東シナ海の戦い。ついに熊野達は敵の本隊を補足、戦闘に突入する。
お嬢様重巡と、平和主義の深海棲艦、そして暴走する実験泊地。
それぞれの思惑が、海域の中で激突する。
(今回は、同日中の連続投稿になります。追って5-5が投稿されますので、
後半は少しお待ちください)
サラは体の中に、かつてない熱を感じていた。
自分の意思で、仲間と共に戦っている。そしてそれを待っている人がいる。
サラは、目の前の空母ヲ級に捕まった艦載機が、どういう目に遭ったのかよく分かっていた。あの弄ぶような手つき。きっと、ひどいことをされたのだ。
そしてこいつを放っておくと、同じくらいひどいことを、熊野や、沖田達にするだろう。
許せない。
サラは杖を握り、頭の帽子を叩いた。帽子が気だるげに――もはや病的なほど億劫そうに口を開け、艦載機を吐き出す。
戦闘機と爆撃機を発艦させ、最後に雷撃機を空に向けて放つ。
放たれた先の空には、夏の月が浮かぶ、南洋の美しい夜が満たされていた。散りばめられた星々は生き物のように輝き、その下の空気を放たれたサラの艦載機が泳いでいく。
排気煙で描かれる航跡は、低温の炎に似た青の色。
艦載機が4機ずつの編隊に集まり、その
敵の艦載機も同様に、隊形を完成させる。敵の艦載機は、毒々しいほどの金の輝きを帯びていた。
さぁ、戦いだ。ここから、自分たちは生まれてきたのだ。
「そこを」
呟き、サラは艦載機に主観を切り替えた。
「どいて」
熊野は前に出た。
駆逐棲姫も前に出る。そして煙幕を展開する。
駆逐棲姫らを飛び越えて、空母を直接砲撃されるのを避けるためだろう。熊野の後ろで、陽炎と不知火もサラを守る煙幕を展開していた。
敵艦隊との相対距離は3キロ弱。お互いが南を目指す同航戦だ。
駆逐棲姫の姿が、チカチカと光った。砲撃を開始したのだ。
「上等、ですわ」
熊野も砲撃をする。
川内の夜間偵察機が相手に向かって飛び、夜間触接を開始する。着弾観測の精度が上がり、艦隊の砲撃が駆逐棲姫の至近に集中する。
だが彼女が速度を緩める様子はない。巧みに艦を操って、致命弾を回避している。彼女にとっては、もはや水柱は壁のようにそそり立ち、着弾音は腹を突きあげるように響くはずだったが、それを意に介するそぶりもなかった。
「すっごい練度だね、って」
認める川内を、駆逐棲姫の至近弾が襲い、その息を詰まらせた。
駆逐棲姫の随伴艦も砲撃をするが、こちらはまだ当たらない。敵には戦艦もいたはずだが、駆逐棲姫の練度だけが、ずば抜けて高いのだ。
「強敵ですねぇ」
青葉が言う。
熊野は、念のため訊いた。
「大丈夫ですの?」
彼女は駆逐棲姫と昔の仲間を重ね合わせているフシがあった。
「大丈夫ですよ」
信じるより他なかった。熊野は不知火に、反転とサラの護衛を命じ、駆逐棲姫との砲撃戦に突入した。
沖田の支援が受けられない、サラの航空戦が気がかりだった。
*
サラは意識を艦載機に飛ばす。
今回操る機体は、雷撃機でも、爆撃機でもない。戦闘機だ。
上空に控え、戦況を俯瞰する戦闘機部隊の隊長機であれば、沖田の指揮がなくても比較的戦況を把握しやすいだろう。
熊野が不知火を派遣してくれたため、彼女の目も頼りにできるのは有難い。
強化されたサラの能力も、深海棲艦としての本分を発揮し、艦載機の各機の位置を正確に把握させていた。丁度、暗闇でも自分の手足の位置が分かるようなものだ。
眼下では、すでに戦いが始まっていた。
雷撃機を戦闘機が追い、それをその護衛戦闘機が追い払おうと奮戦する。急降下に入ろうとする爆撃機を、戦闘機が撃墜する。吹き飛んだ翼が別の機体に当たり、コクピットとエンジンをバラバラに分解させながら夜の海へ消えていく。
まるで花火だ。
ぱっと炎が弾ける度に、彼らの命は消えていく。だが、それでも戦うのだ。記憶を頼りに、彼らの夢が続く限り。
終わらない戦いの夢。それが深海棲艦の生きる世界だ。
《航空戦――どうですの?》
熊野が訊いた。無線の一部は、砲撃音でかき消されていた。ノイズもひどい。
「ごぶごぶ」
《夜間戦闘は、視界が制限――満月とはいえ、ご注意を》
熊野の通信が切れた時、彼方に機影を捉えた。金色の排気煙、つまり敵だ。
戦況は完全に乱戦になっており、新たな援護は期待できない。しかしそれは敵も同じで、向こうは1機だけだった。
落とすしかない。
サラは決断した。
コンビを組んでいるもう1機の味方機と示し合わせて、敵への突入針路を取る。
高度はほぼ同じ、3000メートル。ヘッドオンで機銃を撃ちあい、決着がつかずにすれ違う。
同位戦だ。
過給機でエンジンに活を入れて、操縦桿を倒す。下降によって得られた速度を使いながら、素早く旋回、相手よりも早く敵の姿を照準器の中に入れた。
相手の未来位置へ、見越し射撃。
サラが放った機銃弾の中に、敵の戦闘機が自分から突っ込んだように見えた。
エンジンに被弾、そして爆発。
サラは列機とコンビを組み直し、もう一度周囲を索敵した。
すると今度は、敵の2機小隊がこちらに向かってくるのが見えた。
(しつこい)
サラは操縦桿を倒した。
飛行機の戦闘は、上昇と変針、そして速度のトレードオフ関係を巧くコントロールする必要があった。
敵を追い、逃げるにも速度が要る。
だがその速度は、上昇や変針といった動きで損なわれる。では逆に速度の源とは何か。それはエンジンが供給する推進力であり、機体の高度による位置エネルギーでもある。
そこでは速度と高度は、弾薬や燃料と同じように、備蓄可能で用途を考えながら切り売りしなければならないものだ。プロペラからの推進力と、高度による位置エネルギーを、どのように変針、上昇、あるいは下降に割り振るか、という計算をしながら空戦をやらなければならない。
サラは操縦桿をさらに下げた。機首が一瞬、ほとんど真下へ下がる。海が見え、速度が上がる。
なぜこんなことをやったのかというと、敵が見失うのを期待したからだ。一度撒いてから食いつく方が、ずっと勝率は高い。
後ろを取り合うドッグファイトは、速度を失い続ける上、傍から見ればいい的だ。
だが背後を振り返ると、敵はぴたりと着けている。どころか、いつの間にかその数が4機に増えていた。隊長機であることを見抜かれたのかもしれない。
僚機のもう1機はまだついてきているが、状況は似たようなものだ。
仕方ない。さらに高度を下げて、艦隊戦のど真ん中へ向かう。一瞬、眼下に熊野の亜麻色の髪が見えた気がした。
《戦闘機!?》
誰かが吃驚する声がした。確か、陽炎だ。
「それ わたし」
《紛らわしいなーもう!》
苦笑しつつ、敵味方の艦隊の間を抜ける。曳光弾が海面に刺さり、主砲の弾着が水柱を作る。風防のフレームは、その度にがたがたと揺れた。ガラスに水滴も着く。
《サラ!》
川内の声がした。こちらも、ひどいノイズだ。
《追われてるなら、私に向かって―― それで、合図で離脱して!》
「え」
《いいから! 来て!!》
言われた通り、サラは川内に向けて変針した。
彼女の姿がどんどん近づいてくる。
《今! どいて!》
機首を上げる。その瞬間、川内が探照灯を照射した。
猛烈な光。
サラは難を逃れたが、彼女を追跡していた敵は、膨大な光をもろに食らった。視界は一瞬で白熱し、操縦などできるはずもない。
2機は海に突っ込み、黒煙と水柱と化した。もう2機は川内の耳元を通り過ぎ、よたよたと蛇行を繰り返した末、やがて海に不時着した。
《無茶しますねぇ》
青葉の言葉に、川内が笑う。
《夜戦ビームと名付けようかな》
言い合う間に、戦況が動く。不知火が悲鳴を上げた。
《サラ! 回避を!》
意識を艦載機から離し、肉体に戻す。
その瞬間、五感が復活した。
足から伝わる波を砕く衝撃。南洋の風。硝煙とオイル、そして体液の匂い。
そして、音だ。
高角砲の音だ。不知火の声。
これは――対空砲?
「敵機直上! 急降下ぁ!」
*
《敵機直上! 急降下ぁ!》
不知火の言葉に、艦隊の注意が上を向いた。
戦闘機の防空網を抜け、上空にたどり着いた敵機があったのだ。夜とはいえ、満月だ。急激な機体制御を求められる急降下爆撃も、ぎりぎりで可能かもしれない。
駆逐棲姫が、狙ったように照明弾を艦隊に放つ。
爆撃の成功率がさらに上がった。
艦隊に、次々と爆弾が投下される。対空射撃と視界の悪さ、そして熊野達の艦隊運動の巧みさで、ほとんどはただ海面の水を穿つだけに終わった。
サラの戦闘機部隊も奮戦し、ぎりぎりまで艦隊を守ってくれた。
だが、代償はあった。
振り返った熊野には、それが流れ星に見えた。
高角砲が命中した敵の艦載機が、夜空を燃えながら下降していく。その先には、必死に弾幕を張る不知火の姿があった。
《不知火!》
陽炎の悲鳴。不知火のすぐ後ろで、彼女の援護を受けていたサラが動いた気がした。
爆発、そして閃光。
それには、今までになかった金属がひしゃげる音も乗っていた。
寒気と共に、熊野は煙が晴れるのを待つ。サラが帽子から黒煙を上げ、大きく姿勢を崩していた。
「サラ!」
叫ぶと、艦隊の注意が彼女に向いた。
弱弱しい声が来る。
《だ、だいじょぶ》
「そんなわけないでしょう! 艦載機の突入を受けたら――」
《で、でも、みんな、ぶじ》
熊野は察した。
サラはひょっとして、自らの回避を犠牲にしてまで、戦闘機の指揮に注力していたのではないか?
確かに、危ない瞬間だった。だがそれで、防空戦の要の空母が中破しては意味がない。さらに言えば、駆逐艦を空母が庇うなど、あっていい話ではない。
「艦載機は!?」
《なんきか なかに、のこってる でも、ゆうばくはなし》
魚雷や爆弾を満載した機体が、誘爆するという事態だけは防げたらしい。
《発艦は? 確か深海棲艦の空母は、中破してても艦載機を飛ばせるって》
陽炎の言葉は、いっそ縋るようだった。
深海棲艦の空母には、カタパルトのような機構があり、中破してからも発艦ができるようになっていた。これは提督や艦娘であれば、交戦による事実という形で誰でも知っていることだった。
だがサラは、済まなそうに続けた。
《はっかん》
「え」
《はっかんできない。ぼ、ぼうし、う、うごかない》
艦隊に緊張が走った。
駆逐棲姫と、敵空母ヲ級の視線を感じる。戦果を図っているのだ。遠からず、こちらが航空戦で不利を蒙ったことに気づくだろう。
《なんてことを――》
粗いノイズの下でも、不知火の呟きは聞こえた。自分に言っているようにも聞こえたし、サラに言っているようにも聞こえた。
「どうします?」
敵艦へ誤魔化しの砲撃をしながら、青葉が訊いた。
迷うことはなかった。
「サラ。すでに空にある機体で、爆撃と、雷撃はできまして?」
《らいげきは だめ ばくげきは、できる》
どうやら足の遅い雷撃機は、戦闘機に食われたらしかった。だが報告によれば、爆撃機はすでに敵艦隊の直上を捉えている。
お返しだ。むしろ、勝機は今だ。
「全艦突撃! 水雷戦隊を無力化します!」
叫びと共に、取り舵を切った。マストのランプが明滅し、その灯りを海面が写す。
敵艦隊の直上で、無数の翼が翻る。反射した月光が、夜空を切り裂くように閃いた。
急降下爆撃の相方、雷撃機はいなくなっている。だが艦娘はいる。艦娘の雷撃で、雷爆同時攻撃のコンセプトを成立させるのだ。
敵の砲火が激しくなる。だが対空戦闘との両睨みでは、限界があった。
サラの機体が爆撃を開始。
「魚雷、斉射を」
「まだです!」
逸る川内を、熊野は押さえつけた。急降下爆撃の回避方法は、一つだ。適切なタイミングでの転舵だ。
ではその転舵を読み切り、未来位置に魚雷を送り込むことができたら、必ず命中するということだ。
やがて、敵が転舵した。
測的結果は、右20度の回頭。
敵の針路と、艦隊の針路、そして敵に直行する魚雷。3つの直線が描く三角形の方程式を、艤装の記憶が解き明かした。
「てぇ!」
熊野の号令で、魚雷が一斉に放たれた。酸素魚雷が雷跡も残さず、敵へ向けて扇状に広がっていく。
敵は迷うだろう。魚雷と爆弾、どちらを回避するか。そして迷ったばかりに、選択肢はゼロとなる。
オレンジの光が、敵艦隊で明滅した。砲撃の光ではない。魚雷の着弾だ。
水圧で圧縮された爆発のエネルギーが、敵の船底に叩きつけられる。竜骨の折れる音が、断末魔と共に夜の海に轟く。
「敵艦、撃破! 軽巡1、撃沈! 駆逐艦も1隻撃沈、1隻大破、落伍していきます!」
航空戦の兵力は互角で、急降下爆撃を仕掛けたのも敵と熊野は同じだった。が、水雷戦隊との連携という点では大幅に優っていた。それが戦果の差につながった。
しかし、
「戦艦は中破! 駆逐棲姫も健在、健在です!」
熊野は唇を噛みしめた。
戦艦は黒煙を吹き上げ、ゆっくりと落伍しつつあったが、射程が長いため無力化するまではまだかかる。
駆逐棲姫も、煙を出している。ダメージがないわけではない。だが、駆逐艦にしては異様に固すぎるのだ。敵の回避運動の巧みさをとっても、恐らくこれと同じ攻撃をもう一度繰り出す必要がある。
しかし、肝心のサラがこれでは――
「サラ、発艦は――」
《むり》
急がなければ。
敵を見ると、空母ヲ級が艦載機を集合させている。魚雷と爆弾を補給して、また攻撃を仕掛けてくるつもりだ。
川内や青葉も砲撃をしているが、夜間に回避に徹する相手には不十分だ。
決め手が要る。相手が想像もしていないような方法で、相手に痛打を浴びせる方法が。
熊野は、艦隊の位置を確認した。
先ほどの雷撃の後、敵艦隊は取舵で熊野達から離れる針路を取った。すでに駆逐棲姫が煙幕を再展開しており、先ほどまで見えていた空母ヲ級の姿も隠されている。
青葉が悲鳴を上げた。
「電探の観測結果です! 敵空母、逃げてます! 艦載機を集めながら、北上!」
戦力の半数の損失は全滅だ。敵は水雷戦隊の損耗を鑑み、高価値目標の空母の逃走を始めている。
(思い切りのいい!)
敵が逃げたことを喜ぶものは、艦隊にはいなかった。
空母さえ生きていれば、その索敵力と打撃力で東シナ海の輸送に深刻な憂いを与え続けることができる。敵の多くを撃破したとしても、詰まる所あの空母を落さない限り、それは戦略的な敗北なのだ。
敵は、石垣島を諦めた。
だがそれだけでは、敵が取りうる『勝利』のラインナップから、最も望ましいものが一つ消えただけに過ぎない。
今すぐ、空母を追わなければ。だがそれには、駆逐棲姫と戦艦が立ちふさがっている。
もはやわが身を顧みず、最後まで遅滞戦闘をするつもりだ。その間にも、煙幕の向こうで空母の反応が遠ざかっていく。
それに、遠からず航空攻撃が再来し、この艦隊の誰かに今度こそ決定的な破壊をもたらすだろう。
(どうすれば……)
突破力のある作戦が必要だ。
駆逐棲姫の煙幕を突き破り、戦艦と戦闘機部隊を抜け、逃げる空母を突き差す、槍のような作戦が。
熊野は、はたと自分の左腕を見た。そこには、今日の朝『瑞雲』を飛ばした飛行甲板がある。水上機用のカタパルトも。
重巡の火力を捨てて、熊野が得た、飛び道具だ。
(カタパルト――)
熊野は決断した。
川内以下、仲間に考えていることを打ち明ける。
多くは驚いた反応だったが、不可能と断じるものではなかった。一度、瑞雲を使ってではあるが、成功した話でもある。
「みなさん……わたくしを、旗艦として」
熊野は言い直した。
「わたくしと、サラを、仲間として、信じていただけますか?」
返事はすぐに来た。
やれ、いいよー、とか、了解でーす、とか思い思いのものではあったが、それだけに飾りのない気持ちを感じた。
振り返ると、サラも確かに頷いた。
熊野は旗艦として宣言する。
「わたくしも、あなた方を信頼します」
背中の艤装が、小さく唸りをあげた。
*
駆逐棲姫と呼ばれる彼女は、主機を一杯にして海原を走っていた。
全てが懐かしく思えた。
潮の流れや、飛んでいく景色。初めて来るはずなのに、どこか既視感がある。
それは高揚感となって集中を呼び、かつてないレベルでの操艦を可能にしていた。
一列に並んだ敵艦隊が、チカチカと光ると、それが砲撃の合図だ。水柱がそそり立つ。至近弾の衝撃は、巨大なハンマーに等しい。
でも、楽しい。親しい仲間とダンスを踊っているかのように。
それに最初は気づかなかったのだが、敵の中に見知った顔がいるような気がした。あくまで気がするだけで、それが誰かは分からなかったが。
でも、とすれば、『彼』もいるのだろうか?
いや、彼って誰だろう。そもそも、私は――。
空母ヲ級は、艦載機の集合と、戦域からの離脱をほぼ完遂しつつあった。
艦娘と駆逐棲姫の撃ち合いは、5キロ後方まで遠ざかり、艦娘達の姿は水平線の下に消えつつある。
後は、仲間に遅滞戦闘を任せて、潜航すればいい。この広い海で隠れることに徹した人間大の生き物を探し出すのは、難しいだろう。
この海域の長は、空母ヲ級だ。彼女が死にさえしなければ、また海域を支配しなおし、通商破壊を再開することさえできるだろう。
もっとも、イシガキを確保する場合に比べて、よほど規模は小さく、再開も遅くなるだろうが。
少なくとも憂慮は与え続けることができる。
だから、あと数キロ。いや、千メートルでもいい。
それだけ逃げてから潜航すれば、確実に追っ手を撒けるだろう。
相手がこちらが消えたことに気づき、ソナーを使う頃には海中の変温層を通り過ぎている。
状況は、さらに悪化修正。
だがまだ、最悪ではない。少なくとも、東シナ海に空母を残し、潜在的な脅威であり続けるという道が残されているのだから。
しかし、気がかりなこともある。
電探は敵艦隊が少しの間、陣形を変えていたことを掴んでいた。
旗艦の重巡が、空母に少しの間寄り添っていたようだ。援護するには妙な組み合わせだし、何より、発艦能力を失った空母にそれほどの戦術的な価値はない。
それに、新たな不安要素もある。
北方の諸島内で、翔鶴達を相手にしていた味方艦隊が、先ほどついに通信途絶した。
もし、仮に。
仮に、北方の諸島内にいる翔鶴が、まだ艦載機の発着能力を保持していて、南へ向けて残った艦載機を飛ばしていたとしたら。
あのブラウンの相貌が、同じ相手を二度逃すことを許すとは思えない。
「マズイ、ナ」
援軍が来るまでに、水の中に消えてしまうのがベストだ。
その意味で、敵にも、こちらにも、時間はない。運命というものがあるのだとすれば、今それは間違いなく時計と羅針盤の形をとっていた。
西の方――台湾方面に飛ばした索敵機もまだ帰ってきていないが、そちらの回収は諦めるしかなさそうだった
*
「やった!」
駆逐艦『綾波』は声を出す。
すでに夜は白み始めている。その視線の先では、綾波の砲撃を至近距離で受け、轟沈していく鯱のような駆逐艦の姿があった。
「あ、綾波……」
その少し横で、周囲を警戒しながら、天津風が頬をヒクつかせる。
「あ、あんた、そんなに凄かったのね」
「そうですか?」
綾波はきょとんとする。頬には深海棲艦の青黒い体液が付着していた。
2人は司令船『国崎』の護衛駆逐艦で、司令船へ群がってくる深海棲艦を追い払っている最中だ。なお、司令船自体は快速にものを言わせて海域の中の移動を続けている。
深海棲艦の拠点へ突入した翔鶴達には、暗号で合流地点の変更を告げてあるはずだが、こちらもうまく行くかはリスクが残るところだった。
「あれ」
ふと、天津風が声を出す。その視線は、白み始めている水平線の彼方へ向けられていた。
「飛行機だ」
「え」
綾波も確認する。確かに水平線の少しだけ上を、無数の黒点が滑るように移動していた。まだ距離があって、海面付近はまだ暗いために綾波達に気づいたそぶりはなかった。
綾波は彼らと連絡を取るべきか迷った。
所属も不明、目的も不明。
まず味方であるかどうかも疑わしい。
せっかく当面の敵を排除しきり、電波的に死んだ状態となって雲隠れする道も見えてきたというのに。交信を試みて敵だったら、わざわざ敵を呼び寄せてしまうことになる。
「司令船に連絡を」
とりあえず綾波は、天津風にそう命じた。あれほどの数の艦載機が味方なら、司令船が何かを掴んでいると思ったのだ。
しかし、司令船からの返答はなかなかない。その間も艦載機の大群はどんどん見えなくなっていく。
(意見でも、割れているのかな)
嫌な予感がした。
最後の砲弾を放ったのは、阿武隈か、伊勢か、日向か。いずれにしても、3方向から放たれた砲弾は等しく最後の巡洋艦に吸い込まれ、諸島内での戦闘は終わりを告げた。
翔鶴が命じると、各々から損害報告が来る。
その情報を頭に入れながら、翔鶴は戦果も確認する。
海域のそこかしこに浮かぶ深海棲艦の死骸。それらは、夜間からずっと燃えている炎で灼かれている。油が燃える匂いが充満し、視程は芳しくない。
戦果と損害の釣り合いでみれば、ひいき目で戦術的な勝利といったところか。なにせ最重要の空母が逃げている。
艦隊の面々はいずれも傷を負っていて、切り抜けた、というよりは死ななかった、という事実を取り出した方が正確かもしれなかった。
「南だったわね」
翔鶴は、ぽつりと呟いた。
彼女も傷を負っていたが、弓を番える動作に淀みはない。
月はすでに沈んでおり、空は黎明の色に染まっている。その中で、燃え残りの炎が彼女の背に影を生んでいる。
翔鶴の姿は、青黒い空に投影された影絵のように見えた。
「もう、逃げられない」