空母ヲ級運用指南 ~蜃気楼の海~   作:mafork

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あらすじは「5-4.黎明の攻防」を参照いただければと思います。
(5-3では次回が本編最終話ということにしておりましたが、長くなったため、結局5-4と、5-5という2話に分割することとしました。連続投稿、失礼いたしました)



5-5.帰郷

 

 熊野は面舵を切った。

 右90度回頭。並行して、陣形を南へ突き進む単縦陣から、西へ進む梯形陣に移行させる。上空から見ると、6隻の白い航跡が、西に対して階段状に並んでいることだろう。

 梯形陣は突撃の陣形だ。この形であれば、真正面、つまり西の空母に対して全火力を投射できる。

 駆逐棲姫を無視して、西方へ逃げる空母に追いすがる構えだ。

 駆逐棲姫がそれを見逃すはずもなく、面舵を取って熊野達と西へ並走する。足の遅い戦艦ル級も、なんとか全体の動きに食いついた。

 熊野達と駆逐棲姫の位置は、またしても同航戦の形になった。先ほどと同じ構図だが、複雑な艦隊運動の結果、相対距離が先ほどよりも縮まっていた。

 その距離、1.5キロ。時間は進み、夜は白み始めている。

 この距離での撃ち合いは、もはや手を伸ばして相手を小突くのに等しいだろう。 

 敵艦隊で光が明滅するのと、弾着はほぼ同じだった。艦隊の周囲で水しぶきが巻き起こり、残された僅かな視界が、海面下を航走する魚雷を確認する。

 

「熊野さん!」

 

 不知火の合図。熊野は手はず通りに速力を上げた。缶が唸りを上げ、その熱と振動が背中から伝わってくる。凄まじいものだ。

 面舵を切ると、横波もあって体が一気に傾斜する。高速での転舵は不安定になる。

 だがのんびりしてはいられない。

 舵を切った瞬間、今まで熊野がいた位置に戦艦の砲弾が突き刺さり、冗談みたいな水しぶきをあげた。

 

「青葉」

 

「わかってますよ」

 

 青葉は主砲、副砲を斉射し、たっぷりと敵の注意を引きつけた。

 

(よし)

 

 ここまでは、手はず通り。

 熊野は缶の回転数を上げ、僚艦との速度差をさらに広げる。やがて艦隊の南端を抜けて北端へやってきた。最も駆逐棲姫達から離れた位置だ。そこにはサラがおり、準備を整えて待っていた。

 

「サラ」

 

「わかってる」

 

 手渡される、彼女の艦載機。

 雷撃機だ。

 それを左手の飛行甲板にセットする。今から熊野のカタパルトで、こいつを射出するのだ。そして後ろから、今度こそあの空母に一撃を見舞う。

 敵が不穏な気配を感じ取ったのが、肌で分かった。

 駆逐棲姫と戦艦が、そろって雄たけびをあげる。

 その重巡を行かせるなと、獣の言葉でしゃべっている。

 構うものか、と熊野は、サラと別れ、さらに主機を回した。

 缶が焼けつくような熱さを発している。数分しか持たないだろう、本当に全力の航行。船体が揺れ、弾けた波が体を流れ落ちていく。

 だんだんと、水平線の付近に敵の空母が見え始めた。

 駆逐棲姫と、戦艦の攻撃が激しくなる。だが之字運動などやっている暇はない。仲間が守ってくれることを信じて、真っ直ぐに、矢のように真っ直ぐに。

 

「きゃあ!」

 

 陽炎の悲鳴が聞こえた。

 

「陽炎中破!」

 

 川内の報告にも余裕がない。

 その間にも、熊野の速度はどんどん上がる。

 上空には異変を察知した艦載機も殺到する。サラの戦闘機が守ってくれているが、爆撃が始まるのは時間の問題だった。まっすぐ進む艦なんて、空からはいい的だ。

 

「熊野さん! まだですか!?」

 

 青葉の言葉に、熊野は応えれらなかった。

 深海棲艦の艦載機の離陸速度など、詳しくは知らない。だが船体の運動と、カタパルトの加速を足してもまだ不足だという思いがあった。

 あと一要素、何かが足りない。

 雷撃機は、重いのだ。

 脳裏には、翔鶴に雷撃機の指揮を任された時のことが呼び起されている。あの時の失速速度を思えば、まだ足りないと言わざるを得ない。

 耳元で風が鳴る。川内の呻きが無線に乗った。

 

「ああっ」

 

 推察するに、恐らく中破だ。いや大破かもしれない。

 熊野はすでに艦隊を大分飛び出しているから、後ろを向いて確認することはできなかった。

 焦りが募る。

 敵空母は、まだ点にしか見えない。

 

「熊野さんっ!」

 

 青葉の言葉に、熊野は艦隊の限界を感じた。

 

(ここまでか――!)

 

 撃つしかない。

 その時、風が吹いた。進行方向から、向かい風が来る。

 飛行甲板のカタパルト付近に、一瞬妖精の姿が見え、こちらに親指を立てたように見えた。

 熊野は、決断した。

 ただの軍艦であったなら、水上機用のカタパルトで、艦上攻撃機を撃ち出すということは不可能だ。重たい魚雷を吊下した機体を放つには、カタパルトの力が弱いのだ。

 しかし、艦娘の熊野は違う。

 軍艦にはない、人間の手足がついている。

 左手の飛行甲板を、一度思い切り右へ振りかぶった。

 末端重量に引かれて、腰から上がぐるりと右へ回転する。

 復原力と意思でそれを制動して、飛行甲板を、まるでフリスビーを投げる時のように振り回す。

 

《え!?》

 

《は!?》

 

 陽炎、不知火の驚きが飛んでくる。

 

 風よし。向きよし。

 妖精が目を回してるがとにかくよし。

 

 発艦!

 

 東シナ海に、熊野のいつもの声が、怪鳥(けちょう)のように高く響く。

 

「とぉぉぉぉおう!!」

 

 火薬式カタパルトに火が入る。深海棲艦の艦載機を猛烈な勢いで押し出した。

 それに、遠心力が乗る。

 さらに、熊野は振り回す際に、飛行甲板を僅かに傾け、雷撃機の翼に下から空気が当たるように仕向けていた。飛行機の翼は、空気を掴めば揚力を精製するようにできている。これも離陸の一助になるはずだ。

 翔鶴の『流星』をキリモミさせ、そして回復させた時の、翼が空気を掴む感触。そして壊れたカタパルトを強引に振り回して、瑞雲を通常以上の速度で発艦させた経験。

 熊野は、どれも覚えていた。

 火薬の白い煙が晴れた頃には、海面すれすれでなんとか機首を持ち直す、深海棲艦の雷撃機が夜明けの光を浴びていた。

 

 

 

 ひどい無茶をやったのは、誰が見ても明らかだった。

 サラは艦載機が持つ記憶から、ごく常識的な見地でもって、この運用の無茶を指摘することができた。

 まず熊野が持っていたカタパルトは火薬式であり、ある瞬間のみに爆発的な加速力が加わる特性上、軽量かつ頑強な構造の機体に使用されるべきだ。この艦載機のような3座式の大型機を打ち上げるべきでないのは明白だった。

 機体にかかる負荷も凄まじいし、台車とレール、そして周囲の機器とのクリアランスも相当に厳しかったのではあるまいか。

 なにより、今の発艦はひどい。

 まるで、常識的ではない。いくら艦娘に手足があるといっても、よく思いついたものだ。

 

 だがそれでもとにかく、打ちあがった。

 サラはエンジンの回転数を最大にし、また高度を少しずつ下げ、不足している揚力を補った。機体が徐々に安定していく。対気速度のメーターで、針がゆっくりと右へ傾き、機体が加速していることを教えてくれる。

 彼方を見ると、敵の空母ヲ級がいた。

 まだ、何が起こったのかには気づいていない。その視線は、上空の制空権の行方に注がれている。

 だがある時、敵の戦闘機に気づかれた。

 同時に敵の空母ヲ級も気づく。敵の戦闘機が殺到する。

 サラは違和感を感じた。なんだかこの雷撃機は、今までものよりも、少しばかり速い気がした。

 その気持ち程度の優速と、低空飛行という要素が、敵の追撃の障害になった。

 上空から降り注ぐ機銃は、ほとんどが海面のみを穿つ。追撃に拘泥しすぎた一部の機体は、そのまま黒い海に突っ込んだ。

 どんどん敵の空母は近づいてくる。真後ろを取っている。側面を取るのが最良で、これは敵の転舵によっては避けられてしまう位置だった。

 不知火の声がした。

 

《これを!》

 

 機体の上空を、流れ星のようなものが過ぎて行った。それは敵空母の後ろでぱっとはじけて、ゆっくりと降下する光の玉になる。

 照明弾だ。

 敵の動きが、背後からの膨大な光に照らされて、薄闇の空に影絵のように浮かび上がった。

 そして影の左右に、熊野達の砲撃が弾着する。敵の左右への針路を制限しているのだ。

 サラは雷撃体勢に入った。ただ真っ直ぐに進み、機体を水平にし、照準器を覗き込む。

 敵の空母ヲ級が、まっすぐにこちらを見つめていた。

 クラゲ型の帽子、その左右に備えられた砲もこちらを睨み付ける。

 砲撃。

 数発は見当違いな方向へ飛んでいき、一発がすぐ近くで炸裂した。

 機体が揺れて、姿勢が崩れる。だがそれでもなんとか制動し、機体の水平を再び保った。

 しかし抵抗はそれで終わらない。

 敵の空母ヲ級は、すぐに次の発砲を行うべく照準を開始していた。

 船体から来るこの対空砲火が、敵の最後の防衛ラインだった。

 実際には、数十秒に満たない攻防だが、これを抜けきれるかどうか。

 サラの中で時間が引き伸ばされていく。機銃や砲撃で生まれる波しぶきの一つ一つさえ、止まって見えた。

 

(どっち?)

 

 まだ、距離に余裕はある。右に避けるか、左に避けるか。それとも、直進するべきだろうか。

 サラは直観で、左へ機体を回避させた。ひゅっという音がして、ぎりぎりのところを敵の砲弾が駆け抜けていく。だがその位置は、さっきよりもずっとサラの機体に寄せていた。

 

(まずい)

 

 もう一度高度を調節し、機体を水平にする。雷撃機はどうしても、投弾前には直進しなければならないのだ。だから損耗が嵩むのだ。

 駆逐棲姫や戦艦も、なんとか雷撃を阻止しようと砲撃を行っていた。

 やめろ、とばかりに深海棲艦達の咆哮が響き渡る。

 腹を揺らす声。本能的な部分が、抵抗を感じる。

 少し前に、夢で見た光景が蘇った。

 

 ――ケサナイデ。

 

 心の震えは、操縦桿の震えとなり、針路の震えとなった。雷撃機の右翼が少しだけ前に出る。進行方向と機体の向きがずれる、俗に『滑る』と呼ばれる現象だ。

 こうなると魚雷は当たらない。

 あの夢は、やはり正しかった。このまま続ければ、自分がやがて消えてしまうことを、サラは半ば本能的に悟った。

 その間も敵の計4門の連装砲が動き、サラの機体を追尾する。

 次の斉射は、艦載機の左右で爆発した。気を失いそうになる。

 風防には煤がついていて、どこからかオイルの匂いがした。昇降舵の油圧もおかしい。これでは回避行動もとれない。

 

《サラ!》

 

 無線機から、熊野の声がした。

 最近の、演習のことを思い出す。

 『信じます』と、彼女は言ってくれた。

 不知火や陽炎、川内、青葉もきっと今では自分に賭けてくれている。

 沖田も、最後には送り出してくれた。

 

(きえても、いい)

 

 ――どうして?

 

 頭の中に、自分ではない少女の声が響いた。それは出撃前の夢でも聞いた、出所不明の声だった。

 

(だれ)

 

 サラは、声に対して問いかけた。

 

(じゃま、するの?)

 

 ――邪魔はしない。ただ不思議なだけ。

 ――それに、私はずっとあなたの中にいたのよ。

 ――あなたが長い間気づけなかっただけで。

 

(きづ、けなかった?)

 

 ――そう。

 ――でも、今は違う。

 ――あなたは、あなた自身の思い出と意思を手に入れた。

 ――そうしてできた主観が、私を、あなたの中から切り分けた。

 ――目覚めてから、夢と現実が区分されるようにね。

 

 敵の空母ヲ級は、その間にも照準動作を続けていた。

 周りに数発をばらまいて、こちらの針路を制限している。敵の作った回廊の中を進まされるようなものだ。

 進む先には、すでに照準がされているだろう。

 黒々とした砲の穴が、奈落のように口を開けている。

 

(うたれる)

 

 思った瞬間、背後から強烈な光が差した。

 照明弾など問題にならない、強烈で、容赦のない光。

 朝日だ。

 それはサラの後ろの、東の空から差していた。

 敵の照準が幻惑される。砲撃が逸れて、機体の下の海面で炸裂する。多少煽られたが、それだけだった。

 相手にとっての逆光が、サラにとっては順光となる。

 サラの艦載機は、膨大な光の中を直進する。どうしてだか、ひどく昔――途方もない昔に、同じくらい強烈な光を浴びた気がしたが、それを思い出すことは叶わなかった。

 サラは投下スイッチに手をかける。

 背中を押すように、沖田の言葉が蘇った。

『回流丸の連中は、みんなお前が大好きだ』

 パイロット用のゴーグルの中に、液体が溜まった。

 あの時ちゃんと答えなかったことを、サラは悔いた。

 

「わたしも そう」

 

 それは深海棲艦が元々持っている、仄暗い感情とは違う。彼女が特別に持っている、空母『サラトガ』のものでもない。

 旅路の間に彼女が育てた、彼女自身の意思だった。

 

「すきだから たたかう」

 

 航空雷撃、第二射法。

 

「それがぜんぶ」

 

 少女の声がした。

 

 ――いい子ね、あなた。

 

 サラの中で、カチリ、と何かがかみ合った。針路の震えが止まる。照準装置の鉄枠が、標的を中央に捕らえている。

 雷撃機の腹が開き、魚雷が放たれた。

 着水、沈降、そして航走。

 深海棲艦を宿る、仄暗い思念のエネルギー。その最後の一滴(ひとしずく)が、航走する槍となって、標的に突き進んでいく。

 そこで、視界が真っ白になった。

 艦載機からサラの本体へと意識が戻ってくる。サラは海の先で、全ての力を使い果たしたかのように、雷撃機が海面へ墜落するのを目にした。

 

 ――終わりよ、『サラ』。

 

 

     *

 

 

 放たれた魚雷は、一度大きく沈み込み、やがて浮き上がる。調停深度に到達すると、それを維持したまま、一直線に突き進む。

 金に輝く空母ヲ級は、それを認識していたが、動くことはできなかった。面舵の始動に合わせたかのように右舷に至近弾があり、転舵を殺さざるをえなかったのだ。

 そしてその隙に、航空機の速度の乗った魚雷は艦船を圧倒する速度で、すでに足元にまで飛び込んでいた。

 接触、そして爆発。

 船で言えば、船尾に魚雷が突き刺さった形だ。スクリューの推力が失われ、舵も吹き飛ぶ。

 足の下にあった喫水線が見る見る持ち上がり、瞬く間に膝まで上がった。

 彼方から、駆逐棲姫と戦艦ル級の悲痛な叫びが聞こえる。戦艦の声には、爆発音も混じっていたから、きっと戦艦は沈んでしまったのだろう。

 彼女は沈みながら、ゆっくりと後ろを振り返った。

 

 朝日が出ている。

 夜明けの光が、何かの予兆のように、空に残された青黒い夜の領域を取り払っていく。

 その中を、敵である艦娘達が、自分に向かって航行してきていた。

 駆逐艦であろう、小柄な2人はグレーのベストを血液と煤で汚していた。軽巡であろう、オレンジの服を着た少女は、全身の砲をぐしゃぐしゃに壊されながらも、最後に残った魚雷を刺そうと、こちらに向かって波を蹴っている。薄紫の髪の重巡洋艦は、戦艦との殴り合いでやられたのか、一番手ひどい有様だった。魚雷管も砲も、全て鳥の巣のような形にひしゃげており、両手をだらりとさげながら、ゆっくりとこちらへ向かっている。だが航行を止めるつもりはまったくないようだ。

 そして、もう一人、茶色のブレザーと、亜麻色の髪を持った重巡洋艦。そいつは左腕の副砲を、敵である空母ヲ級に向け、右の肩を仲間に貸していた。

 その仲間もまた、空母ヲ級だ。全ての力を使い果たしたのか、その帽子からは光が消え、無機物のように沈黙している。人型の部分も、大きく肩で息をしていた。

 

 これは何の冗談だろう。

 艦娘と、彼女たち――深海棲艦――の協働。あってはならないと、本能が激しく嫌悪していた。怨念に象られた戦いの記憶が、その裏切りを激しく糾弾している。

 だが、そんな気持ちとは正反対に、不思議と安らいでいく部分もあった。

 今まさに、彼女は沈んでいる。

 空母ヲ級を突き動かし続けていた怨念が、ゆっくりと大気に放出され、光となって消えていくのだ。凝り固まった錆が剥がれていくように、一つ一つ、心のしこりが取れていく。

 最後に残ったのは、彼女の根本の記憶だった。

 

 敵の航空機に群がられたり、魚雷を横腹に食らったり、気化したガソリンが爆発したりしたけれど。その時は激しい気持ちが確かに存在したのだが。

 

 もう一度目を開け、敵の方を見る。艦娘が、深海棲艦に肩を貸していた。

 

 もう少しだけ長生きできれば、きっとこういう光景も見られたのかもしれない。それは『兵器』としては、まぁ、全く期待されていなかったことに違いないが。

 

 視界が霞んでいく。朝日が昇り、眩い光が網膜を焼いていく。

 生き残っていた電探が、新たな航空機の飛来を探知。西と、東の二方向から。

 東からのは、きっと別の艦娘――確か、翔鶴――の飛行隊だ。

 西の方は、誰だかは分からないが、きっと味方ではないだろう。誰だかは分からないが、ご丁寧なことだ。

 上を見る。

 緑色の飛行機たちが、朝日に翼を煌めかせ、急降下を始めている。戦闘機隊は善戦をしているが、舵が破壊されていては、普段なら避けきれるものも避けきれない。

 彼女は確かに爆弾が切り離される音を聞いた。

 灰色の娘の夢は、終わった。

 

 

     *

 

 

 数十メートルはあろうという水柱は、敵の旗艦の墓標だった。

 少しして轟音が空に響き、水柱が黒煙と水蒸気に姿を変え、それさえも消えてしまうと、海の上には何も残っていなかった。

 水柱を作り出した艦載機たちが、戦果を確認するように周辺の空を飛行している。

 

「やった」

 

 熊野は確信と共に呟いた。向けていた左腕の副砲をようやく下ろし、右肩に寄り添うサラを見やる。

 彼女は最後の雷撃に力を振り絞ったのか、肩で息をしていた。顔色は普段と変わらないように見えるが、随分とやつれたように見える。頭の帽子も、常に灯していた青い光を失い、無機物然としていた。

 

「翔鶴の艦載機ですね」

 

 青葉が言った。

 

「電探にも感がありませんでしたから、低空を、奇襲を狙って……」

 

 途切れた言葉からは、彼女が感じている苦痛が読み取れた。

 彼女は戦闘能力を喪失しているので、陣形を離脱し、熊野の方へ寄って来た。

 

「あれが来るってことは、第1艦隊も無事敵を切り抜けたってことですか」

 

「そう、ですわね。それは、間違いないと思いますわ」

 

 熊野は応じた。言葉が途切れ途切れなのは、激戦の痛みが遅れてやってきているからだ。

 

「くまの」

 

 サラが、弱く弱しく言った。

 

「もう だいじょぶ」

 

 そっと熊野から離れ、単艦での航行に戻った。熊野は少し心配したが、無事海を進んでいるようだ。

 航跡に沿って、青黒い体液が曳かれていく。痛々しい眺めだった。

 

「不知火、陽炎」

 

 熊野は、駆逐艦の2人に呼びかけた。

 

「駆逐棲姫の様子は?」

 

 すぐに陽炎から応答があった。熊野は発艦のために速度を上げたため、艦隊から突出する形となっていた。

 

《落伍しています。戦艦が撃沈されたポイントから、約5ノット程度で、我々と同じく北進しています》

 

 熊野は陽炎からの報告を聞く。

 最後まで遅滞戦闘をしていた敵も、雷撃機が敵のヲ級を捉えた時点で、驚愕のあまりか隙を晒したようだ。戦艦はその隙に川内の雷撃を食らい、駆逐棲姫も青葉の砲弾を受けた。

 戦艦は轟沈した。

 残った駆逐棲姫も速力を大きく落とし、砲に重大な損害を受けたため、完全に戦線から落伍したようだ。艦隊は常に進みながら撃ち合うため、一度戦線を外れた艦が再び脅威になることは稀だ。

 

《駆逐棲姫の所在は、電探で捉えています。追撃しますか?》

 

 不知火の具申に、熊野は頷いた。

 まだ戦いが終わったわけではない。1秒も無駄にせず、艦隊に次の指示を出さなければ。

 

《西方に、また味方機!》

 

 そこで、川内から通信が入った。見ると、西の空に航空機の機影がある。

 すでに太陽は昇りきり、真昼と変わらない日射を送っていた。その中を飛ぶ艦載機は、下から見ると妙に黒々として見える。

 だが機影は明らかに鎮守府の零戦であった。その後ろには、爆撃機や雷撃機もいる。

 

「翔鶴さん、随分大盤振る舞いですねぇ」

 

 隣で、青葉が呑気に言う。

 

「おかしい」

 

 だが、熊野は胸騒ぎを覚えた。

 本当に、翔鶴の艦載機だろうか? だとすれば、来る方向が少しおかしい気がする。なぜ東から翔鶴の飛行隊が来た後に、西からも――全くの逆方向からも同様の数の飛行機が来るのだろうか。

 計算が合わない。

 熊野は、翔鶴の艦載機を確認した。

 空で待機をしていた彗星艦爆や、流星艦攻が、しきりに新たに現れた航空機に対し、ピカピカと発光信号を送っていた。

 鎮守府の艦載機は、無線性能があまりよくない。だから、艦載機同士の情報のやり取りには、ひどく時間がかかるのだ。

 胸騒ぎが強くなった。

 もし仮に、西から来た艦載機が、全くこの戦場を知らない艦娘のものだったとしたら?

 サラの方を見やった。

 熊野達から少し離れ、艦載機の着艦作業を行おうとしている。だが灯の消えた帽子が反応せず、上手く行っていないらしい。熊野は、サラがいつの間にか杖を失っていることに気がついた。もうほんとうにヘトヘトなのだ。

 身に着けていたゼッケンなども、激戦でほとんど焼け落ちている。帽子に入れられた白いラインは、艦載機の突入による破口で半ば潰されていた。

 そしてその上空には、着艦待ちの深海棲艦載機が、蚊柱のように群がっている。

 着艦作業中の空母は、絶好の攻撃対象。

 西から来た艦載機達が、一斉にサラに向かってバンクした。

 艦隊を戦慄が駆け抜けた。

 

「だめ!!」

 

 熊野の悲鳴に、川内が即座に反応する。

 無線で呼びかけ、新しくやってきた艦載機に攻撃中止を要請するのだ。当然熊野もそれを試みる。

 周波数を合わせて、粗いノイズを越えて、あの空母ヲ級の価値を教えなければならない。だが航空母艦ではない熊野達は、その戦闘機たちに無線を送るのに通常以上に手間取った。

 背後を振り返ると、駆逐棲姫の頭が微かに水平線から上に見えていた。

 その幼い表情は、悪辣に笑っている。

 

(妨害電波――!)

 

 熊野は波を蹴った。何よりも強い危機感が、自身の身でサラを庇う選択肢を取らせた。

 だが艦娘と艦載機では速度は勝負にならない。

 

「サラ!!」

 

 熊野、川内、青葉、陽炎、不知火、それぞれの悲鳴が海に響く。

 サラには届いた。

 彼女は疲れた表情で熊野達に目をやり、そして、自分に向かってくる無数の雷撃機と爆撃機を捉えただろう。そしてそれが、もはや避けられないことも。

 降り注ぐ爆弾と、海中を進む無数の魚雷。

 サラの体に慈悲のない鉄塊が幾つも侵入し、その体が波の上で爆ぜたような気がした。

 心臓を掴まれたような喪失感が来た。

 背後を振り返り、艦隊と、空の航空隊、そして遠方の駆逐棲姫を視界に納める。あまりにも出来事が唐突過ぎて、何をすればいいのか、何に怒ればいいのか、心が千路に乱れた。

 艦隊は一瞬の放心状態だった。

 上空の、翔鶴の艦載機も同様だ。サラが形見のように残した艦載機も、零戦に片っ端から食われている。

 その零戦の動きは、明らかに発艦前に明確な『目標』の指示が与えられていたことを想像させた。普通は、直前に戦っていた味方機からの指示を待つものだ。

 

「サラ」

 

 熊野の口から、音が漏れた。彼女がいた海面には、初めから何も存在していなかったかのように、もう何も残っていなかった。

 涙で視界が歪む。

 

《こ、こんなのって》

 

 陽炎の悲痛そのものの声が、無線機に乗った。

 その間に、駆逐棲姫が反転する。

 彼女を追わなければ。でも、サラはどうすればいいんだろう。

 サラ。

 助けなければ。

 でも、旗艦として、『死んだ』相手を思うのは許される遅延なのか。司令船に救助を――だめだ、遠すぎる。

 その時、熊野はふと、視界の隅で青い光を捉えた。

 それは深海棲艦が沈むときに発する光であったが、その一部が海上に漏れていた。そしてその辺りの海に、ほんの一瞬だが、触手の一部のような物体が見え、海に沈んでいくのが見えた。

 

(まだ、浅いところにいる……?)

 

 迷っている時間はなかった。

 何をすべきか。それは少なくともこの瞬間だけは、熊野が何をしたいかと同義であるように思えた。

 

「青葉」

 

 熊野は決断した。

 艤装から曳航索を伸ばし、傍にいた青葉に手渡す。

 

「おっしゃいましたわよね?」

 

「え?」

 

「今回こそ、わたくしの曳航をやりたいと」

 

 熊野は困惑する青葉の手を引いて、主機を一杯にした。サラが沈んだ辺りまで来て、艦隊に指示を出す。

 

「今から、旗艦を川内に委譲いたします!」

 

 川内はすぐに気づいたようだ。

 

《分かってる? それ(、、)やると、上がってきても、あんたはもう戦力になんないよ》

 

「守ってくださいまし」

 

 やれやれ、と川内は笑ったようだった。熊野は艦隊全員へ告げる。

 

「わたくしは、彼女を引き揚げてみます。川内、あなたは陽炎と不知火と一緒に、駆逐棲姫を追いかけて。対水中戦闘」

 

 無線機から、了解の声が来た。これで、熊野は旗艦の荷を下ろした。

 青葉に向き直る。

 

「さて」

 

「……分は悪いですよ」

 

 熊野は頷いた。

 でも、できないことはないはずだった。というより、熊野は一度やっている。サラにはそれをするだけの価値もある。

 

「青葉、合図をしたら引揚げて。司令船にも、戦果と救助の打電をお願いしますわ」

 

 言って、ブーツを靴底に取り付けられた主機そのものと一緒に脱いで、青葉に手渡した。機関に埋め込まれた動力源、通称『缶』も少し迷った末にパージする。海中では水蒸気爆発の危険がある。明石にまた怒られそうだ。

 浮力と、推進力。

 艦娘を艦娘たらしめている、重要な二つの力が失われる。

 バシー海峡で沈んだのと同じ状況を、熊野は自ら再現したのだ。

 やがて身に着けていた砲や装甲板が、重石として機能し始める。

 

「気を付けて」

 

 青葉の声を尻目に、熊野は身に着けた鉄塊に引かれて、海中に没した。南洋の水は温かい。

 やがて下の方で光る青いものを捉える。やはり、まだ完全には沈んでいない。

 暗くて手足があるかどうかさえ判然とせず、滑らかだった帽子は岩石のような歪な凹凸に姿を変えていたが、サラらしき存在はまだ致命的な層には達していなかった。

 生きていてほしい。

 そして引揚げるのだ。なんとしてでも。

 

(サラ!)

 

 熊野は念じた。

 半生物である深海棲艦よりも、鉄塊そのものを纏った艦娘の方が沈むのは早いようだ。こちらの沈降速度は、ほとんど落下だ。やがて、手を伸ばせば届きそうな、すぐ下の位置にサラが来る。

 帽子に手が届いた。そのまま手を這わせて、右手で髪を掴み、頭を抱きかかえるように抱え込む。ふと見えたサラの手を掴むと、それはちゃんと肩に繋がっているようだった。

 生きている。おそらくは。

 曳航索を引いて、青葉に合図を送る。同時に砲や装甲を次々と海中に捨てて、身軽になった。

 

 くまの。

 

 サラの声が聞こえた。

 その瞬間、ぞっとするような青の光が視界を埋め尽くした。

 

 きては、だめ。

 

 反射的に彼女の手を放そうとした。だが、手は動かない。まるでくっついてしまったかのように、熊野とサラの体が離れない。

 周囲にある青い光には、よく見ると人間の顔のような模様がある。水が入って、幾分遠くなった耳を澄ますと、なにかのささやき声のようなものも聞こえる。

 ここは海に沈んだ思念が流れる、深海棲艦だけが通行できる海流だ。深海棲艦が活動をすると、この海流がどこからともなく一定の深度に現れるのだ。

 最初に彼女と出会った、あのバシー海峡での出来事と同じだった。

 でもあの時沈んでいたのは熊野で、今沈んでいるのは、空母ヲ級――『サラ』の方だ。

 ここでは、たった一人の意識などちっぽけなものだ。

 大海に翻弄されるボートのように、ひっくり返され、まき散らされ、流れの一部になってしまうだろう。

 海底に敷き詰められたのは、鉄だけではないのだ。

 有史以来人々が沈めてきたこの思念の山こそが、現代の海が持つ力の源ではないのか。

 どんどん頭がぼうっとしていく。

 酸素が欠乏しているだけではない。何かが、熊野の中に入ってこようとしているのだ。

 耳元で囁く声はどんどん大きくなる。締め切られた部屋の外から、『開けて』、『開けて』と何かが呼びかけている。

 

(サラ!)

 

 念じながら、熊野は対抗心をかき集め、曳航索を引いた。青葉への合図だ。

 ここは、長くいられる場所ではない。

 だが索が動く気配がない。

 気づいたが、索はすでに限界まで張られている。青葉はとっくに全力でこれを引いているのだ。

 

 くまの、だめ。

 まだ、さかいめに、いるから。

 

(境目?)

 

 サラが、熊野の方に顔を向けた。微かに目が明いているだけで、驚くほど生気がなかった。

 その顔が、一瞬、斜めに歪む。

 青い光がさらに輝きを増し、完全な白となる。やがてそれは暗転に変わり、未知の映像がゆらゆらと蜃気楼のように立ち上がってきた。

 ここではないどこか、南洋の小さな島の映像だ。海に様々な艦が浮かべられ、熊野はその中の1つの甲板から情景を認識している。

 その中には知っている、というよりも見て何か分かる艦もあった。一際艦影が大きく、艦橋から左右に測距離儀を生やした艦――あれは、戦艦『長門』か。全ての武装を解除された哀れな姿だが、艦娘の彼女に通じる誇りと威厳がある。

 次々と言葉がやってくる。

『一億分の一秒』

『次にこの力が振るわれるのは、せめて――』

『夢は、そこから始まるのです――』

『そうあれかし』

 思っている内に、景色が再び光に侵された。

 今のは、サラの記憶であったのかもしれない。そう言えば、ここ数日このような経験を何度もしている。

 サラが言った境目というのは、熊野が艦娘と深海棲艦の境目に入ってしまっている、ということか。

 頭の中に声が響いた。サラの声だったが、いつものたどたどしさはなく、はっきりと意味が聞き取れた。

 

 私達を呼んでくれてありがとう。

 私達は、本当は、自分が誰だか分からないから。

 

 背中で、残っている艤装が異音を発した。

 

(そう言えば水につけるなって明石さんが――)

 

 しかし明石が誰なのかさえ、すぐには思い出せなかった。

 

 あなたたちに鎮めてもらうまで、私たちは同じ夢を見続ける。

 でも、あなた達のおかげで、私達とこの子は名前と意思を思い出すことができた。

 

 背中で艤装が動いている。まるで子供がいやいやをするように。ブーツを脱いだ今も、発生するはずのない浮力を生み出そうと奮闘しているのかもしれない。

 行きたくない、行きたくないと言っているのが分かる。

 

(そうだ)

 

 拡散していた意識が再び集まり、熊野は知覚を取り戻した。すでにどれだけ深く潜ったのかは分からない。周囲は青一色だ。

 でも、熊野は帰らなければならない。

 故郷や、鎮守府での出来事が、ここで終わることを許さない。

 視界が復活し、目の前にサラの貌が浮かんだ。

 

 かんむす、すごいな。

 ぱわーの、みなもと。

 

 力の源。

 一瞬なんのことか分からなかったが、熊野はかつて同じ質問をサラから受けていたことを思い出した。

 

 でも、わたしはだめ。

 

 サラの顔が変わった。穏やかな雰囲気が消失し、眉間に皺が寄り、犬歯が剥き出しになる。そして茫洋とした大きな瞳に、タコやイカのような横長の瞳孔が露わになった。

 それは、深海棲艦の貌だ。以前、提督室で見せたような、悪鬼そのものの表情だ。

 深海棲艦を象るのは、憎悪と怨念の力。

 彼女はきっと、最後にそれを振り絞ろうとしている。

 

 ありがとう、くまの

 

 サラは、かき集めた最後の力を、自らの意思で熊野のために使ってくれた。

 水の中でサラのぼろぼろの体が激しく動き、熊野の手を振りほどき、その体を水面に向けて突き飛ばした。

 熊野はそれでも彼女を引き揚げようとしたが、伸ばした手は、サラの首筋を搔くだけだけだった。悪あがきのひっかき傷だ。

 

 さよなら

 

 サラの体は青い光の中に、呑まれて消えた。

 同時に、熊野の体を引っ張る曳航索の力が強くなる。まるで、引手がもう一人増えたみたいだ。

 熊野の体は曳航索によって引き揚げられ、仲間たちの元へ戻っていく。その間ずっと熊野はサラの名前を叫んでいたが、海の中に、その声は泡となって溶けていった。

 やがて、海面上に出る。朝日が熊野を包み込む。

 随分と飲んでしまった海水を吐き出すが、口の中の塩味が消え去る気配はなかった。

 後遺症なのか、頭がくらくらする。

 夢中で伸ばした手を、誰かがしっかりと掴む。

 

「おかえり、熊野」

 

 意識を手放す直前、熊野はその手触りを、なぜか懐かしいと感じた。

 

 

 レキシントン級の航空母艦が着任したという報告が、全世界の海軍を駆け巡ったのは、その数週間後だった。

 

 




これで本編はおしまいです。
あと幕間劇が1つと、エピローグで完結となります。
お盆休み中には、全て完結させたいところ。

瑞鶴好きな方、このような役回りで本当に申し訳ありません。

俺、このSSを書き終えたら、悪雨に会いに行くんだ……。



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