忘却の忘れ傘 ~a lonely quicksilver 作:エノコノトラバサミ
幻想郷に狂暴な妖怪が蔓延っていた頃。
その中でも特に強力な妖怪が集まっていた場所、妖怪の山。
更にその山で、四天王と呼ばれていた存在。
小さな体に、小さな拳。
だが、その拳は山をも崩す。
間違いなく、幻想郷最強の一人。
その彼女が今、背中を向けて立っている。絶望に向けて、睨み付けている。
『──アンタ、お姉様と前に喧嘩してたわよね』
「……忘れたよ、そんな事」
『陰で見てたのよ、二人でボロボロになってる所』
「そうかい」
フランの握るレーヴァテインが、紅く輝き出す。
灼熱の溶岩の様に。
『言っとくけど、私はお姉様を越えたの。アンタなんかもう相手にならないわ』
「……そんな昔の話持ち出されても、困るんだよねぇ」
やれやれ、という様に萃香は頭を掻く。
「あんた、そんな昔の私と比べると後悔す──!?」
まるで瞬間移動。
ほんの一瞬で、数十メートルの距離を飛ぶ跳躍。
吸血鬼の本気は、人智を越える。
『──ウルサイ』
大気を削り、振り降ろされたレーヴァテイン。
そして、肌の焼ける忌まわしき音が。
『──うッ……!?』
何故だ。
自分に起きた事を、フランは理解出来なかった。
焼けた筈。あの鬼は確かに焼けたのに、どうして私は血を吐いているんだ。腹部を、殴られたんだ……
「……へッ」
同じだ。
気が付けば、フランの目の前に笑う鬼の姿が。
殴り飛ばされているフランに、まるで瞬間移動の様に距離を詰めている。
──いや、僅かに萃香の方が速い。
追撃。顔面に迫り来る左拳。
刹那、フランの視界に、焼けた拳が写る。
あの鬼、レーヴァテインが怖く──
『──ッ!?』
おかしい。
殴られた筈なのに、気が付けば壁に打ち付けられている。
フランは記憶を整理した。一体どうして──
──そしてすぐに理解した。
意識が、一瞬飛んだんだ。
体が、勝手に進む。
フランの足が、勝手に引き付けられていく。
鎖だ、萃香の隠し持っていた鎖が足に──
『──ィ!!』
本能が、即座に反応した。
鬼の拳を咄嗟に防ぐ。両腕を交差して正面から受け止めても、衝撃を受け止め切れない。
吹き飛ばされる体に、必死にブレーキを掛ける。
だが、フランの体は再び引き付けられていく。
脚に繋がれた鎖がある限り。
『──クソォ!!』
拳が迫る、その直前。
フランは繋がれた脚を軸にして、体を大きくねじ曲げ起動を変える。
萃香の拳は、僅かに空を裂く。
その回転のまま、フランはレーヴァテインを自らの足元へと。
「……チッ」
熱と斬撃に、鎖は切断される。フランの足も微かに焼ける。
即座に鎖の残骸を捨て、萃香は前へと跳ぶ。
『ブチコワシテヤル!!!』
これ以上好きにさせない。
──あらゆる物を破壊する程度の能力。
物体に必ず存在する核の様な物『目』を把握、間接的に掴み、そして握り潰す。
この力で鬼の拳を粉砕し、叩き落とす。
『アハハハ──ッ!?』
異変。
手応えが、無い。
それに気が付いた瞬間、世界が歪む。
何故だ、どうして?
私は、確かに握り潰した筈なのに。
どうして、私は殴られて──
「甘いね、お嬢ちゃん」
天井から、鬼の拳が顔面へ。
フランの体が、床へとめり込み亀裂を走らせる。
また、意識が薄れる、
『──ヴッ、グァ……』
折られていく。
フランの持つ自信が、尊厳が、尽く。
ここまで実力に差があったなんて。
どうして……能力が効かないんだ?
その答えは、萃香の能力。
密と疎を操る力。
フランに握られたその瞬間、その部位を瞬間的に霧へと変えた。
無論、彼女はそれに気が付かない。
『──がァァァァッ!!!』
レーヴァテインを振り回し、一時的に萃香を後退させる。
立ち上がろうとしたが、脚が震えて安定しない。
『……ナンデ……有りエない……絶対に、アり得ナイ……』
──潰す。
──潰す。
──潰す。
頭を、首を、肩を、胸を、腕を、手を、腰を、腿を、脛を、足を、脳を、器官を、肺を、心臓を、胃を、腸を。
なのに何一つ、何一つ壊れてない。
「……気は済んだかい? 折角待ってやってんだ」
『オカシイ、オカシイオカシイオカシイ!! ナンデ壊レナイノォ!? ドウシテ壊レナイノォォォ!?』
冷静さを失った挙げ句、唯一壊した物は自らの自尊心。
萃香は心奥で皮肉を溢した。
頭を抱え、ヒステリックに叫ぶ彼女には、もう正気は残っていないだろう。
──そんなもの、初めから有って無い様なものだが。
「……お嬢ちゃん、アンタは姉を越えたって言ってるけど」
酷く落ち着いた声で、萃香は言った。
「──夢だったんじゃないか?」
『黙レェ!! ソンナ筈ハ無イ!!!』
「アンタがレミリアより強いなんて、私にゃ到底信じられんよ。妹の勘違いに付き合わされて、姉は本当に大変だねぇ」
『ウルサイィッ!! 黙レ黙レ黙レ黙レ黙レ──』
「──テメェが黙れ、雑魚」
感情が、心を支配した。
『…………殺ス』
吸血鬼の怒りが頂点にまで達した時、反対に鬼は冷静だった。
熱を帯びた体に対し、心は静寂を極める。
「……すぅ」
呼吸を整え、全身の筋力を右拳一つに萃める。
決めるつもりだった。萃香は、この戦いを。
正真正銘の、止めの一撃。吸血鬼の意識を根底から穿つ全力の拳を。
『アアアアアアアァァァァァァァァァァァァ!!!!』
吸血鬼は雄叫びを挙げ、レーヴァテインを振りかざし飛び掛かる。
あまりにも大振りで、隙だらけの攻撃を晒しながら。
冷静さを欠ければ、自ら墓穴を掘る。
そして、レーヴァテインは鬼の頭上を越え、吸血鬼は目覚める。
眼前、迫る鬼の拳に、真の恐怖を感じて。
愚かだった。
己の愚鈍を、吸血鬼は今初めて自覚した。
感情に全てを任せ、ただ望むがままに暴れる。理性を壊し、本能の赴くままに。その結果が、今目の前に起きているこの光景。
──敗北。
後悔する暇など無かった。
この場を切り抜ける、さもないと私は終わる。
刹那の世界、吸血鬼は全力で思考した。
こんな所で私は終われない。
持つもの全てを捨てて、ここまで来た。
ここで負けたら、私には何も残らない。家族も、友達も、帰る場所さえも。
そんなの、絶対に嫌だ──
──隕石。例えるなら、これが最も妥当だった。
吸血鬼に叩き込まれた隕石。
鼓膜を破裂させる程の衝撃音。
その中で、ごく微かに、本当に微かに、雑音が混じった。
フランは、立ち上がった。
大きく床を転がり、高速で壁に打ち付けられた。その片頬は鬱血し、片眼の視力もほとんど奪われた。意識さえもはっきりとしない。
だが、それでも立ち上がった。鬼の全力を受け止めて、尚。
『私が……』
そして、笑う。
『私が……勝つ……』
ずっと握り締めていたレーヴァテインに、もう一度、力を込めて。
「……」
対する萃香は、ある感覚に気が付いた。
拳への違和感。吸血鬼を殴り付けた拳が、酷く脈打っている。
──まさか。
「……へ」
血が、指から漏れだしていた。
まさかあの吸血鬼、殴られる瞬間に拳を破壊するなんて。
狂気を、乗り越えやがった。
『……不思議な感覚……生まれ変わった気分だわ』
感情に囚われていた頃とは、全く違う。視界が広がり、世界が色鮮やかに染まっていく。
レーヴァテインの放つ輝きが、こんなにも美しかったなんて。
『……ありがとう、鬼さん。私に、新しい世界を見せてくれて』
「……」
とても穏やかな笑顔だった。
殺人鬼の様に狂っていたあの時とは、比べ物にならない。
本当にただの幼げな可愛らしい少女の笑顔。
そしてそれが、逆に萃香を戦慄させる。
先制。行動を起こす前に、決着を付ける。
フランが何かする前に、動きを封じて──
「──!?」
居ない。
飛び掛かるその直前まで、確かに姿は見えたのに。
一体何処へ──
『こっちだよ』
声のした方向へ振り返る。
「……テメェ」
『ごめんね、私も本当はこんな事したくなかったんだ。だけど、鬼さん強いんだもん』
吸血鬼の手には、頭が捕まれていた。
先程まで一人の少女を守ろうと、その身を投げ出した青年の頭が。
『何かしたらコイツの頭、握りつ──!?』
──好きにさせてたまるか。
先手必勝、される前に奪い返す。
壊されていない拳を、地面スレスレから突き上げ──
「──ッ!?」
拳の先に、聖真の体が。
無理矢理体勢を変え、拳に空を切らせる
『隙だらけだよ』
緋色の閃光が微かに萃香の視界に入る。
そして閃光は、鬼の体を抉り、傷を焼いて。
「う、ぐぅぅ…………」
歯を食い縛り、叫びを堪える。
想像以上の苦痛、自らの体が焦げる不快感、硬直する皮膚。純粋に斬られたのとはあまりにも違い過ぎる。
精神さえ、抉られる。
『良いわねこの盾……どうして今までこれを使わなかったんだろう? 私って本当に馬鹿だったわ』
もう、彼女は吸血鬼などでは無い。
勝利の為なら手段など選ばない。誇りや精神を全て捨て去った、悪魔。
最狂が、最悪へと。
『という訳で鬼さん、こっちには丁度いい盾があるんだけど、だからと言って動くなだとかそんな野暮な事は言わないわ。好き勝手動いて、好き勝手攻撃してきて構わないわよ』
ただ、憤りを抑える。
『それに大丈夫。私はコイツの事を絶対に殺さないわ。価値無くなっちゃうし。それに……どうせ殺すなら、鬼さんに殺させた方が良いじゃない♪』
「……ゲスが」
憤怒の念が、萃香の奥底から沸々と湧き出てくる。
だが、今それを解放してしまえば、確実にフランの思惑に嵌まる。最悪、自らの手で聖真を殺める可能性だってある。
今は、聖真を助ける事が最優先なんだ。
「……【ミッシングパワー】」
萃香の体が、みるみる巨大化していく。
十秒近くかけ、彼女の体が十倍近くまで膨れ上がり、二本の角が天井に届く程の大きさへと。
『私を捕まえるつもりかしら?』
巨大化した萃香がフランへ向かって手を突き出す。その手が開いている事から、彼女がフランを捕まえようとしているのは明白だった。
『アハハ、遅い遅い♪』
だが、その手はいとも簡単に避けられる。
無意識に手加減したのか、そうでないのか、どちらにせよ速さが通常より僅かに落ちている。
その差が、吸血鬼にとっては非常に大きい。
『アハハハハ、アハハハハ!』
言うならば、人間が蠅を捕まえようとしているものだった。
人間が幾ら素早く手を出しても、蝿は簡単に避けてはまた近くを飛び回る。止まってはまた人間が手をだし、また蝿は簡単に避ける。蝿叩きがあるのであればまだ捕らえられる可能性はあったが、吸血鬼相手にその様なものなどある訳が無い。
そして蝿は、人間を切り刻んでいく。
レーヴァテインによって至る所が焼かれ、あっという間に全身傷だらけの身体へ。
傷自体は浅い。だが、確実に萃香の体力を奪っている。
『……飽きてきちゃったな』
そう、吸血鬼は呟く。
レーヴァテインに、今まで以上の力を込める。
緋色の閃光が、太陽へと変わり行く。
そして、鬼は眼前に、太陽を見た。
巨体が、膝を付く。
顔面上部、横一線に刻まれた焦げ痕。彼女の両目の上を通って。
太陽を直接浴びた彼女の目は、最早何も写らない。
『楽しかったよ、鬼さん──』
そして、太陽は鬼の首筋を焼き斬った。
太陽が沈むと同時に、鬼はその身を消滅させた。
「……萃香」
希望が、見えていたのに。
もう少しで、帰ってきたのに。
氷精はただ、想いを巡らせる事しか出来なかった。
これで、あたいも──
『──違う』
また、吸血鬼は呟く。
『何処行った……あの鬼、何処行った!?』
何を言ってるんだ、あの吸血鬼は?
そうチルノが思った時。
妖精達が積み重ねられた山の中から、飛び出す影一つ。途端に吸血鬼が振り返り、レーヴァテインを薙ぎ払う。
だが、それを潜り抜け、吸血鬼の胸ぐらを掴むと、影は彼女を持ち上げアーチを描き、地面に頭から叩き付ける。
──背負い投げ。
床が割れ、地下室に衝撃が響く。
咄嗟に吸血鬼の腕へと移った影は、両足で腕を固定し、両手で抱え、そして胸を思い切り反り上げる。
『アア゛ア゛ァァァァァ!!!』
骨の割れた音が、はっきりと。
その手に掴んでいたものを、吸血鬼は手放す。
そう、青年の頭を。
「──もう盾は使えないよ、お嬢さん」
聖真を拾い上げ、片隅にそっと置く。
『……落ち着け、落ち着け……大丈夫……痛くない……私は強い……』
萃香。
死んだ筈の、萃香。
いや、現にここにいるのだから、初めから死んでなどいない。
細かな体の傷も、目も、無事だ。
だが、胸の斬撃だけは刻まれている。
『やっぱり、偽物だったのね……』
「そうだよ……お陰でほとんど力使っちまったがね」
彼女の作り出した分身。
ミッシングパワーまで使ってフランを欺き、そして隙を見て聖真を取り返す。
成功した。だが、疲労は相当大きい。
「お嬢さん……先に言っておくよ……」
『……何かしら?』
「……私が今からやるのは、喧嘩なんてもんじゃない。一方的なリンチだ……どれだけ良くても半殺し、下手すりゃアンタは死ぬ。悪いこたぁ言わない、今のうちに降参しな」
『……本気で言ってるの?』
「本気だよ」
『……そう、なら一言私も言わせて貰うわ』
そして、フランは再び嘲う。
『──お前が死ネ』
レーヴァテインを振り上げた、その時だった。
『な──』
鬼が、目の前に。
『──ィッ!?』
両手を交差させ、受け止める。
相変わらずの凄まじい衝撃。体が遠くへ吹き飛ばされる。
だが、もう喰らわない。レーヴァテインをもう一度振り──
『──嘘ッ!?』
──何故、また鬼が目の前に──
吸血鬼には、何が起こっているのか全く解らなかった。
だが、第三者であるチルノには簡単に理解できた。
──なんて攻撃だ。
端から見ている彼女でさえ、戦慄を感じている。
それほどにえげつない事を、鬼は行っている。
【人間ヨーヨー】あまりに安直だが、それしか表す言葉が見つからなかった。