忘却の忘れ傘 ~a lonely quicksilver 作:エノコノトラバサミ
目が覚めた時、何故か俺は外にいた。
家の近くの外壁にもたれ掛かった状態で眠っていた様だ。冷たい風に吹かれ、凍える様に寒い。何故か手に持っていたナイフを折り畳み、ポケットにしまい、俺は立ち上がった。
その時初めて、酷い頭痛を認識した。頭に違和感があるので触れてみると、そこには半ば固まりつつある紅い液体が流れていた。べっとりして、気持ち悪い。
「……帰らないと」
腑抜けた一人言の様に呟いて、俺は歩き出す。
家には小傘がいる。アイツの事だから、俺が帰ってこないと心配して待っているだろう。早く行ってあげなければ。
玄関の扉は、酷い有り様だった。ドアノブがへし折られ、まるで潰された段ボールの様にしわくちゃになっている。
一体、誰がこんな事をしたんだろう。俺は扉を避け、靴を脱いで家の中へと入った。
玄関に、あの傘は無かった。
リビングは滅茶苦茶に荒らされていた。小物が散乱し、家具もほとんど床に倒れている。この家で何が起こっていたのか、全く検討がつかない。小傘は無事なのだろうか。
寝室の扉を開いた。
部屋の隅で、一人の女性が倒れていた。
「大丈夫ですか?」
問いかけるも、返事はない。
手を触れてみると、やけに冷たかった。
「そんなところで寝てたら、風邪引きますよ」
近くにあった毛布をかけてあげる。揺さぶって起こそうとするも、起きる気配は一向にない。
『ぽぽぽぽ……』
そうこうしている内に気が付けば、背後に背の高い大きな女が。
振り返った俺の首を、その長く大きな手で掴もうと伸ばしてくる。
そして、信じられない程の力で、俺の首を締め上げる、
酸素も、血流も、神経以外のほぼ全ての流れがシャットアウトされる。それどころか、首の骨まで外れそうだ。
自分の首が、ミシミシと悲鳴を上げているのを聞いた。
少し苦しいけれど、痛くはなかった。
後ちょっと我慢すれば、きっと楽になる。
俺はただただその時を待った。
けれど、その時は来なかった。
大女が途中で俺の首を離した。俺の身体が勝手に生きようとし、激しく
「──聖真さん」
大女の後ろから声が聞こえた。
もうすっかり聞き慣れた、俺の好きな声が。
「そんなに、一人で抱え込まないで下さい」
一瞬、彼女が別人な気がした。
「私だって、聖真さんの事が大好きなんです。聖真さんを失いたくないんです」
けれど、やはり彼女だった。
「だからもう、無理はしないで下さい。自分に素直になって下さい」
その時、俺の中で何かが爆発した。
「──名前の由来? そうね、
そんな事を昔、母さんに聞いた事がある。真也は亡くなった俺の父さんの名前。特に隠された深い意味とかは無いみたいだ。
いつも仕事ずくめだった母さんと話せる機会は、一日の中であまり多くはなかった。父さんがいないので当たり前だが、俺は本当に母さんの事が好きだった。
小学校の頃なんかは特に、毎晩夕食の時間に母さんと話すのが一番の楽しみだったかもしれない。
運動会や授業参観に来てくれなくても、こうして色々な事を話してくれるだけで、俺はとても満足だった。
本当に、それだけで楽しかった。
実を言えば、俺は一度家出をした事がある。
中学生の頃、ほんの一日という短い期間だったが、俺は母さんと喧嘩をして家を飛び出した。内容は確か、クラスの皆が集まって遊びにいく計画を立てていた時に、俺も参加したくて母さんにお小遣いをねだったけれど、断られてしまったからだ。今思い出すとしょうもない事だけれど、この頃は少し反抗期だった。
一日公園で過ごして、俺はすぐに家が恋しくなった。季節は秋頃だったので寒くはなかったけれど、俺は温もりが欲しくて堪らなくなった。
怒られる事を覚悟して、俺は家に帰った。母さんは仕事を休んで家にいた。そして、俺に言った。
「朝ごはん、どうする?」と。
俺は、自分の行動が全て母さんに見透かされていたと悟った。それと同時に、母さんがどれだけ俺の事を考えてくれたのか、理解した。
けれど、もう母さんは俺の事、考えてはくれない。
高校生活に入ってからは、俺もバイトを始めたお掛けで少し生活が楽になってきた。
その代わり、母さんと一緒に過ごせる時間が少しだけ減ってしまった。母さんはその事を時々、ちょっぴり不満そうに言ってきた。
そのお詫びとして、俺は温泉旅行をプレゼントした事がある。けれど特別扱いが嫌いな母さんは、中々受け取ってくれなかった。結局、二人で休みを揃えて、一緒に温泉旅行に行った。
あれが、最初で最後の旅行だった。
俺は、自分自身を過信し過ぎていたのかもしれない。
夢の電車の中で起こった俺の変化。気味が悪いなんて言いながら、俺はそれがすっかり自分の力なんだと思い込んで疑わなかった。自分は選ばれた人間かなんかだと、本気で思っていたかもしれない。
けれど、そんな事は無かった。
今思い出せば、あれは夢だった。
現実の俺は、壁に叩きつけられて、簡単に伸びる弱い人間なんだ。
何が、来いよ化け物だ。
そんな傲慢さえ無ければ。
素直に小傘に頼ってたり、逃げてたりすれば。
──母さんは、生き延びられたかもしれないのに。
亡骸に抱き付いて、俺はただ泣き続けた。
俺は、一人じゃ何も、出来ない……
初めは、自分が殺されると、怯えていた。
気が付いた時には聖真さんの姿も無くて、私だけが目を覚ましていた。ガンガンと扉を壊す音が聞こえて、私は姿を透かせて身を潜めた。
玄関から、大女が入ってくる。壁の中に体を沈め、顔だけを出した。傘さえ壊されなければ、私は死なない。隠れてやり過ごそうとした。
だが、大女は私の予想とは違い、寝室へと向かって歩いていく。
そして、聖真さんの母さんの首を絞めた。
私は、見てることしか出来なかった。
そして次に、座敷わらしの首を絞めた。
私は、見ることすら止めた。
二人を殺すと、大女はふっと消えていった。
あまりに唐突で一瞬の出来事に、私は何も考えられなかった。
──聖真さんは、どうしたんだろう。
初めに浮かんだ疑問が、それだった。
考えたく無かった。けれど、考えるしかなかった。
いや、本当なら考えなくても分かるんだ。
聖真さんの事だから、私を、皆を守るために一人で戦っていたんだ。
そして、帰ってこなかった。
あっという間の別れだった。こういう時、どうして涙が出てこないんだろう。私だって悲しい筈なのに。
何もなかった私に、居場所を求めていた私に、偶然ながらも聖真さんは手を差し延べてくれた。
自ら危険な世界に脚を踏み入れてまで、私を助けてくれた。
それはどんなに嬉しかったことか。私にとって、聖真さんは命の恩人以上の存在。恩を返しても返しきれない。
──後悔した。
そんな聖真さんが命をかけてまで守りたかったもの。
その中に私が入っている事は自覚している。だが、今日は、今日に限っては、もう一つあったではないか。
──さっきまでの私が、憎い。
なんで、どうして、私は見殺しにしたんだ。
聖真さんが必死になって守ろうとしたお母さんを、私はなにもせずにただ……ずっと……
「大丈夫ですか?」
自分の耳を、一瞬疑う。
「そんなところで寝てたら、風邪引きますよ」
私は再び顔を出す。
間違いない、生きてる!
聖真さんは生きてたんだ!!
だが、様子がおかしい。
頭の酷い出血。そして、まるで目の前の状況が見えていない発言。今、聖真さんには、現実が見えていない。
『ぽぽぽぽ……』
そして、再び迫り来る、あの大女。
聖真さんの首を掴み、絞め上げる。
このままでは、本当に聖真さんを失ってしまう。
助けたい。助けに行きたい。
けれど、死の恐怖という見えない鎖が私を縛り、身動きを封じてくる。
お願い、動いて、私の身体。
もう、失いたくないの──
「──小傘……早く、行って」
「嫌だよ、ぬえちゃん……置いてなんて行けないよ……」
「私は強いんだ、弱虫なお前と違って……だから、早く行け……」
「だって……だってぇ……私は──」
──記憶の断片が、私に幻覚を見せる。
これは、あの世界の記憶、私にまだ大切な物があった頃の記憶。
そうだ、この時も私は、自分のせいで友達を失ったんだ。
もう、二度と同じ過ちをしてたまるか。
私の本体である傘を手に持ち、大女の後ろへと立っていた。
その気配に気が付いた大女は、標的を聖真さんから私に変える。そう、それでいいんだ。
「──聖真さん」
目を覚まして。
「そんなに、一人で抱え込まないで下さい」
正直に、想いを伝える。
「私だって、聖真さんの事が大好きなんです。聖真さんを失いたくないんです」
もう、迷いなんてない。
「だからもう、無理はしないで下さい。自分に素直になって下さい」
今度は、私が聖真さんを守る番。
恐怖は消えていた。それどころか、希望さえ見えていた。それに根拠はないけれど、私は希望に向かって進み出す。
勝てる。守れる。思い出してみるんだ。
あの世界で私が戦ってきた相手と比べれば、アイツなんて大したこと無いんだ。
私の手に、光が溢れ出す。
途端、姿を現した五枚のカード。私の力と想いを込めた、大切なスペルカード。そして、その内の一枚を
──虹符【オーバー・ザ・レインボー】