触れるものを輝かすソンザイ   作:skav

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56話「か、可愛すぎる…!」by真墨

学園祭が終わり、一か月がたった。季節はもう冷たく乾燥した空気が肌を刺していた。

岩沢さん、ひさ子、関根、入江と俺を含めた5人は○○県へ向かっていた。

「前回はあっち持ちで交通費が出たけど、流石に今回は出なかったな。」

俺たちがN女の面々と会うのはこれが二回目だった。前はN女の学園祭に招待された時で、今回は私的な招待であった。

「他校の生徒に誕生日会開いてもらうとかいつの間に先輩はプレイボーイになったんですかね。」

どうやら思った以上にあの年上姉妹に気に入られたようだった。

「あのベースの二人はかなりレベル高いから関根も色々聞くといいぞ。」

「はい、モチロンですよ!」

文化祭で彼女たちはロックをジャズ風にアレンジした曲を披露していた。

そして曲の中にcrow songのフレーズを入れるというと思いもよらないサプライズもあった。

ステージ上でいたずらが見つかったようにはにかむ真墨さんの表情は印象に残っている。

「岩沢先輩、このプレイボーイが年上に目覚めかけてますよ。」

「そうなのか?」

関根の発言で岩沢さんが首をかしげながらこちらを見る。

「…だったらどうする?」

無いと言ったらあの姉妹に失礼だし、あると答えてもおかしな話になる。だから少しだけ卑怯な返し方をした。

「……。」

岩沢さんは無言でこちらを見つめる。

無表情なのだが目の奥には寂しさと悲しさが含んだ複雑な色が見える。途端に罪悪感が湧き上がってくた。

「すみませんでした。」

俺は真っ先に頭を下げた。なんか弱いんだよなぁ…岩沢さんのこの表情。

 

最寄り駅で電車を降りて改札を出ると、見知った顔が出迎えてくれていた。

「みんな、お久しぶり!」と真墨さん。

「文化祭以来ね~」と真白さん。

電車の中で噂になっていた二人だった。

「わざわざお出迎えありがとうございます。」

瀬奈たちは会場で準備をしているそうだ。駅からバスに乗ってしばらく揺られる。

「綾崎、前回とは逆方向のバスなのか?」

「会場が俺が住んでいたところの近所なんだ。」

会場はあのハントンライスのお店だそうだ。なんでも今回は瀬奈が主体で催されたらしい。

病院前のバス停で降りる。少し歩いて大通りから狭い小道に入るとその店はある。

「実は私たちもこのお店に来るのは初めてなの。」と真墨さん。

「セーナちゃんったらいいお店知ってるのに教えてくれないんだもん~。」と真白さん。

ここは俺と瀬奈の思い出の場だからな。瀬奈も出来れば教えたくはなかったのだろう。

店の扉には本日貸し切りの掛札があった。

「「それじゃ5名様ご案内~」」

息をぴったり合わせて二人は店の扉を開けた。

パンパーン!

店に入ると同時にクラッカーが鳴らされた。

「「おめでとうございまーす!」」

 

Happy Birthday KOHKI&MASAMI

 

そんな幕をバックにN女の面々と店の夫婦が迎えてくれていた。

……ん?MASAMIってことはつまり…。

「岩沢さんも誕生日近いの?」

「12月25日だ。」

岩沢さんも誕生日が同じなのか。何たる偶然。

それはそうと岩沢さんはいつの間に瀬奈と仲良くなっていたのだろう。

「瀬奈とは頻繁に連絡を取り合っている。ちなみに今日のことも結構前に知らされていた。」

「紅騎は祝ってまさみは祝わないってのもおかしな話だろう?それに私たちの町もゆっくり紹介したいからね。」

カラカラ…と車いすで瀬奈が近づいてきた。車いすには瓶のジュースが下げられている。

「ほら二人ともグラスをもって。乾杯しよう。」

瀬奈が俺たちの、俺が瀬奈のグラスにコーラを注いでカチンとぶつけ合った。

「そういえば平沢さんたちはどうしたんだい?」

「アイツ等はあいつらで楽しんでる。」

今頃クリスマス会場の唯の家で盛り上がっているころだろう。

「それは残念。彼女ともゆっくり話してみたかったのだけどね。」

そう言って瀬奈はグラスを傾け、ひさ子の方へ向かっていった。

「やあひさ子さん、久しぶりだね。早速だけどギターセッションをしないかい?」

「ちょ、ちょっと待てって!引っ張るなって!」

瀬奈が車いすに乗っている手前乱暴にするわけにもいかないのか、ひさ子は素直に演奏ができるように空けられたスペースへ引きずられていった。

「面白そうになってきたな。綾崎。」

ギターを構える二人を見て、岩沢さんは目を輝かせていた。

「それでは僭越ながら一曲目を演奏させていただきます。レッド・ツェッペリンでステアウェイ・トゥ・ヘブン。」

瀬奈がひさ子に向かってアイコンタクトを送ると、ひさ子がリフを弾き始める。

ひさ子が握っているのは実際と同じツインネックのギターだ。

そして瀬奈のメロディーパートが後に続く。

ここからがインストの真骨頂だ。原曲のような力強く、荒々しいヴォーカルは姿をひそめるが、瀬奈のギターから発せられる音がまた違う姿を見せてくれる。

その音はどこまでも澄んでいて、12弦ギターの幅広いオクターブと見事に調和していた。

静かな曲調から始まり少しずつ音の質が変わっていく。バラードからロックの方向へ。

12弦のネックを握っていたひさ子の腕が6弦のネックへ移る。ここからがギターソロだ。

慣れないギターもどこ吹く風でひさ子は相変わらず鬼のような演奏で瀬奈を突き放しにかかる。

付いてこられるか?

と口に出さなくても音でそう言っていた。そんな挑発に簡単に乗ってしまうのが相川瀬奈と言う人間であった。

ひさ子のバッキングに合わせて瀬奈がこの曲のメインパートに入る。

「ふっ……!」

瀬奈が息を吹いた音がかすかに聞こえたかと思うと、目つきが一気に変わった。

原曲の荒々しさを忠実に再現したかのようなメロディでひさ子に真っ向から挑戦状を叩きつけたのだ。

「ひさ子も学園祭でやったお前のソロ演奏の影響か、夜遅くまで練習してるみたいなんだ。…私も負けてられないな。」

勝ち負けの基準は定かではないが、ひさ子にとっては刺激になったみたいだ。

まるで嵐にような数分間があっという間に終わると、二人の額にはほんのりと汗が滲んでいた。

瀬奈の顔はどこか恍惚とした表情と、達成感が浮かび上がり、ひさ子は疲労感が浮かんでいた。

「ありがとうひさ子さん。とっても楽しいひと時だったよ。」

「私はなんだか…疲れたよ。おーい葵ぃ…コイツ返すよ。」

車いすをカラカラと押してひさ子が瀬奈を運んできた。

「ただいま紅騎。」

「おかえり。」

水に入ったグラスを渡して、ハンカチで瀬奈の汗を拭いてやった。

「さーて激熱な演奏に続きまして、ちょっと私たちや紅ちゃんたちとは違った趣向を凝らしてみようかな~と思います!」

真澄さんのそんな言葉と同時に真白さんが各テーブルへ人数分の紙を配り始めた。

「…楽譜?」

岩沢さんが手に取った紙を覗き込むと、それは楽譜にようだった。

「イーグルスのNew kid in townの楽譜だよ~。みんなで歌お~」

アカペラのような綺麗なハモりとロックなメロディはイーグルスの特徴だ。この曲はそんなイーグルスの中でも合唱にアレンジしやすい曲だ。

…確かにこちらにもあちらにも無い雰囲気を持った一曲だ。

演奏組は関根と入江とひさ子。N女の面々に俺と岩沢さんを加えた8人がボーカル組に分かれる。

「この日のためにみんなで練習したんだよ!」と真墨さん。

「ハモりなんて初めてだったから大変だったんだよ~」と真白さん。

30分ほど練習をして、いよいよ本番だ。各々椅子に座ったままであったり立っていたりと好きな姿勢で部長を見る。

「それじゃあ始めるよ!1、2、3、4…」

真墨さんのカウントでひさ子のギターがイントロを弾き始める。

 

町で人気者の男がしばらく街を離れていると既に別の男が、その町の人気者になっていた。

名声や町一番の美人など、かつて彼が手に入れていたものは全てその男の手に渡っていて、彼はとっくに過去の人となってしまっていた。

新しい奴がやってくれば周りはそいつの事ばかり注目する。町はそんなことを繰り返している。

 

そんな歌詞と合わさって、ひさ子のギターも切ない響きを奏でていた。

「~~~♪」

今まで岩沢さんとコーラスでハモることはあったが、こうして大人数でハモるのは初めてだった。

しかし、これはこれでなかなか楽しい。自分の声とみんなの声が合わさり、一つの和音としてメロディが流れる。

この自分の声が音楽の一部になっていく感じがとても気持ちが良かった。

この気持ちのいい感覚に身をゆだねていると、あっという間に時間が過ぎ去っていくのだった。

そのあとも色々な組み合わせで演奏を楽しんだ。

中でもエリーとのセッションは刺激的だった。ジャズの名曲であるTAKE5を演奏したのだが、変拍子にあわせて奏でられる複雑なメロディは隣で演奏しながら聞き惚れてしまうほどだった。

そして俺は久しぶりに演奏中にミスをしてしまい、そのせいだろうか岩沢さんが少々不機嫌になっていた。

いや…だって仕方ないだろう。本当に凄い演奏だったんだから。

 

 

紅騎達の誕生日会がお開きになり、桜高の面々は私たちの家に各人泊まることになっていた。

私の家にはひさ子さんが泊まることになった。

「ひさ子さん、お風呂が沸いたから入ってきたらどうだい?」

「ありがとう。相川さんは普段も一人で?」

「もちろん。できることはやらないと治った時に困るものだよ。…それとも今日はひさ子さんが一緒に入ってくれるのかな?」

「ば、ばか!そんな恥ずかしいことできるか!」

顔を真っ赤にしたひさ子さんを風呂場に案内をして、私はリビングでテレビをつける。

「さて、と…ほかのところは楽しくやってるかな?」

 

ところ変わって、N女のキーボード担当榊ゆかり宅には双方の1年生が集結していた。

「いやぁゆかちんのお家は広いね~。」

しおりはふかふかのソファが気に入ったのか、寝そべりながらそんなことを言う。

「そんなこと…普通だよ…。先輩の家の方が大きいし。」

「いやいや横溝姉妹の豪邸と比べちゃダメだって。この人数で泊まれるんだもん十分大きいって!」

クラスメイトのドラマー、山本亜弥がしおりの上に覆いかぶさるようにして倒れてきた。

「ぐわぁ~、なんだか安心する固さが~」

「言ったなコイツ~」

じゃれる二人を見ながらゆかり、みゆき、エリーはトランプで遊んでいた。

「あの二人いつの間に仲良くなったんだろうね?」

「類は友を呼ぶ…?」

「こらー!聞こえてるぞエリー!」

「そーだそーだ!そっちの三人もどちらかと言えばぺったんの癖にー!」

そう言いながら亜弥としおりはエリーに向かって飛びかかってきた。

 

ふにゅん

 

彼女の懐に飛び込んだ二人は思いのほか柔らかい感触に驚愕した。

「「うそ…」」

「あはは…エリーって着やせするタイプだったんだね。」

「これは詳細な情報収集をしなければ!ゆかちん!お風呂沸いてるよね!?」

「う、うん…。」

ゆかりが頷くと同時に二人はエリーを連行していってしまった。

「やったやった3カード!みゆきちゃんは?」

「ふっふっふ…なんと、フラッシュだよ!」

そしてここにはいないエリーのカードを返す。

「「ストレートフラッシュ…かぁ…。」」

四人はいろいろな意味でエリーに対して敗北感を抱いた夜であった。

 

「こうちゃーん、こっちでお茶でも飲まないー?」

真白さんの妙に間延びする声で呼ばれると、テラスでくつろぐ横溝姉妹と岩沢さんがいた。

色とりどり花がさくテラスを月明りが照らし出すと三人が幻想的に、まるで絵画のように浮かび上がる。。

「……。」

「綾崎?」

「ふふふ、どうしたの?紅ちゃん。」

「…何でもありません。」

まさか見とれてましたと言えるわけもなく、目をそらしながら空いた椅子に座った。

「はい、ハーブティーとお菓子。」

「ありがとうございます。」

真白さんが淹れてくれたお茶を飲みながらちらりと真墨さんを見る。真墨さんはどのような意図があってあの曲を選んだのだろうか?

彼女にとってのNew kidとは一体何なのだろうか?

そんなことばかり考えていたせいか、真墨さんとばっちり目が合ってしまった。

「もう、そんなに知りたいなら教えてあげる。なんでNew kid in townにしたかって言うとね。」

真墨さんは自分のティーカップを置いて、まっすぐに俺の眼を見る。

「最初に紅ちゃん見た時にこの子は私のNew kidだって思ったの。新しく聞くたびに、会うたびに、知るたびに新しい紅ちゃんを見せてくれる。夢中にさせてくれる。だからこの曲を選んだの。」

だから私を飽きさせないでね?と真墨さんはウインクをした。

「ごめんね。くろちゃんはこれだ!って決めたらちょーっと暴走しちゃうときがあるから。」

「…はぁ。」

これがひさ子だったら逆にやり返して主導権を握るところだが、相手は先輩だ。正直なんて返せばいいのか分からない。

「あら、紅ちゃんもまんざらでもない?何なら今夜はずーっとセッションしても良いのよ?」

俺が戸惑う間に真墨さんがかなり際どい発言をしてきた。

その時だ。

「いい加減にしてください。綾崎をあなたに渡すつもりはありません。」

岩沢さんが対抗心全開でそう言ったのは。真白さんは「あらあら~」と楽しそうな様子だ。

…俺は早くこの場から逃げ去りたいと思う気持ちで一杯だった。

だが敵陣のど真ん中で、味方がエキサイトしていては、俺には成す術がなかった。

「仕方がないわね。そんなに言うなら私の部屋で語り合いましょうか?」

「…受けて立ちます。」

何がどうしてそうなったのか、訳が分からない内に真墨さんと岩沢さんはどこかへ行ってしまった。

「それじゃあ私たちはそろそろ寝ましょう。紅ちゃんのお部屋に案内するね。」

「ありがとうございます。」

一抹の不安を抱えつつ俺は真白さんに案内された部屋(これもまた広い)で眠りについた。

「紅ちゃん、ぐっすり寝ちゃったみたい。」

真白がそう言って静かにまさみと真墨のいる部屋に入ってくる。

そういえばまさみとますみって似てるわねーと場にそぐわないことを真白は考えていた。

「紅ちゃんの歌声は最高よ、あのちょっとハスキーな感じがとっても色っぽくて聞いた瞬間メロメロになっちゃうの。」

「いえ、やはりギターでしょう。技巧的かつ、魅惑的なサウンド。感情を直接揺さぶられる音色は綾崎の真骨頂です。」

今この部屋では”綾崎紅騎がいかに魅力的か”という題目の下、熱い議論が交わされていた。

「二人とも紅ちゃんが好きなのね~。」

「当たり前です。」

「当然よ!」

同じものが好き同士でありながらなぜこんなにも二人はケンカ腰なのだろうか。それなら寝ている彼をそのままこの場に持って来れば収まるのだろうか。

なんて恐ろしいことを真白は考えていた。そして真白は基本的に姉が大好きである。

「二人とも紅ちゃんの寝顔…見たくなーい?」

「当たり前です。」

「当然よ!」

二人の関係を深めるために紅騎が犠牲になることもいとわないのである。

 

「失礼しまーす…。」

先頭の真墨が小声で紅騎のいる部屋に潜入する。

薄暗い部屋の奥にあるベッドの上。白い布団が小さく上下していた。

「いたいた…さてと…それじゃあ御開帳~。」

躊躇なく真墨が布団をそっと除ける。

「「ほわぁ~」」

真墨と真白が歓喜の声を上げる。

「か、可愛すぎる…!」と真墨。

「反則よ…こんなの反則すぎる。」と真白。

まるで純真無垢なその寝顔は普段のキリッとした表情からは想像もできないほどのギャップがあった。

「はぁ~ぎゅってしたい…。」

惚けた表情で両手をワキワキさせる真墨をまさみが無言で引き留めた。

「ここはじゃんけんです。」

黙ってそれを譲るつもりも毛頭ないまさみだった。

「じゃんけん…ぽん!」

真墨がチョキ、まさみがグーだった。

「…では。」

「3分で交代だからね…!」

「二人とも…本人が寝てるからって好き勝手しすぎじゃないかなー?」

真白のそんなつぶやきを聞かないことにして、まさみがそっと紅騎の髪の毛を撫でる。

「……ん。」

小さく声を漏らし、心なしか表情が和らいだような気がする。

「…失礼。」

一応断りを入れておいて、そっとそのあたまを胸に抱いてみた。

「まさみちゃーん…具合はどーお?」

「…最高です。」

なおも小さい寝息を立てる紅騎が今自分の胸の中にいると考えると、頭の血液が沸騰しそうだった。

「さぁ、3分経ったよ。」

「…はい。」

名残惜しいが約束は約束だ。紅騎から離れようと腕に力を入れた時。

「……え?」

いつの間にか紅騎の両腕がまさみの腰に回されていて、思いのほか強い力で抱きしめられていた。

「あ、まさみちゃんずるい。」

そんなことを言われても、これは寝ている紅騎が寝ぼけてやったものでまさみに故意はない。

すこし体を動かしても紅騎が手を離す気配はない。あろうことか、まさみを布団と共に巻き込んでしまった。

「おぉ…紅ちゃんったら寝相が悪いのね~。」

「うぅ~こうなったら背中だけでも!」

痺れを切らした真墨が二人が寝るベッドへダイブ。紅騎の背中へ張り付いた。

「ちょっと二人とも~このまま寝るつもり~?」

「だってこのままじゃ二人が一線超えちゃうもん。私たちの家で。」

「…しませんよ。」

「良いから!私もここで寝るの!」

久しぶりの姐の駄々に真白は小さくため息をついた。

「もう、ちゃんと明日紅ちゃんに謝るのよ?」

「はーい。」

真白はそのまま部屋を出て行ってしまった。

「え、あ…ちょっと…。」

「あれ~こうちゃんって意外とふにふにしてるんだね。」

「そ、そこは私の脇腹です…。」

「…ふむ、じゃあこの上は。」

「止めてください。」

夜が更けても気が休まることは無さそうだった。

 

「……ん。」

日差しで目が覚める。信じられないほどふかふかのベッドは横になった瞬間眠りに誘われ、本当にぐっすりと眠ることができた。

そしてこの抱き枕だ。柔らかすぎず、しっかりとした抱き心地のこの枕はいつまでもこのまま眠っていたいと思ってしまう。

そして極めつけはこの匂いだ。甘い柑橘系の香りは、奥の底から安心感が湧き出てくるようだった。

「おはよう綾崎。」

その声を聴いた瞬間、ボーっとしていた頭が一気に冷えていくのを感じた。

「もう、紅ちゃんたらどうやってもまさみちゃんに抱き着くんだもん。おねーちゃんちょっとショックだったんだから。」

そして背後からも声が聞こえる。恐らく真墨さんだ。

「なぜお二人が川の字の1画と3画になっているのでしょうか?」

「本当は紅ちゃんの寝顔だけ見てすぐに出ていく予定だったんだけどねー。」

「お前が寝ぼけて私に抱き着いて離さなかったんだ。」

自分の寝相の悪さはよく知っていたが、よもやここまでとは思いもしなかった。…いや、前も似たようなことがあったな。

その時も被害者は岩沢さんだった…。

「ごめん岩沢さん、すぐどくから。」

「えーもうちょっとこのままが良いな~。」

真墨さんが背中に抱き着いて、耳元で話しかけてくる。その妙に生々しい息遣いに背筋が凍り付くのを感じた。

ガチャッ

「こーら、その様子じゃまだ謝ってないでしょ?」

今この時こそ真白さんの登場を望んだときはなかった。これで動き出すことができる。

本音を言えばもうしばらくこの至福の感触を楽しんでいたいが、いかんせん背中から感じるナイフのような威圧感がそれを許さない。

「はーい。ごめんね紅ちゃん。寝てる最中に好き勝手しちゃって。」

「まぁ…ぐっすり眠れたんで良いですよ。」

安眠の要因は背中じゃなくて正面の方だと思うけど。と言葉にすればまた面倒なことになりそうなので、止めておいた。

「さ、朝食を食べたら私たちの町を回りましょうか。」

 

それから夕刻の列車までの数時間、懐かしさと新鮮さを感じながら街の散策をしたのだった。


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