「お兄ちゃん、相川華菜さんって知ってる?」
夕食を食べているとき、レナにそんなことを聞かれた。その名前を聞いて紅騎は去年届いた手紙を思い出した。
「ああ、俺の知り合いの妹だよ。それでその子がどうしたの?」
「部活で聞いてたの、綾崎紅騎先輩はいなのかって。」
確か相川華菜は姉と同じ短距離だったが彼女は長い短距離が得意だったっけ。
まさか桜高に入ったとは思いもよらなかった。てっきり地元の学校に進学すると思った。
「それで次は私が妹だって分かった途端に、良く話しかけてきて・・・。」
「早速仲良くなった訳か。」
彼女は姉に負けずおしゃべりなところもあるし、レナも話し好きだから問題はない・・・はず。
「うん、アドレスと番号交換しちゃった。けどお兄ちゃんのも教えようとしたら断られちゃった。自分で聞くからいいだって。」
つまりそれは直接会いに来るという意味だろう。
「あの子は実力もあるから仲良くしてやってくれ。たぶん即戦力になると思うから。」
「うん、そのつもりだよ。凄いかったんだから。新入生歓迎300メートル走で女子トップだったんだから。」
「ちなみにレナは?」
「一応三番手だったけど・・・2秒差つけられちゃった。」
肩を落として落ち込むレナ。短距離は専門外であっても負けるとなるとやはり悔しいらしい。
「ま、お互い高め合うことだね。それが陸上競技の醍醐味だろ?」
陸上をやる理由なんて単純明快だ。一番になるために毎日、それこそ倒れるまで走ったり、筋肉痛でペンが持てないくらい筋トレをするんだ。300メートル走なんて絶対に一人で走りたくない。
「そうだね。いつか抜きたいなー。」
「よし、じゃあ風呂上がりにマッサージをしてやろう。体のケアも選手の仕事だぞ。」
「良いの?えへへ・・・じゃあお願いしちゃおっかな~」
嬉しそうにはにかんでいるところを見ると、やはり少し疲れているのだろう。ならば入念にマッサージをしてやる。
銭湯から帰って来て、俺は今レナの部屋にいる。床は固いのでベッドの上にうつぶせにさせる。
「痛いところとか、違和感のあるところってあるか?」
「うーん・・・特にないけど全体的に疲労がある感じー。」
試しにふくらはぎに触れてみる。確かにちょっと固かった。これをケアするかしないかで明日の練習に差が出る。
疲労抜きのマッサージはさする、もむ、揺らす、さする、を繰り返していく。
さする段階で固いところがあればそこを重点的にもむ、それでもダメなら指を使って重点的に。
だけどやり過ぎは禁物だ。帰って筋肉痛になる時もある。それが揉み返しだ。
「レナ、お前良い筋肉してるな。」
「うそ、そんなに太くないよ?」
「そうじゃなくて、筋肉の質が良いって話。すげー柔らかいな。」
力を抜いた状態で固い筋肉は、疲労が抜けにくい。柔軟性は重要だ。
「お風呂上がりの柔軟体操は大切だからねー。サボったことは無いよ。」
「えらいえらい。じゃあ、ついでに一人じゃ伸ばしにくいストレッチも教えてやるよ。相川妹とやると良いよ。」
マッサージを終えた俺はいくつかのストレッチをレナに教えて、寝ることにした。
そのよる、俺は夢を見た。大切な友達を失ったあの時の夢を・・・。
俺と親父はぼろぼろのアパートの部屋に隠れるように住んでいた。その日は朝から雨が降っていて、雨漏りと格闘していた。
ガムテープで応急処置をしている時、部屋の電話が鳴った。
「はい、綾崎です。」
「あ、綾崎紅騎君かな?おはよう。今時間あるかい?」
「あるけど、どうしたの?」
「君のギターを直し終わったから届けようと思ってね。」
「別に今日じゃ無くても良いんじゃ無いかな?凄い雨だよ?」
受話器の奥から笑い声が聞こえた。
「そんなこと言って本当は寂しかったんじゃないかい?」
「・・・・・・否定はしません。」
「じゃあ、今から届けるよ。」
電話が切れて部屋の静けさを自覚する。雨が窓を叩く音がひどくなってきた。
風も強くなってきたようだ。何となく俺は外で待つことにした。
傘を差して待つこと数十分。かすかに聞こえるトラックのクラクション聞いていると体が震え始めた。だいぶ体が冷え始めたようだ。部屋に戻ろうかと思った時クラクションの数が一斉に増えた。
何かおかしい、そう思った俺はその音の方へ向かった。
「なんだ・・・これ。」
そこは比較的開けた交差点だった。横転したトラックに横から車が刺さった路線バス。明らかに異常だった。
すぐに警察が駆けつけ混乱を収めようとし始めた。引き返そうと思うと、野次馬達の声の中に女の子が轢かれたという声があった。背筋に寒気が走る。帰ろうとした足を再び事故現場に向ける。
「・・・・・・うそだ。」
横転したトラックの近くに真新しいギターケースと思われる残骸が散らばっていた。
警察に阻まれてそれ以上は分からない。しかし救急車に運ばれるストレッチャーから見覚えのある袖が見えた。真っ赤に染まっていた。
それから後の記憶は曖昧だった。まっすぐ帰ったのかもしれないし、その場に立つすくんでいたのかもしれない。
ただ一つ分かったのは、その日の夜親父に殺されかけた事だけだった。
後から分かったことだが、その事故は一台の乗用車が追突したことがきっかけで起こったらしい。その追突したドライバーは高齢者で、運転中に心臓発作を起こし意識不明状態だったそうだ。ノーブレーキでトラックに突っ込んだ乗用車は反動で対向車線に横から進入し、停車中のバスなどを巻き込んだ。死傷者多数、ニュースでも報道された大事故だった。おそらく瀬菜もその中に含まれていてのだろう。
誰かに体を揺すられて俺は強制的に夢の世界から、戻された。この手の夢はなかなか覚めにくいものだからありがたい。
「大丈夫お兄ちゃん?だいぶうなされてたけど・・・。」
心配そうな顔をしたレナの顔が視界いっぱいに広がっていた。
「・・・あまり大丈夫じゃ無い夢だった。」
体を起こすと、けだるい感覚が満ちていた。心臓が早く動いていて、嫌な汗もかいていた。
時計はまだ日付が変わったばかりだった。
「寝付けなかったから、ちょっと本読んでたら苦しそうな声が聞こえてきたから。」
そんなに苦しそうな声をあげていたのか・・・。
「嫌な夢見をたときの処方箋してあげようか?」
「処方箋って・・・薬でもあるの?」
レナは何も言わずに、もぞもぞと俺のベッドの中に侵入してきた。
「ち、ちょっとレナ?なにやってんの?」
「怖い夢を見たときはね、誰かと一緒に寝ると良いんだよ。お母さんが言ってた。」
恭子さんの言葉ってだけでなぜか説得力が上がるのはなぜだろうか。確かに自分以外の体温を感じると落ち着いてくるのも確かだった。
「レナは変な夢を見たりはしないのか?」
「私はお兄ちゃんと違って、至って普通の高校生ですから。」
「じゃあ、普段よく見る夢は?」
「お兄ちゃん、女の子にそれを聞くのはタブーだよ。」
そういうものなのか・・・以後気をつけよう。
「ほら、もう寝よ?明日も学校なんだから。」
ああ、そうだ。寝る前にレナに一言言っておかなければ。
「レナ、朝起きたらたぶんお前を抱き枕にしてると思うけど。気にするな。」
「えっと・・・お兄ちゃんって寝相悪い方だったの?」
「いや、寝てる最中に温かいものを無意識に求めてるらしい。よく分からないけど。」
そのため普段寝るときは毛布の他に抱きつく用のスペシャル毛布がある。これがあるなしでは全然違う。
ほどよく柔らかくほどよく温かい。夏場はこれにくるまってるだけで事が足りるほどだ。
「しょうが無いな・・・でも。へ、変なところ触っちゃだめだからね。」
「分かってるよー。」
実のところ本当に助かった。このまま寝ずに夜を明かす事も珍しくないから。本当にありがとうなレナ。口に出して言うのは気恥ずかしいけど。ごめんなレナ、お前の夢だった俺のお嫁さんにはできないけど。大切な家族だから。
レナを心配させないためにちゃんと、過去の清算を済ませないとな。