輸送会社である沖田達は、平和主義の空母ヲ級を佐世保まで運んできた。
だが彼女を佐世保で降ろす、という事実を本人に納得させるのに失敗し、
沖田は猛烈な鉄拳を受ける。
果たして彼は生きているのか。
というより、どう収拾をつけるのか。
友好的な深海棲艦という宝石を前に、泥沼を演じる者どもに、熊野が物申す――。
思えば、とまどろむ意識が、自嘲的な言葉にたどり着いた。
思えば、沖田は似たような失敗ばかりしてきた。
夢の中でも、彼は地面に横たわっていた。薄目を開けて見上げれば、拳を固め、肩で息をしている少女がいる。
制服のセーラー服はぼろぼろで、そこら中に煤と血がこびりつき、何よりもその顔は涙と鼻水でひどいものだった。ただ見開かれた目だけは生気、というより怒気と怨みに満ち溢れ、目で殺さんとばかりに沖田を射抜いていた。
頬の鈍痛が思い出させる。
ああ、自分はこの娘に殴り倒されたのだった。
『あんたは――』
その艦娘は、言いよどんだ。
『私たちを、騙したんだ!』
そこで、記憶が途切れる。
記憶で編まれた映像が、別の記憶にザッピングされて消えていく。
そうだ、これは昔の話。今、自分を殴り倒したのはこの艦娘じゃない――。
続いて、蝋燭の火が点るように、ある光景が断片的に立ち上って来た。
夜の海。月。船の甲板。
確か、風はなく、異様に凪いだ夜だった。
目の前では、深海棲艦が佇んでいる。空母ヲ級と呼ばれる、人類の敵そのものとも言える強力な深海棲艦だ。
海水に濡れた肌と艤装の表面を、月の光が白々と輝かせている。それはまるで、彼女自身が、その女体に燐光を纏わせているようにも見えた。
彼女の双眸の中には、同じように金色の光が揺れている。
『まもる このふね』
彼女は言った。この頃は日本語ではなく、さらに文法も語調も怪しいものだった。
なぜ守るのか。深海棲艦に、人類の敵に守ってもらう必要はない。
沖田は確かそんなことを言ったように記憶している。
『やくそく』
それに、深海棲艦はシンプルに応じた。
『しごとするだけ』
それでも来るなという沖田に、空母ヲ級は言ったものだった。
『ほかになにをすればいいのかわからない』
その後も付きまとわれること、1週間。餌をやる船員が出始めるまで、2週間。最初の深海棲艦の撃退がその数日後で、その時傷を受けた彼女を甲板に引き揚げることを、ついに沖田は了承した。
その時使ったクレーンが――。
そう、だがあれは今は壊れているはずだ。どっかのお転婆がよりにもよって拳で破壊したせいで。
拳。
そうだ、あの野郎――。
どこかで電話のベルが鳴る音が聞こえる。
夜の地中海が遠ざかり、頬の鈍痛が急激に現実感を増し始めた。
*
沖田が目を開けると、そこは病棟の一室だった。
殺風景な病室に似つかわしい簡素なベットと、嵌め殺しの窓。外はすっかり夜で、佐世保湾の反対側の半島と、タンカーや艦娘の船灯が揺らめくだけの黒々とした海面が見える。
見慣れない光景は、現実と夢との境界を曖昧にさせる。
だが部屋の隅で鳴り続ける電話は、少なくとも時間だけは刻々と過ぎていることを教えていた。
沖田は嘆息する。
船員が連絡を付けやすいようにと、電話が備え付きの病室へ沖田を蹴り込んでくれたのだ。だがおかげで夢の世界から引きずり出されてしまった。
(まぁ、仕方のないこと)
思いながら、沖田は身を起こし、黒電話の受話器を取った。
深海棲艦の電波障害もあって、この国では携帯型の電話機というのは貴重品だ。基本的には衛星を用いないPHS形式のものが使われるが、軍が幅を利かせる通信設備を使うだけあって、申請手続きも面倒だし、用件もそもそも厳しく、何より高額なのだ。
限られた通信インフラを効率的に利用するため、という名目であるが、他国ではもう少し緩い。この国の統制は少々行き過ぎではないか、と海外から戻ってきた沖田などは感じる。
おかげで今もこの重たい受話器を持つはめになる。
「はい」
応答はしばらくなかった。名乗った方がいいかと思ったが、妙な気配を感じ、思いとどまった。
「もしもし」
二度目の呼びかけで、やっと相手が口を開いた。
「沖田輸送株式会社の、沖田社長ですね?」
沖田は顔をしかめる。一瞬、電話機の調子がおかしいのかと思った。
相手の声はひどくくぐもっていて、低く、聞き取り辛い。男か女かさえも分からなかった。
「そうですが」
「ひどい目に遭われたそうですね。あの深海棲艦に殴られたとか」
沖田は慌てた。ヲ級のことは緘口令を敷かれている。軍用の回線であるし、検閲されていてもおかしくはない。
電話の相手はそんな内容を堂々と話している。
「切らない方がいい」
相手は言った。
「切っても、何も変わらない。これは我々からの通達です。あなたが聞こうが聞くまいが、我々がやることは変わらない。ただ何かが起こった時に、あなたが後悔するだけだ」
「……何の話です?」
「なにはともあれ、災難でしたね。手を尽くして運んだあの深海棲艦に、まさか殴られるとは」
正確には殴りかかられたが、際どいところで頬を掠めただけで済んだので、怪我は転倒時の打撲とこぶだけで済んでいた。
「あんた誰です?」
「あなた方の、最初の雇い主だよ」
背筋に冷たいものが走った。
馬公泊地。深海棲艦の実験泊地にして、艦娘の艤装の開発を担っている泊地。
沖田は本来、馬公泊地へヲ級を輸送するはずだったのだが、様々な事情で目的地が横須賀に変わり、ここ佐世保に変わり、今に至っている。
「馬公、泊地の方ですか?」
「そうです」
くぐもった笑い声。
沖田は相手の奇妙な声は、変声機を介したものであることに気がついた。
沖田の頬を汗が伝う。間接的な命令を受けたことはあったが、実際に馬公泊地の人間と言葉を交わすのはこれが初めてだった。
だが相手の名前はおろか、階級、そもそも本当に馬公の人間であるかさえ分からない。
全てが窓の外のような薄闇に包まれていて、沖田はまだ悪い夢の中を彷徨っているような気分になった。
「こんな声で悪いね。指紋から声紋に至るまで、我々は表の人の手元には何も残さないことになっている」
「今更、何の用です?」
「重要な荷物を、我々ではなく佐世保に運んだあなた方に、一言言いたい人間がこっちには大勢いるんですよ。決定された以上、こちらもアリバイ作りに電話の1つもかけなければいけない。一応、こっちも組織なんでね」
沖田は少し沈黙し、相手の出方を待った。最近の沖田には、こういう厄介な話が多い。
「説教は聞き飽きてるんですが」
「今回の件で、分かったでしょう」
相手は沖田を無視して続けた。
「深海棲艦は、所詮、怪物に過ぎない。海の上で荒れ狂う怨念の化身だ。誰にも制御できない。文字通り、身をもって知ったということですかな」
相手はまた笑った。いやな相手だと思った。
「これこそが、正しい深海棲艦の姿だよ。暴力による主張の強制、まさに戦争そのものだ。誰がどんな手を尽くそうと、それは変わらない。情にほだされたか知らないが、我々を避けるなど、馬鹿なことをしたものだ」
沖田への言葉はひどく侮蔑的で、そこには明らかに職務上の義務以外の感情も混ざっていた。
「深海棲艦は人になれないよ」
当たり前のことを、と沖田は思った。
殴られた頬は、まだ痛みという形でヲ級の仕打ちを伝えている。
「死んで当然。人類の害にしかならない」
「いや」
沖田は、知らず口を動かしていた。
「害、だけでもないですよ」
「ほう」
「あいつは、航海の間ずっと我々を守ってくれた。少なくとも、この国の海軍よりはずっと」
相手が警戒するのが、電話口からでも伝わる。
ええいままよ、と沖田は言い切ることにした。
「深海棲艦というだけで、あいつの努力を過小評価するのは明確な誤りだ」
今度は相手が沈黙する。
「あれに言葉を教えたらしいね」
「そうですが」
「さすが、語学が堪能だ」
沖田は相手の意図を掴みかねた。確かに地中海にいた頃、現地との折衝は沖田の仕事だった。
だがなんとなく、ひどくいやらしい、婉曲なやり方で、沖田を傷つけようとしている意図を感じた。
「暗号通信の部署にいただけのことはある」
「……それはどうも」
「あれをヒトにしたかったのですか?」
沖田は笑った。
彼が願うのは、むしろその逆のことだ。
明確な答えを言わない沖田に、相手が急かす。
「まぁ、なんでもいい。あの深海棲艦から手を引きなさい」
沖田は苦笑した。
「言われずとも、そうしますよ。佐世保に管理を預ける。我々はもう関わらない」
「それがいい。だが、あんたは信用ならない」
相手のくぐもった声は、やけに耳の奥に残る。
「なにせ船団で、深海棲艦を釣り上げるような真似をする人だからね」
沖田はため息を吐いた。
「買い被りですな」
「いずれにせよ、こちらの話は聞いておいた方がいい。我々はどこからでも見ることが
できる。もし君らが我々に刃向うことを続け、不興を買い続けることを望むなら」
相手は言った。
言いぐさから、沖田は相手が男であることを半ば確信した。
「薄暗い場所に立った時、誰かがお前の背中を叩くだろう。それが我々だ」
「そ」
「この電話のことは口外しないように。まぁ、佐世保には検閲されてるだろうが」
そこで電話が切られた。通達とやらは、これで終わりらしい。
沖田は受話器が通話終了の電子音を鳴らすだけになっても、受話器を片手に持ち、立ちすくんでいた。ツー、ツー、という単調な電子音は、どこか長音だけで構成されたモールス信号を思わせた。
「最悪の仕事だ」
沖田は毒づいた。
手じまいしなければ、投資が無限大の赤字を生んでいく。だがそのために解決するべきヲ級本人との問題は、まだ重大なしこりを残したままだ。
行き詰まり。
殺風景な密室は、沖田の心をそのまま写し取っていた。
乱暴に受話器を戻し、外の空気を吸いに行こうとする。
しかし引き戸の手前に立ったところで、沖田は外から妙な気配を感じた。
殺気、というほどのものではない。だが漠然とした不吉な予感だ。
理屈では説明がつかない部分が、今扉を開けてはいけないと叫んでいる。
心臓が早鐘を打ち始めた。
*
日 時:8月13日20:35(明石標準時刻)
作 戦 領 域:佐世保鎮守府 病院棟
コンディション: ―
空母ヲ級が、よりにもよって人間に殴りかかった後。
駆けつけた熊野と、厳めしく武装した憲兵が場を納めたことにより、事態は短時間で収束した。
当のヲ級も今は捕まり、工廠の中で歩哨と艦娘の監視下で大人しくしている。この監視が剥がれることは当分ないだろう。
だが影響は小さくはない。
空母ヲ級の脱走事案は瞬く間に赤松提督の耳に上った。ついていた立哨、工作艦『明石』、その他技術要員にはじき出頭命令が出されるだろう。騒動の舞台となった輸送船『回流丸』は今も立ち入り禁止だ。
その一方で、空母ヲ級が白昼の鎮守府を歩いていた、という最悪の不祥事が広く露見する事態は防がれた。
ヲ級が帽子やスーツを着用して、深海棲艦の姿そのままでうろついたら確実に大騒ぎになっただろう。が、白いワンピースを着ていたのであれば、遠目には変わった格好の少女に過ぎない。
鎮守府の本棟と工廠は少し離れた位置にあるため、その姿を間近で目撃した艦娘はいなかった。遠目から眺めた艦娘にも、表向きは鎮守府関係者の知り合いということで通されている。
色々とトラブルを起こした回流丸は立ち入り禁止となっているが、こちらも資材搬入中の事故という扱いだ。
少なくとも、ヲ級の脱走という騒動の本当の原因を知っているのは、熊野達にまだ限定されているはずだ。
勿論それには、『今のところは』という但し書きが付くのだが。
(まぁ、パニックになるよりは、いいですけれど)
そんなことを思いながら、熊野は治療棟の廊下を進んでいた。
まだ熊野に具体的な出頭命令や、指示は出ていない。工廠と回流丸は厳重封鎖で立ち入り禁止だ。
また忙しくなる前に、もう一度鈴谷の顔を見ておこうと思ったのだ。
薄暗くなった廊下に、固いブーツの音が響く。
しばらく進むと、ある病室の前に見知った顔が立っているのを見つけた。青い髪に、セーラー服。
青葉だ。
「ごきげんよう」
熊野が声をかけると、彼女は驚いた顔をした。
「これは、熊野さん。こんな時間に」
「青葉こそ。怪我でもなさったの?」
いえ、と青葉はちらりと廊下の先の病室を見やった。
表札には何も書かれていない。熊野は怪訝に思った。
「……お見舞い?」
「え、ええ。まぁ、そんなとこです」
なぜか青葉ははぐらかした。
「今日という今日は――」
ぐっふっふ、と底意地の悪そうな顔で青葉は笑う。
「え?」
「ああ、なんでもありません」
青葉は肩をすくめる。そこに、白衣を着た病院棟の担当者がやってきた。
今朝、鈴谷に面会した時にもいた担当者だった。
「青葉さん! まだいたんですか?」
「まだ?」
「廊下は待合室じゃないんですよ。日を改めてもらえませんか?」
そう言われて、青葉は観念したようだった。
わかりました、と短く言って廊下を戻っていく。熊野がその行動に疑問を感じる間もなく、
「熊野さん。あなたもですよ。青葉さんのように、あなたが噂にそんなに過敏になるなんて……」
「噂?」
「……あ。あなたは普通のお見舞いですか」
熊野が頷くと、担当者は察したようだった。
「これは失礼。ご自由にどうぞ」
そう言って、担当者はその場を後にした。熊野の疑念は深まる。
ふと病室の表札を見ても、何も書かれてはいない。
青葉の態度も気にかかる。
(噂? ここに、何か噂でも――)
あ、と思った。今の鎮守府で、噂といえば一つしかない。
立ち去ろうと思った瞬間、病室のドアが少しだけ開いて、隙間から二つの目が廊下を注意深く確認する。その目はやがて熊野を見つけ、見開き、ついでとばかりにやり辛そうなしかめ面になった。
「……これは、熊野さん」
病室の主は沖田だった。
彼は気だるげな仕草で病室の扉を開ける。
ここで彼の様子が明らかになった。いつものスーツは脱いで船員のようなグレーのツナギを着ていた。おまけに顔のほぼ全体を包帯で覆っており、声を聴くまで誰か分からなかったほどだった。
熊野は息を呑んだ。
「そ、その怪我は」
「あー……その、ご存知ですよね」
熊野はヲ級が脱走した騒動の、一部始終を目撃していた。
沖田がヲ級に殴り倒された、という衝撃的なものだった。
「ま、まさか」
「ええ」
「直撃しましたの!?」
熊野は声をあげた。
深海棲艦と艦娘の膂力は、サイズに比して圧倒的だ。その凄まじい破壊力の前に、ただの人体など儚いものだ。以前、戦艦艦娘に狼藉を働こうとした慮外者などは、返り討ちにあったばかりか女性恐怖症となり出家してしまったという噂まである。
包帯からして、きっと沖田はそのヲ級の拳を顔にまともに受けたのだ。
熊野はそう思った。
「は、はい?」
「あ、あの子の拳を、受けたのでしょう? だ、大丈夫ですの?」
沖田はしばらくの間、きょとんとした。あたふたする熊野が理解できないらしい。そして何かに気づき、慌てて顔に巻いていた包帯を外した。
現れた顔は、普段通りの細目の沖田だった。
少々頬が腫れている以外は異常はない。
「ご心配なく。あいつの拳は、当たってません」
拳が直撃したわけではなく、頬のすぐ脇を掠めただけのようだった。だが、風圧と衝撃でよろけた拍子に頭を強打したらしい。
「え? それでは、その包帯は?」
「ああ、これは、その、変装というか、念のためというか」
どうも話が読めない。だが最悪の事態は防げたというのは、正直なところほっとした。
「災難でしたわね」
「そうですねぇ。なんというか、面倒な誤解が生まれてしまった」
「誤解」
熊野は眉根を寄せた。
あのあと船員から聞き出したところによれば、どうもヲ級の方が沖田達に売られたという誤解をしているらしい。そのことが、騒動を起こすほどヲ級を逆上させたのだ。
(モノ扱いするな、ということ……?)
ヲ級の真意は、回流丸の船員でさえ分かっていなかった。
熊野にも当然分からない。
ヲ級は今までのどんな扱いや、指示にも黙って従っていたらしいのだ。今更どうして、という気持ちが回流丸の面々にはあるのだろう。
「お怪我はいかがですの?」
熊野は疑問を一先ず封印した。
「奥歯がぐらぐらしたり脳震盪で気絶するのを大丈夫、と言えれば、まぁ大丈夫ですねぇ。とりあえず全治2週間」
「軽傷ですわね」
「さすが、艦娘はたくましい」
言ってから、沖田ははと気づいたようだ。病室の中に引き換えし、手に白い紙袋を持って現れる。
「これをどうぞ」
熊野は首を傾げつつも、歩み出て、紙袋を受け取った。
白の上品な装丁に、書画をイメージした筆致で『間宮』と描かれている。
中身を見るまでもなく、それは鎮守府の甘味処、『間宮』の羊羹だった。艦娘なら誰しも夢見る逸品である。値段はまだしも、すぐに売り切れてしまうのだ。
「これは……」
「先日の件への、ウチからのお礼です。どなたかに渡そうと思っていたのですが、いやぁ、いいタイミングでした」
これを貰って喜ばない艦娘はいない。食べてよし、寮に戻って配って回れば絶大な借りを作れる。
しかし、熊野は何か言いようのない不安を感じた。
(貰っていいのかしら)
ただより高いものはない。演習で垣間見せた、沖田の計算高さもある。
なんというか、これを喜んで受け取ってしまうのは、人としてちょっとチョロすぎるのではないだろうか。
沖田も彼女の心中を察しているようだった。
「ご心配なく。ただで施しを受けた時の感謝は、さすがに本物をもって返します」
そこまで言われて、熊野は間宮を受け取ることにした。
過程はどうであれ、彼の感謝の気持ち自体は本当であることが察せられたからだった。
「例の、その、演習では失礼しました。水に流してほしいとはいえません。でも、船員の中にも、本心から反対したものはいましたのでね。一応、当社として」
「当社として」
熊野は顔をしかめた。この男はこういう言い方以外にできないのか。
しかし熊野は、この件についてこれ以上考えないことにした。なんにせよ、ヲ級はすでに鎮守府が預かっている。沖田と話すことも、今後はないだろう。
「……承知いたしました」
熊野は受け取ることにした。
「頂戴いたします」
熊野は部屋を後にしようとする。
その背中に、沖田の声がかかった。
「提督からお聞きしたのですが。あいつの世話を、焼くことになったそうですね」
熊野は足を止めた。
沖田を見ると、彼は常の笑みを張り付けていた。
「お互い、引き継ぎというやつが、必要じゃありませんか?」
「引き継ぎ?」
「はい」
沖田は頷く。
「お互いの幸せのために」
熊野は胡乱げに目を細めた。
「まだ何か?」
「まぁ、最後に一つだけ」
またやられた。やはり、ただより高いものはない。
熊野は周囲を確認する。もう青葉はいないだろうが、病院の中で個室に入ったり、雑談スペースを使うのはさすがに気が引けた。
どちらからともなく、場所を変えることにした。
*
赤松提督が執務を行っていると、秘書艦の川内が戻って来た。
彼女は両手で報告書の束を抱え、それを提督の机に置いた。執務机が載せる書類の摩天楼に、また一つ新たなビルが増えた。
「どうぞ」
「川内、前々から思っていたが」
提督は眼鏡を取り、文字を追うのに疲れた目を休めた。
「上官に対する態度については、再考の余地があるな」
「すいません。資料が思った以上に多くて……」
「馬公から何か連絡は来たか」
川内は、それには首を振った。
「まだです。横須賀鎮守府は、あのヲ級を佐世保が横取りしたのに、気が付いているようですけど」
「では、馬公も時間の問題だな。じきに動きがあるだろう」
そう言うと、提督は資料の束から紙を一枚抜き取り、丹念に内容を精査した。
それは海外の艦娘について纏められた表だった。世界的に知られた名鑑から、歴史書の一行にしか出てこない艦まで、現在の世界で艦娘として着任している者の名が艦種の順に並んでいる。
提督が特に注意を払って見ている国では、特にフリート・ガールズと呼ばれていた。
川内が赤松の視線を見咎めた。
「提督、それは?」
赤松は眼鏡の奥から意味深げな視線だけ送ると、書類の精査を続ける。口元には、皺と見分けがつきにくいが、確かに笑みが生まれつつある。
提督が持つ、着任済み空母の一覧に、探している艦名はなかった。
深海棲艦としては異様とも言える、明確な個性と、理性がある空母ヲ級。その中には艦娘と同じように旧い軍艦の魂が宿っていると、赤松は見ていた。
そしてその旧い軍艦は、未だに着任をしていないのだ。
「川内」
「はい」
「艦娘の艤装がどうやって造られるのか、聞いたことはあるか?」
川内は首を傾げ、苦笑した。
「提督が知る以上のことは、何も」
「では復習といこう。かつて沈んだ艦の魂を、それぞれの国のしきたりに従って呼び出し、機械の中に込めるらしい。まぁそういう噂だな」
「それは、そうですけど……」
川内もそこまでは知っているらしく、曖昧に頷いた。
「しかし、難産する魂もあるらしい。そういうものは、深海棲艦がその艦の魂を持っている。だからこそ、強力な深海棲艦の撃破に伴い、新しい艤装に艦の魂が宿る、という現象が起こる」
赤松提督は空母艦娘の一覧を、川内に渡してやった。
「重要な艦ばかりが、欠けているだろう」
「確かに、そうですね」
「相変わらずだな。ヨークタウン、ホーネット、そしてレキシントン級」
言いながら、赤松は新しい書類を読み始めた。
それは問題の空母ヲ級について、明石が取り纏めたものだ。
重量や大きさ、電波の強さから機関の馬力まで、様々なデータが並ぶ。だが提督の興味はそこではない。
その調書には、放射線に関する記述があった。
沖田達の証言から、空母ヲ級を回収した地中海において、核兵器が使われたことが明らかになっている。そのため、念を入れて被曝量の調査も行われていたのだ。
その結果、空母ヲ級が微弱な放射線を発していることが明らかになっている。核兵器使用により飛び散った物質を、深海棲艦として経口摂取した可能性がある、という説明がなされていた。
このことは沖田達にはすでに通知され、彼らも検査を受けることになっている。
もっとも、本当に弱い値ではある。それはもはや微か、というレベルだ。科学的にも全く健康に影響の出ない水準だ。
だが、赤松にはあることが引っかかっていた。
(艦娘には、『要石』がある)
艦娘と艤装を、物理以外の要素で結ぶ、鉄片。
かつて沈んだ艦の一部であるとか、竣工した場所で取れるものだとか、噂は絶えない。
(かつて沈んだ艦の一部――)
「かの国め。やはり航空母艦の開発で、『降りそこない』を出したのか?」
提督は、そう独り言ち、そこでその話題を切った。面白くなってきた、とでも言いたげな口調である。
資料の束からもう一枚紙を抜き取り、同じように読み込んでいく。
「無線か」
川内が慌てて頷いた。
「はい。発信地は不明ですが、本人に聞き取ったところ、トン・ツーのようです」
ヲ級が脱走をした頃、海の広い範囲で謎の電波が受信された。
ほとんどの受信機では、電波の存在はつかめても、内容は意味不明の音であった。これは深海棲艦の無線の特徴でもある。
しかし佐世保鎮守府では深海棲艦そのものを保護しているため、彼女の協力もあって無線の内容が明らかになっていた。
「なんだこれは」
提督は紙に書きだされた無線の記録を見つめた。
モールス信号は単音と長音の組み合わせで意味を形作るが、記録によれば、無線は全て単音だった。一定の間隔を置いて、単音を示す「・」の記号が並んでいる。
この国では『ト連送符』と呼ばれる、鍵打を連打する暗号の送信方法だ。
敵艦隊へ突入する艦載機などが、攻撃開始の合図として使う符丁だ。
「MI作戦の、報告も来ています」
「もう島自体は落としたのだろう?」
「はい。まだ近海に残党はいますが、もう掃討に移行しているようです」
吉報であるはずだったが、提督の胸中には不吉な予感が過ぎった。
大規模作戦の一区切りと、突然の信号。
嵐の前の水平線の雲行きにも似た気配が、単音だらけの報告書から匂い立ってくるようだった。
「近海の哨戒は?」
「艦娘の哨戒のステータスは……あ、どれも完了になってますね。今は海防船が哨戒をしてます。重要拠点にだけは、駆逐艦娘も」
赤松提督の不安は強くなった。
深海棲艦に対する哨戒に、万全というものは存在しない。真に隙間のない哨戒と防空の網を構築するには、無限とも言える資材と時間が必要だ。
それを重々承知している提督ですら、今の哨戒体制には不安を感じた。
「MI作戦、影響は大なりだな」
「うーん、そうですね。空母もそうですけど、駆逐艦娘も相当連れてってしますから」
「天津風はもう使い物になるのか」
「はい。綾波も、上達が早いと褒めてました」
川内が眉をひそめた。
「もう使うんですか?」
提督は頷く。
「悪い予感がする」
「いつもの」
「そうだな。勘ともいえる」
赤松は背もたれに体を預けた。老骨の身がギシギシと音を立てる。
だが頭の中身までは錆びついていない。
「私の勘は電探よりも正確だ。横須賀にも、硫黄島方面の哨戒を強化するよう具申しよう。MI諸島の艦隊が悪あがきするとすれば、まずあの島に陣取るはずだ」
了解しました、と川内が敬礼をした。
赤松は川内を下がらせると、立ち上がり、壁に掛けられた海図を見つめる。MI作戦が行われているMI諸島は、太平洋の小島だ。
そこが分不相応な注目を集めているが、赤松はこういう時の危険さを何度も経験していた。
不意に、机で電話が鳴った。
昔ながらの黒電話。
秘匿回線で各鎮守府と繋がる、緊急連絡用の電話だ。
2コール目で取る。横須賀鎮守府提督の、若い声が聞こえ出す。赤松の目が剣呑に細められていく。
*
病院棟を出て、海が見える通りに出る。病院棟は消灯時間を迎えたようで、見咎める人はいない。夜の潮風には昼間のようなまとわりつく気配はなく、穏やかな海鳴りと共に涼しさを首元へ運んでくれていた。
「この辺りなら、いいでしょう」
熊野が足を止めた。
目の前には夜の佐世保湾があった。彼方にはクレーンや船の灯りが明滅し、月が穏やかな波を照らしている。
沖田は転落防止柵に手を添えた。
「確かに」
熊野は促した。
「それで。何か、お話があるということですけれど」
「ええ……」
沖田は少し思案して、言った。
「ヲ級の脱走については、聞いてますか?」
「大体のことは」
沖田は頷いた。
「怒るなとはとても言えません。教育が至らず、申し訳ない。が、理解してやってはくれませんか。よほど、艦娘に会いたがってましたし、鎮守府にも興味津々でした。好奇心に勝てなかったんでしょう」
沖田はヲ級の肩を持った。
熊野は少し違和感を感じた。その理由を考えるに、沖田が初めてヲ級を積極的に庇ったことに思い至った。
思えば彼の態度は掴みどころがなく、赤松提督と相対した時でさえ積極的にヲ級を弁護しなかったように思う。
「心配なさらずとも、わたくしは気にしませんわ」
「それはよかった」
「沖田さんこそ、どうなんですの? よほど、お痛をされたそうですけれど」
沖田は肩をすくめた。
「私は大丈夫です。久しぶりにぐっすり眠れて、よかったくらいだ」
「そう」
熊野がちらりと沖田の顔を見ると、彼の目元には隈があった。
そこで会話が途切れる。遠くを進む船の汽笛と、波の音が、束の間沈黙を満たした。
「……頼みとは?」
促した熊野に、沖田が向けた顔には逡巡の色があった。戦場に来てから弾がないことに気づいたような、そんな表情だった。
「もし、できれば、でいいのです」
彼はそう前置きした。
「ヲ級を気にかけてやってくれませんか」
熊野は困惑した。随分と曖昧なお願いだ。
「気にかける?」
「今日のようなことです。あいつは、なんというか、今非常に不安定です。今日のような本格的な脱走未遂や暴力沙汰など、今までなかった。どんな港についても、きちんと言い含めておけば、ちゃんと部屋で待機してました。ただ、その時と今が違うのは……」
沖田は指を2本立てた。
「我々がもう傍にいないことと、周りに、艦娘がいたことです」
「艦娘」
熊野は、彼女が特に艦娘に興味を持っていたことを思い出した。
「具体的にどうしろ、ということは言えません。まだあなたが、どれほどあいつに関わるかも分かりませんし。ただ少なくとも、当面の間は、あなたがあいつに一番近い艦娘になるでしょう。なので」
「……今日のようなことには、気を付けろ、と?」
と言われても、少なくとも、今日の一件において熊野にできることなど何もなかったのだが。
沖田もそれくらいは察しているようだった。
「頭に入れておいていただけるだけで、構いません。ただ、あいつが何か行動したり求めたりする時は、最近特に艦娘がらみのことが多いように感じるのです。このことは、あなたにもお知らせしておくべきかと、思いましてね」
老婆心ながら、と沖田は付け加えた。
そこで熊野は、はたと気づく。
熊野とヲ級が話していた時、彼女は佐世保の艦娘について訊いてきた。それに熊野は、佐世保には艦娘が『いっぱいいる』と応えてしまったが、
(だとしたら、あれは失言でしたわ)
間接的に脱走を促したと言えなくもない。気を付けよう。
一人汗をかく熊野に、沖田は訊ねた。
「なにか?」
「あ、いえ」
言いながらも、熊野は迷った。
ここで受け入れるのは簡単だ。『分かりました、気を付けます』とでも言って、この場を納めてしまえばいい。
沖田もそれで納得するだろう。
だがそれでは、肝心なことがおざなりになる気がした。
あの空母ヲ級が、熊野との会話の中で時折見せた、あの縋るような眼差し。そして沖田に対して急にぶつけた、強い怒り。
それが何によるものか、未だに熊野には分からない。何か重要な兆候を見逃し続けているような後味の悪さが、電探のゴーストのように熊野の心に現れては消えていた。
「……そもそも、ですけれど」
「はい?」
「どうして、あの子は、あんなに艦娘に興味がありますの?」
沖田は頬を掻いた。
彼自身も確信はないようで、
「想像するしかありませんが」
そう前置きした。
「これからどうしていいか分からずに、同じように海に出て、戦っている艦娘から、何がしかのヒントを貰いたいのでしょう。艦娘にやたらと会いたがってたり、興味津々なのは、貴方達について知ることで、道しるべのようなものを得たかったのだろう、と推測しているわけです。航海士が星から自らの位置を割り出すように」
意外な仮説だったが、違和感は薄かった。
ヲ級が見せた縋るような眼差しが、それで説明できる気がした。それに言われてみれば、人間大で、深海棲艦と戦う、という役割の面で言っても、もはやヲ級は艦娘に近いといえる。
ヲ級は、あの水面のような瞳に艦娘の姿を映すことで、彼女なりに自分を定義しようとしているのかもしれない。
「あいつは、自分のことさえよく分かっていない」
沖田が転落防止柵を握る手に、ぎゅっと力が籠めるのを、熊野は確かに見た。
だがそれは一瞬のことで、手を離し、熊野の方へ振り返った顔は常の穏やかな微笑だった。
「ですが、元より輸送船と、『物資』という関係です。これ以上の詮索は、するべきではないのでしょうね」
熊野は沖田の表情と言葉に、微かな違和感を感じた。
彼が常に空気のように身に纏っている、何とも言い難い胡散臭さ。その正体が、今少しだけ見えた気がした。
それはつまり、決して本心を明かさないとか、嘘をついているとか、それだけではなく――自分自身に対してさえ、何か大きな嘘をついているのではないだろうか。自分でも忘れてしまうほどの、大きな嘘を。
「……厄介な方ですわねぇ」
彼の経緯は、熊野も青葉から少しだけ聞き及んでいる。輸送船と深海棲艦が絡む、海上護衛には付き物の事故の話だ。
何で自分の周りには、最近こうもクセのある人が多いのだろう。
「まったく、あいつは手がかかる」
お前のことだよ、とはさすがに口には出さなかった。
熊野はじっくりと悩み、そして告げた。
「お願い、まだ承るわけにはまいりません」
沖田が首を振った。
「そうですか。いえ……」
細目が熊野を見つめる。
「今、まだ、とおっしゃいました?」
「ええ。提督に言われたこと、覚えてらっしゃいまして?」
沖田が首を傾げた。熊野はちょっと眉を上げて見せて、人差し指を立てる。
「横須賀と、何か他にも契約をしてらっしゃること。演習でのこと。それと――あの子の、首輪のこと」
首輪の辺りで、沖田の眉間に微かな皺が生まれた。
「信用を切り売りされたままでは、ご協力はいたしかねます。あの子のことで、隠していらっしゃることが色々とあると思うのですけれど」
「……洗いざらい話せと」
「やはり、何かあるのですね」
沖田がため息を吐いた。気を悪くしたのかと思った。
だが熊野に向けられた顔には、微かな笑みが浮かんでいた。長らく逃げていた犯罪者がやっと捕まった時のような、諦観と、もう逃げなくてもいいという安堵が混ざった複雑な笑みだ。
「少なくとも、あの首輪については、何か聞いているようですね。本人からですか?」
熊野は頷いた。
ヲ級の首に巻き付いていた、あの白い首輪。艦娘の
「外すと、死ぬと」
「そういう認識で、間違いありません」
沖田は、なぜか少し濁すような口調だった。
「目的は、逃亡の抑止と、その始末。専門外でよくは知らないのですが、艦娘用の電探と同じ技術で小型化をした、効果を首に限定した電気椅子です。ある条件を満たすと首輪に付属した機器が作動して、重要な器官を焼き切る」
沖田は手のひらをすっと伸ばして、自分の首筋を叩いた。
「深海棲艦は、通常の兵器や機器では傷つけられない。だから首輪も、ヲ級自身の動力を利用して活性化させています。深海棲艦は、存在自体が艤装みたいなものですからね」
沖田はそんな内容を軽々しく語った。彼は海の方を向いており、その表情をうかがい知ることはできない。
(表向き、仲良くしておきながら)
とんだ二枚舌。裏切りではないか。
そんな言葉が浮かんだが、熊野もまた沖田達を責められる立場にない。空母ヲ級は強力な深海棲艦で、本来は熊野もまた彼女を憎まなければならないはずなのだ。
「……そんな顔しないでください。海上で深海棲艦と航行する上で、国が安全対策をしないわけがない」
そう言われて、熊野は自分が睨むような顔をしていたことに気がついた。
「よく、あの子は納得しましたわね」
「実際どう思っていたのかは分かりませんがね」
沖田は鼻を鳴らした。確かに、その辺りは分からない。
暴力を振った辺り、実際にはずっとわだかまっていたのかもしれない。
(あるいは、何か心境の変化があって、それが沖田さんとの別れによって、爆発した)
熊野は手すりに寄りかかりながら、そんな仮説を立ててみた。何の根拠もない思考は、拠り所がなく、夜の海の潮騒に融かされて、やがて散逸していった。
この鎮守府のどこかで、ヲ級もこうして海を見ているのだろうか。
あの無表情の下にあるのは、罪悪感か、それとも何にも感じていないのか、それさえも今の熊野には分からない。
「横須賀までなら、と考えてたのかもしれませんがね」
沖田がふと言った。熊野は疲れて、海を見たまま応じる。
「横須賀?」
「ええ。あいつはどうも、横須賀へ到着した後も、ずっと我々と一緒にいられると思い込んでいた節がある」
熊野は記憶の糸を手繰った。言われてみれば、確かにヲ級は妙に横須賀に執着していた。
最初に赤松に会った時からすでに、横須賀への拘りを明言している。
「なぜ?」
「恥ずかしながら」
沖田は肩をすくめた。
「横須賀鎮守府にあいつを運ぶ折、そういう提案を受けていたのですよ。詳しくは、伏せますが。それをヲ級のやつが知ってしまって、面倒なことになった」
熊野の眉間に皺が寄った。
それではこじれるべくして、別れ話がこじれたようなものだ。ヲ級の中では、そもそも佐世保でも横須賀でも、沖田達と別れるという展開を想定していなかったことになる。
ため息。
「管理者としちゃ、私らは落第でしょう」
沖田は力なく笑った。
「だが、それでもなんとかここまで連れてくることができた。はっきり言えば、ここらで縁を切りたい」
束の間、沖田を殴り倒した後の、ヲ級の掠れた呟きが蘇った。
うそつき。
「冷たくは――」
「熊野さん」
沖田はたしなめるような言い方をした。
「我々は、運ぶだけなんですよ」
硬質な言葉は、容赦のない現実的な冷たさを熊野に突き付けていた。
「元から、仮置き場なんです。どんなに懐いていても、戦いを共にしていても、いずれどこからか誰かがやってきて、あいつを連れていくことは分かり切っていた。我々の下で得た人がましさなんて、いずれ消え失せてしまう、かりそめの蜃気楼だ」
いつしか沖田のトーンは、自分に言い聞かせるようなものになっていた。
「ないほうが、きっとよかったのでしょう。ヲ級には」
熊野は、回流丸の中で、沖田がヲ級に名前をつけていなかったことを思い出した。
「言い訳になりますが。色々と目的地が変わっていくうちに、段々と、その辺りが曖昧になっていった。最初は金払いもいい、軍が相手の仕事だと思っていたんですがねぇ」
「巻き込まれた」
「ええ。あの海軍が一枚岩でないことは分かり切っていましたし。金払いがいい方へいい方へあいつを運ぼうとしていたのですよ。あいつにとって、我々は終の棲家ではありません。あいつが艦船だとするなら、数ある港の一つ、といったところでしょうか」
沖田が船乗りらしい例えをした。
熊野は少し考えた。
どう答えるべきか。
堅物だとか、委員長だとか、どう言われてもいい。沖田は『人がましさ』という言い方をしたが、それに則るなら、故郷で育った時からずっと持ち続けているこの真っ直ぐさが、熊野の人がましさなのだろう。
熊野は、言った。
「承知いたしました。沖田さん、あなたのお願いをお受けするのに、条件を1つだけ」
「何です?」
「あの子と、ちゃんと話してください。納得がいくように」
「ハナシ」
沖田は顔をしかめた。
「ええ。わたくしにお任せになる前に、まず、そちらでナシつけてくださいませんこと?」
「ううむ」
苦労してやり終えた課題に、もう一度出し直しを食らったような、心の底から暗澹としている顔つきだ。
だが熊野の言葉は、予期していたものではあったようだ。
「……まぁ、それはそうですな。仰る通りだ」
やっぱ逃げときゃよかったなぁ、と沖田はぶつぶつと呟いていた。
「なにか?」
「いえいえ。善処します」
なんともいい加減な、というよりも嫌そうな調子だ。熊野はとろんとした目になった。
「政治家さんがやりそうな受け応え選手権とかあったら、あなた優勝できますわね……」
「どうも」
「母港」
熊野が言うと、沖田が怪訝な顔をした。
「港と仰いましたけれど。あなたも船乗りなら、初めて海に出て、帰ってきたとき、水平線に陸地の頭が出た時の気持ちは分かるでしょう。艦娘にとって、帰るべき母港は、普通の港とは違う、故郷のようなものですわ」
「故郷ねぇ」
「ええ。あなたがヲ級にとっての母港であったなら、きちんと送り出してあげるべきかと」
そう言って、熊野は真っすぐ沖田を見つめた。
故郷と口に出したとき、鈴谷の顔や、鎮守府の仲間たちの顔が浮かび上がり、それがその心中を温かく、そして複雑なものにした。
熊野にとっても、今故郷と言えるのものは、
「……そうかもしれませんね」
沖田が認め、黙祷するように目を閉じた。
その時、潮騒に交じって、妙な音が来た。
海の向こうから、唸るような音が響いてくる気がする。まるで、航空機の音だ。
ちらりと沖田を見たが、彼は何も感じていないようである。
嫌な予感がして、熊野は艦娘としての機能を起動させる。
標準装備の対空電探が、夜空の彼方にメートル波を送信する。得られた結果は、円形のホログラフに緑の点となって表示される。
肌が粟立った。
(目標、補足?)
緑の点は、佐世保湾の中に、無数の航空機がひしめいていることを示していた。
敵か、味方か。考えるより先に、体が危機を感じていた。
「何か――」
沖田が何かを言いかけるのと、サイレンが鳴るのはほぼ同時だった。
鎮守府のありとあらゆる箇所でサーチライトの灯が点り、光が一線の筋となって夜空に伸びる。
そして、熊野の艦娘としての視力が、水平線すれすれの海面から何かが上空に飛び上がるのを捉えた。
サーチライトの光がその物体を追って伸びる。
それは鉤爪のような形をした、1機の深海棲艦の艦載機だった。その航跡に沿って、金色の光が尾を引いていく。
ぞくりとした。
その艦載機に点った金色の光から、確かに何者かの視線を感じた。注意深く、それでいて値踏みするような、獲物を吟味するハンターの視線だ。
(いったい、どうやって……?)
手すりを握る手に、力がこもる。
艦娘は埋め込まれた鉄板『要石』で、艤装と繋がっている。それを通して、何か巨大な塊が艤装から熊野へと押し込められたような気がした。
『総員、配置にて防空戦闘を開始して下さい。艦娘以外の人員は、速やかにシェルターに避難を! これは演習ではない』
川内の緊迫した声が、夜の鎮守府に響き渡る。
熊野は沖田に棟内へ避難するよう命じると、故郷を守るため駆け出した。目的地は、出撃用の埠頭だ。
やがてコンクリートの埠頭の上で、続々と準備に入る艦娘達の姿が見え始めた。
(故郷)
装備保管庫へ入り、担当者を急かして大急ぎで砲を準備していると、ちらりと思考が別の所へ飛んだ。
熊野には、これほどまでに大事に思う母港がある。これから共に戦う仲間もいる。
だが、あのヲ級にはどうだろうか。人がましさを手に入れたあの深海棲艦を、その人がましさを与えた側が拒絶するとしたら。
彼女にとっての救いは、どこにあるのだろうか。
疑問を振り切るようにして、完全武装で外へ出る。航行用のブーツは固く、重く、一歩踏み出すたびに頭の芯にまで衝撃が来た。
「熊野さん」
声をかけられ、振り向くと青葉と不知火が立っていた。少し離れた位置にいる、陽炎も遅れてやってくる。
気づくと4人揃ってしまった。
「この4人で出ますか?」
不知火が言った。
「勝手に決めていいんですの?」
「スピード勝負です。居合わせた艦娘で組むしかない部分もあります」
ふむ、と熊野は思考。青葉を見やると、お任せします、と眉を上げていた。
「では、参りましょう」
4人の艦娘は、拳を合わせるように自身の砲同士を軽くぶつけ合った。
割れ鐘のような音が鳴る。
この後、空襲は2波に及んだ。直前に対応を開始していた鎮守府は、防空戦闘が間に合い、損害は限定されたものとなった。
本土施設の物量にモノを言わせた『明るい夜間戦闘』と呼ばれる照明弾やサーチライトの援護が際どい所で威力を発揮した形である。
だがそれは、MI作戦の代償となる、本土襲撃部隊の最初の攻撃に過ぎなかった。
やっとついたのか!おそい!きた!本土襲撃部隊きた!
これで勝つる!
というわけで、ようやく戦闘パートに突入です。
ノロノロ更新のノロノロ展開で申し訳ありませんでした。