空母ヲ級運用指南 ~蜃気楼の海~   作:mafork

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【あらすじ】

 敵海域のど真ん中にいた熊野達は、一計を案ずることでなんとかその海域を離脱せんとしていた。
 一方、佐世保鎮守府。彼らは捕らえている空母ヲ級の艦載機を、敵の海域と化した東シナ海へ放つことで、熊野達の行方と、海域の状況を偵察しようとしていた。

 しかし、深海棲艦は逃げる熊野達を追いかける。
 佐世保鎮守府と、深海棲艦。熊野達に伸びる手は、果たしてどちらが早いか――。


 (開始時からのより詳細なあらすじは、
  4章の『幕間劇』の末尾にもございます。初めての方は、よろしければそちらもどうぞ)




4-3.オ先ニ失礼

 

 

《色々な戦場があるんだ》

 

 無線機からは、沖田の声が聞こえた。

 擬似的に再現された、艦載機の操縦席。

 カタカタというプロペラ音も満ちている。雲の上を飛んでいるせいで、夏だというのに気温はひどく低い。風防の外に見える月は、覗き込んでくるように大きかった。

 

《私は予備士官だった。予備士官というのは色々種類があるんだが、意味合いとしては人材のプール。非常時に備えて、操船や、指揮、付帯的な事務作業、そういうことをこなす能力がある人を、確保しておくんだな》

 

「それが」

 

 ヲ級が言った。

 操縦席のパイロットと化した彼女は、今はヘルメットとゴーグルを身に着け、操縦桿を握っていた。丁度艦娘の妖精のように、本来は頭身の高い美少女であるはずの彼女も、今は二頭身の人形じみた姿にデフォルメされている。

 

「しゃちょ、が、かいぐん、きらいな、りゆう?」

 

《まだまだだ。落ち着け。まだそんな要素ないだろ。

 ……どこまで話したか。私は、商船学校の予備士官だった。ここの予備士官はな、ちょっと特殊で、まずは暗号解読班に回されるんだ》

 

「あんごう」

 

 ヲ級の記憶にも、暗号に対する覚えはあった。

 

《暗号解読は、とにかく語学に秀でた人間が大量に必要になる。商船学校の卒業生なんてのは、まさに打ってつけだ。大勢で机に座って、当時のしょっぱい機器で時たま傍受される、深海棲艦の通信に取り組むわけだ。夏場とか倒れるやつもいる。これはこれで戦場だ。

だが効果は容易に上がらず、私はやがて海上護衛の部署に移された。一度はそのまま満期除隊までいった》

 

「いちど、は?」

 

《……戦局悪化で、呼び戻されたんだよ。で、船団指揮船に乗せられて、また艦娘の指揮を取ることになった。小さな輸送の度に司令船が付いたら、士官が何人いても足りないからな》

 

「へー」

 

《で、佐世保の赤松の下で働いたわけだ。が、当時は妙に船団の被害が増えていてな》

 

 ヲ級は自身の記憶を探った。

 航空母艦『サラトガ』としての記憶。

 自身の記憶と言えるほど確かなものではないし、実感もない。だが知識として引き出すことはできた。

 

「あんごう」

 

《そうだ。そうなると、海上護衛の連絡に使われる暗号がばれてるんじゃないかって、話になる》

 

「どーだったの?」

 

《ばれてた》

 

 沖田はこともなげに言った。

 ヲ級の頭の中に、疑問符が生まれた。

 

「なんで?」

 

《それは、どうやって暗号がばれてるのを確認したのかって、話か?》

 

「うん」

 

《それはな》

 

 沖田は言いよどんだ。

 

《なぁ、本当にこの話聞きたいのか?》

 

「うん。これがさいごになるから」

 

 ヲ級は言った。

 

「わたしはしゃちょーをりかいしたい」

 

 長い沈黙が生まれた。

 その間にも機体は雲の上を滑っていく。目星の海域まではまだ少しの間があった。だがそろそろ高度を落として海面が見れる位置へ行く必要がある。

 ヲ級は高度計を確認。

 そして速度計と燃料の残数を見て、これまでの航路を確認しながら、そう推測した。もっと正確にやろうと思えばコンパスと海図、そして天測用の機器が必要だが、それは複座のもう片方、後部座席に座っているものの役目だった。

 それはいることは認識できるのだが、顔を見たことはない。ヲ級が取って代わることが――あるいは憑依が――できるのは、一機の艦載機の中の、一人のパイロットだけである。

 

《少し込み入った話がある。でも短くまとめたオプションがある》

 

「みじかいやつ」

 

《偽の暗号で深海棲艦を釣り上げた》

 

 沖田は言った。

 

《作戦は成功した。だが、犠牲が出た》

 

「ぎせい」

 

《ああ。私はそこで――その、大事なやつを亡くした》

 

「しんだの?」

 

《死んだ。だが暗号がばれてたなんて認めたくない軍令部と、佐世保でさらにひと悶着あってな。政治的な妥結の結果――》

 

「…………」

 

《暗号は変える。だがその暗号で護衛船団が被害を受け続けていた事実は、一切の公表をしない。我々の作戦も、最初からなかったことになった。私の失策は、単なる海上護衛での事故という扱いになっている。私たちの護衛艦隊は、トカゲの尻尾になったんだ》

 

 ヲ級は首を傾げた。

 何かがつっかえたように、その話の先に理解が進まない。

 

《わからん話だろ》

 

「うん」

 

《私にも自分の心の機微がよくわからん。でも、私の友人の破れ方を、隠して、なかったことにして、戦果も名誉も否定した海軍を、今までのように好きじゃいられなくなったんだ》

 

「それが、りゆう」

 

 ヲ級は問いかけた。

 

《そうだ》

 

 沖田は自嘲気味に笑った。

 

《これだけのことで、人間の好き嫌いなんて、変わっちまうもんなんだよ。それまでは、海軍びいきの一家だったんだが》

 

 沖田はそれ以降、何も語ろうとはしなかった。

 ヲ級も、何も言えない。沈黙が訪れた時、無線機が微かな音を発した。

 3短点、3長点、3短点の組み合わせ。

 それはSOS、緊急事態を告げる使い古されたモールス信号だった。

 

 

     *

 

 

 日     時:8月15日06:16(明石標準時刻)

 作 戦 領 域:琉球諸島 最西部 

 コンディション:風南2、積雲3、視程95、海上僅かにうねり

 

 

 運のよかった要素と、悪かった要素があった。

 運の悪かった要素は、先に脱出した川内達が、やはり潜水艦に発見されていたこと。運のよかった要素は、コンテナ船の囮に敵が引っかかったこと。

 遠くでコンテナ船の爆発が見えた時には、熊野達はその位置から少なくとも5海里は離れていた。川内達を発見していたらしい潜水艦も、さすがに巡洋艦の速度には追いつけない。

 現在の時刻を確認する。

 午前6時を少し回ったくらい。妖精の天測結果によれば、距離としては、80海里ほどは稼いだだろうか。

 だが沖縄本島までは、その3倍以上の距離を進まなければならない。時間にすれば、あと10時間程か。

 その間に、敵の空襲が起こらず、また、水上艦からの追撃もない、というのが最も幸運な結末だ。

 

「難問だね」

 

 川内は、熊野の不安にそう答えた。

 そう、それはまさしく難問だった。

 陽が昇ってからしばらくの間は、そのまま大過なく進んだ。穏やかな風と凪いだ海は、ふとした拍子に今の状況を忘れさせようとする。

 脱出した当初は荒れかかっていた海だが、夜の内にすっかり時化の気配は去っていた。

 

「ふむ」

 

 先頭を行く川内が息を吐いた。

 

「敵もいないけど、味方の『み』の字も見えないね」

 

「あっ」

 

 そこで、後ろから声がした。見ると、最後尾を航行していた青葉がバランスを崩していた。

 

「よ、え、ちょ、ちょっと」

 

「青葉?」

 

 熊野と川内は目を細めた。だがすぐに二人とも凍り付いた。

 青葉が昨日、潜水艦の雷撃で、足のすぐ近くでの水中爆発を受けていたのを思い出したからだ。

 

「主機がおかしいの?」

 

 川内が言うと、青葉は悔しげに俯いた。その後、噛みしめるような声が来る。

 

「……皆さん、すいません。青葉を置いていってください」

 

 合理性のある選択だった。

 だが熊野と川内は顔を見合わせ、お互いの意思を確認した。

 

「熊野」

 

「はい」

 

 川内に言われるよりも早く、熊野は曳航索を取り出していた。さっと青葉に近づいて、並走し、曳航索を手渡す。

 

「繋いでくださいまし」

 

「で、でも」

 

「青葉。あんた、対空電探あるでしょ? 安定はしてないけど、一応主機は動いてるし、あんたが抜けるのは早い。それに、今ここであんたが抜けても、もう囮にはなんないよ。ただの各個撃破になる」

 

 旗艦の言葉に、青葉は頷いて従った。

 

「先に言っておくよ。次、敵が来たら、隊を分断するかもだから」

 

 はい、と熊野は応じる。青葉が目を伏せるのが分かったが、かけるべき言葉は、見つからなかった。

 異変が起きたのは、それから1時間後だった。

 雲の近くに、艦載機の姿を捉えた。索敵機だ。敵か味方かは不明。

 敵なら気づくな、味方なら気づいて、と念じる間に、それはどんどん接近する。黒い点がだんだん大きくなり、鉤爪のようなシルエットが確認できるようになる。

 青葉が肩を落とすのが分かった。これで通報されてしまうだろう。

 川内が熊野に、目で合図をした。

 熊野に残された水上機、『瑞雲』を放てと言いたいのだろう。

 敵の空母の近く、あるいは対空電探の網の中で放てば、あっという間に見つかって落とされてしまうかもしれない。対空用の電探は、地球の丸みに電波が阻害されない分、水上艦を探す電探よりも遥かに射程が長いのだ。

 だがこれ以上、敵の本拠地から離れることは難しく、もはや安全策を取っている時間はなかった。

 熊野は、川内に従った。

 

「とう!」

 

 息を吐き、熊野は発艦の操作をした。

 だが、瑞雲は左腕の飛行甲板に留まったままだった。一瞬で血の気が引いた。

 航空巡洋艦のカタパルトは、不調にならないといけない決まりでもあるのか。

 

「く、熊野!?」

 

 川内が吃驚する。熊野は首を振って、やけくそ気味に左腕を一度大きく後ろに流した。そして渾身の力で前に振る。

 遠心力でカタパルトが刺激されたらしい。

 左腕のカタパルトは役目を思い出したように作動し、やっとのことで瑞雲を空へ打ち上げた。

 遠心力で勢いがついたからか、瑞雲の速度も心なしか乗っている。

 敵の偵察機は、巡洋艦からいきなり高性能の航空機が飛び出してきたのに慌てたらしい。大きくバンクして引き返そうとするが、高度を下げていたのが災いし、すぐに瑞雲に背後を取られた。

 2機はしばらく巴戦をしていたが、ほどなくして瑞雲が敵を撃墜した。

 ばらばらになった深海棲艦載機が、体液とその他の中身をばらまきながらバウンドする。

 

「熊野さん」

 

 青葉が安堵の息を吐いた。

 川内もほっと息を吐き、人差し指で西の空を指す。熊野は頷き、瑞雲をその方向に向かわせた。

 緑の艦載機、そしてその操縦妖精は熊野達にしばし名残惜しそうな視線を向けた後、西へ向かって去っていった。

 運が良ければ、味方がその機体を拾ってくれるだろう。そうすれば、少なくとも熊野達の働きに意味が生まれる。

 

「さて」

 

 熊野は呟いた。

 青葉の艤装と繋がる曳航索を確かめて、前へ向き直る。

 残り、200海里。

 敵の艦載機なら、ゆうに東シナ海を一周できるような時間が残されていた。

 

 

     *

 

 

 索敵機による偵察は、ソナーに近い面を持つ。

 ソナーはピン音を打って、跳ね返ってくる音で敵の位置を推察する。索敵機の場合も、敵に遭遇し、帰ってきた索敵機から敵の位置を推察する。違うのは、反射――すなわち索敵機が帰ってこなかった場合こそ考えることが多い点だ。

 全身の粘液を陽光に光らせながら、空母ヲ級Flagshipと呼ばれる彼女は、索敵の結果を総合した。

 

「ミツケタ」

 

 三日月のような笑み。

 グレーのスーツに沿って、金色の光が迸る。大きな帽子が口を開け、汽笛のような声で吠えた。

 すると、帽子の口の中から無数の艦載機が吐き出される。まるで洞窟から飛び出るコウモリだ。

 

「イケ」

 

 艦載機は群れを成すと、一直線に西の空を目指した。

 飛行機の音が完全に消えると、海上は静かになる。波は穏やかで、島の海底に棲息する珊瑚の色がよく見えた。

 

「サンゴ……ウミ……」

 

 何か思うことがあるのか、彼女はそうとだけ呟いた。

 

 

     *

 

 

 熊野達が洋上を進んでいると、見張りの妖精が敵機の発見を報じた。

 進路はこちらに真っ直ぐ。数は戦闘機と爆撃機、雷撃機が混在した、60機だ。

 

「ろく、じゅう」

 

 川内が嫌そうな声を出した。

 

「私達、大人気だね」

 

 川内が言う。傷を負っている青葉の顔は、もはや蒼白そのものだ。

 青葉の口は先ほどから意味ありげに震え、横顔からも、何かを言いかけているのが分かった。

 

「置いて行ってください」

 

 熊野と川内は、すぐには答えられなかった。

 2人の考えていることは同じだ。空襲で受けるであろう損害と、それによって低下する速力、そして次の空襲までの時間を考えている。

 ここで青葉がさらに負傷し、速力が低下したら、沖縄までの到達時間はさらに伸びる。でも、佐世保も馬鹿ではないはず。沖縄本島よりも先に防衛ラインを設置している可能性もある。

 そこまで逃げ切るだけでもいいのだ。

 どの道、川内達が生き残るには、味方と合流するしかないのだから。

 でも仮に安全圏まで退避できず、再度の空襲を受けることになったら――。いや速度の下がり方によっては、追撃してくる艦隊に捉えられることだって――。

 

「救難信号は!?」

 

 熊野の疑問に、川内が応じた。

 

「もうやってる! でもやっぱり応答がない!」

 

「ああもう!」

 

 情報が欲しかった。

 味方の動きさえ分かれば、もう少し考えられるのに。凌いだその先があるのか、それが知りたかった。

 

「いいんです」

 

 青葉が笑った。塩水や何だかで、べとべとになった顔だった。

 

「ぎりぎりまで青葉を曳いてくれて、感謝してます」

 

 青葉が最後に残っていた、連装砲を構えた。片門が潰れて、一門だけになった連装砲。

 その砲口を、脇腹から伸びる曳航索に押し当てた。

 

「待ちなさい。青葉」

 

「冷酷な判断が、必要です。熊野さん、あなたにならそれが分かるはずです」

 

 青葉は、艦の時代、熊野の曳航を断念した。

 砲撃。

 曳航索が千切れ、熊野の速力が瞬間的に増した。20ノット近く出ていた艦隊の速力は、一瞬で青葉を置き去りにする。

 彼女の姿がどんどん小さくなっていく。まるで谷底に落ちていくかのように。

 

《追わないでくださいね》

 

 隊内電話で、青葉の声が来た。

 

《青葉、後進かけてます。囮やりますよ》

 

 青葉、と熊野は叫ぼうとした。本当は戻りたかったが、それはできなかった。

 彼女達には、すでに空襲が迫っていたからだ。

 黒い雲となってやってきた敵機は、まず青葉に殺到した。青葉の小さな姿が、水しぶきと爆炎で見えなくなる。

 もはや心配している暇もない。

 生存への本能が、瞬間的に戦友の死をシャットアウトした。

 

「対空戦闘!」

 

 撃ち方始めの令より先に、もう射撃は始まっていた。

 熊野と川内、それぞれで生き残っている高角砲が火を噴いた。青空に曳痕弾の軌跡が伸び、黒煙を噴く敵機もあった。巡洋艦2隻による弾幕に、敵は一瞬編隊を崩したようにも見える。

 だが敵の数があまりにも多すぎた。おまけに艦隊からは青葉が抜け、熊野達もすでに対空砲を幾つも喪っている。

 戦闘機が熊野と川内の周囲に群がり、船体に機銃掃射を始める。周囲を高速で飛び回る機影に、砲の照準が幻惑される。

 まるで鳥葬。ついばまれるまま、殺される。

 

「敵機直上! 急降下ぁ!」

 

 遥か上空から、太陽を背にして、敵機が飛び込んで来た。

 海面付近には、波すれすれを飛行する雷撃機の群れも見える。

 逆光でとにかく見にくい。

 投弾の音がする。ピーナッツみたいな形の爆弾が、確かな破壊力を引っ提げて、巡洋艦に降ってくる。

 

「雷跡! 3-5-0!」

 

 川内の報告に、熊野は注意力を振り絞って左を向いた。

 海面に白い筋が見える。的確な未来位置の予測だ。

 

(この空母、練度も、高い――!)

 

 熊野は取舵を叫んだ。川内も何か叫んだが、聞こえない。

 轟音と水柱が、檻となって熊野を包み込んだ。

 

 

 3隻に徹底的な破壊をまき散らし、飛行機は去った。

 黒い雲が遠くへ去っていく。数が減ったようには見えない。遠からず、またなぶりに来るだろう。

 しかし危機が去ったわけではない。水平線の付近に何かいる。

 あれは、雷撃機か。どこにも要領が悪いものがいるもので、投弾に失敗したか、適切な進入角度を取れなかったかで、空襲で魚雷を放ち損ねたのだろう。

 戦果ゼロは寂しいから、今ここでただ浮かんでいるだけの重巡洋艦に、一発だけ撃って帰るつもりだろう。

 敵が高度を下げ、雷撃体勢に入った。

 

(舐めるな)

 

 一門だけ残った砲を、雷撃機に向けた。

 砲を抱え、相手に向けるだけで激痛が走る。肋骨か。両足もやばい。目が赤く滲んで、照準に障る。

 太陽を背にしやがって。こんな時でも、一応はセオリー通りに来るのかと感心する。

 

(この一発だけでいいから……!)

 

 砲撃、命中。

 放たれた砲弾は敵機の真正面から侵入し、機体を裂くようにして後ろへ抜けた。

 船体の左右で、機体の残骸がバウンドしながら後ろへ過ぎていく。

 それでも姿勢を崩さなかった。虚空に向けて砲を向けること数十秒、やがて視線を周囲に向け、完全に敵機がいなくなったことを確認する。

 砲を下げ、身をよじって顔をしかめると、苦痛が生命を告げた。

 驚いた、自分は――重巡洋艦『青葉』はまだ生きている。

 でも痛い。

 痛いのだ。猛烈に左手が痛い。視界がおかしいし、顔の中がひりひりする。音も変な聞こえ方だ。

 主機は動くか?

 奇跡だ、動く。スクリューシャフトがおかしいらしく変な音がするし、当て舵も必要そうだが、とりあえずは動く。

 だが、それが何の慰めになるというのか。

 青葉は滲んだ視界で、味方が去って行った東の海を見た。

 自分が敵を引きつけた分、彼女たちが楽になっていればいい。

 そう思っていると、視界が何かを捉えた。海面に浮かぶ、黒い点だ。目の損傷か、敵機かと思った。

 だがそれは徐々に近づくにつれて、人間の姿に近くなる。

 青葉は目を見開いた。

 

「ふ、ふたりとも……」

 

 姿を見せたのは、熊野と川内だった。

 2人とも、ひどい姿だ。川内は左手の艤装がほとんど脱落し、体にも弾を受けたらしく、航跡に沿って赤い帯を曳いていた。

 熊野はさらにひどく、背負った艤装からもうもうと黒煙が上がり、右肩の服がはじけ飛んで肌が見えている。血がひどくて傷のほどは分からない。ショルダーバッグのように提げていた主砲は、両門が潰れていた。不発弾が直撃でもしたのか、ペンキかと思うほどの鼻血も出していた。

 

「も、戻って、来たんですか?」

 

「ええ」

 

 そこで、熊野は咳払いした。こんな時でもハンカチを出すのが彼女らしい。

 

「主砲の音が聞こえましたので。もしかしたらと」

 

「置いていけばいいのに!」

 

「それも考えたんだけどね。でも3人ともこうまでやられちゃ、どの道みんな速度も出ないし、青葉がいるからって艦隊の速度が下がることもない」

 

 川内が仏頂面で言った。考えた上での結論らしい。

 

「これじゃ、どうせ次の空襲にも捕まる。2人より3人の方が、的がばらける」

 

 川内は続けた。

 だが青葉は、そこに甘さを感じた。次の空襲は刻一刻と迫っている。探しに来て、結局自分が航行できなかったり、沈んでいたりしたらどうするつもりだったのだろう。

 結局、これなのだ。

 艦娘は甘い。それがきっと、司令船が艦娘に付く理由だ。

 もっとも、今はそれに助けられたわけだけれど。

 

「あなたが佐世保暦が一番長い。あなたを失ったら、提督に大目玉ですわ」

 

 ぼろぼろの熊野が言った。青葉に曳航索を差し出しながら、

 

「さぁ、繋いで」

 

 傷だらけで、鼻血を出した彼女だが、その時の顔は逆説的な美しさを帯びていた。

 

「帰りましょう」

 

 青葉は曳航索を艤装に繋いだ。

 逆境に抗う者にできることなど、他にない。

 耐えて、凌いで、持ちこたえ、状況の好転を待つ。戦士が死ぬのは、それからだ。

 

(でも)

 

 青葉は、思う。

 この場に戻ってきて、今もう一度青葉に曳航索を差し出してくれた熊野に、青葉は微かな違和感を感じていた。危うさ、といってもいいのかもしれない。

 熊野のその真っ直ぐさの裏には、どうしてだか暗い影がべったりと貼りついているような気がしたのだ。

 強すぎる光が、闇をより一層際立たせるように。

 この厳しすぎる状況ですら、その真っ直ぐさを貫けることに、青葉はかえって熊野の闇を見た。

 主機を奮い立たせて、前に進む間も、その違和感が拭えなかった。

 

 『才能は随一。不安材料も随一』

 

 噂好きが高じて耳にした、彼女への上層部の評価をふと思い出してしまっていた。

 

 




 お読みいただきありがとうございました。
 次回は、次の土日での更新を予定しております。

 なお、艦載機操縦時のヲ級の頭身は、ねんどろいどくらいの感じかと思われます。
 かわいい(確信)




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