忘却の忘れ傘 ~a lonely quicksilver   作:エノコノトラバサミ

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二十四話 最狂が、最悪へと

 

 幻想郷に狂暴な妖怪が蔓延っていた頃。

 その中でも特に強力な妖怪が集まっていた場所、妖怪の山。

 更にその山で、四天王と呼ばれていた存在。

 小さな体に、小さな拳。

 だが、その拳は山をも崩す。

 間違いなく、幻想郷最強の一人。

 その彼女が今、背中を向けて立っている。絶望に向けて、睨み付けている。

 

『──アンタ、お姉様と前に喧嘩してたわよね』

 

「……忘れたよ、そんな事」

 

『陰で見てたのよ、二人でボロボロになってる所』

 

「そうかい」

 

 フランの握るレーヴァテインが、紅く輝き出す。

 灼熱の溶岩の様に。

 

『言っとくけど、私はお姉様を越えたの。アンタなんかもう相手にならないわ』

 

「……そんな昔の話持ち出されても、困るんだよねぇ」

 

 やれやれ、という様に萃香は頭を掻く。

 

「あんた、そんな昔の私と比べると後悔す──!?」

 

 まるで瞬間移動。

 ほんの一瞬で、数十メートルの距離を飛ぶ跳躍。

 吸血鬼の本気は、人智を越える。

 

『──ウルサイ』

 

 大気を削り、振り降ろされたレーヴァテイン。

 そして、肌の焼ける忌まわしき音が。

 

『──うッ……!?』

 

 何故だ。

 自分に起きた事を、フランは理解出来なかった。

 焼けた筈。あの鬼は確かに焼けたのに、どうして私は血を吐いているんだ。腹部を、殴られたんだ……

 

「……へッ」

 

 同じだ。

 気が付けば、フランの目の前に笑う鬼の姿が。

 殴り飛ばされているフランに、まるで瞬間移動の様に距離を詰めている。

 ──いや、僅かに萃香の方が速い。

 

 追撃。顔面に迫り来る左拳。

 刹那、フランの視界に、焼けた拳が写る。

 あの鬼、レーヴァテインが怖く──

 

『──ッ!?』

 

 おかしい。

 殴られた筈なのに、気が付けば壁に打ち付けられている。

 フランは記憶を整理した。一体どうして──

 

 ──そしてすぐに理解した。

 意識が、一瞬飛んだんだ。

 

 体が、勝手に進む。

 フランの足が、勝手に引き付けられていく。

 鎖だ、萃香の隠し持っていた鎖が足に──

 

『──ィ!!』

 

 本能が、即座に反応した。

 鬼の拳を咄嗟に防ぐ。両腕を交差して正面から受け止めても、衝撃を受け止め切れない。

 吹き飛ばされる体に、必死にブレーキを掛ける。

 

 だが、フランの体は再び引き付けられていく。

 脚に繋がれた鎖がある限り。

 

『──クソォ!!』

 

 拳が迫る、その直前。

 フランは繋がれた脚を軸にして、体を大きくねじ曲げ起動を変える。

 萃香の拳は、僅かに空を裂く。

 その回転のまま、フランはレーヴァテインを自らの足元へと。

 

「……チッ」

 

 熱と斬撃に、鎖は切断される。フランの足も微かに焼ける。

 即座に鎖の残骸を捨て、萃香は前へと跳ぶ。

 

『ブチコワシテヤル!!!』

 

 これ以上好きにさせない。

 ──あらゆる物を破壊する程度の能力。

 物体に必ず存在する核の様な物『目』を把握、間接的に掴み、そして握り潰す。

 この力で鬼の拳を粉砕し、叩き落とす。

 

『アハハハ──ッ!?』

 

 異変。

 手応えが、無い。

 それに気が付いた瞬間、世界が歪む。

 

 何故だ、どうして?

 私は、確かに握り潰した筈なのに。

 どうして、私は殴られて──

 

「甘いね、お嬢ちゃん」

 

 天井から、鬼の拳が顔面へ。

 フランの体が、床へとめり込み亀裂を走らせる。

 また、意識が薄れる、

 

『──ヴッ、グァ……』

 

 折られていく。

 フランの持つ自信が、尊厳が、尽く。

 ここまで実力に差があったなんて。

 どうして……能力が効かないんだ?

 

 その答えは、萃香の能力。

 密と疎を操る力。

 フランに握られたその瞬間、その部位を瞬間的に霧へと変えた。

 無論、彼女はそれに気が付かない。

 

『──がァァァァッ!!!』

 

 レーヴァテインを振り回し、一時的に萃香を後退させる。

 立ち上がろうとしたが、脚が震えて安定しない。

 

『……ナンデ……有りエない……絶対に、アり得ナイ……』

 

 ──潰す。

 ──潰す。

 ──潰す。

 頭を、首を、肩を、胸を、腕を、手を、腰を、腿を、脛を、足を、脳を、器官を、肺を、心臓を、胃を、腸を。

 なのに何一つ、何一つ壊れてない。

 

「……気は済んだかい? 折角待ってやってんだ」

 

『オカシイ、オカシイオカシイオカシイ!! ナンデ壊レナイノォ!? ドウシテ壊レナイノォォォ!?』

 

 冷静さを失った挙げ句、唯一壊した物は自らの自尊心。

 萃香は心奥で皮肉を溢した。

 頭を抱え、ヒステリックに叫ぶ彼女には、もう正気は残っていないだろう。

 ──そんなもの、初めから有って無い様なものだが。

 

「……お嬢ちゃん、アンタは姉を越えたって言ってるけど」

 

 酷く落ち着いた声で、萃香は言った。

 

「──夢だったんじゃないか?」

 

『黙レェ!! ソンナ筈ハ無イ!!!』

 

「アンタがレミリアより強いなんて、私にゃ到底信じられんよ。妹の勘違いに付き合わされて、姉は本当に大変だねぇ」

 

『ウルサイィッ!! 黙レ黙レ黙レ黙レ黙レ──』

 

「──テメェが黙れ、雑魚」

 

 感情が、心を支配した。

 

『…………殺ス』

 

 吸血鬼の怒りが頂点にまで達した時、反対に鬼は冷静だった。

 熱を帯びた体に対し、心は静寂を極める。

 

「……すぅ」

 

 呼吸を整え、全身の筋力を右拳一つに萃める。

 決めるつもりだった。萃香は、この戦いを。

 正真正銘の、止めの一撃。吸血鬼の意識を根底から穿つ全力の拳を。

 

『アアアアアアアァァァァァァァァァァァァ!!!!』

 

 吸血鬼は雄叫びを挙げ、レーヴァテインを振りかざし飛び掛かる。

 あまりにも大振りで、隙だらけの攻撃を晒しながら。

 冷静さを欠ければ、自ら墓穴を掘る。

 

 そして、レーヴァテインは鬼の頭上を越え、吸血鬼は目覚める。

 眼前、迫る鬼の拳に、真の恐怖を感じて。

 

 愚かだった。

 己の愚鈍を、吸血鬼は今初めて自覚した。

 感情に全てを任せ、ただ望むがままに暴れる。理性を壊し、本能の赴くままに。その結果が、今目の前に起きているこの光景。

 

 ──敗北。

 

 後悔する暇など無かった。

 この場を切り抜ける、さもないと私は終わる。

 刹那の世界、吸血鬼は全力で思考した。

 

 こんな所で私は終われない。

 持つもの全てを捨てて、ここまで来た。

 ここで負けたら、私には何も残らない。家族も、友達も、帰る場所さえも。

 

 そんなの、絶対に嫌だ──

 

 

 

 ──隕石。例えるなら、これが最も妥当だった。

 吸血鬼に叩き込まれた隕石。

 鼓膜を破裂させる程の衝撃音。

 その中で、ごく微かに、本当に微かに、雑音が混じった。

 

 

 

 フランは、立ち上がった。

 大きく床を転がり、高速で壁に打ち付けられた。その片頬は鬱血し、片眼の視力もほとんど奪われた。意識さえもはっきりとしない。

 だが、それでも立ち上がった。鬼の全力を受け止めて、尚。

 

『私が……』

 

 そして、笑う。

 

『私が……勝つ……』

 

 ずっと握り締めていたレーヴァテインに、もう一度、力を込めて。

 

「……」

 

 対する萃香は、ある感覚に気が付いた。

 拳への違和感。吸血鬼を殴り付けた拳が、酷く脈打っている。

 ──まさか。

 

「……へ」

 

 血が、指から漏れだしていた。

 まさかあの吸血鬼、殴られる瞬間に拳を破壊するなんて。

 狂気を、乗り越えやがった。

 

『……不思議な感覚……生まれ変わった気分だわ』

 

 感情に囚われていた頃とは、全く違う。視界が広がり、世界が色鮮やかに染まっていく。

 レーヴァテインの放つ輝きが、こんなにも美しかったなんて。

 

『……ありがとう、鬼さん。私に、新しい世界を見せてくれて』

 

「……」

 

 とても穏やかな笑顔だった。

 殺人鬼の様に狂っていたあの時とは、比べ物にならない。

 本当にただの幼げな可愛らしい少女の笑顔。

 

 そしてそれが、逆に萃香を戦慄させる。

 

 先制。行動を起こす前に、決着を付ける。

 フランが何かする前に、動きを封じて──

 

「──!?」

 

 居ない。

 飛び掛かるその直前まで、確かに姿は見えたのに。

 一体何処へ──

 

『こっちだよ』

 

 声のした方向へ振り返る。

 

「……テメェ」

 

『ごめんね、私も本当はこんな事したくなかったんだ。だけど、鬼さん強いんだもん』

 

 吸血鬼の手には、頭が捕まれていた。

 先程まで一人の少女を守ろうと、その身を投げ出した青年の頭が。

 

『何かしたらコイツの頭、握りつ──!?』

 

 ──好きにさせてたまるか。

 先手必勝、される前に奪い返す。

 壊されていない拳を、地面スレスレから突き上げ──

 

「──ッ!?」

 

 拳の先に、聖真の体が。

 無理矢理体勢を変え、拳に空を切らせる

 

『隙だらけだよ』

 

 緋色の閃光が微かに萃香の視界に入る。

 そして閃光は、鬼の体を抉り、傷を焼いて。

 

「う、ぐぅぅ…………」

 

 歯を食い縛り、叫びを堪える。

 想像以上の苦痛、自らの体が焦げる不快感、硬直する皮膚。純粋に斬られたのとはあまりにも違い過ぎる。

 精神さえ、抉られる。

 

『良いわねこの盾……どうして今までこれを使わなかったんだろう? 私って本当に馬鹿だったわ』

 

 もう、彼女は吸血鬼などでは無い。

 勝利の為なら手段など選ばない。誇りや精神を全て捨て去った、悪魔。

 最狂が、最悪へと。

 

『という訳で鬼さん、こっちには丁度いい盾があるんだけど、だからと言って動くなだとかそんな野暮な事は言わないわ。好き勝手動いて、好き勝手攻撃してきて構わないわよ』

 

 ただ、憤りを抑える。

 

『それに大丈夫。私はコイツの事を絶対に殺さないわ。価値無くなっちゃうし。それに……どうせ殺すなら、鬼さんに殺させた方が良いじゃない♪』

 

「……ゲスが」

 

 憤怒の念が、萃香の奥底から沸々と湧き出てくる。

 だが、今それを解放してしまえば、確実にフランの思惑に嵌まる。最悪、自らの手で聖真を殺める可能性だってある。

 今は、聖真を助ける事が最優先なんだ。

 

「……【ミッシングパワー】」

 

 萃香の体が、みるみる巨大化していく。

 十秒近くかけ、彼女の体が十倍近くまで膨れ上がり、二本の角が天井に届く程の大きさへと。

 

『私を捕まえるつもりかしら?』

 

 巨大化した萃香がフランへ向かって手を突き出す。その手が開いている事から、彼女がフランを捕まえようとしているのは明白だった。

 

『アハハ、遅い遅い♪』

 

 だが、その手はいとも簡単に避けられる。

 無意識に手加減したのか、そうでないのか、どちらにせよ速さが通常より僅かに落ちている。

 その差が、吸血鬼にとっては非常に大きい。

 

『アハハハハ、アハハハハ!』

 

 言うならば、人間が蠅を捕まえようとしているものだった。

 人間が幾ら素早く手を出しても、蝿は簡単に避けてはまた近くを飛び回る。止まってはまた人間が手をだし、また蝿は簡単に避ける。蝿叩きがあるのであればまだ捕らえられる可能性はあったが、吸血鬼相手にその様なものなどある訳が無い。

 

 そして蝿は、人間を切り刻んでいく。

 レーヴァテインによって至る所が焼かれ、あっという間に全身傷だらけの身体へ。

 傷自体は浅い。だが、確実に萃香の体力を奪っている。

 

『……飽きてきちゃったな』

 

 そう、吸血鬼は呟く。

 レーヴァテインに、今まで以上の力を込める。

 緋色の閃光が、太陽へと変わり行く。

 

 

 そして、鬼は眼前に、太陽を見た。

 

 

 巨体が、膝を付く。

 顔面上部、横一線に刻まれた焦げ痕。彼女の両目の上を通って。

 太陽を直接浴びた彼女の目は、最早何も写らない。

 

『楽しかったよ、鬼さん──』

 

 

 

 そして、太陽は鬼の首筋を焼き斬った。

 太陽が沈むと同時に、鬼はその身を消滅させた。

 

 

 

「……萃香」

 

 希望が、見えていたのに。

 もう少しで、帰ってきたのに。

 氷精はただ、想いを巡らせる事しか出来なかった。

 これで、あたいも──

 

『──違う』

 

 また、吸血鬼は呟く。

 

『何処行った……あの鬼、何処行った!?』

 

 何を言ってるんだ、あの吸血鬼は?

 そうチルノが思った時。

 

 妖精達が積み重ねられた山の中から、飛び出す影一つ。途端に吸血鬼が振り返り、レーヴァテインを薙ぎ払う。

 だが、それを潜り抜け、吸血鬼の胸ぐらを掴むと、影は彼女を持ち上げアーチを描き、地面に頭から叩き付ける。

 

 ──背負い投げ。

 

 床が割れ、地下室に衝撃が響く。

 咄嗟に吸血鬼の腕へと移った影は、両足で腕を固定し、両手で抱え、そして胸を思い切り反り上げる。

 

『アア゛ア゛ァァァァァ!!!』

 

 骨の割れた音が、はっきりと。

 その手に掴んでいたものを、吸血鬼は手放す。

 そう、青年の頭を。

 

「──もう盾は使えないよ、お嬢さん」

 

 聖真を拾い上げ、片隅にそっと置く。

 

『……落ち着け、落ち着け……大丈夫……痛くない……私は強い……』

 

 萃香。

 死んだ筈の、萃香。

 いや、現にここにいるのだから、初めから死んでなどいない。

 細かな体の傷も、目も、無事だ。

 だが、胸の斬撃だけは刻まれている。

 

『やっぱり、偽物だったのね……』

 

「そうだよ……お陰でほとんど力使っちまったがね」

 

 彼女の作り出した分身。

 ミッシングパワーまで使ってフランを欺き、そして隙を見て聖真を取り返す。

 成功した。だが、疲労は相当大きい。

 

「お嬢さん……先に言っておくよ……」

 

『……何かしら?』

 

「……私が今からやるのは、喧嘩なんてもんじゃない。一方的なリンチだ……どれだけ良くても半殺し、下手すりゃアンタは死ぬ。悪いこたぁ言わない、今のうちに降参しな」

 

『……本気で言ってるの?』

 

「本気だよ」

 

『……そう、なら一言私も言わせて貰うわ』

 

 そして、フランは再び嘲う。

 

『──お前が死ネ』

 

 レーヴァテインを振り上げた、その時だった。

 

『な──』

 

 鬼が、目の前に。

 

『──ィッ!?』

 

 両手を交差させ、受け止める。

 相変わらずの凄まじい衝撃。体が遠くへ吹き飛ばされる。

 だが、もう喰らわない。レーヴァテインをもう一度振り──

 

『──嘘ッ!?』

 

 ──何故、また鬼が目の前に──

 

 

 

 

 

 吸血鬼には、何が起こっているのか全く解らなかった。

 だが、第三者であるチルノには簡単に理解できた。

 

 ──なんて攻撃だ。

 端から見ている彼女でさえ、戦慄を感じている。

 それほどにえげつない事を、鬼は行っている。

 

 

 【人間ヨーヨー】あまりに安直だが、それしか表す言葉が見つからなかった。


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