空母ヲ級運用指南 ~蜃気楼の海~   作:mafork

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【あらすじ】
 佐世保で捕らえられている空母ヲ級の正体。
 それは海外艦サラトガの記憶を持ち、それゆえに自我を持った空母ヲ級であったことが判明した。

 一方、東シナ海で消息を絶った艦娘達。
 彼女達もまた、ある決断を下しつつあった――。




4-2.あぎとの中

 日     時:8月14日23:10(明石標準時刻)

 作 戦 領 域:琉球諸島 最西部 沖の北岩

         コンテナ船『FSC Tomoko』

 コンディション:風北3、積雲1、視程50、海上うねり

 

 

 寄せては返す波の音だけが、船の中で時の経過を刻んでいた。

 座礁した貨物船の廊下は、悪夢のように傾いて、照明も死んでいる。3人の艦娘の船灯だけが、真っ暗な廊下で頼りない光を放っていた。

 

(ここは……)

 

 うとうとしていた熊野は、ゆっくりと目を開けながら、自分の状況を点検した。

 全身に軽微な傷。砲が幾つか脱落、魚雷の弾数僅か、水上機残数1。

 損害は、小破。

 身じろぎすると、傷以外の理由で体の節々が痛い。壁に背中を預けていたのだが、背負った艤装のせいでいつの間にか変な体勢になっていたようだ。

 身体を動かすついでに、膝を抱え、右足の包帯を結び直す。

 その微かな動作が起こす衣擦れの音さえ、静まり返った船内ではいやに大きく聞こえた。

 

「起きました?」

 

 熊野の近くで、青葉が同じように座り込んでいる。

 熊野達は今、交代で睡眠を取り合っているのだ。戦いが続くと、知らず知らずのうちにベストを尽くせなくなっていく。寝るという単純な行為も馬鹿にできない。

 

「寝れました?」

 

「ええ、なんとか」

 

「私も、もう元気です」

 

 そう言う彼女も、全身に傷を作っていた。損傷は、熊野よりもさらにひどい。高角砲や魚雷発射管がほとんど脱落し、20cm連装砲が一門だけ申し訳程度に残っている。

 中破と大破の間、といったところだろうか。

 浮かんでいる笑顔は、心配させまいとする空元気だろう。目元には笑顔でごまかしようがない隈が浮かんでおり、普段明るい娘なだけに痛ましい。

 

「私のミスだ」

 

 血を吐くような声がした。

 艦隊の旗艦、川内である。

 彼女は立っており、丸い窓から時折外の様子を伺っていた。小刻みに震える肩は、悔しさか、傷の痛みによるものか判然としない。

 

「台湾方面じゃなく、沖縄の方へ戻るべきだった。もっとちゃんと、台湾海軍の状況を質しておけば」

 

「でもですねぇ。あの場では台湾の方が近かったですよ」

 

「そうですわね。そもそも、司令船の指示も、それに則ったものでしたわ」

 

 熊野もこれに同意する。

 今日の夕方、接近してくる敵艦隊に対して、熊野達は囮になる選択をした。それは民間船の救助をする不知火達と別れて、台湾方面に向かうという選択肢だった。

 この決定をした理由は2つ。

 純粋に距離的な理由と、政治的、戦略的な理由だ。

 逃げ込むほどの港や防衛設備がある沖縄本島までは、300海里はあった。が、台湾まではもはやその3分の1以下だった。

 また、中華民国の首都『台北』付近には軍港もあるし、同国の艦隊も来ているはずだった。救援しないわけにはいかなかったし、それが結果として救助をしている陽炎と不知火への時間稼ぎとなる。

 様々な要素が、当時の川内の選択を支持していた。

 

(問題は、敵の戦力が予想以上だったこと)

 

 認めたくはないが、東シナ海という近場に対して、楽観があったのだと思う。

 だが敵の戦力はまさに無尽蔵というほどで、駆けつけた頃には、台湾の海軍はほとんど海の下だった。熊野達は彼らを助けるどころか、数隻を引きつけて夜闇に紛れるのが精いっぱいであった。

 

「途中で引き返せて、むしろ幸運でした」

 

 青葉が言うと、3人に重たい空気が垂れ込めた。

 幸運。

 言った当人の青葉でさえ、図らずも皮肉なってしまったのを察したのだろう、ばつが悪そうにぶすっと付け足した。

 

「この状況が、幸運と言えれば、ですけどぉ」

 

 強力な敵編成に、3人は逃走を図った。

 だが深海棲艦が蔓延る『泊地化』した海域では、時に羅針盤さえも狂う。方向感覚が失われるのだ。雲が出て、天測もできなければ尚更だ。

 熊野達は羅針盤を信じて航行したが、実際には北上していたらしい。

 そしてその最中、水平線の上に無数の船舶らしき影があるのを見つけ、合流を図った。船団だと思ったのだ。だがこの海域に船団など、もはやいるはずもなかった。

 

「外も、相変わらずだね」

 

 川内が窓から外を覗く。

 熊野も足の痛みを堪え、立ち上がって外を見る。光が漏れるとまずいので、艤装の船灯は消しておいた。

 外はまるで船の墓場だった。この海域を通った船団が喰われたのだろう、あちこちで船の巨大な影が月明かりに照らされている。そしてそのほとんどが、座礁していたり、スクリューを破壊されたものだ。原油を満載したタンカーや、中華民国(台湾)海軍の軍艦のシルエットも確認できる。

 3人が迷い込んだのは、海域を航行する船団などではなく、深海棲艦に捕らえられ、この海域に置き去りにされた船の群れの中だった。

 脱出どころか、ここは敵の海域の中心だ。

 

「この船見つけなかったら、やばかったね」

 

 このコンテナ船は、船底に穴が空いているらしく、艦首の大部分を沈める形で座礁していた。おかげで熊野達は、たやすくその甲板に這い上がり、船内に身を隠すことができていた。

 船内であれば、敵の電探の目も届かない。

 

「哨戒任務で、輸送船とすれ違わなかった理由が、これで分かるね」

 

 窓の外を見ながら、川内が言った。

 

「あのマストの形……覚えてる。ヒ13号船団の船団指揮船だ。小規模な船団だったし、丸ごと、この海域に呑まれたんだ」

 

 艦娘達の推測は、恐らく船団を包み込むような形で、急きょ深海棲艦の大群が浮上してきたというもので一致していた。

 

「主な積み荷は、ゴム、錫、それにボーキサイト。どんだけ、会社が傾くのかな……」

 

「そっちは、せめて保険屋さんに期待しましょう」

 

 熊野は目を伏せた。

 

 ぶにゅる

 

 その時、口の中に、『何か』がひり出された。

 

「ひゃ……」

 

 いつもの悲鳴を、なんとか堪える。

 閉じた口、で咀嚼。

 生暖かい、泥のような食感。いかにも合成甘味料です、といった具合の、濃厚な甘さと鼻に抜けるグレープの匂い。

 艦娘用の携帯食料だった。

 目線を顔のすぐ脇に向けると、二頭身にデフォルメされた人型――艦娘にのみ知覚できる『妖精』が、携帯食料のチューブを熊野の口に突っ込んでいた。

 

「ありがとう」

 

 苦笑して言うと、妖精は、ふっと消えた。彼らは砲術、索敵、それぞれ仕事を持っているが、こんなこともやってくれる。

 たとえば――

 

「そう、わかった」

 

 川内が時計を見るようにして、左腕にしがみつく妖精と会話していた。

 青葉が顔を上げる。

 

「いいニュースをお願いします」

 

「残念」

 

 川内は肩をすくめた。

 

「やっぱり、このコンテナ船は完全に無人だ。妖精が言うんだから、間違いない。機関も死んでる」

 

「ありゃま」

 

「まぁ、見回った時から、わかってはおりましたけど」

 

 深海棲艦の巣食う海域では、時たまこういうことが起こる。無人の船を座礁させたり停泊させたりして、船を構成する『鋼材』、『燃料』、場合によっては『弾薬』を資材として貯蔵するのだ。

 なお、この場合、元々乗っていた人間が発見されることはない。

 しかし、普通の深海棲艦は、真っ先に船を沈ませようとする。

 貯蔵は、未来を思っての行動だ。普通の深海棲艦にはそんな知恵はない。

 導かれる結論は1つだった。

 

「敵に、相当に頭のいいものがいる」

 

 川内の結論に、熊野と青葉は同調した。

 深海棲艦の賢さは、指揮をする海域の長によって大きく左右される。

 

「もう1つ。この船の墓場が、敵の貯蔵庫だとすれば、ここは敵の懐そのものだ」

 

 羅針盤に惑わされている内に、敵の貯蔵庫を発見し、何も知らずにそこに引き寄せられてしまったというわけだった。敵が意図したものではないだろうが、熊野達はまたしてもまんまと釣り餌に引っかかってしまった形だ。

 

「敵の戦力は、とにかく大艦隊だった。多分、それが今も近くにいる」

 

 青葉が乾いた笑みで応じた。

 

「空母に、戦艦に……」

 

「いやになりますわ。まったく、とんだ貧乏くじ」

 

 青葉の呟きに、熊野が呆れ声で返す。

 

「水雷戦隊もいましたね。艦娘みたいな、人型の……」

 

 と、これも青葉。

 何か思考に引っかかっているようで、思案気な顔をしていた。

 

「ええ、確かに……」

 

 熊野の目に、憎悪の光が宿った。

 あの水雷戦隊、特に、人型の駆逐艦。見間違えるはずもない。あれは僚艦でもあり親友でもある『鈴谷』を大破させられた時に、敵の旗艦であったものだ。思えばバシー海峡で被雷した時も、あれに似た影があったような気がする。

 駆逐棲姫。

 宿命の相手。そんな気がした。

 応じるように、窓の外で動きがあった。

 

「しっ、静かに」

 

 そう言って、川内が人差し指を唇に当てる。様になった仕草だ。忍者のような恰好をしているため、余計にそう見える。

 窓の外、数キロ離れたところに、幾つかの光が見えた。

 艦娘の視力でその辺りを拡大する。深海棲艦が水平線の間際を滑るように航行していた。

 先頭は、水雷戦隊だ。旗艦は青白い肌をした、小柄な少女。『駆逐棲姫』だ。

 駆逐棲姫は5隻の駆逐艦を引きつれている。

 そのさらに後ろに、巨大な盾を両腕に持った女性の姿があった。ただし、その盾は中心部で左右に割れており、割れ目から無数の砲身が突き出している。黒光りする左腕、右腕の砲身の間に、髪の長い女性の顔が白々と浮かんでいる。戦艦ル級だ。恐らくは、Elite以上。重巡しかいないこちらの火力を完全に上回っている相手だ。

 それが――

 

「3隻?」

 

「あれが、きっと敵の本隊ですね」

 

 青葉が緊張と共に言う。

 熊野も固唾を飲んだ。と、戦艦ル級の列の後ろに、不意に金色の光が揺らめいた。

 悪い予感がした。

 その辺りの海面が膨らみ、爆ぜ、やがて一人の女性の姿を黒い海原に出現させる。

 全身に纏ったグレーのスーツ。大きな帽子には、金色に輝く2つの目。歪な形の杖を振ると、どこからか艦載機が飛来し、帽子が開いた口へと吸い込まれていった。

 空母ヲ級、Flagshipだ。

 

「あいつが佐世保を襲ったやつか」

 

 川内が言う。熊野も頷きを返した。

 あの金色の光は、熊野が佐世保の海で見た艦載機と同じものだった。間違いなく、佐世保を襲った艦載機はあいつから出てきたのだ。

 

「空母に、戦艦に、水雷戦隊、おまけに潜水艦?」

 

 青葉が口の端をヒクつかせた。

 

「これ、泊地化しちゃいますね」

 

「駆逐棲姫と協働する、空母……」

 

「熊野さん?」

 

「この前と、同じ編成ですわ。翔鶴が空母ヲ級を取り逃した時と……」

 

 駆逐棲姫と熊野との最初の邂逅は、空母の追撃戦だった。ひょっとしたら、空母ヲ級は同じ個体かもしれない。ツーマンセルのように二人一組で動いているのだろうか。

 川内が悔しそうに言った。

 

「ああ……!」

 

 熊野と青葉は顔を見合わせた。この状況に対する、旗艦としての責任を感じていると思ったのだ。

 

「夜戦がしたい……!」

 

 だが残念ながらそんなことはなかったようだ。

 

「…………」

 

「あんなに敵がいるのに! うー夜戦夜戦夜戦」

 

「熊野さん、どうしましょう。青葉、これをどうしたらいいんでしょう」

 

「この夜戦バカ……」

 

 言いながら、熊野は眉をひそめた。

 現れた空母ヲ級には、奇妙な既視感を覚えた。その姿は、佐世保鎮守府にいる空母ヲ級と寸分違わぬように見える。同じ種類の深海棲艦なのだから、当たり前なのだけれど。

 

「似てる……」

 

 青葉も呟いた。

 熊野も同意しようとして、違和感。

 青葉は佐世保が捕らえているヲ級を知らないはずだ。

 

「え?」

 

「あ、ああ。なんでもありません。独り言です……」

 

 青葉が慌てて誤魔化した。

 窓の外で、動きは続く。

 

「そ、それより、あ、あれを」

 

 青葉に言われ、熊野はもう一度窓の外へ視線を移した。

 駆逐棲姫、そして空母ヲ級とは少し離れたところに、もう1つ明るい箇所があった。

 黒い海原の上に、鬼火が幾つも揺らめいている。

 背筋が寒くなった。

 鬼火に見えたそれは、無数の深海棲艦の眼球の輝きだったからだ。

 一か所に集まった深海棲艦は、一つの船の横腹に食いついている。まさに死骸にたかる生き物のそれだ。

 虫のように無感情な瞳が、夜の闇の中で無機的な光を放っている。金属が折れ曲がる耳障りな悲鳴など、連中には聞こえていないのかもしれない。

 ずんぐりしたコンテナ船は、横腹に食いつかれるまま、やがてゆっくりと傾き、最終的に横倒しになった。水柱が冗談みたいな高さまで吹き上がり、月の光がそれを照らす。

 

「あの中に、人は――」

 

「わかんない。わかんない、けど……」

 

 守るはずだった、輸送船。それが目の前で凌辱されても、熊野達には歯ぎしりするほかない。

 海原に響く深海棲艦の咆哮は、東シナ海を凱旋する、連中なりの謳歌かもしれない。

 響く声と、船が倒れる振動で、この船の壁や床もびりびりと震えている。それら艦娘達の心さえも揺さぶった。

 

「分かってるね」

 

 川内の声がした。

 見ると、彼女はいつの間にか別の窓の傍へ行き、壁に背を預けていた。窓から見える月とのコントラストで、彼女の半身は暗闇に溶けていた。

 

「佐世保の近海に、これほどの艦隊が出現した。泊地化は時間の問題だし、いや、もう泊地化してるのかもしれない」

 

 深海棲艦が活動すると、その下に特殊な海流が生まれる。それは海に沈んだ思いが流れる、深海棲艦が生まれ出る海流とされており、深海棲艦はその中を人類のあらゆる探知を避けて自在に移動できるのだ。

 泊地化とは、深海棲艦の活動が長期化し、その海流がさらに遠くの海と繋がってしまうことだった。まるで転移を繰り返す癌細胞のように。

 こうなるとその海域はもうお終いだ。深海棲艦が外海から無尽蔵に流入するようになる。これを止める術は、泊地化の原因となった、海域の長である深海棲艦を撃破するしかない。

 

「時間がない。放っておけば、この海域にさらに深海棲艦が流入して、手が付けられなくなる。それに、あの調子じゃ、この船がいつ連中の食糧になるか分からない」

 

 熊野と青葉は頷いた。

 艦隊の旗艦は今も川内であり、熊野達は川内の言葉に従う義務がある。

 

「でも、私たちは、ここにいる」

 

 川内が自分に言い聞かせるように、言っていた。

 

「これはチャンス。私たちは敵の懐にいる。その主力の編成も、今確認できた。そしてここから脱出できれば、ここに至る正しい航路も、その位置も味方に知らせることができる」

 

 分かるね、と川内は繰り返した。

 

「これ以上『泊地化』が進展する前に、味方にこの根拠地の情報を渡せれば、戦況に利する。私たちの本来の仕事、偵察の役目を果たすべきだ」

 

 青葉が顔を上げた。目には光があった。

 

「なるほど。青葉、分かりました。強い敵がいるなら、本気を出されるまえに、叩いてしまう」

 

「そういうこと」

 

 川内が頷いた。

 そして、熊野と青葉の顔を一人ずつ見つめていく。

 その時の川内の顔に、熊野は違和感を覚えた。希望のある話をしたばかりだというのに、彼女の目に力がなかったからだ。

 それは、海軍学校で同期であった熊野でさえ、初めて見る顔だった。

 疲れていて、思い詰めている。

 

「ここにいるのは、3人。でも、一緒に逃げたら」

 

 言いながら、川内が慌てて窓辺から離れた。

 数瞬遅れて、窓の外、このコンテナ船と近い位置を深海棲艦の艦載機が横切る。

 

「……多分、すぐに見つかる。敵も馬鹿じゃない、私たちがこの辺りに逃げ込んだことに、気づいてる。敵には潜水艦もいたし」

 

 潜水艦は、潜航してからも潜望鏡で水上を探ることができる。また艦種にもよるが、水上艦のスクリュー音を水中から探知する機能を持ったものもいる。こちらは非常に厄介だ。

 川内が続けた。

 

「誰かが気を引かないと」

 

「誰かって」

 

「囮が要るんだ、青葉」

 

 青葉が息を呑んだ。

 合理性で言えば、ここで誰が残るのかを議論した場合、必ず脱出した後の、生還の確率の話になる。青葉はすでに、3人の中で最も深い傷を負っていた。

 

「佐世保近海の緊急事態。これを解決するカギとなる情報は、どんな犠牲にも勝る」

 

 青葉が俯いた。熊野は言葉を発することができない。

 犠牲は、艦娘である以上、避けては通れない。常に覚悟している言ってもいい。だが突きつけられた時に、千地に乱れる心を押さえつけられるかは、全く別の話だった。

 機械ではなく、心がある、生身の人間なのだから。

 熊野は、ちらりと青葉を見てしまった。

 呆然としているようにも見えたし、必死に自分の心と戦っているようにも見えた。

 熊野は、何か言いたかった。だがそのための対案もない。

 川内は、少し間を置いて、熊野を見据えて言った。

 

「熊野」

 

「はい」

 

「今から、旗艦、あんたに譲る」

 

「へ?」

 

 一瞬、意味が分からなかった。だがそれを理解した瞬間、熊野と青葉の目線が交錯し、青葉が叫んだ。

 

「川内さん、あなた――!」

 

「私が残る。あんたらじゃ仮に残っても、対潜戦闘の可否で、時間稼ぎできるのは限られてる。でも、私は対潜戦闘もできる軽巡洋艦だ」

 

 熊野も言い募った。

 

「待って、川内。あなたは秘書艦、真っ先に帰る義務があるはず」

 

「瑞雲」

 

 川内は、計算間違いを指摘するような軽い調子で、熊野に向かって指を立てた。

 

「まだ、一機残ってる。でしょ?」

 

「そ、それは」

 

「あんたは航空巡洋艦。分かる? あんたが敵の懐から逃れたら、まずそれを佐世保に飛ばして欲しいの。操縦妖精に、ありったけの情報を持たせてね」

 

 川内はそこまで考えていた。

 彼女は脱出が成功する確率の低さまで、織り込んでいる。だからまずは唯一残った水上機『瑞雲』、そしてそれを持った熊野を、敵の哨戒網の外へ逃がそうとしているのだ。先ほど窓から見えた艦載機や、敵空母の存在からして、この場所が敵のエアカバーの直下であることは明らかだからだ。

 

「秘書艦とかは、関係ないよ、熊野。任務の重さは、誰だって同じだ」

 

 川内は、にっと笑って見せた。

 熊野は、何も言えなくなった。ここで「あなたを行かせません」と、カッコいいことを言って出ていくのは簡単だ。

 だが、艦娘は軍属。

 生き残ることよりも。

 戦場の駒として、冷酷な方程式に従うことが、真にその意思を生かすということに繋がる。

 

「川内さん」

 

 青葉が震え声で言った。自分が助かったからといって喜ぶような子でないことは、みんな知っている。

 

「なーに、しゅんとしてんのよ」

 

 川内はからりと笑った。

 

「今生の別れってわけじゃなし。私は、ただ夜戦したい」

 

 軽巡用艦娘は笑った。

 

「そんだけだよ」

 

 その表情が、一瞬だけ鈴谷が見せたものと重なった。

 切ないような、苦しいような、それでもどこか救われたような、そういうくしゃっとした笑顔だ。

 熊野は、川内がこの海域に至ったことを、自分のミスとして悔いていたことを思い出した。

 

(もしかして、責任を感じて……)

 

 頭を振って、意味のない思索を打ち切る。

 そうだとしても、やはり川内の提案は正しい。

 

(なにか、ないの)

 

 思考が巡る。

 合理性も分かる。川内の気持ちも理解できる。

 海軍の規律として叩き込まれた常識も、旗艦『川内』の選択を支持している。

 何よりもそれほどの覚悟で言い放った言葉に、熊野の薄っぺらい我儘がどんな意味を持つというのか。

 

「それじゃ、私は、ちょっと外の様子を見てくる。気温とか、風向きとかを観測して、脱出の準備しなくちゃね」

 

 川内は熊野達に背を向けた。

 話題が終わろうとしている。今を逃せば、川内の決定はもはや覆らないものになってしまうだろう。

 熊野は痛いほど拳を握りしめた。

 しっかりしなければ。思考を止めてはいけない。

 川内は正しい。でも対案の可能性はある。

 萎える足を叱咤して、前へ進む。

 

(悩むより、行動!)

 

 命令されていたとしても、他に使えるものがないか探すくらいは、許されるはずだった。

 熊野は船倉を見に行こうとして、二、三、歩、踏み出す。

 そこでよろけた。艦娘の水上用の靴はひどく重く、歩きづらいのだ。

 座礁で斜めった船の床。体勢を立て直そうとする全ての努力が空回り、熊野は前にさらに踏み出してしまった。

 川内の尻に向かって。

 

「ひゃ」

 

 お嬢様らしからぬ悲鳴と、

 

「へ」

 

 凛々しさの欠片もない旗艦の悲鳴がして、2人はもつれ合うように転倒した。なお悪いことに、すぐ近くには階下へ向かう階段が口を開けていた。

 川内が足を踏み外す。熊野も釣られて踏み外す。

 結果、艦娘2人は階下の闇に転げ落ちていった。

 えぇぇ、という青葉の困惑声が後を追う。

 

「あ、いたた……」

 

 身を起こした熊野が目にしたのは、眉を吊り上げた川内の姿だった。

 

「くぅーまぁーのぉー」

 

 熊野ははっとした。

 

「少し、その、お待ちになって」

 

「待てるか馬鹿! 方向音痴の次は運動音痴なの!? なんでボンド映画張りにバシッと決めた後にこんなことするわけ!?」

 

「ど、どうどう……」

 

「あんたねぇ、あんたねぇ……!」

 

 川内はしばらく肩を怒らせていたが、やがて収まった。

 

「……あんたが、ガッツがある女だってのは、知ってるよ」

 

 いつも食堂で見るような、気安くて、どこかぞんざいな彼女だった。

 

「鈴谷の件まで、一度も僚艦を失ったことがないっていうのも。生還能力が高いことも」

 

「……」

 

「でも、これは別。あんたのその思いの強さは、青葉を佐世保に帰すのに使ってやって」

 

「川内」

 

「あたしは、軽巡洋艦だから。今まで、駆逐艦にも『こう』してきた。だから、今度はあたしの番。それだけの、本当にそれだけのことなんだ」

 

 川内はそう言った。

 熊野は目を伏せる。視線が床に落ちる。

 そこで、何か奇妙な感触を覚えた。ここは船の船倉に近い。動力が死んだ船とあっては、上階の窓から差す月明かり以外には、光源などないはずだった。

 だがなぜか、床の模様も、川内の表情さえ見ることができていた。

 熊野は上を見る。川内も釣られて上を見る。

 そこには、非常灯がひとつだけ点っていた。

 2人は顔を見合わせる。

 一度青葉も入れて3人で見回ったし、妖精にさえ探索させたが、全く気がつかなかった。生存者と侵入しているかもしれない深海棲艦にばかり注意が行っていて、背景として光っている非常灯にまで神経が行き渡らなかったのだろう。

 本当に真っ暗だったので、船灯を付けていたことも影響しているかもしれない。古びた非常灯の灯りが、船灯の光に塗りつぶされていたのだ。

 

「熊野」

 

「川内」

 

 2人は、呼び合う。そして一拍置いて、笑い合った。馬鹿馬鹿しい発見をしたのだから、当然ながら馬鹿笑いだ。

 さんざん探して、悲壮な決意さえしてみて、こんな簡単なことに気づかなかったのだから。

 川内の目端には涙さえ浮かんでいた。

 

「うーん、なんか乗り遅れた気分です」

 

 少しだけ遅れて、青葉が階下へ降りて来た。

 彼女はその階の片隅で、ある部屋の名前が微かに光っているのを見つけた。

 

 『通信室』。

 

 

     *

 

 

 日     時:8月14日22:00(明石標準時刻)

 作 戦 領 域:佐世保鎮守府

 コンディション:   ―

 

 

 佐世保鎮守府の会議室には、そうそうたる面々が並んでいた。

 20人ほどがかけられる長机の一番奥には、鎮守府提督の赤松中将が座っている。すっと伸びた背筋と、眼鏡越しの鋭い目つきが、部屋全体に重苦しい緊張感を呼んでいる。

 他にも佐世保航空隊の司令官や、工廠の代表者、水雷戦隊の司令も勢ぞろいしている。第7戦隊の指揮官の機嫌が悪そうなのは、旗艦の熊野が提督に勝手に動かされているからか。

 

(たまんないなぁ)

 

 若き士官、山中少佐は、襟の苦しい純白の士官服に身を包みながらも、落ち着かない気持ちでいた。

 彼は佐世保航空隊の司令官の一人で、翔鶴の直属の上官だった。

 その翔鶴は今、臨時の秘書艦となって、赤松提督の後ろに立っている。そのすぐ傍には海図が貼られた巨大なボードが壁に掛けられていた。

 

「始めたまえ」

 

 赤松提督の声が、静まり返った部屋に響く。

 翔鶴が一礼し、手に持った指示棒を海図へと伸ばした。

 

「ご承知の通り、現在本国近海には3つの敵勢力があります」

 

 指示棒が、日本列島の南西、小笠原諸島の辺りに伸びた。そこには幾つもの赤い駒が置かれ、『本土襲撃部隊』というプレートがマグネットで同じ位置に固定されている。

 

「一つは、ご承知の通り、この『本土襲撃部隊』。もう2つ目が」

 

 指示棒が動き、台湾の南の海域で止まった。そこには小笠原諸島ほどではないが、複数の赤い駒が設置されている。

 

「バシー海峡の危険水域に出現した、深海棲艦の艦隊。そして3つ目が」

 

 翔鶴の指示棒が、台湾の南から、北へ動く。そして東シナ海の真ん中で止まった。

 

「昼間の哨戒で新たに判明した、この琉球諸島最西部の艦隊です」

 

 そこにも赤い駒が配置されており、空母の存在を示す台形の形をした駒も見えた。

 翔鶴が状況を総括する。

 

「本国の東と西、両方から噛みつかれた格好です。1つの巨大な口の、上顎が小笠原諸島の艦隊、そして下顎がバシー海峡、及び東シナ海の艦隊と言えるでしょう」

 

 翔鶴の言う通り、小笠原諸島と台湾付近を結ぶ弧は、まるで巨大な口に見える。

 艦隊の規模からすれば、小笠原諸島の艦隊は大きな牙そのもので、バシー海峡、そして東シナ海の艦隊はそれを補助する門歯、といったところだろうか。

 下顎の門歯で相手の動きを封じ、本命の牙を深々と刺すのである。

 

「しかしバシー海峡については、現地の空母『瑞鶴』の活躍もあり、すでに安定化の兆しを見せています。現状の争点は、この、本土と台湾の間を塞ぐ、東シナ海の艦隊です」

 

 翔鶴は続けた。

 横から補佐役の重巡『那智』が手を伸ばし、バシー海峡に配置された駒の数を大きく減らす。

 代って、東シナ海の艦隊に赤いプレートを張り付けた。『琉球諸島艦隊』、と書かれていた。

 

「新たに現れたこれを、『琉球諸島艦隊』と呼称します。これより現状と、想定される敵の狙いについて説明します」

 

 翔鶴が指示棒を上顎――『本土襲撃部隊』の方に戻した。固い表情で、

 

「MI作戦も、AL作戦も、深海棲艦側に読まれていたと考えます。敵はMI作戦の苦戦が避けられないことを事前に察知し、本土襲撃部隊をもって、鎮守府の作戦遂行能力そのものに打撃を与える痛み分けを狙っています。現在、横須賀鎮守府がこの本土襲撃部隊と交戦中ですが――」

 

 翔鶴の語気が、僅かに震えた。

 

「苦戦しています」

 

 部屋が少しどよめいた。翔鶴が続ける。

 

「横須賀には多数の戦艦、及び軽空母も存在しています。ですが、敵にも空母棲姫、戦艦棲姫といった強力な艦種が確認され、敵の旗艦の位置もまだ厳密には確認されていません」

 

 深海棲艦の出現以降、高空を覆う電波障害により、衛星による偵察もできなくなっていた。そのため、敵の本隊を探り当てるには、実際に艦隊を派遣して偵察をするしかないのが現状だった。

 飛行艇による偵察も、泊地化した海域では深海棲艦の防空網で近づけない。

 

「燃料の問題もあります」

 

 翔鶴は指示棒を、佐世保の方へ向けた。

 

「現在、『琉球諸島艦隊』はコンテナ船やタンカーの大動脈を遮断しています。これを取り除かない限り、本土には資源が届かず、いずれ艦隊行動に支障が出るでしょう」

 

「資材の備蓄はどれほどあるのですか?」

 

 士官の1人が質問をした。

 翔鶴が答える。

 

「ほとんどの資材で、海軍は半年分の備蓄を持っています」

 

「それだけあるなら――」

 

「そういうわけにもいかん」

 

 赤松提督が、重い口を開いた。

 

「足りないものがある。航空機燃料だ。高オクタン価の航空機燃料、それが足りない」

 

 山中少佐は、やっぱりな、と思った。それが昔からの航空隊の悩みだった。

 鎮守府が誇る烈風や流星、彗星といった航空機も、艦娘の力を借りているとはいえ、機械的な特性がなくなったわけではない。艤装が燃料を必要とするのと同じように、艦娘が操る艦載機にも燃料が必要だ。

 そしてそれらは、燃料の質によって性能が変わる。オクタン価が2割下がると、時速にして100キロ弱落ちるというデータもある。戦闘機の命ともいえる上昇性能には、さらに顕著な差が出るだろう。

 翔鶴が説明を引き継いだ。

 

「勿論、燃料の質が低くても、飛行機は飛びます。ですが、特に烈風などの新鋭機のエンジンは、高オクタン価を元に設計されていますので……」

 

 翔鶴は、ちらりと席上の面々を見回した。そこには、兵站部の責任者が座っていた。

 兵站部は汗をかきながら、

 

「現状、艦娘の艤装や艦載機に使用する燃料は、特殊なものでして。国内の精製所ではなく、スマトラなどの、その、南西諸島方面からの輸送に頼っています。先の大戦と同じですな」

 

 兵站部の話は続く。

 

「そして、高オクタン価燃料から、いわば先入れ先出し的に燃料が、その、使われていくわけでして。特にMI作戦で新鋭機が大量投入、また搭乗妖精の錬成のため直前の稼動率もかなり増加されましたので……」

 

「具体的に、燃料のオクタン価が下がることで、どの艦載機が影響を?」

 

 事務方からの質問だった。

 応えるのは、山中少佐の役目だ。応えようとする翔鶴を手で制しながら、

 

「烈風、紫電改、彩雲、流星改、などです。『誉』エンジンの搭載を予定された機体、とお考えください」

 

 つまり、と兵站部が議論をまとめた。

 

「横須賀の艦隊は精強です。ですが、最新鋭の航空機を空に上げるための油が、このままでは不足します。彼らを勝負の土俵に上げてやることができません」

 

 兵站部の言葉で、沈黙が降りた。

 MI作戦の成功報告からの暗転である。誰もがこの先の厳しさと、佐世保が担う重責を予感した。

 翔鶴が言う。

 

「今後の動きを予想します。

 我々の戦力は、今大きくMI諸島に傾いています。しかしMI島は制圧しましたが、まだ近海には深海棲艦の残党が遊弋しており、MI作戦の連合艦隊は未だ動きとれません。

 喫緊の課題である、横須賀管轄の『本土襲撃部隊』を本土の戦力だけで漸減、撃滅するには、最低限一週間の全力出撃が必要です」

 

 山中少佐は試算した。

 兵器、特に戦闘機は戦闘行動を取る時に最も激しく燃料を消費する。

 一週間の戦いで横須賀がどれほどの資材を消費するか、見当もつかなかった。

 

「その一週間という数字は、きっと楽観的な数値なんだろうね?」

 

「残念ながら、そうです」

 

 ある士官からの質問に、翔鶴は認めた。

 

「軍令部より連絡がありました。佐世保の役割は、一つです。速やかに『琉球諸島艦隊』を壊滅させ、高オクタン価燃料を本国に運ぶ道を作ること。でなければ、横須賀はやがて制空権が不利な状態で、本土打撃部隊と交戦することになります。その場合による図上演習の結果は――」

 

 佐世保の誇る空母艦娘は、戦意を隠さずに言った。

 

「防衛ラインは、東京湾入口まで下がることになるでしょう。我が国有数の産業集積地帯、京浜工業地帯が破壊されます」

 

 世論もな、と山中少佐は心中で付け足した。きっと今頃、横須賀は住民の避難で大わらわだろう。佐世保も同じ状況なので、簡単に想像がついた。

 場の空気がそこで変化した。不安から来る緊張ではなく、使命感から来る緊張へ。

 山中少佐も、知らず拳を握りしめていた。国の未来を決める仕事が、ついに自分の航空隊へ回って来た。

 海軍冥利に尽きるというものだ。

 

「作戦の詳細を説明する前に、提督、何かありますか?」

 

 場の空気を察してか、翔鶴が一礼し、赤松提督へ場を委ねた。

 老年の提督が立ち上がり、部屋を見回す。それだけで鎮守府の支配者が誰か分かる立ち振る舞いだった。

 

「聞いての通りだ。我々はこれから、文字通りの決戦を行う」

 

 低い声で、決して大きなボリュームではなかったが、波の音のように不思議と耳に残った。

 

「諸君らに長い演説は無用だろう。だが一つ、言っておかねばならんことがある」

 

 痩身の提督は、古武士のような目をしていた。

 そんな提督を目にしてさえ、山中少佐には1つ不安があった。

 

(敵の空母は、編成からして、以前翔鶴が取り逃がした個体の可能性が高い)

 

 その時も、佐世保鎮守府は苦戦した。瑞鶴が転属している今の佐世保で、果たしてもう一度あの空母を追い詰めることができるのだろうか。

 

「速やかな海域の掃討、そして行方不明艦娘の救助。この困難を達するに当たり、我々は民間会社から航空機燃料の寄付と、協力者の提供を取り付けた」

 

 山中少佐は、そこで話の流れを察した。

 ふと席上を見ると、一人だけ首を傾げていない者がいた。浮いた雰囲気の男だった。

 末席にいたので気がつかなかった。

 軍議だというのに、何か意地でもあるのか、白の士官服を着ていない。ネイビーブルーの軍装は――

 

(いや、あれは、スーツか?)

 

 細目の顔には、見覚えがあった。その既視感は事件と結びついていた。何年も前に、失脚した男。

 確か暗号を深海棲艦に解読されて――。

 

「入れ」

 

 考えが纏まる前に、提督が言い、ドアが開かれた。

 会議の場が凍り付く。入って来たのは、ゴリラみたいな大柄の女性と、白いワンピースを着た異様に青白い肌をした少女だった。

 スーツの男が、物凄く居づらそうに身じろぎした。なんだか自分がなんでここにいるのかもよくわかっていないようにも、見える。

 

「これより、『協力者』に対する全ての意見と感想の表明を禁ずる」

 

 提督が告げた。

 入ってきた少女が顔を上げる。部屋中に、言いようのない緊迫感が満ちた。

 その一方で、落ち着いているものもいた。

 山中少佐もその一人だった。

 この時が来ると、半ば予想してはいた。

 先日の『演習』はこの用兵を見込んでのものに違いないのだから。その上、練度の課題と連携時の対策を洗い出すよう指示を受けていたとあっては、次にどんな指示が来るかは明白だった。もっとも山中少佐はそれがもっと遅く、もっと穏やかに始まるものとばかり思っていたが。

 

「敵地の偵察に、これほど優れた存在はない。海軍初の取り組みとなるだろう」

 

 

     *

 

 

 夜の海に、2人分の影あった。

 1人は、重巡洋艦娘『青葉』だ。そしてもう一人は、軽巡洋艦『川内』である。本来ならそれぞれ個性的な格好をしているのだが、今は頭から黒いカバーを被り、可能な限り夜闇と同化しようとしていた。カバーはコンテナ船から見繕ってきた、積み荷を固定するためのシートだった。

 

「よし、行こう」

 

 川内が言った。青葉が頷き、2人は航行を開始する。

 雲が月を覆っている。波は予感を孕んだように高く、空気は生暖かい。

 

「熊野さんは大丈夫でしょうか」

 

 青葉が言った。川内は頷く。

 

「賭けになるけど、大丈夫だとは思う。今は距離を取ることに集中しよう」

 

 それにしても、と川内は呟く。

 

「ほんと、賭けになるけどね」

 

「……実際、どうなんです?」

 

「引っかかるかは、五分五分。でも勝算なんて、ぜいたくなもんだよ」

 

 川内は苦笑した。

 

「ま、ちゃんと動くかってのもあるんだけどね。5分経って何も起こらなかったら、このまま2人で暴れて、熊野のための囮になる。そっちも、考えておいてよ」

 

 

 

 熊野はコンテナ船の艦橋から、遠ざかっていく川内と青葉を見つめた。

 外の波は高い。時化の一歩手前といったところだ。これで雨が降っていれば最高だったが、高い波はある程度艦娘の姿を隠ぺいしてくれるだろう。

 やがて二人の姿が、水平線の付近まで来た。

 事前の観測通り、その方向に敵の哨戒部隊はいないようだ。空母の周りに集中しているのかもしれない。

 

 いや――あれはなんだ。

 一瞬、2人の背後に岩のようなものが浮き上がったように見えた。次の瞬間には、それは消えてなくなっている。

 心臓が波打った。

 潜水艦。確証はない。だが潜水艦は聴音機や潜望鏡で、密かに海面を観察することができる。この動きがばれないという保証はどこにもない。

 熊野は足早に艦橋の階段を降り、そのまま機関室まで降りた。事前に丹念に復習したルートを通って、通信室に入る。

 壁一面に設置された、緑色の通信設備があった。ほとんどのランプが消えており、船と同じように通信設備も重苦しく沈黙している。

 だが一つだけ、微かに赤いランプが点いている箇所があった。

 それは、緊急用モールスの発信装置。

 深海棲艦が登場する前は、廃れ、設置義務のなくなった設備だ。しかし、連中の電波妨害を考慮する必要に迫られ、通信音質の悪い状態でも利用可能なモールス信号が、今はほとんどの船舶に設置されていた。

 これだけは、何があっても動くはず。

 この船に残された最後の声。

 

(お願い)

 

 起動に必要な手順は、すでに踏んである。

 熊野は、発信開始の赤いボタンを押した。

 重巡洋艦『熊野』は、大破状態で半ば漂流し、それでも本土を目指した船だ。その名を襲名した少女に、死にかけの船はささやかなおまけをくれた。

 少しの間があって、艤装の無線機が、ぽつ、ぽつ、とした細切れの電子音を拾う。

 生きていた。安堵と同時に、危機が来る。

 遠くから叫び声が聞こえた。船体が軋むかと思うほどの音量だ。背中がぞくぞくし、足が震えた。

 敵の巣の隣で、サーチライトを点けたようなものだ。敵の注意が一斉にこちらに向くのが当然だ。

 忌々しい鼠め、そこにいたのか、そんなところだろう。

 

(それでいい)

 

 熊野は通信室を後にする。足が別の生き物みたいに動き、全力疾走した。

 転がるように階段を降り、甲板に出て、縄梯子で海面へ。途中、岩礁に下ろされていた三角形の救命ボートを見つけ、川内の指示通りに足で思い切り蹴って離岸させる。

 エンジンもないイカダも同然の船だが、漂っていれば、誤認くらいはするかもしれない。

 中には川内が仕込んだ爆雷が詰められており、敵に撃沈された場合、爆雷も一緒に沈んで一定の深度で起爆、戦闘地点を誤認させるはずだった。

 

「方位0-8-0 最大戦速!」

 

 小さく呟き、熊野はコンテナ船を後にした。川内達に追いついて、コンテナ船に注意を惹かれている間に、3人で一目散に逃げるのだ。

 この後のことは、神様だけが知っている。

 幸運の女神の覚えが、目出度いことを。

 

 

 




東シナ海は海産物(おさかな)天国です(白目)

色々とそれらしくしようとはしていますが……。
いやそりゃねーだろ、というツッコミお待ちしております。

しかしオクタン価の話は色々と調べたのですが、見れば見るほど当時の国情は悲惨ですな。

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