖いの」
厳しい言葉にイリスとティアは肩を竦める。
「必要以上に世話を焼くのは、相手に負担を掛ける場合もあるんですよ? ちゃんと彼の身になって考えて、必要な事だけを手助けすればいいんです」
リーザはそう言うと、テーブルに置かれていた水の入ったグラスを悠に差し出す。
「……喉、渇いてるんでしょう?」
「あ、ああ、ありがと」
咄嗟に彼は礼を言って、右手でグラスを受け取り、水を飲み干した。
「モノノベ・ユウ、助けを求める時は自分で選びなさい。本当に必要な事でしたら、わたくしも全力で助けてさしあげますから」
リーザはツンと顔を逸らしながらも、そんな事を言った。
そんなリーザをイリスとティアは呆然と見上げていた。
「リーザちゃん、かっこいい……」
イリスは目をきらきらさせながら呟く。
「リーザはすごいの……」
ティアも尊敬の眼差しをむけていた。
「わ、わたくしは当然の事を言っただけですわ」
照れくさそうに謙遜するリーザを見て、大和も口を開く。
「リーザそんな事言って、本当は嬉しい癖にぃーこのこのー」
途端に顔を赤くして、リーザは大和を睨む。
「なっ!? そんな事ありません! わたくしをからかって楽しいんですの!?」
「うん楽しい。表情コロコロ変わるし見てて尚楽しい」
「きーっ! あなたはどこまでわたくしを
「(そこまで言って)ないです」
怒りの表情をニヤけている大和に向けるリーザ。彼女を弄るのが楽しいという大和の言い分に悠は苦笑する。
よく考えればまだ早朝の学園にリーザと大和がいるのは不自然で、もしかすると悠の様子を見に来るために早く登校した事を一度考えたのだが……。
「なあ、二人はどうして一緒に来たんだ?」
そう、彼女とほぼ同時に大和が現れたのがふと、気になったのだ。この際だから、二人に聞いてみようと訊ねた。
「ん、オレ早く起きてからたまたま近くでリーザと会っただけだよ」
「不本意ながらですけどね」
「―――べ、別にモノノベ・ユウの事が心配で様子を見に来た訳ではないんですからね! とか実は思ってるんでしょ? もー、素直じゃないなぁ、リーちゃんは」
再びリーザはキレた。
散々言われ、頬を赤くして思わず大和の肩に掴みかかりながら声を上げる。
悠はそんな様子を見ていて、つい彼女をからかいたい衝動に駆られる。
だが悠がリーザをからかう一言を口にする直前、自販機の設置されているラウンジの方から低いどよめきが聞こえてきた。そこに含まれていたただならぬ気配に、皆動きを止める。
「どうしたんだろ?」
イリスが不思議そうに呟く。
悠達と同じようにカフェテリアで朝食を摂っていた職員も、何事かとラウンジの方を見ていた。ラウンジからは「ねえ、ちょっと来てよ」「どうなってるの、これ……」という声が漏れ聞こえてくる。
「ユウ……何だか、ヤな感じなの」
ティアが不安げな顔で悠の制服をぎゅっと掴む。
そこいえばと、悠はラウンジには自販機の他に、衛生放送を流すテレビも設置されていた事を思い出す。
「何があったのか、確かめに行きますわよ」
リーザはそう言い、悠達を促す。
五人でラウンジに向かうと、そこではたくさんの職員が食い入るようにテレビを見つめていた。画面には何処かの海岸線らしき風景が上空から映し出されている。
「な……」
悠はそれを見て、言葉を失くする。
世界のどの国であろうと、共通して、最優先に報道されるニュースがある。
それは国境など関係なく、好き勝手に移動するドラゴン達が発生させる竜災と、その被害予測に関する話題だ。
現在流れている映像も、竜災関連のもの。
だが悠にとって、こんな竜災などこれまでに見た事がなかった。
海が―――真っ白に染まっていた。画面の右端に表示された地図によると、現場はアフリカ大陸の赤道近くで、海が凍るはずはない場所だ。
そして実際、画面のテロップも、ニュースキャスターも、海が凍ったとは言っていない。
ニュースはこう伝えていた―――アフリカ大陸を移動し、海岸線に到達したバジリスクが、周辺の海を塩に変えてしまったのだと―――。
「バジリスクの野郎、環境破壊なんぞしやがって」
大和の憎々しげな口調の言葉は、誰の耳にも届く事はなかった。