忘却の忘れ傘 ~a lonely quicksilver 作:エノコノトラバサミ
今、何時頃だろう。時計は持ってないので判らない。星の位置でも見て、時刻が分かればいいのに。
とうとう、目の前まで来てしまった。
紅魔館。壁から屋根から紅一色のこの館。ここに、吸血鬼がいる。妖精を拐う魔法使いがいる。入ったら最後、二度と戻っては来れないかもしれない。
手汗が滲んで、気持ちが悪い。帰りたい。このまま振り替えって、皆の元へ戻りたい。けれど、今戻ってしまったら、俺は皆の背後に隠れる事しか出来なくなってしまいそうで、嫌だった。
目的はあくまで情報採集だ。敵と遭遇したら逃げてもいいんだ。それに、俺には楼観剣がある。いざとなったら俺を守ってくれる。だから大丈夫、大丈夫なんだ。
言い聞かせていると、少しは落ち着いた。踏み込むなら、もう今しかない。
紅魔館を囲う壁と、無人の門。門番らしき人物の姿は無く、門の奥に人の気配もない。壁には登れそうに無く、門から入るしか無さそうだ。
右手にしっかりと楼観剣を握る。これだけが、俺の生命線。お願いだから、俺をもう一度、皆に会わせてくれよ……
ゆっくりと、門を開いた。木の軋む音が辺りに響く。
門から館まで来るのに通った庭には、何も仕掛けは無かった。季節的にあまり植物は生えておらず、ただ広い庭と印象付けられるだけ。ドーベルマンが放たれているとか、センサーで罠が仕掛けられているとか、そういう事を少しは想像してたのだが、無駄な心配だった様だ。
館の周辺をぐるりと回ってきたが、裏口や窓の類いはほとんど無かった。正確には窓はあるのだが、ほんの僅かしかない上に小さく、俺が入れる大きさではない。入り口は正面しか無い。
目の前に現れる二つ目の扉。ここを開ければ、今度は紅魔館の中。覚悟はもう、出来ている。例えどうなっても、もう俺は後悔しない。
扉を開けようとしたその時に、俺は気配を感じた。
「待って」
この声を、俺は何度も聞いた事がある。
「……チルノ、どうしてここに?」
「せーまが魔法使いを追い払ってたの、見てた」
起きていたのか、あの時に。
「せーま、一人で何しようとしてるの? せーま弱いんでしょ? なのにどうして一人で行こうとするの?」
「……調べに行く。紅魔館がどうなってるのか」
「そんなことして見付かったら──」
「分かってるよ。けど、弱い俺にはこれぐらいしか出来ないんだ。危険だから、お前は皆の所に戻れ」
「……嫌だ」
「……?」
「アタイも行く……サイキョーのアタイが居れば、せーまが弱くても大丈夫」
「……」
何を言ってるんだ、そう口に出そうとした。
けれど止めた。チルノは、別にふざけてなんていない。それは彼女の表情が物語っている。
俺の事、本気で心配してくれているんだ。チルノも、本当は現実を分かってるんだ。
「……本当に良いのか?」
「……うん」
「分かった。だけど、何かあっても助けられる保証はない。それでもいいな?」
彼女は、コクリと頷いた。
音を立てず、ゆっくりと戸を開く。
「な……!?」
門の向こうは、広大なロビーだった。
辺りを見渡すが、誰もいない。それは良かった。
それにしても、広過ぎる。これだけで紅魔館の内装全てを使い果たしてるんじゃないかと思う程に。だが、奥にはちゃんと通路や扉がある。これは、明らかに外装より広い。そんな事、有り得るのか?
首を振る。今それを考えても仕方がない。大事なのは、紅魔館に潜む敵の数と、妖精達が捕まっている場所。空間が云々は後だ。
足音を立てない様に素早く移動する。ロビーから通路へと入り、道を覚えつつ手当たり次第捜索する。神経を集中させ、気配を特に敏感に察知できる様に構える。チルノも黙って静かに付いてきてくれているので、邪魔にはなっていない。
気配の無い部屋を幾つか開けるが、何処も似たような部屋ばっかりだ。客間、だろうか。家具が一式揃っていて、ある程度の生活感がある。だが、少しばかり埃が被っている事から、しばらくその部屋を利用してない事が把握出来た。
「……やっぱり」
チルノが、何かを呟いている。
「どうかしたか?」
「……ここでメイドしてる友達が、皆居ない」
「……」
こんな広い館なんだ。メイドが一人だけな訳がない。やはり普段なら、メイドがこの館に沢山いる筈なのか。
「妖精の他にメイドは居るのか?」
「ううん、咲夜以外はみんな友達」
つまり、妖精のメイドは皆連れ去られた、という事か。
標的は妖精ばかり。どうしてなんだ?
とにかく、見つけ出さなければ。
紅魔館は想像以上に人気が無く、途中から堂々と通路の真ん中を歩く様になった。警戒は解いてないが、この様子だと本当に二、三人位しか居ないのかもしれない。
そして、しばらく歩くと如何にも大きな部屋の前に付いた。ここがどんな部屋かは分からないが、他の部屋とは雰囲気が全く違う。チルノとアイコンタクトを取り、ゆっくりと扉を開く。
図書館だ。ロビー以上に広大な図書館。天井は首を真上に上げないと見えず、巨大な本棚が幾つも連なって俺達を囲んでいる。こんな図書館、現代だと日本どころか、世界中にさえ無さそうだ。
「スゲェ……」
思わず小声で呟いた。一体、ここに何冊の本があるのだろうか? 時間さえあればゆっくりと見て回りたいが、生憎今は無理だ。
一応、この図書館も探索してみる。これだけ広ければ何かが隠されていてもおかしくはない。それを見付けられるかは別だが。
トン、と背中を叩かれた。振り返ると、チルノが何か焦っている様子だ。
彼女の後ろに着いていく。
「──!?」
居た。遠くのテーブルに、誰かが座っている。
髪が長い。女性だ。髪も服もほとんど紫色。先程会った人形の魔法使いとは違う。彼女が、レミリアの親友パチュリー・ノーレッジなのか?
「……そうだよ」
チルノに確認をとった。間違いないらしい。彼女は敵なのか、味方なのか、それが気になる。
どうするか、話が通じるのか。ナズーリンの事もあるし、もしかしたら分かってくれるかもしれ──
「せーまッ!?」
チルノの叫び声。体が前へと押し出される。地面に体を打ち付けられた。途端、背中に大量の水飛沫が降り注ぐ。
振り返る。目に写ったのは、巨大な水の塊。その中に閉じ込められたチルノの姿。
「今すぐ助け──」
言いかけて、そして止まった。背後に伝わる明らかな敵意。殺意ではない。殺す気はない。どうやら、俺達を捕まえるつもりらしい。
俺は、チルノを見捨てて逃げてしまった。殺されないと分かったのなら、希望はある。今は俺が逃げ延びて、皆に助けを求めれば、チルノを助け出せる。
全力で駆け、扉へと向かう。彼処まで行けば、後はきっと逃げられる筈。それに、楼観剣だってあるんだ。
もう少し、もう少しで扉に手が届く。
勢いのまま扉を開き──
「──いらっしゃい」
人形の魔法使い!?
しまった、逆に誘い込ま──
背中が冷たい。固い石の上に寝させられている様だ。
起きて、辺りを見渡す。そして、ここが牢屋だとすぐに分かった。じゃなきゃ、鉄格子なんて填められている訳がない。
しくじった。悩んだ俺が馬鹿だった。さっさと逃げてればまだ分からなかったのに、俺のせいでチルノまで捕まってしまった。
頭がガンガンと痛む。俺はどれだけ寝てたのか? 妖夢達はどうしてるだろうか? まだ外にいるのか、突入しているのか、それとも辞めて帰ったのか?
外に出たい。辺りを見渡すが、抜け出すのに役立ちそうな物は何にもない。楼観剣も、奴等に奪われてしまった。もう、手詰まりだ。
これから俺はどうなるのだろうか? 奴等に殺されるか……いや、それならとっくにやられている筈だ。どうなるのか考えた所で、結局何も分からない。
寒い。やけに冷えている。この気温だと、ここは地下なのかもしれない。窓が全く無い事から、間違ってはいないだろう。このままでは凍えてしまいそうだ。
「クソッ!」
苛立ちのあまり、鉄格子を蹴る。もう音の大きさなんてどうでもいい。ただ、少し前の自分の行動を悔いるだけ。後悔はしないなんて言いながら、結局はこの有り様だ。自分の覚悟の薄っぺらさが、身に染みて分かる。
「──静かにして下さい」
「!?」
突然、話し掛けられた。
「……す、すみません」
その声は、向かいの牢から聞こえてきた。
目を凝らして見る。暗くて全く気が付かなかったが、向かいに誰かが収監されている。様子はほとんど見えない。
「あの、貴方は誰ですか?」
「……
紅美鈴。紅魔館の門番。まさか、牢に入れられていたなんて。
「貴方こそどちら様ですか? 声を聞いた所、どうやら男らしいですが」
「加能聖真、外来人だ」
「外来人……どうしてこんな所に?」
「……捕まった。潜入に失敗したんだ」
「潜入?」
俺は、彼女に今までの経緯を話した。連れ去られた妖精達を助ける為に、妖夢達と紅魔館に乗り込もうとしている事を。
「……そう」
「……後は、レミリアとも会った」
「お嬢様と!?」
「森の中で色々と教えて貰った。何かしようとしてたみたいだけど、詳しくは全く分からなかった」
「……お嬢様、無事だったのですね」
「……なあ、紅さん」
「美鈴で良いです」
「じゃあ、美鈴はどうしてここに?」
「……この異変の事は、ある程度知ってますよね」
「まあ、少しは」
「あれから、妹様とパチュリー様の様子がおかしくなりました。咲夜さんが戻らないまま、二人が紅魔館を乗っ取ろうとお嬢様を襲ったのです。応戦はしたのですが、二人とも前より強くなってまして……私は、お嬢様を逃がすために、囮になったのです」
「……それで、今に至るのか」
異変からとなると、二人は道具に囚われたのはまず確定だ。それが何なのかは分からないが、もし妖夢の様に無理矢理解く事が出来るのなら……
「そして、今は何故かあの人形使いも含めて三人。庭師や鬼なら確かに対抗できるかもしれませんが……それでも、難しいでしょう」
「難しい……か」
やはり、このままでは……
「……出る方法は無いのか?」
「ここから、ですか?」
「……俺にはやり残した事があるんだ。願わくばもう一度だけ、チャンスが欲しい」
「……下がって」
言われた通り、牢の奥に下がる。
「はぁッ!!」
途端、目の前に輝く光の弾が現れ、俺の牢の鉄格子に命中する。大きな衝撃音を立て、格子が数本吹き飛んだ。幸い、怪我はない。
「美鈴、何したんだ!?」
「残ってた力を使いました。怪我がなくて幸いです」
俺は牢から出て、美鈴の牢の近くへ。
ボロボロのチャイナドレス纏った紅い髪の女性。ろくに食事を取ってないのか、少々頬が痩せている。
「けど……そんな力があるなら、俺を逃がすより、自分で戦った方が……」
「……妹様どころか、私ではパチュリー様にすら敵いません。あの二人の狂気に、私は太刀打ち出来ませんでした」
「狂気って……」
「正しく狂ってます。あんなのに敗北すれば、まず立ち直れません。心の修行だって行った私でさえ、思い出すだけで震えが止まらないのです。心の弱い普通の妖怪なら、まず何かしら異常を来すでしょう」
「……」
「妖怪は、体は丈夫な代わりに心が弱いのです。逆に、人間は体は脆い代わりに心はとても強い。だからこそ、真の強者と言うのは、実は人間に多いものなのですよ」
「……」
「……貴方は、強い」
「俺が?」
「牢に入れられて、普通なら自分の身を案じて嘆き哀しむでしょうが、貴方は他人の心配しかしていない。ここに来る前も、ここに来た後も」
「……自分の心配だって一応してるさ。けど、自分が一番悲しいのが、誰かを失った時だと知っただけだ」
「良いんですよ、それで。さぁ、早くしないと手遅れになるかもしれませんよ」
「……ありがとう」
「この道を真っ直ぐ行って、突き当たりを右に。そこからすぐに左に曲がってしばらく進めば、階段が見えてきます。それを登れば一階へと辿り着きます」
指し示された道へと、俺は踏み出す。
「負けないで下さい」
「……」
返事は返さなかった。けれど、自分の中で、何かが強く固まっていくのを感じた。
今度こそ、悔いなんて残さない。今、ここに居るだけでも奇跡の様なものなのだから。
二人が紅魔館へ潜入してから一日と半日。時は、既に次の日の夕暮れとなっていた。
一人の魔女が、両手に様々な物を抱えて大図書館の中へと入って行く。アリス・マーガトロイド、輝針城異変によって心を囚われた者の一人。
「ほら、採ってきたわよ。早く準備しなさい」
もう一人の魔女の元へと寄り、抱えた物を渡す。
『全く、あんたって人は』
『身勝手で鬱陶しいもんだぜ』
『少しはこの私を見習って欲しいものだわ』
「何言ってんのか分かんないわよ」
パチュリー・ノーレッジ。図書館の魔道書達に心を囚われ、複数の人格を身に宿した魔女。
「そんなことよりも早くしなさい、やっと念願の氷精を手に入れたのよ!」
図書館の床に寝せられた一人の少女。氷の羽を持つ妖精、チルノ。意識は回復しているが、体を拘束されていて話すことも出来ず身動きもとれない。ただ、怯えた表情で二人を見つめているだけ。
「ふふ、怯えた顔も可愛い……♥」
『ホント、悪趣味よね』
『妖精の標本なんて集めて何が楽しいのやら』
『俺にはさっぱりだぜ』
「標本じゃないわ【お友達】よ」
アリスが妖精を拐った理由。それは、彼女達を仮死状態にして【お友達】にする事。
今のアリスはアリスではない。アリスが普段から肌身離さず持っていた上海人形、それが彼女の人格を支配している。
アリスの望みは『沢山お友達を作る事』。それも、偽りの命ではなく、本当の命を持つ【お友達】を。その為なら、今までの友達を捨てても構わなかった。
対するパチュリーの望みは『高みへ昇る事』。魔法使いとしても、一つの存在としても。それには、仲間も強くてはならない。彼女は親友であったレミリアを捨て、強力な力を得たフランを選んだのだ。
パチュリーは面倒くさそうに床に魔法陣を描き、そこにアリスの採ってきた物を置く。そして準備が出来ると、アリスが今までの友達を使ってチルノを魔方陣の真ん中へと移した。
「ウフフ、とうとう念願の氷精が、私の友達となるのね……♥」
『これが終わったら今度は私の番よ』
『魔法の実験台に、お友達貸してくれよな』
「はいはい、分かってるわよ」
これから行うは一種の睡眠魔法。掛けられた者は再度大掛かりな術式無しでは二度と目を覚ます事のない、強力かつ危険な魔法。餓死する事のない妖精ならば、これで命ある人形へと成ってしまうだろう。
『~~~~~~~~~』
詠唱。謎の言葉を発する度に、魔方陣が輝いていく。
輝きが増せば増すほど、チルノの意識が冷たいもので覆われていく。
気力で必死に抵抗する。だが、強力な魔力に、気力では到底太刀打ち出来ない。
目を閉じてしまったら、二度と目覚める事はないかもしれない。それがどんなに恐ろしい事か。彼女の抱く無念が、どれほど大きなものか。
嫌だ、眠りたくない、誰か助けて!
心の叫びも、届く事は決してない。
そして、気力尽きかけたその時。
『……』
止まった。詠唱がピタリと。
「……どうやって抜け出したのかしら?」
『さあ、知らないね』
二人は揃って振り返る。
一メートル以上ある大太刀を右手に握った、一人の青年。呼吸を整え、ゆっくりと近付きながら、刀を抜いていく。
「……刀、ちゃんと隠しておけば良かったわ」
青年の眼に宿るは、決意の光。
紅魔館、大図書館。
始まりの終わりを、この場所から。