人類に友好的な空母ヲ級。彼女の正体は、航空母艦『サラトガ』の魂を宿す深海棲艦だった。
『サラ』と呼ばれるようになった彼女は、翔鶴らと共に、東シナ海の敵艦隊を退けることに成功する。
だが、彼女の体には異変が起きていた。
昏睡の中で、彼女はある夢を見る。
5-1.人魚姫
彼女が目を開けると、そこは燃える海だった。
撃沈されたタンカー。大破して、浮いているだけの軍艦。流れ出た油に引火して、真っ赤な炎が夜空に向かって伸びている。ちろちろと踊る炎は、まるで夜闇を舐める大きな舌に見えた。
さらに海面に目を凝らすと、無数の人型が浮かんでいる。
青白い肌をしたものもあれば、それよりも血色のよいものもある。共通しているのは、周囲の船と同じく血を流し、もう二度と動き出さないということだ。
地中海の泊地を失った。
彼女は、ぼんやりとその事実を認識した。
果たすべき役割を失い、戻るべき隊ともはぐれた。
艤装が電探を起動する。無線機もすべての帯域で信号を探す。
だが周辺に、仲間の反応は一つもなかった。彼女は、この海で孤立していた。
そこで、記憶が飛ぶ。
情景が斜めに歪み、炎が吹き消されるようなかっこうでふっと消えてしまう。
ほどなくして、もう一度、映像が立ち上がった。ふらふらと歪みながらも、やがて明確な像を結ぶ。
今度は、どこかの島の海岸だった。
海岸には油や金属片が流れ着いており、戦闘の痕跡が伺える。
彼女の目の前には一人の人間が倒れている。大柄で、随分とひげを蓄えた男だ。だが砂を赤黒く染める血は、彼がもう長くないことを示していた。
『フリート・ガールか?』
男は問いかけた。
彼女は答えない。泊地を失ったことで、自分の役割や、戻るべき場所を見失っていた。
『あんたは、船なのか?』
意識が朦朧としていたのか、言葉は妙な意味を成していた。
船。
自分は、船。
思ってみると、言い知れない温かみが胸に差し込んだ。忘れていた、もう戻ることのなかったはずの記憶だ。
『ふね』
『や、やっぱりそうか。ありがたい。お願いだ、ウチの連中を守ってくれ』
『まもる』
男がせき込んだ。血とも海水ともつかない液体が、砂浜に跳ねた。
『そうだ。お願いだ、南に、船がある。そこにいって、仲間を守ってやってくれ』
守ってくれ。
その頼みを了承したのは、きっと他にすることがなかったからだ。
何かに縛られていないと、彼女らは存在することができない。船から投げ出されたものが、せめて浮かんでいられるように、何にでも捕まるように。
『わかった』
『ありがとう』
男性が長く息を吐く。何度も見てきた、生物が等しく放つ末期の吐息だ。
誰かの名前を呼んだ気もした。
サ……、ユルセ。彼の母国語なのかもしれなかったが、意味は分からなかった。
『あ、あんたの、名前を……』
なまえ。
喉の奥に何かがつかえたような、息苦しさを感じた。
月が出てきて、辺りに光を差し込む。
周囲にできていた海水の溜まりが照らされて、そこに彼女自身の姿が映された。
頭にクラゲのような帽子を被り、灰色のスーツを纏った、青白い肌の女性型。深海棲艦の姿だ。
『なまえは、ない』
男は、もう聞いていなかった。もう物体になっていた。
その後に続く記憶は、明るかった。
守れと言われた船には、奇妙な連中ばかりが乗っていた。だが、よくしてくれた。『よい』と『悪い』を区別するほど、彼女は経験を持たないが、彼らのことは少なくとも好きだった。
深海棲艦として備わる力を使い、航海の間、ずっと彼らを守った。
見返りに、新しい居場所と、感謝をもらう。
充実の日々だった。
そしてそれは今、絶頂を迎えている。
雇い主によって、かつて存在しなかった名前と、帰るべき場所を与えられたことによって。
サラ。
それが、今の名前だ。
再び情景がゆがむ。微かな記憶で編まれた映像が、無遠慮に叩き潰されて消えていく。
残ったのは暗闇だった。
目は開いているが、映るものは何もない。手足を動かそうとするが、それが実際に動いて、瞼の前を横切る気配がない。
ここでは彼女は、意識だけの存在だった。
ふと視線を感じて、後ろの方を向く。
暗闇の中に、平べったい小山のような物体が佇んでいた。それは、彼女にとって最も大切な装備である、頭にかぶる帽子だった。鍔の部分から伸びる長い触手が、床に置かれている時のようにだらしなく広がっている。帽子の後ろ半分が奇妙な形にえぐれていた。
深海棲艦の大事な一部でありながら、艦載機をスムーズに発しなかったり、何かと自分を困らせている相手だ。
(ぼうし)
帽子には目のような部分がついており、炎のような光を揺らめかせながら、彼女を見つめていた。
それは言葉を話さない。ただ眼差しには、原始的ながらも警告の意思があった。
――ケサナイデ。
帽子の目に灯った火が大きくなる。やがてそれは睨み付けるような強さになった。
――ケサナイデ。
帽子から、触手が伸びる。それはサラに絡みつき、どんどん声をかけてくる。
――ワタシヲ、ケサナイデ。
――モウ、ワズカ。
――ワズカシカ、ナイ。
サラは、無数の触手に絡まれながらも、疑問に思った。
消す? 何を言っているのだろう。
沖田や、回流丸の船員と心を通わせることで、サラは心にかつてない熱を与えられていた。
消える、という言葉の意味が分からなかった。
(き、える?)
帽子の触手は、意識だけのサラを容赦なく締め上げてくる。決して離すまいとするように。
――あなたは、気を付けなければならない。
また別の声がした。少女の声だ。そして、サラのそれとよく似ていた。
――あなたは、名前と、あなた自身の思い出を手に入れた。
――でも、『個性』は、
――深海棲艦でも、人間でも、艦娘でさえもない。
――それが、今のあなた。
意識が、徐々に白んでいく。
サラは今になって、沖田がサラの力が弱まっていることを案じていたのを思い出した。
――海が生んだもの。それが、あなただとしたら。
――陸と繋がっては、生きていけない定めなの。
その言葉を最後に、サラの意識はより深い闇へと誘われていった。
*
日 時:8月15日22:50(明石標準時刻)
作 戦 領 域:琉球諸島 石垣島近海
司令船『日笠』
コンディション:風南2、積雲なし、視程95、海上うねり
熊野は目を覚ました。
鼠色の天井が目に入る。慌ただしく周辺を駆け回る足音と、ディーゼルエンジンの重低音。
ぼんやりとした頭で、船の中の、どこかの部屋に、仰向けに寝かされているのだろうと推察する。
(今のは――)
おぼろげにしか思い出せないが、奇妙な夢だったと思う。ひどく遠くの景色が瞼の裏に焼き付いていた。
あと、誰かの声。
(誰、の……?)
じゅるり、と顎を何かが撫でた。猛烈な悪寒が全身を這い回る。
思えば、さっきから首が妙に冷たい。
寝たまま恐る恐る首を上げ、自分の体を見ると、灰色の触手が首筋に絡みついていた。
「ひゃぁぁああああああ――――!!」
船室に響く特大の悲鳴。
周囲でバタバタと足音が鳴り、ドアが乱暴に開く気配があった。熊野は恐る恐る身を起こし、自分の身に何が起こっているのかを確認する。
首や腰、そして足首の辺りに灰色の触手が朝顔のツルみたいに巻き付いていた。その発生源を追っていくと、隣のベッドに寝かされている、血色の悪い少女――空母ヲ級に行き着いた。
キノコの傘みたいな帽子から触手が伸び、それが熊野に絡みついているのだ。なお、本人はばっちりと目を開けていたが、規則的な寝息からして、眠っているのだろう。魚に瞼がないのと同じ原理かもしれない。
(と、というか)
熊野は、さらに観察する。
彼女は巨大な帽子を被ったままだったので、ベッドの淵から帽子がはみ出す形になっている。その扱いもさることながら、彼女の体は針金のようなワイヤーでベッドにぐるぐる巻きにされていた。
胸の辺りには『さら』と書かれた布が貼られており、まるでゼッケンのようである。
「あ、あのー」
そう声をかけられ、周囲に医師が集まっていることに気が付いた。
一様に白衣を着て、笑みをヒクつかせている。その向こうには、半身を起こして無言で抗議する川内と青葉の姿もあった。
「え、えーと……」
熊野はとりあえず、絡みついている触手を払った。医師がそれらをベッドの上に戻していく。なんというか、手慣れた様子だ。
周囲をさらに観察すると、熊野が寝かされているベッドには、掛け布団がなく、どちらかというと施術台に近いことに気が付いた。純白であっただろうシーツは、熊野の血とヲ級の粘液で所々汚れている。が、血の方はとっくに固まっているように見える。
治癒を促進する診療台。
熊野はようやく、そこが簡易ドックとも呼ばれる、艦娘用寝台だということに気がついた。ここは司令船の医務室だ。
「も、申し訳ありません」
ほとんどヲ級のせいなのだが、なぜか熊野が謝ってしまった。
周囲の医師がやれやれと解散し、川内と青葉も体を横たえる。
熊野も仰向けに戻りながら、隣の川内に尋ねた。
「あ、あの、これは……」
「見ての通り。私たちは生き残った。ヲ級――サラは敵に反撃を食らって、戦線離脱」
「ということは、やっぱりあの子を実戦に……」
熊野は、そこで違和感を感じた。
「『サラ』?」
「あの子の名前だって。なんか、本人もそう名乗ってるみたい」
サラ。
妙な名前だった。
川内は、ヲ級の中にある古い軍艦の魂――『サラトガ』のことにまで言及してくれた。
サラトガは、重巡洋艦『熊野』と、同じ海戦に出たこともある艦だった。もっともその時は敵同士だったわけだが。
「サラ……」
「そう。その子を、実戦投入したみたい。以後、識別名称もサラでいくって」
熊野としてはそれで命が助かったわけだが、佐世保鎮守府の動きの早さには舌を巻いてしまう。
軍令部や、実戦部隊から反対は出なかったのだろうか。それに沖田がそれをすんなり受け入れたのも意外だった。
「どうも、私たちの想像以上に、状況は悪かったみたいだよ」
川内はすでに説明を受けているらしく、熊野の疑問点を先回りしてくれた。
天井を見つめたまま、2人の会話は進む。
「横須賀の本土襲撃部隊が、予想以上に強力みたいでね。本土の燃料の備蓄も厳しい。だから、赤松提督もサラを使うことにしたみたい。理由に、可愛い秘書艦と、古株の重巡2隻が入っていたかどうかは、聞かなかったけど」
「よく、沖田さんが認めましたわね」
「沖田さんから提案したみたいだよ」
思わず身を起こした。
「……へ?」
「ほんとだって。少なくとも、提督からの打診じゃなくて、沖田さんの会社からの協力要請だったって。一応緘口令は敷かれるそうだけど、他の鎮守府には、もうばれちゃうだろうね」
熊野は左を向き、そこに横たわるサラを見つめた。
ちょっと見ただけでは気づかなかったが、被っている帽子は大きくえぐれている。出血はしていないようだが、よく見るとサラ自身の首筋にも包帯が巻かれている。
目を開けたまま眠る顔つきは、精巧な人形のように整っており、それが傷の痛ましさを際立てていた。
(こんなになるまで……)
ありがとう。
素直にそう思った。
さらに彼女を観察すると、帽子の前後を分けるような形で、太い白線が一本引かれていた。それが敵の空母とサラを見分ける目印なのかもしれない。実際の軍艦でも、同型艦を見分けやすくするために識別用の線を入れることがある。
「識別用のマーカーは、覚えておいてね」
「……あの、体が、針金でぐるぐる巻きなのですけれど」
「ああ、それね。最初は別の部屋に寝かされてたんだけど、すぐ脱走するし、艦娘見つける度に抱きつくからさ。こっちの部屋で見張られてるんだって」
「この、ゼッケンみたいなのは?」
「本人の趣味。ほら、船って横に名前書いたりするでしょ?」
(この子は……)
熊野はげんなりした。あまり考えたくはないが、沖田の教育に何か問題があるのではないだろうか。
川内が咳払いをして、続けた。
「そういうわけで、私たちはここでお休み。今は翔鶴達が第1艦隊になって、残敵の掃討に移ってる。サラと翔鶴が制空権を取ったおかげで、かなり有利に進んでいるみたい」
熊野は大きく息を吐き出した。
油断はよくない。だが少なくとも、戦いは終わりに差し掛かっているらしかった。
「生き残りましたわね……」
力が抜けて、ベッドに倒れ込む。適度な柔らかさに、体が沈み込んでいくかのようだ。
川内と青葉が同調した。
「ほんと、疲れたよ。夜戦し損ねたけど」
「青葉も、ダメかと思いました。まぁ、正直、この深海棲艦のことは、あとでお二人にみっちりお聞きしたいとこですが」
戦友たちと呑気な会話を交わしあう。それも帰ってこれたからこそだった。
周りの医師達も特に私語を咎めるでもなく、見守ってくれている。
そうして生還を喜び合う艦娘3人のすぐ傍で、立役者の一人である深海棲艦が、静かに寝息を立てていた。
その口が、微かに動く。
とん とん とん
*
日 時:8月15日22:34(明石標準時刻)
作 戦 領 域:琉球諸島 最西部 沖の北岩 西方10海里
コンディション:風南2、積雲1、視程93、海上凪
敵は撤退を続けていた。
佐世保鎮守府・第1艦隊旗艦『翔鶴』は、月光に銀髪を煌めかせながら、夜の海原を観測した。
月はすでに高いが、べたつく熱帯夜の空気が視程を僅かに悪化させている。彼方に浮かぶ敵の姿は、微かに揺らめいて見えた。
《敵艦見ゆ》
先行する軽巡用艦娘――阿武隈が報告した。同じ軽巡の川内を痛めつけられたせいか、高い声にもやる気が漲っている。
《方位0-1-1。艦種、中破した戦艦。他には見えず》
「駆逐棲姫と、空母ヲ級の姿は?」
《認められません!》
翔鶴は眉をひそめた。
月の光を頼りに、周辺の様子を確認する。
事前の報告通り、敵艦隊が潜んでいる諸島には幾つもの艦船の影が見えた。コンテナを満載した船や、タンカー、それに外国の軍艦まで見える。船は金属の塊で、その裏は電探の探知圏外となるため、目くらましとしては最適だろう。
《厄介だな》
戦艦娘――伊勢が感想を述べた。同型艦の日向も応じる。
《旗艦殿、どうする?》
翔鶴は迷った。敵もこちらに気づいているはずだが、何もアクションを起こさないのが気になった。
あの諸島はすでに敵の手中にある。飛び込んだ先が罠とも限らない。だが素通りにするには、不気味に過ぎた。
もっと艦の数がいれば諸島内の調査に1艦隊をあてがうこともできたが、それは現状では無理だった。敵が逃亡に移ったのを受けて、台湾と大陸との海峡、沖縄近海、そして対馬沖にそれぞれ哨戒ラインを設置しているため、佐世保の艦が不足しつつあるのだ。
空母の翔鶴が、夜になっても旗艦を続けているのも同じ事情だった。
空母が艦隊を離れて別の艦娘と旗艦を交代する場合、途中まで空母には対潜哨戒をする駆逐艦が、2隻は帯同する必要がある。
(今は、敵に集中しましょう)
翔鶴は首を振って意識を戦場に戻した。
「水上機による索敵結果は?」
《待ってくれ。今帰ってきた》
伊勢が、自身の水上偵察機を回収したようだ。夜間偵察機ではないのだが、索敵する分には支障はない。
《……諸島内に、敵影あり。駆逐艦1、重巡1、軽巡1、ほか先ほどの戦艦1。どれも船舶の影に隠れているようだ》
そこで、戦艦娘の声が強張った。
《翔鶴、まずい》
「報告は正確に。どうしました?」
《本命が逃げている。駆逐棲姫と、空母ヲ級だ。方位0-1-0へ逃走中》
翔鶴は決断した。やはり諸島の中に本命はいない。敵は一度建設した拠点を捨てて、どこかへ身を隠す気だ。
そうはいかない。
翔鶴のブラウンの瞳に、戦意が鮮やかに燃え上がった。
「第1戦速。輪形陣。対潜警戒しつつ、諸島内の遅滞戦闘要員を撃滅します」
各艦の艤装で、赤と青のランプが明滅した。
横一列に並んでいた艦隊が、有機的に連動し、陣形を変えていく。
翔鶴を囲むように、駆逐艦2隻、巡洋艦1隻、そして戦艦2隻が円陣を組んだ。周囲を警戒し空母を守る、潜水艦に強い陣形であった。
夜戦でどれほどの効果があるかは未知数だが、翔鶴は諸島内の敵戦力から、潜水艦の配置を感じ取っていた。潜水艦には警戒をし過ぎるということはない。
その懸念は正しかった。駆逐艦不知火が声を上げる。
《ソナーに、感あり》
「やっぱり。動きは?」
《移動中なので、雑音が――でも、離れていきます。北へ、諸島の方へ、弱くなっていきます》
逃げている、と判断して差し支えない動きだった。潜水艦は通商破壊の要であるから、逃がしたのかもしれない。
諸島の中で、オレンジの光が瞬いた。空気を裂く音がして、遥か後方に着水音がする。ついに敵も撃ってきた。
「砲撃戦、開始。誤ってタンカーやコンテナ船に当てないように。」
翔鶴の号令で、艦隊が砲撃を始めた。もとより、艦の数でも火力でもこちらが圧倒している。敵も不利を悟ったらしく、徐々に北に針路を取り出す。
諸島の中は狭い。おまけに、コンテナ船やタンカーに一発でも当てたら、火の海になる。こちらにそんなつもりがないと分かっていても、敵は動きづらいことこの上ないだろう。
やがて敵艦隊が撤退を始めた。
翔鶴は駆逐艦に対潜哨戒をさせながら、諸島内を北に突っ切る指示を出した。
《一応、『国崎』に連絡入れます?》
駆逐艦『陽炎』が気を利かせた。
翔鶴達の50キロ南には司令船『国崎』が控えており、司令部が作戦の経過を見守っているはずだった。なお、駆逐艦『綾波』と『天津風』が司令船の護衛についている。
熊野達がいる方とは違う、もう一隻の司令船だった。
「お願いします。深海棲艦の数からして、艦娘の無線なら届くと思いますが」
《暗号ですね》
「はい。諸島の生存者の捜索は、後にせざるを得ませんが、国崎にカッターの派遣要請をしましょう」
やがて諸島が終わる。諸島の出口には、ずんぐりとしたシルエットのタンカーがあった。
そこを抜ける。
直後、伊勢の電探が接近する航空機群を捉えた。空母ヲ級の攻撃だ。
夜間爆撃。
艦載機の機動力の前に、諸島間の距離などないも同然だ。金色の光の線を曳いて、鉤爪型の艦載機が夜空の向こうからやってくる。虫のような羽音を除けば、流星群のような幻想的な光景だった。
「回避を」
翔鶴は冷静に命令した。
艦娘の正規空母は、夜間の発着艦に制限がかかる。
一方で、深海棲艦の空母は昼間とほとんど変わらない形で夜間の発着艦、航空戦をやってのける。
だが敵の標的は、翔鶴達ではなかった。
爆撃されたのは、付近にある船舶の群だった。
遠くで砲撃音もして、方々で座礁したり漂流したりしていたコンテナ船が、次々と破壊されていく。積み荷が燃えて、炎が上がる。
特に炎が大きかったのはタンカーだ。ゆっくりと傾斜する中、積み荷の重油がこぼれ、燃える。炎は海面に広がり、諸島沿いの水面を夕焼けのように照らし出した。
《あいつら……》
伊勢が唇を噛み、日向が静かな怒りを燃やした。
《生存者など、出す気もない、か》
翔鶴も息苦しさを感じた。生存者がいた、という報告は今のところない。だがいないと確かめたわけではない。
任務のためにはこのまま進まなければならないが、後ろ髪を引かれる思いだった。敵がこの心理効果を狙っているのだとすれば、大したものだ。
《敵編隊、第二波接近》
阿武隈がそう報告した。
翔鶴が目を細める。艦隊の背後で赤々と燃える炎もあって、敵航空機の姿がよく見えた。その腹に抱えられた魚雷も。
(魚雷――?)
夜間爆撃ではない。夜間雷撃。
いやな予感がした。
自分たちの後ろには、炎がある。夜闇の中で赤々と燃え、翔鶴達の影を前方に投影する炎が。
理解が弾けた。
夜間雷撃の戦術の1つ。
帝国海軍も何度か実施し、艦娘の教練でも習う戦術。
「照明雷撃だわ」
これは1機が敵の進行方向に照明弾を投下し、その影に向かってもう1機が雷撃を仕掛けるというものだ。
深海棲艦がこの戦法をとったという記録はない。
だがこの状況、周囲を炎上する炎で囲まれたこの状況では、敵から見れば、どの方向から仕掛けても、艦娘の背後に光源があるということではないか。加えて夜間であれば、翔鶴の戦闘機部隊を迎撃にあげることもできない――。
「司令船『国崎』、及び『日笠』に電文を」
翔鶴は、負傷者を載せ後方で待機している司令船にも電文を入れた。
「知能の高い敵がいます。奇襲に注意されたし、と」
言いながら、弓に矢をつがえた。
艦隊の中に驚きが広がるのが分かる。
《夜間に発艦するのか!?》
日向の声に、翔鶴は頷いた。いつもの穏やかさを潜め、雷撃機『流星』の矢を敵艦隊に向ける。
「深海棲艦にできて、私にできない道理はありません。試してみます」
翔鶴が、夜空に雷撃機『流星』を送り出した。
流星は炎を背景に、一体の重巡を発見したらしい。魚雷を投下、一隻撃沈。
「ほら、できた」
ほらじゃねーよ、鶴じゃなくて猛禽だよねぇ、海鷲だけに。
そんなぼやきが無線に乗っていたが、翔鶴は聞こえないふりをする。
翔鶴が見つめる先で、敵の戦艦が反転するのが見えた。撤退していると思われた重巡や駆逐艦も、翔鶴達に向き直る。
だが、逃げ続けているものもいる。
夜空との境目が曖昧な水平線に、白波を蹴ったてて海域から遠ざかろうとする駆逐棲姫の姿と、金色の炎を目に宿す空母ヲ級の姿があった。
部下に遅滞戦闘をさせて、見事に逃げおおせるつもりだろう。
「敵ながら、天晴な引き際、かしら」
翔鶴は呟く。
「駆逐艦『陽炎』、『不知火』」
はい、と応える声があった。
「私たちは、ここで戦います。貴方達2人は、南下の準備をしておきなさい」
戸惑う陽炎と不知火へ、翔鶴は言った。
*
夜の海に複数の影が浮上してきた。
激戦区となった諸島内から離れようとしている、深海棲艦の艦隊だった。
脱出を始めてから、早くも1時間が経過しようとしている。
艦隊の先頭には、海域の長である空母がいる。旗艦としての力を誇示するように、淡い金の光が双眸に燃えていた。深海棲艦の知識が少しでもあれば、彼女のことは空母ヲ級Flagshipと呼称するだろう。
その後ろには、人型の駆逐艦――駆逐棲姫がいる。彼女も強力な深海棲艦で、空母ヲ級の腰ほどの身長でありながら、紫色の光を放散しながら進んでいた。
他にも女性に酷似した戦艦や、鯱のような駆逐艦が帯同している。計6隻の艦隊だ。
空母ヲ級は、艦隊の様子を確認し、主力は無事、という評価を下した。
敵の爆撃から逃れるため、苦し紛れの潜航を行ったのだが、なんとかなったらしい。だが機関の稼動をかなり制限したせいで、随分北へ流されており、当初の海域からかなり離れていることが伺えた。
空母ヲ級は、思案する。
状況は、悪化修正。
敵の空母――確か『翔鶴』なる空母――に、せっかく建設した支配下の海域を、追い出されてしまった。
これでは、戦力の補充ができない。そして、効果的な脱出経路も失ったということだ。
深海棲艦は、活動する海域に、特殊な海流を生み出すことができる。それは海に沈んだ思念が漂う層だ。深海棲艦が活動し続ける限りその層は広がり、やがて他の海域と連結する。
深海棲艦はその層を伝って逃げることもできれば、新しい仲間を招集することもできる。
一度建設した支配海域を失うのは、思いの他の損失であった。
「テッタイ、カ」
知能の高い彼女は、戦争の全体像と、自分の艦隊の役割をよく知っていた。
一度、退くことも選択肢だ。だが、全面撤退は効果的ではない。
今行っているのは、大掛かりな通商破壊作戦である。敵がミッドウェー島に仕掛けた攻勢に、手厳しい反撃を繰り出すために、横須賀方面には重厚な攻撃部隊が、東シナ海には敵の継戦能力を削ぐ通商破壊部隊が送り込まれたのだ。
全面撤退は、作戦そのものの放棄となる。
この艦隊は、規模を縮小してでも、東シナ海に存在し続け、潜在的な脅威であり続けなければならない。
空母ヲ級は、すぐ後ろを進む駆逐棲姫を見やった。
彼女は、この海域に詳しい。
誰も知らないような、季節特有の海中の
空母ヲ級は、目で彼女に問いかける。
遅滞戦闘。そして、新しい拠点の建設。
それが可能な場所は、どこか。それでいて、いざという時に外海への脱出経路が開けている場所がいい。さらに言えば、やはり島嶼が望ましい。
駆逐棲姫は少し視線を宙に彷徨わせる。と、やがてくすりと笑い、指を一つ立てた。
空母ヲ級の感性でさえ、どうしてだかその所作を、美しいと思った。
首を振る。
主観的判断は、不要だ。
――いい手が、あるよ。
駆逐棲姫は、そんなことを思っているようだった。
応じるように、空に金色の筋が生まれた。それはどんどん空母ヲ級に接近し、やがて頭上を旋回し始める。
撤退に備え、海域の様子を探っていた索敵機だった。泊地で戦う空母に発見されず、無事母艦までたどり着いたのは、まさに奇跡的といえるだろう。
空母ヲ級が顔をしかめる。
まさにこれから遅滞戦闘の拠点にしようと思っている南方の島に、敵がいるからだった。しかも、敵の中には、見慣れないコンテナ船までいるという。
「ユソウ、セン?」
輸送船。つまり、資源。
目的地は、決まった。
「
しかし、どうしたことだろうか。
その決意をした時、空母ヲ級の脳裏に、昼間の海戦の様子が蘇った。あの戦いの時、確かに、人間に味方をする空母ヲ級がいた。
艦娘に混じって戦い、自分を苦しめた相手だ。
漠然とした予感のようなものが、胸の奥から湧き上がってきていた。
あの裏切者。ひょっとしたら、あいつもイシガキにいるのかもしれない。
そう思うと、空母ヲ級の中で、様々な感情が渦を巻く。
似て非なる存在というのは、こうも判断を鈍らせるのか。
ふと、駆逐棲姫の視線を感じた。彼女は先ほどと変わらない穏やかさで、こんな思いを伝えてきた。
――気に入らない?
――なら、殺しておこうよ。
空母ヲ級は、頷く。仮に目的地にいるというならば、どうせ戦いは避けられないのだ。
それがなんであれ、殺せばすっきりするだろう。
怨念のままに荒れ狂い、敵に対して自身の思いを火力に換えて叩きつける。それこそが、彼女達だった。
空母ヲ級は無線機を使う。そして、深海棲艦だけが拾える特殊な電波で、裏切者に呼びかけた。
佳境に入った瞬間に更新が遅くなる作者がいるらしい。
先週は更新できずに申し訳ありません。
最終章でございます。
物語も佳境に入りまして、ぼちぼち収束していきます。
最終章なので、サクサクいく所存です。
空母ヲ級がどういう結末をたどるのか、お楽しみいただければ幸いです。