忘却の忘れ傘 ~a lonely quicksilver 作:エノコノトラバサミ
未だに、あの時の事は鮮明に思い出せる。
刀が突き刺さった状態での救出。一生分に味わう痛みを濃縮して正面から受け止めた気分。一言で表すなら、正に生き地獄。
本当は、封じておきたかった。成功するかも分からないのに、あの苦しみを再び味わうなんて考えたくも無かった。
けれどもう、俺に道はない。
そして、どうしても負けられない理由がある。
俺だけじゃない。チルノを含めた、数多くの妖精達の為に、俺達は倒れる訳にはいかないんだ。
ありったけの力を込めて地面を蹴る。後の事など何一つ考えてはいない全力疾走。ほんの一瞬でも速く、あの紫の魔女に手が届くまで。
『──鬱陶しいッ!』
叫び声。そして、早口な暗唱。
パチュリーを中心に嫌な力が集まってくる。
俺の中で僅かに生まれた恐怖が、足を重くする。
一体、何を──
「──せーま、下ぁ!!」
「ッ!?」
床を見る。足元が、光り輝いている。
考えてる暇はない。限界まで体を伸ばし、上体を回転させる。
刹那、天へと突き出す光の柱が靴を擦った。
なんつう魔法だ、これじゃ──
「──しまッ!?」
着地点が、光っている。不味い、このままじゃ避けられない。
体を、光が撃ち抜いて──
勝手に、右腕が動いた。
着地寸前の体を右腕一本で支え、そのままスプリングの様に体を跳ね上げさせる。背中に強烈な圧力を感じると同時に、右腕の肘関節に痛みが走る。
けど、何とか助かっ……
「逃げてせーまァ!!」
叫び声を聞いて、我に帰る。何を安心してんだ、俺は!
足元に光が灯る。地面から突き出るレーザーは、俺を中心にその付近まで吹き出している。このままでは、いずれ避けられなくなる。
「チルノ、手伝ってくッ!?」
突破口を閃いた。チルノの助力を求めた。
だが、彼女は俺の声など聞く余裕は無かった。
囲まれている、チルノが人形達に。
数はおよそ六体。六体全員が太い槍と大きな盾を構えている。正しく、王を護る騎士の様に。
対するチルノは、氷の力で身の丈程ある大剣を生み出す。襲い掛かる人形達の槍撃を大剣の刀身で必死に受け流しているが、全く反撃出来ていない。あの様子では後々必ず傷を負う。
踏み出した瞬間に僅かに足首の痛みを感じた。それに構う暇などない。
彼女を救い出す。俺とチルノ、今は二人揃っていなければいけない。どちからを失えば、絶対に好機など訪れはしない。
「うおォォォォアアアアアアァァァァァァァッ!!!」
光の柱を避ける時間はない。その範囲よりも速く、俺が走れば済む話だ。限界を越えて、もっともっと速く!
「邪魔だぁァァ!!」
一体、人形を背後から切り裂く。強く体を支え過ぎて、太股が悲鳴を上げている。皮膚の感覚など、汗でもうほとんど分からない。
そのまま二体、三体と自ら楼観剣で切り裂く。襲い掛かる二体を自動反撃で防ぎ斬り、最後の一体はチルノが大剣で叩き落とした。
「せーま!?」
「くぅッッ……」
痛い。疲労を超して、苦痛に変わってきた。
自力で動けるのも、もう少しが限界だ。防御なんかにこれ以上回ってはいけない。力が尽きるまで、せめてどちらか片方だけでも……
「危ないィッ!!」
叫ぶチルノ、そして俺の体を思い切り押し倒す。
天井に向いた俺の目の前に、紅い弾が幾つも流れた。激しく燃え盛る熔岩の様な綺麗な色をして。
「……あ、りがと……」
「せーま、体中が熱い……」
「……聞いてくれ」
立ち上がりながら、俺は彼女の耳元で呟いた。
「方法は何でもいい、俺をアイツに向かって吹っ飛ばしてくれ……」
「そんなことしたら……」
「……頼む」
分かってる。失敗すれば当然、成功しても無事では済まないかもしれない。
けれどもう、俺にはこれしか無いんだ……
周りを見渡す。
図書館側からは、スカートを切断し腰に巻いて止血した人形使いが、数体の人形を従えて近付いてくる。
出口側には、宙に浮いた紫の魔女が今にも魔法を唱えようと身構えている。
後門の人形、前門の魔法。どちらに進んでも困難が待ち受けるならば、ひたすらに前に進むのみ!
「行くよせーまァ!!」
「頼むッ!!」
すぐ近くに出来た氷の足場。宙に浮くその足場に俺は飛び乗り、固定の為に刀を射し込む。
「逃がさないわ!」
人形使いが叫び、その背後から人形達が飛び出してくる。
十、二十……ダメだ、数えきれない。その人形達がアリスを中心に広く陣形を組み立てていく。俺とチルノを中心に捉える様に。
「蜂の巣にしてやるわ!!」
強烈な魔力が、人形達其々へと溜め込まれていくのを感じる。決着を付ける気だ。
あんなのを撃ち込まれたら、一溜まりもない!
「チルノ、後ろが危な──」
「──スペルカード!!」
聞いてない……いや違う、初めから分かってるんだ。
防御しない気だ、後ろから襲い掛かる射撃を。
「……ッ!」
チルノと眼が合った。
俺を強く見つめていた、その眼と。
今なら、彼女の声がはっきりと聞こえる。
──せーまだけが、頼りなんだ。
力が無い事の悔しさは、痛い程に解っている。
どれだけ手を伸ばしても、届かないものもある。
あの時の俺の様に、今のチルノも悟ったんだ。
今、どれだけ足掻いても、抗っても、変えられない運命がある事を。
「アルティメット──」
足場がゆっくりと浮かび、前方に傾く。
これまで感じた事の無い冷気が、チルノから溢れ出す。何の躊躇いも無く、全力で俺を放つつもりだ。
今の俺に力があるのは、妖夢や永琳さんに萃香、そしてチルノが居てくれたからだ。
彼女達皆が俺に力を貸してくれた。俺を救ってくれた。だからこそ、俺も皆に力を貸さなくてはいけない。皆に、希望を見せなくてはいけない。
──狂ったこの世界で、もう二度と悲劇を起こさない為に。
「発射ァ!!」
「──ブリザァァァァドォォッ!!!」
放たれた剛風。凄まじい寒気。紫の魔女目掛けて、足場が吹き飛ばされる。
途端、後ろから聞こえた衝撃音。俺は絶対に振り返りはしない。
『させないわ』
開かれた魔道書。唱えられた呪文。突然目の前に現れた、翡翠色の壁。
このままぶつかれば俺の体は砕け散るだろう。魔女が何かしら仕掛けてくる事位、予想はしていた。
足場から刀を抜く。
何だろう、不安感が微塵も感じない。
今の俺ならば、こんな壁越えていける。根拠の無い、けれど確かな自信が体の奥底から湧き出てくる。
上から突き刺す様に刀を構える。
体に残る俺の力、霊力を刀にありったけ込める。
イメージは突き刺すのではなく、突き崩す。刺した瞬間に力を分散させ、中から壁を脆くする。
成功するか、そんな事考える時間はない。
ただ目の前の壁に、刀を振り降ろすだけッ!!
何かが砕け散る音が、図書館に轟いた。
気が付けば、俺は足場から離れ宙に投げ出されていた。
僅かに後ろを振り返る。
翡翠の壁に、人一人通れる穴が出来ていた。
辺りに散らばる氷の残骸。
越えたんだ、俺はこの壁を。
紫の魔女が、すぐ目の前にいる。
だが、体が少しずつ地面に近付いていく。
手を伸ばすんだ。今だけは、掴み損ねたくない!
あの魔道書を──
自分が生きているこの世界が、もしかしたら誰かが作り出した戯れの世界だとしたら。
そんな事を思った事は無いだろうか?
皆がアニメやゲーム、漫画を見て架空の世界を満喫する様に、他人に見られる為に作られた世界だとしたら。
少なくとも、俺は一度考えた事はあった。
バトル物なのか、サスペンス物なのか、ホラー物なのか、はたまたギャグ、恋愛、日常……
自分のいる世界を分類分けするとしたら、一体何処に入るのだろう?
そして、主人公がいて、ヒロインがいて。
世界中、億を越える人々がいる中で、誰が主役なんだろう?
想像するだけ無駄な事は分かっていた。
結論からすれば、自分自身が主人公なのは当然なのだから。
他人を主人公と見て尽くす人なんて、この世には恐らくいない。
けど、もしも。
もしもこの世界が本当にその様な世界だとしたら。
俺は、きっと単なる脇役に過ぎないのだろう。
どれだけ手を伸ばしても届かない。
半ば割れた本棚に凭れ、必死に手を伸ばしても、もう。
力はもう入らない、楼観剣を握る力さえも。
「──う゛グッ!!」
激しい嘔吐感。吐き出したのは、自らの血液。
息がほとんど出来ない。大きく口を開いて目一杯息を吸っても、肺の中に入る感覚がない。
暗く、ぼやける視界の奥にみえる、水色の髪をした少女。
伸ばされた右手は、届く事は無い。
「……ッ……ぁ……」
声が出ない。
自動反撃が咄嗟に作用して頭部への強打は避けられたが、あまりに強く胸部を打ち過ぎた。
肺が、ほとんど機能していない。肋骨も無事では無い。
「……チ…………ォ……」
結局、全てが無駄だった。
負けられない戦いだったのに。
俺は……誰も救えなかった。
『残念ね』
目の前で、魔女が手を翳す。
放たれた魔法の弾を防ぐ術は、無い。
「──ガぁッ!!」
全身に伝わる衝撃が、俺の意識を深く削り取る。
瞼が重い。体中が痛い。今すぐ眼を瞑って、楽になりたい。
けれど、そうしたら本当に全てが終わる、今度こそ。
「──ヴぅッ!?」
撃たれる度に、視界が暗くなっていく。
小傘に会いたかった。
最後にもう一度だけでも、名前を呼んで欲しかった。
けれど、これから母さんに会えるんだ。
どんな話をしよう。
短かったけど、永遠亭の皆との生活は楽しかった。
そう言えば、皆はどうしてるのかな?
もう、帰っちゃったのかな……
「──ァ゛ッ…………」
あ、もうダメだ……耐えられない。
眠い……視界が、ほぼ真っ暗だ……
「──ッ……………………」
あ……なん、か……いたくなくなっ、て……………………
少女達を救う為に抗った一人の青年は、大図書館にて力尽きた。
一人残された氷精には、最早絶望しかない。
傷だらけの体。尽きかけた魔力。皆を救う手立ては、もう無い。
「やっと、捕まえた……」
体を糸で巻き付けられる。
人形にされてしまう。
けれどもう、抗う気は起きない。
どうせ無駄なのだから。
終わりかけた物語。
今にも閉じられる幕。
光が消える、その間際。
──運命が、再び回り始める。