空母ヲ級運用指南 ~蜃気楼の海~   作:mafork

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【あらすじ】

 深海棲艦の泊地から離脱した熊野達だが、ついに敵に発見され、空襲の末に全艦が重傷を負ってしまう。
 そんな彼女達に、ついに敵の本隊が迫る。
 絶望的な状況の中で、艦娘は真の強さを問われることになる。





4-4.魂の温度

 

 

「熊野さん、川内さん」

 

 遮るもののない洋上の日差しに焼かれ、航行すること1時間が経過した。

 青葉が言った。

 

「伝言をお願いできますか?」

 

「伝言?」

 

 川内が、元気のない声で言う。それでも会話に応じるのは、言葉が苦痛を紛らわせるのを知っているからだろう。

 

「誰に?」

 

「沖田っていう人です」

 

 熊野の疲れた意識に、興味が頭をもたげた。

 

「沖田さんに?」

 

「なんて?」

 

 川内と熊野の言葉に、青葉は少し迷ったようだった。

 

「『恨んでない』。いえ……『殴ってごめんなさい』。それだけで、いいですから」

 

 物騒な言葉だった。疲労で思考を拒む頭に、疑問が重しのように堆積していく。

 青葉が付け足した。

 

「青葉、昔、あの人の艦隊にいたんです」

 

 意外に思ったが、少し納得もした。食堂で沖田について聞いてきていたし、病室の前にもいた。鎮守府での関わりは予想して然るべきだった。

 

「海上護衛の部署で……」

 

 淡々と語っていたが、哀愁と後悔が匂っていた。

 熊野が口を開く。数日前の食堂で、青葉から似たような話を聞いていた

 

「それって……確か、船団が深海棲艦に襲われた、お話?」

 

「はい。でも、それには続きがあるんです。当時の無線の暗号は、まだ強度が低くて、敵にばれている可能性がありました。だから、沖田さん達は、無線で司令船や艦娘の旗艦の特徴をあえて打電して、深海棲艦を釣り上げたんです」

 

「初耳、だね」

 

 秘書艦の川内さえ知らない話のようだった。

 青葉が笑う。彼女らしくない、皮肉の入った暗い微笑だった。

 

「汚点ですから。佐世保ではなく、暗号を作った、軍令部の」

 

「ああ……」

 

「結果は、暗号はやっぱりばれてました。でも、その事実も、佐世保がやった実験も、なかったことになってます」

 

 その後のことは、熊野もぼんやりと察することができた。

 よく耳にするケースだった。

 海上護衛に勝利はないが、敗北はある。責任を問われ、もういない船団と、船団の護衛に責任が向かう。

 隠ぺい。そして失脚か。

 沖田の海軍嫌い。それはつまり、それまで尽くしてきた海軍の、トカゲの尻尾になったことによるものだったらしい。

 

「でもそれが原因で、暗号の見直しとなりました。それで会敵率はかなりマシになったんですが、表向きには公表されてないですね」

 

 表に出すわけがない。それが真実だとすれば、海軍は深海棲艦に、『この時間にこの船団がここを通ります』という熨斗を付けて船団を送り出していたことになる。

 付け足した言葉には、青葉には似つかわしくない、暗い嘲笑の響きがあった。

 

「それ、提督は……」

 

 川内は心配げな口調だ。

 

「知ってますよ。提督もその件で、軍令部に船団の編成、連絡を全権鎮守府に委譲するように言っていましたから。でも当時の鎮守府の権限では、どうにも……なりませんでした」

 

 私が新聞始めたのも、その時の取材が始まりです、と青葉は付け足した。

 熊野は曳航索を握り直した。彼女を連れて帰ろう、という決意は増したし、沖田の過去は興味深いものだが、今は別のことも考えてなくてはならない。

 危機はどこまでも続くのだ。

 熊野は状況を確認した。

 時間にすると、正午。太陽は天頂にあり、艤装の金属は焼けつき、濃い色のブレザーは熱を吸い込んでホットカーペットのようになっている。

 川内を先頭とした艦隊は、10ノット前後の低速で、琉球諸島の島影がなんとか見える位置にまでやってきている。もっともマストの見張り妖精からの報告なので、実際の距離はまだかなりあるだろう。

 しかもそれらの島々に軍事施設はなく、艦隊の展開が確認できない以上、逃げ込むのは得策とはいえないだろう。

 

(このまま、無事で)

 

 そこで、同じ見張り妖精が敵航空機の接近を告げた。

 艦隊に緊張が走り、痛む体を押して、対空戦闘の用意を始める。

 やってきた航空機は1機だった。恐らく偵察機で、これから控えている本隊に艦隊の位置を通報するのだろう。

 

「救難信号って、誰か」

 

 熊野が、川内に念のため告げた。

 川内は苦笑した。

 

「私のはもう無理。壊れてる」

 

 熊野は自身の無線機で、電波を発し、どこかにいるかもしれない味方艦隊との通信を試みた。

 二、三度、何かの音声を拾った気がした。だがどこか近くに控える深海棲艦の電波妨害、そして艤装自体が受けた損傷で、熊野の無線も通じそうにない。

 熊野は曳航されている青葉を振り返ったが、彼女も力なく首を振るだけだった。

 その航空機は、艦隊が死に体なのを知っているようだ。ゆっくりと降下し、艦隊の上を一周する。馬鹿にするようなのんびりとした動きだ。

 

「対空戦闘!」

 

 川内が言った。

 熊野は幾つか残った高角砲、川内はかろうじて無事な主砲を空に放つ。散発的な弾幕で撃墜できるはずもなく、航空機は執念深く艦隊の周りを回っていた。

 

「しつこい!」

 

 熊野は体に鞭打って、航空機に幾つか危ない弾を送り込んだ。

 それでやっと諦めたようで、航空機は艦隊から少し離れる。だが相変わらず見える位置にはいるらしく、時折水平線の付近でくるくるとバンクを繰り返しているのが見えた。

 

「馬鹿にしてますね」

 

 青葉が言う。熊野は頷きつつも、違和感を感じた。

 妙に馴れ馴れしい動きだ。

 

(何を考えてますの)

 

 熊野は首を振った。

 そんなことを気にしている場合ではない。

 敵が来るのは時間の問題だった。そして実際に、それはすぐにやってきた。

 青葉が後方に敵艦隊が迫っていることを告げた。そしてその上には、艦載機の大編隊がいることも。

 絶望する間もなく、彼方から飛翔音が聞こえた。行く手を塞ぐ壁のように、水柱が乱立する。

 電探射撃。戦艦クラス。

 水平線の近くに、無数の黒い影が見える。

 

(こんな時に!)

 

 艦隊を振り返った川内の顔は、熊野が初めて見る表情をしていた。疲れている。思い詰めている。

 だが、川内は旗艦だ。『それ』を言わなければならない。

 

「熊野、青葉」

 

 言われる前に、熊野と青葉は舵を切っていた。取舵で、艦隊を離れ、敵方面へ逐次回頭する。

 熊野の最後の任務は、旗艦を守るための遅滞戦闘になった。

 去り際に川内が何か言っていた気がしたが、砲撃音がひどくてもう聞き取れなかった。

 

「青葉を、離してください」

 

 青葉はそう言ったが、熊野は首を振った。

 

「離しませんわ。今は、まだ」

 

「熊野さんも危ないでしょう」

 

「大丈夫ですわ。それより砲撃で、少しでも敵の数を減らすことに集中して」

 

 そう言うと、青葉は黙った。熊野は主機の調子を見ながら回避行動に専念し、青葉は牽制にもならない砲撃を続ける。

 左右に立つ水柱がどんどん近くなっていく。あれに呑まれたら最後だ。水柱が立った後には、きっと何も残らない。

 曳航索を通じて、青葉の震えが伝わる。遠くにオレンジの砲撃炎が見える度、そして深海棲艦の歓喜の叫びが届く度、2人の体は震えた。

 

(負けたくない)

 

 鈴谷に大けがさせたことを思う。命ある限り、前に進んでいたかった。

 この綱を離せば、自分が艦娘を目指した気持ちが嘘になる。損なわれてしまうのだ。

 風を切る飛翔音。

 予感する、猛烈な至近弾。

 

「頭下げて!」

 

 熊野が言った直後、僅か2メートル右手に特大の水柱があがった。衝撃が槌となって全身を打ち、全ての音が消失した。

 目の前を過ぎっていく水飛沫が、夏の太陽できらきらと光っている。

 綺麗、と思った。気づくと、体が宙に浮いていた。衝撃による一時的な飛翔。

 深海棲艦の雄たけびが、足の下にある青空の中に響いている。

 熊野は、引き伸ばされた時間の中で、微かな声を聴いた。

 

 ――辛いでしょう?

 

 頭の中に、見知らぬ声が響いてくる。

 随分前に、似たような体験をした気がした。それは、バシー海峡で沈みかけた時。そして、佐世保鎮守府で、飛ばしていた雷撃機『流星』をキリモミさせてしまった時。

 海の底から聞こえてくるかのように、暗くて、どこか濁っている。

 だが少しだけ、幼い声であるような気がした。

 

 ――必死に守って、戦って、この始末。

 ――あなたの代わりなんて、幾らでもいる。

 ――沈んだら最後、あなたもすぐに忘れられてしまうわ。

 

 声は続けた。

 

 ――あなたの『故郷』だってそうでしょう?

 

 やめて、と思った。だが声は容赦なく続けた。

 声は、なぜか熊野の記憶を知っていた。

 すぐ傍に迫った死と、不意に思い起こされた暗い記憶に、ひゅ、と喉が変な音を立てた。

 

 ――あなたが必死に戦うのはなぜ?

 

 意識が混濁していく。

 

 ――あなたは、強くない。

 ――気高さと、忠誠で、寂しさを埋めてるだけの、普通の子。

 

 耳を塞ごうとするその意思さえ、どうしようもない安らかさの中で、萎え果てていった。青い光が心に満ちていく。

 

 

     *

 

 

「む」

 

 鎮守府の提督室。出撃が終わり、潜航した潜水艦のように静まり返った室内で、提督は呻いた。

 それは、漠然とした悪い予感だった。

 机から人事ファイルを引っ張り出し、気になっている点を確認する。それは各艦娘の簡単な経歴だった。

 提督だけに閲覧が許されている、各艦娘のバックボーンに関する情報だ。

 

(艦娘と艤装の間には、相性がある)

 

 それは、どれだけ艤装が持つ力を引き出せるか、という問題だった。

 艤装はかつての艦の記憶を持つ、一種の擬似人格である。それとより強く同調するほど、その力を強く引き出せる。

 だが、艦娘と深海棲艦は、海に沈んだ思いを原動力とする点では同じだ。

 艤装とより強く同調するということは、深海棲艦により近づくということでもある。

 

「魔に魅入られる……いや、まさか、な」

 

 提督が呟く。そこで、机の上の電話が鳴った。

 

「……鈴谷の、容体?」

 

 

 

 東シナ海の空を、歪な形の艦載機が滑っていく。

 

「みつけた。あと、すこし」

 

《了解した。あのSOSのモールスとは、大分離れた位置だったな》

 

「くまの、たすける」

 

《一つ、聞いていいか》

 

「ん」

 

《君は随分、熊野さんを気に入ってるな》

 

「し、しんぱい、なの」

 

《心配?》

 

「くまの、いちど、しずみかけた」

 

《バシー海峡でか》

 

「そう。でも。ふつうは、あそこまでしずんだらもうかえってこれない」

 

《君が引き揚げたんだろう》

 

「だとしても。こころが、“わたしたち”になってしまうの」

 

《……よくわからんな》

 

「だから、きけん」

 

《危険?》

 

「くまの、ひょっとしたら。あ、あのときから、ず、ず、ずっと、さかいめに、いるのかもしれないの」

 

《境目ねぇ。鉄のカーテンでも敷かれているのかい》

 

「でも、くまの、かえってくる。くまの、つよい」

 

《……ま、それはそうかもしれん》

 

「だからわたしはしりたいの」

 

《何をだね》

 

「かんむすの、くまのの、ぱわーのみなもとを」

 

 わたしには、きっとないものだから。

 そう付け足した声は、エンジンの轟音にかき消されていた。加給機が動作し、速度が上がる。

 

 

     *

 

 

 熊野の意識は、混濁していた。

 昔の記憶が津波のようにやってきて、波に翻弄される小舟のように、心が弄ばれる。

 深海棲艦に勇敢に立ち向かう艦娘といえど、弱点のない無敵の存在ではない。

 いや、誰だってそうだろう。ひょっとしたらあの赤松中将でさえそうかもしれない。

 熊野にも、昔の記憶があった。それも、辛い記憶だ。

 できれば触れたくはない。心の中の、そっとしておきたい部分。

 頭に響く声は、それに遠慮なく触れて来た。

 

 ――どうして戦うの?

 

 熊野は応える。

 視界も、平衡感覚ももはや失われ、意識の中で思うだけだったが。

 

(それが、役目。艦娘の、使命だから)

 

 声はせせら笑った。

 

 ――使命? 寂しかっただけでしょう。

 

 幼い頃から薫陶を受け、醸成された誇り。だがそれを授けてくれた人たちは、みんないなくなってしまった。

 だから熊野は、艦娘になれると知った時、迷わずその使命を受けたのだ。

 心に棲むその真っ直ぐさが、かつての故郷を思い出させる唯一のものだったから。

 そうして戦って、凌いで、持ちこたえて。やがて鈴谷のような仲間ができて、熊野は悲しみを乗り越えたのだと思っていた。

 でも駄目だった。

 バシー海峡から帰ってきたときのように、ふとした時に弱さが顔を出す。

 どんな気高く振る舞っても、人間の少女に過ぎない。

 結局、目を背けて、我慢しているという事実さえも、思い出さないようにしていただけなのだ。

 

(わたくしは……)

 

 周りがひどく暗い。全身の感覚もない。だが奇妙な浮遊感と、倦怠感が全身に霧のようにまとわりついていた。

 だが、ふと遠くの方に光があるのを見つけた。

 それはどんどん大きくなり、熊野の網膜を焼く。

 明るさに目が慣れると、それが船の上から見る光景だと分かった。揺れる水平線に、快晴の空、そして穴だらけの甲板。男たちがその上で慌ただしく動き、上空には敵の航空機が飛んでいるのが見えた。

 軍艦としての、重巡洋艦『熊野』の記憶かもしれない。そして記憶は、かつての重巡洋艦『熊野』もまた、故郷への道半ばで果てたことを教えていた。

 過去と、今。

 2つの時間軸の中で起こった終わりの光景が、熊野の中で入り混じっている。コインの表と裏のように、過去と今がくるくると入れ替わる。

『艤装にも、クセがあります。どんな時にやる気を出すか』

 明石の言葉を、ふと思い出した。

 熊野は、自分がなぜ重巡洋艦『熊野』の艤装を背負えたのかを察した。それは故郷を失ったという点で、結びついていたからなのかもしれない。

 そして今まさに、艦の『熊野』と同じように、故郷への道半ばで果てようとしている。

 

 ――諦めなさい。

 

 頭がぼんやりしていく。

 

(わたくしは、精いっぱいやった)

 

 精も根も尽き果てた。弾薬も。艦載機も。

 敵も強い。悔いが残らない相手だと思う。責務も、復讐も、もう十分果たしたと言えるのかもしれない。

 女性の声が、優しく言った。

 

 ――“わたしたち”になりましょう。

 ――そこには、自も他も境はない。喜びも悲しみも1つに溶けあうからこそ、苦痛もない。

 ――完全でしょう?

 

 魅力的に聞こえた。とても抗えない。

 耐えて、凌いで、持ちこたえて。心のエネルギーを、すっかり出し尽くしていた。

 

 ――諦めなさい。

 

(諦める?)

 

 だが、その事実に心のどこかで違和感が頭をもたげた。

 それは幼い頃から叩き込まれた海軍魂だったのかもしれない。鎮守府での日々だったのかもしれない。

 

(諦めるのは、いや)

 

 投げ出したくない。立ち止まりたくはない。

 こう思うのは、敵への復讐のためか。それとも、過去への悔いだろうか。

 多分、どれでもあって、どれでもない。

 熊野が今まで生きて来た思い出の一つ一つが、船の錨のように、熊野の意識を繋ぎとめているのだ。

 故郷での出来事。不知火や、川内、青葉といった鎮守府の仲間。

 普段なら気にも留めないようなことが次から次へとやってくる。

 そして、鈴谷。

 第七戦隊の僚艦で、一番の親友。

 彼女は、意識を失う前に、『気にしないで』と口にした。

 

(気にしないで?)

 

 何を馬鹿な。そんなわけがないじゃないか。

 まだ、言いたいことがある。せめて、もう一度だけ話したい。

 熊野は背中に熱を感じた。

 艤装が熱を発し、冷え切った体を温めていくのだ。まるで機関が始動前に暖気されていくように。

 軍艦としての重巡洋艦『熊野』は、大破し、半ば漂流するようになりながらも本土を目指した船だ。嵐に遭っても。魚雷を受けても。空襲に止めを刺されサンタクルーズの海に消えるまで、士気高く本土を目指し続けた。

 その魂は、あがき続ける少女を見捨てようとはしなかった。

 熊野は、無意識に口を動かしていた。それは背負った艤装から、脳内に流れ込んでくる言葉と同じだった。

 

 『進め。前に』

 

 意識が、急速に浮上した。

 機関が始動、猛然と燃焼を開始する。タービンが回り、スクリューが動く。

 目に見えない力が、水中に引き込まんとする力に抗う。

 艤装に籠められた暗い思い。本来的には、深海棲艦のそれと何の違いもないそれを、復活した熊野の意識が取り込み、意味づけ、別のものに転化させていく。

 かつて沈んだ艦の思いが、艤装の動力源だとすれば。

 艦娘の意思は、それをさらに激しく燃焼させる触媒だ。

 

(わたくしは、進む)

 

 絶望に襲われても、思い出を糧にすることはできる。そして降りかかる苦難すら、新たな思い出に変えて。

 一秒でも。

 それが例え一億分の一秒でも、前に進み続けるのだ。

 

 ――そう。

 

 急速に浮上する意識の中で、女性の声が寂しげに言った。

 

 ――あなたは、強いのね。

 ――『そう』できるだけのものが、あなたにはあるのね。

 ――でも、できない人もいるのよ。

 

 やはり、大人びた喋り方とは裏腹に、女性の声は幼い少女のものによく似ていた。

 艦娘で言えば、駆逐艦くらいだろうか。

 

 ――わたしの救いは――

 

 暗闇はそこまでだった。

 網膜を焼く光と、落下の感覚。

 熊野は現状を認識する。

 そう、自分は、砲撃で吹き飛ばされたのだ。落下はまだ継続中だ。

 四肢に力が入る。腕を振って、体勢を整えて。まずは脚から着水する。勢いのままに前に倒れ、そのままさらに一回転、一時的に海面に仰向けになる。

 

(倒れる――!)

 

 缶に水が入ったら、それだけで水蒸気爆発の危険があるのだ。

 そう思った時、脳髄の片隅で、船体の情報が勝手に明滅した。

 

 機関一杯。両舷全速。

 

 船体が復原力を発揮する。

 気づくと熊野は、何かに背中を押されるようにして、体勢を立て直していた。

 振り返ると、すぐ傍で青葉が倒れ掛かっている。曳航索が切れ、バランスを失ったのだ。

 熊野はほとんど無意識の内に、手を伸ばして、青葉の腕を掴んだ。

 青葉が自殺行為だとばかりにぎょっとする。

 

「熊野さん!?」

 

「いいから!」

 

 熊野と青葉は、もつれるようにして再び航行を始める。

 敵の砲撃は相変わらず激しい。腹に響き、頭がくらくらする。だが熊野は、その中に微かな戸惑いの気配を感じた。

 なぜ、そこまで。

 そんなところだろうか。

 笑みが浮かぶ。自分でも分からない。だが艤装との一体感が、熊野に確実な自信を与え、進むためのエネルギーを与え続けていた。

 その奮闘が、敵をも苛立たせ、戸惑わせている。

 それが青葉にも伝わったのか、彼女もすぐさま生存へ頭を切り替えた。

 

「熊野さん! 前!」

 

 見ると、特大の水柱があった。

 

「突っ込みますわ」

 

「ひゃ、ひゃー、了解!」

 

 挟叉を狙う敵には、水柱に寄せた方が回避をしやすい。

 もう迷いはない。

 熊野は生き延びるため、さらなる前傾姿勢を取った。島は近い。せめて遮蔽物にはなる。ならばそこまで逃げ切ってやる。

 ざざ、と無線機が雑音を発したのはその時だ。

 熊野の手が止まった。

 雑音はどんどん大きくなる。その中に潜んだ意味を成す単語を、熊野の耳が捉える。

 

《くまの》

 

 聞き覚えのある、たどたどしい声だ。この電波状況で聞こえるということは、艦娘専用の隊内電話か。

 

《ひ、ひ、どい、よ》

 

 唇を尖らせているであろう、不満げな口調だった。

 頭に多くの疑問符が浮かんだ。

 この声は――。

 そんな熊野に応えるように、1機の深海棲艦載機が、熊野と青葉の頭上で宙返りを描いた。さっきからずっと艦隊を追跡していた機体だ。

 まさか、と思った。思ううちに声が来る。

 

《熊野さん》

 

 陽炎。

 

《熊野さん》

 

 不知火。

 

《熊野さん》

 

 翔鶴。それ以外にも、戦艦、巡洋艦、潜水艦まで次々と自分の名前を呼ぶ。

 

《あと、ついでに青葉》

 

「誰ですか今のぉ!」

 

 安堵と理解がさざ波のようにやってくる。胸に熱いものが込み上げた。

 佐世保鎮守府第1艦隊。

 仲間が迎えに来てくれた。

 

「遅いですぅ、もう」

 

 青葉も半泣きだった。自分の顔もきっと鼻血と涙でひどいことになっている。

 帰ってこれたのだ。

 焦ったのか敵の電探射撃がさらに激しくなるが、熊野と青葉は手でがっちり繋がって、それを回避していく。もうこの糸は決して離さない。

 やがて西の空に、黒い雲が見えた。敵の艦載機部隊だ。

 その下には、長い黒髪と両腕の砲を持った戦艦、ル級を中心にした艦隊が見える。一際小柄な人影は、駆逐棲姫の姿だ。

 そして、東の空。

 そこにも、黒い雲が出現していた。だが西のそれとは様子が違う。黒いのは先行している機体だけで、その後ろに輝く機影は、緑と白の光を放っていた。艦娘の艦載機である。

 異形の艦載機が、海鷲を曳いている。

 青葉が驚愕した。

 

「し、深海棲艦が、零戦を先導してる……!?」

 

 戦闘機を始めとした航空機は、長い距離を飛ぶ際、航法に優れた機体の後ろに付く。通常は複座式の爆撃機や雷撃機が戦闘機を曳くのだが、状況からして、深海棲艦の艦載機が先に熊野を見つけたから、先行して案内をしているのだろう。

 

「え、ええっと……」

 

 青葉があんぐりと口を開けて、熊野を見た。

 熊野は肩をすくめて面舵を切り、東へ進路を取った。

 

《五航戦、翔鶴、出撃します》

 

 艦隊旗艦『翔鶴』の声が届く。

 

《遅いお帰りね。鎮守府の門限は8時よ》

 

「色々ありまして」

 

《素敵なお土産話は、妖精から沢山聞きました。あなた方は、司令船へ退避を》

 

 熊野は心強さを感じた。

 だが耳の奥に、妙な言葉が海鳴りのように残っていた。先ほどの暗闇の中で聞いた言葉だ。夢の終わり際、あの声は確かにこう言っていた。

 

 ――私の救いは、この蜃気楼の中に。

 

《くまの》

 

 ヲ級の声がした。熊野は慌てた。

 

「ちょ、ちょっと? まさか、あなたも?」

 

《うん。たたかう》

 

 その無線の後ろから、回流丸の船員の声が聞こえて来た。曰く、やっと見つけた、とか、無事だった、とか。みんなして、お嬢、お嬢、と言っているのが気になったが。

 

「……いつの間に、手なずけたんです? なんというか、色々と」

 

「おだまり」

 

 ぴしゃりと言って、今度こそ熊野は仲間たちの方へ向かった。

 その上空を、鉤爪のような形の航空機が過ぎていく。

 深海棲艦の爆撃機だ。だが熊野は、一瞬だけその艦載機達が、艦娘の艦載機のような正しい航空機の形に見えた。

 ずんぐりした胴体に、高速回転するプロペラ。その周りを追いついて来た零戦が飛び去っていく。

 

《いまのわたしは、こわいものをしらない》

 

 怖いもの知らず(ドーントレス)の編隊が、頭上を駆け抜けていった。

 

 

     *

 

 

 日     時:8月15日13:45(明石標準時刻)

 作 戦 領 域:佐世保鎮守府 病院棟

 コンディション: ―

 

 

 佐世保鎮守府の病院棟で、最上型重巡洋艦『鈴谷』は未だ眠り続けている。熊野の僚艦だ。

 窓からの陽光がその安らかな寝顔を照らしている。脳波計がもたらす電子音は、それが責務であるかのように一定のリズムを刻んだままだ。

 意識が戻る兆候は、未だない。

 だがその口元には、いつの間にか微かな笑みが結ばれていた。

 来るべき何かに備えるように、瞼が震える。

 それはここではない、ずっと彼方から聞こえてくる誰かの声に、反応したものかもしれなかった。

 

「くま、の……」

 

 脳波計の電子音が、微かに早くなった。

 

 





 せっかくの長編なので、伏線でもゆるゆると回収しつつ。

 次回、ようやっと空母対決が書けます。
 サラトガ+翔鶴とか、なんかかつての敵同士が、みたいな感じを出したいところです。
 当時のエースパイロット同士が出会って和やかに話し合う、みたいな話は聞きますが艦同士だとどうなんですかね。

翔鶴&サラトガ「ただし潜水艦、てめーはダメだ」

そうだね。



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