人はなぜジェットコースターに乗るのか。猛スピードで急降下、急上昇を繰り返し、首が傾くほどの遠心力に耐えることに一体何の意味があるのだろうか。いや、そこには意味なんて無いのかもしれない。自ら恐怖の中へ身を置くことによって、得る快感。人は早さを求める動物なのかもしれない。
「”玲於奈”・・・まだ乗るのか?」
「まだ10回目だよ?」
「せめて別の乗り物にしてくれ。」
レナが特殊生に合格したら、一日自分を好きにできる。その約束に対してレナが提示した条件は二つ。
一つ目はとあるアミューズメントパークに出かけることだった。ここは世界中のいわゆる絶叫系のアトラクションを収入していて、コアなマニア達が年中集まる場所だ。
「じゃあ、次はあれにしよう!」
レナが指さす先にはアルプスの少女が乗っていそうなブランコのようなものがあった。しかもほとんど海に突き出た状態で設置されていた。
「また凄そうなもを・・・。」
レナは待ちきれないと行った様子で、俺の手を掴んで小走りを始めた。
「ほら、早く行かなきゃ全部回れないよ”紅騎”!」
二つ目の条件は、今日一日恋人として振る舞うこと。呼び方もレナ、お兄ちゃんではなく、玲於奈、紅騎と呼ぶこと。
ずっとレナがそうしたかったことであり、もう叶わないこと。だから今日一日だけ、悔いの無いよう、できる限り最高の彼氏になってやろうと思う。
「100メートルかー、この高さからならだいたい45キロはでるんじゃない?」
「確か日本一のバンジーが100メートルだよな・・・」
二人乗りの座席にシートベルトやバーで固定されながら、不安を隠すように玲於奈と会話をする。原理的にはバイキングと大して変わらないのだが、このアトラクションは定員が二人までだ。それに海にせり出している分余計に景色が視界に入ってしまう。
全ての準備が整い、ゆっくりと後方へと上昇していく。それにつれて徐々に姿勢と重力の向きがずれてきて、改めて地球には重力があることを実感させられる。そしてついに水平を超えて、頭が下を向いた姿勢で止まった。そして流れ出すあのオープニングテーマ曲。ヨーデルの響きが今の俺には死のマーチに聞こえた。
ガチャンと言う音とともに、一瞬の浮遊感を感じるのもつかの間、位置エネルギーがみるみる運動エネルギーへと変換されていく。迫る海、加速していく体。最高速度で海面ぎりぎりを通過し、目の前に海と空が広がる。ここで拘束を解いたら見事な放物線を描いて海へとダイブしていただろう。エネルギー保存の法則を肌で感じながら、俺たちは何度も海と空往来した。
巨大ブランコから降りると、玲於奈がすがるように抱きついてきた。よく見ると手足がかすかに震えていた。そう言えば終始無言で俺の手を痛いほど握り続けてた気がする。
「どうしたんだよ玲於奈、まさか怖かったのか?」
「落っこちるとか、こういう系は苦手です・・・。」
「じゃあ何であんなに乗る前ははしゃいでたんだよ。」
「だって、紅騎が怖がるのが見たかっんだから!」
つまり自分が一番怖い物に乗れば、俺も怖がるはずだと。浅はかなり。しっかりと安全が確保されているウチはどんな高さから落ちようが、どんな速度で上昇しようが俺は全然平気なんだよ。それならプールにダイビングする方がよっぽど怖い。
「こうなったら別の方向から怖がらせる。」
そう言って玲於奈はなにやら物々しい雰囲気を放つ場所に連れてきた。お化け屋敷のようなものかと思ったがそうでは無いようだ。海が近いこの施設は海中をガラスのトンエルで歩くことができる。しかし、ここの設計者は何を思ったのか、世界に例を見ないパニックハウスを作り上げた。ホラーでは無く、パニックだ。耳を澄ますと悲鳴のような音がかすかに聞こえてくる。
12歳以下の方、心臓が弱い方、高齢の方入場禁止の注意書きと、手渡されたのは各フロア毎の非常出口の案内図が、緊張感をかき立てる。
「それじゃあレッツゴー!」
玲於奈は意気揚々と階段を降り始めた。ガラス越しに見える海が徐々に上がっていく。太陽に照らされて輝く海面や、透明の海水は美しく、とてもパニックハウスとは思えなかった。
トンネルを歩くと、周りは海洋生物でいっぱいだった。魚が群れで泳ぎ、イソギンチャクなどがゆらゆらと揺らいでいる。
「凄い綺麗・・・。」
目を奪われた玲於奈は食い入るように、外の景色を楽しんでいた。やがてガラスのトンネルが終わり、エレベーターで一気に最下層まで降りる。扉が開くと、そこは暗闇だった。
照明器具は一切無く、わずかに差し込んでくる光が一層不気味さを際立たせていた。全面ガラス張りのフロアはまるで檻のようであった。
絶対に逃げることができない堅牢な檻。暗く深く全て飲み込んでいまいそうな闇。
「な、なんだかいきなり雰囲気が変わったね・・・。それに何だか空気が冷たい・・・。」
空調が効いてるので実際は寒くないはずだが、この雰囲気が背筋を凍らせるのだろうか。
「怖いなら手握ってやろうか?」
「へ、平気だよ!ただ真っ暗なだけじゃでしょ。」
そのときドンという音とともに、フロア全体が小刻みに揺れた。
「きゃっ・・・な、何の音?」
暗闇に包まれているため、音の正体を把握することができない。再びドンという音と、震動が訪れる。先ほどよりも近い。
そのときゆらりと黒い影が見えたような気がした。人影では無い、もっと大きな陰。
その陰の正体を確かめるために、俺たちは壁越しに外の景色を覗く。
「紅騎・・・何だか分かった?」
「いや、全く。」
黒い影はその場所を漂うだけで、全く動く気配を見せない。すると、遠くの方から別の陰が近づいてきた。はじめは小さかったその陰はみるみる大きくなり始める。遠近法と言う言葉を思い出したのはその陰の正体が分かった時だった。体長5メートルはあるであろう巨大な鮫が黒い影に食らいつく。それを引きちぎろうと巨大な体を大きく揺らす。瞬膜を閉じ白目をむくその姿は、迫力とは無縁。わき上がるのは全身を貫くような恐怖心。鮫の巨体が直撃し、聞き覚えのあるドンという音がフロアに響いた。
「ちょ、ちょっと・・・何あれ!?」
ホラーでは無くパニック。それも動物の本能を刺激するような濃密な恐怖心が全身を支配する。体が凍り付き、全身が震える。逃げだそうにもどうやって脱出すれば良いのか。案内図はあるが、よく見えない。目印も無い。まさに俺たちは今檻の中に放り込まれた状態だ。
「紅騎!下、下!!」
玲於奈に言われたとおり足下を見ると、別の鮫が大口を空けて急上昇してきた。ガンと鈍い音を立てて必死に俺の体を食らうために巨体を動かす。すぐ目の前に死が迫るような気分になった。本当にこれの設計者は性格悪すぎる。
尻餅をついたおかげでフロアの隅っこに小さなトンネルがあることに気がついた。
「玲於奈、あそこに出口があるぞ!」
元・現陸上部の俺たちは全力でそのトンネルまで走った。ここがトラックならそれは見事なスタートダッシュを決めていただろう。
人間二人がやっと入れるような狭いトンネル。しかしすでに冷静さを欠いた玲於奈は俺と並んでトンネルに入ってきた。正直言って狭い。
50メートル先には上に行くためのエレベーターが見える。しかし、このトンエルは全面ガラス張り。外には無数の巨大な鮫たち。
設計者の意図が明確すぎて、凶器すら覚える。
トンネルを這うように俺たちは少しずつ進む。そんな俺たちを吟味するかのように鮫が横をかすめる。トンネルが小刻みに揺れる。
「もう・・・嫌、嫌ぁぁあ・・・。」
玲於奈は半べ状態で必死に体を前に進めていた。やっとの思いで半分ほど進んだところで、唐突にそれは訪れた。
横から見える大きな黒い影、それを見つけた瞬間背筋が痛いほど痙攣を始めた。体調六メートルの世界最大級のホホジロザメが細いトンネル毎食らいつく。トンネルが大きく揺れ、視界いっぱいに広がるのは二列に並んだ鋭い歯。本当に食われたわけでは無いのに全身に強烈な痛みが走った。
「いやあああああああ!助けて!お兄ちゃん、お兄ちゃあああん!!」
全身の痛みの正体は玲於奈が思いきり抱きついてきたからだった。目尻に涙を浮かべて、震える体で必死にすがりついていた。
「レナ、あと半分。大丈夫だから!」
ピシッと嫌な音が聞こえた。目の前のガラスに無数の亀裂が走る。
「もうダメ・・・死んじゃう・・・死んじゃうよぉ・・・。」
レナの体をしっかり抱えて、背中と足を使って這って進む。遙か上方はうっすらと青く光っていた。
巨体がトンネルを揺らす音と、亀裂が走る音で体が止まりそうになるのに耐えながら、やっとの思いで出口にたどり着いた。
俺にしがみつくレナ手は冷く、体と一緒に呼吸も小刻みに震えていた。。
「レナ、もう大丈夫、早く戻ろう。」
「ほんと・・・?もう、来ない?」
小さい子をあやすように、背中を撫でてレナを落ち着ける。
「ああ、後は出口だけだから。ほら、立てるか?」
手を取って立ち上がらせようとするが、かくんとレナは膝を崩してへたり込んでしまった。
「あ、あははは・・・腰抜けちゃった・・・。」
「・・・まあ、無理も無いか。」
最上階までおぶっていくことにした。
「はー怖かった、本当に悪趣味なところだったね。」
「まあ、作り物としてはかなり完成度高かったな。」
「・・・・・・へ?作り物?」
「なんだ、レナは気がつかなかったのか?」
俺なんか最初のエレベーターで気がついてたけどな。下がってるのに全くGを感じなかったし、暗くしてたのもおそらく映像を誤魔化すためだったのだろう。それにあんなに深い場所で亀裂なんて入ったら、あっという間に水の中、魚のエサだ。
「そう言われれば確かに・・・なーんだ、てっきり本当に海の中だと思った。」
「最初の階段は本物だね。あれも本当の海の中だと思わせるための仕掛けだろうけど。」
「あー何だか悔しいけど、まあ良いかな。お兄ちゃんのびびった顔も見られたし。」
レナは満足そうに、背伸びをした。
「しょうが無いだろ、ジョーズだって作り物と分かっても怖いんだよ。それと同じだ。」
「何だか恋人ごっこも疲れちゃった。お腹もすいたし、何か食べようよ。”おにーちゃん”」
俺の腕を組んで甘えるように顔を擦り寄せてくる。頭を撫でてやるとふにゃぁと猫のような声を発する。その仕草をみると異性としてでは無く,妹として可愛らしいと思う。
「昼食を食べたら今度は水族館にでも行くか?」
「うん、さんせーい!」
その水族館で飼育されている鮫を見て再びレナが腰を抜かしてしまったのはご愛敬。