忘却の忘れ傘 ~a lonely quicksilver   作:エノコノトラバサミ

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二十二話 新たな目覚め

 走る。

 氷精は、地を蹴る。

 汗と言うには冷たすぎる雫が、地面に滴る。

 消耗している体で、身の丈以上ある青年を背負いながら、必死に走っていた。

 道筋も考えず、ただがむしゃらに。

 

「ぅ……ぁ……」

 

 青年は呻く、呼吸さえ不安定に。

 彼に構う暇など氷精にはない。ただただ走り続ける。

 

 ──背後から迫り来るあまりに異様で異質な気配から、逃れる為に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 飛ぶ斬撃というものを繰り出すには、非常に高い技術が必要である。

 刀身に均等に力を込め、刀を振ると同時に放つ。その際、力を入れすぎれば容易に刀が砕け、少なければ斬撃は飛ばない。振る際にも、中心に最も力を込めなければ標的に正確に飛ばない。

 つまり魂魄妖夢、彼女の繰り出す『無数の斬撃を放つ技【待宵反射衛星斬】』は、非常に体力を消費する上に難度の高い技である。

 

 だからこそ、その威力は計り知れない。

 

 重低音を奏で、空を裂く斬撃。

 そして、硝子の様に割れる障壁。

 魔女の袖が切り裂かれ、破片となって宙を舞う。

 

 即席で作り出した障壁程度では、この攻撃は防げない。

 パチュリーはひたすらに宙を舞い、全力で空を駆ける。反撃の隙も、更なる障壁を作り出す隙も無い。

 ここからは体力の勝負。

 

『──ッ!?』

 

 そしてそうなれば、軍配は明らかだった。

 

 図書館の本棚に、血飛沫が飛ぶ。

 斬撃の一つが、魔女の肩口を深く裂いた。そしてそのまま、地面へと落ちていく。

 

『ッあ……』

 

 着地にも失敗し、頭部を打ち付ける。

 パチュリーの意識が僅かに暗転する。感覚が痛みと苦しみで覆い尽くされる。

 そして、その視界で微かに見える、白髪の剣士の姿。

 

『──クソッ!!!』

 

【サテライトヒマワリ】

 苦し紛れに放った黄色き閃光が、剣士の頭上から碧色の弾丸を降り注ぐ。避ける隙など与えず、豪雨の様に。

 

 しかし、それは全くの無意味。

 妖夢は刀を地面に思い切り突き刺すと、その勢いで宙に飛び上がった。

 黄色き閃光を越え、そして、その勢いで魔女へと斬りかかる。

 

 

 ──この時、パチュリーにはっきりと分かった。

 自分に対する絶対的な自信、傲慢さが、どれだけ命取りになるのかを。第三者目線では解らなかった、妖夢の気迫を。

 アリスを見捨てた先刻の自分を、深く後悔した。

 

 

『──くゥッ!!』

 

 決死の思いだった。何とか体は動いた。

 ほんの一瞬前に魔女の居た場所が、妖夢によって深く抉られている。

 少しでも遅れていれば、無事では済まなかっただろう。

 氷の刃が、甲高い音を響かせる。

 

 苦し紛れの炎弾。無論、一撃も与えられない。その上、氷の刀に溶ける気配も見られない。

 妖夢の追撃。二度、三度、刀が空を斬る。

 肩口の痛みに耐えながら、寧ろ痛みが引き金となり敗北への恐怖を知ったからこそ、先程とは全くもって比べ物にならない程の集中力を駆使して避けていく。

 

 四度目、その間際。

 大量の本が妖夢の頭上から降り注ぐ。

 一事、後退する。だがそれでも全てを避け切れず、本の下敷きになった。

 

 刹那、大量の本が微塵に切り裂かれた。

 妖夢に傷一つ無い。

 そのまま追撃を続ける、その為に走り出したその時。

 

 ──魔女が生み出した、五つの結晶が。

 これがパチュリーの切り札【賢者の石】。

 火、水、木、金、土。五曜の魔力を込めた聖石が、彼女の回りをゆっくりと旋回する。

 

『もう、好きにさせない!』

 

 旋回速度が上昇し、放たれる弾幕。五つの色をしたそれは虹の様に輝き、螺旋を描いて進む。

 

 それでも、妖夢は被弾を許さない。

 弾き、飛び、潜り、そして切り裂く。七色の虹が避け、光が図書館に飛び散る。

 魔女の懐へ入り、一閃──

 

「──ッ!?」

 

 気が付けば、腕が体の後ろへ。

 何が起きたのか。それを考える間もなく、腹部に重く鈍い衝撃が。

 

「ぅッ……」

 

 その隙を、魔女は逃さない。

 虹の弾幕が、妖夢の全身を貫く。

 

「……ゲホッ」

 

 吹き飛ばされ、床を大きく転がる。衝撃でもう片方の氷の刀を手放してしまった。

 立ち上がりながら、必死に考える。何故、刀が弾かれた? そこまでの技術や強度のある物など相手には──

 

「──あれ、か……」

 

 間違いない、賢者の石だ。

 魔女の回りを旋回している賢者の石が、刀を弾いた。それしか有り得ない。

 早く立ち上がって、相手を──

 

「…………」

 

 目の前が、真っ赤だ。

 妖夢の視界に入ったのは、一面に広がる炎の塊。

 それがゆっくりと近付いて来る。

 

 【ロイヤルフレア】

 魔力の殆どをたった一つの炎弾に込めた、最強格の魔法。

 その炎は大地を抉り、全てを溶かし尽くす。弾幕ごっこで繰り出す紛い物ではなく、本物の炎を。

 

 刀は今、手元に無い。

 触れればどうなるか分からない。

 そして、避けるには脚が重い。

 

 だが、妖夢に焦りは無かった。

 半霊を飛ばす。そして、近くにあった氷の刀を素早く引き寄せた。

 その刀を強く地面に打ち付け、その勢いで横へ大きく避ける。

 

 しかし、魔女の追撃はまだ終わらなかった。

 

「──ぇ」

 

 僅かに声を漏らす。

 避けた先の光景も、また炎の塊。

 

 ロイヤルフレアは一つでは無かった。

 合計、五つ。図書館の半面近くを覆い尽くす程の炎が、またもや妖夢へ襲い掛かる。

 再び刀を使って避けようとした時、彼女は異変に気が付いた。

 

 ──刀が、溶けている。

 ロイヤルフレアの様な強大な魔力の籠った炎に、氷精の氷は耐えきれなかった。

 みるみる内に、刃が薄く水となる。

 

 刀を捨てる。

 まだ覚束無い脚で立ち上がり、地を駆ける。

 こうなったらもう、走って避けるしかない。

 

『……フフ』

 

 【エメラレドメガロポリス】

 妖夢を取り囲む翡翠の壁が、地面から突如現れる。退路を絶たれ、後退の術を失う。

 上空には炎弾、周囲は壁。氷の刀は溶けて使い物にならない。

 勝負は決まったかに見えた。魔女の笑い声が僅かに耳に入る。

 

 しかし、妖夢はまだ諦めていない。この状況の突破口を必死に探し出す。

 負ける訳にはいかない。聖真の為に、チルノの為に、妖精達の為に。

 

 そして何より、自分の為に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 誰かを護る事。それが、彼女が剣を振る理由。

 そして、その対象は西行寺幽々子という存在だった。

 

 生まれた時からそれを使命とされ、その使命をひたすらに守る為に生きてきた。

 普通の人間からすれば、それは束縛された不自由な生活かもしれない。それでも、妖夢本人はとても満足していた。祖父の妖忌が居なくなっても、幽々子の温もりも感じていられれば、それで十分だった。

 

 だが、そんな生活が突如終わりを告げた。

 幽々子が消えた。妖夢自身も、正気を失っていた。

 自らの欲望にのみ従い、あらゆる者を斬り続けるだけの通り魔となった。妖怪だろうが、人間だろうが、構わず斬り続けた。

 

 そして気が付けば、残っていたのは血塗れの刀と、血塗れの自分の顔。

 絶望は、あまりに大きかった。

 

 ──この刀は、護る為に鍛えたのに。

 

 時折、正気を戻る事はあった。

 だが、それも時が経つにつれて短くなっていった。刀を捨てようとしても、その瞬間にまた意識を奪われていた。

 

 ──これ以上生きていても、誰の役にも立てない。

 

 次に正気を戻った時、彼女は自らの命を断つつもりだった。

 そしてその時、少女は青年と出会う。

 

 

 青年にとっては、当然の行いだったかもしれない。

 けれど、妖夢は何よりも感謝していた。

 自分を、ただ無作為に他人を傷付ける刃から、人を守護する刃へと変えてくれた。本来の使命を果たす事が出来る様になった。

 だから、少女は誓った。

 

 ──本来の主が居ない、今だけは

 

 彼の刃になる、と──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 巨大な炎弾が、図書館の床を溶かし、抉る。

 だが、たった一つ。たった一つだけ、様子のおかしい炎弾があった。

 図書館の床へぶつかる直前、それは二つへと分断され、そして四散していく。

 

 魔女は、眼を疑った。

 斬られたのは間違いない。

 だが、刀は既に溶けている筈。一体、どうやって斬ったのか?

 

 炎が消えるその時、魔女は自らの失念に気が付く。

 

 ──斧だった。

 妖夢の手には、斧が握られていた。

 

『……アイツ』

 

 それは、聖真達がこの図書館で戦っていた時、切り捨てた人形が持っていた斧。

 ここに来て、それが放置されていた事が、仇となった。

 

『──くぅ……』

 

 切り札とも言える魔法が、よりにもよって斬られた。

 肉体的にも精神的にも、ダメージは大きかった。

 最強格の魔法を五つも放ったのだ、もう魔力は殆ど残ってはいない。

 賢者の石を維持する事が、精一杯。

 

「はァァッ!!!」

 

 叫ぶ。自らを猛らせ、少女は突撃する。

 魔女へと、斧を思い切り降り下ろす。

 

『──!?』

 

 金属を弾く音。

 妖夢の腕は、確実に降り下ろされていた。

 そして、地面に土の結晶が叩き付けられる。

 

 刀と斧の最も大きな違い、それは感覚だった。

 刀という物は刀身が長く、かつ美しい武器である。それを上手く扱うには、何よりも技術を極めなければならない。

 それとは反対に、斧は刀身が短く、そして厚い。ちょっとやそっとの事では折れない斧は、技術よりも筋力を要する。

 刀で力負けしても、斧ならば互角、またはそれ以上に押し勝てるのだ。

 

 土の結晶を叩き割り、水の結晶を吹き飛ばし、火の結晶を粉砕する。残る結晶はたった二つ。

 一瞬の隙を突いて、パチュリーは金の結晶を妖夢へと飛ばす。それに気が付くも、脚は重く咄嗟には動けない。受けの体勢を作り、まともに食らう。

 

「──ィッ!!」

 

 お互い、もう余力は無い。

 ロイヤルフレアを斬る事自体、妖夢の本来の力を越えているのだ。パチュリーと同程度に疲労している。

 後は、気力の戦い。

 

「はァァァッッ!!!」

 

 飛び掛かり、木の結晶を斧で吹き飛ばす。

 残るはたった一つ。

 斧を、真上から叩き付け──

 

 ──そして割れた、斧の刃が。

 

 咄嗟の出来事に、一度後ろに下がる。

 彼女の力に斧そのものが耐えきれなくなっていた。

 これで武器を失った。他の武器を取りに行く暇などない。

 

 そして、魔女は勝利を確信した。

 疲労困憊の上、動揺を隠せない妖夢。彼女に一撃でも魔法をぶつければ、間違いなく勝てる。

 そう、後は魔法を放つだけ──

 

 

 

『──ゲホッ、ゲホッ』

 

 まさか、ここにきてこれなんて。

 

『ゲホッゲホッ、ゲホッゲホッゲホッ……』

 

 正しく、天は彼女を見放した。

 後一歩の所で、喘息を発症させるとは。

 

『ゲホッゲホッ……ヒュー、ヒュー……ゲホッ』

 

 蓄積された疲労が一気に解き放たれ、途端に視界が揺らぐ。立っていられず、床に倒れ込む。

 賢者の石はもう既に、力を失っていた。

 

「……」

 

 妖夢はゆっくりと近付いて行く。

 折れた斧の柄を持ちながら。

 

『ゲホッ…………ゲホッ……』

 

 パチュリーのすぐ前に、妖夢が立ち塞がる。

 

『……どう、する気、なの……ゲホッ』

 

「……貴方は、誰ですか?」

 

『……私は、ここだ……ゲホッ、ゲホッ』

 

「ここって、どういう……!」

 

 気が付いた。

 パチュリーもまた、何かに憑かれている事は解っていた。

 けれどそれが、まさかこの図書館そのものだなんて。

 

『ゲホッ……僕は……ただ、強く、なりたかった……ゲホッ、ゲホッ……だけなのに……』

 

「それじゃ、どうして妖精達を拐ったりなんか……」

 

『アイツさえ……ゲホッ、アイツさえ居なければ……』

 

「アイツ? それは一体だ──」

 

 途端、背後に異様な気配を感じた。

 

 

 

 ──気付くのが遅かったな

 

 

 

 その言葉を聞いた時、妖夢の意識は途切れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その気配を感じたのは、図書館を出てすぐだった。

 紅く、暗い廊下の奥で、僅かに光る謎の影。そこから漏れ出すあまりに純粋で醜悪な殺意。感じるだけで、忌を失っていたしまいそうな程の。

 

 全力で走った。今遭遇したら、どうなるか簡単に予想がついた。

 途中、氷の壁を張った。消耗している彼女では、追い付かれるのは時間の問題だった。何度も何度も壁を張っては、何度も何度も砕かれ、それでも必死に逃げ続けた。

 

 追い詰められた時に下りの階段を見付け、全力で下っていく。更に暗い地下をただ駆け続ける。

 そしてとうとう道が無くなり、彼女はとある部屋へと駆け込んだ。

 ここで何とかして隠れて──

 

 

「──何、これ」

 

 

 地獄。言い表すには、それで十分だった。

 妖精達が、まるでゴミの様に積まれている

 そう、聖真が前に訪れた、あの部屋。

 そして彼女はここに来てやっと、自分が誘導されていた事に気が付いた。

 

「ねぇ……皆、しっかりしてよ……」

 

 チルノは、ゆっくりと山へと近付く。

 

「何これ……どうして、誰が、なんで、ねぇみんな!」

 

 ──私がやったのよ

 

 彼女の、知らない声だった。

 

『いらっしゃい、ようこそ私の部屋へ』

 

「……!」

 

 金髪のサイドテール。

 七色に光る結晶の付いた細い翼。

 鋭い牙に、獣の様な眼。

 そして、その手には曲がった形状の棒。

 

『どう? 可愛いでしょ。アリスとパチュリーに頼んで沢山作って貰ったんだ♪』

 

「……ぁ……あぁ」

 

 彼女にも、はっきりと解った。

 今目の前にいる相手は、紛れもなく化け物だ。自分が例え何をしようとも、絶対に勝つ事は有り得ない、絶望の塊。

 

『私ね、妖精さんがとっても大好きなの♪』

 

 金髪の少女は、ゆっくりと妖精の山へと近付いていく、

 

『だって、妖精さんってさ──』

 

 そして、山から一人の妖精を取り出すと、

 

 

 

『──壊してもすぐ元通りになるもん♪』

 

 その頭を、握り潰した。

 血が飛び、少女にべったりと付く。チルノは、顔を反らしていた。

 

『アハハ♪ ねぇ、貴方もやってみる?』

 

「…………るな」

 

『え、何?』

 

「……触るな」

 

『え? もう一回言って?』

 

「皆に触るなぁァァァァ!!!!」

 

 激昂。金髪の少女に向かって、チルノは飛び掛かる。

 

『──ウルセェ』

 

 途端、チルノの表情が一変した。

 

「あ、う、痛ッ、ぁッ!!」

 

 体は地面に落ち、ただひたすら脚を抱えて苦しんでいる。

 気が付けば、チルノの膝が真っ黒に内出血を起こしていた。

 

『ねぇ、どうしたの? 大丈夫?』

 

 少女はゆっくりとチルノへと近付いていく。

 

「嫌ッ……来るな……」

 

『どうしてそんな事言うの? 私がせっかく手術して治してあげようとしてるのに』

 

 冷笑。慈しみの心など欠片も持ち合わせてはいない。

 

「助、けて……」

 

 迫り来る悪魔。その手から逃れる術はない。

 捕らえられ、弄ばれ、そして閉ざされる。他の皆と同じ様に。

 永遠の闇の中へと──

 

 

 ──カチリ。

 

 

 音がした。

 金属と金属が軽くぶつかった音だった。

 そして、悪魔の手は彼女から離れる。

 

「……」

 

 涙を含んだ眼で、チルノはただ見ている事しか出来なかった。

 

 ──聖真が、立っていた。

 その手にまた、楼観剣を携えて。

 さっきまで、意識を保つ事すら必死だったのに。

 

『……何あれ、可愛くない』

 

 ゆっくりと、着実に一歩ずつ、聖真は歩いている。

 その眼は一体、何を見据えているのか。

 

『……壊して捨てよう♪』

 

 金髪の少女は、その手の棒を振りかぶり、聖真へと飛び掛かった。

 目にも留まらぬ早さで、頭上から一気に。

 

「せーまァァァァァァッ!!!!」

 

 そして、紅い液体が辺りに飛び散る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一体、何が起きたのか?

 状況を理解するのに、彼女はとても時間が掛かった。

 

 血が飛び散った。誰かが斬られた。それは分かった。

 攻撃したのは確実に相手からだった。せーまが死んじゃうと思っていた。

 なのに……

 

『──あ……熱い……』

 

 血が付いてるのは、せーまの楼観剣。

 そして、せーまの髪が──

 

 

 ──いつの間にか、白く染まっていた。


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