東シナ海の戦いは、佳境を迎えていた。
その時、人類に友好的な空母ヲ級『サラ』の体には、異変が起きていた。
このまま戦い続ければ、消えてしまうかもしれない。
だがそれでも彼女は、口をつぐみ、出撃を選択する。
日 時:8月15日23:34(明石標準時刻)
作 戦 領 域:石垣島 近海
司令船『日笠』 中央情報司令室
コンディション:風南2、積雲1、視程93、海上凪
「ふざけないでいただきたい」
沖田はもう少しで机を叩くところだった。
目の前では、純白の士官服の面々が沖田と同じように机を囲んでいる。熊野の上官――第7戦隊の司令官もいたし、それ以外の者も、中佐以下はいまい。
だがそれでも、例え自分が一介の予備士官であろうとも、沖田は口をつぐむ気はなかった。
前線の会議での発言力は、背負った階級以上に、実際的な影響力が重視される。人類に友好的な空母ヲ級にして、貴重な正規空母、『サラ』の担当者としての迫力は、軽く2、3階級は飛び越えて通用するらしい。
「ヲ級を――あの、サラをもう一度前線で使うつもりですか」
「そうです」
答えたのは、第7戦隊の司令官だった。この中では最先任だ。
年齢不詳の顔立ちで、押しも弱そうだが、そのくせ意外と芯がある。
「無線の内容は、お伝えした通り。非常事態です」
「よく言う。護衛にする駆逐艦も足りないとは、方便ですかな。要は、回流丸と一緒にサラを司令船に留めておく口実が欲しかったわけだ」
「それは」
司令官が鼻の頭を搔いた。
沖田は追撃する。海軍に容赦するつもりはなかった。
「あいつは、貴重な存在のはず。もう傷が癒えたのであれば、前線に出すのは可能な限
り避けていただきたい。当初の契約では、あいつの役目はあくまでも偵察に限定されていたはず」
「いえ」
別の士官が、口を挟んだ。
「そういうわけには、いきません。提督の意思は、あくまでも、あの空母ヲ級の実戦投入。提督が戦力として見ている以上、我々も同様に扱います。まだ戦争は終わっていない」
「それでは当初と、話が」
言い差す沖田を、第7戦隊の司令官が遮った。
穏やかに見える瞳の奥から、確固たる意志が沖田の目を見つめている。任務を完全に飲み込んだ、軍人の目だった。
彼らは、勝利のために犠牲が必要なことを知っている。沖田がここで土下座をしろと迫ったら、彼は実際にするだろう。そしてその上で、決して意思を曲げまい。
「……沖田大尉。そういうことです」
予備士官の沖田は、作戦に参加する建前上、再度の招集を受けた扱いになっていた。
「当初は、あくまで当初です。今は火急の事態だ」
「…………」
「あの空母の貴重さは、明らかです。無論、我々もむざむざ殺させるつもりはない。だが本土の喉元の危機を祓う状況で、正規空母一隻の戦力がどう作用するか、あなたには分かるでしょう。空母には、空母を当てるか止めようがないのです」
艦娘と違い、深海棲艦の空母は夜間でもその能力の大半を維持する。
今のサラは、敵の空母と並び、まさに夜の空を支配し得る力を持っているのだ。
「他に、手もないでしょう」
それが殺し文句だった。
沖田はため息を吐いた。
「……問題は、山積みです」
「知っている」
「あいつのコンディションも、聞かなければ。まず、本当に完治しているのか」
「そうですな。では、確かめに向かいましょうか」
士官達が立ち上がった。
沖田もその後を追いながら、ずっと胸騒ぎを感じていた。
ヲ級と初めて深く言葉を交わし、彼女が『サラ』になってから、彼女は明らかに様子が変わっていた。目の光は強くなったし、艦載機の制御も大分精度が上がったように思う。特に敵から受けた損傷をその場で治癒してしまうというのは、かつてないような荒業だった。
沖田は、サラが深海棲艦としての強さを取り戻しているのを感じている。
だがそれこそが、問題なのだ。
(都合がよすぎる)
漠然と、そう感じるのだ。
何かとんでもない見落としをしているかのように。
*
「翔鶴さん達、大丈夫でしょうか」
熊野が艦娘用寝台――ドックに横になっていると、青葉の声が聞こえた。
ドックは掛け布団のない寝台のようなものだが、治癒力の向上で代謝が上がっているので、寝ているだけでぽかぽかと温かい。また頭の位置に可動式の
熊野はまさにその庇を出して、うとうとしていた最中だったので、青葉への反応は遅れた。
「……ふぁ、にか、いいまして?」
「第1艦隊の話です。翔鶴さん達、大丈夫かなって」
応えたのは、別のドックに寝ている川内だった。眠そうな口調で、
「大丈夫じゃない? 翔鶴は空母だけど、空母でも夜戦に入るときはある」
「いやでも、今回の敵ってなんか変じゃないですか」
話を聞きながら、熊野は庇の中に表示された、デジタル時計を見た。時刻は深夜0時近く、眠いのも納得だった。
医師も休憩をしているのか、それとも交代の合間なのか、庇の隙間から見える範囲に熊野達以外の人影はいない。
「深海棲艦なんて、いつも変でしょ」
「それでも、いきなり東シナ海に出てくるのは変ですよ。それも、あんな場所に」
青葉が言うのは、今回の深海棲艦が出現した場所のことだった。
逃げている時は気づかなかったが、改めて海図等で位置を確認すると、深海棲艦が無人化した船を運び込んでいた場所は、琉球諸島の最西部の小島群だった。そこは複数の国が所有権を主張してきた経緯がある場所で、深海棲艦の出現で摩擦は棚上げされていたが、未だ決着をみていない場であった。
そのため、どの国もそこに軍を派遣することは消極的である。深海棲艦がいる以上、他国との無用な摩擦に海軍力を割かれたくないというのが本音なのだろう。
深海棲艦はそこを狙って進出し、守備の皆無な島嶼から海域の泊地化を始めたというわけだ。
熊野は経験上、およそ数日ほど前から実は深海棲艦はその諸島に潜んでいたのでは、という予測をした。
「深海棲艦が時事問題に詳しいなんて、青葉、初耳です」
「ちゃっかり新聞取ってるんじゃないの? それか、テレビ見てるか。受信料払ってんのかなー」
「……川内さん、真面目に聞いてないでしょ」
青葉が嘆息する気配があった。熊野も少し心配になった。
深海棲艦の戦法が高度化しているのは知られていたが、確かに今回の戦略はかつてないものだ。東シナ海の政治的な事情にまで、知悉しているという印象を受ける。
「今回の深海棲艦は、ひょっとしたら、こちらの事情に特に明るいのかもしれません」
青葉が静かに告げた。
川内も軽口を引っ込める。熊野が代わって口を開いた。
「何か、気になることがありますの?」
青葉が、少し言いよどんだ。
「え、ええ。少し」
「あの人型の駆逐艦のこと?」
少し間があった。
「よく分かりましたね」
「どう見ても、あれがイレギュラーですわ。初めて見る艦種ですし、状況をあれと結びつけるのは、当然ですわね」
とはいえ、熊野にもあの駆逐棲姫の正体については何も分からなかった。まさか人型だからといって、本当に新聞やテレビを見ているわけでもないだろう。タイガースファンの深海棲艦に会ったことはまだなかった。
(でも、危険な個体)
練度もそうだが、艦娘としての勘があの駆逐艦には異質なものを感じている。
本土襲撃部隊の前にも、要所要所であいつは姿を見せている。
バシー海峡でもそうだ。
思えば、あのバシー海峡で熊野が受けた攻撃の悉くは、今回の危機の下準備だったのだろう。回流丸に熊野が救助される原因となった、あの強烈な砲撃。戦艦クラスがあの海域にいたとすれば、それはこの襲撃に合わせて集まっていたのだと考えられる。
当時あそこにいた戦艦が、そのまま今東シナ海にいる戦艦だとすれば、バシー海峡をいくら探しても戦艦クラスがいなかったことにも説明がつく。とっくに、東シナ海へ入り込んでいたのだから。
同じ海域で、駆逐棲姫は回流丸と熊野を襲撃したが、その目的は、さしずめ索敵の目を本命の東シナ海からバシー海峡へ集中させるための、陽動か。ひょっとしたら、熊野が救助されたのを知って、口を封じにでも来たのかもしれない。いずれにせよ、重要な役割を担っていたことには変わりない。
回流丸を執拗に追ったのは解せないところもあるが、通商破壊を装ったとすれば、輸送船に拘泥するのも分からないでもなかった。
(でも、全ては推測)
確信するには、材料が足りない。
それに危機はすでに起こってしまっている。放られてしまった賽の目と同じで、考えても栓のないことでもあった。
青葉が、意を決するように、息を整えた。
「青葉、実はあの駆逐艦を見たことがあるかもしれないです」
熊野は跳ね起きた。川内も同様に、庇を上げて半身を起している。
青葉だけがゆっくりと庇を外し、横になったまま2人を見た。
「本当?」
「いえ、確証があるわけじゃないんですけど……。それに、似ている艦娘がいるってだけの話です」
熊野と川内は、なんだ、という風に顔を見合わせた。駆逐艦は数が多いから、他人の空似ということもあるだろう。
それでも一応は訊いた。青葉は佐世保の古株だ。
「誰なんですの? その、そっくりさんは」
「かなり、前にいた子です。輸送任務の護衛が得意な子で――」
そこで、ドアが開く音がした。
入って来たのは数名の衛生兵と、士官だった。熊野が所属する、第7戦隊の司令官もいる。事務作業以外で顔を見るのは久しぶりだった。
一様に緊張した面持ちで、張りつめた顔には苦渋があった。
「そのままで聞いてくれ」
第7戦隊の司令官は言った。
その間にドアの間から数人が入ってきて、サラをベッドにがんじがらめにしているワイヤーを外し始めた。
嫌な予感がした。
「第1艦隊の司令船、『国崎』。そのピケット艦の駆逐艦が、敵の本隊の移動を探知した」
「移動?」
言ったのは川内だった。
ドックから半身を起して、眠気の残る頭を叩いている。
「深海棲艦の本隊が、逃げてんの?」
敵の泊地と化した海域では、海域の長を含む本隊がその維持を担っていると言われている。
逃走は泊地を捨てるのと同義で、あまり例のないパターンだった。
「そうだ。探知した敵艦隊は、東シナ海を南下。要するに、この司令船『日笠』へ向かっている」
司令官は頭を振った。彼自身もどういうことか分からない、というのが本音なのだろう。
別の水兵が医務室のホワイトボードに近海の海図を張る。
休息のための部屋が、一瞬で司令室へ姿を変えた。
「状況を説明する」
司令官が海図へ指示棒を伸ばした。
台湾から石垣島の間の海域を拡大した図だ。熊野達の現在位置『石垣島』の北には、第1艦隊が戦っている諸島がある。台湾と、石垣島と、その諸島を結ぶと一辺が100海里ほどの三角形が得られる。
第1艦隊はその三角形の北の頂点、ある諸島の付近に位置している。熊野達が乗る司令船『日笠』は、南の頂点石垣島にいる。
また、別の司令船『国崎』は三角形の中央に位置している。
その国崎の周囲を哨戒するピケット艦が、敵本隊の南下を探知したというのだ。
熊野の頭には、無数の疑問符が浮かんでいた。
「司令船の位置は……」
「その通り。常に秘匿される。一度海戦に入れば、艦隊からは離れ、予め指定された合流ポイントに退避する」
深海棲艦がいるに違いない泊地化した海域を、大きな司令船を連れて動くのは自殺行為だ。艦娘の航路をかなり遅れて追随するとはいえ、その他の海域と、泊地化した海域では深海棲艦の遭遇率に雲泥の差がある。また司令船の存在そのものが、艦娘の存在を示すことになってしまう。
そのため泊地化した海域では、司令船と艦娘は別行動を取るのが基本だった。
ではそもそも、司令船が海域までついてこなくてもいいではないか、という議論にもなるが、これはいつも同じ意見で反論されている。
なにせ、艦娘は150人程度しか存在していないのだ。特に高練度の艦娘は貴重で、彼女らが負傷して一刻を争う状態で帰ってくることもあるため、病院機能を持つ司令船はできるだけ戦闘海域のすぐ近くで待機することが通例となっていた。
特に戦艦や空母を送り込むときは、その傾向が強い。
「まさか……無線を使いましたの?」
無線で通信を図れば、相手に電波を探知され、位置を気取られてしまうだろう。
司令官は首を振った。
「いや、通信は受信のみだ。それも、敵の接近を探知してからだ」
「でも、敵はこっちへ来てる」
青葉が訊いた。
「どうしてでしょう」
「推測はできる。だが意味はない」
司令官は頭を振った。
「現実として、敵が此方へ来ている。これが全てだ。
迷いなく真っ直ぐに進んでいるということからして、まさか全く索敵をやっていないわけじゃないだろう。恐らく、敵はこの島に司令船がいることも承知の上だ。
君らが万全でないのは承知だが、迎撃に向かわなければならない。報告は正確ではないが、明らかに敵の艦隊の中に空母がいる」
聞きながら、熊野はある可能性を考えた。
青葉が言っていた、敵がこの海域の事情に精通しているという予測。敵はひょっとして、司令船が向かいそうなポイントを予め把握していたのではないか?
空母の索敵能力で、そのポイントを一つ一つつぶしていけば、闇雲に探すよりもずっと効率的だ。
川内が訊いた。
「第1艦隊は? この司令船の護衛に戻れないの? 敵が隊を分断したなら、逆に私達と組んで、北と南から挟み撃ちにできるじゃない」
「第1艦隊は、現在諸島の中で戦闘中という連絡が入った。撤退は不能らしい」
「不能?」
「諸島の中で、タンカーが炎上した。その灯りを頼りに、敵は照明雷撃を実行。劣勢にいる。有毒ガスの発生も懸念されている。危険な状態だ」
司令官は付け足した。
「ただし、旗艦『翔鶴』は敵の動きに気づいている。第1艦隊は、陽炎、不知火を先行して離脱させた。彼女らは我々と合流すべく向かっている。増援はそれだけだが、潜航する深海棲艦を探知するには、彼女らの探信儀が役に立つだろう」
熊野は考えた。
それでも、戦力は足りない。
空の戦力だ。
敵に空母がいる。司令船は艦娘と違い、的が大きい。軍艦だから一度の爆撃で撃沈されることはないだろうが、危険な状態なのは明らかだった。
何よりも、この近くには回流丸もいる。回流丸には、艦娘に融通できるほどの資源も保管されている。敵が回流丸の撃沈、そして資源の確保を目論んでいる可能性は高い。
航空戦力を止めるには、航空戦力が要る。
こちらにも空母が必要だ。
艦娘の視線が、熊野の隣で眠る深海棲艦に注がれる。青白い手が動き、目を眠そうに擦った。
彼女は起きていた。
「いくよ」
サラはいつもの仏頂面で、天井に向かって言った。胸の辺りのゼッケンや、帽子の白いラインなど変わったところも多いが、こうしたところは相変わらずだ。
ただ、その青い目には、かつてよりも強い光が宿っているように感じた。それに、帽子やゼッケン以外でも、少し変わった部分があるようにも感じる。顕著なものではなくて、髪を少し切ったとか、メイクにちょっと手を入れたとか、そういうレベルの違和感なのだが。
間違い探しをする熊野。
それをよそに、司令官がなぜかひどく満足げな表情で、後ろを振り返っていた。誰かが開いたままのドアを抜け、廊下から入って来る。
細目に藍色のスーツ。横わけの髪。大嫌いな海軍にいるせいか、口元を曲げ、精いっぱいの渋面を作っていた。
沖田だ。
彼は部屋を一望すると、ため息を吐き、サラのベッドの隣に立った。
「しゃちょう」
沖田は沈黙していた。
「しゃ、ちょー」
「お前な」
寝たままのサラに向かって、沖田はやっとそれだけ言った。熊野達の視線を気にするそぶりを少しだけ見せ、やがて腹を括ったようにもう一度深い息を吐いた。
「予想通りにも、ほどがある反応だな」
「そーか」
「……今回は、一つ、でかい問題があるぞ」
「え」
「回流丸は、ついていくことはできない。前のように、支援艦隊で戦うってわけじゃない。文字通り、前線を張る艦隊に君が混じるわけだろう」
「うん」
「ただの商船じゃ、的になる。管制中は電波を出しまくるから、もはやサーチライトを照らしまくった的が随伴するようなもんだ。今回は、君の管制はできない」
熊野は気がついた。沖田は言外に、サラに出撃を止めさせようとしているのだ。昼間の負傷を考えれば、むしろそれが当然の反応かもしれない。
サラは、少しだけ考え込むそぶりを見せた。
だがすぐに、頷いた。
「それでも、いい」
「……なに?」
「もう、だいじょぶ。たぶん」
それには、熊野も驚いてしまった。最初にバシー海峡で会った時から、彼女はずっと発着艦を始めとした空母の基本的な機能に問題を抱えていた。
「まさか」
「ほんと」
サラは身を起して、キノコの傘みたいな帽子をさすって見せた。帽子は後ろの部分が少しだけ抉れているが、それ以外では目立った損傷はなかった。
沖田が、じっと傷の痕を見つめる。
「これは……本当に自分だけで、完治させたのか」
「そう。わたし、ぱわーあっぷ、した。かんせーも、おもい、だせるとおもう」
「確かか?」
「うん」
沖田は少しの間思案しているようだった。
熊野も考える。深海棲艦にとって、発着艦や管制は、むしろできて当然と言えるようなことだ。それを思い出した、というのは要するに『当たり前』の状態に戻ったということだから、不自然ではないのかもしれない。
(でも)
熊野は、どうしても不穏なものを感じた。
沖田も同じことを思ったらしい。
「ヲ級」
沖田は、昔の呼び方をした。
「お前、何か、隠してないか?」
少しだけ、間があった。当事者の間でだけ分かる、言葉を介さないやりとり。
「べつに、ないよ」
沖田は頭を搔く。その後ろで士官たちがしきりに時計を気にしていた。
時間が、すでになくなりつつあるのだ。この瞬間も、敵の艦隊はどんどんこちらに近づいている。
サラが口を開いた。
「さっき、むせん、きた」
沖田が眉をひそめた。
「誰からだ」
「てき」
敵。つまり、深海棲艦。
「とん、とん、とん、って」
「モールス信号。また、単音だけか」
場に、沈黙が漂った。サラが言う。
「わたしに、きかせる。そのためだけの、もーるす、だとおもう」
「……呼び出されてるってことか? 確証はないんだろ?」
「でも、きっとそう。わたしは、どーせ、ま、まとになるよ」
沖田はやがて首を振った。結論は、すでに出ていたようだった。
「……回流丸は、ここから動けん」
「うん」
「だから40……いや、45キロだ」
「?」
「電波障害、無線通信のリスクを考えると、深海棲艦の電波妨害の中で、その辺りまでなら、ギリギリ力になってやれる。低空は無理だが、雲上組の夜間戦闘機の管制ぐらいなら、力になれるだろう。もしその間に接敵して、やばかったら無線なさい」
ヲ級は頷いた。
熊野達もそれぞれベッドから降りて、てきぱきと準備する。容体が安定した後に、すでに新品の艦娘の制服が支給されていたので、改めて着替える必要はなかった。
ブレザーを羽織って、髪を結い直して、川内と身だしなみをチェックしあう。鏡がないので、こうするより他にないのだ。
その間に、青葉が沖田と話し込んでいた。
「どーも。お久しぶりです」
「……?」
怪訝な顔をした沖田だったが、すぐに気がついた。
「……でかくなったな」
「青葉ですぅ」
青葉は昔、沖田の艦隊にいたらしい。何年も前のはずだったが、彼はちゃんと青葉を覚えていたようだ。
二言、三言言葉を交わす二人に、司令官が割って入った。
「青葉。君の損傷が、一番ひどかったそうだな」
青葉が肋骨や、片目に貼られた絆創膏をさすりながら、言った。どうしてか早口だった。
「艦娘は、元々治癒が早いです。大丈夫です。痛くないです」
「……不安だな。間宮を持って来よう」
「うへぇ」
青葉が露骨に顔をしかめた。艦娘に人気のお菓子『間宮』だが、戦場で食べる場合は中に強壮剤やら何やらがたっぷり仕込まれた特別製となる。
普通に薬品として摂取しても同じなはずなのだが、艦娘の制服や艤装の形状と同じで、どうしてだかこの形式がずっと維持されていた。この手のものは、一つの形式で効用が確認されると、認定や審査の都合でなかなか別の形にならないのだ。
味の方も、そう悪くはないのだが。運が良ければ、副作用もない。
青葉はげんなりした顔で、水兵から和菓子を受け取る。それから沖田に向き直り、言った。
「大尉」
「うん?」
「あの子のこと、覚えてますか?」
沖田は数瞬、目を瞬かせた。やがて、笑みを消して言った。
「もちろんだ」
「なら、私も安心です。例えそうであったとしても、青葉は沈めてあげられます」
謎めいた言葉を残してから、青葉はさっさと部屋を出ていった。去り際にモナカを口に放り込むのが見えた。
川内もその後を追う。
艦娘の中で、部屋を出るのは熊野とサラが最後になった。沖田と視線を交わす。
「そう言えば」
すれ違い際、沖田が言った。
「まだ、約束は有効ですかね?」
「はい?」
「鎮守府での、約束事です。私は、ヲ級――いえ、サラのやつに、ちゃんと話を通しましたよ」
熊野は覚えていた。
沖田は熊野に対して、サラのことを気にかけるように求めていた。当時、熊野は赤松提督からサラと関わるよう命ぜられていたのだ。
「はなし?」
サラが首を傾げる。
熊野はそこでようやく、彼女が今まで嵌めていた首輪をしていないことに気がついた。ゼッケンや白いライン以外の違和感は、これだったのだ。艤装に隠れているだけと思っていたが、本当に外している。
沖田を見ると、微かに肩をすくめていた。付き物が落ちたような仕草だった。
「ええ」
熊野は頷いた。
「承りましてよ」
沖田が頭を下げる。微かに見えた表情に、熊野は救われたものの色を見た気がした。
「こいつを……サラを、よろしくお願いします」
熊野は、自然と敬礼を返していた。
サラがはっきりと意思を込めた視線で、沖田に言った。
「じゃあね、しゃちょ」
沖田と、空母ヲ級。この2人の関係は、かつてと同じものではないのだろう。
(必ず、連れて帰る)
重巡『熊野』としての意識が、静かに燃えた。
二度と、誰も、置き去りにはしない。
艦娘達が部屋を去った後、沖田はどっと疲れが襲い掛かってくるのを感じた。
年かもしれない。
彼がこれからの戦いで浪費する弾薬と燃料、そしてボーキサイトのことを思い、猛烈な量の胃薬を飲むことを彼女らは想像さえしないだろう。
「なんだと?」
沖田が鎮守府への請求額をはじいていると、司令官がそんな声を出していた。
手には電文の紙が握られており、近くには電信員らしき水兵の姿がある。受信した電文を、わざわざこの部屋にまで持って来たのだろう。
「確かか?」
「いえ、確証は――なにせ、鎮守府からはまだ、重巡洋艦一隻の出撃、としか打たれていませんので」
司令官は艦娘達が去った廊下の先と、電文の文面を忙しなく見比べていた。
沖田も艦娘が去った廊下の先を見つめる。
賽は投げられた。進軍か撤退かの判断をした後は、もはや待つということだけが彼らができる全てだった。
だから沖田は、せめて祈ることにした。
どんな神でも、故人でもいい。彼女らを見守り、無事に帰してくれますように。
その中には、沖田が最後に失った艦娘の姿もあった。
沖田は青葉との会話を思い出す。
(そういや、あいつが死んだ時も、あんな面して出て言ったな)
遥か昔に海に散った戦友の顔が、束の間、沖田の脳裏を過ぎった。
戦友は、駆逐艦だった。
「春雨。もし見てるなら、あの子らを守ってやってくれ」
*
日 時:8月15日00:12(明石標準時刻)
作 戦 領 域:琉球諸島 最西部 沖の北岩 南方50海里
コンディション:風南2、積雲1、視程93、海上凪
敵の空母ヲ級は送っていたモールスを中断した。
これで十分だと判断したのだ。
MI諸島沖といった超遠方、または多数の同胞に対する場合のみにしか使用が許されない方法だったが、彼女は敢えてそれを使った。
裏切者に、標的が裏切者自身であることを伝えるために。
もし仮に返答してくればお互いの位置を確認できたが、さすがにそう愚かでもないようだった。
空母ヲ級は後ろを振り返って、艦隊を確認する。
複数の駆逐艦と、戦艦ル級。そして、幼い少女の形を取った、駆逐棲姫。
この海域の情報に優れ、深海棲艦の参謀とも言える駆逐棲姫は、空母ヲ級の視線に、軽い頷きを返した。
「タノシミダ」
彼女はそう呟いて、手に持っていた艦載機を捨てた。
敵の空母ヲ級――サラが放ち、彼女が捕まえたものだった。手遊び半分、昼間のように相手の位置を確認できるのではという期待が半分であったが、目的地が決まった今はもう不要なものだった。
深海棲艦の艦載機が、無造作な放物線を描き、着水する。それには無数の傷が刻まれ、海水へ滲んでいく体液は残酷な行いを思わせた。
航行している戦艦ル級が、やがてその傷だけの艦載機を拾った。
彼女はそれを無感情に見つめる。
そして、蛇のように顎を開くと、頬張り込んだ。バリバリと音が、鳴る。
ル級のもう片方の手には、深海棲艦の死骸や、船の残骸が握られていた。ル級はそれらになんの感慨もなくかぶり付きながら、航行を続けている。
深海棲艦に自我はなく、自他の境界は曖昧だ。
仲間を食らったとしても、元々一つであったものが、元に戻るだけの話に過ぎなかった。
あのサラをこういう風に食らってやるのもいいと、その空母ヲ級は思った。
「ツキ」
傍らで、声がした。駆逐棲姫からだった。
「ツキガ、キレイ、ダネ」
空母ヲ級は空を仰いだ。今日は満月で、空も明るい。
深海棲艦の空母対決には丁度いいだろう。
夜は、夢を見る時間だ。
次回から、戦闘シーン増量でお送りします。
あの子は、やっと名前を出すことができました。
艦これのSSではお馴染みに展開ではありますが、やはり彼女はそういうバックグランドを思わせるところもまた魅力的なのかもしれません。
(でももうイベントでは会いたく)ないです。