忘却の忘れ傘 ~a lonely quicksilver 作:エノコノトラバサミ
これまで俺は三度、命の危険に晒された。その度に小傘のお陰で救われてきた。だがもう一つ、俺の命を救ってくれたものがある。
それは『直感』。いや、三度に渡り感じたこの感覚は最早、予感と言った方が正しいのかもしれない。そんな俺の感覚が、小傘と共に俺を救ってきた。いつ身に付いたのか覚えがない、この感覚が。
そして一月四日の深夜である今、またもや俺の感覚が気配を感じ取っている。少なくとも人間ではない何かが、こっちに近付いて来ている。
だが、いつもとは違う。今回感じた気配には、全くと言っていいほど禍々しい気が感じられない。ただ単に、何かが近付いてくるといった感覚だけなのだ。警戒する気も起こらない。
「なぁ小傘、頼みがある」
夜中、小傘は霊体になって姿を消している。最近は目を凝らせばうっすらと見えるのだが。そうなると、俺や他の妖怪みたいに霊力を持つ者でないと小傘を触ることは出来なくなる。
「はい?」
「外に何かいるみたいなんだけど、ちょっと見てきてくれないか?」
「はい、分かりました」
うっすらと見える小傘は、壁に顔を埋め、外を覗き込む。しばらくその様子を見ていると、小傘がこちらへ戻ってきた。
「どうやら、子供の妖怪みたいですね」
「……襲ってくると思うか?」
「そうは見えませんけど……」
気配はやはりこちらへと近付いてきている。敵意は感じられないが、いきなり信用するのも危険だ。俺は、障害物越しに話す事を選んだ。
気配はどんどん大きくなり、やがて家の前に来た。
「──お前は誰だ?」
礼儀なんて気にしてられない。
「お腹空いたの……」
質問とは違う答えが帰ってくる。声からして、年は五、六歳付近の女の子。
「何で家に来たんだ?」
別の質問で返す。
「とっても強い気配を感じて……私、しばらく何も食べてないの……」
今度はきちんとした答えが帰ってきた。
「もう一度言う。お前は誰だ?」
「……皆には、座敷わらしって言われてるの」
その妖怪は、全く妖怪に興味がなかった過去の俺でさえ知っていた。
いつもの俺なら、恐らく家に入れていただろう。だが、今は都合が悪い。何せ今日は、俺の母さんが家に来ることになっているから。
俺は少し迷った後、玄関を開いた。
「ほら、入れ。あんまりいいもんは無いけど」
「あ、ありがとうなの……」
俺は、座敷わらしを家に引き入れた。
明るくなった部屋に、一皿のカレーが置かれる。保存していたご飯にレトルトカレーをかけて温めた物だ。それを座敷わらしの元へ渡す。
「カレー、食べれるか?」
「大丈夫なの、頂きますなの!」
スプーンを持つと、途端にがっつく様に食べ始めた。皿の上があっという間に空になるのを、俺と小傘はただ黙って眺めていた。
「ご馳走さまなの! ありがとうなの!」
「どういたしまして」
……初めて小傘と会った時の気持ちを、何となく思い出した。
食べ終わったカレー皿を水に浸しておき、俺は何となくという理由でテレビをつけた。この時間帯だと、深夜番組しかやってない。
「ねぇねぇ」
小傘が座敷わらしに話し掛けている。彼女の様子から察するに、人間の俺よりも幽霊の彼女の方が話しやすいだろう。俺はその会話をテレビを見ながら黙って聞いていた。
「座敷わらしちゃんは、どこから来たの?」
「とっても遠い所から来たの……」
「へぇ……大変だったね」
「うん……」
座敷わらしと言えば、彼女が住み着いている家に幸運をもたらすという有名な妖怪だ。座敷わらしが家から出ると不幸になるとも言われているが、幸運が無くなるのならそれは必然的だ。
遠い所から歩いてきたという言葉から察するに、彼女はしばらく他の家に住み着いてはいなかったのだろう。ここまでヘトヘトになって家に来た理由は……
それとも、他の家に泊まれなかったのか……
「なぁ」
直接、彼女に聞く事にした。
「座敷わらしって、他の家に住み着いたりするんだろ? どうしてそんなになってまで家に来たんだ?」
「……皆、大騒ぎするの」
「大騒ぎ?」
「私の事を見た人がみんな、幽霊幽霊って騒いで、塩を撒いたりお経を唱えたりするの……私だって自覚はしてるけど……私、迷惑はかけてないの……」
彼女は、酷く悲しそうな表情をしていた。
やはりこの世界は、人外にとってあまりに住みづらいのだろう。存在を認識してない者に対しては、共存する事も襲うことも出来ないのか……
いや、違う。認識はしているんだ。現に、彼女は何度も追い払われた挙げ句、ここに辿り着いているのだから。
つまりは、存在を信じようとしていないだけ……
テレビで何度取り上げようとも、本で何度読んでいても、結局はデタラメと思い込んで、他の何かとすり替えたり、無かったことにしてしまう……
結局は、人間が悪いのか?
いや、そもそもどちらも悪とは断定出来ない。
俺には、いくら考えても全く分からなかった。
明日に備えるため、俺は後の事は小傘に任せ、布団へと潜った。
二人の少女の話し声がする中で、俺の意識は微睡みに落ちた。
朝起きてリビングに来た俺は、少々驚いた。
小傘と座敷わらしが二人で仲良くテレビゲームをしていた。二人が一晩でここまで仲良くなれるなんて、正直予想外だった。
「あ、おはようございます聖真さん」
「おはようなの!」
まるで元から家にいるみたいだ。まあ、馴染んでくれる事には構わないのだが。彼女が家に居てくれる事で、きっと幸運が訪れるだろうし。
朝食を済ませた後、部屋を軽く掃除し、その時を待つ。予定では確か十時頃になる筈だ。
しばらくすると、部屋にインターホンの音が響き渡った。
「……久しぶり」
玄関の向こうには、俺の母さん。
「久しぶりぃ、元気だった?」
「まあ、それなりに」
髪を短く切り揃え、いつも笑顔で元気に溢れている。年は既に四十半ばなのに、それを全く感じさせない。俺が小さな頃から、ずっと俺の事を育ててくれた人。
俺の尊敬する人。
「いやぁ、この辺りはまだ慣れないわぁ。そういえば、バスでここに向かっている途中に、白いワンピースを着たおっきな女の人が、変な風に笑ってたのよ。おかしな人もいるものねぇ」
「まぁ、ここで話さないで上がってよ」
「それじゃ、お邪魔しますっと」
母さんを家へと招き入れた。最後に会ったのが夏だから、半年ぶりだ。
「聖真、変わってないねぇ」
「そんなすぐには変わらないよ」
そういう母さんだって、変わっていない。
まあ、この半年、というか数週間で俺の生活は劇的に変わっているのだが。
母さんには秘密にしておこう。どうせ二人は母さんには見えない筈なんだから、あまり変な事をしなければ放っておいて構わない。
「あら、可愛い。二人は姉妹?」
「あ、こんにちは」
「こんにちはなの!」
「いや、二人は姉妹じゃ……!?」
……なんで見えてるんだよ!?
「──あらそう、友達の従兄弟の妹ねぇ」
「そ、そう! 預かってるんだよ!」
「小傘と申します」
「座し……こ、こいすと申しますの」
「聖子と申します。宜しくね、小傘ちゃんとこいすちゃん」
「宜しくお願いします」
「宜しくなの!」
咄嗟に付いた適当な嘘と小傘の座敷わらしへのフォローで、何とか隠し通す事が出来た。どうして母さんに二人の姿が見えるのかは、全く分からない。というか、息子の家に知らない子が二人もいるのに何の疑いも掛けないのは人が良すぎるだろ。
……まあ、いいか。
「小傘ちゃん、不思議な目をしてるのねぇ。最近流行りの『からーこんたくと』って言うの?」
「いえ、元からですよ」
「へぇ~」
……疑う事を知らないのか、母さん。
母さんが来たことだし、今日は腕を振るってお節でも……と行きたい所なのだが、生憎俺の母さんは自分がそうやって特別扱いされる事を嫌う。俺の誕生日は祝うくせに、自分の誕生日は俺に教えてくれない。そうやって、母さんは俺にいつも恩ばかり与えて、返させてくれない。
家事だって、確かに母さんが仕事に行っている時は俺がやっていたが、母さんが家にいる日は俺がやる前にほとんど終わらせてしまっていた。今でも、大学の学費と一人暮らしの生活費を俺一人で払える訳もなく、少しだが仕送りを送ってくれている。
本当に、頭が上がらない。俺が本格的に働き始めたら、絶対に母さんに恩を返すと意気込んでいる。
という訳で、俺が出したのはエビチリと
久しぶりの母さんとの食事。小傘と座敷わらしの二人も一緒だが、そんなのは些細な事。俺は、俺の作った料理を母さんが食べてくれるというだけでいいんだ。
「うん、美味しい。聖真も随分料理上手くなったねぇ」
「昔はもっと下手だったんですか?」
「そりゃあもう、ド下手よド下手」
「……いつの話だよ」
「三年前ぐらいよ」
遡りすぎだろ。
「俺だって成長してるんだよ」
「それでも私の子供だもの」
「……まあ、そうだけど」
返す言葉もない。俺は死ぬまでずっと、母さんの子供だ。
母さんだって、ずっと俺の母さんだ。
今日一日は泊まる事になっているので、俺は押し入れから布団を取り出した。あらかじめ干しておいたので、そこまで埃っぽくはない。
母さんは一日中、小傘と座敷わらしの二人と遊んでいた。一緒に話していたり、少しだけゲームをしたり、お菓子を食べたりとのんびりとした時間を過ごしていた。
その様子は、まるで母さんに女の子がいたかの様で……
もしそうだっとしたら、小傘は俺の妹で……いや、何を考えてるんだ俺は。
「小傘ちゃん、こいすちゃん、一緒にお風呂に入りましょ」
「分かりました」
「一緒に入るの!」
何だか、本当に楽しそうにしている。
改めて思うと、母さんには男の俺しかいなかった。もし本当に女の子がいれば、少なくとも母さんの気持ちがもっと楽になっていたかもしれない。
……俺が誰かと結婚して、孫でも出来れば、喜ぶのだろうか。
いや、まだ考えるには早い。俺にはまだ結婚どころか彼女すら出来てないんだ。
「聖真も一緒に入るぅ?」
「入らねぇよ!!」
無駄に叫んでしまった。
そろそろ寝るという時間。今日ばかりは小傘も座敷わらしも母さんと一緒に寝るらしく、三人で仲良く布団の中へと入っていった。
明日になったら、母さんはまた帰ってしまう。今度は俺の方から母さんに会いに行こう。きっと小傘も喜ぶし、座敷わらしも来れば喜ぶ筈だ。
そんな事を考えながら、俺は眠った。
──また、目が覚めた。
時刻は深夜零時。母さんも小傘も座敷わらしも、布団の中で眠りに就いている。
二度寝しようかと思ったが、目が覚めて眠れない。俺は布団から立ち上がって──
──これまで以上の悪寒が、全身を這った。
桁が違う。
何か、とんでもない奴が近くにいる。
俺は収納の奥から折り畳み式のあのナイフを取り出すと、それをポケットに入れて玄関から飛び出した。
外には星一つ無く、無機質な街灯のみが路上を照らす。
徐々に気配が濃くなってくる。今まで出会った何よりも強烈で、凶悪な何かが近付いてきている。
『ぽぽぽぽ……ぽぽぽぽ……』
笛でも吹いているかの様な低い笑い声。微かにしか聞こえていない筈なのに、体が押し潰されそうな感覚に襲われる。
手が震えて、ナイフが上手く持てない。
『ぽぽぽぽ……ぽぽぽぽ……ぽぽぽぽ……』
姿が、うっすらと見えてくる。
白いワンピース、白い柄の帽子、体は細く、一見綺麗そうな女性に見える。
だが、その眼は髪に隠されて見えない。僅かに見える口は、ニヤリと笑っている。
そして何より、その姿はあまりにも大きい。最低二メートル……いや、もっとだ。三メートルあるかもしれない。
『ぽぽぽぽ……ぽぽぽぽぽ……』
狙いは俺か、小傘か……
どちらにしろ、そう易々と殺されてたまるか。
元旦に見たあの夢で、俺に起こったあの異変。黒く澱んだあの力には、本当はこれ以上関わりたくない。
だが、俺にはやらなければいけない事がある。
『ぽぽぽぽぽ……』
「──来いよ、化け物」
ナイフを取り出し、刃を突き出した。