忘却の忘れ傘 ~a lonely quicksilver 作:エノコノトラバサミ
紅魔館上空で行われた、ほとんどが知らないもうひとつの闘い。
満月が幻想の大地を照らす夜。
一人の吸血鬼が、空高く羽ばたいていた。
ボロボロのドレスに焦げ付いた帽子。だが、その小さき体は白く美しく、黒い翼は猛々しく開かれている。
──レミリア・スカーレット
彼女は満月を見つめていた。
太陽の光が反射し、別種の神秘的な輝きを発する月。吸血鬼とその間に僅かながら一つの小さな影一つ。
その明確な姿ははっきりとは見えない。
「──単刀直入に言うわ、今は朝?」
口を開いたのはレミリアだった。
「……夜だ」
影が言葉を返す。
「私は吸血鬼?」
「……そうだ」
「……噂は本当の様ね」
一呼吸置き、レミリアは新たに質問を出す。
「じゃあ聞くわ。咲夜はどこ?」
「……城の中にいる」
「どうしてこんな事をしたのかしら?」
「……何の事だ」
「あら、何を惚けているのかしら?」
目付きがあからさまに変わり、その手から
「解っているのよ、私には。あの城を生み出したのも、霊夢や魔理沙、咲夜を倒したのも……そして、幻想郷を今の姿に変えたのも、全部貴様の仕業だってね」
「……そうだ」
「『嘘偽り無き天の邪鬼』……存在自体が矛盾してる様なものだわ。一体、何が貴様をそうさせたのか──」
槍を背後に構え、投降の体制を作り出す。
「──まあ、そんな事はどうでも良いわ
オマエを殺して、紅魔館を取り戻す──」
刹那、空を貫き迫る紅の槍。
天の邪鬼は手を翳す。音速で迫り来る槍が彼女を貫くその直前、世界が歪む──
──
レミリアの胸元へ、空を貫く紅の槍。
だが、それは届く寸前にレミリアによって掴まれる。
「知ってるのよ、その力も」
手元で一回転させ、再び構え直すレミリア。
「私も最初は耳を疑ったわ。そんな事がこんな天の邪鬼に出来る訳がないとね。けれど……どうやら本当らしいわ」
「……何がだ」
「決まってるじゃない?
【貴方が八雲紫に勝った】という噂よ」
「……確かに、私は勝った」
「そして、紫は一体どうなったのかしら?」
「……幻想郷から消えた」
「…………ッ」
その一言には、流石に動揺を隠せなかった。
「……面白いわ」
そして、彼女は目の前の相手を強者と認める。
眼光が天の邪鬼を刺し殺す勢いで貫く。
「じゃあ、今度は貴方に消えてもらうわ──」
黒き翼がはためき、レミリアは姿を消した。
否、視覚に捉える事すら困難な程の速度で接近し、爪を突き立てている。
「──この世界からね!!」
空に緋色の裂目が生まれる。
そしてそれは、天の邪鬼の体を無慈悲に裂く筈だった。
「……」
鮮血が飛び散る。
そう、吸血鬼の肩から。
「ッ……」
──反転させてくる事は分かっていた。
だから、彼女は爪が当たる直前、腕を振り
反転すれば天の邪鬼を爪が襲い、そうで無くてもレミリアが傷を負う筈もない。
なのに、何故──
「……私は、どうして傷付いた?」
プライドを捨て、真相を求めた。
「……反転させただけだ。
【お前の腕の動き】と【爪が切り裂く対象】を」
決め付けていた。
二つ以上のものを同時に反転出来ないと。
その決め付けが、時に墓穴を掘る
レミリアはこの時、一度救われたのだ。
「……」
暫し流れる沈黙。
敵は、どうやら自ら攻めには行かない様だった。
ただ空に浮遊し、何も表情を変えずにレミリアを見下す。
レミリアは悟った。
相手の能力の詳細は不明。だが、その力の強大さは明らか。
反転。対象を反対にすること。恐らく、幾つもの対象をあらゆるものを、反転させる事が出来る。
──例えそれが、世の理に反する事でも。
そうでもしない限り、八雲紫が負ける筈が無いのだから。
レミリアの額を、一滴の雫が流れる。
汗だった。それも、冷や汗。顔がひきつっているのが、自分でも分かった。
そして、レミリアは気が付いた。自分が酷く怯えている事を。少なくとも今、自分に勝ち目が見付からない事を。
「──やっと悟ったか」
相手が、口を開く。
「私の力は全てを反転させる。世の理、禁忌に触れる事でさえも。これがこの世界を書き換える私に相応しい力」
ゆっくりと上げられた人差し指が、レミリアを貫く。
「お前は、私に攻撃出来ない」
「……フフ」
残酷な宣言。
だが、それを聞いた時、彼女は笑ったのだ。
「自惚れるな」
それは一つの確信。
そう、反転への突破口。
天の邪鬼の表情に、僅かな動揺が見える。
「なら、私が貴方に傷を負わせたとしたら──」
空を蹴り、一瞬で天の邪鬼の目の前に現れるレミリア。
「──どうなるのかしらねぇ!!」
途端、二人の視界が緋色に染まる。
月明かりの夜に刹那、紅い太陽が輝いた。
レミリアが放ったのは、自らの持つ力。
そう、彼女はその力を一気に解き放ち、自爆したのだ。
やがて光が収まり、月明かりの夜に戻る。
「……」
空に浮かぶ吸血鬼の姿。
額に大きな汗をかき、服は最早ボロの布切れと化している。呼吸も荒く、先の攻撃で大きく消耗したのは明らかだった。
「……意外ね。貴方、脆すぎるわよ」
レミリアの見つめる先およそ十メートル。
天の邪鬼は両腕を交差させ、衝撃を防いでいた。
「ぐ、あッ……」
そう、防いでいた筈なのに。
両腕は酷く出血し、脚は擦り切れ、尚且つ胸部への衝撃で僅かに吐血する。
自爆したレミリア以上に、傷を負っていたのだ。
「所詮、天の邪鬼は天の邪鬼ね。どう? 降服するなら今の内よ?」
最早、彼女は勝利を確信していた。
「…………ぜ、だいに……してたまるかッ!」
そしてその余裕が、天の邪鬼に火を付けた。
「そう、そこまで言うなら、そろそろ貴方から攻めてきたらどうなの?」
レミリアは、相手が降服なんてする筈無いと初めから分かっていた。
彼女の目的は、こうして挑発して相手から攻撃を誘うこと。今まで自分が悩み、弄ばれた仕返しに。
──その言葉に、お前は後悔する
天の邪鬼が宣言した、その直後。
「──あ、熱、ぐッ!?」
レミリアの全身が突如ジリジリと焼けていく。
みるみる内に皮膚が焦げ、動きが封じられていく。
まるで、太陽の下に全身を投げ出されたかの様に。
「まさか……貴様ァ!」
信じられなかった。
そんな事が、出来るなんて。
「──反転させた。
【吸血鬼にとっての、太陽と月】の関係を」
「……ッ!」
焦げ付く体を引き摺り、何とか月の明かりから逃れようとするレミリア。
だがその行く手を相手によって塞がれる。
「邪魔だァッ!!!」
振りかざした拳も、反転により自らを殴る結果に終わる。
「がァッ……」
「冷静さまで失ったお前にもう、勝ち目は無い」
悶え、苦しむレミリアの頭部を掴む天の邪鬼。
──転反──
吸血鬼が、ゆっくりと両腕を降ろした。
それだけではない。脚も、翼も、そして瞼さえも。
天の邪鬼が反転させたのは『意識』。明るい視界が、途端に暗闇に閉ざされた。
同時に戻したからか、レミリアの体が焦げる事も無くなった。
だが、そんな事はもうどうだっていい。
これで、夜の覇者たる存在、吸血鬼の敗北は決定的だった。
落ちようとするレミリアの体を抱える天の邪鬼。
「……」
どうやら、何かを考えている様だった。
暫しの時が流れる、天の邪鬼が何処かへと飛び立とうとした時。
「──見付かりましたか?」
誰かの声が、響いた。
「……」
「おや、珍しくボロボロてすね。流石はレミリアさんと言った所でしょうか? まあそれでも、敵いはしなかったみたいですがね」
誰かは、話を続ける。
「仕方ないですね。私が代わりに探してあげますから、貴方はレミリアさんを置いてきて下さい」
「……」
「ええ、任せてください。大丈夫ですよ、貴方を手伝うと約束しましたからね」
去り際、誰かは最後に一言残す。
「幻想郷を頼みますよ──正邪」
二つの影は去り、夜空に静寂が戻る。
それからしばらくして、紅魔館の窓から一人の少女が飛び出した。
両腕を力なくぶら下げ、至る所に傷を負った、金髪の吸血鬼。
その彼女の口にくわえられたのは、レーヴァテイン。
彼女の姿はやがて、夜空へ消える。
口、背中、脚。両腕の使えない体で、なんと六人の人を運びながら。