忘却の忘れ傘 ~a lonely quicksilver   作:エノコノトラバサミ

9 / 39
九話 旅立ち

 二月半ば。町は未だ木枯らし吹きすさむ頃。

 俺は旅立とうとしていた、ここではない世界へと。

 リュックの中に大量の荷物は入れてある。どうせ、いつここに帰ってくるのかは分からない。必要な物は迷い無く持っていく。バイト先には辞める電話を入れ、学校にはしばらく休学すると電話を入れた。理由を聞かれても無視したので、ただの無断欠席と扱われるだろう。別に、そんなのはどうでもいい。

 

 だが、一つだけ迷っている事があった。

 メリー、彼女を連れていくかどうか、だ。

 迷っている理由は色々ある。だが一番の理由は俺自身の事だった。

 正直な話、俺はこの世界に帰る理由がない。

 大切な人はもう居ないし、やりたい事がある訳でもない。もしも向こうの世界で小傘やその仲間達と上手くいくのなら、この世界に帰る理由はない。

 

 それで、本当にいいのだろうか?

 分からない。帰る理由は無いのに、帰らなければいけないと思う。この謎の使命感に、俺は囚われるべきなのか?

 答えは無いだろう。どちらを選んでも、恐らく誰も責めない。これは俺の自由だ。俺が選ぶ事だ。だから、俺は悩んでいた。

 

「メリー」

 

 俺は問い掛けた。

 

「──何でしょうか?」

 

 頭の中に、声が響いた。

 同調。彼女の持つ力の波長に俺が合わせる事で、本来感じる筈の無い物体の思考を感じとる。人間で言えば、他人の脳波を共有する事。俺が偶然身に付けた技術だ。

 

「頼みたい事がある」

 

 決断には相当、時間が掛かった。

 

「お前を……置いていく」

 

「……」

 

「幻想郷には、俺一人で行く。お前はここで待っていて欲しい。俺がいつか、この家に帰ってくるのを」

 

 彼女には酷な話だとは分かっていた。今生の別れになるかもしれない事も分かっていた。それでも、彼女には俺の帰る理由になって欲しかった。

 ただのマンションの一室だけれど、思い出が詰まったこの場所に、俺は帰らなくちゃいけない。その想いをより強くする為に、俺の事を待ってくれる人が欲しかった。彼女を危険に会わせたくないというのもあったが、正真正銘これが一番の理由だった。

 

「……分かりました」

 

 彼女が悲しんでいる事はすぐに分かった。それでも躊躇いなく返事を返してくれる彼女に、俺は心からありがたみを感じた。

 

「──必ず帰ってきて、もう一度会いに来る」

 

 最後にそれだけ言うと、俺はナイフをテーブルの上へ置いた。これ以上話すのはお互いに辛かった。

 

 

 

 

 

 

 初めの三日間は、脱け殻だった。

 失意に苛まれた俺の体は何事に微塵の関心も湧かず、たまにトイレに行く為だけに立ち上がり、後はずっと寝たきり。食事さえ摂っていなかった。

 

 四日目にして限界を感じ、鯖の缶詰めを食べた。

 旨かった。信じられない程に旨くて、涙が出た。大切なものを失っても、体は死ぬことを拒んでいた。

 それから汚くなった部屋を軽く掃除し、風呂に入り、買い物に出掛けた。一通り食糧を買って、すぐ帰宅した。どうやら俺は無意識に『はじめから』を望んでいる様だった。

 

 今なら、傘を拾う前のあの生活に戻れる。

 敵襲もぱったり途絶え、あの日から何故か俺は妖怪や怪奇の類いに襲われていない。

 後はメリーに別れを告げるだけ。そうすれば『はじめから』に出来る。

 

 本当はもう一度、小傘に会いたい。けれど、それは絶望的だった。

 彼女は消えたのだ。よりによって、この世界から。異世界に行く方法なんて見当付かない。小傘がどうやって異世界に行ったのかも解らず、途方に暮れるしかない。

 

 悩んだと言うより、抵抗した。小傘に会いたいと思う俺の意志が、やり直したいという俺の諦めに。だが、それも長くは続かなかった。

 日に日に彼女の記憶が薄れていく。会いたいという気持ちも無くなっていく。そんな自分が恨めしかった。

 

 退屈で窮屈なあの生活に戻りたくない。小傘と二人で笑いながら過ごしていたい。その為ならどんな困難にも打ち勝ってみせる。

 

 だから、だから、お願いします神様。

 俺にもう一度、彼女に会える機会を与えてください。

 今の俺には、こうして祈るしかなかった。

 俺のこの気持ちが消えてしまう前に、どうかもう一度──

 

 

 

「こんばんわ」

 

 それは六日目の事だった。

 深夜、座りながら寝込んでいた俺の背後から聞こえた声。そこには有り得ない筈のものがいた。

 

「……どうしてここにいるんだ、カナ。地縛霊(クイックシルバー)じゃなかったのか?」

 

「そうなんだけど、貴方の事が気になっちゃってね。気配を辿って来たわ」

 

 微笑む彼女の顔が、俺には軽蔑の表情にしか見えなかった。

 

「……用が無いなら帰ってくれ」

 

「ちゃんと用ならあるわ。貴方の大切な人、いなくなっちゃったんだってね。ナイ……じゃないわね、メリーちゃんから聞いたわ」

 

「お前には関係無いだろ」

 

「そんなに機嫌悪くしないでよ」

 

 その頃は他人と話なんてしたくなかった。俺の中に残る彼女との思い出に、ただ浸っていたかったから。いつか、消えるかもしれないから。

 

「そう言えば覚えてる? 私の話」

 

「何が?」

 

「私ね、館を離れていた頃、実はこことは別の世界に行ってたのよ」

 

「──おい、それってまさか!?」

 

「ええ、そうよ。そのまさか」

 

 絶望的だった俺の祈りは神に届いていた。消えかかっていた俺の中の彼女への想いが、途端に蘇ってくる。暗く閉ざされていた俺の心に、ほんの僅かな光明が射した。

 俺の決心は、もう揺るがなかった。

 

 

 

 

 

 田舎を走る電車の中で、俺は物思いに更けていた。

 この電車に乗るのは今回で二回目。前は自分の運命を呪って、全てを投げ出そうとしている時だった。けれど今回は、大切なものを取り返す為に乗っている。

 この世界の景色を見ていられるのも、これが最後。そう考えると、ありふれている筈のこんな田舎の景色が、途端に美しく感じられる。そんな自分の感性のめでたさに、少し笑った。

 

 重い荷物を背負い、ひたすら山道を歩く。以前は過酷と感じていたこの道も、心なしか楽に歩けている。気持ち一つでこんなにも変わるものなんだと改めて実感した。

 

 日も落ち始め、流石に疲れが浮かぶ。一度地面に腰を降ろし、荷物から飲み物を取り出し、それを飲む。ふと一息ついて、俺はカナの言葉を思い出した。

 

 ──幻想郷は、結界に覆われた世界。

 幻想郷に行きたいのなら、結界の裂け目を探す事。

 貴方なら、きっと見付けられる──

 

 結界の裂け目。

 無論、俺はそれを見た事はない。カナにどんなものか説明を求めたが、上手く言い表せないらしい。だが、彼女は俺なら見付けられるとだけは断言していた。

 結界の裂け目が最も出やすいという山の場所だけは教えて貰い、後は手探りだ。何日かかってもいいように、食糧は大量にあるし、武器だってある。熊が相手でも今の俺なら勝てる、そんな気がする。それ位俺は意気込んでいた。

 

 空が赤黒くなり、夜が近付いてきた頃。

 目的の山へは着いた。そこからはもう手探りが始まる。日本で二番目に大きな山だと、カナは言っていた。名前は知らない。

 捜索範囲はあまりに広大だ。それに、現時点で裂け目が起こっていない事もある。可能性は、決して高いとは言えない。

 だからと言って簡単に諦める訳もなく、俺は闇雲に歩き続ける。道なき道を切り開き、ただ何処までも。

 

 太陽は、もう完全に落ちた。

 しばらくはただひたすら歩き続けていたが、疲れて脚がつりかけたので、俺は僅かに開けた場所で一休みしていた。

 大の字に横たわった事で、空が視界に入る。

 今まではずっと裂け目を探していて気が付かなかったが、非常に綺麗な夜空だった。小学校の頃プラネタリウムで見た星空を、ふと思い出す。あの時は凄く感動して、母さんに星座の事をいっぱい話した。

 小傘や母さんはこんなに綺麗な空を見たことがあるのかなと、そんな事を想う。何にもない世界だと、半年前の俺は思っていた。けれど、そんな事はなかった。世界にはいろいろなものが溢れている。それは決して良いものばかりじゃないけれど、求める心さえあれば幾らでも見付けられるんだ。

 

 ピシッという音が、ふと耳の中に入った。

 飛び上がり辺りを見渡す。目で見る限りでは何もない。一瞬気のせいかと思うが、俺の感覚が告げていた。

 俺の後ろに目に見えない何かがある、と。

 ゆっくり、一歩ずつ、前へ進む。

 それは近付くにつれてどんどん気配が濃くなり、予感は確信に変わった。ああ、これが結界の裂け目なのか。

 

 俺は立ち止まった。視界はほとんど何も変わらないけれど、目の前に結界の裂け目がある。そこに向かって、俺は掌を突き出した。

 途端、目の前の景色にヒビが入った。それはみるみるうちに広がって、崩れていく。この世界とあの世界の狭間が、その姿を現した。それは何とも言えない不思議なものだった。上手く言葉では言い表せられないけれど、それが普通のものじゃない事位なら分かった。

 一歩前に出ると、途端に視界が歪む。世界の歪みに足を踏み入れているのだ、この程度の事では驚かない。

 前に進んでいるのに、吸い込まれている様だと錯覚する。いや、本当に吸い込まれているのかもしれない。どちらにせよ、もうじき俺はこの世界にしばらく別れを告げるのだろう。

 もう一度、この綺麗な夜空を見るために。

 今度は、三人で見るために。

 

 必ず、帰ってみせる──

 

 

 

 

 

 ──輝針城異変。

 突如、力を持つ道具が浮き始め、空に逆さまの城が生まれた事が始まりだった。

 異変を解決する為に乗り出した霊夢、魔理沙、咲夜の三人。互いに道具を持って行き、いつもの様に無事解決すると誰もが信じていた。

 しかし、三人は帰って来なかった。

 その事を異常に感じた妖夢と早苗。彼女等二人も輝針城へと向かったが、またしても帰っては来ず、更に強行手段を実行しに行った八雲紫でさえもが、それ以降姿を見せなくなった。

 

 そして更に牙を向く異変。

 力を持つ道具が幻想郷に満ち始めた不思議な魔力により、自我を持つ様になる。それは日に日に増していき、いつしか使用者の自我をも呑み込み始めた。

 使用者が道具に使われるという異常事態。そして、自我を呑み込まれた者全てがまるで誰かに命令されたかの様に、理不尽な略奪や攻撃を行った。

 山の天狗や神、里の尼や道士、魔法の森や紅魔館の住人。そのほとんどが道具の支配下に墜ち、そうでない者を追い詰めていった。明らかに無事と言える場所は、何処にもない。

 失踪する妖精達。信仰を強制させる僧。いつまでも現れない救世主。幻想郷が未だかつてない絶望的な危機に直面していた。

 

 そんな幻想郷に現れた一人の青年。

 外の世界から意図的に訪れた、少し変わった能力を持つだけの普通の青年。

 残念ながらこの世界において、彼は『主人公』などではない。彼がこれからどう足掻いたところで、幻想郷が救われる事はないのだ。

 しかし、世界は救えずとも、他人を救う事なら決して不可能ではない。

 例えどんなに過酷な試練が訪れようとも、決意と希望さえあれば、幾らでも抗う事が出来るのだ。

 

 下剋上された世界で起こる、新たな下剋上の物語。

 弱き青年の幻想入りから、幕を開ける──




 エピローグはこれで終了し、次回から一章が始まります。
 無論、リメイク前とは大きく変わります。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。