空母ヲ級運用指南 ~蜃気楼の海~   作:mafork

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【あらすじ】

 民間船から乗員を救出する不知火らのため、熊野達は深海棲艦への囮となった。
 だがその後、彼女たちの通信が途絶してしまう。

 一方、佐世保鎮守府。
 空母ヲ級は、雇い主の沖田との確執を抱えたままだ。
 果たして、再び閉ざされた彼女の心は開くのか。
 嘘の霧が晴れるとき、真実が明かされる。




4-1.シスター・サラ

 日     時:8月14日17:46(明石標準時刻)

 作 戦 領 域:東シナ海 宮古島沖 50海里地点

 コンディション:風南3、散在する積雲、視程98、海上高波

 

 

 不知火は、その報告に耳を疑った。

 

「川内さん達が、苦戦!?」

 

《そのようだね》

 

 陽炎は淡々と応じた。

 東シナ海のど真ん中。深海棲艦の釣り餌にされた輸送船から、船員を救助する作業は佳境を迎えていた。

 潜水艦はかなり片づけたが、ソナーにはまだ1隻の反応が残っている。

 だが手負いだ。上げ舵が故障したらしく、深く潜航することもできていない。3隻の駆逐艦の前に逃走を諦め、最後の最後まで戦う覚悟を決めたらしかった。

 

《綾波です。今、圧縮音を聞きました》

 

「確かですか?」

 

 圧縮音。潜水艦が爆雷を受け、強烈な水圧に押しつぶされる音のことだ。

 

《はい、確かです。潜水艦を、撃沈。あとは救命ボートを運ぶだけですね》

 

「よし。川内さんを助けに行きましょう」

 

《待って》

 

 不知火の言葉を止めたのは、陽炎の声だった。

 

《対空電探に感。これは……方位2-8-5》

 

 陽炎が示す方位に、いつの間にか黒い点がぽつぽつと現れていた。

 司令船『日笠』からも声が来る。かなりざらついていたが、なんとか聞こえた。

 

《こちらも、見張りが目視で確認》

 

「敵でしょうね」

 

《間違いなく》

 

 司令船の言葉に、不知火は強い違和感を覚えた。

 この艦載機群を引きつけるために、川内達が台湾海軍との合流を図って西へ向かったのではないのか。

 陽炎はさらに報告した。

 

《中高度を維持したまま、旋回する群れを識別。数は、20機前後だと思う。明らかに攻撃の兆候がある。正規空母にしちゃ少ない数だし、川内さん達の方へ行ったのもいるはず》

 

「それにしたって――」

 

 違和感は、不吉な予感に変化していた。

 なぜ、敵は航空隊を2つに分けるような措置を取るのだ。これではまるで戦力の分散だ。

 不知火は司令船に確認をとった。

 

「川内さん達から、連絡は」

 

《ない》

 

「こちらから――」

 

《駆逐艦『不知火』。川内達からの応答が、先ほどより途絶している》

 

 心臓を掴まれたような、衝撃が来た。

 敵編隊が、中途半端な数でこちらに向かってきている。これはまさに、敵が川内達を叩き潰して、余力を持ってこちらを叩きに来ているということではないのか。

 

《接敵まで、残り10分》

 

 陽炎が報告。

 

《不知火さん》

 

 綾波が、指示を急かした。駆逐隊の指揮は、現状では不知火が取ることになっていた。

 不知火は疑問を封殺して、叫んだ。

 

「対空戦闘、用意!」

 

 艤装の高角砲が、一斉に空へ向いた。

 離れた位置にいる陽炎、そして綾波も同調する。任務の掛け声が、惑う少女を戦士に変える。

 待つこと、しばらく。

 雲の切れ目に、敵の黒い機影が見え始めた。それらは不知火達を見つけると、一斉に飛び込んでくる。

 

「撃ぇ!」

 

 3人の高角砲が火を噴いた。

 曳光弾の列が曇り空に向かって放たれる。だが敵は止まらない。

 近くには輸送船も司令船もいるが、敵はよほどのことがない限り艦娘を優先して叩くのだ。まるで艦娘と戦うことこそが目的であるかのように。

 

「回避」

 

 呟き、不知火は取り舵を切った。

 艦載機が爆弾を投下する。それらは全て水に落ち、水柱で不知火達を濡らすだけで終わった。その後はあっさりと艦隊への攻撃を諦め、艦載機は西の空へ帰っていった。

 

《っぷは、大丈夫?》

 

「不知火、損害なし」

 

《綾波、損害なし》

 

 不知火は頷いた。

 

「では、川内さん達を助けに」

 

《だめだ》

 

 司令船が言った。

 

《不知火、撤退を命じる》

 

「なぜですか」

 

《こちらに艦載機が来た。これはつまり、何らかの事情で川内達が窮地にある可能性がある。敵の中で、川内達の脅威レベルが下げられた可能性が示唆される》

 

「だったら」

 

《だからこそ、この事実を佐世保に持ち帰り、体勢を立て直す必要がある。東シナ海に空母がいる。これは海域の泊地化の前兆だ》

 

 不知火は引き下がらなかった。

 

「司令船だけで戻ってください。陽炎と私だけでも構いません。助けに行きます」

 

《命令だ》

 

「で、ですが」

 

 不知火は迷う。

 遅滞戦闘や、囮は、本来なら駆逐艦の役目だ。秘書艦や重巡を残して海域を逃げ出すというのは、駆逐艦娘の名折れである。

 

《くどいぞ、不知火。司令船まで危険に晒す気か》

 

 この腰抜け、ともう少しで口に出るところだった。

 本音はそれか、と。噂は本当だった。第三水雷戦隊の司令官は、やはり慎重すぎるきらいがある。それでも水雷屋か。

 

「不知火」

 

 すぐ近くで、声がした。

 陽炎だった。彼女は無線を使わないようにするため、不知火の傍へよってきた。

 

「戻ろう」

 

「陽炎、あなたまで」

 

「佐世保の民間船まで危険に晒す気? 司令船には、救助した民間人もいるんだよ」

 

 そう言われて、不知火は沈黙した。

 海の先に浮かんでいる、輸送船を見やる。甲板にはまだ数人がおり、ことの推移を心配げに見守っていた。

 

「台湾の、海軍もいるはずだし」

 

 言っている陽炎自身、あまりあてにしている口調ではなかった。

 不知火は呻くように言った

 

「……不服です」

 

「仕方ない。台湾も、佐世保の商人も、どっちも大事だ」

 

 中華民国(台湾)海軍は、馬公を始めとした泊地を置かせてもらっている手前、無視できない存在である。輸送商人も同じで、彼らとの確執が表面化すれば航路が動脈硬化を起こす。この終わりのない戦争を継続していくために、こうした微妙な力学の計算をしなければならないことは、不知火もさすがに知っていた。

 司令船は決して口出さないだろうが。

 

《不知火》

 

 司令船の声には、かすかになだめるような響きがあった。

 不知火は、息を吸った。旗艦の役目を果たさなければならない。

 

「撤退します」

 

 血を吐くような声だった。

 

 

     *

 

 

 日     時:8月14日20:06(明石標準時刻)

 作 戦 領 域:佐世保鎮守府

 コンディション:風南1、積雲4、視程20、海上凪

 

 

 琉球諸島最西部に、深海棲艦の泊地が出現。

 哨戒部隊の艦娘数名が行方不明。

 この報告はあっという間に佐世保鎮守府を駆け巡った。残った艦娘や士官が慌ただしく駆け回り、夜の佐世保湾に艦娘の船灯が次々と流れていく。それらは一直線に佐世保湾を締める半島と半島の隙間、すなわち湾の出口へと向かっていった。

 沖田はその騒ぎの中、出撃用の埠頭とは離れた、工廠資材用の港にいた。

 コンクリート製の埠頭から、艦娘の出撃を見送る。鎮守府にいた頃は日常だったが、今の立場ではさして感慨も沸かない。

 

(思えば、長居したもんだ)

 

 一週間前から、ずっと回流丸はこの工廠の港に停泊をしている。

 クレーンとコンテナを積んだ、通常の輸送船である回流丸としては、やはり速やかに鎮守府を離れるべきだったのだろう。おかげで先日の空襲で、要らぬ被害を受けてしまった。

 ヲ級のこともある。公にはなっていないが、回流丸と彼女の関係性について、勘繰りをしているものももはや少なくないだろう。今後の商いが心配だ。

 

(ヲ級のやつめ)

 

 心中で、溜まりに溜まった文句を消化しながら、沖田は埠頭を歩く。

 その先には、回流丸と同じくらいの船舶が停泊していた。

 だが一目見て、輸送船ではなく、軍艦である。

 電波の反射を制御するよう、独特の傾斜を付けられた装甲。甲板には照明弾や煙幕発生用の装置が並んでいる。砲がついていたらしい痕跡はあるが、すでに取り外されており、そのせいで中央の艦橋以外に目立った構造物がなくて寂しい印象だ。

 佐世保鎮守府が保有する、型落ちの司令船だ。今は前線に出ない工廠で使用されているのだろう。

 

「こいつか」

 

 深海棲艦の無線を傍受することを期待され、ヲ級は鎮守府の船で湾内を一周していた。その航行に使用したのがこの船であり、ヲ級との再度の面会が許されたのはこの船の上だけであった。

 許可は、明石と技術士官の方に依頼して、取り付けてあった。彼らとしても、騒動の後のヲ級を扱い兼ねているらしかった。

 

「お待ちしてました」

 

 沖田がタラップを上ると、白衣を着た技術士官、工作艦『明石』、そして艤装を背負った初対面の艦娘が出て来た。

 

「どうも」

 

 沖田は会釈だけして、早速要件に入ろうとしたが、眉をひそめる。

 技術士官が、会うなり分厚い雨合羽のようなものを手渡したからだ。

 

「これは?」

 

「放射線を防ぐ合羽ですな」

 

 沖田は顔をしかめた。

 

「なぜこんなものを」

 

「彼女が、微弱ながら放射線を出しているのはご存じでしょう。用意はあります」

 

 沖田はひらひらと手を振った。

 

「必要ありません。電子レンジみたいなもんでしょう」

 

「放射線は電磁波とは違うんですが……」

 

 明石が困ったように言う。

 

「学のない男ねぇ」

 

 うんざり声は、艦娘だった。失礼な、とも思ったが、口に出すのは大人げない。相手は多分、駆逐艦だ。

 技術士官がたしなめる。

 

「天津風、なら君は知っているのかい」

 

「決まってるわ。あれのことでしょ」

 

 しばらく、間。

 天津風、と呼ばれた駆逐艦娘は目を泳がせた。

 

「……あれのことよ」

 

「はいはい。よく分かりました。不要というならいいでしょう。ご自由にどうぞ」

 

 技術士官は役目を終えて、幾分ぞんざいな調子で引き下がった。

 

「ヲ級は?」

 

「奥の部屋です」

 

 明石に促され、通路を進み、ドアを開ける。

 ヲ級は、通された船室の隅の方で、肩を壁に預けるようにして、眠っていた。

 彼女は、戦闘時の装いだった。体に張り付くグレーのスーツに、床に液体のように広がる夜色のマント、具足のような下半身。

 驚いたのは、艦載機の発着艦を司る、クラゲを模した帽子さえ被っていたことである。だがよく見ると、工廠の手によるものか、帽子の口は鎖でがんじがらめにされて艦載機を吐き出せないようになっていた。左右についた高角砲も、砲口にキャップが嵌められ、発砲すると砲が破裂するようになっている。

 さらにそのブーツには冗談のような太さのワイヤーが連結され、部屋の奥の壁と結ばれていた。逃走防止のためだろう。

 

「これは、また」

 

「ごめんなさい。でも、これでも、こちらとしては最大限の譲歩なんです」

 

 明石がばつの悪そうに言った。沖田は首肯しておいた。

 

「……申し訳ありませんが」

 

「分かっています。私は、外しますよ」

 

「無理を言って、申し訳ない」

 

「いいんです。むしろ、ありがたいくらいですよ。彼女はあなたを襲った後、ひどく塞ぎこんでましたから」

 

 沖田は苦笑した。

 

「いっちょまえに、気にしてやがりましたか」

 

「恐らくは。話してあげてください、これは私の師匠の受け売りなんですが、『別れはちゃんと済ませておかないと、後悔する』、だそうです。特にこんな時代では」

 

 そう言って、明石は部屋を去った。ニュートラルな考え方の人らしく、ヲ級にも気を遣ってくれているようで、ありがたい。

 佐世保で別れるということへの懸念が、また少し薄れた。

 

「おい、ヲ級」

 

 沖田は気を取り直して、ヲ級に向かって呼びかけた。形の良い彼女のまつ毛が少しだけ震え、やがて目が開く。

 茫洋とした瞳は、寝起きのせいなのか、元からなのか、判然としない。

 

「しゃちょう」

 

 ヲ級が長い手足で立ち上がる。

 窓から見える月が、彼女の背中から光を差し込ませている。

 月齢は満月に近い。白々とした光が差し込み、ヲ級の体の起伏に沿って白の照りと黒の影が生み出されていた。

 

(久しぶりに見ると、すごい恰好だ)

 

 ボディラインを忠実に映し出す灰色のスーツは、張りのある乳房から、へその辺りのくぼみ、腰の肉付きまで正確に写し取っている。

 見慣れればどうということはなかったが、彼女らを海の使いと称する人種がいることも、理解できるような気がした。人類の怨敵と片付けるには、彼女らはあまりに美しい。

 

「寝てたのか?」

 

「うん」

 

 ヲ級は頷いた。

 

「ゆめ、みてた。むかしの、ゆめ」

 

「いい夢だったか?」

 

 ヲ級は少し考え込んだ。

 

「びみょう」

 

「大事な話がある」

 

 沖田は切り出した。ちらりとヲ級の方を見ると、彼女はようやく沖田との確執を思い出したようで、少し慌てた仕草で睨み付けるような上目づかいになった。大きな帽子の鍔の下から、青い目が険悪な視線を突き差してくる。

 

「……今更何しに来た、ってのがあるだろうが、そのままで聞いてくれ」

 

 ヲ級が、目線はそのまま、真面目くさって頷いた。

 濡れたように垂れてくる髪の隙間から、白の首輪がちらちらと覗いた。

 

「状況を整理しよう。

 君は、横須賀へ行くつもりだった。我々はそれを反して、佐世保で君を降ろそうとしている。君はそれが我慢できない。これが1つ」

 

「……」

 

「もう1つ。我々は君を佐世保に引き渡すにあたって、謝礼を受け取る。それにも君は、怒っている。金のために君を売ったと、思っているのかな?」

 

 ヲ級は無言だった。

 沖田は続けた。

 

「物事には、区切りというものがある。察しているだろうが、状況は、すでに不可逆的だ。君は佐世保で、必ず、降りる。

 だが今挙げた事柄を棚上げにしたまま別れるのはさすがの私でも、ちょっとばかし疑問を感じるんだ。つまり、最後の機会に、色々と清算しようってわけだ」

 

「さいご」

 

「聞いたかもしれないが、佐世保はこれから深海棲艦との決戦に入る。もう民間人は鎮守府を出ないといかん。正真正銘、これが君と話す最後になるだろう」

 

 ヲ級の瞳が揺れた。

 

「わかった」

 

 沖田は頷いた。

 滑り出しは上々だった。

 時間を置いたからか、ヲ級の態度は冷ややかなながらも落ち着いている。沖田の体も、必要以上の恐怖や緊張を感じてはいない。

 赤松と話したときのような、程よい緊張感が口を滑らかにした。

 

「君の方で、私に言っておきたいことはあるか」

 

 ヲ級は、微かに眉をひそめたようだった。なぜだか、白けたような気配が漂った気がした。

 

「なにか、あるんだろう。あの時、私を強く打ったほどの」

 

「わ、わか」

 

 ヲ級は数度、口をぱくぱくさせた。

 次いでやってきた声は、どこかぞんざいな、うんざりした調子だった。

 

「わかん、ない?」

 

 ヲ級は機械的な動作で、首を傾けた。長い読み込み時間を挟んだ機械みたいだった。

 

「しゃちょうはうそつきだ」

 

 ヲ級は言った。

 指を一本立てる。

 

「よこすかいくのやめた」

 

 沖田はため息を吐き出した。

 横須賀鎮守府。

 佐世保鎮守府へ目的地が変わる前までは、確かにそこにヲ級を運ぶ予定だった。そしてヲ級本人もここにひどく行きたがっている。

 理由は単純。

 とある事情で、彼女は横須賀まで行けば、沖田達との別れはないと思い込んでいるせいだ。まずはこの誤解から解かなければならない。

 

「ヲ級、横須賀で何があるか、ちゃんと、正確に、理解してるか?」

 

「き、ちんとせーかくに、りかいしてるよ」

 

「もうすでに嘘だろ。いいか、単純な話じゃないんだぞ。

 

 横須賀鎮守府は輸送船『回流丸』を徴用。船員も徴用。空母ヲ級を書類上も横須賀の戦力とし、『回流丸』はいわば仮装巡洋艦としてヲ級の敵拠点偵察や、通商破壊部隊を釣り上げる囮として運用する。こういう馬鹿みたいな話なんだ」

 それが横須賀の提案だった。

 赤松提督が、初日に沖田から取り上げた、封筒の1つ。あの分厚い契約書の束のような封筒の中には、そのための諸条件が入っており、横須賀鎮守府が真面目に検討していることは伺えた。

 だが、そもそもからして、沖田は海軍が大嫌いだ。

 船員達の中には、横須賀の提案に興味を示すものもいたが、社長の決定として意見は封殺していた。

 だが、狭い船の上で、噂話を隠すのには限度がある。ヲ級もこの話を耳にして、そして、それ以降、彼女は横須賀行きを妙に楽しみにするようになった。

 誰もが、彼女が誤解をしていることを察していたが、だからこそ誤解を解くような役回りは誰もやりたがらなかった。結果、こんなところで行き詰っている。

 沖田はため息を吐き出す。

 詰まる所、ヲ級の思いの強さを見誤っていたのだ。

 

「うそ ついてた。よこすか、いくって、ずっと、ずっと、いってたのに」

 

 ヲ級が言った。沖田は細目の目じりを下げ、肩をすくめた。

 

「まぁ、結果としちゃそういうことだ。認めよう。結果として、横須賀へ行くという話は嘘になった。欠品だよ」

 

「…………」

 

「怒るか」

 

「いい」

 

 沖田は、きょとんとした。

 

「しゃちょうがやならしょうがない」

 

 沖田は意外に思った。というより、ほとんど無防備にカウンターパンチを食らったような気持だった。

 

「……随分、あっさりだな。横須賀行かなくなったから、怒ったんじゃないのか」

 

 ヲ級は首を振った。ふるふると、触手が揺れる。

 

「じゃ、売ったことか。いや実際には、売ったというか、向こうが勝手に値段付けただけなんだが」

 

 ふるふる。

 

「……なるほど。退職金か」

 

 ヲ級は唇を尖らせた。

 

「さつはうまくない」

 

 沖田は息を吐き出した。さすがに退職金であろうとは、彼自身も思っていない。

 ヲ級は貨幣の意味は知っていても、価値はその『味』にしか見出していない。

 

「降参だ」

 

 沖田は白旗を上げた。

 

「私にはわからん」

 

「そーか」

 

「教えてくれ。言葉にするのが、嫌じゃなければ、だが」

 

 ヲ級が横目で沖田を見た。仏頂面だったが、その眼差しに、寂しげなユーモアが差した気がした。

 ヲ級が数度、深呼吸してから、口を開く。無意識か、右手が上がり、指先が首に巻かれた輪に触れていた。

 

「であったとき」

 

 沖田は思い出した。

 出会った時。最初の時。ヲ級と出会った日のことだろうか。

 今日のような凪いだ夜だった。その頃の沖田はまだ社長ではなく、父親がまだ社を纏めていた。

 だがその父は、海に投げ出され、戻ってはこなかった。

 代わりに空母ヲ級が海から上がって来たのだ。

 

「いわれた。ふね、まもってくれって。やくそく」

 

 約束。

 この海産物は、沖田の父親と、船を守る約束を取り交わしたと以前から言っている。

 沖田は、父はその時、衰弱か怪我かで前後不覚だったのだろうと推察している。きっとヲ級を艦娘と誤認したのだ。

 

「私の親父に、だったか」

 

「そう」

 

 ヲ級は、そこで少し間を置いた。

 沖田は、ふとこの会話を聞いているであろう技術士官や艦娘のことが気になった。姿は見えないが、どこからか監視はされているに違いない。

 会話の内容を制限するべきかとも思ったが、すぐに思い直した。

 彼女の言葉を聞くために、この面会を許可したという部分もあるに違いないからだ。せいぜい期待に応えてやろう。

 

「ふねを、まもる。わたしの、あの、おとこからの、あたらしい命令(オーダー)

 

 ヲ級は、まるで懐かしむように目を細めていた。

 

「わたしはしたがった。命令(オーダー)はぜったいだから」

 

 沖田は赤松提督の言葉を思い出した。

 深海棲艦は、海に沈んだ怨念が、旗艦なり海域の長なりの命令の下で、荒れ狂うだけだ。正直なところ、それがどんな気持ちなのかは沖田には理解できない。台風や津波が仮に生き物だったとして、それを理解できるとは思えない。

 だが、一度、荒れ狂うのを止めてしまったら。

 目の前の深海棲艦は、再び動き出す道しるべを、見知らぬ男からの頼みに見出しのかもしれない。

 

 ――ほかになにをすればいいのかわからない。

 

 当時のヲ級の言葉だ。

 これは冗談でもなんでもなく、その頼みこそが拠り所だったのだろう。

 

(……なるほどな)

 

「いいじゃないか。命令が媒介する、ビジネスライクな関係。当初の取り決め通り、君は船を守り、私は君をこの国の艦娘の所へ連れていく。何も問題はない」

 

 ヲ級は、また首を振った。

 

「ちが、う」

 

「違う?」

 

 深海棲艦は、口の端を引きつらせ、微笑の気配を漂わせた。恐ろしげな帽子を被り、ぬらぬらと光る深海棲艦の粘液に塗れながらも、その微笑みは木漏れ日のように暖かかった。

 

「い、いまは、それだけじゃない」

 

 深海棲艦が言う。

 

「わたしは、しゃ、ちょ、しゃちょー、たちと、ちがう」

 

「違う」

 

「そう。へんな、なまえつけたり。ふくきせたり。かか、かいぐんきらいだったり。わわ、わたしは、それがりかいできない」

 

 ヲ級はかつてないほど長く喋っていた。

 馬公泊地の警句が蘇った。

 ――深海棲艦は人になれないよ。

 

「でもでも かん、むすなら、わたしでもりかいできるとおもった」

 

 沖田の見立ては、当たっていた。ヲ級が艦娘に興味を持った理由は、やはり艦娘を通して、自分のことをより深く理解するためだった。

 

「でも だめだった」

 

 当たり前だろう。

 艦娘は、あくまでも人間の少女だ。他の人間の機微を理解できないのなら、艦娘も理解することはできないだろう。

 演習で暴走した駆逐艦。やたら強い航空母艦。それ以外にも、脱走した時に様々な艦娘を見たのかもしれないが、そのどれも徒労に終わってしまったようだ。

 

「くびわも、かんむすは、つけてなかった」

 

「首輪」

 

「そう。わたしが、し、しんかいせーかん、だから。でもね」

 

 ヲ級は言った。

 

「くまのはちがった」

 

「熊野?」

 

「くまの、このまえ、えんしゅうおわったあと、ないてた」

 

「あの子がか」

 

「そう。たたかって、かえると、ほっとするって。だからないたって」

 

 ヲ級は息を、何度か吐いたり吸ったりした。沖田は緊張する。

 何か重要な告白が来ることが、気配でわかったからだ。

 

「わたしはくまのがりかいできた。りかい、もっと、したくなった」

 

 理解、と沖田は繰り返してみた。

 

「うん。わたしもおなじだったから。だからきづいた。きづけた。わたしは――」

 

 ヲ級は言いよどんだ。

 沖田はひどく情けない気持ちになった。

 沖田は、ヲ級との間に壁を作ってきた。それは深海棲艦である彼女が、人がましさを得ないための、勝手な『思いやり』だった。

 今でも、そこには一定の正しさがあったと思っている。

 だがヲ級は知ってしまったのだろう。

 自分とより立場が近い艦娘が、母港とどういう関係を結んでいるか。

 そして耐えられなくなったのだ。

 首輪。横須賀へ行くという約束。

 沖田達との関係は、あまりにも嘘だらけだったから。

 艦娘が命を賭して心を通わす母港を守るのとは対照的だ。

 ヲ級は顔を歪ませた。常の無表情が決壊し、心の奥に沈殿していた、言語化されなかった思いが吐露される。

 

「わかるかしゃちょう」

 

 沖田は頬を掻いた。どうしてだか右頬がうずいた。

 

「いまは、もう。

 命令(オーダー)、ちがう。け、けーやく、でもない。

 ここちよかった。それだけで、わたしは、しゃちょうに、つかわれたの」

 

 ヲ級は付け足した。

 

「ななぐったのは、ごめんなさい」

 

「……いい。理由はわかったよ」

 

 ヲ級の言葉が事実だとすれば。

 沖田は、ヲ級と別れ際に彼女を明確に荷物扱いした。そうして突き放すことで、別れがすっぱりと行くという計算があったが、彼女には耐えられなかっただろう。

 なにせ、彼女は沖田達と対等な仲間であることを求め、沖田はあの場で彼女からその可能性を永久に取り上げようとしたのだから。

 重ねてきた小さな嘘の清算が、あの拳というわけだ。

 ――うそつき。

 

「しゃちょう」

 

「なんだ」

 

「わたしの、はなしは、おわり」

 

 ヲ級は沖田をまっすぐに見据えた。

 

「しゃちょうのばん」

 

「……」

 

「わたしは、なに?」

 

 ヲ級は首を傾げた。青々とした瞳は、今や明確な答えを促していた。

 彼女と沖田達の間にあった、ありとあらゆる嘘。その中にあった、そしてあったであろう確かなものを、彼女は取り出そうとしている。

 自分の立ち位置を確認するために。

 あるいは、海と決別するために。

 

「にもつ? もの? それとも――」

 

 違うでしょ?

 沖田は、頬を掻いた。自嘲的な笑いと共に、ため息。

 頭の中に、こんな時に限って、熊野の言葉が蘇る。

 ちゃんと話してください。ちゃんと送り出してください。

 彼女にとって、回流丸は、母港のようなもの――。

 

(母港?)

 

 馬鹿を言え。

 それ以上だ。

 

「海軍になんて、やっぱり、関わるべきじゃなかった……」

 

 沖田は嘆息し、ヲ級に数歩、近づいた。ヲ級は怪訝そうな顔をする。

 沖田は彼女の首に手を伸ばし、そっと彼女に首輪に触れた。

 ヲ級に警戒する様子はない。それだけ沖田を信用している。

 

「ヲ級」

 

「なに」

 

「あー、その。なんだ」

 

 沖田が触れているのは、ヲ級の首輪だ。

 ヲ級の逃亡を抑止するために、地中海から出てくるときから、ずっと付けていた首輪だ。

 沖田達はその首輪をいつでも作動させ、彼女を殺めることができる。

 そう説明をしてきた。熊野にさえ、沖田はその説明を貫いた。

 

「怒らないでほしいんだが」

 

「うん。もうおこらない」

 

「わかった」

 

 しかし沖田が少し力を込めると、それはあっさりと外れた。機械の部分と革製のベルトと繋いでいる金具が、壊れて、外れて、首を囲っていた輪は、単なる革と金属でできた帯になっていた。

 深海棲艦の粘液が、名残惜しそうに外された首輪との間に糸を引いている。そして首輪から彼女の体内に伸びていたワイヤーが、ずるりと肉体から引き抜かれ、ヲ級の首筋から赤黒い体液が一筋流れた。

 だが、それだけだった。

 今までヲ級の首にしぶとくしがみついていた輪っかにしては、ひどく呆気ない幕切れだった。

 

「を」

 

 ヲ級が変な声を出した。

 無理もない。ヲ級の知識によれば、こんなことをした瞬間に電流が流れて彼女は死ぬはずなのだから。

 だが首輪は沈黙したままだった。

 

「すまん、ヲ級。この首輪、実は、その……」

 

 ヲ級は目を点にしていた。クラゲのくせに、ハトが豆鉄砲食らったみたいな顔だった。

 

「嘘なんだ」

 

 長い沈黙。波の音さえも、遠ざかる。

 

「……うそ?」

 

「壊れたんだ、どっかで」

 

 ヲ級はしばらく、首を傾けて沈黙していた。帽子から垂れてくる粘液が、静止したせいで滴のように垂れ始め、彼女の足元を濡らしていく。

 

「あ、明石さんとか、どうせ発覚する鎮守府の技術屋には、言っておいたんだが……その、君には言う機会がだな」

 

 

「は?」

 

 

 怒らないといったくせに、ヲ級は明らかに半ギレしていた。

 

 

     *

 

 

 日     時:8月14日20:25(明石標準時刻)

 作 戦 領 域:佐世保鎮守府停泊中 輸送船『回流丸』

 コンディション:風南1、積雲4、視程20、海上凪

 

 

「賭けしませんか?」

 

 回流丸の艦橋では、明日の出航に備え、機関や操船関係の船員が待機をしていた。

 すでに必要な準備が終わり、艦橋には一様に弛緩した空気が流れている。船長の目がなければ、きっと誰かが酒盛りを始めていただろう。

 

「賭け?」

 

 誰かが投げやりに始めた会話に、また誰かが乗っかった。

 

「何をだ」

 

「社長が、分かれる前に、首輪のことをヲーに話すかどうか」

 

「ふむ」

 

 息を吐いたのは、恰幅の良い船長だ。艦橋の隅でパイプ椅子を繋げて横になっていて、顔に雑誌を載せている。『横須賀提督 またセクハラ』という表題だったが、よく見ると最後に『か?』とひどく小さい字で書かれていた。

 

「まぁ、五分五分だな」

 

「それじゃ、賭けになんないんすけど」

 

「俺にだって分からん」

 

 ここで話題になっているのは、船員の間でもヲ級の首輪に関してはわだかまりがあるからだ。

 賭けという形を取らなくても、いずれは誰かが話題に出しただろう。

 首輪。地中海ではローマの古代より、奴隷の身分を明らかにする目的で使用されていたものだ。

 今、地中海の国は深海棲艦の身を奴隷に貶めるため、古代と同じように深海棲艦の首に枷を嵌めている。

 最初は、船員達もヲ級が恐ろしく、首輪での拘束を必要とした。名前を付けても、共に戦っても、その生物的な恐ろしさが消えることはない。何より雇い主の国から、契約で装着を義務付けられては、従うほかない。

 だが、ある時、首輪の故障が発覚した。

 回流丸には、同じような首輪が予備として幾つも与えられていた。

 しかし船員達は、壊れて、もう用を為さない首輪の方をずっと装着させ続けた。

 例えそれで深海棲艦を殺す手段がなくなるとしても、誤作動したら仲間を殺すようなものを、船員達は彼女に付けたくなかったのだ。社長の沖田も、それを黙認していた。

 言いつけ通り、深海棲艦を管理しなければならないという、輸送船としての建前。

 仲間として、そんなものを付けさせたくないという思い。

 回流丸の中にあった2つの矛盾した思いが、壊れた首輪を付けさせ続けるという欺瞞を生んだ。

 

「しゃちょー、大丈夫っすかねー」

 

「そうだ」

 

「むしろそっちを賭けるべきだ」

 

「脇が甘いんだよなぁ。今も、ひょっとしたらもう怒らせてんじゃないのか」

 

 言いたい放題である。

 首輪の件は、船員達はみんな知っていたが、これだけは絶対にばらすなと沖田から釘を刺されたことで、ヲ級にはばれていなかった。

 この事実を知っているのは、赤松提督と、数人の技術士官だけである。実際沖田は明石に、深海棲艦から勝手に枷を外したことをやんわりと責められたらしい。

 船長が苦笑した。

 

「大丈夫だろ。悪いようにはならんだろうさ」

 

「でも」

 

 何人かいる船員の、一人が咎めた。

 

「相手が海軍ってのが、心配なんですよ。あの人の海軍嫌いは、なんというか」

 

「まぁ、異常だなぁ」

 

 船内に同意の気配が漂った。

 

「……なんで、あんなに海軍にアレルギー起こすんですかね?」

 

 輸送船は、かつて海軍に徴用されたこともあれば、捨石にされたことすらある。そのため、古い輸送会社になればなるほど、海軍への心象は悪くなるものだが、沖田の振る舞いはそれでも異常と言えた。

 バシー海峡で熊野を救出することさえ、当初は嫌がっていたほどなのだ。

 

「忘れようとしてんのさ」

 

 船長が言った。

 

「……言ってやるな。お前らにも、忘れたいことくらいはあんだろ」

 

「何です、それ」

 

「……あとは、本人に訊きな」

 

 話し過ぎたと思ったのだろう。船長は慌てて、雑誌を顔の上に乗せ直した。話は終わりのサインである。

 それで話題が流れた。

 船長は再び寝始めて、船員達は思い思いの暇つぶしに走る。

 中には、無線機を弄っているものもいた。船舶用の広域帯受信機は、回線を開いておくだけで色々な会話が受信できる。特に回流丸の受信機は、ヲ級とのやりとりのためもあって軍用の帯域まで補聴可能な代物だった。

 

「お前、またやってんのか」

 

「いいじゃないっすか。港でこれやると、たまに無線で勝手に給料の話してるフィリピン人の会話とかが……おっ」

 

 無線機が微かなノイズと共に、意味のある単語を吐き始めた。

 だが、ここは軍港。聞こえてくるものが世間話とも、まして吉報であるとも限らない。

 

《こちら第2艦隊。旗艦那智》

《行方不明艦娘の捜索は、難航》

 

《こちら第4艦隊。旗艦伊勢。泊地化した海域で、羅針盤が狂う。正しい航路はまだか》

 

《秘書艦代行の『翔鶴』です。行方不明艦の捜索は、当面、取りやめます。

 繰り返す。軽巡洋艦『川内』、重巡洋艦『青葉』、『熊野』の捜索は、次の出航を持って停止します》

 

 

     *

 

 

「どういうことだしゃちょう」

 

 ヲ級は、沖田に詰め寄った。沖田は奇跡的なほどの冷静さで、返した。

 

「落ち着け」

 

「おちついてる。しょーかくをばくげきしたときとおなじくらい……」

 

「そういう落ち着きはやめろ」

 

 沖田はため息を吐いて、言った。ちらりとヲ級がファイティングポーズをとっていないことを確認してから、

 

「途中で、その首輪壊れたんだよ。で、予備も使わず、壊れたのを付け続けた」

 

「な、なんで」

 

「……我々の総意だ」

 

 沖田は彼女の目を見つめ、苦々しく言った。

 

「決まり事として決まっていたとしても、君が人類の敵だからとしても、必死に我々を守ってくれた日々は、紛れもない本物だ。そうした努力に、誤作動したら死ぬような首輪を付け続けることには、いつからか、抵抗があったんだよ」

 

 ずるり、と音がした。見ると、ヲ級が拳を握り、帽子の触手が蛇のように鎌首をもたげている。

 その表情が消えている。

 ヲ級のさらに奥を見ると、反対側のドアが少しだけ開き、先ほどの駆逐艦娘が顔を出していた。沖田は気づかれないほど微かに首を振って、助けが不要な意図を伝えた。

 

「また、殴られそうだな」

 

「いまの、わ、わたしのきもちを」

 

 ヲ級は言った。

 

「こぶしでひょうげんしたら こ、ここ、このまえとおなじのを なんぱつも た、たたきこむことになるぞ」

 

(まじか)

 

 沖田は慄いた。

 馬公泊地の人間も言っていたが、深海棲艦が荒れ狂う意思などだとすれば、感情を暴力で表現しようとするのも自然なことなのかもしれない。実際、沖田を殴り倒したときのヲ級は、目に金色の輝きを――かつてのFlagship級の輝きを宿していたという話だ。

 かつての、ただの深海棲艦であった頃に近づくほど、その瞳の色は変わる。

 今はまだ青い目だ。猶予はある。赤になったら逃げだそう。

 

「それにな。こっちだって、考えがあったんだ」

 

 ヲ級は粘っこい視線を伴った沈黙で、沖田の答えを待った。

 

「お前は、深海棲艦だろう。なのに、艦載機の着艦で飛行甲板にヘッドスライディングしたり、管制ができてなかったり、お前の深海棲艦としての性能は弱っていた」

 

 同じことを明石にも指摘されていたことを、沖田は思い出した。もっとも、弱体化という事実に気づいたのは佐世保に入ってからで、当時は違和感を感じていた程度だが。

 

「言葉を喋ったり、名前を付けられたり。人らしくなればなるほど、お前は深海棲艦としての強みを喪っていく。分かるか? 何かを手にする代わりに、何かが損なわれ続けてるんだ」

 

「なにか」

 

「ああ。ただで手に入るものなんてない。だがお前は、どこまで行っても深海棲艦だ。深海棲艦の力を犠牲に、人間性を購ったとして、実験動物のように扱われるかもしれない。そうなった時」

 

 沖田は言いよどんだ。

 

「そうなった時、人がましさを増した君が、どう感じるか。我々には、想像もできなかった」

 

 ヲ級は、曖昧に頷いた。

 

「後戻りもできない。だから目に見える形が必要だったんだ。名前をつけても、好物を食べさせても、服を着せても、最後の一線だけは越えないよう、君にも、我々にも見える形で、我々の関係を象徴するものが必要だったんだ」

 

 沖田は吐き出すように言った。

 

「首輪は、枷だよ」

 

「かせ?」

 

「そう。お前を、深海棲艦として、人と区分けして留めておくための」

 

 沖田は万感の籠った息を吐いた。彼が抱えていた重荷が、一つ、やっと肩から降りる。

 

「お前を深海棲艦のまま、ここに連れてきたかった」

 

「……」

 

「実験動物扱いされるかもしれない君に、人がましさを与えてしまうことが、正しいかどうか、僕らは結論を出せなかった」

 

 深海棲艦は、個の概念が薄いと聞く。だからこそ、連中は無謀な作戦もとることができる。それが深海棲艦の強さの源だ。

 彼女らには、きっと心がない。だから傷つくこともない。

 

「……みんな、お前に傷ついてほしくなかったんだよ」

 

 船は閉鎖された社会だ。

 毎日顔を合わせる仲間に隠し事をし続けることは、大変なエネルギーが要る。沖田以外の船員達が、ヲ級に首輪のことを隠し続けられたことこそ、彼らがヲ級のことを思っていた証左ではないか。

 事実を淡々と言ったつもりだったが、なぜか吐き出すような口調になった。

 

「しゃちょう」

 

「そんなのは、思い上がりだったな」

 

 沖田は、その言葉でこの奇妙な話題を締めくくった。

 

「お前は、自分でちゃんと自分のことを考えられるやつだった。こっちの計算なんて、無意味なものだった」

 

「しゃちょう」

 

 ヲ級は言った。いつしか握りしめられた拳は解かれ、口調は静かだった。

 

「わたしは……」

 

 その先が続かない。語彙がないのかもしれないし、色々な気持ちが混ざり合って、言葉が出ないのかもしれない。

 だから、沖田は言ってやった。

 家族の機嫌がなんとなく分かるように、ごくフラットに、彼女の言いたいことを察することができた。

 

「ああ。お前は、我々の仲間だよ。商品などと言ってきて、済まなかった」

 

 ヲ級の青い目が見開かれた。虚ろな目に、微かな救いの光が差す。

 沖田は苦笑した。

 傍から見れば、海賊船のような、ひどく胡散臭い輸送船。その中に渦巻いていた、嘘の霧は晴れた。

 深海棲艦に対する恐怖も、貴重な積み荷に対する欲望も、海軍に対する不信も。

 全てが取り払われた時、そこには戦うものに対する親愛が残っていた。

 

「回流丸の連中は、みんなお前が大好きだ」

 

 沖田は、もう一度ヲ級を呼ぼうとした。最後に、ちゃんと顔でも見ておこうと思ったのだ。

 だがそこで、違和感に気づいた。

 ヲ級の、青い目。

 かつては茫洋とした、海底へ続いているだけの水面のような瞳だった。そこに光はなく、明確な意思もない。何かを始まらせも終わらせもしない瞳だ。

 だが今そこに、意思の光が宿っていた。

 

(『点』だ)

 

 赤松提督の言葉を思い出す。

 深海棲艦と艦娘は、同じように海に沈んだ思いを原動力にしている。その違いは、そこに基盤となる自我があるかどうかに過ぎない。

 今を生きる少女の意思が、放っておけば荒れ狂うだけの思いの中で、基準点となり、そこから何らかの指向性が与えられるのだ。

 深海棲艦か、人か。

 境界を漂っていたものが、確かな基盤を得る。航海士が星から自らの位置を割り出せるように。

 今のヲ級の瞳には、何かの意思があった。見つめている間に、どんどんそれが強くなっていく。

 瞳に生まれた一点の光が、荒れ狂う思いを、切り分け、意味づけていく――

 

「しゃちょう」

 

 ヲ級は、唐突に沖田の頬に手を添えた。途端、真っ青な光が頭の中を埋め尽くした。

 膨大な光の奔流がやがて一つの点に収束し、そこから遠いどこかの光景が現れる。

 そこは南国の海だった。

 豊かなサンゴ礁に、快晴の空、そして太陽。その光景の中に無数の艦船が陽光を浴びて佇んでいる。船の墓場。いや、船にとっての天国かもしれない。

 そこに、強烈な光が差した。

 カメラのフラッシュのように一瞬の光景を目に焼き付けるような、強烈で容赦のない光だ。

 

「しゃちょう」

 

 呼びかけられ、沖田の意識は現実に引き戻された。

 体から力が抜け、尻餅をついてしまう。

 

「なんだ、今のは」

 

「わたしのゆめ」

 

 ヲ級は言った。

 

「わたしたちは、おもいをこうやってつたえることができる」

 

「なにを言って――」

 

 沖田は気づいた。いつの間にかヲ級の瞳の色が変わっている。

 青から金色へ。深海棲艦の習性がより強く表れるときの、あのFlagship級としての輝きだ。

 

「わたし、『たち』?」

 

「そう」

 

「深海棲艦て、ことか?」

 

 ヲ級は、首肯。

 

「思い?」

 

「おもいで」

 

 思い出。だが、彼女は深海棲艦としての記憶を喪っているはずだった。そしてその中には、艦娘と同じように彼女の中に潜んでいる、旧い軍艦の魂のことも含まれている。

 

「思い出したのか?」

 

 ヲ級は頷いてみせた。

 

「おもいだした。むかしのことも、わたしの、ほんとうのなまえも」

 

 瞳の色は、さらに変わる。金の色はさらに輝きを増し、強すぎる光はやがて白一色となる。そしてそれはやがて、再び青みを増し始めた。

 だがそれは、先ほどのまでの茫洋とした青ではない。

 超高温の炎の色だ。最新型で、まだ研究段階で、沖田としても写真でしか見たことがないものだが、それはジェットエンジンのアフターバーナーを思わせた。

 

「わたしはね――」

 

 ヲ級に触れられることで、彼女の思い出が流れ込んだせいかもしれない。

 ヲ級の後ろに、見知らぬ少女が佇んでいるように見えた。透き通るように存在感がなく、顔立ちも、肌の色さえ判然としない。しかし古い馴染みに忘れられていたかのように、ちょっと残念そうで、ちょっと意地悪な微笑を浮かべているらしいのは、なんとなく分かった。

 少女の唇と、ヲ級の唇は、そろって花びらのようで、そして同じ動きをした。

 娘にしか宿らないだけあって、船の魂は、やはり少女の姿をとるものなのか。

 

 

「さら」

 

 

 ヲ級は言った。

 

「それが、わたしのなまえ」

 

 ヲ級の後ろでドアが開いて、明石と技術士官が転がり込んで来た。

 

「サラ?」

 

 沖田の思考は、一瞬停止していた。降ってわいた想像を打ち消す。

 

(そんなはずはない)

 

 ヲ級は航空母艦だ。

 沖田も慌てて懐から書類を取り出す。明石に渡された、ヲ級の中の船の魂、その候補が纏められた資料だ。

 

(だが、サラなんて、人間臭い艦名の船なんて――)

 

 沖田の手が、ある写真で止まった。

 

 レキシントン級航空母艦

 USS(、、、) サラトガ

 

 写真は木製の飛行甲板を正面から納めたもので、識別のためだろう、飛行甲板の先端には艦名の略称が大書きされていた。

 そこには、『SARA』とあった。

 

「それ」

 

 ヲ級が、まさに沖田が正解を引き当てたことを告げた。

 明石が絶句し、技術士官が何やら無線でやりとりを始める。

 沖田は写真の下に付箋で添付された、艦の略歴を眺めてから、言った。

 

「……船員の中に、君を冗談で妹扱いしてるやつもいたが」

 

 沖田は呻いた。

 

「まさにシスター・サラというわけか」

 

 そこで、ヲ級が少しだけ耳に手を当てた。無線を聞く仕草だった。

 

「しゃちょう」

 

 燃え盛るような青い瞳で、深海棲艦は言った。

 

「おねがいがある」

 

「な、なんだ」

 

「いま、むせん、はいった」

 

「何?」

 

 ヲ級が艤装をフル装備しているのは、深海棲艦の電波を受信するのを期待されてのことだ。

 

「深海棲艦のか?」

 

「かん、むすの」

 

 沖田は脱力した。

 

「なんだ、それじゃ意味が……」

 

「きゅうしゅつ やめる」

 

 ヲ級の顔は、いつにも増して青白かった。

 ヲ級が傍受した無線の内容はこうだった。

 沖田も知っている、東シナ海での哨戒部隊の行方不明艦娘。

 敵の艦種は多数の潜水艦に、強力な駆逐艦が中心の水雷戦隊。そして、航空母艦と戦艦。現在も撤退中の不知火と陽炎が、その情報を持ち帰ったのだ。

 民間船の救助も並行していたらしく、そのせいで情報が遅くなったのだ。

 救出作戦をしようにも、制空権が敵にあれば難航は必至だ。それにそれだけの大部隊を相手にするのであれば、救出を素早く行う必要がある。行方不明艦の居場所を事前に特定することは必須だろう。でなければ、遅滞戦闘をする艦娘に甚大な被害が出る。

 

「災難だな。で、その不幸な行方不明艦は誰なんだ?」

 

「くまの」

 

 沖田の顔に汗が浮き上がった。

 あのお嬢様。一体、何度死にかけるつもりなんだ?

 ヲ級は言う。

 

「せんだい、あおば」

 

「青葉?」

 

「しってるのか」

 

 沖田は頬を掻いた。

 

「重巡洋艦だ。熊野さんと合わせて、重巡2隻、秘書艦1隻か。大きいなぁ」

 

 翔鶴は佐世保の防衛ラインの要として、捜索には避けないらしい。そして確かに思い返してみれば、佐世保に今いる空母は翔鶴1人である。

 

「MI作戦か……」

 

 主力の空母はそちらに出払っているか、AL作戦に出ているか、南方海域に回されているらしい。唯一瑞鶴が馬公泊地にいるのだが、バシー海峡でも同様に深海棲艦の跳梁があり、そちらの対処にかかりきりであるそうだ。

 

「しかし、そうなるとまずいな」

 

 空母がいなければ、海域の捜索は絶望的だ。

 いや敵が制空権を取っているのなら、捜索自体が厳しい。敵の制空権下を飛んでいても撃墜されない航空機など――

 

「あ」

 

 明石も、研究員も、誰もが、ヲ級のことを見ていた。

 

「わたしならさがせる」

 

 沖田は言葉を喪った。ヲ級が、かつてバシー海峡で熊野が見せたような、射抜くような目をしていたからだ。

 使命のために、深海棲艦が己の命を燃焼させる。

 瞳に点った青い焔が、さらに火勢を増す。

 

「わたしはいく」

 

 力強いはずの表情なのに、沖田はなぜか死相を感じた。

 靴のつま先で、何度も床を蹴る。

 

「……お前、一人じゃ艦載機ろくに動かせないだろ」

 

「う」

 

「燃料はどうすんだ。君の艦載機は重い。いい燃料使わないと、ろくに飛ばないんだぞ」

 

「を」

 

「以上の問題を解決しても、まだ提督や鎮守府の軍議を説得するハードルがあるんじゃないか? お前は自分の有用性を、他人にきちんと説明できるのか?」

 

「ううう」

 

 ヲ級は完全に沈黙してしまった。沖田は苦笑した。

 

「回流丸の船倉に、まだどこにも売ってない揮発油がある」

 

 ヲ級が顔を上げた。

 

「……しゃちょう」

 

「持ってくか?」

 

 ふっと胸が軽くなったような気がした。

 

「恩人にそんな顔されちゃな」

 

 赤松提督にはしっかり課金して(請求させて)もらわなきゃな、と沖田は小さく呟いた。

 

 

 

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登場艦船紹介

 

 航空母艦:サラトガ

     (USS Saratoga, CV-3)

 

 レキシントン級航空母艦 2番艦

 全長:270メートル 全幅:32メートル

 排水量:49,552トン(満載時)

 速力:35ノット

 乗員:2,791名

 

 兵装:常用機79機

    補用機30機

    5インチ砲 16門

    40 mm 機関砲 100門

    20 mm 機関砲 16門

 

 

    1927年就役。

    例の戦争で開戦時から参加して生き残った航空母艦のうちの1つ。

    第二次ソロモン海海戦、ラバウル攻撃などに参加。

    ミッドウェーにおいても、彼女の航空隊は空母ヨークタウンに移って活躍した。

    終戦後は、核実験(クロスロード作戦)の標的艦として使用され、

    7月1日、7月25日と2回の損傷を受けて沈没した。

    現在では放射線も問題ない水準まで下がり、サンゴに覆われた姿で、

    ダイバーの人気を博している。

    同実験では戦艦長門、軽巡洋艦酒匂、重巡洋艦プリンツ・オイゲンも

    標的艦として使用されていた。

    1946年除籍。

 

    余談だが、最大の空母着艦記録の保持者。

    シスター・サラの愛称で親しまれた。

 

 

 




サラトガ「わたしだ」
翔鶴「お前だったのか」

というわけで、中身はサラトガでした。
このSSの世界観では、艦娘はあくまで艤装を背負った普通の人間であるため、
このヲ級もサラトガの艦の記憶を背負ったただの深海棲艦ということになりますが。

深海棲艦=アメリカ艦というのは割とよくある形ではありますが。
アメリカの艦は、艦毎にこういう愛称があってカッコいいですね。
自分が戻ってくる艦だから、かっこいい愛称を付けたくなるのでしょうか。

次回も早めの更新を心がけます。


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