東シナ海の戦いは、鎮守府側が勝利を収めた。
しかしそれには、人類に友好的な空母ヲ級『サラ』の犠牲があった。
このように、戦いのため海に沈んだものは数知れない。
その因果のもう1つが、彼の前に現れる。
駆逐棲姫、その正体は――。
進軍か、撤退か。
古今東西の司令官が頭を悩ませる、宿命の難問だ。
彼の頭の中でも、この二つの文字がコインの表と裏のようにくるくると入れ替わっていた。
当時の彼は、輸送船団指揮船の長だった。
偽の暗号は効力を発揮し、深海棲艦は護衛すべき船団とは全く異なる方向へ釣り上げられている。
つまり、ここへ。
やはり暗号はすでに解読されているのだ。
彼は少しの間だけ悩み、彼女の名を呼んだ。
最も信頼がおける駆逐艦娘だった。敵が完全にこちらを射程に収めるには、時間がない。彼にはそのわずかな時間で、彼女を送らずに済むような冴えたやり方を思いつくことはできなかった。
モールスを打電する。
『クチクカン ハルサメ』
『シングン セヨ』
了解の応答が来る。窓の外の暗い海で、発光信号が遠ざかっていく。
その通信が、別れの言葉になった。
*
沖田が追憶から戻ると、夜が明け、東シナ海に朝が来るところだった。
回流丸の甲板で、沖田は水平線の彼方を見つめていた。近くには司令船の姿もあり、その脇からゆっくりと太陽が昇っていく。
船乗りにとっては見飽きた光景だ。だが夜の終わりは、戦場においては特別な意味を持っている。
それは空襲の可能性の上昇であったり、攻守の有利の入れ替わりであったり、単なる時間の経過であったりもする。
時間。
沖田は時計を確認する。
ヲ級――サラたちを見送ってから、すでに8時間が経過しようとしていた。艦隊は無線封止をしているだろうから、よほどのことがない限り彼女達の状況は分からない。仮に通信が来たとすれば、それは敵が熊野達を抜けて司令船へやってきているという可能性が高いから、むしろ通信は来ない方がいいのだが。
「社長」
後ろには、ハナや、船長が立っていた。艦橋からは、当直の航海士達も甲板の沖田を見つめている。
沖田は頷いた。
「帰ってこないな」
「苦戦してるんでしょうか」
「さてねぇ」
沖田は笑う。上手く笑えたか自信はなかったが、笑顔が体面だけでなく、心の平穏も守るものであるということを沖田はとうに学んでいた。
嫌な予感がするのだ。あの時と、ひどく雰囲気が似ている。
「司令船に問い合わせをしているんですが、なかなか返事がない」
沖田はそれだけは伝えることにした。
司令船であれば、なんらかの情報を得ているかもしれなかった。だが彼らも、沖田達からの質問にはまだ回答を寄越していない。
(なにかあったか?)
ただ待つ、というのは焦れるものだ。特に今回は、初めてサラが沖田の視界の外で戦っている。
ポケットに手を入れると、何か固いものが当たった。沖田はそれを握りしめる。
それは、サラから外した首輪だった。
「社長!」
船内から、船員が飛び出してきた。ソナー員だった。回流丸には、用心のためそんな設備まで設けられている。
「ソナーに、感がありました」
沖田は、眉をひそめる。
「どこ――」
「すぐ近く! 回流丸の、右舷、距離200です!」
その瞬間、回流丸の右舷方向で、紫の光が爆ぜた。中から姿を現したのは、深海棲艦だ。
沖田は事前の打ち合わせで、それが駆逐棲姫という、敵の主力であることを知っていた。
しかし、彼女はボロボロだった。熊野達がうまくやったのだろう。どんな武装も持っているようには見えなかったし、被っている帽子は穴だらけで、油のように七色に光る体液を海水へ垂れ流していた。
「日笠に連絡」
船長が言う。
「あ、後は」
「機関全速、発光信号も、手旗も、両方使え。あとは、敵がこっちを殴らないようにお祈りだぁな」
沖田は、駆逐棲姫を見つめた。それは相手の脅威度を図るための、戦術的なものだった。
その時、風が吹いた。
駆逐棲姫はそれだけで海上でよろめき、帽子がずり落ちる。駆逐棲姫は膝から下の足を持っていないことに、今更ながら沖田は気づいた。
帽子を失った駆逐棲姫が、顔を上げる。その視線が、沖田と交錯した。
「社長?」
航海士が、声をかけた。ハナもそうする。
沖田は、反応することができなかった。
出撃前に青葉が告げた『覚えていますか』、という言葉が頭で反響していた。
*
駆逐棲姫は、潜航能力を駆使することで、脱出に成功していた。東シナ海へやってきたのと同じ方法で、海流を読み、地形を把握し、敵の索敵を徹底的に欺いた。
敵の対潜戦術がどう展開されるか、どこに逃げられると厄介か、どうすれば撃沈と誤認させられるか――そう言った諸々を、彼女はよく知っていた。
熟練の駆逐艦二人に追われたのは厳しく、損傷はさらに拡大していたが、最終的には逃げおおせることに成功した。もとより水上からでは、水中にいる相手の撃沈を確信するのは難しい。
だが、体の損傷はもはや限界だった。
生まれながらに持っている潜航能力も、潜水艦のそれほど優秀ではない。静粛性のお粗末な推進装置はほとんど使わずに、海流任せで漂ってはいたが、損傷による浸水まではどうしようもなかった。
彼女は浮上を決意した。
予定通りに進んでいれば、敵がいるであろう石垣島の近海であるはずだったが、このままでは二度とは浮き上がれないだろう。
やがて駆逐棲姫は海面に出た。
海風が出迎える。高く上った陽が眩しい。
駆逐棲姫は、すぐ近くに輸送船がいることに気づいた。既視感があったのは、きっとバシー海峡で同じような船を見ていたからかもしれない。
全長100メートル強の中型のコンテナ船で、クレーンと、マスト付近の電探設備に特徴があるからすぐに分かった。それ以外には何の変哲もない輸送船なのだが、彼女の印象にはなぜか強く残っている船だった。
輸送船の船員は、浮上前に彼女に気づいていたようだ。甲板にいる何人かが駆逐棲姫の方を見つめていた。
潜ろう。
だが、不思議なことに体が動かなかった。
硬直する体とは裏腹に、目線だけは動く。やがて甲板に立つ一人の男性に注意を向ける。彼は藍色の――ネイビーブルーのスーツを着ており、神経質そうな細目が印象的だった。
不意に風が吹いて、駆逐棲姫の姿勢が崩れる。ぼろぼろの帽子が外れて、海の下へ沈んでいった。
駆逐棲姫が顔を上げると、細目の男は、まだ彼女を見ていた。まるで、遠い知り合いを見つけた時のように。
彼女には、彼のことが分からない。
だが、微かな違和感は覚えた。
その違和感はどんどん強くなる。抑えようと思っても、胸の中から無尽蔵に何かが沸いてきて、頭に汲み上げられていく。
これは、なんだろう。
足元が瓦解していくかのような不安。そして、胸を刺すような痛み。
甲板にいる男性は、少しばかり老けて見えた。恰好も、かつてとは違う。
――かつて?
次に彼女が感じたのは、猛烈な胸の熱さだった。
ホォォォォオオ!
汽笛のような吠え声が、東シナ海に響き渡る。
それは、紛れもなく慟哭だった。
普通の深海棲艦に、個性という概念はない。
嵐や津波そのものが、名前や意思を持たないのと同じだ。それは現象であり、海底に沈んだ思念が顕れているだけに過ぎない。
そうした生き方の中で、徹底的に無視され続けてきた事柄の一つ一つが、今巨大な波濤のように押し寄せてきていた。
駆逐棲姫の頬を、塩水が伝う。
潜らなければ。
潜って、逃げなければ。それは分かっている。ひどく冷静な部分が純戦術的な理由から、早急な離脱を促している。
それでも、駆逐棲姫は動けない。むしろ奇妙なことに、心のどこかではずっとここに留まりたいとさえ感じていた。やっとたどり着いた。そんな気さえするのだ。
どれくらい、そうして放心していたのだろうか。
数十秒かもしれないし、ひょっとしたら数十分かもしれない。戦場では許されない決定的な遅延だが、駆逐棲姫はその場で何かを待ち続けた。
気づくと、輸送船の甲板の人数は減っていた。
やがて、艤装が通信を拾う。普通の、民間船の船舶無線だった。
それも、モールス信号だった。駆逐棲姫の記憶――学んだことさえないはずなのに、なぜか持っている記憶――によれば、それは随分前に廃止になったはずの、艦娘と司令船がやりとりするための符丁だった。
今は、確か、その暗号は変わっているはずだったが。誰かが身を持って、その暗号の危険性を立証したのだ。
誰かが。
「ワタシ、ヲ」
呟く。知らない内に、モールスを解読していた。それはごく単純な符丁であったため、すぐに理解ができた。
『スマナイ』
『クチクカン ハルサメ テッタイ セヨ』
無線の内容は、たったそれだけだった。
世界が傾いたことで、駆逐棲姫は自分がゆっくりと倒れているのだと知った。
遠くに、司令船からこちらへ向かってくる艦娘がいるのも分かる。だがそれでも、もう体が動かなかった。
深海棲艦である彼女達を終わらせることができるのは、ただの砲弾や爆弾ではなく、そこに載せられた意思だ。同じ時代、同じ海、同じ戦争。その強い結びつきが解き放つ一撃こそ、彼女らの核を穿つことができる。
そしてそれは、砲弾の形をしているとは限らない。
司令船に随伴する駆逐艦娘が砲を構える。彼女は最後に、連装砲の砲声を耳にした。だが撃たれる前から、すでに彼女の命運は決していた。
海に沈む最中、彼女は受け取った無線に返事をする。
駆逐棲姫はそこで終わる。彼女の中に潜んでいた誰かが、今わの際に、そっと頷いた気がした。
*
日 時:8月24日09:35(明石標準時刻)
作 戦 領 域:佐世保鎮守府 提督室
東シナ海の戦いから、約一週間後。
佐世保鎮守府は東シナ海の深海棲艦を撃破し、シーレーンの防衛に成功した。横須賀鎮守府はまだ本土襲撃部隊との戦いを継続している。が、鎮守府の資源の問題がクリアされた今、早くも深海棲艦は小笠原諸島沿岸から撤退を始めているらしい。
つまり当面の危機はすでに去ったわけだったが、沖田はとある事情で再び佐世保の提督室に呼び出されていた。
彼と向かい合う赤松は、執務机に腰かけて、沖田の会社が作成した契約書を確認している。
予備士官として、そして輸送会社としての形式的な報告はすでに済ませてあったが、人類に友好的な空母ヲ級については、やはり後々の面倒を考えて何らかの書面を取り交わしておかなければならなかった。
現物がすでに失われているとしても、このままでは沖田達は輸送中の物資を紛失したという扱いになってしまう。
そういう理由でもなければ、沖田は再び鎮守府に顔を出そうとは思わなかっただろう。
社長として、税金やら決算の承認やら、その他の現実的な雑事が待っているということもある。
「内容は、了解しました」
赤松は言った。
サラという貴重な存在を失った後だというのに、赤松の姿は以前と変わらない。
座っている痩身は姿勢がよく、眼鏡の奥の目は静かな光を湛えている。
サラが消えてから、何もかもがどこか上の空である沖田とは雲泥の差であった。
将というものは、こういうものなのかもしれない。兵の命に対して、将が天秤に載せるものはいつだって小さいものだ。
「最後に、何かありますか?」
赤松は訊ねた。
かつての沖田であれば、立て板に水のごとく、海軍への嫌悪感を露わにしていただろう。だが今は、とてもそんな気分ではなかった。
「二度目ですか。あなたが海の上で、部下を失うのは」
沈黙する沖田に、赤松は言った。
「シーレーンは、この国の命。彼女達はそれを守ることで、他のより多くの命を守ってくれました。その事実を、佐世保鎮守府が忘れることはないでしょう。決して」
赤松は遠回しに、沖田のかつての部下のことも言っているようだった。
沖田は頷いた。
「ええ」
「許してほしい」
沖田はやっと苦笑することができた。
「ご心配なく。海軍を恨む、ということはありません。最後は彼女が――サラが、自分で決めたことですよ」
赤松は頷いた。
「沖田大尉、除隊を許可する」
提督が立ち上がり、敬礼をした。沖田は答礼を返して、部屋を辞去する。
その時、提督の後ろで、ずっと影のように控えていた秘書艦『川内』が少し動いていた。無線を操る仕草に似ていたが、沖田は特に気にしなかった。
提督室を出てしばらく行くと、廊下に見慣れた人物がいた。青い髪に、セーラー服。沖田にとってみれば、ほとほと面倒な相手だった。
精神的、そして肉体的疲労を引きずったままの脳みそが、きりきりと痛む。
「青葉じゃないか」
「いやぁ、奇遇ですねぇ」
一週間ぶりの営業スマイルに、疲労度がさらに蓄積されていく。沖田は深く考えるのをやめた。
「お勤めご苦労様でした」
「まったく、私が海軍に関わるとろくなことがないっていうのが、身に沁みたよ」
彼女は、かつて沖田も所属していた船団護衛の艦隊の一員だ。時間が経っていたとしても、やはり戦友には変わりはないようだった。
自然、歩きながらの会話になった。
鎮守府にはまだMI作戦へ行った艦娘は帰ってきていないらしい。そのためすれ違う姿は少なかったが、作戦が終了しているからか、みなどことなく帰還者の受け入れ準備に忙しそうにしている。
「ちょっと、話題が変わりますが」
人通りがなくなった頃、青葉はそう切り出した。彼女は足を止めていた。
「最後に、駆逐棲姫を見たそうですね」
沖田は無言で頷いた。どうも、その話をするために待っていたようだ。
「……どうでした?」
「意味が分かったよ」
青葉は、しばらくきょとんとした。やがて察したように頷く。
「君が言っただろう。出撃前に」
青葉は、出撃前に沖田に『覚えていますか』、と聞いていた。あれは沖田と青葉になら通じる符丁のようなもので、2人の記憶の等しく横たわっている、ある戦闘についてのものだった。
「似てたよ、ひどく。駆逐艦『春雨』に」
沖田は意味もなく右頬を掻く。
深海棲艦は、海に沈んだ思いが形をなした存在だ。もしそうなら、この海で死んでいった艦娘が、何らかの理由で
決して公表はされないだろうし、認めたくもない事実だが。
駆逐棲姫は、沖田がかつて指揮し、そして沈んでいった艦娘と瓜二つだったのだ。
彼女が沈んだのは、偽の暗号で深海棲艦を釣り上げる作戦の最中だ。沖田達佐世保の海上護衛部署が、暗号強度に不安を持ち、試験的に実施することに決めたのだ。
リスクがある作戦だった。それは認めなければならない。
その艦娘は、暗号が漏れていたという海軍の失態を隠すため、沈んだ場所も、その戦いも、記録上はなかったことになっている。
「青葉」
「はい?」
「深海棲艦は、海に沈んだ思いが、形になったものらしい」
青葉は頷いた。
「あいつは、恨んでいるのかな」
青葉は少しだけ考えて、首を振った。答えは予め考えてきてあるようだった。
「……分かりません」
沖田は頬を掻いた。考えてみれば、当たり前の話だ。沈んだ者の気持ちなど、沖田達が容易く推し量れるものではない。
沖田達にできるのは、せいぜい記憶に留めておく程度のことだ。
「『ワスレナイデ』」
言うと、青葉がきょとんとした。
「駆逐棲姫が、最後にそう言ってきた」
「……話したんですか?」
「モールスだよ。提督には報告書で伝えてある」
青葉は、ああ、と察したように頷いた。
「これは想像なんだが。駆逐棲姫は――あいつは、海軍があいつのことを、隠ぺいして、いなかったことにしようとしてたのを、知っていたんじゃないかと思う。連中は他人の思いを覗けるようだし、『忘れないで』ってのは、そういうことでさ」
「恨んでいるかもしれませんね」
青葉は認めた。その表情からは、彼女自身も、当時の海軍に思うところがあるのが伺えた。
「私にも、耳が痛い話だ」
沖田は気づくとそう口走っていた。青葉が首を傾げる。
「大尉が?」
「もう大尉じゃない」
沖田は言ってしまったことを後悔した。放ってしまった言葉が、宙に浮いてしまったばつの悪さを感じる。
沖田は革靴の先で床を何度かつついて、ようやく決めた。
「私は、あの一件で、海軍が大嫌いになったんだ。クビになったこと以上にな」
青葉は黙って頷いた。
「命をかけて戦ったあいつの存在を、隠して、なかったことにするような真似を、許せなかった。それも事実だ。けどな」
沖田はそこで言いよどんだ。
「根本的には、同類だった気がするんだよ」
「同類?」
「私も、当時の海軍も」
沖田はため息を吐いた。近くにあった窓から外を見る。佐世保湾が、陽光にきらきらと光っていた。
「責任転嫁だ」
沖田はできるだけ平坦に言った。
「責める相手を別に作って、傷を誤魔化す。海軍は私をトカゲの尻尾にして、春雨のことを、その原因を黙殺した。私は私で、海軍をとにかく嫌いまくって、春雨のことを頭から追い出した」
沖田は、もう一人を失ったことで、ようやくその事実を認める気になった。
サラを喪って帰ってきたときの、熊野の顔を思い出す。
彼女はきっと苦しむだろう。僚艦を無事に帰し続けることを矜持にしていたほどの艦娘だ。
だが当時の沖田は、苦しめるほど強くはなかった。
「本当に春雨のことを悼んだのは、君ら、艦娘くらいかもしれない。化けて出られても、仕方がないよ」
やっぱ言うんじゃなかった、と沖田は後悔した。
やはり今日の自分はおかしい。頭がぼうっとしているし、感傷的になっている。
「こんな場ですけど」
青葉が言った。僅かに緊張しているように感じた。
そして、青葉は頭を下げた。
沖田はきょとんとしたが、やがて気がついた。再会する前まで、彼女に対して漠然とあったやり辛さの正体を思い出した。
「青葉も、謝ります。彼女が沈んだ後、私、あなたを殴りましたから。それもグーで」
沖田は苦笑した。右頬が痛むのは、別に彼女のせいではないが。
「……そういやそうだったな」
「わ、忘れてたんですかっ? うわ、信じられませんねこの人」
どうせならもっと強く殴っておけば、と青葉は呟いていた。多分死ぬと思うので、沖田は止めるように言った。
「嘘だ。やめろ。死ぬ」
「ふふん。舐めちゃだめですよ、今は青葉もソロモンの狼と呼ばれるほどなのです」
「潜水艦やら重巡やら、海には随分と狼がいるなぁ」
そんなやりとりをしながら、2人は再び歩き出し、正面玄関までやってきた。
別れ際に、足を止める。青葉の瞳が、沖田を見つめていた。当時の頼りなさは、もうなかった。
「冗談はさておき。あの時は、彼女が沖田さんが勝手に立てた作戦で犠牲となったとばかり。でも、今は分かっていますよ。練度が高い子は、ちゃんと作戦のことを聞かされてたみたいですし」
「まぁ、ひよっこにまで知らせとくと、動きが不自然になるからな」
青葉は少しだけ迷うそぶりを見せた。
「それに、青葉、知らなかったんです。彼女は、あなたの……」
沖田は首を振って、その先を制した。
艦娘の素性というのは、容易に明かされるべきものではない。彼女らは訓練前に、私物の大部分を実家に送り返すという。そうまでして世間との関わりを絶ち、背負った艦名と自らを一体化させるのだ。
「シスター・サラなんてのは、悪い冗談だよな」
青葉とはそこで別れた。次に会うことがあるかも分からないが、それはきっとずっと遠い先のことになるだろう。
玄関を抜けて、外へ出る。すると猛烈な熱さと、蝉の声が襲い掛かってきた。湿気を帯びた夏の海の匂いもする。
沖田は少しだけ振り返って、鎮守府を見送ることを自分に許した。
赤煉瓦造の質実剛健な建物は、昔と少しも変わらない。以前はこの建物を見るだけ、あるいは海軍のすぐ近くにいくだけでなんとも嫌な気分になったものだが、いつの間にかそれはなくなっていた。
鎮守府の中をさらに歩く。工廠にも用事があるため、鎮守府の中を徒歩で横切らなければならなかった。
日差しは強く、海の景色は揺らいでいる。
深海棲艦が作った建物や道路の傷は、業者によって補修が進んでいるらしく、ところどころに青いシートがかけられていた。
やがて沖田は、埠頭の近くを通りかかる。そこは少し前まで回流丸が停泊していた場所だった。
今は、輸送船として商船用の港へ入っているため、その姿はない。なぜか少し寂しい気持ちになった。
――しゃちょう。
ふとそんな声が聞こえた気がして、沖田は足を止めた。覚えば、サラに殴られたのはこの辺りだった。彼女がただの空母ヲ級から、『サラ』という名前を名乗りだしたのも。
――しゃちょう。
沖田はその場に立ち止まり、海を見つめる。穏やかな海面が夏の日差しを受け止め、青の色を水平線の先まで這わせている。快晴の空には、それを見守るように雲がいくつか残されていた。
いつまで待っても、聞こえるのは波の音だけだった。
(空耳か)
気温のせいか、目元さえも熱い。汗が出てくる。やはりこんな場所に来るべきではなかった。
「……ちくしょう、あいつ。出るの、止めとくんだったな」
沖田はサラの出撃を止めなかったことを、悔いた。悔いながらも、目の前の雑事をこなさなければならない。沖田は再び歩き出した。
部下を失った時、海軍を責めるべきではないのは、ひょっとしたら随分前から分かっていたのかもしれない。この痛みと向き合うことこそが、怖れていたことではないのか。
(妹を2人失ったようなもんだ)
沖田はハンカチで軽く、汗を拭う程度の仕草で、目元を押さえた。
耳が、ラジオの音を捉える。近くにあった売店で、店番の女性がラジオを付けっぱなしにしているのだ。時刻はどうも、二時になっているらしい。
(急ぐか)
帰りのバスを気にしつつ、沖田は工廠へ向かった。
*
(あれは……)
売店に寄った熊野は、遠くへと歩き去っていく後ろ姿を見つめた。見覚えがある姿だ。多分、沖田だろう。
だが熊野には、もはや彼に語るべき言葉も、合わせるべき顔もなかった。
「くーまーのー」
熊野はそう声をかけられたことで、我を取り戻した。
「どーしたの? なんか、上の空じゃん」
熊野は苦笑して、取り繕った。売店の女性に欲しかった桃の缶詰を要望する。
「も、桃の……」
なぜか売店の女性は、怖がった。
「ま、まさかあんた達も缶ごとバリバリやったりしないだろうね……?」
『バリバリ……?』
熊野ともう一人が顔を見合わせると、売店の女性は慌てて首を振った。
「そ、そうだわ。あれは夢、あれは夢……。なんでもないです、桃缶ですね」
勘定を払い、女性が桃缶を袋詰めしているのを待つ。
その時、熊野は微かに視線を感じた。軍属だからだろうか、遠くからの視線というのには敏感なのだ。特に、敵意や警戒が含まれていれば尚更だった。
(あれは……)
熊野は、少し離れた位置で、数人がこちらを見ているのを見つけた。
鎮守府の制服を着ているが、見たことのない顔だ。彼――沖田が去っていった方をじっと見つめている者もいる。
警備の人間には見えない。というよりどこか線が細く、軍人の雰囲気ではなかった。工廠やもっと奥の研究施設にいるような、技術屋の類かもしれない。
熊野は不吉なものを感じて、彼らから視線を逸らした。
脳裏に、あの戦いの最後に、サラから受けた警告が蘇る。
『くまの まだ、さかいめに、いる』
(境目――)
今見つめられていたのは、ひょっとすると――。
熊野は先ほどの男たちの方を見やったが、いつの間にか彼らの姿は消えていた。
熊野は首を振った。横にいる親友が、そんな彼女を心配げに見つめている。
不吉な沈黙を和らげるのは、ラジオの音だけだった。
《次のニュースです。遠洋漁業組合は、沖縄の付近で網が食い破られるトラブルが続出していると発表しています。原因は不明ですが、海域の安全が確認されるまで、再度漁を延期する見込みです――》
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【登場艦船紹介】
白露型駆逐艦5番艦
『春雨』
全長:111メートル 全幅:10メートル
排水量:1,685トン
速力:34ノット
乗員:226名
兵装:50口径12.7cm連装砲 2基
50口径12.7cm単装砲 1基
毘式四十粍機銃 2基
61cm4連装魚雷発射管 2基
爆雷投射機2基
1937年8月就役。
太平洋戦争の緒戦に始まり、ガダルカナル島、ソロモン海などの戦地を
同型艦と共に戦った。特に時雨とは長い付き合いになった模様。
一度潜水艦からの雷撃で船体断裂を経験したが、この時は退避に成功している。
駆逐艦の例に漏れず船団護衛もこなしたが、トラック諸島の空襲に巻き込まれ、
同型艦の時雨と共に脱出したという経緯もある。
最期は「渾作戦」。反跳爆撃を受け、船尾を喪失、轟沈した。
なお、艦娘は普通の少女が、艤装を背負って艦名を名乗ることで誕生する。
その本名は、艦娘の除籍後も明かされることはない。
駆逐棲姫に「わるさめ」って名前付けた人天才だと思います。
次回、エピローグは明日投稿予定です。