忘却の忘れ傘 ~a lonely quicksilver 作:エノコノトラバサミ
一話 日常の終わり
処刑台の上で、彼女は世界を見下ろしていた。
住宅街の外れにある小さなマンション。全部で五階建ての内、聖真の家は二階にあった。
部屋の中は必要最低限の家具とゲーム機ぐらいしか置かれておらず、ひどく殺風景だ。部屋の様子だけで彼の人間性が窺える。
布団の上で寝転がっている聖真。ファッションにあまり興味が無い彼は、大方普段ジャージを着用している。
彼は今、何も見ていない。しっかり眼は見開いているが、その瞳には何も捉えてはいない。
季節は夏。木々は紅く染まり、秋が訪れようとしている頃。
大学二年生の
事実、彼は頭がいい。決して醜い訳ではないのだが、テンパのかかったボサボサ頭に鋭い目付きと見た目はまるで不良の様だ。その見た目とは正反対に、彼はこれまでどんな時でも落ち着いて、礼儀正しく振る舞っていた。そのお陰で成績も良く、友達だって少なくはない。
部活やサークルには所属していない。バイトの時間が無くなるからだ。
聖真の家は昔から貧しかった。彼が幼い頃に、父親が交通事故で亡くなったからだ。彼は物心ついた時から、母子家庭で育ってきた。
貧しかったとは言っても、三食ろくに摂れない訳ではない。最低限生活できるだけのお金はあった。だが、聖真や母親が自由に使えるお金はほとんど無かった。
ひたすら仕事に行っている母親の代わりに、出来るだけ家事は聖真が行っていた。掃除、洗濯、ごみ捨て、食器洗い等、出来るだけ沢山の事を手伝った。空いた時間は、ひたすら教科書を読んでいた。彼がそれなりに頭がいいのはこのお陰だ。
小学、中学とこの様な生活を送り、高校からは早速アルバイトを始めた。校則ではバイトは禁止なのだが、聖真は構いもせずコンビニで店員をしていた。一度は学校にバレて停学処分にされたが、その翌月にまた別のバイトを始めた。それ以外には特に何も校則違反しておらず、成績も中々良かったので、無事に卒業出来た。
そして大学生になり、彼はマンションで一人暮らしを始めた。大学は自宅から遠くにあり、通うよりも大学の近くに住んだ方が安く済むと見込んだからだ。実際、下校時間を節約してバイトの時間に充てられる分、効果は十分にあっただろう。
こうして約一年が経ち、現在。彼はまるで亡骸だった。
無論、それは一種の表現であり、彼は普通に生きている。何故そう言うのか、それは彼に生きる目的が無いからだ。
それが何時からかはもう思い出せない。ひたすら学校とバイトに明け暮れ、そして学校が終わると仕事一筋になり、お金を稼いでいく。生きる内にお金が無くなって、そしてまた稼ぐ。無くなる。稼ぐ。無くなる。稼ぐ。無くなる。稼ぐ。その繰り返し。
そんな人間の人生に、彼は価値を見出だせない。例えば彼に好きな人や目標があったならばきっと価値を見出だせるのだろうが、それが無いから彼は亡骸なのだ。
欲しい。何かが欲しい。聖真は願っていた。
日常が変わる何かが。空から女の子が落ちてくるだとか、自らに隠された力が覚醒するだとか、そういう事を求めている訳ではない。少しでも日常が変わってくれれば、彼はそれでいいのだ。
それほど、彼は生きる事に飽きているのだ。
数時間後、彼はバイト先にいた。
自宅から自転車で二十五分。車通りの多い大通りに構えているガソリンスタンドだ。全国にチェーンを展開しており、CMもしょっちゅう流れる有名なスタンドである。
「いらっしゃいませ!」
スタンドの基本は元気の良さ。車のエンジン音で声が聞こえなくて事故を起こしてしまわれては、面目が立たない。大声で元気良くがモットーなのだ。
スタンドの仕事は始めてから約一年。このガソリンの匂いに慣れるまでは一ヶ月近くかかった。それまでは事ある毎に吐きそうになったり、声が出なかったりとひたすら苦労した。
勿論、今では一人前のスタンドマンだ。
そろそろ退勤の時間だという頃、暗い夜道から突如水の落ちる音が。歩道に出てみると、僅かに雨が降り始めている。雨は明日の朝から降る予報だったのに。
雨は徐々に強くなる。夕立だろうか? 雨具の無い中、聖真はひたすら自転車を漕いでいた。早く帰りたいのは山々だが、道は暗く、自転車のライトだけでは心許ない。事故を起こすよりはまだ濡れた方がマシだ。
家まではあと僅かという所だった。
「──うわッ!?」
気が付かなかった。自転車で何かを轢いてしまった。そのままバランスを崩し、転倒してしまう。
「……クソ」
濡れた路上に手を着く。ほぼ全身びしょ濡れだ。ここまで濡れてしまっては、もう急いで帰る意味も無い。
自転車を起こす。どこも異常はない様だ。何を轢いてしまったか確かめに、彼は転んだ場所付近を探してみる。
そこにあったのは、紫がかった不思議な傘だった。
見た目からして、工場で量産されている様な傘ではない。もっと古く、職人が作った様な傘。調べてみると、骨組みは竹で出来ており、雨を防ぐ部分は紙が張られている。こんな傘が昔から今まで残っていたのかと聖真は感心したが、同時に疑問にも思った。
まず、どうしてこんな所に落ちていたのか? 持ち主らしき人の姿も名前も無い。それに、さっき聖真は確かに自転車でこの傘を轢いた。それなのに骨組みの一本も折れてないのはあまりに不自然だ。それだけ頑丈そうな傘には見えないのに。
何を思ったか、彼はその傘を持ち帰った。
家に帰り、拾った傘を傘立てに入れる。びしょ濡れの服を脱ぎ、タオルで体を拭く。軽く寒気がしてきたので、すぐシャワーを浴びた。先程の雨とは違い、この雨は温もりを与えてくれる。とても気持ちがいい。
シャワーから上がると、すぐに夕食を作る。一人暮らしが長いと、自然と料理スキルも身に付くものだ。毎日毎日スーパーで惣菜を買うより、作った方が安くつく。
今日は正直疲れた上、昨日の肉野菜炒めが残っている。それを温める事にした。
食事を終え、食器も片付け、やる事を一通り終えた後、眠る。そうして明日も起きて学校に行き、バイトをし、また帰って寝る。この何の変鉄も刺激もない日々を、後三年近く続けなければならないのだ。
何故か牢屋にでも居る気分だった。
あれから二ヶ月が過ぎた。
冷たい風が吹き始める今でも、彼の日常は同じだ。学校、バイト、そして帰宅。それは何も変わってはいない。しかし、彼の家に突如、不思議な現象が起こる様になった。
ある日は靴が散らかっていた。またある日は布団に誰かが寝ていた様な温もりが残っていた。別の日にはシャワーが出しっぱなしになっていた。始めは空き巣かと思っていたが、何も盗まれてはおらず、誰かが侵入した形跡もない。まるで幽霊の仕業みたいだ。
更に一ヶ月が過ぎた。町には時々雪が降り、クリスマスに向けて様々な準備がされている。
そんな中、聖真に異変が起こり始めた。
初めはなんの変鉄もない休日のある日だった。暇を潰しにひたすらゲームをしていると、ふと頭の中に声が響いた。
『ゆき……』
ゲームの音声かと思ったが、どうも生々しい。窓を眺めると、外には雪が降り始めていた。幽霊が窓を眺め、俺に話し掛けてきた様だ。
それからも家の中で時折、声が聞こえる様になった。しかし、その内容は恐ろしいものではない。むしろ拍子抜けしてしまいそうなものばかりだ。
料理をしていると『おいしそう』と聞こえてきた。ゲームでやられると『おしいね』と聞こえてきた。朝起きてカーテンを開けると『まぶしい』と聞こえてきた。そんな事ばかりだ。
聖真は確信した。この家に、幽霊が居る。
「おい、幽霊、何処にいるんだ?」
深夜、彼は真っ暗闇の中、呼び掛けた。
「いるんだろ? 俺によく話し掛けて来たじゃないか、いるなら返事してくれ」
暗闇の中に、声が吸い込まれて行く。
「……ダメか」
『……いるよ』
聞こえた。確かにあの声が。
「お前は何者なんだ!?」
『…………』
「どうしてうちにいるんだ!?」
『…………』
「なあ、返事してくれよ!」
『…………』
結局、それから声は聞こえなかった。
それから毎日、聖真は深夜に幽霊に呼び掛け続けた。一日に一度や二度は声が聞こえるものの、幽霊に関してはほとんど何も聞き出せない。何故家にいるのか、何が目的なのか、何一つ分からないままだった。
本日はクリスマスイブ。世の中がクリスマス関係で盛り上がっている。町の大通りには普段の数倍カップルの姿が見られ、一人身には少々辛い日となる。
この日、休みである聖真は買い物をする為、傘を持ち家から出た。風こそ大した事ないが、今日は大雪だ。頭に雪が積もるより、傘を差した方が体温が奪われずに済む。
傘を開こうとした時、いつもの傘じゃなく、三ヶ月前に拾ったあの紫色の傘を持ってきてしまった。この傘の事をすっかり忘れてしまっていた。使えない事も無いので、今日はこの傘で行こうと彼は決めた。
家から歩いて約四十分。いつものスーパーではなく、少し遠くのデパートに着いた。目的はここに売っているケーキの為だ。クリスマスセールのお陰で安くなっているので、久しぶりに食べようと思い付いた。
買い物を終え、ケーキも買い、デパートから出たのはおよそ一時間後。大分並んでいたせいで時間が掛かってしまった。
雪は先程より一層酷くなっている。傘を差して歩いても、すぐに雪が傘に積もり重くなってしまう。歩きづらい事この上ない。
気がつけば、人通りも無くなっていた。大通りからは結構離れたのだが、全くと言っていいほど人がいないのはおかしい。皆この雪で家に籠ってしまったのだろうか?
そんな時、前から一人の女性が歩いてきた。
防寒着らしきものは何も身に付けておらず、服も雪でほぼ真っ白だ。その肌はまるで雪の様に真っ白で美しく、腰ほどの長さがある黒髪に顔立ちも整っている。
しかし、この雪で何も防寒着を着けてないとは、何を考えているのだろうかと聖真は思った。すると、女性は聖真の方へゆっくりと近付いて来る。
「あの、どうかしましたか?」
遠くから声を掛ける聖真。反応は無い。
「大丈──」
『──にげて』
「……え?」
突然聞こえたあの幽霊の声。
『逃げて』
今まで以上にはっきりと聞こえる。
『逃げて!』
「何なんだ、一体!?」
「ねぇ」
「──!?」
女性は、もう聖真の目の前に。
「あ……あぁ……」
その時、初めて聖真は気が付いた。
女性の目が、青く澱んでいる事に。
「貴方の生気と霊力が……欲しいの」
女性の腕が、みるみる鋭い氷の槍へと変わる。
「頂けな──」
その言葉を聞く前に、聖真は全力で走った。全身が感じた命の危険信号に従うがままに。
雪に足を取られながらも、彼は必死に走った。後ろは振り向かない。振り向く余裕もない。荷物も全て投げ出し、ただひたすらに自宅へと向かって走る。
視界がほぼ雪に塞がれながらも、彼は自宅へと辿り着く事が出来た。すぐに鍵を閉め、窓をカーテンで塞ぎ、壁にもたれかかる。
「一体何なんだよ、アレは!?」
心の整理がつかない。必死に逃げたはいいものの、状況が全く理解出来ない。
どうして俺が狙われてたんだ!?
他の人間はどこ行った!?
アイツは一体何なんだ!?
考えても考えても答えは出てこない。今はただ、アイツが俺の事を追いかけてこない事を祈るのみ。
──なのに。
『…………フフ……』
聞こえる。
『……フフフ…………』
聞こえる。聞こえる。聞こえる。
自分でもどうしてか分からないが、アイツが近付いて来る。アイツの笑い声が聞こえる。
「嫌だ……どうすればいいんだよ……」
殺されたくない。死にたくない。彼の頭の中にはそれしかない。
このまま家にいたら殺される。ならばいっそのこと、窓から飛び降りて逃げた方がいい。
聖真は立ち上がり、窓を開けようとしたその時だった。
何かを踏んづけた。それはあの紫の傘だった。
聖真はあの時確かに傘を放り投げた筈なのに。
『熱を使って……』
聞こえる。今度は、あの幽霊の声。
『アイツは雪……熱で……』
「溶かせばいいのか!?」
キッチンからヤカンと鍋を取りだし、そこに水を入れ、急ぎ火に掛ける。火力は最大。更に念のため、お風呂も沸かし、シャワーも流しておく。
徐々に近付いて来る嫌な気配。お湯はまだ沸かない。
「早く、早く、早く、早く、早く!」
祈るように沸騰を待つ。これが彼に残された命綱。
『……開けなさい……』
アイツがとうとう玄関の前まで来た。
『開けなさい……』
「頼む……早く沸いてくれ……」
鍋には水泡が出来たばかり。まだ時間が必要だ。だが、玄関には鍵が掛かっている。アイツが入ってくるには、鍵を壊さなければならない。
『フフフフ……フフフフフ……』
ついに玄関の扉がガンガンと何かに打ち付けられる。少しずつ削れていく取手。これでは、時間が足りない。
時間を稼げるものを急いで探す。この時ばかりは、家にストーブやヒーターが無い事を深く後悔した。結局、何も見つからない。
大きな衝撃音と共に、扉が開かれた。
それと同時に風呂場へ駆け出す聖真。
『フフフ……フフフフ……』
雪崩の様に家の中へ雪が入り込む。家内の温度は一気に下がり、アイツは真っ直ぐに聖真の元へ追いかける。
「──喰らいやがれ!!」
バケツとシャワーで四十度近くのお湯を一気に浴びせる。突然の事に反応出来なかった雪女は、そのお湯をまともに受けてしまった。
「ああぁァァっッッ!?!? おのれぇぇッ!?」
途端、鬼の様な形相で聖真を睨み付ける。外の雪が吹雪き始めた。
その隙にアイツの横を通り抜け、キッチンへと向かう。
コンロの火は、消えていなかった。
煮えたぎる鍋の取手を持ち、力の限り投げつけた。
「アアァァァァァァァァァァァァァァ!?!?!?」
あまりにも大きな叫びを上げ、アイツが悶え苦しむ。その体はみるみるうちに溶け、徐々に雪と同化して行く。
「オノレェ……チカラガノコッテオレバ、コノテイドデ……」
その一言を残し、アイツは雪と完璧に同化した。
外の吹雪は、途端に止んだ。
直後、付近の住人達が聖真の家に駆けつけた。状況をまだ完全に把握しきれていない聖真は、とりあえず吹雪で扉が決壊したとだけ答えた。住人達はその言葉を疑いながらも、とりあえず納得して帰っていった。
この中の誰一人が、吹雪が起こった事を知らないのだ。
この日の夜、聖真の家の玄関には仮の扉が付けられた。修理には一週間程度かかるらしい。修理費も支払う事になり、財布の中も部屋の中も寒いことこの上ない。
だが、彼は生き延びる事が出来た。呆気ない幕切れだったが、殺されかけたのも事実だ。
「……雪女、なのか」
妖怪の類いは全部でたらめだと思っていた。
「……何で俺が」
この町に、しかも俺が襲われるなんて微塵も思っていなかった。
「……幽霊、お前は何か知っているのか?」
「幽霊じゃないよ」
今、確かにはっきりと聞こえた、あの声。
振り替えるとそこには、あの紫の傘を抱えた一人の少女。
私は