忘却の忘れ傘 ~a lonely quicksilver 作:エノコノトラバサミ
時折休憩を入れつつ、飛び続けて約三時間。俺達は霧の出る湖へと到着した。
紅魔館はもう目の前。今から、明日の日の出までここで時を過ごす事になる。霧の多いこの場所なら敵に気付かれる事も少ないと見越しての計画だ。
流石に長時間飛び続けたからか、皆大分汗を掻いていた。俺だけがずっと支えられていたので平気なのだ。
荷物から水筒を取り出して、それを皆に与えた。萃香だけは酒だ。せめてこの位、俺がしなければ。
後しばらくは各々自由時間。明日の早朝、目が覚めるまで。
「アタイ、皆を呼んでくる」
チルノはそう言うと、湖の向こう側へと飛んで行ってしまった。
いくら霧が多いとは言え、ここは敵の拠点の目の前だ。そんな中で単独行動させて大丈夫なんだろうか?
「止めなくていいのか?」
妖夢に聞くと、
「この辺りは彼女の縄張りですから、心配無いでしょう」
何も気に留めていないのを見ると、本当にそうなのだろう。少々、杞憂だったようだ。
何となく、俺は湖の方へと近寄ってみた。湖は真っ白に染まっている。一見すれば、石灰水の湖みたいだ。
手で水をすくってみる。途端、冷たい水は透明に輝いた。そうか、水面が鏡みたいになっているから、霧を反射して白く見えるのか。この霧が晴れていれば、きっと凄い景色が見られただろうに。
しばらく湖を眺めていると、ふと霧の向こう側から人影が見えた。飛びながら、こちらに向かっている。
それは小さな少女だった。背中に不思議な羽が付いている。彼女もチルノと同じ妖精なのか。きっと、チルノが呼んできたんだな。
「……あなたは、襲わない?」
俺の元まで来た妖精が、首を傾げ質問した。
「ああ。なにもしないよ」
「本当?」
「本当」
「……よかったぁ」
それだけ言うと、妖精はまた霧の向こう側に消えてしまった。
何しに来たんだろう。というより、相手に襲うかどうか聞く時点でやっぱり幼いのかもしれない。もし俺が敵だったらと考えれば、どうにかした方がいいだろう。
「みんなぁ、こっちこっち!」
突然響く叫び声。先の妖精の声だ。
すると、霧の向こう側から今度は大量の人影が。
「おぉ……」
十や二十では納まらない。少なくても五十はこちらに向かって飛んできている。なんという光景だ。
「凄い凄い、チルノちゃんの言う通りだった!」
「あれがチルノちゃんの仲間?」
「普通の人間みたいだね」
多くの妖精達が一気に俺の回りへと降り立つ。俺は四方を少女達に囲まれてしまった。逃げ場はない。それより、この状況に非常に混乱している。
「ねぇねぇ、強いの?」
「お兄さんがやっつけてくれるの?」
「あ、え、その……ちょっと……」
期待の眼差しが痛い。そんな目で俺を見ないでくれ。
抜け出したくても辺りは囲まれている。空を飛べない俺には、ここから抜け出す方法がない。頼むから、俺に関わらないでくれ。
「ちょっと、困ってるじゃない!」
そんな時に助けてくれたのが、チルノだった。
「えっと……名前何だっけ?」
「……聖真」
「そう! せーまが困ってるんだから、止めなさい!」
妖精達は渋々文句を言いながらも、大人しく俺から離れてくれた。彼女、やはり妖精達の中でもリーダー格の様だ。
「……ありがとう」
「いいよ、元々アタイの事を助けてくれる為に来てくれたんだし」
「…………」
期待している。チルノが、妖精達が、俺に。
けど、俺は……
「……俺は、助けられないと思う」
「どうして?」
「弱いから」
率直に、言ってしまったな。
「……せーま、弱いの?」
「ああ」
辺りにどよめきが起こる。妖精達が皆、不安そうに俺の顔を見つめている。
「萃香や妖夢と比べれば、俺なんて足元にも及ばない。影狼だってきっとそうだ。恐らくチルノ、お前にも勝てないよ」
「……」
彼女達には、やはり酷だったかもしれない。けれど、勘違いされ続けるよりは、まだマシかもしれない。それが正しいかなんて分からないけど、言って後悔はしていない。
「──じゃあ、せーまはどうして来てくれたの?」
「……どうしてだろうな」
「……アタイ達を助けようとしてくれたからでしょ?」
「……そうだな」
「…………ありがとう」
意外だった。
純粋で素直な性格の彼女だから、失望するだろうと思っていた。
「何で、礼なんてするんだ?」
「だって、助けてくれようとしてるのに、強いとか弱いとか関係ないもん」
「……優しいんだな」
「サイキョーなアタイは優しくなくちゃいけないからね!」
「サイキョー、ね」
「そう、サイキョー」
「……」
「……どうかしたの?」
「いや、ちょっと考え事をしてただけだよ」
「そう」
心の中で、感嘆した。
彼女は強い。ついこの前ボロボロになったばかりなのに、きっと心の中では不安ばかりだろうに、それでも強く振る舞って皆を導こうとする。他人を許す、広い心を持っている。
サイキョー、それが彼女にとって、暗示の様なものなんだろう。もしも彼女が本当に最強だったなら、この様な事は絶対に起きないだろうに。
「アタイ達、これから鬼の所に行くからせーまも来てよ! 皆のお酒を集めて宴会するんだって!」
「宴会?」
全く萃香は。明日が明日なのに何を考えているんだか。
「……分かったよ、もう少ししてから行く」
まあ、いいか。好きにさせよう。
白い湖をもう少しだけ目に残し、俺はその場を後にした。
「──久しぶりの宴会だぁ! 皆飲め飲めぇ!!」
夕暮れになる事、湖の畔はすっかりドンチャン騒ぎ。本当なら終わった後にする予定が、戦いの前の景気付けだという事で今行う事になっていた様だ。
妖精達が持ってきたお酒やら食べ物やらで萃香がはしゃぎ、その影響で妖精達もほとんど酔っ払って一緒になって騒いでいる。
少女達が酔っ払っている光景、現代なら即警察へ通報だろう。だが、彼女達は人間じゃない。お酒は二十歳になってからとか、そういう常識なんて無意味なのだ。
俺はお酒も飲んでいないし、宴会にも消極的だった。流石に萃香ほど盛り上がる余裕はない。だが、その様子を遠くから見ているだけでも十分楽しかった。
小傘が一緒に居れば……なんて、一瞬考えた俺がいる。
「宴会、参加しないんですかぁ?」
話し掛けて来たのは影狼だ。顔が赤く、少し酒臭い。
「俺はいいや」
「そうですかぁ? 折角の宴会なのに……」
「明日が明日だからな……俺の事は放っといてくれ」
「ヤです!」
なんで断るんだよ。
「いいから、一緒に月でも見ながら飲みましょうよぉ」
「まだ太陽出てるよ」
「もう少ししたら落ちますからぁ、そうすれば綺麗なお月様が出てきますよぉ」
「だから、俺はいいって言ってるだろ」
「あ、そう言えば今日は子望月、明日は満月ですよぉ。満月の私は怖いですよぉ、オオカミ女ですよぉ、頭からパクッと食べちゃいますよぉ」
「はいはい……」
これはまともに相手してはいけないパターンだ。
俺はしがみつく影狼を振り切って、その場から適当に離れる。
「待ってぇ、私を一人にしないでぇ!」
何を言ってるんだお前は。
平穏を求めて、声が聞こえなくなるまで遠くに逃げた。
気が付いたら霧は晴れ、目の前に森が広がる。すっかり湖から離れてしまった様だ。ここまで来て、尚も皆の声は僅かに聞こえる。本当、煩い奴等だ。こんなに煩いと他の妖怪か何かがくるんじゃないかと心配になる。
日はもう少しで落ち、そろそろ夜が来る。俺一人でこんな所に長居はしていられない。
仕方なく、戻ろうとした時だった。
「……」
気配がした。後ろからだ。
殺気はない。だから、俺も刀を手に持たなかった。だが、とても強い気配だ。萃香並か、それ以上か。どちらにせよ、俺が相手になる様な奴じゃない。
「貴方、気配が分かるのね。人間にしては珍しいわ」
振り返る。
それは、またも少女。青髪に、緋色のドレス、紅い日傘を持っている。その背中には、黒い翼。
「……俺は加能聖真」
「そう、私は……いえ、いいわ、聞かないで頂戴」
風貌こそ幼いが、ただならぬ力を持っている。直感的にそれは分かった。だが、どうしてだ?
どうして、彼女のドレスは傷だらけで、所々焦げているんだ?
「貴方達、一体ここで何をしてるの? 本当に騒がしいわ」
「……宴会だ。明日に備えての景気付けらしい」
「明日、ねぇ……紅魔館に乗り込むのかしら」
「……どうして分かったんだ?」
「分からない方がおかしいわ。じゃなきゃ、こんな所で鬼が宴会なんてしないわよ」
「……萃香の事、知ってるのか?」
「質問が多い」
一瞬睨み付けられ、本能的に動きが止まった。すぐに元に戻る彼女。まるで何事も無かったかの様に。
多分、彼女がその気になれば、俺の命は簡単に消し飛ぶ。
「……私からも問うわ。貴方、吸血鬼に勝てると思ってるの?」
「無理だ」
「随分と正直ね。それでいいのかしら?」
「今はそれでいい。きっと、萃香と妖夢が何とかしてくれる」
「……人任せ、ね。情けないわね」
「分かってるさ、情けない事位は」
「……まぁ、現実を受け入れようとする姿勢は、評価に値するわね」
「……」
プライドなんて、ここに来た時から捨ててあった。
情けないとか、みっともないとか、そんなのは些細な事。大切なのは結果だ。いくら格好良くても、死ねば全て無意味なんだ。
「確かに、あの鬼は強いわ。山の四天王とか言われるだけはあるわ」
四天王? 萃香、そんな風に言われてるのか。
「──けど、無理よ。勝てない」
「……吸血鬼相手にか?」
「いつものアイツなら、鬼にも十分に勝ち目はあるでしょうね。けど、今のアイツには勝てないわ、【絶対】に」
「……ッ」
【絶対】と言い切ってしまうのか。
それほどに吸血鬼は強いのか。
「……そんなの、まだ分かんな──」
「──分かるのよ、私には」
「…………」
「言わなくても分かるわよね」
ここまで来たのなら、もう理解できた。
「お前……そうか、レミリア・スカーレットか」
「……」
それは、一昨日永琳さんから聞いた名前だった。
紅魔館の主にして運命を操る吸血鬼、レミリア・スカーレット。幻想郷の中でもトップクラスの戦闘力を持つ者。
時を操るメイドの十六夜咲夜や拳法家の紅美鈴を従え、魔女のパチュリー・ノーレッジの親友であり、破壊狂の吸血鬼フランドール・スカーレットの実姉である。この五人が紅魔館の主な住人であり、大きな戦力でもある。
「貴方も、鬼も、庭師も、絶対にアイツには……フランには勝てない。引き返しなさい」
「……生憎、それは無理だ」
「無理にとは言わないわ、行きたいなら行けばいい。先に言っておくけれど、私は手伝わないわ」
「……お前は、ここで何をしてるんだ?」
「貴方の知る旨じゃないわ」
レミリアは後ろへ振り返ると、森の中へと消えていった。
どういう事情があったのかは知らない。俺にとっては、想像される相手が一人は確実に減っただけに過ぎない。逆に言えば、もう一人が確定された事になる。
気配だけでも相当な強者だという事が分かるあのレミリアが、わざわざ警告しに来る程の相手。どれだけ強いのか、最早想像も無意味だろう。
勝てるのか?
考えても、結論は出ない。相手についての情報が無い。今は、皆を信じて明日に備えるしか、俺には出来ないんだ。
太陽はもう沈み、月が輝いていた。
気が付けば、皆は寝静まっていた。
記憶を引き出す。そうだ、皆が騒いでる中、俺だけ一足先に寝たんだ。だから俺だけ、こんな夜更けに目が覚めたんだ。
俺の隣にはお腹を出しながら影狼が眠っている。なんだコイツは、俺に懐いてるのか。仕方なく服をお腹まで下げてあげた。
妖夢も、萃香も、チルノも、そして他の妖精達も、気持ち良さそうに眠っている。まだ春というには早く、肌寒いこの季節。それを紛らわそうと固まって寝ている様子は、何だか微笑ましい。ただ、チルノだけは仲間外れだ。氷の妖精だから仕方ないのかもしれないが。
霧の外に出て、空を眺めた。影狼の言っていた通り、月はもう少しで満月になろうとしている。幻想郷へと来る直前に見た夜空よりも綺麗だ。元居た世界も本当なら、これぐらい綺麗な空を見られる筈なのに。
「──ッ!?」
突然、聞こえた足音。気配なんて無かった。俺は急いで近くの木へと隠れる。
その直後、人影が現れた。金髪のセミロングにカチューシャ、肩掛けをした少女だ。レミリアとは全く雰囲気が違う。
そして何より、一瞬見えた彼女の眼に光が無い。
様子を伺いつつ、ゆっくりと近付く。刀に手は掛けてある。何時襲って来ようとも、反撃の準備は整っている。
少女は間違いなく皆の方へと向かっていた。やはり、嫌な予感がする。もしかしたら、チルノが負けた相手というのは、コイツの事なのではないか?
とうとう皆が見える所まで来た。俺は未だに少女の様子を隠れながら伺っている。少女は歩み寄ったのは、妖夢。
そして目の前まで来ると、両手を上に翳す。その瞬間、何処からか出てきた人形達。可愛らしい外見だが、その手には鋭い鉄の槍。まるで少女を守るガーディアン。
少女は、ゆっくりと手を降ろす。その瞬間、人形達が妖夢へ槍を──
「──くッ!?」
……失敗した!!
楼観剣は空を斬り、地面へと突き刺さる。少女は袖から僅かな出血があるのみ。
妖夢を殺そうとするその瞬間、俺はそこを狙っていた。目的を達成する瞬間というのは、誰だって気が緩む。そこを狙った。だが、後一歩の所で逃げられた。
そのまま少女は逃走する。俺は後を追わなかった。空を飛ばれたから、終える訳がない。それに、霧だって深い。
目が覚めた者は、誰もいなかった。予想はしていたが、闇討ちに会うなんて。偶然、俺が起きていて良かった。
この事は黙って置こう。皆を不安にはさせたくない。
ただ、これで相手側に、俺達が明日突入する事が知られていたというのがはっきりと分かった。相手は最低でも一人の吸血鬼と魔法使い。無論、他にも誰かいる可能性は非常に高い。
情報が欲しい。
せめてそう、相手の人数だけでも知る事が出来れば、計画を立てられる事が出来るのに。
「……決めた」
行こう、紅魔館に、今から。
どうせ俺は弱いんだ。弱い奴には、それなりの仕事がある。皆を信じて待つより、俺が行動しなければ。
命蓮寺の事を思い出す。あの時は、ナズーリンが協力してくれた。だが今回はそうは行かないだろう。見付かれば、即終わりだ。
それでも、皆が勝つためなら、俺はなんだってする。
忍び込む。
紅魔館が今どうなっているのか、調べてやる。